肉と肉がぶつかる重く鈍い音。それは時折骨を軋ませ、臓腑を震えさせた。
ケンスケの身体は至る所に痣を作り、瞼は酷く腫れ上がり、擦り切れた口内から絶え間なく血を流し続けている。
それでも彼は、決してニィナの前から退くことはしなかった。
「いい加減にしてくれないか?私はサンドバックでストレスを発散しに来たわけじゃないんだ。時間も有限じゃない。仕事の邪魔をしないでくれないか?」
オコイエはほとほと呆れ果てていた。目の前のゴミ虫は何故こうも敵わない自分に歯向かうのか。自分の身を犠牲にしてまで、出会って数日の女を守るのか。
ケンスケの合理性の欠片も無い行動に、オコイエはただ頭を抱えた。
「ハァー……ハァー……!僕が、僕が守るんだ……」
「あーもういいよ。殺さないように加減していたが、どうやら君には必要ないようだ。弱さを悔いて死んでゆけ」
オコイエは高く拳を上げた。
ケンスケはもはや無いような意識をギリギリ保ち、強くその様を睨みつける。彼はこれが最期だとしても目を離す気は無かった。
自分が倒れてもきっとナギヨシがニィナを救うと確信していた。後悔があるとすれば、姉を1人にしてしまうことだが、その後悔ももう遅い。
そして、処刑台のギロチンの如くオコイエの拳が振り下ろされた。
「なんだよ。まだこんな所でまごついてたのか?依頼はデートじゃねぇんだぞ」
オコイエは自分の拳に走る感触に違和感を覚えた。
硬い。けれど人の頭蓋の硬さでは無い。
次の瞬間オコイエの目に映ったものは、デッキブラシを抱えた黒髪の怪しい男の姿だった。
「ッ!?」
その姿に突如悪寒が走る。思わずその巨体を後退させた。それは捕食者を前にした非捕食者であるかの様な感覚。今までオコイエの感じたことの無い弱者の感覚だった。
「ナギさん……!」
「全くよぅ、テメーもニィナも勝手にするんなら俺に迷惑かけんな。結局俺が出ずっぱらにゃならんじゃねーか」
「すみませんでした……」
「だがまぁ……岩戸屋の社訓、『依頼は守る』ってのは身についたみたいだな」
「でもニィナちゃんが……」
「いいんだよ。コイツも多少痛い目に合えば人を頼るってのも分かんだろ」
「……それ、依頼主相手に言うことじゃないです」
「大人としての説教だバカタレ。テメーもおねんね時間だ。よくやったよ。後は任せとけ」
「ありがとう……ございます………」
酷く腫れた顔でふわりと笑いケンスケは力なく倒れ込む。ナギヨシはそっと彼を抱え、優しく地面に下ろした。ナギヨシは満足気な表情をして眠るケンスケを呆れたように笑い、オコイエに向き合った。
「よぉ。ウチのバイトと依頼主が随分世話になったみたいだな」
その言葉にオコイエはようやくハッとした。自分は今まで何をしていたのかと自問自答する。
あれだけ隙のあった時間を何故有効に使えなかったのか。否、答えなど問わずともオコイエには分かっていた。
ただ恐れていたのだ。
誰もが畏怖する力も持つ己が、たった1人の存在により認識から書き換えられた事実。
時間にして数十秒の硬直。オコイエがそれを受け入れる為の時間は、彼にとってとても長い年月の様に思えた。
「君がボンクラボーイの雇い主かい?躾はちゃんとしてくれないと困るなぁ」
「躾なんて時間はねーよ。こちとら事務所の掃除するための買い出しで忙しいんだ」
「躾は大事だぞ?自分の駒としてより良く使うためには教育あってこそだ。ところでどうかね?」
オコイエはわざと大袈裟なジェスチャーを用いた。敵意は無いことを示すために、両腕をひらひらと見せる。
「君は金のためにニィナを守るんだろう?だったらその倍額、いや2倍どころか3倍出してもいい。彼女をこちらに渡してくれないか?」
「オイオイ……ンな映画の悪役みたい台詞言うやつがいるかぁ?」
「僕も初めてだよ。だが、建設的な話をするには随分とこの台詞は都合がいい」
「なんならワインでも用意しようか?マフィアのボス役ならお似合いだぞ」
「私は酒が飲めない口でね。トマトジュースなら大歓迎だ」
ナギヨシとオコイエは互いに笑い合う。高揚を隠さない2人の声が駅のホームに響き渡った。
都合よく人はいない。まるで西部劇のワンシーンの様に、一陣の乾いた風が2人の頬を撫でた。
「お断りじゃボケェェ!!」
「だと思ったよぉ!獣がぁぁ!!」
突如2人は激突した。その強烈な衝撃に空気は震え、小規模な暴風を引き起こす。
ナギヨシは手に持ったデッキブラシで、間髪入れず大胆に攻める。オコイエも場を荒らす動きに慣れているのか、釣られずに冷静に一つ一つを対処する。
傍から見れば防戦一方だが、心理的優位に立っているのはオコイエだ。
そして不思議なことに、ロック族同士でしか起こりえない領域が2人の周りを取り囲んでいた。本来有り得ない現象にオコイエは距離をとる。そして気付いた。
「さては貴様……『異排聖戦』経験者だな?日本人である貴様が身につけられる気じゃない。その気はロック族と多く対峙せねば身につかないはずだ。……貴様、何人の同胞を手にかけた!!」
オコイエから余裕の表情が消えている。怒りに顔を歪め、燃え盛る炎に包まれたと錯覚するほどの、強烈な闘気が漏れ出している。
「だから受けたくなかったんだよ。ニィナがロック族って聞いた時から悪い予感がしてたンだ。ロック族めんどくせぇからな」
ナギヨシの黒く濁った瞳に、赤みがかった光が写る。それは紛うことなき狂気を孕んでいる。血塗られた過去を持つ者特有の光は、煌々と獲物を逃さんと捉えて離さなかった。
ケンスケの身体は至る所に痣を作り、瞼は酷く腫れ上がり、擦り切れた口内から絶え間なく血を流し続けている。
それでも彼は、決してニィナの前から退くことはしなかった。
「いい加減にしてくれないか?私はサンドバックでストレスを発散しに来たわけじゃないんだ。時間も有限じゃない。仕事の邪魔をしないでくれないか?」
オコイエはほとほと呆れ果てていた。目の前のゴミ虫は何故こうも敵わない自分に歯向かうのか。自分の身を犠牲にしてまで、出会って数日の女を守るのか。
ケンスケの合理性の欠片も無い行動に、オコイエはただ頭を抱えた。
「ハァー……ハァー……!僕が、僕が守るんだ……」
「あーもういいよ。殺さないように加減していたが、どうやら君には必要ないようだ。弱さを悔いて死んでゆけ」
オコイエは高く拳を上げた。
ケンスケはもはや無いような意識をギリギリ保ち、強くその様を睨みつける。彼はこれが最期だとしても目を離す気は無かった。
自分が倒れてもきっとナギヨシがニィナを救うと確信していた。後悔があるとすれば、姉を1人にしてしまうことだが、その後悔ももう遅い。
そして、処刑台のギロチンの如くオコイエの拳が振り下ろされた。
「なんだよ。まだこんな所でまごついてたのか?依頼はデートじゃねぇんだぞ」
オコイエは自分の拳に走る感触に違和感を覚えた。
硬い。けれど人の頭蓋の硬さでは無い。
次の瞬間オコイエの目に映ったものは、デッキブラシを抱えた黒髪の怪しい男の姿だった。
「ッ!?」
その姿に突如悪寒が走る。思わずその巨体を後退させた。それは捕食者を前にした非捕食者であるかの様な感覚。今までオコイエの感じたことの無い弱者の感覚だった。
「ナギさん……!」
「全くよぅ、テメーもニィナも勝手にするんなら俺に迷惑かけんな。結局俺が出ずっぱらにゃならんじゃねーか」
「すみませんでした……」
「だがまぁ……岩戸屋の社訓、『依頼は守る』ってのは身についたみたいだな」
「でもニィナちゃんが……」
「いいんだよ。コイツも多少痛い目に合えば人を頼るってのも分かんだろ」
「……それ、依頼主相手に言うことじゃないです」
「大人としての説教だバカタレ。テメーもおねんね時間だ。よくやったよ。後は任せとけ」
「ありがとう……ございます………」
酷く腫れた顔でふわりと笑いケンスケは力なく倒れ込む。ナギヨシはそっと彼を抱え、優しく地面に下ろした。ナギヨシは満足気な表情をして眠るケンスケを呆れたように笑い、オコイエに向き合った。
「よぉ。ウチのバイトと依頼主が随分世話になったみたいだな」
その言葉にオコイエはようやくハッとした。自分は今まで何をしていたのかと自問自答する。
あれだけ隙のあった時間を何故有効に使えなかったのか。否、答えなど問わずともオコイエには分かっていた。
ただ恐れていたのだ。
誰もが畏怖する力も持つ己が、たった1人の存在により認識から書き換えられた事実。
時間にして数十秒の硬直。オコイエがそれを受け入れる為の時間は、彼にとってとても長い年月の様に思えた。
「君がボンクラボーイの雇い主かい?躾はちゃんとしてくれないと困るなぁ」
「躾なんて時間はねーよ。こちとら事務所の掃除するための買い出しで忙しいんだ」
「躾は大事だぞ?自分の駒としてより良く使うためには教育あってこそだ。ところでどうかね?」
オコイエはわざと大袈裟なジェスチャーを用いた。敵意は無いことを示すために、両腕をひらひらと見せる。
「君は金のためにニィナを守るんだろう?だったらその倍額、いや2倍どころか3倍出してもいい。彼女をこちらに渡してくれないか?」
「オイオイ……ンな映画の悪役みたい台詞言うやつがいるかぁ?」
「僕も初めてだよ。だが、建設的な話をするには随分とこの台詞は都合がいい」
「なんならワインでも用意しようか?マフィアのボス役ならお似合いだぞ」
「私は酒が飲めない口でね。トマトジュースなら大歓迎だ」
ナギヨシとオコイエは互いに笑い合う。高揚を隠さない2人の声が駅のホームに響き渡った。
都合よく人はいない。まるで西部劇のワンシーンの様に、一陣の乾いた風が2人の頬を撫でた。
「お断りじゃボケェェ!!」
「だと思ったよぉ!獣がぁぁ!!」
突如2人は激突した。その強烈な衝撃に空気は震え、小規模な暴風を引き起こす。
ナギヨシは手に持ったデッキブラシで、間髪入れず大胆に攻める。オコイエも場を荒らす動きに慣れているのか、釣られずに冷静に一つ一つを対処する。
傍から見れば防戦一方だが、心理的優位に立っているのはオコイエだ。
そして不思議なことに、ロック族同士でしか起こりえない領域が2人の周りを取り囲んでいた。本来有り得ない現象にオコイエは距離をとる。そして気付いた。
「さては貴様……『異排聖戦』経験者だな?日本人である貴様が身につけられる気じゃない。その気はロック族と多く対峙せねば身につかないはずだ。……貴様、何人の同胞を手にかけた!!」
オコイエから余裕の表情が消えている。怒りに顔を歪め、燃え盛る炎に包まれたと錯覚するほどの、強烈な闘気が漏れ出している。
「だから受けたくなかったんだよ。ニィナがロック族って聞いた時から悪い予感がしてたンだ。ロック族めんどくせぇからな」
ナギヨシの黒く濁った瞳に、赤みがかった光が写る。それは紛うことなき狂気を孕んでいる。血塗られた過去を持つ者特有の光は、煌々と獲物を逃さんと捉えて離さなかった。