ナギヨシくんにサインを書いた日。彼は飛び跳ねて喜んだことを覚えている。
 私の拙い文章にそれほどの価値があるのかは分からない。でも彼にとってそれは、高価な物より価値があるのだろう。
 意外だったのはそれからだ。
 サインに満足して、もう来ることも無いだろうと思っていた私の店に、いまだナギヨシくんは足繁く通っている。
 私との雑談が大半を占めるが、たまに本を買っては、店の前に置いてあるベンチで日が暮れるまで読み耽る。
 本を読むことが楽しいのは分かるが、何が面白くてこんな女の相手をしているのかそれだけはさっぱりだった。

「雨降ってきちゃった」

 そんなことを出先で考えていると、予想外の雨に当たってしまった。案の定、傘は持ってきていない。
 たまには濡れて帰るかとも一瞬考えたが、生憎私は身体が弱い。少し冷やしただけでも風邪を拗らせる軟弱者だ。

「仕方ない。落ち着くまで少し待つか」

 雨避けに身を寄せ、雨粒の奏でるオーケストラに耳を傾ける。
 土砂降りの喝采の合間に聴こえるパラリ、パラリと落ちる水滴の音が好きだ。何処か落ち着くこのアンバランスなリズムは、天気とは真逆に私の心を晴れやかにする。
 ナギヨシくんもこの雨を見ているだろうか。そう思うと不思議と、彼に今の状況を話したくなる。
 『あの雨が降った日、君は何をしていたの?私は出先で足踏みくっちゃって』なんてたわいもない話でも、彼は聞いてくれるんだろう。
 もしかしたら彼も同じ様に雨宿りをしているかもしれない。なんてことの無い共通点を探したくなる程に、私とナギヨシくんの関係は出来上がっていることに気付き、少しばかり恥ずかしくなった。

「顔あっつ!……私は何考えてんだか。彼は友達、お客さん。雨が降るとよくないわ。おセンチな気分になるもの」
「どんな気分になるって?」
「何って……え!?」

 私は驚いてギョッと目を開いた。そこに居たのは傘を差すナギヨシくんだったのだから。

「どうしてナギヨシくんがここにいるの?もしかしてストーカー?」

 私は照れ隠しに冗談で煮詰めた暴言を吐いた。
 彼はすぐさま否定する。
 
「ちげーよ!頼まれごと済ませてたまたま通ってただけだっての」
「そっか、ごめんね。ていうか傘、なんで傘持ってるの?予報も何も無かったのに」
「今日は髪の毛が嫌に跳ねてた。だから雨が降るって思った」

 ナギヨシくんの髪の毛に目をやると、確かに普段より跳ねている。まるで猫のヒゲの様だ。

「アッハッハッ!何それ迷信?」

 私は素っ頓狂な回答に笑い声を上げてしまう。おばあちゃんの知恵袋でも今日日言わない事をアテに、傘を持って晴天の中歩いてる彼を想像すると、どうにも面白かった。

「うるせーやい。百発百中なんだよ俺の髪の毛は。もういい。入れてやんねー。風邪ひくまで雨が止むの待ってな」
「ごめんごめん。ナギヨシくんにお菓子あげるから、その傘に入れてくださいな」
「俺は子供かっ!」

 そうは言いつつ、ナギヨシくんはスっと身を逸らし、私のスペースを確保する。
 私も素直に彼に身を寄せ、雨の大合奏の中、岩戸屋に歩みを進めた。

「ナギヨシくん、ありがとうね。私、このまま雨が降り止まなかったらどうしようかなって思ってた」
「ったく、貸し1だ。チョコでも飴でも奢ってくれ」
「なんだよー。食べたかったなら最初から言ってよー」
「それじゃ格好がつかないだろうが」

 ナギヨシくんはやれやれと言った顔を見せる。そして、雨に濡れない様に私の肩に手を添え、より近くに引き寄せた。
 なんだ紳士じゃん。子供っぽいかと思えば、大人らしい所が彼の魅力なのかもしれない。
 私たちが岩戸屋に着くと、雲間から太陽が顔を出した。
 水溜まりに反射した日差し妙に眩しい。青々とした空には虹がかかっていた。

「ナギヨシくん!ほら見てよ!虹!!」
「おーそうだな」
「すごい微妙な反応だ」
「虹程度じゃそんなもんだろ」
「女の子が喜んでるんだぞ。もっとはしゃげよーう」
「女の『子』ではねーだろ」
「いやまぁ、その通りだけど」

 口ではそう言ってても、ナギヨシくんの目はキラキラと輝いていた。
 よかった。彼も私と同じなんだ。

「素直じゃないなー()()()()は」
「なんだその呼び方」
「私のことも()()()()()って呼んでいいんだゾ」

 彼は少しばかり考え込んだ。私は何か迷わせてしまったのだろうか。
 普段の彼なら一蹴するような冗談なのに。

「ミコちゃん……ほら呼んだ!もう終わり!!なんか恥ずかしい」
「……!!」

 ダメだ。これは非常に良くない。ナギくんの真剣な眼差しで名前を呼ばれるのはこう、恥ずかしさと()()()()()()()
 麻薬の様な響きがこれ以上耳に入るときっと中毒患者になってしまうだろう。

「そ、そうだね。うん。いやーなかなか良かったけどなぁ」
「俺ばっかり恥ずかしい思いをした気がする」
「そんなことないよー!ミコちゃんうれしかったなぁ?」
「やめてー?思い出して全身掻きむしりたくなるからやめてー?」
「すごいカッコつけてたもんね」
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙っ!!俺を殺してくれぇぇぇぇぇ!磔にして市中を引きずり回してくれぇぇぇぇ!!」

 悶え狂うナギくんに私は笑いが止まらなかった。これからもこういう彼を見るんだろう。どこかそんな確信が私にはあった。