林間学校という名目で、◆◆◆市の▲▲町にある古民家キャンプに行きました。良く言えば自然が豊か。悪く言えばど田舎。建物の裏手にはそびえ立つ山に、ちょっと行ったところに川もあったと思います。数年前から▲▲町の古民家で宿泊学習をするようになったというのは、部活の先輩から聞いていました。前まではT県にある大型宿泊施設で林間学校を行っていたみたいですが、年々の物価高とか、いわゆる大人の事情というやつで、場所が変わったみたいです。
クラスのみんな、言ってました。
「あんなところ、行きたくないよねー」
「なんもないみたいだよね。ていうか山登りって、やって何になるの?」
「楽しいのなんてせいぜい夜のバーベキューくらいじゃん」
私もみんなに同意でした。自分が生まれ育った場所でもなんでもない場所の山なんか歩いてどうするんだろう。友達とお泊りは楽しみだけど、だったらテーマパークとかもっと別の場所に行きたい、なんて思っていました。
それでも、バスでの移動中に友達とお菓子を食べたり喋ったりはやっぱり楽しくて、行きたくないなあなんて気持ちは着く頃には忘れていました。もう紅葉も始まっていたから山登り自体は意外と楽しくて、見たことのない実や赤や黄色に染まった落ち葉を見つけるのもとてもわくわくしました。
でも、実際その古民家に行ってみると、消えたはずの気持ちがまたむくむくとまた膨らんでいきました。友達も同じ気持ちだったみたいで、表情からそう思っているのがわかりました。建物は驚くほど大きくて広かったのですが、足を踏み入れてみるとやっぱり古びていて、どこかかび臭い。ほんの少し風が吹いただけでも窓がガタガタッと揺れる。玄関の隅には見たこともない大きな蛾の死骸があるし、天井を見上げれば至る所に蜘蛛の巣があって。なんていうか、ほんとにこんなところに泊まれるの?って思っちゃうくらい、ぼろい家屋だったんです。
「ほんとにここに泊まるんですか?」
誰だったかは忘れてしまいましたが、みんなの気持ちを代弁するようにクラスの女子の一人が先生に聞きました。私たちの不安そうな顔を見て先生は困った表情を浮かべながら、「ごめんね」と小さく謝りました。
この辺りは、深い森が鬱蒼と茂っています。遊ぶような場所も見当たりません。きっと夜には想像もつかないほど真っ暗になるんじゃないかと思いました。泊まりたくないという気持ちはみんな同じで、だけどそう思っていてもどうしようもないこともわかっていました。なので、私たちは一旦憂鬱な気持ちを吹き飛ばすべく、「もうこの際だからめちゃくちゃ楽しんだ方が良くない?」と言うクラスの一軍女子の言葉に頷いて、各々気持ちを盛り上げようとしていました。
その言葉通り、一番楽しみにしていたバーベキューではお腹いっぱい食べて、たくさん笑って楽しみました。順番にお風呂に入って、意外と楽しかったねーなんて話して、もうあとは寝るだけとなった頃でした。
「……ねえ、そういえばみんなは知ってる? あの噂」
その声は、私の頭の右斜め上から聞こえてきました。畳の大広間のような場所に、私たちは寝ていました。消灯は二十一時だったので、その時の部屋の明かりは豆電球一つです。雲に見え隠れした月の明りがほんの少し部屋に落ちてきていたのを覚えています。想像していた通り、気がつけば闇に飲まれるようにこの辺りは真っ暗になっていました。頭を突き合わせるようにした形で二列に布団が並べられ、各々の頭側には人が通れるスペースが少し空いている。私は縁側に続く障子戸側の端っこの方に寝そべっていました。
「何? あの噂って」
その声に反応したように、数名の布団の塊がもぞもぞと動きました。私もそのうちの一人です。日中の山登りは思った以上にハードで、もう寝ている子も何人かいました。私は慣れない場所でなかなか寝付けなくて起きていました。話の続きを聞くべく、じっと耳を澄ましました。
「みんな、知らないの? あたしは部活の先輩から聞いたんだけどさ……」
声がさらに小さく落とされて、ぼそぼそと話は続けられました。うつぶせになってその声の元をたどると、女バスに所属しているNちゃんでした。
「ここ、出るって話」
その言葉に、布団の中でひゅっと息が詰まりました。でも、そこで察したのは私だけだったみたいで、私と同じようにうつぶせでNちゃんの話を聞いていた他の数名は「え? 出るって何が?」と、呑気な返事をしていました。そんな返答を受けて話し始めたNちゃんは呆れたように言いました。
「だからあ、オ・バ・ケ! 普通こういう話の流れだからわかるでしょーっ?」
その言葉にさっきまでの雰囲気がガラッと変わり、口々に数名が「えっ、それってやっぱりほんとうなの?」とか「それってガセじゃないの?」と静かに言い始めました。私はそんな噂をいままで耳にしたことがなかったのでNちゃんの言葉を信じたくなかったのですが、私には不思議な力がありました。実は、なんか嫌だなあと思う場所に黒く漂うもやのようなものが、私には昔から見えるのです。それがなんなのか小さい頃はわかっていませんでしたが、最近はなんとなくわかっています。きっと、この世ならざるもの、なのだと思います。この古民家に入った時から……いいえ、この▲▲町に足を踏み入れた時から、ソレの存在には気が付いていました。暗闇に溶けてわかりにくいけれど、そのときだって部屋の隅に、ソレはいました。
見えてしまったら、見えないふりをする。自分があちらを見ている時、あちらも私の姿を見ているのだと、いつだったか祖母に言われたことがありました。きっと祖母にはわかっていたのだと思います、私に何かが見えていることを。だから、Nちゃんが話したそれが嘘ではなく本当のことなのだと、なんとなくわかってしまったのです。あの噂、なんてもったいぶった言い方だったので、私はてっきり恋愛とか、そういう話のことだと思ったんです。幽霊の話なら聞きたくない、見えてはいけないものが、次は輪郭を現してはっきり見えてしまうかもしれない。そう思うと怖くて、私は眠くなったふりをしてそっと布団を頭までかぶりました。ぎゅっと布団の端を握り締めて。だけど、Nちゃんの声は、小さいのに近くにいるからかはっきりと聞こえてきてしまいます。
「噂、本当みたいだよ? なんかこの辺、昔から色々あるみたい。先輩たちの中にも見たって人いるみたいでさ。それでね、決定的な証拠があって。みんな林間学校のしおり、ちゃんと読んだ?」
聞きたくないのに、Nちゃんの声を耳は拾ってしまいます。林間学校のしおりとは、注意事項や持ち物、タイムスケジュールなどが記されている手帳ほどの大きさのものでした。正直しおりを隅から隅まで読んでいる人なんかいなかったと思います。引率の先生がいるからわざわざタイムスケジュールを確認する必要もないし、持ち物だって別の用紙で配られるから、正直しおりの必要性を感じていませんでした。だから私はしおりはぱらぱらとめくった程度で、すべてに目を通してはいませんでした。他の子も同じみたいで、「えー、読むわけないじゃんあんなの。Nは読んだの?」なんて言っていました。
「……先輩から聞いたんだけどね? しおりにタイムスケジュールのページがあるんだけど、そこに変なことが書かれてるの」
「えー、なに? たとえば?」
「えっとね」
ひそひそとNちゃんを筆頭にお喋りが盛り上がってきたときでした。
「やめて、そんな話しないで!!! 来ちゃうから!!!!!」
突然つんざくような大きな声が響き渡って、私の体は反射的にびくりと震えあがりました。そっと布団から顔を出して辺りを見ると、寝ていた子も「なになに?」と眠そうに目をこすり起きはじめたようでした。
「ちょっと……! そんな大きい声出さないでよ、先生来ちゃうじゃん!」
Nちゃんはその子をたしなめるように強い口調で言いました。暗がりの中でNちゃんの視線を辿ると、大きな声を上げたその子は一番端の布団、私から三つ横に寝ていたEちゃんで、クラスでは少し浮いている子でした。私はその子を見て、びっくりしてしまいました。だって、あの黒いもやがまとわりつくようにその子を覆っていたから。部屋は暗いのに、その子の周りだけ一段と暗く見えたんです。
自分があちらを見ている時、あちらも私の姿を見ている。私は祖母の言葉を思い出し、やっとの思いで目を逸らしました。だけど、どうしても気になってしまって、ちらっともう一度Eちゃんの方を見たんです。
Eちゃんは私の方を、じっと睨んでいました。そして、何かを言ったように見えました。すぐにまた私は目を逸らしたけど。いくら目が慣れてきたと言っても小さな豆電球があるだけの暗い部屋です。口が動いたというのはわかったけれど、何を言ったのかまではわかりませんでした。
そのうち廊下の方から足音が聞こえてきて、それは私たちが寝ている畳の広間の引き戸の前で止まりました。やばいやばい先生だとみんなが布団をかぶり直すよりも早く、広間の引き戸は開け放たれました。
「……あれ?」
みんな、怒られると思って体を固くして身構えていました。だけど、その扉の向こうには先生の姿はなく、ただ暗闇が続くだけでした。誰もが、騒ぎを聞きつけた先生が見回りに来たのだと思っていたのでしょう。だけど、何度見てもそこに先生はいません。
「……ほんとに来ちゃった」
Eちゃんがぽつりと、小さく呟きました。わかっていたのはEちゃんと、私だけだったと思います。
いたんです。ソレが。大きな大きな、黒いソレが。
引き戸の奥の暗闇に。
「キャーーーーーーッ!!!!!」
誰の悲鳴だったのかはわかりません。Eちゃんの呟きに広間中が阿鼻叫喚になり、その叫び声で本当の先生が今度こそ部屋にやってきました。クラスのみんなしこたま怒られて、やっともう一度全員が布団に入った後です。
「戸を開けっ放しにして寝ないのよ。それから、誰? こんなところびしょびしょにしたの。今日はもう遅いから先生が片付けておくけど、今度こそちゃんと寝てくださいね」
そう言って先生は引き戸を閉めて、行ってしまいました。
その後に喋る人は、誰もいませんでした。先ほどの恐怖も日中の疲れに負けてしまって、周りから寝息が聞こえ始めました。私はやっぱりなかなか寝付けなくて、目を閉じるとEちゃんのじっとりとした目と、黒い大きなもやを思い出してしまって余計眠れませんでした。それでも気付いたときには私は眠っていたみたいで、ある音でふと目を覚ましました。
ずっ……ずっ……ずっ……
何かが足を引きずりながら歩く音が聞こえました。それはみんなの布団の周りをぐるぐる回っているようで、音は遠ざかったり、近づいてきたりします。これは絶対やばいやつだと直感的に思いました。私はぎゅっと目を固く瞑って、その音が止むのを待っていました。だけど、その音がある時を境に同じ場所をずっとぐるぐると歩き回り始めたことに気付いたんです。
キ――――――――――ン。
その瞬間、甲高い何かの音が聞こえました。最初は耳鳴りかと思いましたが、それは違うとすぐにわかりました。眠る時、私は頭まで布団をかぶって仰向けで寝たはずでした。だけど、その時の私は膝を曲げて横を向いて寝ていました。閉じたはずの私の目はいつの間にか開いていて、視線の先は起き上がっているEちゃんを捉えていました。Eちゃんの表情は見えません。だらんと力なく首を下げ、ただ起き上がっていました。
見えたのはそれだけではありません。Eちゃんを覆うように取り囲んでいた黒いもやが、その時の私の目には《女の人》に見えるようになっていたのです。黒いもやだった女の人はずぶ濡れのようでした。ぽたぽたと髪から雫が滴り落ちるのも見えました。女の人は起き上がったEちゃんの真後ろにいて、祈るように両手を組みながらしきりに何かを言っているようでした。それがキーンという甲高い音になって私の耳に届いていたようです。
怖い、怖い、怖い……!
ただそれだけを思っていました。目を瞑っているはずなのに、どうして見えるのかわからない。もしかしたらそのとき私は、本当は目を閉じられない状況だったのかもしれません。祖母にもう一つ言われていたことがありました。
「もしどうにもならない状況になった時には、心の中で南無阿弥陀仏と念仏を唱えなさい。仏さんがきっと守ってくれるはずだから」
私は心の中で、必死に唱えました。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……、と何回も。
そのうちキーンという音は聞こえなくなって、その音の正体が何だったのか本当の意味を知ることになりました。
女の人はEちゃんの真後ろで、こう言っていたのです。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい許してごめんなさいごめんなさいお願いしますお願いしますごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい許してごめんなさいごめんなさいごめんなさい
ずっと、ずっと。甲高い叫びのように息を紡ぐ暇もないほど、早口で女の人はずっと叫んでいました。女の人が言っている言葉を理解すると同時に、部屋いっぱいに黒いもやが立ち込めていることにも気が付きました。見たらいけないとわかっていても、目を自力で閉じることができない。どこに目を向けたって、見てはいけないものが視界に入ってきます。どうしよう、どうしようと、私は恐怖で震えていました。
涙が頬を伝った時です。ふわっと何かが私の目を覆いました。その瞬間糸が切れたように私は意識を手放しました。
翌日、Eちゃんは原因不明の高熱で病院へと運ばれました。運ばれていったEちゃんの布団の周りはやっぱり水浸しで、先生もクラスのみんなもただ口をつぐんでいました。検査をしても高熱の原因が何かわからない。林間学校が終わって学校が始まっても、Eちゃんが来ることはありませんでした。そのうちEちゃんが亡くなったと先生から聞かされて、クラス全員でお葬式に行きましたが、棺は閉じられて最期に顔を見ることは叶いませんでした。
誰もが、林間学校でのことを口に出したりしませんでした。どうしてかはわかりません。だけど、あの時のことを口に出すのはタブーなのだと、心の中でみんな思っていたのだと思います。
Eちゃんは変わった子でクラスで浮いていると言いましたが、彼女には霊感がありました。それを公言していたから、変わった子として避けられていました。彼女の言葉が真実だと知っていたのは、クラスで私だけだったと思います。Eちゃんも同じように、私に霊感があると気付いていたと思います。
教室のある場所だけは絶対通らない。移動教室で音楽室へ行くとき、遠回りになるのに絶対東階段を使わない。
同じものが私たちには見えていたのだと思います。
林間学校から帰ってしばらくして、夢を見ました。亡くなった祖母が出てきました。
「よくがんばった」
一言そう残して、消えてしまいました。思い返せばあの時私の目を覆ったのは、亡くなった祖母の手だったように思います。
あの日から、私には黒いもやは見えません。だけど、いつの日かふっと見えてしまう日が来るのではないかと怯えて過ごしています。
それから、Nちゃんが言っていた「しおり」のことが気になって見てみました。彼女が言っていたのはこのページのことだと思うのですが、読めない部分がありました。最後に、そのしおりの一部分を添付しておきます。私が助かったのは偶然なのか、祖母が助けてくれたからなのか。それとも、あの黒いもやは見えなくなってしまっただけで、いまも私の近くにいるのでしょうか。
Eちゃんが心安らかに眠っていることだけを、私は一人、願っています。
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21:00 ・消灯
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22:00 ・誰かが布団の周りを歩き回る音がしても、
絶対に目を開けてはいけない
・声が聞こえたら心の中で「南無阿弥陀仏」
と唱える
・部屋を除く顔を見つけたら、目を閉じる
※もしも目が合ってしまったら、邵コ繧��
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