「あれ、めっちゃ面白いよね」
 登校中、生徒たちの会話を盗み聞きしていた。
 会話をするためには種となるものが必要となる。そのためには最近の女子高生事情を知らなければならない。
 前を歩いている二人組はYouTuberの話をしていた。
 ビン&ボンという二人組のコンビで、ビンがプラモデルを作り、ボンが隣で皿回しをする動画らしい。
 それ面白いか? とも思ったが、今をときめく女子高生が面白いというのだから、きっと面白いのだろう。あとでチェックしよう。
 校門をくぐると、富田雪乃の後ろ姿が見えた。
 打ち上げられた魚のごとく心臓が跳ねる。
 とりあえず落ち着け、藤沢千星。まずは挨拶だ。ただ「おはよう」というだけ。難しいことじゃない。お前ならできる。
 一番の難関は挨拶してからの会話だ。だが今の私にはビン&ボンがいる。この二人のことは知らないが、きっと女子高生の間では有名なんだろう。
 だいたいの女子高生は同じものを見ているはずだ。女子高生は周りとの接点を作るために共有と共感を使って仲間意識を高める。そして縄張りを張り、自らの力を誇示する。と、なんかの図鑑で読んだ記憶がある。
 群れに向かうのはリスクが高いが、富田雪乃は一人で歩いている。今なら狩れる。
 私は彼女の背後に駆け寄り、渾身の挨拶をかます。
「お、お、おはよう」
 二度噛んだ。MPを半分以上消費した「おはよう」は、コミュ障全開の挨拶となった。
「藤沢さん。おはよう」
 振り向いた彼女は、笑顔で答えてくれた。出来損ないの挨拶だったが、なんとか一面をクリアした。
「今日は一段と寒いね」
 おはようを言えた余韻に浸っている間に、もう次のステージに進んだ。上手く会話を繋げなければ。
「寒いね……とても寒いね」
 下手くそ。二回も言わなくていい。しかも寒いを修飾して強調までしてしまった。冬に弱い女だと思われる。
「うん、とても寒いね」
 優しく笑ってくれた。私のコミュ障っぷりを受け入れてくれたようで、ちょっと嬉しかった。
 蒼空もそうだが、みんなから慕われる人間は許容という能力が高いのかもしれない。
「寒いとお鍋食べたくなるよね」
 富田雪乃が言った。
 なるほど。寒いというワードに関連した鍋の話題に持っていくのか。勉強になる。私のコミュ力が2上がった。
「そうだね……」
 鍋に関連するものを必死に探した。脳内を駆け回り記憶の引き出しを漁る。そして導きだした返答が……
「ビン&ボンって知ってる?」
 テンパってビン&ボンを出してしまった。これでは自分の話をしたいだけの自己中な人間に見られてしまう。
「知らない。お鍋の種類?」
 知られてないのかよビン&ボン、もっと頑張れ。
「あ、いや、なんか、流行ってるのかなって」 
「どんなやつ?」
 主語を忘れた。会話がこんがらがっていく。まず落ち着こう。上手い具合に鍋の話題に戻すんだ。
「YouTuberみたいなんだけど、さっき話してる人がいて、それでなんか面白いのかなって」
「そうなんだ。今度見てみる」
 ビン&ボンの視聴回数を伸ばした。でも私の好感度はたぶん落ちた。
「好きな鍋の具ってある?」
 強引だが、鍋の話に戻す。
「そうだな……お豆腐かな」
「美味しいよね、お豆腐……とても美味しいよね」
 だからそれやめろ。二回繰り返すな。何度同じ過ちを繰り返すんだ。この短い間で何度事故ったのだろう。会話の保険があれば入りたい。
「ふふ。美味しい、とても美味しい」
 めっちゃ恥ずい。普通に話すってこんなに難しいのか。
 蒼空とは何も考えずに話せてたのに、今は針の穴に糸を通すような感覚だ。
 的確な言葉で返したい。面白くなくてもいいから、まとまなラリーがしたい。
 心が折れかけながら教室にたどり着いた。この短い距離の間に私のHPとMPは底をつきかけていた。
「一限目体育だから頑張ろうね」
 そう言って、富田雪乃は自分の席に着いた。
 ため息まじりに私も自分の席に着く。もしかしたら、うざいと思われたかもしれない。
 そう考えると話しかけるのが怖くなる。
 当たり前のことができない不甲斐なさに、ますます自分が嫌いになっていく。

 一限目の体育はバスケだった。私は朝に起きた『富田雪乃会話事変』で負った傷で心が荒んでいたが、「やったね、同じチームだ」と、富田雪乃に笑顔で言われたことで、なんとか心を立て直すことができた。
 正直、引かれたと思っていた。でも何もなかったように振る舞ってくれた彼女に安堵した。
 これも全部ビン&ボンのせいだ。さっき調べたら、登録者数三百五人だった。正確に言えば一人増えて三百六だ。私が増やしといた。
 球技は得意ではないので、試合が始まったらなるべく邪魔にならないようにボールが来ない場所に行く。
パスがくれば近くの人に渡して、無難に十分を過ごす。これが鉄則だったが、富田雪乃は私にパスを出してくる。
 嫌がらせかと思ったが、満遍なく同じチームの人にパスを出していた。
 今まで存在を消しながら球技を行っていた私は、今日はチームの一員になっている。ここらへんの気遣いをできるのが富田雪乃なのだろう。
 試合は接戦だった。だんだんと周りが熱くなって来たので、迷惑かけないようにボールから逃げていると、たまたまゴール下でフリーになってしまった。そこにすかさず富田雪乃のパスが来る。
「千星、シュート」
 そう言われたので適当にシュートを放つと、「スパッ」と音をたててゴールに吸い込まれた。それと同時にブザーが鳴り、私たちのチームが勝った。
「ナイッシュー」と言われ、富田雪乃とハイタッチする。
「藤沢さん、ナイス」と他のチームメイトにも言われ、気持ちが高ぶるようだった。髪の毛を赤くして全国制覇を目指そうかと思った。
 私たちのチームは休憩に入り、体育館の隅で他のチームの試合を見る。
「雪乃って本当に完璧だよね。運動も勉強もできるとかマジ羨ましい」
 隣に座る同じチームの子たちの会話が耳に入ったので、そちらに意識を傾けた。
「欠点ないよね。全部百点だもん」
「それが雪乃だよ。ダメな部分があったら雪乃じゃないもん」
「確かに、それは雪乃じゃない」
 笑いながら話している三人とは裏腹に、富田雪乃はどこか哀しげに苦笑いをしていた。
 別に貶されている訳でもない。むしろ褒められて嬉しいはずだ。
 なのに贈られた花束を厭うように、言葉に背を向けているみたいだった。
 体育が終わり渡り廊下を歩いていると、後ろから「藤沢さん」と富田雪乃に声をかけられた。
「さっきはごめん」
 何かされたのか私? と疑問に思っていると、
「下の名前を呼び捨てで呼んじゃったから」
 あー、私が後世に語り継がれるであろう、伝説の決勝ゴールを決めたときだ。
 あの時は高揚感で気にしていなかったが、そういえば下の名前で呼ばれた。
「別に気にしてない」
「良かった。バスケで熱くなると、つい呼んじゃうんだよね。嫌だったどうしようって思って」
「……嫌ではない」
「じゃあさ、下の名前で呼んでもいい?」
「うん」
「私のことも、雪乃でいいよ」
「わ、分かった」
 なんか青春ぽい。下の名前で呼ぶのは、私の家族と蒼空の家族だけだ。今は学校で名前を呼ばれることもなくなった。
「雪乃」
 他の生徒が後ろからやってきて、とみ……雪乃に抱きついた。そしてそのまま教室に向かっていく。
 取り残されたような感じになったが、なんとなく一歩進んだ気がした。

 昼休み、雪乃に声をかけ一緒にご飯を食べようとしたが、他の生徒に先を越された。
 昨日と同様、近くの席で昼食をとっていたため、ぼっちめしついでに情報を収集することにした。
 ちなみに今日は昨日と違うメンツだ。友達が多いと、人付き合いが大変そうだなと思った。
「雪乃、今度勉強教えて」
「いいよ」
「じゃあ私にはお菓子作り教えて」
 もうひとりの子が言った。
「お菓子?」
「来月バレンタインがあるでしょ? 手作りで渡そうかなって。雪乃器用だからそういうのも得意そうだし」
「雪乃なんでもこなすから、お菓子作りくらい余裕でしょ。ね?」
「……うん、今度一緒に作ろう」
「ありがとう、マジ神。本当に雪乃って優しいよね」
「人の悪口とかも言わないもんね」
「雪乃は聖母だから。人のこと悪く思わないし言わないの。私たちとは違う」
「一緒にしないでよ」
 二人は冗談を言い合い、笑い合っている。本人は体育館のときと同様、何も言わず苦笑いをしていた。
 褒められすぎるとあんまり嬉しくないのだろうか? 私なら嬉しすぎてタップダンスを踊ってる。
 そのあとも何気ない会話が続き、昼休みは終わった。
 私はスマホのメモに『お菓子作りもできる』と記入し、雪乃の情報をアップデートした。

 放課後、下駄箱で靴を履き替えながら、このあとの予定を考えていた。
 今日もバスケ部を見に行こうか迷ったが、二日連続で行くの邪魔になりそうなのでやめた。
 その代わり本屋によることにした。お菓子作りの本を買い、少しでも話せるように準備をしようと思ったからだ。
「千星」
 下の名前で呼ばれたため、驚いて肩がビクッとなった。私を下の名前を呼ぶのは一人しかいない。振り返ると、思った通り雪乃だった。
「一緒に帰らない?」
「部活は?」
「今日は休み、だから家の近くのバスケットコートで自主練する」
「そうなんだ……じゃあ一緒に帰りましょう」
 語尾にコミュ障が顔を出した。緊張して敬語になる。育ち盛りのお嬢様みたいな話し方だ。いや、育ち盛りのお嬢様って何だ。心の中までコミュ障が伝染する。
「帰りましょう」
 寛容な笑顔で迎え入れてくれた。でも疑問が残る。なんで私に話しかけるのだろう。ましてや昨日も今朝もろくに話すことができていない私に対し、一緒に帰ろうと誘うのだろうか……
 はっ! もしや美人局。このあと男の人が出てきて私を連れ去り、マグロ漁船に乗せて一緒にUNOをやるのかもしれない。それで私にだけdraw4を使って嵌めようとしている。そして笑い物にする算段だ。お、恐ろしい女だ。
 靴を履き替えた彼女は「じゃあ行こう」と言って、校舎を出た。私はUNOの戦略を考えながら後ろを付いて行った。
 駅までの道中、雪乃は好きな映画の話をしてくれた。私はそれをただ聞いていた。
 たぶんだが、私のコミュ障具合を把握して会話をリードしてくれてるのだと思う。一つの物事を話し終えるたびに一旦間を置き、私が一言、二言で返すとまた喋ってくれた。
 私的にはだいぶ助かったが、もう少し会話を広げる努力をせねばならない。家に帰ったら映画も見よう。次は私も話せるようにならなければ。
 駅のホームに着く。彼女は反対ホームだからここでお別れだ。
「また明日ね」と言おうとしたとき、
「そうだ、一緒にバスケしようよ。見てるだけよりやってみる方が楽しいよ」そう言われ、小さく頷く。
 電車が来ていたので反対ホームまで走った。
 発車メロディが鳴り終わる寸前で乗車し、空いている席に腰を下ろす。
 雪乃の自宅はニ駅先らしい。結構近い。
「見てママ、すごい高く飛べる」
 車両の中央で子供が騒ぎ始めた。靴のまま座席に上がりジャンプしている。
 隣に座る母親はスマホを見ていて、一向に注意しない。
 最初は我慢していたが、だんだんムカついてきた。
 母親のスマホに味噌を塗りたい。そのまま気づかずにポケットに入れて、ズボンが味噌まみれになってしまえばいい。そのズボンを洗濯機で回してしまい、洗濯機の中が味噌汁になればいい。その味噌汁を朝食に出して、姑から「⚪︎⚪︎さん、今日の味噌汁フローラルすぎない?」と言われて怒られればいい。
 子供も子供だ。人が座る場所に土足で上がるな。その座席を作った人の気持ちを考えろ。上司には怒鳴られ、娘には「お父さんと洗濯もの一緒にしないで」と言われながら、それでも乗客に喜んでほしくて懸命に作った座席だ。電車の座席に込められた想いを感じ取れ。テストに出るぞ。
 心の中で憤怒していると、「元気がいいね」と雪乃が子供を見ながら言った。
 私は「そうだね」と返す。
 本当はそんなこと思っていないが、本音というのはそう簡単に口には出せない。
――味噌まみれになればいいのにね。
――え? その思考キモい。お前の鼻の穴にスイカぶち込みたいんだけど。
 たぶんこうなり、そして引かれる。だから本音は心の隅に押し込んだ。
 電車を降りたあと、ボールを取りに行くため雪乃の家に寄った。
 建売住宅が並ぶ一角の一番奥に雪乃の家はあった。二階建てで比較的新しいように見える。
 私は玄関前で待っていた。「寒いから、中に入って」と言われたが、親と遭遇する可能性があるため断った。他人の親は未知数で怖い。
「お待たせ」
 雪乃は家に入ってから五分経たらずで出てきた。ボールを持ち、ジャージに着替えている。

 今日は一段と寒く、公園にはほとんど人がいなかった。バスケットコートも誰も使用していなかったため、すんなりと使えた。
 普段は小学生が使っているみたいなのだが、雪乃も混ざって一緒にやるらしく、人がいてもいなくても関係ないらしい。私としては誰もいなくて助かった。
 まずはシュートを教えてもらった。ダッフルコートを着てやっていたが、だんだん暑くなってきたため、脱いで制服になった。
 雪乃は教え方が上手い。感覚的ではなく具体的に指摘してくれるため、とても分かりやすかった。しかも丁寧で優しい。後輩が頼るのも頷ける。
 最初はスリーポイントラインからシュートを放ってもまったく届かなかったが、十回に一回は届くようになった。
 体の向き、ボールの持ち方、ジャンプの仕方。それらを意識したら飛ぶようになった。
 球技は好きじゃないが、上達を実感できると意外と楽しい。自分には向いていないと思っていたものでも、やってみないと分からないものだなと思う。
 頭の中だけで判断することが多い私にとって、新たな発見だった。他人と関わることで知らない道を見つけられた。そんな感じ。
 雪乃は自主練と言いつつ、ほとんど私の指導をしてくれた。
 「やらないの?」と聞くと「教えるのも自分のためになるからと」言った。
 一時間ほど経ち、暗くなってきたので切り上げることにした。久しぶりにちゃんと動いたので疲れて歩けない。
 それを見た雪乃は「少し休憩してから帰ろうか」と言い、近くにあった自販機で暖かいお茶を私に買ってくれた。
 コートのフェンスに腰をかけながら二人でお茶を飲む。
 ここからは会話ゾーンに入るため、急に緊張してきた。
 さっきまでは沈黙をバスケで埋めれていたが、今はそこに埋めれるものは会話だけだ。頭の中で会話の種を探す。
「雪乃……ちゃんてさ」
 呼び捨てにビビった私はちゃんを付けた。
「雪乃でいいよ」
 スマートに呼び捨てにさせる。できる女だ。
「雪乃はさ、蒼空みたいだね」
 とりあえず思いついたままのことを言ってみた。誰からも慕われるようなところ。自然体な優しさ。彼女に蒼空と同じようなものを感じていた。少し前なら絶対にそうは思いたくなかったけど、今は嫉妬すら持てない。蒼空が好きになる理由も納得できるし、彼女から学ぼうとしてる自分がいるから。
「私は蒼空にはなれないよ。あんなに優しくなれない」
 十分に優しいと思う。気遣いもできるし、寛容さもある。
「千星にとって、蒼空ってどういう存在?」
 唐突な質問で驚いたが、その質問の答えに迷いはなかった。
「生きたいと思える居場所を作ってくれる人」
 私の中にある『自分』を守ってくれた人。蒼空がいなかったら、もっと自分を嫌いになっていた。世界をもっと嫌悪していた。もしかしたら、学校にも行っていなかったかもしれない。道から外れないように私を支えてくれていた。そして一番大切な、一番好きな人。
「分かる。そんな人だよね、蒼空って」
 雪乃は空に向かって言葉を零す。
「私、お姉ちゃんの影響でバスケを始めたの。勉強も運動も何でもできる人で、私の憧れだった。そういう意味では自分の居場所になっていたのかもしれない。生きる上で目標になってたから。でも、息苦しい場所でもあった。光が強すぎるとさ、影って消えちゃうんだよね」
 そう言った彼女の横顔は、孤独の中を彷徨う雪のようだった。
 地面に触れたら溶けてしまうし、かと言って手のひらで掴むこともできない。そんな儚ない白い花が、目の前に咲いているみたいだった。
「千星って好きな人いる?」
 雪乃は空に送っていた視線を私に合わせる。その目と急な問いかけにドキッとした。
「いない」
 この世界には。だからそう答えた。
「そっか……」
 今なら聞けるかも。タイミング的にはここしかない。そう思い、勇気を出して聞いてみた。
「雪乃は好きな人いるの?」
「……いるよ」
 そう言ったあと彼女は、手元のバスケットボールをいじり始めた。照れ隠しのように見えた仕草が、ほんの一瞬だけ心の奥を覗けたみたいだった。そして核心に迫るチャンスでもあった。
「その人は雪乃のことどう思ってるの?」
 雪乃は手を止めて何かを考えているようだった。心の奥底にあるものを眺めるように、じーっとボールを見つめている。
 この先は蒼空も知らない。応援するにしても根本にあるものが何なのか分からないと進めない。でも私がそこに辿り着けるとは思えなかった。まだ距離が遠すぎる。蒼空でさえ聞き出せなかったのだから。
「もしもの話だけど……」
 目を伏せながら、消え入りそうな声で雪乃が言う。
「好きな相手に告白されたけど、その人を嫌いになる可能性があるとしたら千星は付き合う?」
 好きな人を嫌いになる……私なら耐えられない。好きな人って、世界の景色を変えてくれる存在で、何でもないことも色づいて見える。
 嫌いになるっていうのは、その色彩がすべて剥落(はくらく)し、二人で渡し合った言葉も、思い出も、すべて枯れていくようなものだ。失うことも辛いけど、嫌いになることも辛い。
 質問には簡単に答えられなかった。好きな人の一番近くで笑っていたいという想いと、その人の一番遠い存在になってしまう恐怖。その二つを天秤に乗せても揺れ続けるだけだった。
「ごめんね、変なこと聞いて。もう遅いし帰ろっか」
 雪乃は立ち上がり、コートの出口に向かっていった。
 私はその背中を見ながら質問の答えを探していた。

 雪乃は駅まで送ってくれると言い、私たちは街灯に照らされた住宅街を歩いていた。
 私はさっきの質問の答えを考えていた。蒼空との思い出を彷徨い、たらればを繰り返しては感情が起伏する。希望と失意が絡み合った雪乃の問いは、天国と地獄の狭間にいるような気持ちにさせる。
 苦慮している私の顔を見て察したのか、
「さっきのは気にしないで、なんとなく聞いただけだから」
 雪乃は笑顔で言う。
 『もしも』と仮定で質問してきたが、あれは一歩踏み出せない理由の真意が混ざってると思う。何かを伝えたかったのかもしれない。何かを知ってほしかったのかもしれない。きっとそこに扉を開ける鍵がある。
 私は言葉の裏側に縫い付けられたメッセージを必死に探したが、何も分からないまま駅に着いてしまった。
「じゃあまた明日ね」
「うん……また明日」
 手を降る雪乃に見送られながら改札に向かう。
 このままでいいんだろうか。今を逃したらもう辿り着けないような気がする。そう思ったら、自然と足が雪乃の方に向かって行った。
「どうしたの?」
 怪訝な顔をする雪乃。何も考えずに目の前に来てしまった私は、雑な言葉で間を埋める。
「あの……楽しかった」
 主語の抜けた言葉。せめて「今日」くらいは付けるべきだった。
「私も。また今度一緒にやろうよ」
 「私も」「また」「今度」「一緒」このワードは嬉しかった。このまま悦に浸りたいが、今はもっと大切なことがある。
「好きな人を嫌いになることもあるかもしれない。でも、何も行動を起こさなかったら何も知らないまま、後悔だけが残る。頭の中だけで考えてたことも、実際やってみたら全然違ったってこともあるよ。質問の答えは正直分からない。何度も考えたけど、どうしていいか検討もつかなかった。でも信じたい。自分の気持ちも、相手のことも」
 蒼空が亡くなってから感じたこと、今日知れたこと、それを踏まえて思ったままの言葉を吐いた。
今、言った自分の言葉を正しいとは思わない。考えても答えは出せなかったし、勢いで言っている部分もある。けれど、信じたいという言葉に迷いはなかった。
「ありがとう」
 雪乃は顔を綻ばせた。雪解けに芽吹いた花のように。
「雪だ」
 近くにいた中学生たちが空を指している。
 見上げると、冬を染め上げようとする雪花が夜空に花弁を散らしている。
「今度、好きな人と会うの。その時に自分の気持ち伝えてみようかな? 千星の言う通り、頭の中だけで考えすぎてたのかも」
 空から降る雪を眺めながら、雪乃は言った。
「……うん」とだけ言葉を残した。
 なんて返していいか分からなかったのもあるが、蒼空との約束を果たせたことで浮き立ち、言葉を詰まらせた。
 誰かの気持ちを変える。そのきっかけになれることが、こんなにも嬉しいことだなんて知らなかった。
 生まれて初めてかもしれない経験に戸惑いつつ、空の上にいる大切な人に『叶えられたかも』と心の中で呟いた。

 翌朝、玄関の扉を開けると白い世界が視界を染めた。
 真っ白な雪に足跡を付けると、新しい世界に足を踏み入れた高揚感があった。降り注ぐ日差しに導かれながら青く澄んだ空を見上げる。
 太陽の視線を浴びても、今日は厭わしく思わない。自分の中で何かが芽吹いているように感じた。
 学校に着き教室に入ると、雪乃の周りには数名のクラスメイトが集まり、いつものように談笑している。
 ふと目が合うと、笑顔で私に手を振ってくれた。
 それに答えるように小さく手を振りかえす。
 あのあと連絡先を交換した。
 普通の女子高生からしたら、普通の出来事なんだろうが、私にとってはオリンピックやワールドカップに匹敵するイベントだ。私のスマホもびっくりしただろう。
 それでかは分からないが、昨夜は変な夢を見た。
 手足の生えたスマホが私の目の前で、「ちょっと騙されてませんか、きっとマグロ漁船に乗せられてUNOさせられますよ。draw4とかめっちゃ使ってきますよ」と言ってきた。
 私はムカついたから、画面をバキバキにしてライ麦畑に埋めるという謎の夢だ。
 だが目覚めは良かった。
 自分がちょっと変われたこと。
 蒼空の願いを叶えられたかもしれないこと。
 雪乃が一歩進めたこと。
 その余韻が目を覚ましても残っていた。
 蒼空がいなくなった世界には悲しみだけが降り続いていたが、少しだけ溶けたような気がする。
 次に蒼空にあった時、昨日のことを話そう。
 それで褒めてもらう。「頑張ったね」って言ってほしい。
 昼休み、体育館のステージ上に腰掛けて、雪乃とご飯を食べた。
 向こうから「一緒に食べよう」と誘ってくれた。
 最初は雪が積もった話をした。そのあとは好きな食べ物、来月の期末テストと話が進み、バスケ部の話になった。
 一年生に熊倉という子がいるらしく、ずっと片思いをしていた相手と付き合ったらしい。
 雪乃は自分のように喜びながらその話をしていた。
「千星ってどんな人が好きなの?」
 そう聞かれ、返答に迷った。
 『蒼空』と言いたいところだが、たぶん気まずくなる。私はまた会えるがこっちではもう亡くなった存在だ。
「優しい人かな」
 とりあえず無難にいった。もっと詳細に言えば、蒼空だとバレてしまう。そしたら変な空気が流れるから、当たり障りのない特徴で誤魔化した。
「優しさは大事だよね」
 彼女は二回ほど大きく頷いてから、冷凍のグラタンを口にした。
「雪乃の好きな人ってどんな人?」
 私がそう聞くと雪乃は宙を見上げた。たぶんその先には彼がいるのだろう。
「人ってさ、表面に見えるものでその人を判断するでしょ? 彼はその裏側を見ようとしてくれる。そういう人かな」
 照れながら言う表情は可愛かった。スマホの待ち受けにしたい。
「良い人なんだね、その人」
「うん、私が好きな人だもん」
 雪乃は満面の笑みでこちらを向き、本日二度目の可愛いを盛り付けてきた。もう可愛いでお腹がいっぱいだ。あと一回可愛いを見せられたら、可愛いを吐き出してしまう。吐き出した可愛いは持って帰ろう。私は自分で何を言っているのか分からなかった。
「雪乃にこれだけ好きになってもらえるなんて、その人は世界一幸せかもね」
「それは私かな。こんなにも好きと思える相手を見つけられた。それだけで世界が変わる」
 その気持ちは私にも分かる。付き合う、付き合わない関係なく、好きという気持ちだけで見えるものも感じ方も、受け取るものも変わる。
 私はそれを蒼空に教えてもらった。
 思い出すと切なくなるけど、今は我慢しよう。雪乃の恋に水を差したくない。

 私と雪乃は教室に戻るため、渡り廊下を歩いていた。
「富田」
 重低音の効いた声が後ろから響く。振り向くと女バスの顧問だった。
「熊倉に連絡取ってくれ」
 さっき雪乃が話をしていた子だ。バスケ部の後輩で最近彼氏ができた子。
「何でですか?」
「彼氏が二股してたらしいんだよ。それがショックで学校に来てないみたいなんだ。それでさっき保護者がクレーム入れてきた」
「クレーム?」
「どうやら彼氏が同じクラスの奴みたいでな、『学校としてはどう対象するんですか?』とか言ってきたんだよ。そんなこと言われても困るんだけどな」
 確かに困る。学校には関係ない。マウンテンゴリラとマウンテンバイクくらい関係ない。
「恋人を作るのは良いんだけど、わざわざ学校休まなくていいだろう? 高校生の恋愛なんて長い人生で見れば通過点みたいなもんなんだから」
 顧問よ、それは違う。私たちは人生を賭けて恋をしているんだ。それを通過点と呼ぶならぶっ飛ばすぞ。
「その点、富田は助かるよ。勉強の成績もよくて、恋愛にうつつを抜かさず、部活に誠心誠意取り組んでくれる。教師からしたら理想の生徒だ」
 雪乃の顔に陰りが見えた。今の言葉は『お前はするなよ』とも聞こえる。顧問はそういう意味で言ったわけではないのかもしれないが、今の雪乃にとってはそう聞こえるかもしれない。
「熊倉に電話して、学校に来させてくれ。男なんて他にもいるんだ。だから落ち込むなって言っといてくれ」
 じゃあ頼んだぞ、そう言って顧問は去って行った。
「辛いよね。自分の好きな人がそんなことしてたら」
 隣から同情を孕んだ声が小さく響いた。
 雪乃は自分と重ね合わせたのかもしれない。ずっと好きだった人と付き合えたと思えたら、その相手が二股をしていた。しかも同じクラス。私も学校に行かないと思う。
「恋ってするもんじゃないのかな?」
 その言葉は私にではなく、自問自答のように聞こえた。
 雪乃はスマホを取り出した。バスケ部の後輩に連絡するのだろう。
「先に戻ってて」
 何か声をかけたかったが、私は「うん」と言い残し、一人教室に向かった。

 五限目の始まる間際に雪乃は教室に戻ってきた。
「どこ行ってたの?」
 クラスの子にそう聞かれた雪乃は、いつものような明るい笑顔で「トイレ行ってて」と言った。
 私にはその顔が繕っているように見え、少し胸が痛んだ。
 授業中、雪乃のことが気になり、教師の話はほとんど頭に入らなかった。
 顧問の言葉で雪乃の恋愛に支障をきたさないか? 後輩が恋愛で苦しんでるなか、自分の恋愛に億劫にならないないか? 
 雪乃は責任感が強いように見えた。だからこそ心配になる。
 でも私が何かを言える立場でもない。今、彼女はどう思っているんだろう? 周りのこと、自分のこと、好きな人のこと。何も分からない自分が情けなく感じた。
 あの日から人を嫌いになって、他人と関わらなくなった。それでいいとも思っていた。でも今は人の気持ちを知ろうとしなければならない。蒼空のために、自分のために、雪乃のために。
 私には経験値が無さすぎる。こんなとき、なんて話かけたらいいんだろう? 蒼空ならどうするのだろう? 色々考えていると、窓から差し込む太陽の日差しが煩わしく感じた。
 放課後になり、雪乃はいち早く教室を出て行った。
 心配だったので女バスを見学しに行こうとも考えたが、今は邪魔になるような気がしたので帰路に着いた。
 街路樹が並ぶ道を一人で歩く。枝を晒して立つ木々の姿は、冬の寂しさを描いたようだった。
 今日も朝から寒かったため、まだ雪は残っている。明日には溶けているかもしれない。
 雪は刹那を白く灯して幻想を作る。日常には咲けない花のようで、そこが美しくもあり儚いところでもある。
 ここ二日、雪乃と一緒に帰っていたためか、一人になると詩人になってしまう。
 寂しさを埋める時、人は詩を読みたくなるものだ。
 詩は時々SNSで見たりする。その人の奥底にあるものを吐き出したり、表には見えないものを言葉にする。
 生きていると自分というものが周りに影響されて形作られていく。詩を書いている人たちは、言葉で感情を紡ぎながら、自分という存在をこの世界に残そうとしているのかなと思う。
 日常で消えていく雪のような感情を、消えないようにネットの海に流していく。
 でも現実世界では心の一番奥に仕舞い、無理やり押さえつけながら世界と迎合していく。離されなように、置いていかれないように。
 雪乃はどうなんだろう? 学校という世界では中心いるけど、実際周りをどう見ているんだろう? 私は隅っこで逸れないようにしながら、その手の中にある糸を強く握ぎりしめていた。
 世界の端から見る雪乃は糸を作る人で、羨ましく思うときもあった。でも話すようになってから見えかたは変わった。
 雪乃も何かを掴みながら生きているような気がする。私とは違う何かを。
 もしかしたら、それが一歩踏み出せない理由なのかもしれない。
――恋ってするもんじゃないのかな?
 踏みだした決心が引いてしまったようにも聞こえた。
 明日、もう一度話してみよう。奥底にある言葉を聞いてみたい。

 昨日の朝とは違い、(もや)が張ったような目覚めだった。筆舌に尽くし難い感情が体の中に漂う。
 朝食に出されたパンはいつもより味気なく感じ、バターの油分が口内にまとわりつくようだった。
 駅から学校までの道を歩いていると、生徒たちの喧騒が鼓膜を揺らした。
 声は聞こえているが内容は入らない。私の脳内は雪乃のことでいっぱいだったから、入る余地がなかった。
 好きな人に想いを伝えることは相当勇気のいることだ。決心するまで何十回と思考を往復させ、マイナスな思考に囚われながら、やっとの思いで一歩踏み出す。
 私はできなかった。今も胸の中には、恋染めの言葉たちが彷徨っている。
 雪乃は自分次第で恋を成就させることができる。でもその先に進むことができない。なかなか理解し難い状況だが、私には見えない大きな隔たりがあるんだと思う。
 だから簡単に「相手も好きなんだから付き合えばいいじゃん」などと言ってはいけない気がしてた。
 私も他人から理解されない部分をたくさん持っている。感覚的だが雪乃にも同様のものがあると感じた。
「おはよう」
 澄んだ声が背中に触れる。
 振り向くと、空の青を背景に、笑みを零した雪乃の姿が双眸に映った。
「おはよう」
 挨拶の交換をし、肩を並べて学校に向かう。
 どう切り出そうか迷う。
「好きな気持ちは伝えるの?」
 これは直接的すぎて聞きづらいし、相手も困るような気がする。
「やっぱり恋って最高だよね」
 これはパリピ感が強すぎて引かれそうだ。
「恋の甘さって人生の苦さを中和する最高の調味料だよね」
 これは結構好きだが今じゃない。
「恋のレイアップは決めないの?」
 これは論外。
 脳内を駆け回りながら思案していると「あのね」と雪乃がブレーキをかけた。
「気持ち伝えるのやめることにした。部活もあるし、今は恋なんてしてる場合じゃないなって」
 表情は変えず、おはようと同じトーンで言ったその言葉は、私の思考を停止させた。
「だから、昨日言ったことは忘れて」
 そう付言し、前を歩いていく。
「いいの? 本当に」
 小さく嘆いた言葉は雪乃の足を止めた。
 数秒の間を置いてから雪乃は振り向き、
「いいの本当に」
 笑顔で言った。雲一つない晴れわたる顔で。雨が止んだあとの澄んだ空のように。
 言葉が出なかった。普通なら何か言うべきなのに、見繕ってでも渡すべきなのに、私の喉元を通るのは、言葉を携えない白く吐き出されるだけの息のみだった。
 無言の私を見た雪乃は、一瞬だけ寂しそうな顔をした。そしてすぐに表情を戻し、
「前に私が聞いたことあったでしょ? もしも、好きな人を嫌いになってしまったらって」
「うん」
「あんな質問に悩んでくれたのが嬉しかった。それと……私に勇気をくれてありがとう」
 笑顔を残して雪乃は学校へ向かって行った。
 私は声も足も出すことができなかった。
 立ちすくむ自分の足元を見ると、太陽の光で溶けかけた雪があった。
 消えてしまわないようにと残る姿に、胸が苦しくなった。

 昼休み、一人で公園に来ていた。ブランコで小さく揺れながら雪乃の言葉を反芻していた。
 今日の雪乃はいつもと変わらない様子でクラスの子と接していた。
 胸臆に仕舞った恋を、摘まずに眺めるだけと決めた彼女。いや、自ら枯らしたのかもしれない。そう思うとあの笑顔が切なく見える。
 でも本心ではないと思う。きっと理由がある。私はこれまで雪乃と話したことを整理することにした。
 まずお姉ちゃんのこと。
 勉強も運動もできて、憧れと言っていた。まさに雪乃と一緒だ。でも息苦しい場所とも言っていた。
 憧れが苦しい存在になることがあるのだろうか? でもここにヒントがあるような気もする。
 そして褒められても嬉しそうにしていなかった。私なら歓喜すると思うが、雪乃は違った。
 むしろ困ったような顔をしていたようにも見える。褒められて嫌になる理由があるとすれば……分からん。褒められることがほとんどない私にとっては、想像する種すらない。
 友達には「好きな人はいない」と答えていたのに、蒼空や、まだ話すようになって間もない私には「いる」と答えた。
 普通は逆だ。なんで私には言ったんだ? 特に話しやすい訳でもなかったと思う。むしろ会話がぎこちなさすぎて、面倒くさいと感じただろう。
 私みたいな人間は、蜂蜜を体に塗って大量のカブトムシを集めるぐらいしか脳がない。そんな人間に自ら話かけてきた。
 蒼空がよく話していたからと言ってたが、本当にそうなんだろうか? これも他に理由があるのかもしれない。
 あとは好きな人だ。
 確か、裏側を見てくれる人と言っていた。私と蒼空で例えるなら、本当の自分が出せる場所で、それを受け入れてくれる人。
 もし同じなら、雪乃の学校生活で見せてる姿は仮で、本当は別の性格を宿しているのだろうか? 勉強も運動もこなし、大人からの信頼も厚く、誰からも慕われて、優しさを持った女の子。それとは別の顔を持っているということなのか? でも裏表がないように見えた。
 考えれば考えるほど、冷たい風も相まって頭が痛くなってくる。
 今の私は深刻な顔しているのだろう。真昼間から一人でブランコに乗ってる女子高生は、行き交う親子連れに怪訝な顔をされる。
 冬のBJ(ブランコ女子)は公園の景観をより寂しいものに変えているだろう。
 はぁー、と白い息を目の前の空間に吐き出す。人工的な白煙は静かに消えていく。
 冬という季節は存在していたものを初めからなかったように見せる。だから寂しさも助長する。
 息も、木々を染める葉も、空に舞う雪も、全部消えていく。そして、雪乃の想いも。