すっかりとおやつを食べ終えたところで、花梨はもう一度ベルを鳴らした。
すると、ドタドタと慌てたような足音が聞こえてきた。
「おい、何があった? 大丈夫か?」
「あ、火宮さん。お帰りなさい。早かったのですね」
てっきり佐伯が来るものだと思っていたのに、勇悟だった。しかも朝、家を出たときと同じようなスーツ姿。
勇悟は部屋の戸口に立ち、こちらを驚いた様子で見ている。
「あ、あの……。どうかされましたか?」
「それはこっちの台詞だ。おまえたち、いつの間に……仲良くなったんだ? てっきり柚流が暴れたのかと……」
肩を上下させた勇悟は、前髪をクシャリとかきあげた。
「ごめんなさい。ただお外に出ていいかを確認したかったのです」
「外?」
「天気がよいので、お散歩に……」
「なるほど。だったら俺もつきあおう。おまえにはいろいろと話をしなければならないだろう?」
それはそうだ。昨夜、出会ってそのまま結婚。その結婚も、園内の家が火宮の権力に屈した形になる。
「着替えてくるから、待っていろ」
それだけ言い捨てた勇悟は、部屋を出ていった。それと入れ替えに佐伯がやってくる。
「ご案内します。今日はあたたかいので上着は必要ないかと思いますが」
「はい、ありがとうございます」
屋敷の二階に寝室やら各自の部屋がある。そして一階に食堂やら遊戯室やら。園内の屋敷もそれなりではあったが、火宮家は当主の屋敷というだけあって、園内の倍以上の広さはあるだろう。勝手に屋敷の中をうろうろとするのも悪いだろうという気持ちもあり、花梨は必要最小限の場所にしか足を運んでいない。
だから、ここからどこをどういったら外に出られるのかすらわからない。それを佐伯もわかっていたようだ。一階の廊下を真っすぐに進み、突き当たりを右に曲がって、さらに突き当たり左に進んだところで玄関扉が見えた。
式台の上には小さな靴と、花梨のくたびれた運動靴が並んでいる。
上がり框に腰をおろした柚流は靴をはき「あ、あ」と言いながら小さな手を伸ばしてきた。
それをぎゅっと握りしめると、柚流はとろけるような笑みを浮かべる。
「すぐに勇悟様がいらっしゃいますので、こちらでお待ちください」
玄関扉を開けてすぐ、庇の下で待つ。そこから見える空は青く澄んでいて、見ているだけで心が晴れる。
「待たせたな」
その声で我に返る。
スーツを脱いだ勇悟は、シャツに黒デニムという姿なのに、どこか目を奪われてしまった。
「やっ」
勇悟が柚流の空いている手をつなごうとしたが、拒まれたようだ。
「ったく。俺はおまえの父親だ。こいつはこんなふうに警戒心が強いんだ」
柚流の心に近づいた花梨が珍しいとでも言いたげだ。
「なんで柚流はおまえに懐いたんだ?」
「それはきっと、私が柚流さんの前で居眠りをしてしまったからだと、佐伯さんが……」
「なるほど。おまえなら妖魔を目の前にしても、居眠りしそうだな」
勇悟のその言葉の意味を、どうとらえたらいいのかわからない。ぽかんと彼を見上げると「冗談だ」と真顔で言われ、今の言葉のどこに冗談があったものだと考える。
「まあ、いい」
勇悟に案内され、庭を歩く。
「この時期はバラが見頃だな」
花梨が尋ねたわけでもないのに、勇悟がぽつりと言った。
きゅ、きゅ、と音が鳴っているのは、柚流の靴の音だ。歩くたびに音が鳴る靴。
「もう少ししたらラベンダーやあじさいか? 俺が知っている花はそれくらいだ」
「火宮さんのご趣味ではないのですね?」
すると勇悟は、花梨に視線を向けた。
「おまえも火宮だろう。俺のことは名前で呼べ。そのほうが夫婦らしく見える」
「は、はい……」
夫婦と言われ、花梨の鼓動がトクリと跳ねた。
「あっ、あっ」
柚流がするっと手を離し、キュキュキュと音を立てながら走り出す。
「あ、柚流さん」
「大丈夫だ。柚流の好きな場所がこの先にあるんだ」
走ってどこかへ向かう柚流から目を離さぬよう、花梨は足を速める。
柚流は芝生を見つけると、そこに寝転がってごろごろと転がり始めた。
「ああやって遊んでいるうちは、何も心配ない。飽きたらまた騒ぐだろうし、あの靴もうるさいからな」
座れ、と勇悟からシェード付きのベンチを促される。そこに腰を落ち着けた花梨だが、ブランコのように大きく揺れ、バランスを崩す。
「どんくさいやつだな」
「も、申し訳ありません」
なんとか座り直すと、ほのかな揺れが心地よい。目の前では柚流がきゃあきゃあ声をあげて遊んでいる。
「あの……お聞きしたいことがあるのですが」
勇悟と話をする機会があったら、聞こう聞こうと思っていたことがたくさんある。
「なぜ、私は火宮さんと結婚したのでしょう?」
「勇悟だ」
「あ、はい。なぜ、勇悟さんは私と結婚を?」
「安心しろ。けしておまえに一目惚れしたわけではない」
わかってはいたが、面と向かってはっきりと言われてしまえば、せつないような虚しいような悔しいような微妙な感情が沸き起こってくる。
「むしろ、惚れたのは、おまえの能力だな」
「私の能力、ですか?」
「ああ」
昨夜、妖魔討伐を行っていた勇悟らは、周辺に被害が出ないようにと結界を張って対応した。この結界によって空間を分断し、関係のない人々を巻き込まないようにしているのだとか。
ところが、そこに突如として現れたのが花梨だ。花梨は結界のこちら側に迷い込んできた。
だから桃子は、勇悟が結界を張るのを忘れたのではと疑ったようだ。
しかし、そうではない。結界はきちんと機能していた。昨夜、公園内に大きな穴を開けてしまったが、それは結界内でのできごとであって、実際には何も起きていない。それが結界の役目。
「どうやら、おまえには結界を無効化する力があるようだ」
「結界……無効化……」
そう言われても、花梨にはなんのことやらさっぱりわからない
「おまえの力は危険だ。特に、影の者に気づかれたら厄介だからな」
影の者。それは妖魔と同じ影の世界に住む者。
「おまえを手元におくにはどうしたらいいかと考えた結果。結婚するのが手っ取り早いと思った。俺と結婚してしまえば、他の者はおまえに手出しができないだろう」
この結婚の理由がようやくわかった。だから出会ってすぐに結婚したのだ。
「わかりました。私を選んでくださってありがとうございます」
「いや……だが、おまえ自身、なかなか興味深い。今まで会ったことのないタイプの女だ」
「え?」
「たいていは俺の顔に惚れるか、俺の家柄や資産に惚れるか。どちらかのタイプが大半だ。だが、おまえはこの俺と結婚したというのに、俺にも金にも興味はなさそうだ」
さすが日光地区の当主なだけあり、自分の立場や魅力をわかっているのだろう。
「えぇと……勇悟さん自身に興味はあります。どういった人なのかという興味ですね。そして、この結婚ですが……私も利用させてもらいましたから」
「利用?」
「はい。私はずっと園内の家を出たいと、そう思っていたのです」
そこから花梨は、ぽつぽつと自分が置かれた立場や境遇についてを説明する。その言葉に、義母や義妹が憎らしいといった感情をのせることはしない。ただ事実だけを淡々と。
「きっと、幼少時代に両親から愛された記憶がないから、逆に幼児教育に興味を持ったのだと思います。ですから、柚流さんのお世話ができるのがとても楽しいのです。楽しい、と言うとまた語弊があるかもしれませんが。とにかく、柚流さんの存在は今の私にとっての生きる糧のようなものです」
「やはりおまえは面白い。柚流もなかなか難しい子だからな。そう言ってもらえれば、こちらとしてはありがたいな」
「勇悟さんも柚流さんのことがお好きなのですね」
「まぁ。家族だからな」
そう言って口元をゆるめた勇悟の表情に、花梨の胸がトクンと音を立てた。
「あ~あ~」
柚流の声がして、花梨は慌てて立ち上がる。しかし、慣れないベンチであったため、また大きくバランスを崩した。それを勇悟が抱きとめる。
「おいおい、しっかりしてくれよ、お母様。おまえが怪我なんてしたら、柚流が騒ぎそうだ」
「ご、ごめんなさい……」
恥ずかしさのあまり、かぁっと顔に熱がたまっていく。
「そうだ。午後からは美容師の予約をしてある。そのやぼったい髪をなんとかしてもらえ。それから服もいくつか仕立てるからな」
花梨をけなしているようにもとれる言葉だが、それでもこうやって気にかけてくれるのが嬉しかった。
プロの腕前に、花梨は先ほどから驚きを隠せない。ほとんど手入れもできず、伸ばし放題のようなぼさぼさっとした髪は、今ではつやつやと輝き真っすぐに伸びている。
「傷んでいたところも多いから、思い切ってばっさり切ったわ。だけど、変に弄られていない分、素直な髪ね」
腰まで伸びていた髪は、鎖骨あたりまで短くなった。
担当した美容師の見た目は男性だが、話をすればするほど外見と内面にギャップを感じられる。ヘアアレンジだけでなく、化粧や服にも明るく、花梨のすべてをコーディネートするつもりらしい。
「ユウくんからは、そう頼まれたのよ」
パチンとウィンクをしてみせた美容師は「マリって呼んでね」と言った。
マリという女性的な名前とかけ離れた見た目だが、生まれ変わったら女性になりたい男性美容師のようだ。だから今は男性なのだとか。
ちなみに、性愛の対象は人間ということで、そこに性別は関係ないらしい。花梨が聞いてもいないのに教えてくれた。
ということは、勇悟も花梨もマリの恋愛対象となるわけだが「やぁねぇ。人のものには手を出さないわよ」とのことで、既婚者は対象外となるようだ。
「うわぁ。お母様、かわいい」
「あっ、あっ、あ~」
「いいから、おまえたちは落ち着け」
「マリちゃん、わたしの髪もやって」
「はいはい。モモちゃん。順番こよ」
勇悟がマリを火宮邸に呼びつけたのだ。
花梨が髪を切ってもらっている間に、桃子が学校から帰ってきて、昼寝から覚めた柚流を連れて様子を見に来たところ、そのまま居座っている。
「さて、と。今日はこんなもんでどうかしら?」
立ってちょうだいとマリに促された花梨は、おどおどしながら立ち上がった。
「お化粧もお洋服も。カリンちゃんのやさしい顔立ちに合うようにしてみたわ」
全身鏡の前で、カリンも後ろを向いたり横を向いたりと忙しい。
髪の毛はローポニーテールにしてあるものの、サイドに編み込みがされていて落ち着いた華やかさがある。
「さすがマコトだな。俺たちの結婚式も頼む」
「その名前で呼ばないで。いくらユウくんでも起こるわよ」
「マリちゃん、わたしもやって~」
「はいはい」
桃子がマリのもとに駆け寄れば、柚流がとてとてと花梨に抱きついてきた。
「あ~あ~」
「ユズ、お母様のこと、大好きみたい」
花梨は抱っこをせがむ柚流を抱き上げる。マリが選んだワンピースは、子どもを抱っこするのも非常に楽なものだ。華美な装飾はないのに、どこかこなれた印象を受ける。
「できたわよ、モモちゃん。大好きなお母様とおそろいの髪型よ」
「うわ~かわいい」
キャキャと子ども特有の甲高い声で、桃子ははしゃいでいる。
「ほんと、ユウくんにしては、よいこを選んだわ」
「どういう意味だ?」
勇悟は目をすがめる。
「そのままの意味よ。子どもたちからも好かれ、素直な子。なによりも、ちょっとだけ特殊な力を持っているのでしょう?」
マリの言葉に勇悟は返事をせずに、様子をうかがっている。
「ま、ご当主様も身を固めれば、氏人たちも安心するわね。あ、一部だけ騒ぐようなこところはあるかもしれないけれど。でも、あの子なら大丈夫よ」
その指摘に心当たりがあるのか、勇悟はチラリと花梨に視線を向けた。
「結婚式の日取り、決まったら教えてね。仲間総出て、着飾らせてあげるわ。だって、当主様の結婚式だもの」
今からその日が待てないとでも言うかのように、マリは満面の笑みを浮かべる。
「今日は急な依頼で悪かったな」
「あら。それだけの価値があったから、許してあ・げ・る」
勇悟に向かって投げキッスをしたマリは、手元の道具を片づけ始め、それを手にして屋敷を後にする。
そんなマリの姿を見送った勇悟は、桃子に向かって声をかける。
「宿題は終わったのか?」
「後でやる」
「今すぐやれ」
「え~ユズと遊びたい。お母様とも遊びたい。後でいいでしょ」
「そう言って。いつも寝る前になって、宿題やってないって騒ぐやつは誰だ」
「うぅ」
反論できないのか、桃子は悔しそうに顔をゆがめている。
「桃子さん。一緒に宿題をやりませんか? 柚流さんにはご本を読んであげようかと思っていたところなのです」
花梨の提案に桃子は「わ~い」と勝ち誇った笑みを浮かべている。
「おい。あまり桃子を甘やかすな」
「甘やかしているわけではありません。イヤイヤやるよりも、楽しくやったほうが身につくかと思っただけです」
真っすぐに勇悟を見上げる花梨からは、初めて会ったときのような怯えた様子は感じられない。
「そうか。おまえがそう言うなら、二人を頼む。俺は部屋にいる」
「ユウゴもお仕事がんばってね~」
桃子の言葉で、彼にも仕事があったのだと花梨は気づいた。つまり、彼は忙しい合間をぬって、花梨に付き合ってくれたのだ。
それから夕食の時間まで、勇悟と顔を合わせることはなかった。
佐伯に勇悟の様子を聞けば、書類仕事に追われているとのこと。
忙しいのかと問うと。
「跡取りは省吾様だと思っていた方ですから。勇悟様はこういった仕事はあまり気乗りしないのですよ。後回しにしていたツケがまわってきただけです」
先ほど、似たような話を聞いたばかりだなと、花梨は思った。
この結婚は二人が愛し合った結果ではない。
花梨の能力が影の者に利用されないように。そして花梨自身が園内の家から逃げ出すための結婚だ。
だから、他人の目がなければ夫婦らしい振る舞いをする必要はないと思っていたはずなのに。
「なんでこいつらがここにいる」
夜の十一時。風呂に入り、寝室へとやってきた勇悟の第一声。部屋の明かりは弱めてはいるものの、人の表情ははっきりと見える。
花梨は手元のスマートホンで、寝る前の読書をしているところだった。これは園内の家にいた頃からの習慣。少ない小遣いを書籍代に充てる。それも電子書籍にすることで、狭い部屋を本が埋め尽くさないようにと。
その花梨の両脇には、柚流と桃子がひっついている。
「柚流さんがどうしても私から離れなくて……」
それで仕方なく同じベッドへと連れてきた。そうなれば桃子だって一緒に寝たいと口にする。
「子どもたちは、私の布団を一緒にかぶりますから。勇悟さんにはご迷惑はかからないかと」
「そういうことじゃない」
はぁと大きく息を吐いた勇悟は、クシャリと前髪をかきあげる。
「驚いただけだ。たった一日しか一緒にいないというのに、おまえは子どもたちの心をつかむのがうまいんだな。知っていると思うが、この子らは俺の子じゃない。俺の兄の子だ」
「えぇ。存じ上げております」
先代当主の省吾が亡くなり、勇悟がその地位を継いだとき、幼い子らを引き取ったという話は美談として盛り上がった。
「桃子さんも柚流さんも、とてもやさしい子です」
花梨にとって、これほど満足して一日を終えた日など、記憶のあるかぎり、今までなかった。朝が来たら早く夜になればいいと思っていたし、夜になれば朝が来なければいいと願っていた。
「この子たちとの出会いを繋いでくれた勇悟さんには感謝しかありません」
「なるほど。やはり、おまえは面白いな。ついでに伝えておく。次期当主は柚流だ。だから俺たちの間に子はいなくていい。それでも夫婦となった以上、それなりの仲の良さは周囲に見せつける必要はある。俺がおまえに望むのは、この子たちの母親であり、形だけの妻だ」
「はい。私も勇悟さんを利用している立場ですから。はっきりとそうおっしゃっていただいたほうが、気持ちは楽です。火宮の名に恥じぬよう、精一杯、務めさせていただきます」
「ああ、頼むぞ。妻殿」
勇悟から望まれているのは形だけの妻。
だけど柚流と桃子はそんな花梨を慕ってくれる。そして勇悟は、この二人の母親であるようにと要求してきたのだ。
となれば、花梨だって自分の役割について、次第に理解する。
「おい。明日は六時に起こせ。それから四時のアラームは切っておけ」
「はい」
パタリと閉じたスマートホンを枕元に置いた花梨は、二人の子どもの間の狭い空間に身体を横たえる。触れたところから伝わるぬくもりは心地よく、瞼はとろりと重くなる。
花梨が火宮家にやってきて五日目の夜。みんなで夕食を囲んでいるときに、おもわず花梨は聞き返した。
「園内の家に、ですか?」
「ああ。式の相談をしたいし、きちんと挨拶をすべきだろう?」
「式……? 挨拶……?」
「結婚式だ」
「結婚式!」
その言葉にいちはやく反応したのは桃子だった。子どもであっても、結婚式には憧れがあるのだろう。
花梨だって、まだ家の状況を理解できていなかったときには、同じように花嫁衣装に憧れたものだ。
「俺たちの結婚が、総会で承認された」
「総会?」
「ああ」
日光地区当主である勇悟の結婚については、同じ日光地区の氏人らに認められる必要があるとのこと。
「つまり、認められる前に、勝手に私と結婚してしまった?」
「そうだな」
「ここで認められなかったら、どうされるおつもりだったのですか?」
この結婚に愛などないとわかっていても、結婚してから結婚を認めてもらうというのは、順番としていささかおかしいのではないだろうか。
「そんなの、権力を使ってでも認めさせるに決まっているだろう? 何も心配する必要はない」
そう言われても、花梨の気持ちはやはり複雑だった。へたをしたら、結婚して十日も経たないうちに離婚、バツイチという状態になったかもしれない。
その状態で園内の家に帰ったら、今まで以上の悲惨な生活が待っているだろう。
出戻り娘。当主に捨てられた女――。
唇をかみしめながら黙り込んだ花梨を、勇悟は心配そうに見つめてくる。
「なんだ? どうかしたのか?」
「ユウゴがデリカシーないからじゃない? 氏人がダメって言ったら、お母様と離婚しなきゃならなかったんでしょ?」
「表面上はそうなるな。だが、絶対にそうはさせない自信があったからな」
ふん、とユウゴは自信満々に笑った。
「あ~あ~」
急に柚流が声をあげたため、何事かと思って確認すれば、もっとハンバーグを食べたいと訴えているようだ。
「どうぞ、柚流さん」
花梨が自分のお皿から半分にしたハンバーグを移し替えると、「あいあい」と喜ぶ。
「俺がこいつを手放すと思うか?」
先ほどから勇悟は、花梨と柚流のやりとりをじっと見ている。
「思わない。わたしも花梨お母様じゃなきゃいや。ユズもだよね」
「あいあい」
「だからな。万が一のときはおまえたちの出番かと思ったのだが……その前に認められたっていうわけだ。よかったじゃないか」
そう言った勇悟は、ワインの入ったグラスを口につけ傾ける。
「それで、話を戻すが……」
勇悟は園内の家に足を運び、結婚式を挙げる算段を整えたいのだ。
「俺のほうから園内の家に連絡をいれても問題はないか?」
「……はい。お願いします」
花梨から連絡をしたとしても、無視をされるかもしれない。そして勇悟と一緒にいったとしても「約束もなしに訪れて」とかなんとか文句を言われるのだ。
「おまえたちは、留守番な」
桃子が「行きたい」と言うのを読んでいたかのようなタイミングで勇悟が言えば、やはり桃子は頬を膨らます。
「金で釣って、強引に結婚したからな。あちらから、あまりいい印象をもたれていないだろう?」
むしろ、厄介払いができたと喜んでいるような気がする。
「とにかく。おまえたちを園内の家に連れていくのはもう少し先だ。俺にも根回しする時間が必要なんだよ」
それでも桃子は納得いかないのか、唇をとがらせたままだ。
「おまえにも新しいドレスを準備してやる。それで我慢しろ」
そのひとことで、桃子の顔はぱっと華やいだ。やはりドレスには憧れがあるようだ。
それから数日後。花梨は勇悟と一緒に園内の屋敷を訪れた。久しぶりに目にした屋敷は、以前よりもどんよりとした雰囲気に覆われているように感じる。
数寄屋門の脇のインターホンを押すと、懐かしい使用人の声が聞こえた。。
すぐに門が開いて、二人は中に入る。
「堂々としていればいい。おまえは俺の妻なのだからな」
花梨がここでどのように暮らしていたのか。もちろん勇悟も知っている。
冷たくじめっとした地下室。与えられる食事は、冷えた残り物。
高校生になれば連絡を取るためのスマートホンを持つことは許された。しかし、その支払いは花梨自身でと言われ、今まで以上に家の仕事をやるように命じられたのだ。
だが、そのおかげでスマートホン上でのやりとりの制限はなかった。その結果、花梨はスマートホンで本を読むことができた。好きなシリーズは、新刊の配信を楽しみにしていたものだ。雑誌だって読める。
「ようこそいらっしゃいました」
父親の声に、花梨は身体を強張らせた。
「今日は突然の申し出にもかかわらず、受け入れくださってありがとうございます」
いつも命令口調の勇悟から、こういった穏やかな言葉が出てくると違和感を覚える。
「どうぞ、こちらに」
父親が案内したのは、畳敷きの客間だった。黒檀のテーブルとおそろいの椅子が並べられている。
「さあ、どうぞ」
促され、花梨は勇悟と並んで座った。
この部屋は、園内の屋敷にいたときには足を踏み入れたことのない部屋だ。いつもは地下室か、水回りにしか居場所がなかった。
だけど、家から離れた途端に、こうやって暖かな部屋に入れる。不思議な気持ちだ。
「すぐに妻と娘も来ますので」
どうやら七菜香もここにやって来るようだ。花梨の結婚の打ち合わせに、七菜香はいなくてもいいだろうと思うのに。
「お待たせして申し訳ありません」
気持ち悪いほどの猫なで声で部屋に入ってきたのは義母だ。そして、その後ろに七菜香いる。彼女らの姿を見て、遅くなった理由を理解した。
ようするに、着飾っていたようだ。
二人が席につくと、使用人がお茶を並べて出ていく。
「早速ですが、花梨さんとの結婚式について相談したく……」
話は勇悟主導で進んでいく。父親はよっぽど結婚支度金が嬉しかったのだろう。始終ニコニコとしながら、相づちを打ち、話を聞いている。
その間、花梨はチクチクと刺さる視線を感じていた。確かめなくてもわかる。七菜香が睨んでいる。
彼女は、日光地区当主の妻となった花梨を疎ましく思っている。そんな気持ちがひしひしと伝わってくるのだ。
「では、挙式は十月。式場は、こちらでよろしいですね?」
勇悟が確認のために念押しすれば、父親も「はい。よろしくお願いします」と大きく頷く。
「ドレスなどはこちらで手配させてください。私の衣装と揃える必要がありますからね」
両親は、勇悟の言葉に素直に従っていた。
「では、私のほうからは以上です。今日はありがとうございました」
「こちらこそ。わざわざご足労いただき、感謝いたします」
勇悟が席を立ったところで、花梨も立ち上がる。
「火宮さん。せっかくですから、家具工場を見学していきませんか?」
父親からの申し出に、勇悟はどうしたものかと花梨に視線を向けてきた。
「勇悟さん。お父様もこうおっしゃっていることですし、どうぞ見ていってくださいな」
花梨が後押しすれば、父親も満足そうに首を縦に振る。
「では、花梨さんが案内してくださいますか?」
勇悟がにこやかな笑みを浮かべて、花梨を見下ろす。
「……え? と……」
花梨は、案内できるほど工場に足を運んだことがない。
「お姉様はわたくしと。ね?」
七菜香が割って入った。
「お姉様と久しぶりに会えたから、もう少しお話をしたいのです」
ね? と、甘えたように首を横に倒す仕草は、以前から変わっていない。
できれば、七菜香と一緒にいたくない。だが、断る理由が見つからなかった。
父親と勇悟が部屋を出ていった。勇悟はよほど花梨が気になったのだろう。部屋を出るときですら、チラチラと何度もこちらに視線を向けてきた。
二人を寝かしつけて寝室に向かえば、勇悟は何やら本を読んでいた。
「寝たのか?」
花梨の気配に気づいて顔をあげたその表情は、いつもと変わらぬ仏頂面だ。
「はい、やっと寝ました」
その言葉で、勇悟の口元に微かな笑みが生まれる。
以前は、この部屋の大きなベッドに四人で寝たこともあった。しかし、夏に向かって気温がぐっと上がり始めると「暑い」と勇悟が言い出した。
特に子どもは体温が高い。
まだ冷房がなくても眠れる気温ではあるが、桃子と柚流がくっついてきて「暑い」「自分の部屋で寝ろ!」と勇悟が言ったため、幼い姉弟は子ども部屋で寝ることになった。
だが「おやすみなさい」と言って、自分たちだけで眠れる二人ではない。勇悟に挨拶をしたら花梨を部屋に連れていき、そこで添い寝をしつつ絵本を読んで、やっと眠りにつく。という流れだ。
「おまえがここに来てから、あいつらも楽しそうだ」
ぽつりと呟く勇悟も、どこか楽しそうに見える。
「勇悟さん。今日はありがとうございました」
「何がだ?」
お礼を言われる心当たりはないとでも言うかのように、彼は花梨を見つめてきた。
あまりにも真剣な眼差しで、花梨は恥ずかしくなり顔を逸らす。
「いえ、園内の家のことです。私だけでは、あのように両親を説得させることもできませんでしたから」
「問題ない。俺がおまえを望んだんだからな。それに、おまえの父親だって火宮と繋がりができるのを喜んでいただろう?」
「そうですね」
氏人でもない園内家が、日光地区当主と親戚筋になるわけだ。
近頃、園内の家具の売り上げが落ちているという話は、花梨の耳にも届いていた。なによりも、スマートホン一つあれば、新聞を読まなくても情報が入ってくる。財務状況などのIR情報は園内も開示しており、投資や顧客に情報提供するだけでなく、新しい人を取り込もうという狙いもある。
花梨だって、その数値を見たら、近頃の園内の経営状況が下降気味であるのは理解した。ただしそれが一時的なものなのか長期的になるのか、それを判断するだけの情報はまだない。
しかし、このタイミングで園内家の長女の花梨が日光地区当主に嫁ぐことで、投資家や顧客からの信頼はぐぐっと上がるだろう。
さらに勇悟は、園内に対して資金援助も提案したのだ。
つまり園内から見れば、地位と金を同時に手に入れたようなもの。園内にとってはうま味しかない。
「これでは、火宮ばかりが損しておりませんか?」
「損? 損はしていない。おまえという人間をこちら側に取り込むことができたのだからな。おまえにはそれだけの価値がある」
まるで愛の告白をするような熱い言葉に、胸がきゅっと苦しくなった。
「そう言っていただけるのはありがたいのですが。本当にそれだけの価値が私にあるのか、よくわかりません」
それは、今まで花梨が家族に虐げられたのも理由だろう。特に、妹の七菜香は、何かあるたびに花梨を呼び出し、罵声を浴びさせ、どうでもいい命令を突きつけてきた。あの日の「アイスを買ってこい」は、むしろかわいい命令なのだ。
「少なくともおまえの妹よりは、おまえのほうが価値はあるな」
まるで花梨の心を読んだかのようなその言葉だが、それはきっと園内家から戻るときのやりとりが原因かもしれない。
勇悟が父親と家具工場の見学へ向かい、花梨は久しぶりに七菜香と二人になった。
使用人がやってきて新しいお茶を淹れようとするが、七菜香はそれを断る。
さらに、ああだこうだと、一方的に花梨を罵り始める。
――ちゃっかりご当主様と結婚して。今からでもいいから、ご当主様をわたくしに譲りなさいよ。
――私の一存ではお答えできません。
その言葉が、さらに七菜香を刺激した。ありとあらゆる罵詈雑言を並べ立て、挙げ句、花梨に向かって手を振り上げた。
いつもであれば、できるだけ衝撃を抑えようと身を硬くするが、そのときはなぜか七菜香と向かい合う気持ちがあった。
ひるむことなく睨みつける。
それが、より七菜香の癪に障ったのだろう。振り上げた手を勢いよく花梨の顔に向かって振り下ろそうとしたところを、父親が止めた。
父親にすれば、この縁談が失敗に終わるのは避けたいはずだ。だからといって、花梨の代わりに七菜香をとも考えてはいないらしい。おそらく花梨を手元に置いておきたいに違いない。
園内の事業を継いでくれる相手を探し、その相手と花梨を結婚させたいと、そう思っているはず。
騒ぎを聞きつけた母親もやってきて、騒ぐ七菜香を宥めながら部屋から出ていった。
残された花梨は、父親に感情を押し殺した声で礼を言った。それから勇悟と向き合い「工場はどうでしたか?」と何事もなかったかのように声をかけた。
花梨の一言でその場がなんとか和み、父親は今後、七菜香を花梨に近づけないようにすると、口約束をしてくれた。
期待のできない約束ではあるが、この一言は花梨の縁談を失敗させたくないという気持ちが見え隠れした。それを知れただけでも、ここに来た甲斐があったというもの。
「園内の家は、昔からあんな感じなのか?」
「どういう意味でしょう? 私が園内の家でどんな扱いを受けていたかは、以前、お話をしたとおりなのですが」
「ああ、その件ではない。ただ、なんか雰囲気がな……。最近、園内の家具の質も落ちているのではという話を聞いたことはないか?」
残念ながらそういった話は聞こえてこない。スマートホンから入手できる情報もすべてではないのだ。
「そんなことを言うのは、引退間際のじじいたちばかりだが」
その言い方から、相手にいい印象を抱いていないというのがよくわかる。むしろ、勇悟にもそういった相手がいると知れたことのほうが、新鮮だ。
「あいつらが言うには、最近の園内の品はイマイチらしい。そういったじじいらは、桐生に流れていくようだな」
桐生は、最近になって売り上げを伸ばしている商家だ。園内は老舗だが、桐生は新参者。頑固な年寄りは新参者を嫌うと思っていたのだが。
「桐生は商売上手のようだな。うるさいじじいらを味方に引き込んだ。だが、今日、園内の工場を見せてもらって、なんとなくだが変な感じがした」
「変な感じ、ですか?」
「ああ。言葉で説明するのは難しいが……。もしかしたらそれが、今の園内をおかしくしているのかもしれない」
そこまで言って勇悟は、何かを考え込むかのようにして口を閉ざした。
氏人でもなんでもない花梨にとって、影の世界はよくわからない世界でもある。
だが、当主の妻となれば、そうも言ってられない。
「影の世界とこちらの世界――光の世界ですが、どちらも同じように人間が住んでおります」
花梨の講師役を買って出たのは佐伯だった。
「ただ、影の世界は人の感情が具現化しやすいのです。それが妖魔の素となります。我々の世界と影の世界は、各地区にある井戸で繋がっておりますが、私たち氏人はその井戸を使って二つの世界を行き来するわけではございません。井戸を通じてやってくるのは、むしろ妖魔くらいのものです」
「影の世界。行けるんですか?」
「はい。当主同士の交流はありますから。年に一度、互いに行き来しております。日光地区と対になるのは日影地区。勇悟様ももちろん、日影地区の当主様と交流を持たれております」
「どのようにして?」
先ほど、佐伯は井戸を使わないと言ったばかりだ。
二つの世界を繋ぐ唯一のもの。それが井戸。それを使わないとなればどうやって行き来するのか。
そもそも、人間があの井戸に入る姿を想像しただけでもおかしいのだが。
「氏人には力がございますから、その力を使って術を発動させます。その一つに転移の術というものがありまして、その転移の術で二つの世界を行き来するのです。この術は、氏人の中でも能力に長けた者しか使えません」
花梨にとっては、初めて聞く内容だった。そもそも氏人でもない花梨が知っていることなど、必要最小限のものばかり。
住んでいる場所が日光地区。たまに、妖魔と呼ばれる化け物が現れる。
それくらいだろう。
本当に当主の妻としてやっていけるのだろうかと、そんな不安が込み上げてくる。
「当主様が、氏人以外から妻を迎えたという話は、過去にもありますか?」
花梨の質問に佐伯は首を横に振った。
「私が知るかぎり、ございません」
その答えに不安しかない。
――星光地区へ行ってくる。
勇悟はそう言って、家を出ていった。そんなふうに軽く言葉にした彼だが、星光地区まで行くには、車で半日かかる。大きく三つの地区に分かれており、それぞれの地区がそれなりの広さを有している。
その中でも日光地区が一番広いものの、面積の約八割は森林であるため、移動に時間がかかるのだ。
だから、同じ日光地区内であっても、端から端まで行こうとすれば、車で一日かかる距離なのだ。たいてい、他地区への移動には鉄道を使う。それであっても、日帰りは難しいだろう。
勇悟のいない夜。ここぞとばかりに桃子と柚流が寝室へとやってきた。
「勇悟さんがいなくて寂しい?」
花梨が尋ねると「ぜんぜん」と答える桃子だが、その瞳はどこか不安げに揺れている。
夏の夜であっても、子どもの体温はどこか心地よい。
「パパがいなくなったのも、夏だった」
ぎゅっと花梨にしがみついたまま、桃子は眠ってしまった。
桃子が勇悟に生意気な態度を取るのは、付き合い方を模索しているからだろう。どこまで許容してくれる人なのか。
そして花梨には、ここから逃げ出さないようにと、怯えながら甘えてくる。
柚流はそんな駆け引きができないから、ただ純粋に花梨を慕ってくれているはず。そうであると願いたい。
そんな二人の子どもたちと距離が近づいたのは、素直に嬉しい。だけど、その間には薄い膜があって、その膜が花梨と子どもたちを隔てているようにも思えるのだ。
別に母親でなくたってかまわない。なによりも桃子とは一回りしか年が離れていない。母というよりは、姉という感覚に近いのかもしれない。
ぽんぽんとやさしく桃子の背をなでてやると、苦しそうに眉間にしわを寄せながら眠っていた彼女の表情が、やわらいだ。
学校が夏休みに入ってしまえば、桃子だって学校に行く必要はない。だたプール開放日があり、その日は行っても行かなくてもいい。そんな感じらしい。
夏の日差しは肌を刺すかのよう。だから、日課としていた柚流との散歩は、朝食の前と日差しのやわらぐ夕方の二階。それ以外は、涼しい室内で本を読んだり絵を描いたりおもちゃで遊んだりしている。その側で、桃子が夏休みの課題をやる。
「勇悟さんが帰ってきたら、どこかにお出かけできないか聞いてみましょうか? せっかくの夏休みですから」
夕方の散歩の時間、しっとりと汗ばむ手は柚流と桃子とそれぞれに塞がれている。
花梨は日焼けしないようにと、つばの大きな帽子をかぶり、肌の露出も極力控えていた。
結婚式を秋に控えているため「日焼けなんてもってのほか」「シミになったらどうするの!」と、マリが目をつり上げながら言っていたからだ。
「桃子さんはどこか行きたい場所がありますか?」
そう問うてはみたものの、みんなでどこかにお出かけしたいというのは、花梨の願望なのかもしれない。
幼いころの憧れを、ここで満たそうとしている。
桃子は即答できないのか、「う~ん」と考え込み始めた。
お出かけはどこにしようかと考えるのも楽しい時間の一つ。だから花梨は、あえてどこどこに行こうとは口にしなかった。
庭の花は、ベコニアやサルビアへと変わっていた。庭師が丹誠こめて世話をしている、火宮家自慢の庭園である。
「あぃね~」
柚流の発語にも、少しずつ成長がみられるようになった。まだ、意味のある単語は口にしないものの、それでも発語の種類が増えている。
「熱いですね。お風呂からあがったら、アイスを食べましょう」
アイスという言葉を聞いただけで、子どもたちは大興奮だ。
風がひゅぅっと頬をなでた。
「風が気持ちいいですね」
花梨の言葉に、桃子がきつく手を握り返す。
「桃子さん?」
「お母様。侵入者です」
「侵入者?」
「誰かが火宮家の屋敷に入り込み、結界を張りました。わたしたちは今、結界内に閉じ込められてしまったようです」
「結界? つまり、誰かが妖魔討伐を?」
勇悟らと初めて出会ったとき、彼は妖魔討伐のために結界を張り、他の人間たちを巻き込まないようにと配慮していた。
「う~ん。それとも少し違うようです。妖魔の気配が感じられません」
妖魔がいないのに、結界を張った。それはどういう状況なのだろう。
「つまりですね。誰かが意図的に、わたしたちを閉じ込めたということになります」
まるで花梨が心で呟いた疑問を読み取ったかのような、桃子の答え。
「閉じ込めた? どうして?」
「どうして……あっ。もしかして、狙いはユズ……?」
「柚流さん? どうして?」
「どうしてって。ユズは、先代当主の子です。だから、ユウゴの次の当主はユズになります」
それは勇悟も言っていた。柚流がいるから、勇悟は自身の子を望まないと。
「だから、ユズがいなくなったら?」
世襲の場合、当主直系の近い者から選ばれる。勇悟には子どもがいないし、他の兄弟もいない。となれば、前の世代に遡り、そこから木の枝のように伸びる血縁者の中から選ばれる。
「ですが、火宮の親戚筋の方ですよね?」
「だからこそ、当主の座が欲しいって思う人もいるのでは? ユズよりも自分のほうがふさわしいって。ユズ、喋らないし、おむつも外れてないし。それを悪く言う人もいるの、わたしは知ってるから」
桃子がぱっと手を離す。
「お母様。ユズをお願いします」
「桃子さん?」
「やっぱり、これは妖魔を倒すための結界ではなく、わたしたちが妖魔に襲われるための結界でした」
すかさず桃子が印を組む。
バシュッと、かまいたちが発生する。
力も何ももたない花梨にはこの場でできることなど何もない。勇悟がいないときにかぎって、どうしてこのようなことに。
いや、勇悟がいないから狙われたのだ。柚流を力強く抱きしめ、桃子の言葉を反芻していた。
次の当主の座を狙うため、柚流を亡き者にする。幼い子に対して、酷い仕打ちだ。
そんな怒りだけが込み上げてくるものの、そこではたと気づく。
(だけど……勇悟さんに子どもができたら……?)
柚流よりも、その子のほうが継承権は優位になる。となれば、次期当主の座を狙うのであれば、柚流よりも勇悟を直接狙ったほうがいい。
勇悟亡きあと柚流が当主の座についたとしても、まだ二歳。となれば、後ろ盾となる大人が必要となるだろう。そこのポジションを狙ったほうが、後々優位になるのではないだろうか。
(てことは、狙いは柚流さんではない……?)
「あっ、あっ、あ~~~」
腕の中に閉じ込めていた柚流が暴れている。
「柚流さん、どうしました?」
腕をゆるめて解放した途端「あぁあああああ」と、柚流が叫ぶ。
ひゅっと強い風が吹き、見せかけの花が一斉に同じ方向に倒れた。
「ちっ。うるさいガキんちょね。いっちょ前に力を使いやがって」
聞き慣れた声。いつも花梨を虐げていた声。
「な、七菜香……?」
「はっ。あんたに名前すら呼ばれたくないんだけど」
振り返った先には、目をつり上げた七菜香の姿があった。学校帰りのような制服姿。
「どうして?」
「どうして? そんなの、あんたに死んでもらうために決まってるじゃない。あんたが死ねば、当主の妻はわたくしのものよ!」
違う。そうじゃない。
花梨の疑問は、どうして七菜香が結界と呼ばれるこちら側にいるのかということ。
さらに彼女の手には、刀のような片刃の刃物が握られている。それには怪しい光がもわもわっとまとわりついていた。
怪しげな刀を、七菜香は勢いよく振り上げた。となれば、次はそれを花梨に向かって振り下ろしてくる。
近くにいた柚流を抱き寄せたまま、その切っ先から逃げるように、身体をごろんと回転させた。服に泥がつこうが、気にしない。今は、柚流たちを守るだけ。
「お母様」
桃子の声ですぐに立ち上がる。
「こっちに来てください」
「は、はい」
桃子に案内されるようにして、広い園内を走り出す。
「待ちなさいよ! 逃げるなんて許さない。許さない。許さないんだから!」
この状況で、待てと言われて待てるほど、花梨もお人好しではない。まして相手は、長年、自分を虐げていた妹。
いっときは、血のつながりのある妹だからという感情もあり、目を瞑っていたときもあった。
だけど、それも限界だ。
花梨だけであるのであればまだよかった。花梨が一人でいるときに、襲ってくれるならまだしも。
だけど七菜香は、桃子と柚流を巻き込んだ。年端もいかぬような幼い子を、危険な場所へと誘い込んだのだ。
「お母様。ここです。ここで、こうやって、手を上から下におろしてください」
まるで手刀を切るような仕草を、桃子がやってのけた。だから、花梨が真似をする。
びゅっと激しい風が、花梨を遅う。
「花梨! 桃子も柚流も。無事か?」
いきなり目の前に勇悟が現れた。少し呼吸を乱し、スーツも着崩れしている。慌ててこちらやってきたのが、見てわかる。
「は、はい。いったい、何が……?」
「あとは、俺たちにまかせろ。佐伯、準備はいいな?」
「御意」
花梨たちの周囲を、使用人らが取り囲む。
「お母様。ユウゴはもちろんですが、火宮の使用人も氏人なのです。だから、もう安心です」
桃子がにっと笑ったのを見て、目頭が痛くなった。
七菜香は勇悟らの手によって捕らえられた。
すぐに園内の家へ連絡をし、両親を呼びつけたのも勇悟だ。その間、七菜香は先ほどまでと人が変わったかのように、身体を丸めて小さくなっていた。親指の爪をかみ、ぶつぶつと何かを呟いている姿は気味が悪い。
「おそらくですが、どうやら妖魔に魅入られてしまったようですね」
勇悟の言葉に両親も目を見開いた。
彼の隣に座る花梨も、ひゅっと息を呑む。そうであれば、七菜香の今までの異常な行動の説明がつく。結界の内側に入ってきてしまったのも、花梨の力によるものではないのだ。
「妖魔に……ですか?」
父親は唇を震わせつつ問い返す。園内は、ただの商売人の家系だ。妖魔という言葉を知っているだけの家柄。その妖魔がどのような悪さをするかだなんて、具体的なことは知らない。
妖魔は化け物。それを氏人らが討伐している。知っているのはそれくらい。
「妖魔は人の心の闇を糧とします。本来は日影地区にいる奴らですが、最近は、日影地区からちょくちょくこちらに来ているのが確認されておりまして、こちらとしても困っているのです。日影地区にはしつこくお願いはしているのですがね」
そこで勇悟は大げさに首を横に振った。
「運悪く、お嬢さんはその妖魔に気に入られてしまったようです」
「娘は……七菜香は、助かるのですか?」
先ほどからぶつぶつとわけのわからぬ言葉を呟く七菜香の姿が、親から見ても不気味に見えるのだろう。
「えぇ。これから取り憑いている妖魔を引き離す予定ですが。本来のお嬢様の様子がわからないため、お呼び立てした次第です」
つまり普段とおりの言動かどうか、を見極めてもらいたいらしい。
「わ、わかりました。お願いします」
妖魔と言われてしまえば、両親は出だしができない。火宮の力を借りるしかないと腹をくくったのだろう。
「では、佐伯。はじめよう」
勇悟の声のトーンが、一際低くなる。
その言葉に佐伯は頷き、七菜香の背後に立つ。そして勇悟は前面に。二人で七菜香を挟む形となった。
勇悟が印を結び、何やら呪文を口にする。それは聞き慣れぬ発音のもので、花梨も初めて耳にするもの。
ゆらりと、七菜香の身体が大きく動く。
「七菜香さん、わかりますか?」
佐伯がやさしく問いかける。その間も、勇悟は呪文を唱え続ける。佐伯がここにいる意味を理解した。
「あなたの心の闇はなんですか?」
こうやって直接的に問いただすものだとは思ってもいなかった。
「……憎いの。憎いに決まっているでしょ? お母様からお父様を奪ったあの女が!」
「あの女? それは、園内花梨。あなたのお姉様のことですか?」
「姉? わたくしに姉なんかいないわ。お母様の子は、わたくしだけですもの」
「では、誰が憎いと?」
「だからさっきから言っているでしょう? あの女よ。お母様からお父様を奪って、勝手に子どもを産んだあの女。子どもを産んだあとも、お父様の側から離れなかったあの女。あの女が憎いって、お母様はずっと言ってらしたわ。だから、憎いの。お母様を悩ませるあの女が。だからね、代わりにあの女の娘をいたぶってあげたの。いい気味だわ」
花梨はゴクリと喉を鳴らす。ドクドクと先ほどから心臓が痛いくらいに力強く音をあげている。
七菜香が言う、あの女。その相手はすなわち――
「でもね。あの女は子を産んだら、流行り病であっけなく死んでしまった。わざと薬をあげなかったってお父様がお母様に言っているのを聞いたわ。ざまぁみろ。わたくちたちからお父様を奪ったあの女、死んでしまったの。だったら、その子どもも死んだほうがいいのではなくて? そう思っていたのだけど、人間って意外としぶといのね。食べなくても数日は生きるし、寒いところに放り投げても、なんだかんだで生きているの。ねぇ、地下室は快適だった?」
「勇悟様!」
佐伯が名を呼んだタイミングで、勇悟は見えぬ何かに手刀を振り落とす。すると事切れたように七菜香が崩れ落ちた。
勇悟も佐伯も、彼女を支えるようなことはしない。床にへたりと横たわったままの七菜香は、まるで人形のようだ。
「七菜香!」
母親が席を立ち、七菜香の側へと駆け寄った。佐伯は、側にいた使用人に客室へ案内するように指示を出す。
顔を真っ青にしているのは、父親だった。
「お嬢様はご無事です」
「あ、あ……ありがとう、ございます……」
「しばらくすれば目を覚ますでしょう。あとは帰ってもらってけっこうです」
勇悟の言葉の節々から、怒りが滲み出ていた。
だけど花梨の胸はドクドクと音を立てており、呼吸もほんの少し苦しい。
「お嬢様の言葉。どこまで信憑性があるか疑わしいところではありますが」
にたりと笑った勇悟だが、その言葉は脅しである。
「あの言葉が真実かどうかは、後ほど火宮のほうで確認いたします。そう、気を落とさずに」
「はっ、はい……ところで、花梨との縁談のほうは……」
この期に及んで、父親が心配しているのは火宮家と園内家の結びつきなのだ。七菜香のせいで破談になることを恐れている。
そうなれば、結婚支度金として受け取ったお金も返さねばならないし、事業に対する火宮からの援助もなくなる。
「ご安心ください。今の話を聞いたら、余計に花梨を園内に返したくはなくなりましたから」
勇悟が花梨の背に手をまわし、抱き寄せた。
「あ、ありがとうございます」
父親は深く頭を下げる。
「心配ごとはそれだけですか? でしたらどうかお嬢様の元へと向かってください。私も、妻が大事なので。佐伯、案内を」
ゆっくりと腰を折った佐伯は、父親を連れて部屋を出ていった。
客間に勇悟と残された花梨だが、まだ気持ちは落ち着かない。
「術を解くためとはいえ、つらい思いをさせた」
「い、いえ……勇悟さんのせいではありません……」
この場に立ち合いたいと希望したのは花梨自身だ。七菜香は妹で、そして勇悟は夫。姉として妻として、事実を知りたかった。
「おまえは、いつもそうやって一人で耐えていたのか?」
その声が今までになくやさしく聞こえ、心をあたたかく包み込んでいく。
「え?」
顔をあげると、彼の視線に捕らわれた。
「出会った形はどうであれ、俺たちは今、夫婦だ。妻が悲しんだら、それを慰めたいと思うのは夫として当然だろう? おまえがあの子たちにしているように、今度は俺がおまえを慰めたい」
不意に勇悟がきつく抱きしめてきた。彼のたくましい身体に花梨はすっぽりと覆われる。
あたたかな熱に包まれ、花梨は声をあげて泣いた。年甲斐もなく、涙が涸れてしまうのではないかと思えるくらいに泣き続けた。
しばらくして目を覚ました七菜香は、どうして火宮の屋敷にいるのかわからない様子であった。
両親に連れられ園内の家へと帰っていった。
火宮の屋敷に、いつもの時間が戻ってきた。
「ユウゴ、予定より早かったんじゃないの?」
夕食の時間で、人参を避けながら桃子が言う。
「そうだな。おまえが寂しくて泣いているかと思ってな。俺がいなくて怖かったんじゃないのか?」
「そ、そんなことないでしょ! お母様もいるもん」
「そうか。俺のいない間も、柚流と二人で寝ていたんだな?」
「うっ……」
「あいあい、あいあい」
勇悟と桃子のやりとりは、柚流の明るい声で遮られる。
「柚流さんも、勇悟さんが戻ってこられて嬉しいのですね?」
「あいあい」
「桃子もな、柚流のように素直だったら可愛げがあるのにな」
「ごちそうさま」
いたたまれなくなったのか、桃子は席を立つ。
「おい、桃子」
「な、何よ!」
桃子が振り返れば、勇悟は子どもをあやすようにやさしく笑みを浮かべる。
「人参、残っているぞ?」
~*~*~
「まぁ、たいへんだったわね。でも、さすがモモちゃんね。カリンちゃんの力の使い方をわかっているだなんて」
マリが花梨の髪をとかしながら、のほほんと言うから、そこからたいへんさなど微塵も感じられない。やはり、マリも氏人の一人だった。
あの結界から抜け出せたのは、どうやら花梨の力によるものだったようだ。結界の境目を切り裂いた、とのこと。
これもあとから桃子から聞いた話だ。そもそも、花梨本人は、そうやって切り裂いたつもりなど一切ないのだから。
「それよりもさすがユウくんね。愛するお姫様のピンチに駆けつけるなんて、王子様だわ」
「おまえも年甲斐もなく、よくそんな恥ずかしいことを口にできるな」
「やだぁ。お姫様も王子様も、いくつになっても憧れよね。はい、できました」
山のほうに出かけることになった。桃子が海か山かで悩んだ結果、湖もある山を希望したからだ。
その話はいつの間にかマリにも伝わり「日焼けしないように」「髪もいたわりなさいと」火宮一家が出かける前にやってきた。もちろんそれは花梨の髪やら肌の手入れのため。
「帰ってきたら、またアタシのほうで、ケアしてあげるわ」
「ありがとうございます、マリさん」
「いいのよ~。だって、ユウくんの頼みだもの。じゃ、楽しんできてね」
マリは颯爽と帰っていく。
「勇悟さん……ありがとうございます。私、こういうことに疎いので」
隣に座る勇悟に向かって礼を口にした。
「いや? おまえの肌や髪が傷むと、あいつがうるさいんだ。自己防衛の一種だ」
そうぶっきらぼうに答えた勇悟だが、ほんのりと耳の下が赤くなっていた。
七菜香が妖魔に取り憑かれてから一週間が経った。夏休みも後半に突入し、桃子の宿題の終わりが見え、勇悟も当主としての仕事やら立ち上げた会社の雑務やらの一区切りつけたこの時期に、家族揃っての旅行となった。
少し標高の高いところに、火宮家の別荘があるらしい。つまり、避暑地。
「こちらに来てから、本当に勇悟さんにはご迷惑をおかけしてばかりで」
いくら妖魔に憑かれていた状態とはいえ、七菜香の告白は衝撃的だった。
また、勇悟が星光地区へと向かったのは、仕事のついでに花梨の産みの母親についてを調べるためだったらしい。
それは結界を無効化できる能力について確認するためでもある。そういった力は星光地区の氏人から生まれる力のようだ。
しかし、わざわざ星光地区まで足を運んだ勇悟だが、大した成果は得られなかった。
――おまえの母親については、謎の部分が多い。園内を問い詰めても、金に釣られたというようなことしか言わないからな。
どうやら花梨の母親は、大金と共に園内家へやってきたとのこと。そのとき父親は、当時付き合っていた七菜香の母親を捨て、金のために花梨の母親を選んだ。
しかし所詮は金に釣られて選んだ女。身ごもれば女としての価値を失ったかのように見え、興味すら失われていく。
そして七菜香の母親とよりを戻す。
そこまで、勇悟は突き止めてくれた。彼はその事実を花梨に話すのをためらっていたが、花梨が包み隠さず教えてくれとお願いした。
夫婦となった二人の間に、隠し事は作りたくない。
そしてその話を聞いた花梨だが、事実を事実と受け止めただけで、なんの感情も湧かなかった。過ぎたことを悔やんでも、過去が変わるわけでもない。
だったら、これからの未来を作っていくべきだろう。
結婚式にあの両親を呼ぶのは、躊躇いがある。それは今後、勇悟と相談すべき内容だ。
「俺と結婚したことで、これからおまえにも辛い思いをさせるかもしれない……」
「はい。覚悟はできております。ですが、あの家で十九年も耐えたのです。あれ以上、辛いことなどありません」
「ふっふふ……だから、おまえは興味深い……」
「ユウゴ~お母様~まだですか~?」
待ちきれない桃子が、バンと勢いよく扉を開けて部屋に入ってきた。
「ちょっと、ユウゴ。なに、どさくさに紛れてお母様にチューしてるわけ?」
「してない」
「してません!」
二人向かい合って笑っただけなのに、桃子の角度からはそう見えたようだ。
「ユズ。行きなさい。あの二人の仲を引き裂くの。お母様の膝の上はユズのものよ」
「あいあいあいあい~」
返事をした柚流が走ってきて、ちょこんと花梨の膝の上に座った。
「柚流。おまえもそろそろ、おむつを外そうな?」
勇悟の言葉を理解しているのか、柚流が「いやいやいや~」と首を大きく振った。
その様子を見た三人は、声を上げて笑った。
【完】