二人を寝かしつけて寝室に向かえば、勇悟は何やら本を読んでいた。
「寝たのか?」
花梨の気配に気づいて顔をあげたその表情は、いつもと変わらぬ仏頂面だ。
「はい、やっと寝ました」
その言葉で、勇悟の口元に微かな笑みが生まれる。
以前は、この部屋の大きなベッドに四人で寝たこともあった。しかし、夏に向かって気温がぐっと上がり始めると「暑い」と勇悟が言い出した。
特に子どもは体温が高い。
まだ冷房がなくても眠れる気温ではあるが、桃子と柚流がくっついてきて「暑い」「自分の部屋で寝ろ!」と勇悟が言ったため、幼い姉弟は子ども部屋で寝ることになった。
だが「おやすみなさい」と言って、自分たちだけで眠れる二人ではない。勇悟に挨拶をしたら花梨を部屋に連れていき、そこで添い寝をしつつ絵本を読んで、やっと眠りにつく。という流れだ。
「おまえがここに来てから、あいつらも楽しそうだ」
ぽつりと呟く勇悟も、どこか楽しそうに見える。
「勇悟さん。今日はありがとうございました」
「何がだ?」
お礼を言われる心当たりはないとでも言うかのように、彼は花梨を見つめてきた。
あまりにも真剣な眼差しで、花梨は恥ずかしくなり顔を逸らす。
「いえ、園内の家のことです。私だけでは、あのように両親を説得させることもできませんでしたから」
「問題ない。俺がおまえを望んだんだからな。それに、おまえの父親だって火宮と繋がりができるのを喜んでいただろう?」
「そうですね」
氏人でもない園内家が、日光地区当主と親戚筋になるわけだ。
近頃、園内の家具の売り上げが落ちているという話は、花梨の耳にも届いていた。なによりも、スマートホン一つあれば、新聞を読まなくても情報が入ってくる。財務状況などのIR情報は園内も開示しており、投資や顧客に情報提供するだけでなく、新しい人を取り込もうという狙いもある。
花梨だって、その数値を見たら、近頃の園内の経営状況が下降気味であるのは理解した。ただしそれが一時的なものなのか長期的になるのか、それを判断するだけの情報はまだない。
しかし、このタイミングで園内家の長女の花梨が日光地区当主に嫁ぐことで、投資家や顧客からの信頼はぐぐっと上がるだろう。
さらに勇悟は、園内に対して資金援助も提案したのだ。
つまり園内から見れば、地位と金を同時に手に入れたようなもの。園内にとってはうま味しかない。
「これでは、火宮ばかりが損しておりませんか?」
「損? 損はしていない。おまえという人間をこちら側に取り込むことができたのだからな。おまえにはそれだけの価値がある」
まるで愛の告白をするような熱い言葉に、胸がきゅっと苦しくなった。
「そう言っていただけるのはありがたいのですが。本当にそれだけの価値が私にあるのか、よくわかりません」
それは、今まで花梨が家族に虐げられたのも理由だろう。特に、妹の七菜香は、何かあるたびに花梨を呼び出し、罵声を浴びさせ、どうでもいい命令を突きつけてきた。あの日の「アイスを買ってこい」は、むしろかわいい命令なのだ。
「少なくともおまえの妹よりは、おまえのほうが価値はあるな」
まるで花梨の心を読んだかのようなその言葉だが、それはきっと園内家から戻るときのやりとりが原因かもしれない。
勇悟が父親と家具工場の見学へ向かい、花梨は久しぶりに七菜香と二人になった。
使用人がやってきて新しいお茶を淹れようとするが、七菜香はそれを断る。
さらに、ああだこうだと、一方的に花梨を罵り始める。
――ちゃっかりご当主様と結婚して。今からでもいいから、ご当主様をわたくしに譲りなさいよ。
――私の一存ではお答えできません。
その言葉が、さらに七菜香を刺激した。ありとあらゆる罵詈雑言を並べ立て、挙げ句、花梨に向かって手を振り上げた。
いつもであれば、できるだけ衝撃を抑えようと身を硬くするが、そのときはなぜか七菜香と向かい合う気持ちがあった。
ひるむことなく睨みつける。
それが、より七菜香の癪に障ったのだろう。振り上げた手を勢いよく花梨の顔に向かって振り下ろそうとしたところを、父親が止めた。
父親にすれば、この縁談が失敗に終わるのは避けたいはずだ。だからといって、花梨の代わりに七菜香をとも考えてはいないらしい。おそらく花梨を手元に置いておきたいに違いない。
園内の事業を継いでくれる相手を探し、その相手と花梨を結婚させたいと、そう思っているはず。
騒ぎを聞きつけた母親もやってきて、騒ぐ七菜香を宥めながら部屋から出ていった。
残された花梨は、父親に感情を押し殺した声で礼を言った。それから勇悟と向き合い「工場はどうでしたか?」と何事もなかったかのように声をかけた。
花梨の一言でその場がなんとか和み、父親は今後、七菜香を花梨に近づけないようにすると、口約束をしてくれた。
期待のできない約束ではあるが、この一言は花梨の縁談を失敗させたくないという気持ちが見え隠れした。それを知れただけでも、ここに来た甲斐があったというもの。
「園内の家は、昔からあんな感じなのか?」
「どういう意味でしょう? 私が園内の家でどんな扱いを受けていたかは、以前、お話をしたとおりなのですが」
「ああ、その件ではない。ただ、なんか雰囲気がな……。最近、園内の家具の質も落ちているのではという話を聞いたことはないか?」
残念ながらそういった話は聞こえてこない。スマートホンから入手できる情報もすべてではないのだ。
「そんなことを言うのは、引退間際のじじいたちばかりだが」
その言い方から、相手にいい印象を抱いていないというのがよくわかる。むしろ、勇悟にもそういった相手がいると知れたことのほうが、新鮮だ。
「あいつらが言うには、最近の園内の品はイマイチらしい。そういったじじいらは、桐生に流れていくようだな」
桐生は、最近になって売り上げを伸ばしている商家だ。園内は老舗だが、桐生は新参者。頑固な年寄りは新参者を嫌うと思っていたのだが。
「桐生は商売上手のようだな。うるさいじじいらを味方に引き込んだ。だが、今日、園内の工場を見せてもらって、なんとなくだが変な感じがした」
「変な感じ、ですか?」
「ああ。言葉で説明するのは難しいが……。もしかしたらそれが、今の園内をおかしくしているのかもしれない」
そこまで言って勇悟は、何かを考え込むかのようにして口を閉ざした。
氏人でもなんでもない花梨にとって、影の世界はよくわからない世界でもある。
だが、当主の妻となれば、そうも言ってられない。
「影の世界とこちらの世界――光の世界ですが、どちらも同じように人間が住んでおります」
花梨の講師役を買って出たのは佐伯だった。
「ただ、影の世界は人の感情が具現化しやすいのです。それが妖魔の素となります。我々の世界と影の世界は、各地区にある井戸で繋がっておりますが、私たち氏人はその井戸を使って二つの世界を行き来するわけではございません。井戸を通じてやってくるのは、むしろ妖魔くらいのものです」
「影の世界。行けるんですか?」
「はい。当主同士の交流はありますから。年に一度、互いに行き来しております。日光地区と対になるのは日影地区。勇悟様ももちろん、日影地区の当主様と交流を持たれております」
「どのようにして?」
先ほど、佐伯は井戸を使わないと言ったばかりだ。
二つの世界を繋ぐ唯一のもの。それが井戸。それを使わないとなればどうやって行き来するのか。
そもそも、人間があの井戸に入る姿を想像しただけでもおかしいのだが。
「氏人には力がございますから、その力を使って術を発動させます。その一つに転移の術というものがありまして、その転移の術で二つの世界を行き来するのです。この術は、氏人の中でも能力に長けた者しか使えません」
花梨にとっては、初めて聞く内容だった。そもそも氏人でもない花梨が知っていることなど、必要最小限のものばかり。
住んでいる場所が日光地区。たまに、妖魔と呼ばれる化け物が現れる。
それくらいだろう。
本葉に当主の妻としてやっていけるのだろうかと、そんな不安が込み上げてくる。
「当主様が、氏人以外から妻を迎えたという話は、過去にもありますか?」
花梨の質問に佐伯は首を横に振った。
「私が知るかぎり、ございません」
その答えに不安しかない。
「寝たのか?」
花梨の気配に気づいて顔をあげたその表情は、いつもと変わらぬ仏頂面だ。
「はい、やっと寝ました」
その言葉で、勇悟の口元に微かな笑みが生まれる。
以前は、この部屋の大きなベッドに四人で寝たこともあった。しかし、夏に向かって気温がぐっと上がり始めると「暑い」と勇悟が言い出した。
特に子どもは体温が高い。
まだ冷房がなくても眠れる気温ではあるが、桃子と柚流がくっついてきて「暑い」「自分の部屋で寝ろ!」と勇悟が言ったため、幼い姉弟は子ども部屋で寝ることになった。
だが「おやすみなさい」と言って、自分たちだけで眠れる二人ではない。勇悟に挨拶をしたら花梨を部屋に連れていき、そこで添い寝をしつつ絵本を読んで、やっと眠りにつく。という流れだ。
「おまえがここに来てから、あいつらも楽しそうだ」
ぽつりと呟く勇悟も、どこか楽しそうに見える。
「勇悟さん。今日はありがとうございました」
「何がだ?」
お礼を言われる心当たりはないとでも言うかのように、彼は花梨を見つめてきた。
あまりにも真剣な眼差しで、花梨は恥ずかしくなり顔を逸らす。
「いえ、園内の家のことです。私だけでは、あのように両親を説得させることもできませんでしたから」
「問題ない。俺がおまえを望んだんだからな。それに、おまえの父親だって火宮と繋がりができるのを喜んでいただろう?」
「そうですね」
氏人でもない園内家が、日光地区当主と親戚筋になるわけだ。
近頃、園内の家具の売り上げが落ちているという話は、花梨の耳にも届いていた。なによりも、スマートホン一つあれば、新聞を読まなくても情報が入ってくる。財務状況などのIR情報は園内も開示しており、投資や顧客に情報提供するだけでなく、新しい人を取り込もうという狙いもある。
花梨だって、その数値を見たら、近頃の園内の経営状況が下降気味であるのは理解した。ただしそれが一時的なものなのか長期的になるのか、それを判断するだけの情報はまだない。
しかし、このタイミングで園内家の長女の花梨が日光地区当主に嫁ぐことで、投資家や顧客からの信頼はぐぐっと上がるだろう。
さらに勇悟は、園内に対して資金援助も提案したのだ。
つまり園内から見れば、地位と金を同時に手に入れたようなもの。園内にとってはうま味しかない。
「これでは、火宮ばかりが損しておりませんか?」
「損? 損はしていない。おまえという人間をこちら側に取り込むことができたのだからな。おまえにはそれだけの価値がある」
まるで愛の告白をするような熱い言葉に、胸がきゅっと苦しくなった。
「そう言っていただけるのはありがたいのですが。本当にそれだけの価値が私にあるのか、よくわかりません」
それは、今まで花梨が家族に虐げられたのも理由だろう。特に、妹の七菜香は、何かあるたびに花梨を呼び出し、罵声を浴びさせ、どうでもいい命令を突きつけてきた。あの日の「アイスを買ってこい」は、むしろかわいい命令なのだ。
「少なくともおまえの妹よりは、おまえのほうが価値はあるな」
まるで花梨の心を読んだかのようなその言葉だが、それはきっと園内家から戻るときのやりとりが原因かもしれない。
勇悟が父親と家具工場の見学へ向かい、花梨は久しぶりに七菜香と二人になった。
使用人がやってきて新しいお茶を淹れようとするが、七菜香はそれを断る。
さらに、ああだこうだと、一方的に花梨を罵り始める。
――ちゃっかりご当主様と結婚して。今からでもいいから、ご当主様をわたくしに譲りなさいよ。
――私の一存ではお答えできません。
その言葉が、さらに七菜香を刺激した。ありとあらゆる罵詈雑言を並べ立て、挙げ句、花梨に向かって手を振り上げた。
いつもであれば、できるだけ衝撃を抑えようと身を硬くするが、そのときはなぜか七菜香と向かい合う気持ちがあった。
ひるむことなく睨みつける。
それが、より七菜香の癪に障ったのだろう。振り上げた手を勢いよく花梨の顔に向かって振り下ろそうとしたところを、父親が止めた。
父親にすれば、この縁談が失敗に終わるのは避けたいはずだ。だからといって、花梨の代わりに七菜香をとも考えてはいないらしい。おそらく花梨を手元に置いておきたいに違いない。
園内の事業を継いでくれる相手を探し、その相手と花梨を結婚させたいと、そう思っているはず。
騒ぎを聞きつけた母親もやってきて、騒ぐ七菜香を宥めながら部屋から出ていった。
残された花梨は、父親に感情を押し殺した声で礼を言った。それから勇悟と向き合い「工場はどうでしたか?」と何事もなかったかのように声をかけた。
花梨の一言でその場がなんとか和み、父親は今後、七菜香を花梨に近づけないようにすると、口約束をしてくれた。
期待のできない約束ではあるが、この一言は花梨の縁談を失敗させたくないという気持ちが見え隠れした。それを知れただけでも、ここに来た甲斐があったというもの。
「園内の家は、昔からあんな感じなのか?」
「どういう意味でしょう? 私が園内の家でどんな扱いを受けていたかは、以前、お話をしたとおりなのですが」
「ああ、その件ではない。ただ、なんか雰囲気がな……。最近、園内の家具の質も落ちているのではという話を聞いたことはないか?」
残念ながらそういった話は聞こえてこない。スマートホンから入手できる情報もすべてではないのだ。
「そんなことを言うのは、引退間際のじじいたちばかりだが」
その言い方から、相手にいい印象を抱いていないというのがよくわかる。むしろ、勇悟にもそういった相手がいると知れたことのほうが、新鮮だ。
「あいつらが言うには、最近の園内の品はイマイチらしい。そういったじじいらは、桐生に流れていくようだな」
桐生は、最近になって売り上げを伸ばしている商家だ。園内は老舗だが、桐生は新参者。頑固な年寄りは新参者を嫌うと思っていたのだが。
「桐生は商売上手のようだな。うるさいじじいらを味方に引き込んだ。だが、今日、園内の工場を見せてもらって、なんとなくだが変な感じがした」
「変な感じ、ですか?」
「ああ。言葉で説明するのは難しいが……。もしかしたらそれが、今の園内をおかしくしているのかもしれない」
そこまで言って勇悟は、何かを考え込むかのようにして口を閉ざした。
氏人でもなんでもない花梨にとって、影の世界はよくわからない世界でもある。
だが、当主の妻となれば、そうも言ってられない。
「影の世界とこちらの世界――光の世界ですが、どちらも同じように人間が住んでおります」
花梨の講師役を買って出たのは佐伯だった。
「ただ、影の世界は人の感情が具現化しやすいのです。それが妖魔の素となります。我々の世界と影の世界は、各地区にある井戸で繋がっておりますが、私たち氏人はその井戸を使って二つの世界を行き来するわけではございません。井戸を通じてやってくるのは、むしろ妖魔くらいのものです」
「影の世界。行けるんですか?」
「はい。当主同士の交流はありますから。年に一度、互いに行き来しております。日光地区と対になるのは日影地区。勇悟様ももちろん、日影地区の当主様と交流を持たれております」
「どのようにして?」
先ほど、佐伯は井戸を使わないと言ったばかりだ。
二つの世界を繋ぐ唯一のもの。それが井戸。それを使わないとなればどうやって行き来するのか。
そもそも、人間があの井戸に入る姿を想像しただけでもおかしいのだが。
「氏人には力がございますから、その力を使って術を発動させます。その一つに転移の術というものがありまして、その転移の術で二つの世界を行き来するのです。この術は、氏人の中でも能力に長けた者しか使えません」
花梨にとっては、初めて聞く内容だった。そもそも氏人でもない花梨が知っていることなど、必要最小限のものばかり。
住んでいる場所が日光地区。たまに、妖魔と呼ばれる化け物が現れる。
それくらいだろう。
本葉に当主の妻としてやっていけるのだろうかと、そんな不安が込み上げてくる。
「当主様が、氏人以外から妻を迎えたという話は、過去にもありますか?」
花梨の質問に佐伯は首を横に振った。
「私が知るかぎり、ございません」
その答えに不安しかない。