素晴らしかった何か。シナモンと砂糖の甘ったるい香り。

割れたカップからはどくどくと白茶色の液体が広がって、スリッパのつま先を湿らせていく。寝室の床が吐き出されたものとこぼれたミルクティーでマーブル模様になっていく。

じっとしていると手足が泥みたいに溶けていく気がした。胸と頭だけになったボロボロの私が宙に浮いていて、ここの重たい空気のせいで墜落しそうになっている。
シャツの袖をつかんでいるあの子の指が白くなった。
引っ張られる感覚に、現実に呼び戻される。

ああ。
浮いたように立ち尽くしながら、ただ思った。

ああ。こうなっちゃったんだ。

あの子の顔を拭き終わっても、私が血まみれのハンカチを仕舞うまで、あの子は微動だにしなかった。きっと怖かったんだと思う。優しい子だから。
でも、これはすべて私が選んだこと。
真っ赤に染まった髪を片手で(けず)りながら、何の感情も湧かないことに気付いた。あらゆることが思い描いていた通りで、まるで夢を見ているみたいだった。まったく、ヒトの死というのはもっと意外なことばっかり起きると思っていたのに。

あの子が私の名前を呟く。
「大丈夫だよ」と言って、頭を撫ぜた。
そのときドアが開いて同僚が入ってきた。
同僚は床を見てまばたきをした。そして死体から私へと視線が動き、血まみれになった私がその瞳に映る。彼女の丸い角膜の表面で、私はいつものように微笑んでいた。

「これ……あなたが……?」
「はい」私は言った。「やっぱり、ダメだった」
一瞬、同僚の指が動いた。私を殴ろうとしたのかもしれない。
私と同じ機械(きかい)でありながら、この人はたまに人間のようなことをする。今もはっきりと憎しみと怒りが見えた。私が謝罪しようか迷っていると、彼女は近付いてきて、私からあの子を引き剥がした。
「お嬢様、こちらへ!」

あの子がふたたび私の名前を呼ぶ。半狂乱の叫び金切り声を、同僚が口をふさいで止める。また私の手をつかもうとしたのを、私は一歩下がって振りほどいた。細い指が空を切り、叫び声と一緒にドアの向こうに消えていく。
床を片付け終えて廊下に出ると、既にみんな消えていた。
ふと髪を()く。乾き始めた血がぱらぱらと落ちて、スカートのプリーツに当たって砕けた。

「マスター」
口を開いて呟き、それから発した言葉の意味を考えた。
誰も傷つけるつもりはなかった。そういう命令だったし、今も私は律儀に守ってる。
あるいは私は壊れているのかもしれない。こうして考える意識の奥底で、本当の私はどうしようもなく動揺していて、今の「マスター」だって助けを求めて出た声だったのかも。

分からない。
でも少なくとも、いま自分が壊れていると考えるのは理にかなっていた。

「はい。私が殺しました。破壊処理をお願いします」
警官隊に電話したときも、まだ自分のことが遠くに感じた。
古めかしい受話器を置いてから、大きく息を吸う。発声用でしかないニセモノの肺が大きく膨らみ、空っぽの胸を埋めていく。人間だったら動揺も心音で表れる。でも私は空っぽだから、自分のことすら分からない。
「マスター……」
もう一度だけ呟いたとき、一階のドアがノックされた。
警官隊の銃は、戦場と違って火薬のにおいがしない。ドア越しに聞こえてくる彼らの息は荒い。緊張している。私も同じだ。殺されるのには慣れていると思っていた。でも身体はこんなに震えている。

「マスター」
なのに、この空っぽの胸だけは痛んでくれない。
手を置いても、薄い胸郭を軋むほど押しても、鼓動は返ってこない。
ああ、と私は再び思ってしまう。
やはり、避けられない運命だった。
「……ごめん」
私は壊れたかったのだ。ここに壊れる『こころ』があることを、確かめるために。

ドアが開いていく。