身代わり金魚姫が幸せな結婚をするまで〜婚約破棄から始まるあやかし純愛譚〜

「ごめんください」
 秋晴れの陽射しが気持ちのいい朝、名家である本堂(ほんどう)家の邸宅に、ひとりの少女がやってきた。
 しっとりとなめらかな肌に、小さな顔。長いまつ毛に縁取られた瞳はまるで陶器人形に埋め込まれた宝石のようなこの少女は、本堂家の次期当主、紅月の許嫁――千家(せんげ)灯織(ひおり)である。
 灯織は、牡丹柄の着物を着ていた。大正浪漫が浸透しつつあるこの東京で、こういった古風な格好をしている少女は珍しい。しかし、灯織は京都華族(かぞく)である。おまけに神職出身の乙女だから、流行りに疎いのは仕方がないのかもしれない。
「いらっしゃい。灯織さん」
 灯織を穏やかな笑顔で出迎えたのは、許嫁である紅月(あかつき)だった。
 本堂家はもともと、江戸幕府の諸侯を務めてきた由緒ある華族である。一方で灯織は、平安の頃から神職につく千家家のひとり娘だ。
「どうぞ、なかへ」
 紅月は、灯織の手からトランクケースを受け取ると、そのまま優雅にエスコートする。
 幼い頃より許嫁関係にあった紅月と灯織だが、面識はなかった。そのため本堂家の提案で、今日から一ヶ月間の花嫁修行――もといお試し同棲をすることになったのである。
 灯織は本堂家の人間に挨拶を済ませると、外の空気を吸いに行ってくると言って庭に出た。
 小鳥のさえずりが響く本堂家の庭は立派なもので、灯織の生家である千家家以上の豊富な草花が咲いている。
 もっとも、本堂家はこの帝国での華族第一号である。千家家も本堂家と同じ華族ではあるが、本堂家よりもずっとあとに華族の認定を受けた。つまり千家家は、本堂家よりも格下なのである。
 しかしながら今回の縁談を申し込んできたのは、本堂家のほうだった。
 家柄がなによりもものを言う時代。華族同士での婚姻は珍しいものではないが、かの有名な本堂家から縁談の話がきたといえば、ほかの華族たちも仰天したほどだ。おかげで千家家は本堂家との婚姻により、よりたしかな地位を得た。
 とはいえ、である。
 本堂家へやってきた灯織に、花の美しさや芳しさを楽しむ余裕はなかった。
 灯織は池の縁に座り込み、ため息を漏らす。
 大きな石で囲われた池のなかには、数匹の美しい金魚たちが泳いでいる。水面には、灯織の青ざめた顔が映っていた。
 ――どうしよう……。
 とうとう同棲することになってしまった。このままでは、灯織は本当に紅月と結婚しなければならなくなる。
 もしこのまま結婚したら、この先も紅月と暮らすことになる。なにも知らない、紅月と――。
「灯織さん?」
 うずくまっていた灯織の上に影が落ちた。
「あ……紅月さん」
「大丈夫?」
 心配そうに灯織の顔を覗き込んできたのは、許嫁である紅月だった。
 さらりとした黒髪が陽の光に透けて、優しく揺らめく。まるで絹糸のよう、と灯織は紅月を見上げて思う。
 紅月は美しい(めん)をしていた。おまけに誠実だ。
 帝国軍の少尉という肩書きを持ちながら、性格は柔和で気遣い上手。灯織ではとても釣り合わない立派なひと。
 逆光がおさまり、ふと紅月と目が合ってはっとする。
「い、いえ! すみません。なんでもないです」
「そう? でも、少し顔色が悪いようだ。なかで休もう」
 紅月が灯織に向き合うようにしゃがみこむ。
「だ、大丈夫ですから、本当に」
 灯織はたまらず顔を逸らした。
 紅月の優しさはありがたいが、対人に慣れていない灯織は緊張してしまう。
「だめだよ。ただでさえ、長旅を終えたばかりなのだから」
 柔らかな言いかたであるものの、その眼差しには有無を言わせない芯が垣間見える。
「さあ、こちらへ」
 灯織は大人しく従うことにした。立ち上がる灯織を、紅月がそっと支える。
 当たり前のように触れられ、灯織は反射的に手を払ってしまった。紅月はその瞬間、わずかに驚きの表情を浮かべたものの、すぐに柔和な笑みを貼り付けた。
「……ごめん。出会ったばかりで、馴れ馴しかったかな」
「い、いえ、すみません……」
 神職を生業とする千家家のひとり娘である灯織と、かねてより許嫁であった本堂紅月。ふたりの距離はまだ遠い。
 紅月は灯織に対して砕けた調子だが、灯織のほうは結納のときからこの調子だ。
 政略結婚だから仕方がないとはいえ、このままでは夫婦として成り立たない。そう危惧したのだろう。紅月のほうから今回、千家家へ同棲――もとい、花嫁修業の提案をしてきた。
 その意図を、灯織は理解している。しかしそれでも、灯織にはどうしても紅月を受け入れられない理由があった。
「あの、紅月さん」
 灯織はそろそろと紅月を見上げる。
「ん?」
 紅月はまっすぐ灯織を見下ろした。
「外ではあまり、いっしょにいないほうが……」
「どうして?」
「私たちはまだ結婚したわけではないですし」
 許嫁同士とはいえ、結婚前の男女が同じ家に住むというのは、世間的にはあまりよろしくない。
 しかし、それでもこの状況を受け入れたのは、千家家の生活が苦しかったからだ。千家家は華族ではあるものの資金援助を受ける前提でこの婚姻を受けている。つまり、本堂家の機嫌を損ねるわけにはいかないのだ。無事婚儀が済むまでは、千家家は本堂家の機嫌を取り続けるしかないのである。
 実際、灯織が家を出る際、くれぐれも紅月に嫌われないようにと言いつけられてきた。
「そうだけど、敷地内なら問題ないんじゃないか?」
「それは、そうですけど……」
 言い返されると思わなかった灯織は、それ以上なにも言えなくなる。そばから離れようとしない紅月に、灯織は困惑する。
 灯織には、ずっと気になっていたことがもうひとつある。
 この婚姻で、本堂家になんの得があるのか、である。
 千家家としてはなんとしても成就させたい婚姻だが、本堂家ほどにもなれば嫁候補はいくらでもいるはずだ。灯織との関係が危ういと感じたのならば、わざわざ花嫁修業などと称して同棲せずとも、べつの女性と婚姻すればいいだけの話である。
 本堂家はなぜ、千家家に縁談を持ちかけたのだろう。
 考えていると、不意に紅月が灯織の手を握った。はっとして顔を上げると、紅月と目が合う。
「大丈夫。そんなに怯えなくても、灯織さんがいやがることは俺はしないよ」
 紅月が灯織の手を握ったのは一瞬だった。灯織は、紅月の体温の余韻が残った手の甲を、ぎゅっと握り込む。
「俺たちは許嫁とはいえ、まだ会ったばかりだ。少しづつ夫婦になろう」
 灯織は紅月から目を逸らす。紅月はかまわず続ける。
「これから一ヶ月よろしく。灯織さん」
 どこまでも優しい声に、灯織の胸の奥が疼く。
 ――だめだ。流されちゃ、だめ。
 灯織は目を伏せた。
「……私、先に戻ります」
 灯織は、紅月から逃げるように屋敷に戻る。紅月は追っては来なかった。
 足早に庭を歩きながら、灯織の脳裏には千家家を出たときのことが蘇っていた――。

 ***

 灯織はトランクケースを握る手に力を込めて、目の前の障子に向かって声をかけた。
「あの、お母さん、失礼します」
 少しして障子が開く。
「……あら、灯織さん」
 顔を出したのは、灯織の母親であるちづるだ。
 ちづるは背後をちらりと見て、周囲にだれもいないことを確認する。
 おそらく、夫の玄真(げんしん)がいないことを確認したのだ。ちづるはあからさまに娘の灯織をやっかむが、玄真はそういう態度をよしとしない。だからといって、灯織をかばうわけではないが。
「行くの?」
「はい」
「そう。元気でね」
「……はい」
 灯織はぺこりと一度頭を下げて、一歩下がった。そのまま出ていくつもりだった。
 しかし、
「待ちなさい、灯織さん」
 振り返ると、ちづるが立ち上がって灯織の前に立つ。
「念のため言っておきますけど、あなたに帰る家はありませんからね」
 心臓を見えないなにかに握り潰されたように、灯織は息ができなくなった。
「でも、花嫁修行は一ヶ月って……」
「そうよ。でも花嫁修行というのは、嫁に行く前提でするものでしょう? あなたは一ヶ月後、本堂家の花嫁になるのだから、うちに戻ることない。そのつもりでこちらも養子を探してますから」
「養子ですか」
「もともと本堂家にはうちを任せる養子にいいかたがいないか、探してもらうよう頼んでいたんですよ」
 灯織は驚く。それは初耳だった。
 ちづるは、あらなに驚いてるの、とでも言うような顔で灯織を見た。
「当たり前でしょう? だって、千家灯織は千家家のひとり娘なのよ。あなたが嫁いだら、うちの後継ぎがいなくなっちゃうじゃない」
「それは、そうですが……」
 まるで蛇のような威圧的なちづるの眼差しの前で、灯織は立ちすくむ。
 でも、結婚をやめたいと伝えるなら、今しかないかもしれない。勇気を振り絞り、灯織は言った。
「あの、お母さん。私、やっぱり紅月さんとの結婚は……」
 できません、と言おうとした瞬間だった。
 パン、と高い音がした。一瞬なんの音か分からず、灯織は呆然とする。しばらくして頬がじわりと熱を持ち、痺れ始めた。
 打たれたのだ。そろそろと顔を上げると、ちづるは鬼のような形相で灯織を見下ろしていた。
「なに馬鹿なこと言ってるの? あなた、じぶんに拒否権があるとでも思ってるわけ? ひと殺しのあなたなんかに」
 ひと殺し。
 ちづるの言葉は、灯織の胸に重く深く落ちた。
「で、ですが……もし、私の正体が露見してしまったら、千家家が……」
 震える声で言い返すが、ちづるはそれを鼻で笑い飛ばした。
「露見しなけりゃいいだけの話でしょう。失敗は許さない。もし万が一、うちになにか損害が被るようなことがあったら、あなただけでなく、あなたの家族もすべてあやかし庁へ報告しますから。そのつもりでね」
「…………」
 なによその顔は、と、ちづるが灯織を睨む。
「あなたは私の娘を殺したのよ? その罪を忘れたとは言わせませんからね」
 胸に茨の棘が刺さったような、ちくちくとした痛みが走る。呼吸が苦しくなっていく。
「あなたの名前は千家灯織。いいえ、今この屋敷の敷居を出た瞬間から本堂灯織なの。何度も言わせないでちょうだい」
 それじゃあ元気でね。そう言い捨てると、ちづるは灯織の横をすり抜けていく。
 ちづるのそれはまるで女中に向けられたような台詞であったが、灯織は返事をするしかなかった。
「……はい、お母さん」
 灯織はちづるのうしろ姿をその場で立ち尽くしたまま、ただ見送った。
 灯織には、千家家の人間以外にぜったいに知られてはいけない秘密がある。知られたら、それこそこの婚姻が破談になるだけでは済まされない。
 灯織は、千家家のひとり娘でありながらも、女中同然の扱いを受けていた。

 ***

 灯織は家を出る前に、千家家が管理する千本通(せんぼんどおり)神社の庭園に向かった。
 庭には秋特有の少し乾燥した花が咲いている。花々は少々色褪せていて物悲しいが、その代わりに葉が鮮やかな装いになっていた。時折吹く風がひんやりとして心地良い。
 灯織は、幼い頃から暇さえあればここに来ていた。
 庭園に植えられた椿の木へそっと寄ると、葉を二枚、優しくちぎる。葉を手に持ったまま、境内の池へと向かった。
 神社には池がある。
 灯織は池のふちに座ると、そっと椿の葉を一枚供えた。池のなかにいた魚たちは灯織に気付くと一斉に四方に散らばるように逃げていく。
「……おはよう、灯織。あのね、私、とうとう紅月さんのところへ行くことになったよ」
 灯織は、池に話しかけるように呟く。
 池の空気はひんやりとしていた。
「……いつもこんなものしかあげられなくて、ごめんね」
 言いながら、灯織は小脇に供えた椿の葉を見た。
 本当はもっとちゃんとした花束を供えてやりたいが、灯織には、自由になるお金はない。それどころか、庭の花を詰んだだけでも大目玉を食らうだろう。
 そのため、供えたことすら気付かれないよう、椿の葉を添えてやることしかできないのである。
 ――そう。
 この池には、千家家の本物の令嬢である灯織が眠っているのだった。

 ***

 灯織――本来の名を一華(いちか)という――は、現在十五歳になるが、千家家のひとり娘でありながら、ひどく冷遇されている。
 理由は、灯織が灯織ではなく身代わりの娘であるからだ。
 灯織の身代わりとなった一華はもともと、千家家が管理する神社の眷属であった。
 人魚族から派生した金魚のあやかしだ。神域に住んでいることもあり、強い妖力を持つ一華たち金魚の一族は、自在に姿を変えることができた。
 一方で、神職を生業とする千家家のひとり娘であった灯織。
 灯織はその特別な生まれから、幼い頃からあやかしを認知することができたため、一華とは姉妹のように育ち、お互いにかけがえのない存在だった。

 ――しかしあるとき、その悲劇は起きた。

 隠れ鬼をしていた灯織が、池に落下したのである。灯織はそのまま池のなかで溺れ、帰らぬひととなった。
 池へ落ちた灯織に一華が気付き、助けたときにはもう、灯織は息をしていなかった。
 灯織は、泳ぐことができなかったのだ。いや、たとえ泳げたとしても、水を吸った着物を着た状態では、どちらにせよ手遅れとなったかもしれないが。
 その後ひとり娘を失った千家家は、眷属である一華を人間殺しだとして重い罰を与えることにした。
 一華から、名前を取り上げたのだ。
 あやかしにとって、名前は魂である。名前を奪われることは、そのあやかしの価値を奪うことと同義であった。
 一方で灯織は、由緒ある華族のひとり娘であり、古来よりあやかしとひととの関係を繋いできた神職の家系に生まれた大切な子ども。既に決められた許嫁もいる。
 千家家にとって、灯織が死ぬことは許されなかった。
 そして一族は、一華が名前を奪われたことがほかのあやかしたちへ露見することを恐れた。もしあやかしたちへ知られたら、じぶんたちまで蔑まれる。一族の名が汚れる。一歩間違えば、一族もろとも幽世へ強制送還となる可能性すらある。
 一華の祖父は決断した。
 一族から、一華を勘当する。さらに灯織を殺した贖罪として、一華を千家家へ差し出すと――。
 もともと一華は一族のなかでも妖力が弱く、強い妖力を持つ兄と比較され、常に冷遇されてきた。一族にとっては、一華の兄さえいればなんの問題もなかったのだ。
 結果一華は名前を奪われ、一族から勘当された。
 そして、ひと知れず千家灯織の身代わりとなったのである。
 その日の夜のことだった。
 夕食を終えた紅月が、灯織に風呂を勧めた。
「お風呂……ですか」
 灯織は目を泳がせる。
「あの……私、お風呂は最後で大丈夫です」
 灯織はびくびくしながらも意志を告げる。すると、紅月は怪訝そうに首を傾げながらも、そう、とそれ以上強く言うことはなかった。
 紅月はそのまま居間を出ていく。先に入るのだろう。
 紅月の姿がなくなると、灯織は肺に溜め込んでいた空気をどっと吐き出した。
 灯織がいちばん憂いていたのは、これだった。
 灯織は、体質上水に触れることができない。もちろん、手洗いや洗濯など少量の水に触れる程度なら問題ない。だが、全身が濡れるほどの水に触れたら最後、灯織は本来の姿に戻ってしまう。
 もし、なにも知らない紅月に本来の姿を見られてしまったら。
 婚約はもちろん破棄されるだろうが、なにより人間を騙したとしてあやかし庁に通報されるだろう。しかも華族の次期当主を騙したとなれば、重罪だ。
 確実に幽世に強制送還されてしまう。灯織はもともと現世のしかも神域出身。幽世に居場所などない。
 いや、居場所どころの話ではないかもしれない。
 罰はおそらく、灯織だけでなく千家家の家族にも及ぶ。そしてあやかし庁の捜査が進めば、確実に一華のほうの家族にも手が伸びるだろう。
 もし、そうなれば。
 一華が灯織と入れ替わったことが露見する。
 そんなことになれば、灯織は間違いなく殺されるだろう。
「……はぁ」
 灯織はため息をつく。
 この心労が、これから毎日続く。そう考えるだけで、頭がおかしくなりそうだった。
 千家家にいるときは、扱いは女中以下だったけれど、あやかしということは周知の事実だったため、こういった心労はなかったのだ。
「……なんて」
 ――こんなときまで私は、じぶんの心配ばっかり……。
 いやになる。そもそもこうなった原因はじぶんにあるのに。

 その後、お風呂を済ませた灯織は実家から持ってきた藤柄の浴衣に着替えると、脱衣所を出た。
 灯織はそのまま寝室には戻らず、庭に出る。
 秋の夜空には、虫の声が涼やかに響いている。それ以外にはなんの音もしない。
 ――不思議。
 来たときにも思ったが、本堂邸にはあやかしがいないのだ。気配すらない。
 灯織は池のそばに寄ると、じっと水面を見た。池のなかには、数匹の美しい金魚がいた。長い鰭を優雅になびかせ、悠々と泳いでいる。この池の金魚たちは、灯織を見ても逃げようとしない。
 むしろ鰭をなびかせて、灯織のそばに集まってくる。
「……気持ちいい?」
 灯織はそっと金魚たちに話しかけた。
「いいなぁ。私も混ざりたい」
 彼らはあやかしではない。だから、灯織の声は届かない。
 でも、だから話しかけられた。あやかしとしての名前を奪われた灯織は、今やあやかしたちのなかでは蔑むべきもの、虐げるべきものとして認識されている。本来の姿に戻ったが最後、灯織はおそらく、現世にいるすべてのあやかしから攻撃を受けることになるだろう。
 灯織はあの事件以来、家族に捨てられ、千家家には虐げられ、ずっと孤独に生きてきた。
 ――ここに、灯織がいてくれたらな……。
 心のなかで思う。だけど、それを口にすることはぜったいに許されない。
 灯織は、もう会うことのできない親友への想いを、言葉ではなく涙に変えて零した。
 しばらく池をぼんやりと眺めていると、灯織の横をひんやりとした静かな風が抜けていく。水面が揺らめき、そこに写っていた月が消えた。金魚たちが離れていく。
 え、と思っていると、背後で砂利を踏み締める音がした。
「こんなところにいたのか」
 灯織が振り返ると、池の向こう側に浴衣姿の紅月が立っていた。
「紅月さん」
 灯織は慌てて濡れた頬を拭いながら、立ち上がる。紅月は灯織に優しく微笑むと、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「灯織さんは、金魚が好きなのか?」
 紅月が訊ねる。
「え?」
 灯織は首を傾げた。
「昼間もここにいたから」
 あぁ、と思う。
「……いえ。ただ……水を見ていると落ち着くので」
 不思議なものだ。水のなかにいた頃は、水面の波紋や金魚の泳ぐ姿に心が動いたことなんて一度たりともなかった。それどころか、ひとの姿になることのほうがわくわくしたくらいなのに。
「寒くない?」
 となりにやってきた紅月は、自身が羽織っていた羽織りを灯織の肩へかけた。
「え……あ、ありがとうございます……」
 夜中に外に出るなんてはしたない、と怒られるかと思ったが、紅月に不機嫌な様子は見られない。
 紅月は灯織のとなりに立つと、空を見上げた。
「金魚もいいが、今日は月がきれいだな」
 言われて灯織は空を見上げた。
 漆黒の闇のなかに、黄金色に輝く三日月があった。
「本当だ……」
 小さく感嘆する灯織を見て、紅月が微笑む。
「さて、そろそろ戻ろう。せっかく風呂に入ったのに、身体が冷えてしまうから」
「…………」
 紅月に促されるが、灯織はその場から動くことができない。
 このあとのことを想像すると、どうしても。
 正体が露見することも怖いが、それと同じくらい、知り合ったばかりの紅月に求められることにも抵抗があった。
 ――もし、今。同じ寝室に行くのが怖い、と本音を言ったら、紅月はどんな反応をするのだろう。
 紅月が振り向いた。
「……灯織さん?」
「……あ、その……すみません」
 なんと言えばいいのか分からず、灯織はただ謝り、羽織りを強く握った。既に数歩歩き出していた紅月が、ゆっくりと戻ってくる。
「……君はすぐに謝るんだな」
 そばへ戻ってきた紅月が呟く。
 おずおずと顔を上げると、紅月と目が合った。
 月明かりに照らされた紅月の顔は、微笑んでいるのにどこか寂しげに見える。
「灯織さん。俺たちはまだ夫婦じゃない。だから、寝室はべつだよ」
「……え、そ、そう……なのですか?」
 反射的に反応してから、ハッとする。紅月が苦笑した。
「……やっぱり、心配していたのはそこか」
 灯織は俯く。
「……す、すみません」
「べつに君が謝ることじゃない。俺たちはまだ正式な夫婦になったわけではないし、もとより俺もそんなつもりはなかったから」
 ほっとした。
「そうだ。この際だから取り決めでも作ろうか」
「取り決めですか?」
「この一ヶ月間、俺たちは夫婦のまねごとをするわけだけど、まだ夫婦じゃないから。お互い仲良く過ごせるよう、ある程度の線を引くんだ」
「それは……」
 きょとんと目を瞬かせる灯織に、紅月が補足する。
「たとえば、朝と夜はなるべくいっしょに食事をする、とか」
 なるほど、とほっとした顔をした灯織に、紅月が微笑む。
 そうしてふたりは池の縁に並んでしゃがみこみ、これからの一ヶ月間の取り決めを交わした。
 一、寝室、風呂はべつべつに。
 一、朝と夜はいっしょに過ごす。
 一、紅月の仕事場には来ないこと。
「あとは、そうだな……一日一回口付けを交わす、とか」
 ある程度決めごとが定まったあと、紅月が不意に爆弾を投下した。
 それまで和やかだった空気が、一瞬にして霧散する。言葉を失った灯織を見て、紅月がぷっと吹き出した。少し残念そうに。
「やっぱりそれはだめか」
「あ……いや、あのだめではないんですけど……その、ちょっと早いような」
 わたわたし始める灯織に、紅月はさらに迫る。
「じゃあ、一日一度、抱き合うというのならいい?」
「だ……抱き合う……!?」
 灯織の顔は、月明かりのなかでもそうと分かるほど、真っ赤になっていた。
「もちろん、それ以上のことはしない。だけど少しくらい、夫婦らしいこともしたい。……だめか?」
 まっすぐな眼差しで言われてしまい、灯織は困惑した。しかし、紅月はかなり灯織を気遣ってくれている。これ以上わがままを言うのは申し訳ない。
「……わ、分かりました」
 びくびくしながら頷くと、承知されると思わなかったのか、紅月が驚いた顔を灯織に向ける。
「えっ、いいの?」
「だ、抱き合う、だけ……なら」
 どちらにせよ灯織は経験がないが、口付けよりは気が楽な気がする。たぶん。
 紅月は少しの間黙り込んだあと、ふっと俯いた。
 どうしたのだろう、と灯織が様子をうかがっていると、紅月が呆然としていることに気付いた。
「紅月さん……?」
「……いや、ごめん。まさかいいって言われると思わなくて」
 もしかして、冗談のつもりだったのだろうか。真面目に反応してしまったことに恥ずかしさがじわじわと込み上げてくる。
「す、すみません、私その……い、今のはやっぱりなしで」
 言いかける灯織の手を、紅月が掴んだ。息を呑む。
「だめだよ。なしはなし」
「で、でも……」
 紅月の眼差しに、もう逃げられない、と灯織は悟る。
「……はい」
 紅月は灯織が頷くと、その手を掴んだまま立ち上がる。合わせるように、灯織も立った。
 手を引かれ、距離が縮まる。紅月が優しく灯織の背中に手を回すと、灯織の頬が紅月の胸板にぴたりとくっついた。合わさった肌からは、どきどきというどちらのものか分からない心臓の音が聴こえてくるようだった。

 ***

「すごい……ひとが、こんなに……!?」
 東京の繁華街を歩きながら、灯織は思わず感嘆の声を漏らした。
 見渡す限り、ひと、ひと、ひと。
 繁華街は、灯織が見たこともないほどのひとたちでごった返していた。
 矢絣柄の着物に袴姿のいわゆる女学生や、袴にハットを合わせた書生、さらにはワンピース姿で大胆に足を出した女性や、着物の下にフリルブラウスやスカートを合わせた職業婦人風の女性もいる。
「東京のかたはみんなお洒落なんですね……!」
 灯織は、地元では見たことのない格好をしたひとびとに目を輝かせた。
 本堂家へ花嫁修行に来て一週間。灯織は、紅月とともに街へ来ていた。
 灯織ははじめ、じぶんのために紅月のせっかくの休日を使わせるなどとんでもないことだと断ろうとした。だが紅月に、本堂家に嫁ぐのなら一度くらいは街を見ておくべきだともっともなことを言われてしまい、仕方なく行くことにしたのだ。
 紅月の次期花嫁として本堂邸に住む以上、灯織は紅月の顔に泥を塗るわけにはいかない。
 出てみればそこは、たしかに紅月の言うとおり、灯織の知らない世界が広がっていた。
「灯織さんは、東京の街を歩くのは初めて?」
 駅を出て足を止めた灯織に、紅月が問いかける。
「はい! 昨日は本堂邸に辿り着くことばかり気にして、まわりなんてぜんぜん見えてなかったから……。それにしても、すごい……。みなさん、すごく可愛いお着物を着てるんですね……!」
 忙しなく行き交うひとびとを見ては目を輝かせる灯織に、紅月が笑う。
「まるで花のあいだを飛び回る無邪気な蜜蜂のようだな」
 紅月が漏らした呟きに、灯織ははっと我に返った。
「す、すみません。珍しくてつい……」
 子どもっぽい反応をしてしまい、しゅんとなる。
 灯織はそもそもあやかしで、灯織として生きることになってからも正体が露見することを恐れて閉鎖的に生きてきた。そのためこういった場には不慣れなのである。
 街は、華やかな格好をした都会女子たちであふれている。灯織が住んでいた京都ではまだまだ着物が主流で、こんな華やかな格好をした女子はひとりとしていなかった。
「いや、いい。君がこんなに喜んでくれるとは思わなかったから、嬉しい誤算だ」
 そう言って微笑みかけてくる紅月は本当に嬉しそうだった。不意打ちのような笑顔を食らって、灯織は反射的に俯く。
 近頃、どうも紅月と目を合わせるのが恥ずかしい。毎日の抱擁で次第に慣れるだろうと思ったのに、日に日に緊張が増していくようだった。灯織はなにも言わずに唇を引き結んだ。
「大正浪漫って言うんだよ」
「たいしょうろまん……?」
 灯織は顔を上げ、首を傾げる。
「そう。和と洋を掛け合わせた新たな文化のことを言うらしい」
「へぇ……!」
「この街は特に、先進的なひとびとが集まっているからね。これからきっと、さらに目まぐるしく変わっていくんだろうな」
 紅月が呟く。見上げた紅月の横顔は、どこか寂しげに映った。
 灯織は紅月から、街並みへ視線を移す。
 華やかな格好をしたひとびとが、忙しなく行き交っている。
 紅月の言っていることは、なんとなく分かる。変化は真新しさを連れてきてくれる。けれど同時に、一抹の寂しさも抱かせると、灯織は思う。
 新しいものは新鮮味があるし、便利になったりしていいけれど。ときおり、じぶんだけがこの世界から取り残されてしまったような疎外感を感じることもある。
「……紅月さんは、従来の文化を大切になさるかたなんですね」
「……どうかな。ただ、変わっていくことに臆病なだけかもね」
 灯織が首を傾げると、紅月は曖昧に微笑んだ。
「さてと。それじゃあ行こうか」
 紅月はさりげなく灯織の手を取ると、人波を縫うようにして歩き始めた。
 灯織は突然握られた手に驚きながらも、振りほどくことはしなかった。
 本堂邸へ来たあの日のように、紅月のことがいやだとはもう思えなかった。むしろ――。
 歩きながら、不意に紅月がふふっと肩を揺らして笑った。
「え、紅月さん、なんで笑ったんですか?」
「ううん、ごめん。なんでもないよ」
 灯織が訊ねると、紅月は謝りながらも手の甲で口元を隠し、まだ笑っている。
「な、なんでもないのに笑ったんですか……?」
 灯織は青ざめる。
 もしかして、顔になにかついていたのだろうか?
 灯織は顔を手のひらで触る。なにもなさそうだ。それに、もし顔になにかついていたのなら、家を出る前に言ってくれるだろう。
「それならなんで……」
 訊ねようとしたとき、ドン、と灯織の身体が傾いた。近くにいたひとに押し退けられたようだ。その拍子に、紅月と繋いでいた手が離れる。
「灯織さん!」
 紅月が灯織を呼ぶ。それと同時に、「紅月さん!」とどこからか女性の声がした。
「まぁまぁ! 奇遇ですわ! 紅月さんじゃありませんか!」
 灯織は傾いた身体をなんとか持ち直し、顔を上げる。すると、見知らぬ女性が紅月に話しかけていた。
 ――わっ……きれいなひと……。
「あ……、雪野さん」
「まぁ〜相変わらずハンサムだこと! なぁに? 今日はお買い物?」
「えぇ、まぁ」
「奇遇ね! 私もなの!」
「そうでしたか」
 紅月は笑顔で女性に応対している。女性はとなりにいる灯織には目もくれず、頬を紅潮させて嬉しそうに紅月を見上げていた。どうやら知り合いのようだ。
 紅月に雪野さん、と呼ばれたその女性は、濃茶色ストライプの袷の下に同じく濃茶色のロングワンピースを合わせた、たいしょうろまん、の格好をしていた。裾や袖から見えるフリルが可愛らしい。
 灯織はじぶんを見た。
 うぐいす色の雪輪柄袷に、無地の深緑色の帯。帯留めはない。
 京都にいた頃はまわりも似たようなものだったし、なにも思わなかったけれど、こうしてみると灯織は、同年代の女性に比べてずいぶん地味な格好だ。
 途端に紅月のとなりを歩くじぶんが場違いに思えてくる。
 垢抜けている紅月のとなりには、やはり雪野のような華やかな女性のほうがお似合いだ。
 灯織はふたりの邪魔をしないよう、そっと背後から紅月に囁く。
「……あの、紅月さん。私、先に帰りますね」
「えっ……灯織さん?」
 紅月が振り向くより先に、灯織は足早に歩き出す。
「待って、灯織さん」
 立ち去ろうとする灯織を、紅月が手を掴んで引き止めた。
「あら?」
 紅月が灯織を引き止めると、雪野がひょこっと紅月の背後から顔を出す。
「まぁ。あなたまさか知り合いだった? ごめんなさい私、また紅月さんが女学生に言い寄られているのかと思って」
 失礼なことしちゃったわね、と雪野が早口で言う。なるほど、だから雪野は紅月と灯織のあいだに割って入るようにしてきたのだ。
「それであなた、どちらさま?」
 雪野が灯織を見る。
「あ、いえ……その、私は」
 灯織は困って紅月を見上げた。紅月は灯織に大丈夫だよ、と言うように微笑むと、灯織の肩を優しく引き寄せた。
「雪野さん、彼女は俺の婚約者の灯織さんですよ」
「えっ!? な、なんですって!?」
 雪野がぎゅん、と音がしそうなほど勢いよく灯織を見る。
「まあまあまあ! あなた、紅月さんの婚約者さまなの!? まあーっ!!」
 雪野が灯織に駆け寄ってくる。すかさず手を握られた。
「それならそうと早く言ってくださいな! なによ私、勘違いしてしまったじゃない! 婚約者だなんて素敵ね! まああなた、よく見たらとても美人じゃない!」
 雪野は紅月と灯織の顔を交互に見つめ、ひとりで話している。雪野の声は、まるで小鳥のさえずりのように華やかでよく通る。
 紅月が灯織を見る。
「灯織さん、彼女は本堂雪野さん」
 紅月に紹介された雪野はようやく口を閉じ、ぺこりとお行儀よく頭を下げた。
「よろしくどうぞ」
「よ、よろしくお願いします……って、え、本堂?」
 紅月と同じ苗字だ。驚く灯織に、紅月が付け足す。
「俺と雪野さんは従姉妹同士なんだよ」
「紅月さんとは、こーんなに小さな頃からいっしょに遊んでましたのよ!」
 雪野はこーんな、と言いながら、手のひらを地面に平行にして、当時の身長を表現する。ずいぶんお茶目なひとだ。紅月にはあまり似ていない。
「そ、そうだったんですね」
「そうだよ。だから誤解しないで。俺と雪野さんは兄妹のようなものだから」
 紅月がにこやかに灯織に言う。どきりとした。灯織は黙ったまま、こくこくと頷く。
「ねえ、灯織さんっ!」
 ふたりの世界に入りかけたとき、雪野が灯織の手を掴んだ。
「さっきはごめんなさいね! 私ったら、紅月さんの奥さまを追い払おうとしていたなんて最低な女だった! 謝るわ、ごめんなさい!」
 灯織は慌てて、とんでもない、と首を振る。
 大切に思ってはいても、雪野はどうやら紅月に特別な感情を抱いているというわけではなさそうだ。
 ――よかった……。
 ちょっとほっとしているじぶんがいることに気付き、あれ、と思う。
「ねえ灯織さん! あ、灯織さんって呼んでもいいかしら? 私のことは雪野さんと呼んでくださいな!」
「は、はい」
「ねえ、呼んでみて!」
「ゆ、雪野さん……?」
「そう! 私、雪野! ねえ私たち、お友だちになりましょ!?」
「え……」
「これからよろしくね、灯織さん!」
「は、はい……」
 灯織の胸のなかに、あたたかい陽が差したようだった。こんなふうにあたたかな気持ちになるのはいつぶりだろう。
 考えなくても明らかだった。
 灯織がいた、あの頃の景色が、匂いが、胸の高鳴りがよみがえる。
 涙が出そうになり、灯織はぐっと奥歯を噛んだ。
「ふたりはこれからどちらにお出かけ?」
「ああ……うん、ちょっと呉服を見に行こうかと」
 灯織の代わりに紅月が答える。
「あら、それはいいわね! 灯織さんせっかく可愛いのに、なんだかちょっと野暮ったいもの!」
 気持ちいいくらいにばっさりと言われた。灯織は苦笑する。
「さてと、灯織さん。お話はまたあとで。お茶でもしながらゆっくりとね! あ、もちろんふたりでよ? 紅月さんがいると噂話ができないから」
「え、あ……」
 そうなのか。
 ちらっと紅月を見ると、紅月は困ったように笑って肩を竦めている。
「あらやだ。もちろんこれは悪口ではなくってよ? ただ、女には女にしか分からない苦労とかいろいろあるものなの。ねえ、灯織さん?」
 雪野は茶目っ気たっぷりに耳打ちしてくる。ここは頷くべきなのだろうか。戸惑っていると、紅月が灯織の手を掴んだ。
「雪野さん。灯織さんと仲良くしてくれるのはありがたいですが、俺の悪口を言うのだけはやめてくださいよ」
「まあ」
 雪野は口元を押さえて、きらきらと目を輝かせた。
「まあまあ、紅月さんったら! 本当に灯織さんのことが好きなのね! やだ、羨ましい!」
 雪野は、灯織と紅月をそっちのけで盛り上がっている。
 紅月の様子をうかがうと、紅月も困った顔をしてこちらを見ていた。
「さて、そろそろ本当に行かなきゃだわ。じゃあまたね、ごきげんよう!」
「ご、ごきげんよう……」
 ひととおり話して満足したのか、雪野は笑顔で挨拶をすると、あっという間に人混みのなかに消えていった。
「……ごめんね、いきなり驚いたでしょう?」
 呆然と立っていると、紅月が振り向いた。
「い、いえ! 雪野さん、素敵なかたでしたね」
「雪野さんはね……黙っていればとても映えるひとなんだけど、喋るとあの調子だから、なかなか縁談が決まらないんだ」
「そうなんですか……」
 さっぱりとして明るい上に美人だし、灯織なんかよりよほど男性に好かれそうな気がするが。けれどたしかに紅月の言うとおり、おしゃべりな性格が幸いしてか、外見に見惚れる暇はなかったかもしれない。だが、それもまた、彼女の魅力のひとつのように灯織は思った。
「彼女、灯織さんのことをとても気に入ったみたいだ」
 雪野が歩いていった方向を見つめながら、紅月が言った。
「そのうち、お茶会の誘いでも来るんじゃないかな」
「お、お茶会……」
 緊張し始める灯織を見て、紅月は笑いながら再び歩き出すのだった。

 ***

 雪野と別れたあと、紅月が向かったのは高級感漂う呉服店だった。
 躊躇いなくなかへと入る紅月のうしろを、灯織は気遅れ気味におずおずと着いていく。
「いらっしゃいませ」
 客の来店に気付いた女将が声をかけてくる。目鼻立ちのはっきりとしたきれいなご婦人だ。歳の頃は四十手前くらいだろうか。背筋がしゃんと伸びていて、いかにも女将といった雰囲気を醸し出している。
「これは、本堂さま! いらっしゃいませ」
 女将は来店した紅月を見て、あらためて挨拶をしながら丁寧に頭を下げた。
「こんにちは、礼子(れいこ)さん」
 紅月は笑顔で挨拶をする。どうやら彼女もまた、紅月の知り合いらしい。
 紅月に次いで、灯織もぺこりと頭を下げる。
「あら。今日は可愛らしい子を連れているのね」
 礼子が灯織に気付き、微笑みかける。礼子の微笑みは、同性でもどきっとしてしまうほど美しい。自然と背筋が伸びた。
「灯織さん、こちらはこの呉服店の女将、礼子さんです」
「こんにちは、奥さま。女将の礼子と言います。本堂家のみなさまには、創業当時からご贔屓にしてもらってるんですよ」
 礼子がにっこりと微笑む。
「よ、よろしくお願いします」
「礼子さん、こちらは俺の婚約者の灯織さんです。今日は彼女の紹介ついでに、彼女に似合う呉服をいくつか仕立ててほしいんですが」
「まあ! それはおめでとうございます。もちろん、とびきりのお着物をひと揃えさせていただきますよ。さ、奥さまこちらへ」
 礼子は嬉しそうに言って、灯織の手を掴んだ。
「えっ!? いや、あの……!?」
 拒む間もなく、灯織は礼子にあちらこちらを採寸され、さまざまな柄の反物を合わせられていく。
 灯織は目を回しながらも、必死に応えた。
 しばらくしてようやく開放された灯織は、よろよろと紅月のもとへ戻った。
「お疲れさま」
「は、はい……」
 ぐったりとした灯織を見て、紅月が小さく笑う。
「どの反物も、とてもよく似合っていたよ。仕立て上がるのが楽しみだ」
 紅月に褒められながらも、灯織の心の内では嬉しさよりも申し訳なさのほうが勝っていた。
「……そうでしょうか」
 女将から『奥さま』と言われて思い出した。紅月の優しさにすっかり絆されていたが、灯織は灯織であって灯織ではないのだ。
 女将に『奥さま』と呼ばれるたび、冷水を浴びせられている気分になった。
 これからの季節にぴったりなうさぎ柄、大人っぽい椿柄に爽やかな流水、それからほたる暈しの小紋は淡く優しい雰囲気。
 どの反物もとても美しくて、いつまででも眺めていられる。けれどやっぱり、こんな高級な織物は灯織には不釣り合いだ。
「もしかして、興味なかった?」
 紅月が訊ねる。
「お洒落着を着てた子たちを嬉しそうに見ていたから、着物が好きなのかと思って急遽喫茶店から呉服屋に変更したんだけど」
 灯織は慌てて首を横に振った。
「もちろん嬉しいです! ……でも、どれも素敵過ぎて私には分不相応なんじゃないかって……」
 灯織も歳頃だ。お洒落にはそれなりに興味がある。
 今日ここへ来るまでに見かけた女性が着ていた着物だけでも、素敵だと思うものがたくさんあった。
 たとえば菊に楓。それから、雪輪の着物に幾何学模様の帯。袴はやはり薔薇柄が可愛いと思ったし、それから袴の代わりになるという洋服――スカートという履きものや、フリルたっぷりのブラウスも気になる。
 だが、灯織はこれまで、一度もじぶん用の着物など持ったことはない。今持っているものはすべて、本物の灯織のお下がりだった。
 そのため、実際にじぶんが着るとなるとどうしても気遅れしてしまうのだ。
 それに……。
「……灯織さん」
 俯いた灯織を見てなにやらじっと考え込んでいた紅月が、そっと呼びかけた。
「気になっていたんだけど……君は、どうしてそんなにじぶんに自信がないんだ? 昔の君はもっと……」
 紅月は言いかけて、口を閉じた。
 紅月の疑問はもっともだ。
 灯織はこの帝国に極小数しか存在しない華族のひとり娘であり、なかでも千家家は神職を生業にしている。表向きは立派な家柄だ。
 けれどそれは、灯織が本物の灯織だったら、の話である。
 本来ならここにいるのはじぶんではなく、灯織だった。紅月からの愛は、灯織が受け取るべきもの。じぶんがもらっていいものではない。そう思うと、紅月が似合うと言ってくれた反物も、向けられる笑顔も、素直に喜ぶことができないのだ。
 ――せめて……。
 せめて政略結婚らしく、紅月が灯織に冷たかったなら、ここまで罪悪感を感じずに済んだかもしれないのに。
 と、そんなふうに紅月のせいにしてしまいそうになるじぶんが、余計にいやになるのだった。
「無理にとは言わないけど……なにか話したいことがあったら、聞くから。いつでも」
 紅月が優しく言う。
 ――違うんです。
 本当に受け止めてくれそうな紅月の眼差しに、灯織は思わず口を開きかけて、けれど結局言えずに言葉を呑み込んだ。
 もし灯織が本当のことを言ったら、紅月はなんと言うだろう。
 優しい彼のことだ。きっと慰めてくれる。けれど、予定どおりに婚約とはいかないだろう。
 本堂家は千家家なんかよりもずっと格式が高い。華族の血どころか、あやかしである灯織との婚姻など、言語道断だろう。
 もし本当のことを話してこの家を追い出されたら、灯織は行き場を失ってしまう。
 灯織は、このうそを貫きとおすしかない。たとえ、この胸が引き裂かれるように痛んだとしても。

 結納の席で久しぶりに灯織と再会した紅月は、驚いた。
 記憶のなかの灯織と、ずいぶん印象が違っていたからだ。
 紅月は灯織と、過去に一度だけ会ったことがあった。許嫁の取り決めを交わすために、彼女の実家へ赴いたときだ。親同士の話し合いが長引いていて退屈になっていたとき、灯織に誘われてこっそり神社へ遊びに行ったのである。
 当時の灯織は、今とはまるで別人のように明るい子どもだった。彼女のちぐはぐな印象が、ずっと紅月のなかで引っかかっていた。
 とはいえ、あれからずいぶんときが経った。お互い大人になったのだし、変わっていてもおかしくはない。
 ――だけど……。
 紅月にはもうひとつ、気になっていることがあった。
 ――今の彼女は、灯織というより〝あの子〟のようだ。
 神社に行ったとき、灯織が仲良しなのだと言って紹介してくれたあやかしの女の子――一華だ。
 金色の髪に、赤い瞳をした少女。
 会ったのは後にも先にもあのとき一度だけだったが、紅月は彼女のことが未だに忘れられずにいた。
 色白で儚げで、太陽のような灯織と対照的に月のように控えめな女の子だった。
 今の灯織は、どこかかつての一華と重なる部分があるような気がする。
 一華は、紅月の初恋の女の子である。
 しかし、紅月の許嫁は灯織だ。華族の長男として、というよりは、本堂家の人間である限り、ひとを好きになっても報われないということは幼心に理解していた。だから、忘れなければならない。そうじぶんに言い聞かせてきた。
 けれど――。
「……紅月、おい。紅月」
 仕事中、窓の外をぼんやりと眺めながら考えごとをしていた紅月に、軍服を着た屈強な体格の男が声をかけた。
 彼は安住(やすずみ)(みのる)。稔は今年で二十四歳になる紅月よりも三つ上の同僚だ。大柄で大酒飲み。飲みに行かないか、が口癖の男だ。
「どうしたんだ、ぼけっとして。大丈夫か?」
「あ……あぁ、すまない」
 紅月は我に返り、目の前の書類に目を落とした。
 気を取り直して仕事に集中していると、部屋の扉が叩かれた。陸軍の制服を着た青年が顔を出す。部下である。
「本堂少尉。こちら、本日京都支部から新たに上がってきた報告書です。確認をお願いします」
「分かりました。ありがとう」
 紅月は部下から、茶封筒を受け取る。
「失礼いたします」
 部下は、律儀に礼をしてから部屋を出ていく。稔は部屋の扉が閉まったことを確認してから、ぽろりと零した。
「……あいつ、やっぱり軍服似合わないな。少し鍛えさせないとだめかな」
 紅月は書類に目を落としたまま苦笑する。
「彼はあやかし庁に推薦枠で入ってるから、そもそも入隊すらしてないんだよ。少しくらい大目に見てやれ」
「あぁ。そういえばそうだっけ」
 紅月は、帝国陸軍の少尉である。
 しかしそれは表向きの肩書きで、実際はあやかし庁の官吏というのが、紅月の肩書きだった。
 ここは、帝国陸軍駐屯地のなかに密かに存在するあやかし庁の東京本部だ。あやかし庁の所在は、一般には知られていない。その性質上、あやかしからの襲撃を受ける可能性があるからである。
 本部職員は先程の部下含め、紅月と稔の三人だけ。
 先程顔を出した部下が、全国各地に派遣されている調査員たちからの報告書を取りまとめ、現世に害を及ぼす可能性のあるあやかしかどうかの仕分けをする。紅月と稔はそれを最終審査、決定し、その報告書を元に紅月と稔ふたりであやかしを取り締まりに行くのだ。
 それが、あやかし庁に勤める紅月の本来の仕事であった。
 六年前、陸軍大学校へ入隊した紅月はその後実力を見出され、四年前に政府が秘密裏に設立したあやかしを取り締まる機関、あやかし庁への異動を命ぜられた。以来、紅月は帝国陸軍所属のままあやかし庁勤務をしていた。
「で、おまえはなんだ。例の花嫁と喧嘩でもしたか?」
 若干揶揄うような声音で問いかけてくる稔。紅月が睨みつけると、稔は楽しげに歯を見せて笑った。紅月はため息をつく。
「べつに、そうじゃない。そもそも俺と灯織さんは政略結婚だ。喧嘩するほどの仲ですらないよ」
「相変わらず冷めてるなぁ……そんなんで夜とか大丈夫なのかよ」
「寝室はべつだ」
「はっ?」
 稔が気の抜けた声を漏らす。
「いやいや、なんで!? おまえら新婚だろ?」
「まだ結婚したわけではないし……彼女があまりに怯えた調子だから、同棲期間中は寝室をべつにするって決めたんだよ。そのほかにも、まあいろいろな」
 稔が驚愕の表情を紅月に向ける。
「今はとにかく、彼女の機嫌を取るしかないんだよ。おまえなら分かるだろ」
「……まあ、そうだけど」
 稔がため息混じりに頷いた。
「俺もおまえも、ふつうじゃないからな。離縁だなんてことになったら大変なことだ」
「そんなことにはならない。灯織さんは少しづつだけど、徐々に俺に心を開き始めてる」
 灯織と同棲を始めて三週間。
 最初こそどうなるかと思った関係だが、街に行った辺りから、灯織の緊張は徐々に解れているようだった。
 この調子なら、同棲期間を終えたあとも、問題なく夫婦生活を送れるだろう。
「へえ。ずいぶん強気だな」
 稔がにやりと口角を上げる。
「強気もなにも、彼女をじぶんのものにしなければ、俺の身が滅ぶんだ。死ぬ気で気も引くさ」
「おまえの花嫁も可哀想にな。日々、おまえに生気を吸われているとは知らずに」
 紅月は眉をひそめる。
「だからせめて好かれようと努力してるんだろ」
 可哀想だが、灯織がどんなに拒絶したとしても、紅月は灯織を手放すわけにはいかない。
「まったく、最悪な旦那に捕まっちまったもんだな、その花嫁さん」
「それはおまえもだ。それから、彼女はまだ婚約者だから」
 稔もまた、紅月と似た事情で政略結婚をしている。稔にだけは責められるいわれはない。
「はいはい。そうだったね」
 時計が十五時を知らせる。紅月と稔はほぼ同時に席を立った。
 深緑色の帝国陸軍の軍服の上から、臙脂色の裏地がついたケープを羽織る。軍服にケープがあやかし庁の正装だ。さらに、ケープの襟には蓮の花をモチーフにしたバッジがついている。蓮はあやかし庁の紋章である。
「さて、そろそろ取り締まりに行きますか」
「今日は早く帰れるといいけど」
「早く帰れたら、飲みに行くか?」
 稔がいたずらな笑みを浮かべながら紅月を誘う。紅月は笑った。
「婚約者の機嫌を取らなきゃいけないから、やめておくよ」
「それは残念だな」
 冗談交じりに言いながらも紅月は、このところ家に帰るのが楽しみになっているじぶん自身を自覚していた。
 灯織の気をこちらに向けるために提案した一日一度の抱擁。思いのほか、紅月の気持ちのほうが灯織に傾いていた。
 ――帰りに団子でも買っていったら、灯織さんは喜んでくれるだろうか……。
 紅月は、街へ出たときに見た彼女のきらきらとした眼差しが忘れられなかった。
 できることなら、またあの顔が見たい。
 彼女はなにが好きなのだろう。
 なにに心を動かすのだろう。
 灯織のことを、もっと知りたい……。
 紅月の心は既に、灯織のほうへ傾いていた。
 だが、灯織を愛おしいと思えば思うほど紅月のなかでうしろめたさが増幅していくのだった。
 あやかし庁に入るには、いくつか条件がある。
 まず、一定以上の身分を持つ子爵であること。
 それから、あやかしを認知でき、あやかしに対抗し得る異能を持つこと。
 あやかしを相手にする仕事として、後者は特に重要な要素だった。
 現世には、異能を持つ特別な人間がいる。紅月もそのうちのひとりだった。
 本堂家は、由緒ある華族である。しかしその本質は、あやかしの力でのし上がった異端武家であった。
 平安の頃、一族の先祖があやかしと交わったのだ。
 当時の文献が残っていないため、どのような種のあやかしと交わったのかは定かではない。だが、並のあやかしではないことはたしかであった。それ以降、本堂家に生まれた子どもに強い妖力が発現し始めたからである。発現する力はさまざまであったが、その力のおかげで一族は一気に武家として成長を遂げた。
 しかしその一方で、本堂家に勤める使用人たちが次から次へと原因不明の死を遂げるようになった。
 ある時代の当主が調べた。そして原因を突き止めた。
 異能を持つ人間は、周囲の人間の生気を吸い取ってしまうことが分かったのである。異端の力を持つがゆえの代償であった。
 生気を吸うと、吸われた相手は命を削られる。結果、短命となる。しかし、相手を守るために遠ざけようとすれば、生気を吸えず今度は本人が死んでしまう。それは、強い妖力を持てば持つほど顕著に現れる傾向にあった。
 異能の性質を理解した本堂家はそれ以来、異能を持つ当主の花嫁には、長寿で神の加護を持つ乙女を娶るようになった。すると不思議と周囲の不審死は収まり、本堂家はさらに繁栄した。
 嫁いできた嫁はやはり短命には変わりなかったが、長寿家系の乙女を選ぶようになったからか、比較的長く生きた。
 紅月は、代々力を継いできた本堂家の人間のなかでも、特に強い妖力を持っている。
 そのため紅月の祖父は、全国各地の神域に住む乙女を調べ――適任の花嫁を見つけた。
 ――千家灯織。
 千家家には噂があった。かつて本堂家と同じくあやかしと交わった先祖がいるといわれていたのだ。しかも、千家家が交わったとされているのは不死身の肉体を持つ人魚であった。

 ***

 月が空の真上に来る頃、紅月は仕事を終えて本堂邸へ帰った。
 玄関へと向かいながら何気なく庭を見ると、池のところでなにかがうごめいた。
 足を止め、目を凝らす。よく見ると、池の縁にいたのは灯織だった。
「灯織さん……?」
 灯織は羽織りもかけず、袷の着物一枚で池のなかを眺めている。
 そういえば本堂邸へ来た頃、灯織はよく池の金魚を眺めていたが、最近は池を見ている姿を見かけることはほとんどなかった。しかも、今は深夜だ。
 家にいづらいのだろうか。
 ふと、稔に言われた言葉が脳裏を過ぎる。
『おまえの花嫁も可哀想にな。日々、おまえに生気を吸われているとは知らずに』
 灯織の横顔から、紅月は目を逸らした。彼女を見ると、胸が苦しくなる。
 手を強く握り込むと、団子が入った包みが音を立てた。
 じぶんはなにをやっているのだろう。こんなもので誤魔化して、彼女を檻に閉じ込めて。
 それまで自覚のなかった感情が、ゆっくりとじぶんの外側にはみだしてゆく。
 紅月は灯織に声をかけることなく、そっとその場をあとにした。
 夫婦のお試し期間が終了する前日の夜、灯織は紅月から話があると切り出された。
 これからの話をされることは分かっていたため、驚きはない。お試し期間が終わるということは、取り決めも今日までということ。つまり、明日からふたりは同じ寝室で過ごすことになるという話だろう。
 けれど、不思議といやではなかった。灯織はもう紅月に心を寄せているのだ。
 しかし、紅月が灯織に言ったのは予想もしない言葉だった。
「婚約は、破棄にしよう」
「――え?」
 灯織は困惑気味に紅月を見つめる。
「婚約は、やめよう」
 紅月はもう一度、ゆっくりと言った。
 婚約破棄。
 つまり、灯織と紅月は他人になるということだ。
「……どうしてですか」
 灯織が問うと、紅月は申し訳なさそうに目を伏せた。
「君とは合わない。きっと君も、俺じゃないべつのだれかといっしょになったほうが幸せになれる」
 灯織は言葉が見つからなかった。
「……ごめんね、灯織さん」
 灯織は俯いた。視線を落とした灯織の視界に映ったのは、紅月がくれた月柄の着物だった。

 ***

 紅月の話のあと、荷支度を終えた灯織は早々にトランクケースを持って本堂邸を出た。
 紅月からは、しばらくは家にいてもらってかまわないと言われたが、なんとなくいづらさを感じたこともあって、灯織は早々に支度を済ませた。
「今までありがとうございました」
「……うん、元気で」
 あまりにあっさりとした紅月の挨拶に、灯織は追いすがる余地もない現実を知る。
 灯織は、紅月と本堂家の使用人たちに挨拶をしてから、本堂邸を出た。とりあえず駅に向かう。
 紅月には、実家に帰ると伝えた。しかし、千家家へ帰るつもりはなかった。本堂家から暇を出されたなんて言ったら、帰ったところで居場所などない。いたぶられ、最後には殺される未来がやすやすと目に浮かぶ。とても帰る気にはなれない。
 とはいえ、灯織に行くあてなどない。
 紅月のとなりで生きていく。この一ヶ月少しづつ決めてきた覚悟は、紅月のひとことにより泡となって消えてしまった。
「これからどうしよう……」
 灯織は途方に暮れた。
 駅に着いたものの、列車に乗ることはせず、そのまま線路脇をしばらく歩いていると、川に出た。
 きらきらと光を反射する水面を見つめて思う。この川に飛び込んだらどうだろう。いつか、海に出るのだろうか。もともと淡水で生きてきたが、陸でも生活できたのだ。海水でも生きていけるだろう。灯織は、あやかしなのだから。
 そう考えたときだった。
「あら? あなた、灯織さんじゃなくって?」
 どこか聞き覚えのある声に振り向くと、そこにいたのは、
「雪野さん……?」
 紅月の従姉妹、雪野だった。
 雪野はやはり華やかな格好をしていた。
 白地に流水柄の着物、それから光沢のある白袴。流水柄は桃色で、黄色や紫色の丸菊が絢爛と咲いている。
 さらに雪野は、その上から華やかな桃色をした花柄レースの羽織りを合わせ、頭には紫色のベレー帽を乗せていた。
 女性らしさのある可愛らしい格好――まさに大正浪漫だ。
「灯織さんたら、こんなところにおひとりでなにしてるの? 紅月さんは?」
 可愛らしい着物に見惚れていると、雪野が灯織の顔を覗き込んだ。
「いえ……その」
 ――どうしよう。
 雪野はおそらく、まだ灯織と紅月の婚約が破談になったことを知らない。
 けれど、ほかのいいわけを思いつかない。
 灯織が黙り込んでいると、雪野がおもむろに灯織の手を引いた。
「わわっ!?」
 あまりに強く引かれたもので、灯織の身体が不安定に傾く。慌てて脚に力を入れて踏ん張る灯織だったが、雪野はそんなことはおかまいなしといった様子で、
「分かったわ! もしかして喧嘩ね!? 紅月さんと喧嘩したのでしょ!?」
 などと言い出した。
「えっと……」
「いいのよ! いくら養ってもらってるからと言って、女がすべてを我慢するなんて間違ってるものね。さ、いらっしゃい!」
 雪野に手を引かれ、灯織は訊ねる。
「ど、どこへ?」
「私のお家に決まってるでしょ! 家出するのよ!」
「家出……いえあの、私は」
 家出もなにも、灯織と紅月は赤の他人だ。そう灯織が否定しようとするも、雪野は勝手な解釈をしたままひとりで怒り出す。
「まったく、灯織さんを困らせるなんて紅月さんもまだまだね! さ、いらっしゃい! 今日は美味しいものを食べて、あたたかいお風呂に入って寝るのがいちばんよ」
 こうして灯織は、雪野の家に身を寄せることとなった。

 ***

 灯織が雪野の家に身を寄せて、一週間ほどが経った。
 ふたりは街のなかにある二階建ての洋館にいた。看板には、珈琲茶館と書いてある。慣れた様子で一階を過ぎ、そのまままっすぐ二階に続く階段へ向かう雪野のあとを、灯織はおどおどとしながらついていく。
 店内は、高級感ただようビロードの洋風椅子と木机がいくつか並び、カウンター近くに置かれたレコードからは、しっとりとしたクラシックが流れている。始めて来た灯織でも、ほっとする空間だ。
 入口付近にいた洋装のボーイがふたりに気付き、いらっしゃいませと優雅に微笑む。思わず姿勢を正して挨拶を返そうとした灯織の横で、雪野が言う。
「こんにちは! ふたりなんだけど、いつもの席空いてるかしら?」
「はい。ご案内致します」
 ボーイは雪野と数言会話を交わすと、こちらへどうぞ、と言って歩き出す。
 案内されたのは、窓際のふたりがけの席だった。向かい合うようにして座る。慣れた様子でメニューを取り出す雪野に、灯織はそろそろと訊ねた。
「あの……雪野さんは、よくここへ来られるのですか?」
「仕事帰りに、たまにね。それより灯織さん、なににする?」
 メニューを見せられるが、よく分からない。灯織は雪野に、お任せします、と返した。
 雪野はボーイを呼ぶと、珈琲とアイスクリンをふたつ注文する。
 ボーイがいなくなると、灯織は再び雪野に訊ねた。窓の外を眺めていた雪野が、灯織を見る。
「あの、雪野さん。せっかくのお休みだったのに、気を遣わせてしまってすみません……」
 雪野は、紅月と同じく華族のお嬢さまだ。しかしながら雪野は、礼子の呉服屋で働いている。
 雪野は今日、休日だったのだが、家で塞ぎ込みがちだった灯織を気遣い、外へ連れ出してくれたのだ。
「私の趣味に付き合わせてるのだから、気を遣ってくれてるのはあなたよ」
「……ありがとうございます」
 胸の辺りがじんわりとあたたかくなる。雪野の優しさが、冷え切った心に染み入ってくるようだった。
 灯織は最初、雪野のことが少し苦手だった。
 無邪気で明るくて、とにかく生きることを全力で楽しんでいるような雪野は、どこかかつての親友を想起させるようで、直視することが辛かった。
 そして同時に、羨ましかった。
 はっきりとした物言いや物怖じしない姿がじぶんとあまりにかけ離れていて、当たり前に愛され、なんでも持っているお嬢さまの雪野が、羨ましかった。
 でも、彼女と暮らして灯織は知った。
 雪野は、お嬢さまなんかではなかった。雪野は、性別や家柄に甘えず、怖じけず、しっかりとじぶんの意志を持ち、逆風にも立ち向かう強さを持っていた。
 ――私も、あんなふうになれたら。
 灯織はそう考えたじぶんに気付き、目を伏せる。なれるわけがないのに。
 灯織は雪野を見て、訊ねる。
「あの……雪野さんは、どうして呉服屋で働こうと思ったんですか?」
「あら。どうしたの、いきなり」
 雪野が頬杖をつきながら、灯織を見る。
「女性が……華族のお嬢さまが働くなんて珍しいから、気になって」
 雪野は喉を鳴らすようにして、そうね、と笑った。
「私ね、お着物が大好きなの。ほら、お着物っていろいろな柄があるじゃない? お花とか動物だけじゃなく、お月さまとか蛍とか! こんなふうに季節を感じられる服は、きっと世界中どこを探してもふたつとないわ」
 雪野は無邪気に、心底嬉しそうに自身の姿を見下ろしながら、そう話した。
 着物が好きだという彼女の気持ちがまっすぐに伝わってくるようで、灯織は表情を綻ばせる。
 でも、とその直後、雪野は声を沈ませた。
「最近みんな、外国のお洋服を着るようになってしまって……呉服屋はどんどん減っているの」
「そうだったんですか」
 雪野は困ったような顔をして頷く。
 じぶんがいた京都の街よりも、ずっとたくさんの呉服屋がそろっているから気付かなかった。
 雪野は窓の外を行き交うひとたちを眺めながら、静かに続ける。
「みんな、新しいものが好きなのよね。まあ、それは私もなのだけど」
 でもね、と雪野が灯織を見る。
「この国のお着物には、洋服とはまた違う良さがあると思うの! あ、もちろん洋服がつまらないってことじゃないのよ? 洋服には洋服の良さがある。だからね、私はお洋服とお着物を合わせた新しい服を作りたいと思っているの! だから働いているのよ。いつか、お店を出すために」
 そういえば、以前会ったときも雪野は、外国の洋服を合わせながらも、着物を基調にした格好をしていた。
 いつか、店を。
 想像していたよりずっと壮大な内容だったが、彼女ならきっと叶えてしまうのだろう。灯織はそんな気がした。
 いい? 灯織さん、と、雪野がおもむろに灯織の手を握る。
「女性はね、殿方の気を引くためにお洒落をするんじゃない。私たちは私たちを表現するためにお着物を選ぶのよ!」
 初めて彼女の格好を見たときは斬新だと思ったが、今はそうは思わない。彼女らしいと灯織は思う。
 着物にブーツ。ワンピースに帯。どちらも素敵だ。
「私も、そう思います」
 灯織が同意すると、雪野は瞳を輝かせた。
「本当!?」
 はいと頷き、灯織は、
「羨ましいな」
 と呟いた。
「羨ましい?」
 雪野が首を傾げる。
「私にはそんなふうに、はっきりと言い切れることってないから」
 灯織はずっと、家族やちづるに言われるまま生きてきた。虐げられ、いじめられても逃げ出す勇気はなかった。
 きっと雪野が灯織であったなら、彼らに真っ向から立ち向かったのだろう。
 俯く灯織の手を、雪野が取る。
「私と同じね!」
「えっ? 同じ?」
「ええ! こうは言っているけれど私、灯織さんのことも羨ましいと思ってるのよ!」
「えっ?」
 灯織が顔を上げると、雪野は笑って頷いた。
「こういう話をすると、殿方はいつも渋い顔をするの。もっと大人しい女性がいいとか言って、縁談はいっつも流れてしまうし。だからね、私、灯織さんが羨ましい! 旦那さま、ハンサムだし!」
「ハンサム?」
「そうよ! 旦那さまのお顔って重要でしょ?」
 雪野は内緒話をするように口元に手を添え、身を乗り出した。
「私だっていい殿方がいたら結婚したいのよ? でも、じぶんの好きも諦めたくない。自立して、好きなときに好きなことをするのも楽しいんだもの!」
 雪野は机に手をついて、つんと鼻を上に向けた。
「女性はお淑やかに殿方の言うことを聞いていればいい? そんなの私はいや。私らしく生きて、それを受け入れてくれるひとと生きたい。我慢なんてクソ喰らえですわ!」
 雪野のはっきりとした物言いに、灯織は笑う。
 いつかじぶんも、雪野のようになれるだろうか。そう考えたときだった。
「お節介かもしれないけど、灯織さんは少し我慢し過ぎじゃないかしら」
 顔を上げると、雪野は穏やかな表情で灯織を見ていた。
 聞けば雪野は、灯織と紅月が婚約破棄したことをはじめから知っていたという。灯織が家を出た際、紅月から雪野に連絡があり、雪野は慌てて仕事を中断して灯織を保護しに来たのだった。
「紅月さんは、私が実家に戻る気がないことを分かっていたってことですか?」
「あなたの性格が、以前会ったときとずいぶん変わっていたから、調べたらしいわ。それで、あなたがご両親から受けていた仕打ちを知ったって」
 実家に帰るとは考えにくい。だが、これ以上じぶんのそばに置くことはできない。だから、雪野に頼みたい。紅月は雪野にそう言って頭を下げたという。
「どうしてそこまで……」
 灯織は困惑する。婚約破棄した相手に、どうしてそこまで心配してくれるのだろう。
 すると雪野はにっこり笑って「好きだからじゃないかしら?」と言った。
「ここだけの話だけれどね、私、紅月さんはあなたを遠ざけるって分かっていたわ」
 灯織は眉を寄せる。
「紅月さんはね、大切なひとを遠ざける癖があるの。じぶんのそばにいる人間は、みんな不幸になってしまうから」
「不幸?」
「そう。紅月さんはね――」
 雪野は、本堂家が華族となった経緯を話してくれた。それから、紅月の抱える体質のことも。話を聞いた灯織は、驚いた。
「……じゃあ、紅月さんが婚約を破棄したのは」
「あなたに心から惚れていたからよ。守りたかったのね。あなたのこと」
 はっきり言われ、灯織は胸が苦しくなった。紅月は灯織がきらいになったわけではない。灯織を守るために遠ざけた。
 灯織は唇を噛み締める。
「……それならそうと言ってくれれば」
 灯織はあやかしだ。あやかしと混血であるとはいえ、人間の力の影響を受けるほどひ弱ではない。
 けれど、紅月は灯織のことを人間だと思っている。だから遠ざける決断をしたのだ。
 きっと、灯織が紅月の立場でもそうしただろう。お互いさまだったのだ。灯織も、紅月も。
 紅月の決断の裏にあったあたたかな想いに、涙が出た。
「灯織さん。あなたはとってもいい子だけど、紅月さんの前ではじぶんを出していいのよ? 家族なんだから」
 でも、と灯織は俯く。
「私はもう、他人です」
「そうね、このままではね」
 灯織は膝の上に置いた手を見つめる。
 会いに行くべきだろうか。でも……。
 黙り込む灯織を見て、雪野がこれみよがしのため息をつく。
「……あのね、灯織さん。ひとは変えられないものよ」
 灯織は顔を上げる。
「変えられるとしたらじぶんだけ。あなたが変わりたいって思えば、もうその瞬間に変われるのよ」
「……でも、私は」
「いい? 灯織さん。これからの時代、女はもっと強くたくましくならなきゃだめ。大正乙女は猪突猛進! 行動あるのみなのよ!」
 雪野はそう言って、にっと歯を見せて笑った。
「せっかく生まれてきたのだから、人生は楽しまなくちゃ!」
 ――行動あるのみ。
「……変われるでしょうか、私」
 雪野はにっこりと笑う。
「紅月さんの職場、内緒で教えてあげる」
 アイスクリンと珈琲を堪能したあと、喫茶店を出た灯織は、紅月ともう一度話すため帝国陸軍駐屯地へ向かった。
 本堂邸を出たあの日、灯織は紅月に本心を言うか迷った。迷って、やめた。怖かったのだ。じぶんのわがままを通して、紅月に拒絶されるのが。
 もし紅月に拒絶されたら、灯織は今度こそ絶望してしまう。
 でも、今は違う。
 たとえ手遅れだとしても、灯織はこれまでの感謝と、じぶんの気持ちを紅月にちゃんと伝えたい。
 皇居の東側、桔梗門に差し掛かる。駐屯地までもう少しだ。
 そのときだった。
 ――助けて!
 どこかから、声がした。
 その日、あやかし庁本部に警報音が鳴り響いた。警報音が鳴るとほぼ同時に、書類整理をしていた紅月と稔が弾かれたように立ち上がる。
「――本堂少尉、通報です!」
 部屋に駆け込んで来た部下が叫ぶ。
「場所は」
「皇居の桔梗濠で、あやかしがひとを襲っていると」
 紅月と稔は顔を見合わせる。
「桔梗濠って、すぐそこじゃないか」
 ふたりは急いで現場に向かった。
 現場につくと、大勢のひとが濠のふちに集まっていた。ふたりはひとびとを掻き分けるように前に出ると、濠を覗き込む。濠の前方にあやかしのような影が見えた。その影に、紅月は目を見張る。
「あれは……」
 濠にいるあやかしは、紅月がかつて恋した少女、人魚の一華に見えたのだ。
 呆然とする紅月の横から、民衆のひとりが叫ぶ。
「子どもだ! 人魚が子どもを襲ってるんだ!」
「少尉さま、早く助けてあげて!」
「いやしかし、助けるったってこんな深い濠じゃ……」
 稔が唸る。
「違うわ!」
 紅月は声のしたほうを見て、再び驚愕する。
「彼女は濠に落ちた子どもを助けてるだけよ! 勝手なことを言わないで!」
「雪野さん……!?」
 叫んでいたのは、雪野だった。
「雪野さん、どういうことですか!」
 紅月が雪野のほうへ近付こうとしたとき、雪野のそばにいた男性が怒鳴った。
「なんだ、おまえ! 女のくせに出しゃばってくるんじゃねえ!」
「そうだ! 女は黙ってろ! 変な格好しやがって」
 雪野は怒鳴った男性を睨みつけた。
「黙るのはあなたのほうよ! 男だからといって偉そうに! 私は彼女の親友よ! 彼女は溺れていた子どもに気付いて濠に飛び込んだの。それを、あやかしがひとを襲っていると勘違いして通報するなんて信じられない!」
「なんだと!? あやかしと親友ってことは、おまえもあやかしなんじゃないか!」
 民衆の目が一斉に雪野に向く。雪野は狼狽えた。
「わ、私は違うわ!」
「うそをつくな!」
「あやかしは幽世へ帰れ! 帝国から出ていけ!」
 とうとう男性が雪野に掴みかかった。
「おいこら、落ち着け!」
 稔が騒ぎ出す民衆を止めに入る。一方で、紅月は濠のなかへ目を凝らしていた。遠くてよく見えないが、あやかしはゆっくりとふちへ泳いでいるように見える。
「紅月さんっ!」
 民衆のなかから、雪野が叫んだ。
「紅月さん、あれは灯織さんなのよ!」
 紅月ははっとした。
「なに……!?」
 ――一華が、灯織だと!?
「駐屯地に向かってる途中で、濠に落ちた子どもがいたの! 灯織さんはそれを助けようとして飛び込んだのよ!」
 雪野が叫ぶと、外野がさらに騒ぎ出す。
「うそをつくな! このバケモノめ!」
「痛いわ! やめて!」
 騒ぎはどんどん加速する。いよいよ雪野が男数人に押し倒されそうになったとき、紅月が叫んだ。
「やめないか!」
 紅月の一声で、すべての音が一斉に鳴り止んだ。
「彼女を離せ。今やるべきことは、言い合いではなくあの子どもの救出だ!」
 紅月の低い声に、民衆は我に返ったように濠を見た。
「そうだ、なにか引き上げる道具を!」
「急げ!」
 口々に叫びながら、それぞれ動き出す。濠に落ちた子どもの救出作業は、数時間にも及んだ。

 辺りが暗く静まり返る頃、灯織はひっそりと濠から出た。
 陸に上がった灯織の姿は、いつもと違って異国風の姿をしている。
 金色の髪に、赤い瞳。かろうじてひとの姿をしているものの、この姿をだれも千家灯織だとは思わないだろう。しかし、今はこの姿でいるしかなかった。池に落ちた子どもの体温を保つために、妖力を使い果たしてしまっていたのだ。
 とりあえず人気のない場所へ移動しよう。妖力の回復はそれからだ。灯織は周囲にひとがいないことを確認しながら、おそるおそる桔梗門の前を通り過ぎる。そのときだった。
「灯織さん」
 呼び止められ、はっとして足を止める。門の影に、紅月が立っていた。
「よかった、無事で」
 紅月が灯織のもとへ駆け寄ってくる。灯織は着物の袖で顔を隠し、後退った。
 やがてそばへ来た紅月が、灯織の姿を見て息を呑んだ。その反応に、灯織は目を伏せる。
「やっぱり君は……」
 紅月に正体を知られてしまった。なんと言われるのだろう。恐れから固く目を瞑る。すると、
「一華さんだったんだね」と、紅月が言った。
 灯織は目を見張る。
「……どうして、その名を」
 驚いた灯織を見て、紅月は苦笑した。
「やっぱり覚えていなかったか」
 俺たち一度神社で会ってるんだよ、と言われ、灯織は記憶を辿る。しかし、幼い頃の記憶は灯織を失った絶望のせいか、曖昧だった。
 紅月はそれ以上は追求せず、代わりにべつの問いを投げかけた。
「どうして灯織さんのふりをしてたんだ?」
 問われた灯織はやはり黙り込む。それを見て、紅月が言った。
「君がご家族と上手くいっていなかったことは知ってる。それは、一華さんが灯織さんのふりをしていることと関係があるのか?」
 灯織は観念したようにこくりと頷き、話し出した。
「私は、千家家に代々仕える人魚一族に生まれました。同年代だった灯織さまとは仲良くしていて……ちょうど十年ほど前のことです。灯織さまといっしょに遊んでいたとき、彼女は事故で……その責任を取って、私は千家家から名前を奪われ、一族に勘当されました。それ以来、灯織さまの身代わりとして生きてきたんです」
「千家家が人魚を喰らったという噂の元はそれか」
 灯織の告白に、紅月はため息をつく。
「騙していてごめんなさい」
 頭を下げようとする灯織の手を、紅月が掴む。驚いて顔を上げると、紅月はどこか後悔の滲んだ表情で灯織を見ていた。
「君が謝る必要はない。そんなことより、ずっとひとりで秘密を抱えて……辛かっただろう」
 紅月は沈んだ声で言い、灯織を抱き寄せた。優しい抱擁に、灯織は込み上げてくるものをこらえるようにぎゅっと唇を噛み締める。
 紅月の優しさに、胸が苦しくなる。どうしてこんなにも、紅月は優しいのだろう。
 涙をこらえていると、
「君に、ずっと隠していたことがある。俺の話を聞いてくれるかな」
 と今度は紅月が切り出した。
 灯織が頷くと、紅月は静かに話し出す。
「本堂家の人間は、周囲の生気を奪う力を持っているんだ。生気というのは生きる力だ。分かるか?」
 前向きな思考だったり、寿命そのものだったり。そういうものを食べて俺の家は繁栄してきた。そう、紅月は言う。
「でも、ひとを不幸にして得た繁栄なんて偽物だ。そう思って、俺は一族を否定し続けてきた。だが……生気を吸わなければ生きていられないことも事実で」
 紅月は苦悶の表情を浮かべている。
「本堂家にとっての花嫁は贄であって、愛すべきひとではなかった」
 紅月はずっと、この葛藤を抱えていたのだろう。
「俺がお試し同棲を提案したのは、灯織さんを気遣ってのことじゃない。本当は灯織さんを贄にするか悩んでいたからなんだ」
 紅月は俯いた。
「お試し期間とはいえ、いっしょに住めばひととなりは分かる。君が本堂家の財産や肩書き目当てのようなひとなら、贄にしてもかまわないと思っていた。だけど――」
 君はそうじゃなかった。まっすぐで優しくて、いつの間にか本気で好きになっていた、と紅月は呟く。
「だから、君とは夫婦になれないと思ったんだ。君の命を奪うことはできないと」
 雪野の言うとおり、紅月は灯織を大切に思って手放したのだ。それだけで、心が救われるようだった。
 そして気付いた。紅月の優しさの裏になにがあるのか。罪悪感だ。ひとびとの命を奪ってしまう運命を背負っているからこそ、紅月は優しいひとになった。ならざるを得なかったのだ。それはなんて悲しいことなのだろう。
「……私、紅月さんを知ってほっとしたんです」
 紅月がけげんそうに灯織を見る。
「ここへ来るまで、本当は恐ろしくてたまらなかった。嫁ぐ相手が残忍なひとだったらって」
 灯織は紅月のケープの裾を握る。
 あやかしだと知られたら殺されてしまうかもしれない。そう思うと、恐ろしくてたまらなかった。でも、紅月は灯織を大切にしてくれた。
「紅月さんはじぶんを搾取する側なのだと思っているかもしれないけれど、そんなことないです。私は、紅月さんに出会って生きたいと思えました。同じように紅月さんに救われたひと、きっとたくさんいると思います」
 灯織は紅月の背中に手を回す。紅月はわずかに身を硬くしたが、すぐに灯織を抱き締め返した。
 ぬくもりが伝わる。同じように、じぶんのぬくもりも紅月に伝わってほしくて、灯織は抱き締める手に力を込めた。
 紅月の存在に救われたひともいるのだと、知ってほしかった。
「それに、そういうことなら私は花嫁に適任なんじゃないでしょうか」
 紅月は、特殊とはいえ人間だ。人間に純血のあやかしがやられることはない。つまり、紅月の体質は灯織には効かない。
 紅月は困った顔をした。
「でも、俺は一度君を……」
「私は紅月さんがいいんです。紅月さんじゃなきゃいやです」
 灯織は雪野から、真に生きるとはどういうことかを学んだ。もう退きたくない。紅月が灯織に希望をくれたように、灯織も紅月に命を与えたい。
 灯織は懇願するように押し黙る紅月を見つめる。
「……だめですか?」
 紅月は静かに首を振ると、
「……本当にいいのか? 今逃げなければ、俺は二度と君を離さないよ」
 灯織は頷く。
「それに、寝室もいっしょだよ?」
 少しいたずらな顔をして、紅月が灯織に囁いた。甘い言葉に灯織はわずかにたじろぐも、しかしすぐに紅月に向き直る。
「の、望むところです」
 紅月は小さく笑うと、灯織を軽々と抱き上げる。灯織は慌てて紅月にしがみついた。紅月は灯織を見下ろすと、優しく問いかけた。
「一華。俺の花嫁になってくれますか?」
 紅月に本当の名前を呼ばれ、泣きそうになりながらも灯織は「はい」と笑顔で頷くのだった。

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