夜、眠れないことがある。
 酷く忙しかった日の晩に限って、妙に頭が冴えているというか、妙に興奮が残っているような感じで、疲れすぎて眠れない。
 食事もそこそこにベッドに入ったというのに、寝返りを繰り返すばかりで時間だけが過ぎていく。
 眠れない事への苛立ちでますます目が冴えていく。
 早く眠らなければという焦燥に、頭を掻きむしりたくなる衝動に、悪循環に陥っていることは重々承知していた。
 食器もシンクに置いたままで、もう諦めて一旦布団を出てしまうべきなのはわかっている。
 それでも疲労が拒む。
 諦めの先で開いたのはスマートフォンの手帳型ケース。
 仰向けになって画面をつけると、部屋の闇が一層深くなった気がする。
 ブルーライトが睡眠によくないという知識はありながらも、ぼんやりとSNSのタイムラインをスクロールさせる。
 無為に言葉を追ってみたり、ペットの写真に癒しを求めてみたり、眠れない夜のルーティーンだった。
 次にアクセスしたのは、小説投稿サイト。
 短編小説のコンテストをよく開催していて、そこから書籍化した作品もいくつか購入していた。
 サイトで読んだ作品が紙の本になって手元にくるのは感慨深いものがあったし、短編からこういう風に世界が広がるのかという楽しみもあった。
 ついこの間もコンテストの結果発表があったばかりで、最優秀賞と優秀賞はもう読んでいた。
 それとは別に今読みたい作品というオススメ作品もサイトトップに掲載されていて、それは今日更新されたばかりでまだ読めていなかった。
 三つある作品を上から順番に読んでいく。
 胸糞悪いシーンがあったり涙が零れるシーンもあったりして余計に寝れなくなるかもって思ったりもしたけど、心地よかった。
 感嘆のため息をつきながら二作を読み終え、最後の一作をタップする。
 現代ドラマだった二作と違って、それはホラー風のあらすじだった。
 寄生虫に侵され余命わずかな恋人と過ごす青年の物語。
 虫への嫌悪感に身構えたが、体内の虫は描写されることなく、物語は静かに進んでいく。
 乾いてまばたきが増えていき、眼精疲労か瞼が重くなってくる。
 物語も佳境を迎え、恋人が死に、虫が――“それ”が姿を現す。

 その瞬間、落ちてきた。

 スクロールをしようと画面に触れた指の隙間から、顔の上にパラパラと、文字が降ってくる。
 落ちてくる順番もバラバラに、目に鼻に唇に落ちてくる。
 厚みのない文字が、重みのない文字が、液晶からガラスをすり抜けて、白い画面だけが残されていく。
 全身が粟立ち、スマートフォンを放り投げて降ってきた文字を振り払う。
 蚊柱に突っ込んだ時のように両手をめちゃくちゃに振り回し、顔をこする。
 そして、頭から落ちた。

     ◆

 気が付いたときには朝になっていた。
 まるでタイムスリップしたようで、一度だけ飲んだ眠剤を思い出していた。
 ベッドから落ちた体は冷え切り、部屋の隅で見つけたスマートフォンは画面が割れて沈黙している。
 もちろん、部屋のどこにも文字なんて落ちていなかった。
 変な夢を見た影響でいつもより念入りに顔を洗って、いつもの癖で壊れたというのにスマートフォンを手に取っていた。
 その時“それ”に気が付いた。
 スマートフォンを支える左手の親指と手首の間。
 手のひらのふっくらとした部分に、とても小さなホクロが出来ていた。
 手足に出来るホクロはメラノーマという癌のリスクが高いという話を聞いたことがあり、不安にかられてすぐに皮膚科の予約をした。
 幸いにも次の休みに予約が取れたが、その日を待つまでの間にもホクロは少し大きくなったような気がした。
 丸っこい形をしていたものが三角の形に広がったようにも見えて、歪な形はよりリスクが高いという話に背筋が冷える。
 待ちに待った休日に皮膚科を訪れ、医師は変わった虫眼鏡のような器具でその小さなホクロを念入りに調べた。
 メラノーマではおろか、ホクロでもなさそうだという診断だった。
 ホクロを拡大した画像を見せられ、胸に広がったのは安堵ではなく底知れぬ寒気だった。
 あの奇妙な夢が蘇る。
 拡大されたホクロは確かにホクロではなく、医師の言う通りメラノーマの心配は一切ない。
 医師は印刷物のインクが移っただけですねと笑ったけれど、笑い返す気には到底なれなかった。
 経過観察も不要、もちろん薬の処方もなし。
 窓口で診察料だけ支払い、病院を後にした。
 その日から、左手のひらに絆創膏を貼るようになった。
 直接それが見えるよりも十分マシだったけど、それでも絆創膏の下を想像すると鳥肌が立って仕方がない。
 一般的なサイズの絆創膏から、もう一回り大きいものに変えるのにそう時間はかからなかった。
 直に、手袋が手放せなるのかもしれない。
 もう一度、病院に相談するべきなのかもしれない。
 でも、どう説明したらいいのかわからなかった。
 また印刷物が移っただけだと笑われるのだろうか。
 それとも、あの小説の恋人のように奇病とされるのだろうか。

 あの日、医師が見せた拡大したホクロのようなものの画像。
 それは小さな『蟲』の文字だった。