次ここに帰るときは父が死んだときだと、漠然とそう思っていました。それはきっとあと十年も二十年も先のことだと信じていたから、まさかこんなことになるなんて思いもしませんでした。
入籍日まで、あと少しだった。入籍したよと、報告したかった。今までありがとうと伝えたかった。
けれど、それはもう叶いません。
亡くなる一週間前、あの日はあんなに元気だったのに。笑い合ったあの時間が嘘みたいです。
二〇二四年九月九日、父が亡くなりました。突然のことでした。
父が亡くなってから早くも半月ほど経ち、やっとPCに向かう気持ちになり、いまこうして綴っています。私に残された時間もあと僅かだと悟ったからです。父の死の悲しみと、自分の過去の罪と、自分に迫る黒い影について。そして、水神橋の伝承についてわかったことを最後にまとめておこうと思います。父の死を悼む十分な時間も余裕もない。親不孝な娘だと思います。いつか誰かがこれを見つけてくれることを祈っています。
父の葬儀の時、私はある人たちの会話を盗み聞きしてしまいました。咄嗟にスマートフォンの録音機能を使って、その一部始終を録音しました。以下、書き起こし全文。
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「あすこの外れのもんが自殺したのも、もう三年も前か」
「やっぱり外れのもんはこうなる運命なのかねえ」
「□□□(私の父の名前)も気の毒になあ。外れにならなきゃあ、まだ生きとったかもしれんのに。あいつはいいやつだった」
「そうらいね。おまん、知ってたかいね。あすこの外れのもん、死に際に霊媒師だか霊能力者だか村に寄こしたの」
「聞いたいや。二十年も前にいなくなった娘の鑑定だとか言ってたかいね。おまん、詳しく知ってるか」
「おらも人から聞いた話だから詳しく知らんけども、霊媒師だかの先生が言うには、やっぱり娘さんは亡くなってるだろうって言ってたみたいだいね。そんであすこの外れのもん、気に病んで自殺したいう話だわ。気の毒に、ずっと娘さんが生きとるって信じてたみたいだいね。あんなポスターも何度も作り直してからに」
「ミコガミサマにも毎日拝んでたみたいだいね。あんなもん、神様言うてもほんもんの神様じゃあないのにね。外れのもんだから知らんのも無理ないが」
「そうだいね。祟られないといいけども。そのせいで死んだんかいね。なんにせよ、気の毒だこと」
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どこから聞きつけたのかはわかりません。父の知り合いだという方たちが数名、父の葬儀の際に来られました。上記はその時に聞いてしまった会話です。言葉の端々からわかりました。父は、▲▲村の出だったのです。そして、会話に出てくる≪外れのもん≫が誰なのか、自ずとわかってしまいました。きっとそれは〇〇〇ちゃんのお母さんのことだと。〇〇〇ちゃんのお母さんが亡くなったこと、それも自殺だなんてことは私はその時まで知りませんでした。ですが、会話に出てきた内容からわかってしまいました。そして、ミコガミサマ。これまで調べて来たただの点でしかなかった出来事が、私の頭の中で線で結ばれていくようでした。
そして葬儀の帰り際、あのポスターを見つけました。▲▲村の葬儀場に空きがあるとのことで、火葬はそこで執り行われました。もう二度と踏み入れないと決めたはずの場所をこうしてまた訪れることになったのは、「呼ばれている」と思う他ありませんでした。もう一度写真を添付しておきます。

私が見つけたこれは、凛ちゃんが最初に見つけたものとはきっと別の物だろうと思います。Tちゃんから聞いた話だと、凛ちゃんが見つけたのは手書きでぼろぼろだったと言っていたので。私が見つけたそれは、比較的新しいもののように思えました。Wordか何かを使って作られたのでしょうか、ぼやけて見える文字は整っていて、どう見ても手書きなどではありません。そのポスターはラミネートされて▲▲村交番前の掲示板に貼られていました。しかし、長期間貼られていたためか周りから雨水が入ったのか、周りから中心へ向かってじわりと字は滲み、判別できる文字は少なかった。それでも、凛ちゃんが見たものと同じものだと文面からわかります。読める文字を解読していくと、以下の情報が読み取れました。
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娘を探しています
2003年7月30日から行方不明です
白とピンクのチェック柄のワンピースに麦わら帽子をかぶっていました
謝礼として500万円お支払いいたします
情報提供は下の番号までお願いいたします
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写真も同じように全体が滲んでいます。だけど、私にはわかってしまった。この写真はあの子だと。このポスターはあの日から行方不明の〇〇〇ちゃんのことが書かれていると。印刷された滲んだ文字も、他の人からすればなんて書いてあるのかわからないのかもしれません。でも、私にはわかるのです。だって、あの日最後に〇〇〇ちゃんを見たのは、間違いなく私でしょうから。何度も会って、遊んだ子だから。どうしようもなく嫌いで、忘れたかったのに忘れられなかった、あの子だから。
結婚も決まっていたし、この家を継ぐつもりはありませんでした。この辺りはどうしてかよく住民が入れ替わる。私もそのうちの一人になるけれど、だから父にもしものことがあったときには家は空っぽにして売りに出すことを元より父と決めていました。この辺りは近頃どんどん栄えてきて、子育て支援も充実している。きっとすぐに買い手がつくでしょう。空き家になるといろいろ問題も出てくるようで、思い立ったが吉日、早めに家を片付け始めました。そして、父の書斎で見つけてしまったのです。
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N県◇◇◇市▲▲村 水神橋補強計画書
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父は建設会社で働いており、主に土地の地盤を調べたりする調査員でした。なんとなくそれをめくって知ったのです。
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水子神の祠のお祓い、供養を済ませる
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そしてその下には手書きでこう書いてありました。
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水子祀の儀で取りはからう
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▲▲村に関する郷土史を、彼の伝手で調べました。りんも興味がわいた?なんて嬉しそうに言った彼の顔を見ることができなかった。ごめんなさい。
以下、『N県◇◇◇市▲▲村郷土史』五十六ページより抜粋。
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この▲▲村ではかつて流行り病が蔓延したことがある。
文献には残っていないが、郷土史研究家(×× ××先生)によるとおそらく一六〇〇年代以前のこと。
お腹の子にも影響の出る病で、その当時妊娠していた女性は泣く泣く子供を堕ろす必要に迫られたそうだ。
▲▲村を流れる川は山の地中から流れて来る水が源流のため、夏場でもとても冷たい。
病にかかった妊娠中の女性は子供を流すため、まだ医療が発達していない当時、肩までその冷たい水に体を沈め胎児が流れるのを余儀なくされたそうだ。
生まれ出てくることのできなかった赤子を水に流したことから、その地域では亡くなった赤子を『水子』と呼ぶようになった。
注釈:現代で言う『水子』とは意が異なる。
さらには冷たい水に浸かったことから病状が悪化し、子供を堕ろすまでしたというのに体が耐え切れず、そのまま亡くなった女性も多くいるようだ。
亡くなった赤子と死後の世界で会えるよう、川辺に女性の遺体を埋めるための穴が開けられた。
そして、いつしか川のほとりに亡くなった赤子と母親の供養のため、地蔵が建てられた。
子供を失った母親と亡くなった子供の供養のため鎮魂の儀《水子祀》が行われていたが、時代を追うごとに名前は変わり、現代ではもう鎮魂としての意はほとんどなく、《神子の祭り》は近隣住民の地域行事としていまも受け継がれている。
水子祀→水子祭→神子祭→神子の祭り
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(二〇二四年九月二十五日)



