十二月半ばを迎え、木々が涙を零すように葉を散らせていた。その情景に物悲しさを覚え、なんだか寂しくなる。
 私は第三支部の公園でお昼ご飯を食べていた。
 本当は室内で食べたかったが、どこもかしこも生徒がいて、なくなく公園に来た。
 冬は青空が綺麗に見える。その美しさと地上の荒涼具合が、準ぼっちにはちくちくと刺さる。心がむず痒い。
 ため息混じりに空に息を吐くと、隣に誰か座った。今はそれが誰だか分かる。
 変態だ。
 ウソ、蒼空だ。
「ため息を吐くと幸せが逃げるって」
「じゃあタクシー捕まえて追いかけないと」
「運転手になんて言うの?」
「前を走ってる幸せを追ってください」
「お客さん、病院は反対方向ですのでUターンしますね」
「しばくぞ運転手。お前の幸せよこせ……」
 蒼空はコンビニの袋からペットボトルのお茶を取り出し「はい」と言って渡してくれた。しかも暖かい。この寒空の下では人工的な温もりでもキュンキュンする。たぶんキュンキュンの使い方は間違っているが。
「ありがとう、お礼に冷え切ったハンバーグをあげよう」
「冷え切ったハンバーグはお礼には入らない」
「私がお礼と言えばお礼なのだ。千星さんの言うことは絶対なのだ」
「勝手に王様ゲーム始めないで」
「私にお茶を渡した時からこのゲームは始まって……」
 蒼空が私からペットボトルのお茶を奪った。
「私のお茶」
「あげるなんて言ってない」
「手渡ししたらあげるってことでしょ」
「ううん。見せびらかしただけ」
「性格わる! 親の膝が見てみたい」
「親の顔だろ」
 こんなくだらない会話が好きだった。他人からしたら意味のない話でも、私にとっては冬の寒さを凌ぐ、温まるやりとりだった。
「学校終わったあと、買い物行くから付き合って」
 蒼空からデートに誘われた。ニヤつきそうになったから、冷えたハンバーグで口元を隠す。
「何買うの?」
「絵具」
「美月ちゃんの?」
「そう」
 蒼空の家に行くと、美月ちゃんは月の絵をよく見せてくれた。色合いが綺麗で引き込まれるような絵だった。
「じゃあ学校終わったら行こう」
 デートだと思うと言葉の語尾に音符が付く。弾むような高い音色で冬に色を付けるような。

 放課後、学校の最寄駅から二駅離れたショッピングモールの画材屋に、買いも……デートに来ていた。
 壁一面に並んだ絵具を見ながら「大きい歯磨き粉みたい」と蒼空に言ったら、ゴミを見るような目で私を蔑んできた。
 絵具にも色々あるらしく、美月ちゃんはアクリル絵の具を使うらしい。
「美月ちゃんて美術部入ったんだっけ?」
「うん」
「絵上手だから、コンクールとかで入賞とかしちゃうんだろうね」
「……うん」
 一瞬だけ蒼空の表情が曇った。悲しみを帯びた瞳が心に残る。
 蒼空はUー35と書かれた絵具を手にすると、レジに向かっていった。
 画材を買ったあと雑貨屋に寄った。薄暗い店内に点在する間接照明と、棚に並んだディフューザーの芳香が世界観を作っている。アンティーク調の商品を主に扱ってるようで、それがまた雰囲気を醸し出し、一つ一つの品が登場人物のように見えた。
 店の奥側の壁にペンダントがかけられていた。黒いエナメルで覆われた円の中に、金色で施されたアルファベットが描かれている。
 A〜Zまでが横二列で並べられており、ポップには『好きな人のイニシャルを持ち歩くと、その人と結ばれるかも』と書かれていた。
 一般の女子高生なら「これで好きな人と結ばれる! 買っちゃおう」となるが、私のような目の肥えた女子高生には、迷信まがいの小細工など通用しない。
 そう思いつつ『S』のイニシャルを探した。でも買うわけではない。私は大人の手のひらで踊るような女ではないのだ。だが一応探してみた。左手に財布を抱えながら。
 だが先に目に入ったのは『Y』の文字だった。
――雪乃
 すぐに頭をよぎった。噂される二人、お似合いと言われる二人、蒼空は彼女のことをどう思っているのだろう。隣にいる蒼空をそっと見ると、ペンダントを眺めていた。どの文字に視線を向けているのかは分からない。
 もし『Y』を手に取ったら――そう考えると不安が顔を覗かせてきた。そして耳元で囁いてくる。
 「姉さん、こいつは絶対に『Y』を取りますよ。『Y』を取るような顔してますもん。蒼空くん、今日の昼ごはん焼きそばパン食べてたでしょ? 焼きそばの頭文字『Y』じゃないっすか。あー、これ確定だわ。焼きそばパン伏線すわ。これ回収しにきてますわ。姉さんドンマイっす」と、したり顔で不安は私を煽ってくる。
これ以上この場にいたら、せっかくのデートが台無しになる。
「喉乾いたから、何か買ってくるね」
「うん」
 蒼空はペンダントを真剣に見ながら返答した。
 不安が頂点に達する前に店内を出ようとしたが、どうせなら蒼空の飲み物も買おうと思い踵を返した。
「蒼空も何か飲……」
 振り向かなければ良かった。さっさと店を出れば良かった。目に映るすべての記憶を消してしまいたい。
 蒼空は『Y』と書かれたペンダントを手に取っていた。
 頭が真っ白になる。彩られた世界から一瞬にして色が奪われ、すべてが白と黒に変わっていくように。
 体が動かなくなる。大空に羽ばたく鳥の羽を引きちぎり、すべての自由を奪うように。
 心が灰になる。痛みを伴う感情すべてを焼き尽くすように。
 蒼空はペンダントから手を離し「俺も喉乾いたから買いに行く」と言って、店から出ようとする。
「買ったら。おまじない程度かもしれないけど、叶うかもしれないでしょ?」
 何を言ってるんだろ私。そんなこと思ってないよ。
 私の言葉で立ち止まった蒼空は、視線をこちらに向けて唐突に聞いてくる。
「千星はさ、好きな人いる?」
 急な質問で驚いたが、その答えは決まっていた。なのに……
「いないよ、恋愛とか興味ないし」
 強がるなよバカ。嘘なんてつかなくていいよ。
「そっか」
 蒼空は語尾に沈黙を携えたあと、「じゃあ、飲み物買いに行こう」と背中を向けた。
「買わなくていいの?」
 聞かなくていいのに、喉元から言葉が押し出される。
「俺のは……」
 蒼空は優しい笑顔で振り向く。
「きっと叶わないから」
 そう言って店を出て行った。切ない余韻を残して。

 帰りの電車は空気が重苦しかった。
 乗車したとき、一席だけ空いていたので蒼空が座らせてくれた。私は優しさに甘えて腰を下ろす。目の前に蒼空が立っているが、顔を見ることができなかった。
――きっと叶わないから
 雑貨屋での残響が鼓膜に張り付いている。蒼空は富田雪乃が好きなんだと思う。『Y』のペンダントを手に取っていたから。
 友達がいれば情報を得られるのだが、私にそんな友はいない。かといって蒼空には聞けないし、聞く勇気もない。
 それに今はうまく話せない気がする。会話全部がうわの空になりそうだ。蒼空も全然話さない。たぶん富田雪乃のことを考えているのかもしれない。
 いつもなら学生たちの笑い声が煩わしかったが、今は沈黙を埋めてくれるようで助かっている。
 自宅の最寄り駅で降りると、すっかり日は落ち、辺りは暗くなっていた。
 蒼空は私の家まで送ってくれたが、その間も会話はなかった。
 玄関のドアを開けたあと、ふと空を見上げた。月が綺麗に夜を灯している。その光がなぜか孤独に見えた。
 食事は喉を通らなかったため、風呂に入り部屋に戻った。早く寝ようと思いベットに横になる。今日のできごとを忘れたかったから。
 だけどこういう時ほど眠気はそっぽを向く。手繰り寄せようとしても、どこにいるのか分からない。
 蒼空の恋が叶わないのは、自分にとっては喜ばしいことだ。
 だが反面、その辛さも分かるし、蒼空の悲しい顔も見たくない。
 こういうとき、素直に喜べる人が恋を叶えるんだろうなと思った。今の状況をうまく使って、自分に矢印を向けさせる。それができたらどれだけ楽なんだろう。この世界の全員に嫌われてもいいから、そうなりたかった。
 もし富田雪乃と付きえば、私は蒼空といることはできない。相手からしたら、幼馴染だとしても一緒にいるところを見るのは嫌だと思う。私だったら嫌だ。なら自分から離れないといけない。
 ずっとこのままの関係性でいれると期待していた。ちゃんと考えれば分かることなのに、考えたくなかった。今の関係に甘えていたのかもしれない。好きな気持ちをぶら下げながら、好きと伝えることを恐れていた。いずれ蒼空の隣で笑い合うことができなくなる。
 一人になることも、不安なときに支えになる人がいなくなることも、世界から自分が取り残されてしまうことも、全部怖い。
 でもほんの数ミリ期待している。もしかしたら蒼空も……という淡い希望が。
 何も伝えないまま星影の中で恋を灯し続けるか……
 この関係性が崩れるとしても想いを伝えるか……
 それから一時間、揺蕩う感情を部屋の中で彷徨わせながら、やっとの思いで決心がついた。
 ナイトテーブルで充電していたスマホを取り、電話をかける。
 プルルル……プルルル……プル
 ――もしもし
「今、大丈夫」
 ――うん
「日曜日、空いてる?」
 ――空いてるよ
「良かったらさ、遊びに行かない」
 ――いいよ。どこ行くの?
「どこに行くとかは決まってないんだけど、決まったら連絡する」
 ――うん、分かった
「じゃあ……おやすみ」
 ――おやすみ
 電話を切り、天井に向かって大きく息を吐いた。場所を決めてから電話をかけようと思ったが、時間を空けると決心が鈍りそうな気がした。
 明後日の日曜日、私は好きな人に想いを伝える。たとえ叶わないとしても、私は夜空に恋を散らせる。