人が死ぬと流れ星が落ちる。
好きな本にそう書いてあった。
ときおり死というものに希望を感じるときがある。死にたいとは思っていないが、苦しみから解放されたいと念じたとき、頭をよぎる。
日常には小さな悲しみ散らばっていて、それらが連なると心の中に孤独を作り、醜い星座が産み落とされる。そのたびに世界の景色は澱んでいき、歪んだ思考に蝕まれていく。
――好きな人と結ばれますように
いつものようにベランダから夜空を眺めていると、流れ星が刹那を駆けた。
私は咄嗟に両手を合わせて祈る。
欲張るせいか、それとも聞いてないのか、私の願いはずっと空の果てに打ち上げられたままだ。
今日も夜空の星に縋りつきながら、地上の星は太陽を忌み嫌う。
通学路には嫌悪があふれている。秋を貪る残暑、固結びされたように手を握る男女、女子高生のお揃いのファッション。空から嫌悪が降り注ぎ、地上にも嫌悪が這いつくばる。
私のような人間にとって、この世界は地獄の予行練習のようなものだ。いや、地獄のほうが天国かもしれない。
視界に入る高校生たちは楽しそうに話しながら青春を謳歌している。準ぼっち属性の私には、他人の笑い声は煩わしい蝉の声と一緒だ。蝉は夏の訪れを知らせるが、同級生たちの笑い声は『お前は一人だ』という現状を知らせれくれる。その瞬間、心の隙間に空虚が佇む。
いつもならイヤホンで遮断するのだが、今日は充電を忘れてしまった。鼓膜に嫌悪が纏わりついて気持ち悪い。それと、少しだけ湧き上がる羨望が嫌になる。
だけど友達がいないというわけではない。たった一人だが、その一人が私と世界の結び目になっている。外の世界から逸れそうになったとき、彼が道標になっていた。
孤独は人を殺す。ゆっくりと静かに囁くように命を蝕む。でも彼が処方箋になって痛みを和らげてくれる。生きたい理由であり、死にたい理由にもなるけど、彼がいたから生きてこれたと思う。
「千星」
背中を叩く声で振り返ると、蒼空が優しい笑顔で駆け寄ってくる。
「おはよう」と言われ「おはよう」と返す。
世界と私の間にある解けた糸が、その言葉で結ばれる。
「千星が言ってたバンド聴いたよ。すげー良かった」
私が最近見つけたバンドを昨日話した。さっそく聴いてくれたらしい。
「でしょ! 私も初めて聴いたとき、ピーマンが反乱を起こして地球を侵略してくるぐらいの衝撃を受けた」
良いものを見つけると人に話したくなる。でも私には蒼空しか話す人がいない。だから好きのものを話すときは興奮気味になり表現がおかしくなる。
「ピーマンは子供に嫌われてるから反乱起こしても驚かない。朝起きたら両親がピーマンに変わってるぐらいの衝撃だった」
訳のわからない比喩を言っても、怪訝な顔もせず返してくれる。自分が受け入れられているようで安心できた。
「両親がピーマンになることは、たまにあるから驚かない」
「いや、ないだろ。どこの血筋だよ」
他人が聞いたら訝しがるかもしれない。でも私にとってはすごく心地いい。さっきまで心の真ん中で胡座をかいていた孤独は、今は片隅で正座している。
こんな冗談を言い合えるのは彼だけだった。他の人にはきっと一生言えないと思う。
二人でいると世界に迎合しているような気分になる。周りの笑い声から嫌悪が剥がれ落ち、この瞬間だけは普通の高校生になれる。
蒼空は小学校からの幼馴染だ。優しい雰囲気を纏い、全日本爽やかグランプリがあったら三連覇を達成してそうな顔立ちだ。私がそうめん工場の工場長なら、毎年彼にそうめんを送るだろう。それぐらい爽やかという言葉が奥村蒼空には似合う。目に少しかかる前髪もそうめんに見えてきた。この場にめんつゆがあったら、前髪を浸してしまいたい。
そんな気持ち悪い妄想をしていると学校に着いてしまった。
蒼空との会話で孤独を埋めていた私は、憂鬱という名の校門をくぐる。
少しでも長くこの時間が続いてほしいので、歩幅を狭めていたら、
「おはよう」という言葉が投げかけられた。私にではなく蒼空に。
蒼空は友達が多く、誰からも好かれていて慕われている。常に周りには人がいて、学校では近づくことができない。いや、正確に言えば近づくことはできる。だが人間嫌いの私は、蒼空以外の人と一緒にいたくない。だから学校では一人になることが多かった。
下駄箱で靴を履き替えてるだけで数多の「おはよう」を間接的に浴びる。
私は他人という存在を避けてきたし、世界を嫌悪してきた。小学六年生のあの日から。
教室に入ると「おはよう」という言葉が蒼空に目掛けて飛んでくる。隣にいた私は「おはよう」の流れ弾が来ないよう、速やかに自分の席に着いた。
基本は声をかけられないが、蒼空といるとおまけ程度に挨拶される時がある。普段、人と接していない人間からすると、急な声掛けは心臓に悪いし、話そうとすれば、
――うざい
あの日言われた言葉が呪いのように脳裏に響く。小学六年から高校二年の五年間、その呪いは今も纏わりついている。
だから近づかない。狭い世界で小さく輝きを放ち、私のことを見てくれる人がいればいい。
横目で蒼空を見ると、クラスメイトと談笑していた。その瞬間、孤独が肩を叩き、力強く手を繋いでくる。
さっきまでその隣に私がいたのに、今は別の人間がそこにいる。元カノを経験したことはないが、何故か元カノのような気持ちになった。
『蒼空の元カノ』
響としては悪くない。別れてはいるが一度結ばれているという観点でみれば、今の私より立場が上だ。好きな人に告白もできない哀れな私よりも。
でも気持ちを伝えようとしたことはある。だけど怖くて言えなかった。もしフラれたらこの関係も終わってしまうから。
今まで築いてきたものが崩れるくらいなら、せめて仲の良い幼馴染という肩書きは残したい。そんな臆病な言い訳で、私は初恋をずっと握りしめていた。
本来なら一限目の授業が始まっている時間だが、教師が遅れていて自習の時間になっている。
私はこの時間が苦手だ。雑談という不協和音が孤独にジャブを打ってくる。
蒼空も隣の子と楽しそうに話していた。その光景を視界に入れるのは自傷行為に等しい。
妄想で逃げようとしたが、蒼空と話している子を脳内で暗殺してしまいそうだったので、窓の外に視線を外す。
教室から見上げる空は青く澄んでいた。空が青ければ青いほど、消えてしまいたいと願う。太陽が空を照らせば、星の輝きは薄れていく。そこにいるはずなのに、輝けるはずなのに、光が星を消してゆく。そして星は太陽を嫌悪する。
だんだんと鬱いできたので、机から小説を取り出した。私が小説を読む理由は、一人でいる大義名分を作れるからだ。本を読んでいるときは孤独も薄れる。
作者もこんな理由で読まれるのは嫌だろうけど、あなたたちのおかげで孤独な少女が救われるのだ。だから許せ。
そんな私でも、好きな作家はいる。
枯木青葉という作家だ。
都市伝説をモチーフに物語を綴っていて、どの作品にも共通していることがあった。主人公は孤独を抱えており、世間に恨みを抱いていると言う点だ。私は共感する部分が多い。
デビュー作はそれなり売れたが、それ以降はパッとしなかった。
でも私は好きだった。ワクワクできたし、モチーフになっている都市伝説を読後に調べるのも楽しかった。
だからネットで酷評を見たときは悲しくなった。まるで自分が否定されているように感じたから。
それでも次回作を期待していたが、三年前、突如として彼はこの世界から消えてしまった。自ら命を絶って。
だが一年後、枯木青葉の小説が発表された。
出版社のホームページに書かれていたのは、枯木青葉のパソコンに未発表の作品が眠っており、それを家族の了承を得て発表したらしい。
話題性もあってか、その作品はベストセラーになった。
孤独を抱えた主人公が死んだ人間の未練を叶えていき、周りの人と繋がっていくという物語だった。
読み終わると、孤独に寄り添ってくれる優しさが、私の心に横たわってた。
部屋の中で嗚咽しながら嗚咽して、嗚咽する自分に嗚咽して、本を見るたび嗚咽するという、嗚咽祭りが私の中で開催された。
何より嬉しかったのはレビューの評価が高たったことだ。前作で溢れていた非難は賞賛に変わり、その声一つ一つが献花のように見えた。
この作品も都市伝説をモチーフにしていると思い調べたが、どこにも類似するものはなかった。
なぜこの作品だけモチーフがないのか? なぜテイストを変えたのか? そこに疑問はあった。でも彼が賞賛されるたび、そんなことはどうでもいいと思えてきた。
「遅れてごめん、じゃあ始めようか」
教室の扉が開き、教師が入ってくる。
クラスの子たちは教師の顔を見るなり、嘆きやため息を漏らしたりしているが、私は安堵した。
蒼空が隣の子と話すのをやめたこと。授業中は孤独から解放されること。楽しそうに話す声が聞こえなくなること。
普通の高校生が嫌うであろう授業は、私にとって憩いの場だった。
別に勉強が好きなわけではない。授業というものは誰とも話さないことが普通であり、ノートをとって、先生の話を聴くというタスクができる。だから手持ち無沙汰にならない。孤独というのは、自由を与えられたときにやってくるのだ。
もう少しで四限目の授業が終わる。
方程式の説明をBGM程度に聴きながら、私は五分後に来る怪物のことを考えていた。
高校生活において最も不自由で自由な時間、昼休みだ。
理想を言えば、蒼空と一緒にカリブ海を見ながらトルティーヤを食べることだが、この学校はカリブ海が見えない。文明が進化した時代において、カリブ海が見えないというのは、間違いなく校長の怠慢だ。私が校長ならそれくらいは見えるようにする。ここが私と校長の格の差だ。
蒼空といると他の人間もやってくるため、昼休みは一人で弁当を食べる。
一年生の頃は一緒に食べていたが、二人になることはほとんどなかった。
最初は二人だったとしても、次から次に人が来る。そしていつの間にか、大所帯になっていたこともある。
その場にいれば私にも話が振られる。それが苦痛だったし、蒼空が他の子と楽しそうにしているのも嫌だった。私のような人間からすると、グループという場所は孤独の餌場だ。
それに耐えられなくなり、蒼空に誘われる前に教室を出ていくようになった。
昼休みぼっちには、ミッションが課される。場所の確保だ。私はいくつかの基地を持っている。
まずは第一支部である校庭のベンチ。
ベンチはいくつかあるが、テーブルがある場所が望ましい。
だが大人数が座れるため、陽キャ軍団か友達連れ、青春しているカップルの支配下に置かれている。
仮に席の確保ができたとしても、後からくる人間たちに『一人なのにそこ使うのかよ。お前みたいな寂しい奴は、カブトムシと一緒に地べたでゼリーでも食ってろよ』と言う目で見てくるため、テーブル席は諦める。
となれば、校舎裏に置かれたベンチに向かう。ここはほとんど人が来ないので、一人になるには最適な場所だ。
でもたまに、ぼっち同士が鉢合わせすることがある。その時の「あ、仲間だ」という共感と、豪華客船が沈没したときの失望感を味わえる場所でもある。
第二支部は屋上前の踊り場。
この最上階に位置する空間は閉鎖感があり、ぼっちにとっては都だ。欠点があるとすれば逃げ場がないこと。
下の階から声が近づいてくるときの恐怖感は、ジェイソンに追われたブロンド高校生に近いものがある。『もしここに来たらどうしよう』という焦燥感で、弁当に手をつけるスピードが早くなる。
そのときの私は爆発物処理班のような気持ちになる。楽しむための食事が、一瞬にして残り数秒で爆発する爆弾に見えてくる。このときに誰か来たら、弁当を階下に投げ「伏せろ」と言ってしまいそうになる。そしたら次の日には処理班というあだ名が付くだろう。
もし私が芸能人になってインタビューを受けたとき、「高校生の頃のあだ名はなんですか?」「処理班です。主に弁当を処理していました」と答えなければいけない。この場所はそれなりのリスクが伴うのだ。
第三支部は学校の外にある公園。
ここはブランコと滑り台、砂場という簡素な公園だ。
ベンチがニ基あり、大抵はそこで弁当を食べる。意外にも学校の生徒はあまり来ず、ぼっちにとっては緊急避難場所にもなる。
だが世の中はそう甘くない。ここの欠点は親子が来ることだ。
親はなんとなく察してくれるが、子供は『高校生なのに一人かよ。お前みたいな寂しい奴は、カブトムシと一緒に地べたでゼリーでも食ってろよ』という目で見てくる。世界はぼっちに冷たい。
他にもいくつかあるが、主にこの三つが主要の支部になる。
今日はどこにしようか迷っていると、チャイムが鳴ってしまった。
教師もいつの間にか授業を締めていたらしく、すでに周りの生徒は立ち上がっている。完全に乗り遅れた。
公園が埋まっていたら、最悪トイレだなと考えていると、「千星、一緒に食べよう」という天使のような声が鼓膜に届いた。
顔を見なくても誰だか分かる。ニヤつきそうになる顔をギュッと結び、声の方に視線を向けると、蒼空が立っていた。
誘ってくれたのは久しぶりだったので嬉しかったが、他の人が来るのは嫌だ。
すぐに二つ返事で返したかったが、躊躇ってしまう。
その一刹那の沈黙を埋めるように、澄んだ声が教室に響いた。
「蒼空」
声の方を見ると、同じクラスである富田雪乃がこちらに向かって来る。
彼女は蒼空と同様、二年生の中心的な存在だ。蒼空とも仲が良い。
肩まで伸びた艶やかな髪の毛、雪を欺く白い肌、女の私も見惚れてしまうほど綺麗な子だ。
『容姿端麗』という雑誌があれば表紙を飾るだろう。学校の男たちはその雑誌を見て「可愛くね」とか言う。でも男ならジャンプを読め。可愛いって言ってる暇があるなら海賊王を目指せ。もしくは念を習得しろ。
私が妄想で嫉妬していると、蒼空が私に視線を送ってくる。
一緒に食べたいけど、この状況だと彼女も付いてくる。三人は嫌だ。それに彼女は……
「ねえ」
顔を上げると富田雪乃が目の前にいた。整った面差しが私の顔を覗き込み、その可愛さに思わず目を逸らしてしまう。さらに追い討ちをかけるように「藤沢さんも一緒にご飯食べない?」と笑顔で聞いてくる。
急な誘いに驚き「ひぇ?」という、どこから出たのか分からない変な声が出た。込み上げる恥ずかしさで異世界に転生したくなる。
「あっ、無理にとは言わないよ。嫌なら言ってね。でも人が多い方が食事も楽しくなるから、私は一緒に食べたいかなって」
言葉の隅々に優しさが滲むような喋り方だ。聖母が語尾にぶら下がっているみたいな。
「私は……」
――うざい
また思い出す。人と距離が近づきそうになるたび、あの言葉が足を掴んでくる。重い重い足枷のように。
「私は一人で食べる」
一緒にいたらきっと苦しくなる。なら自分から突き放したほうが楽だ。富田雪乃から嫌われるかもしれないが、蒼空から嫌われなければいい。
鞄から弁当を出し、急ぎ足で廊下を出た。二人の視線が背中に刺さるのが分かる。
蒼空は富田雪乃を下の名前で呼ぶ。別に同級生ならおかしなことではない。でも、私はそれが辛かった。
二人はよく噂されている。しかも最近になって二人でいることが多い。
一緒にいる所をよく見かけるようになったのは、一年の文化祭からだと思う。
一年のときは二人は同じクラスで、私は別のクラスだった。
何があったかは知らないが、文化祭みたいに男女の距離をつめるイベントは法律で禁止にした方がいい。あんなイベントで付き合うカップルは牢屋にぶち込んで、鼻の穴に木綿豆腐を入れてやればいい。
蒼空は付き合ってないって言ってたけど、気持ちまでは分からない。もしかしたら好きなのかもしれない。
懐疑的な中での名前呼びは少し応えた。三人でいたら何回聞くか分からない。もはや拷問だ。私がもし法を犯して罰を受けるなら、法廷に蒼空を呼んで「雪乃」と叫ばせればいい。二秒で死ねる。
特に目的もなく教室を飛び出してきたので、どこで食べるか昇降口で一考し、第三支部の公園に向かうことにした。
ありがたいことに公園には誰も居なかったが、味気ない風景が私の心を映しているようで少し憂いた。
ベンチに座り空を仰ぐと、太陽の光が視界を覆う。その光に自分が薄れていくような気がした。白日の星が青に飲み込まれていくように、世界との結び目が解けていくように。
自らの力だけではこの世界では輝けない。多くのものは太陽という絶対的な存在があるから生きていける。私は空のようになりたかった。
太陽によって不条理に色を変えられても美しく居続けられる。澄んだ青も、溶けるようなオレンジも、真っ黒な夜も、すべてが自分らしく見える。どんな環境に置かれても空は空だ。星は太陽のもとでは輝けない。夜空がなければ星は見えない。
悲嘆混じりのため息を空に吐くと、隣に誰か座った。
私はベンチの端に座っているから、確かにスペースはある。だからといって普通は座らないだろう。
しかもベンチは二基あり、一基は空いている。
こんな白昼に女子高生の隣を堂々と座れるのは一人しかいない。
そう、変態だ。
もしくはベンチの愛好家か、さらに選択肢を広げるなら野生のパンダだ。
パンダであってくれと願うが確率は低い。私の計算では25%くらいだ。
正直、超怖い。
ちらっと見て、目があったらぶん殴って逃げるか。いや、こちらから手を出したら法廷で不利になる。
いくら変態と言えど、法律は適用される。なぜこの国は変態を殴れないのだろう。声をかけられたら殴りたい。むしろかけてこい。こんな真っ昼間に女子高生に声をかけた時点で変態だ。うん、殴ろう。こいつが息を吐いたら殴ろう。いや、息をしなくても殴ろう。隣に座った時点で変態だ。恐怖を与えただけでも十分殴る価値はある。
私は拳を握り、いつでも殴れるよう備えると、
「弁当食べないの?」
声を聞き、私は拳を解いた。
聞き覚えのある声。驚きと嬉しさが脳内で駆け回り、軽度の混乱を起こす。
私はゆっくりと視線を隣に移すと、蒼空の姿があった。
「富田雪乃は?」
「クラスの子と食べてる」
「いいの?」
「うん」
私はニヤつく顔をグッと堪えた。恥を忍んでタップダンスしたい。
「何でここにいるって分かったの?」
タップダンスをしようと立ち上がったときにふと思った。校内ではなく、外に来た私を見つけるなんて難易度が高い。
「千星が校門出るのを見て、付いてきた」
蒼空は弁当の風呂敷を解きながら言った。
「変態」
「何でだよ」
支部長としては侵入を許したことを遺憾に思うが、蒼空なら許そう。いや、超うれしい。タップダンスしたい。
「まあ、蒼空がどうしても私と食事を共にしたいっていうことなら仕方がない。一緒に食べてやろう」
それは私だろ、と自分にツッコミをいれる。でも照れ隠しでそう言ってしまう。私も可愛いところがあるんだ。
「別に食べたいとは思ってないから、一人で食べるわ」
蒼空は広げた風呂敷を結び直し、立ち上がった。
「嘘です。一緒に食べましょう。お供させて下さい。蒼空さん」
私が焦って言うと蒼空は振り返り、いたずらっ子みたいな笑顔で再びベンチに座る。
「千星がどうしてもって言うなら、一緒に食べてあげる」
この野郎、こっちが下手に出たらツンデレという凶悪な兵器を使ってきやがった。私もやりたい。
「べ、別に、そういうわけじゃないんだからね。あんたと食べたいとか、そういうわけじゃないんだからね。なんて言うか、そういうわけじゃないんだからね」
私のツンのレパートリーは【そういうわけじゃないんだからね】しかなかった。放課後にホームセンターに行こう。あそこなら何でも売ってるから、ツンの別バージョンも置いてあるだろう。
「下手くそなツンデレは置いといて、ご飯食べよう」
蒼空は弁当を開け、何事もなかったように食べ始める。私のツンを無視して。
一人で食べているときは、時間を埋めるために食事をとっているような気がして、物悲しくなることもある。出荷されるために餌を食べている家畜のような。
でも蒼空と一緒にいるときは、食事を食事として捉えられる。同じ物でも、今の自分の心境で見え方も捉え方も変わる。特に何も感じなかった卵焼きがほんのり甘いこととか。
「ねえ蒼空」
「何?」
「楽しいね」
なんか言いたくなった。
味気ない日常や抱えていた苦しさとか全部忘れて、今だけはこの時間に浸りたい。
「うん。楽しいね」
穏やかな笑顔で返してくれた。その横顔を思い出に仕舞い、朝に怯えたときに思い出す。それで少しだけ痛みが和らぐから。
「ねえ、そのコロッケちょうだい」
「嫌だ」
「べ、別にコロッケが食べたいわけじゃないんだからね。美味しそうだなんて思ってないんだからね」
「ツンデレの使い方間違ってるぞ」
「か、唐揚げも欲しいだなんて思ってないんだからね。美味しそうだなんて……」
唐揚げを口の中に放り込まれた。餌付けされるように。
「ふぁいふぁと……」
私はありがとうと言い、唐揚げを噛み締める。
できればイチゴとかチョコのような、可愛いさとロマンチックを兼ね備えた食べ物が良かったが、唐揚げも悪くはない。
少しだけ高鳴る胸の鼓動を感じつつ、唐揚げという青春を味わった。
「クレープ食べたい」
「カラオケ行こう」
高校生の放課後を象徴する言葉が教室を飛び交う。
蒼空を見ると周りには人が集まっていた。いつもの光景だがいつものように悲しくなる。親友や好きな人が人気者で、自分はその人以外に親しい人がいない場合、劣等感に苛まれる。
何より厄介なのが、劣等感という悪魔は嫉妬という手土産を持って心に居住する。そしてその嫉妬は心を醜くする。
今も蒼空の周りの人間が消えてほしいと願っていた。この感情は蒼空にも言えない。きっと悲しませてしまうだろうから。
「蒼空」
富田雪乃が、蒼空に声をかけた。
人を惹きつけるような彼女の笑顔は、周りの男子たちの視線を集めている。
「このあとボーリング行くんだけど、どう?」
放課後に遊びに誘う。高校生にとっては普通の会話だが、私からしたら黒魔術の呪文に等しい。
迷っている蒼空に断ってくれと祈りつつ、二人が話しているところを見るのは耐え難かったので教室を出た。
一日の中で感情の起伏が激しい。準ぼっちの宿命なのだろうけど、その差で傷も深くなる。
この世界の残酷なところは、一人の力では幸福を手にできなことだ。享受し続けなければ、楽しむことも、笑うこともできない。
一人とは無力。十七歳で痛感する現実が、心に残る傷をなぞるようだった。
下駄箱で靴を履き替えようとしたとき、女子二人の会話が聞こえてきた。
「蒼空くんと雪乃ちゃんて付き合ってるの?」
不快な音が耳に張り付き、胸がざわつく。
「付き合ってはないみたい」
「でもお似合いだよね」
「わかる! 付き合っちゃえばいいのに」
わかるなバカ。全然似合ってないだろう。
みんなから優しいと言われるクラスの人気者同士。勉強もでき、おまけに二人とも容姿が良い。清潔さと気品、爽やかさも兼ね備えていて、大人からの評判も良い。だけどそれぐらいしか共通点はない。これのどこがお似合いなのかが分からない。
幼馴染というエクスカリバーを携える私の方が、圧倒的にお似合いだ。
二人はまだ、蒼空と富田雪乃の話をしている。
これ以上騒音を聞きたくなかったので、早急に昇降口を出た。
駅のホームで電車を待っていると、学校帰りの生徒たちがアニメや好きな音楽の話をしている。
自分の知ってる話題になったとき、羨望と笑い声に対する嫌悪が混ざり合い、言葉にできない感情のグラデーションができあがる。
そんなときは一人で帰っている生徒を探す。相手からしたら迷惑な話だが、見つけると少し安心する。一人でいるが一人じゃない。そう思えるのだ。
改札の方から楽しそうに話す声が聞こえてきた。目を向けると、富田雪乃と数名の生徒がおり、集団の中央には蒼空の姿があった。
この駅は改札を入るとすぐにホームになっている。私は反対ホームに繋がる階段のすぐ側にいた。そして彼女らはこちらに向かってくる。
なので咄嗟にホームの柱に身を隠した。別に隠れる必要はないのだが、なんとなく一人でいるところを見られたくなかった。
蒼空はこのあとボーリングに行くのだろう。全部ガーターになって、恥をかいて、トラウマになって、一生ボーリングに行けない体になってしまえ。
醜い祈りをしていたら、楽しそうな声は階段を上がっていった。自然と息を止めていたのか、安心したように大きく息を吐く。
「何で隠れたの?」
急に声をかけられ、肩がビクッとなる。
ゆっくり振り向くと、視界に蒼空が映った。
「ボーリングは?」
「行こうと思ったけど辞めた」
タップダンスしたい。
「そ、そうなんだ。ふーん」
めっちゃ嬉しい。今なら鼻の穴にスイカをぶち込まれても笑顔で許せる。
「何で隠れたの?」
見られていた。高揚感が羞恥に変わり、顔に紅葉を散らせる。
「別に隠れてないよ。この柱の構造が気になっただけ。いやー、良い柱だ」
いくつかある言い訳の中から最悪のチョイスをした。この言い訳を成立させるためには、父親が柱職人で、幼い頃から仕事を見てきたという設定がなければいけない。今からでもいい、父よ柱職人になれ。てか柱職人てなんだ。
「どこらへんが良い柱なの?」
なぜ話を広げるんだ。「へー、そうなんだ」で終われ。「へー、そうなんだ」はそのためにあるんだよ。
脳をフル回転させ、柱の良いところを探した。その結果、
「駅を支えてますよという、使命感を感じる」
何を言っているんだ私。嘘に嘘を重ねた結果、メルヘン女になってしまった。このままいったら、柱と会話しそうだ。
「ふーん」
蒼空は全部分かっているよ、という目でこちらを見てきた。
「確かにいい柱かも。支えてる感じがする」
嘲るように言ってきた。なんかムカいたので蒼空を睨んでいると、頭にポンと手を置かれる。
蒼空は私の過去を知っている。なぜ人を嫌いになったのか、なぜ人と関われなくなったのか。
それらすべてを含めて『無理に嘘はつかなくていいよ、分かってるから』そんな意味のこもった優しさを頭に置かれた。
なので、分かったという意味を込め「うん」と返事をする。
それに対し蒼空も「うん」と返してくる。
他人から見たら意味のわからない会話だが、私たちだけはその意味を知っていた。
家の近くに海を一望できる場所がある。岬の高台にある公園で、春になると河津桜で景色を染める。夜は星が空一面に散らばり、視界を星の群れで彩る。私が一番好きな場所だ。
電車の中で「久しぶりに行こう」ということになり、蒼空と二人で岬公園にやってきた。
公園の奥にある展望広場まで来ると、夕陽が出迎えてくれた。私たちは展望デッキに上り、海と空を眺める。
視界に広がるのは、空を心地よく酔わせるカクテルのような青とオレンジのグラデーション。瞼を閉じるように水平線に沈みゆく夕陽を、凪いだ海が優しく抱き寄せている。日中は残暑のせいで少し暑かったが、今は秋らしい涼しさが肌を撫でていた。
「綺麗だね」
「うん、綺麗」
本当に綺麗なものを視界に映したときは、修飾語は必要ないのかもしれない。目に映る景色が『綺麗』という言葉を飾ってくれるからだ。
「ここに来ると嫌なことを忘れられる。世界の片隅にいる私に、広い世界を見せてくれるから」
照らす夕陽がスポットライトのように感じた。まるで物語の主人公みたいで、泡沫の希望を持たせてくれる。
「美月もここに来ると、同じようなこと言ってた」
美月ちゃんは蒼空の妹で今年から中学に上がった。数少ない私を慕ってくれる人間だ。
「なあ千星、今も人と関わるのは嫌だ?」
その質問で過去の傷が疼いた。痛みというより苦しい。
他人と関わらなくなったは、そのほうが自分を守れるからだ。あの日から他人に境界線を引いて、この傷を守り続けてきた。たぶんこれからもずっと……
「関わる必要ある? 自分のことを分かってくれる人だけいればいい」
それ以外の人は消えればいい――。たまにそう思うことがある。そして、そんな醜い思考に支配されていく自分に嫌悪を抱く。
「無理に関わる必要はないけど、頭の片隅に置いといてほしい」
蒼空は夕日に視線を向けながら話を続ける。
「心に抱えているもので世界の映り方が変わる。同じものを見ていても、誰かにとっては美しく、他の誰かにとっては苦しめるものになる。だから自分と向き合うことが大事だと思うんだ。外に目線を向けるだけでは、自分の中にあるものを変えられないから。外からの影響で受けたものはそう簡単に剥がせるものではないけど、でも変えようとすることはできると思う」
――このままではダメだよ
人間嫌いの私に対し、遠回しに、傷つけないように、無理をさせないように伝えたんだと思う。
だけどその言葉は、私を突き放すようで心が痛んだ。
「帰るか」
蒼空は背中に夕陽を浴びながら、出口に向かっていく。
その光が、蒼空を遠くに連れていくようで胸が苦しくなった。
晩御飯は味気なかった。父と弟はテレビに視線を向け、カレーを口に運ぶ。母と私は食べることだけに集中していた。
特に会話という会話はないが、仲が悪いというわけでもない。
弟は小学校四年だ。少しだけ歳が離れている。可愛いと思うときもあれば生意気と思うときもある。家ではそんなに話すことはない。
まだ私が弟と同じ歳のときは、よく食卓で学校のことを話していた。
だけどあの出来事以来、家族に学校のことを話せなくなり、それから自然と会話が減ってしまった。親も私に話を聞いてこない。もしかしたら、反抗期と思っているのかもしれない。
テレビに目をやると、再起した経営者の物語を、ドラマ仕立てで紹介していた。
その人は貧困の家庭で生まれたそうだ。幼い頃は虐待され、学校ではいじめに合い、友達は一人もいなかったらしい。そこから努力して、今の成功を掴んだと話していた。
普通なら『自分も頑張ろう』となるのだろうが、今の私は捻くれた見かたをしてしまう。
平凡な家庭で生まれ、仲の良い幼馴染もいる。完全な孤独でもない私は、愚痴すら言ってはいけないのでは、と感じる。
この人に比べれば、私の悩みなんて『それくらいのことで』と言われるようなことだ。中途半端な自分は『辛い』という一言すら言う権利がない。
そんな歪んだ想いが自分を苦しめるのに、人の成功を見ると妬みが這い上がってくる。そしてそんな自分が心の底から嫌いだった。
晩御飯を済ませ、自分の部屋のベランダから星空を見上げる。
星は夜空の中だけで輝ける。朝に怯えながら太陽を厭い、世界を覆う光で星の存在を消してしまう。
――自分と向き合って生きることが大事なんだと思う
蒼空の言葉が頭をよぎった。
私は星を見ながら、子供の頃を思い出していた。
小学生ときの私は活発で誰とでも話せるような子供だった。
今とは真逆で学年の中心にいたし、友達もたくさんいた。
その中でも特に仲の良かったのは明里ちゃんという女の子だ。
毎日のように一緒にいたし、帰る時も一緒。放課後はお互いの家に行ってゲームなどをした。
たまに恋バナもした。このときの私は好きな人がいなかったため、よく妄想を話していた。
「抱きしめられながら『好きだよ』って言ってもらいたいの」
「分かる! いいよね」
私が理想を語ると、明里ちゃんは大きく頷きながら肯定してくれた。
「他の人に聞かれたら恥ずかしいから、誰にも言わないでね」
「もちろん。当たり前じゃん」
他人には絶対に聞かれたくないことまで、その子には喋っていた。信頼していたから。
誰かを嫌いと思うことはほとんどなかったが、どうしても仲良くなれない子がいた。
三宅という男の子だ。
三宅は態度も体も大きく、暴力的なところもあった。
この間は大木くんの頭を叩いていたため、見つけたときは叱りつけた。
酷いときは取っ組み合いになることもある。力では勝てないため、そういうときは噛みついて対抗する。
こいつの一番許せないところは、大人の前では良い子ぶることだ。だから先生たちは三宅のことをあまり叱りつけない。それが物凄く腹ただしかった。
小学六年の夏頃、その日は私の人生を変える大きな出来事があった。
昼休みに外でサッカーをしていたが、急に降ってきた雨で教室に戻ることに。
濡れた衣服を手でバサバサと叩きながら廊下を歩いていると、「ぶっ殺すぞ、明里」と憎悪が混じる声が教室から聞こえてきた。
私は急いで教室の中に入ると、そこには明里ちゃんの髪の毛を掴む三宅がいた。
周りの子は怯えながらその様子を見ている。
その光景に怒りが一瞬でピークに達した。
「何やってるの! 離せ」
三宅の手を叩き落としたあと、泣いている明里ちゃんに「大丈夫?」と声をかけた。
だが反応はない。体は震え、恐怖していることがこちらにも伝わってくる。
「明里ちゃんに何したの!」
生きてきた中で、一番の怒りを視線に込めた。
「こいつが悪いんだよ。俺は何も悪くない」
「は? 何で明里ちゃんが悪いの? 本当に腐った奴」
心の底からムカついた。正当な理由もなく、人に害を与える目の前の人間が。
「明里、さっき言ってたこと、こいつに言ってやれよ」
言っている意味が分からなかった。明里ちゃんをに視線を移すと俯いている。
「じゃあ俺が代わりに言ってやるよ」
「やめて」
明里ちゃんは慌てたように三宅に懇願する。まるで秘密を握られてるかのようだった。
「こいつさ、お前のこと嫌いなんだって。うるさいし、すぐでしゃばるからムカつくってさ」
「嘘に決まってる。明里ちゃんがそんなこと言うはずない」
「じゃあ聞いてみろよ」
彼女に目をやると、視線を逸らされた。
「佐藤と明里がお前の悪口を言ってたから伝えようとしたんだよ。そしたら服を掴んできたから、髪の毛を掴み返しただけだよ」
信じられなかった。絶対に三宅が嘘をついていると思った。だが、明里ちゃんは何も言い返さないまま、ずっと床に視線を落としている。
何で反論してくれないの。嘘なら嘘って言ってよ。
私は教室の隅にいた佐藤さんを見つけて問い詰めた。
「嘘だよね。明里ちゃんが私の悪口なんか言わないよね」
「……」
沈黙で返された。ほとんど答え合わせになっていたが、それでも信じたくなかった。
他の子に聞いてみよう。「言ってないよ」この一言が聞きたい。
「今の嘘だよね。明里ちゃんは何も言ってないよね」
一番近くに座っていた男の子に聞くと、困惑した表情で明里ちゃんを見た。そして少し間を置いたあと、
「言ってたよ……楽しそうに」
隣の席に座っていた子も、黙って頷いた。
色んな感情が頭を駆け巡り、悪い夢の中を彷徨っているようだった。
「おい明里、直接言ってやれよ。さっき、うざいって言ってただろ」
彼女は今にも泣きそうな顔だった。下唇を噛んだまま、肩を震わせている。言わないことが答えかもしれないが、私はまだ明里ちゃんを信じている。だって親友だから。
「早く言えよ」
三宅は明里ちゃんの前に立って拳を振り上げると、彼女は閉した口を開いた。
「正直うざい。ちょっとしたことではしゃいだりして、うるさいって思うときもある」
自分の意識がどこにあるのか分からなかった。仲が良いと思っていた子が、自分を『うざい』と思っていた。
「あとお前の妄想キモイぞ。抱きしめられながら、好きだよって言ってほしいんだろ」
恋バナをしたときに彼女に話したことだ。それは誰にも言わないでとお願いしたのに……
周りからクスクスと笑い声が聞こえ、涙が零れそうだった。でも泣けば馬鹿にされる。この場から立ち去りたいのに、足が思うように動かない。
そしてなにより怖かった。この状況で聞こえる笑い声や、信じていた人が自分を嫌っていたという事実が。その恐怖で声も出なくなっていた。
「謝れよ」
涙を堪えるのが限界を迎えたとき、後ろから声がした。振り向くと、奥村蒼空くんが立っていた。
奥村くんとはほとんど話したことがない。いつも一人でおり、自ら周りと距離をとっているように見えたので、あまり話かけることはしなかった。でも女子からは人気があった。よくかっこいいと言われていて、みんなよりも大人びているいるところがクールだとかで騒がれていた。
「藤沢に謝れ」
奥村くんは三宅の前まで行き、そう言った。
「は? それ俺に言ってんのか」
三宅は上から見下ろすように言う。体を大きく見せたいのか、胸を張って背筋を伸ばしている。
奥村くんの肩は震えていた。これだけ身長差と体格差があればそうなるのは当然だ。
「こいつびびってやんの。だっせ」
つんざく笑い声が教室に響く。私が代わりに言い返してやりたかったが、思うように口が動かない。
「……謝れよ」
奥村くんは消え入りそうな声で言った。
三宅は馬鹿にしたように耳に手を当て「なんて?」と聞き返す。それを見て笑ってる奴らがいることに腹が立った。何もできないくせに人を笑う資格はない。
「謝れって言ってんだよ!」
奥村くんが張り上げた声で言ったからか、一瞬、三宅はたじろいだ。だが周りの視線もあり、すぐさま表情を戻す。
「誰に向かって、そんな口聞いてるのか分かってんのかよ」
三宅は蒼空くんめがけて拳を振り下ろそうとした。
『ドン!』という物音が教室に響く。でもそれは殴った音ではなく、三宅が壁にぶつかった音だった。
ほとんど無意識だったと思う。さっきまで動かなかった私の足が、自然と三宅のお腹を蹴っていた。
壁まで飛ばされた三宅は腹を押さえながら苦痛の表情を浮かべている。
「てめえ……」
ゆっくりと起き上がる三宅を見て、私は奥村くんの腕を掴んで教室の外に走った。
無我夢中だった。なんで彼の腕をとったのかも、廊下を走ってるのかも分からない。でもあの場から抜け出したかった。彼と一緒に。
しばらく走ったあと、理科実験室に入った。中に入ると私は手を離し、無言のまま二人で立ち尽くした。
「はい」
奥村くんがハンカチを差し出してきた。青と黒のタオル生地で、英語で書かれているから読み方が合っているかは分からないが、ブルーベリーと書かれている。大人が使うようなものなので、たぶんお父さんのものだと思う。
最初は渡された意味が分からなかったが、頬に伝うものを感じ理由が分かった。
「ありがとう」
私は優しさで涙を拭った。
奥村くんが椅子に座ったので、とりあえず隣に座ることにした。だがお互い無言のまま時間が過ぎていく。
先に沈黙を破ったのは奥村くんだった。
「ごめん、何もできなかった」
膝の上に置いている拳を力強く握りしめながら彼は言った。
「人を助けるって、アニメのヒーローみたいに悪いやつを倒したりするだけじゃない。寄り添ってくれるだけでも、その人は救われるんだよ」
奥村くんは拳の力を緩めて「うん」と頷いた。
そして視線を下に向けながら、恥ずかしそうな顔で言葉を付け足した。
「俺は『抱きしめられながら好き』って言ってもらうことを、気持ち悪いとは思わない」
今、それを言われると恥ずかしさが込み上げてくる。でもそれ以上に嬉しかった。肯定してくれたことが。
あの場所ではみんなが敵に見えた。あそこにいる全員が私の悪口を言って、笑いながらのけ者にしてる。世界から私だけが切り離されて、二度と戻れなくなると思った。あのたった数分ですべてが壊れそうだったが、彼が私を掴んでくれた。世界から逸れないように。
あと少し遅かったら、私の中の私はきっと死んでいた。
「俺は話すのとか得意じゃないから、相手が話してくれると助かる。だから……話し相手にならなれると思う」
また涙が出そうになったので、太ももを思いっきりつねってなんとか堪える。
「私、でしゃばるし、うるさいよ」
「俺はあまり喋らないから、ちょうどいいと思う」
「でもいつか、面倒だと思うかもよ」
「思わない」
「本当に?」
「本当に」
「奥村くんがそこまで話したいって言うなら、話してあげる」
早速でしゃばった。嬉しさを隠したくて。
「別に話したくないなら、話さなくていいよ」
「嘘です。話してください」
「うん」
奥村くんは少し笑ったように見えた。それがちょとだけ嬉しかった。
「私は藤沢千星って言います。千星は数字の千にお星さまの星」
あまり話したことはなかったため自己紹介をした。
「俺は奥村蒼空って言います。蒼空は草冠に倉庫の倉って書いて、空は青空の空」
蒼空良い名前だと思った。
「星と空だね」
奥村くんが優しい表情で言う。
「星と空だね」
私も倣ってそう言った。
***
そのあとの小学校生活はずっと蒼空と一緒だった。
最初は私が一方的に話してたけど、そのうち蒼空も話してくれるようになり、バランスの取れた関係性になったと思う。
そしてあの件以降、他の子とは話さなくなった。
――うざい
あの言葉が頭をよぎり、人と関わることが嫌になった。話せたのは蒼空の家族ぐらいだ。
三宅はあれ以降も私に絡んできては罵倒してきた。そのたびに取っ組み合いになったが、そこに蒼空も参加してくれて二対一で戦った。大抵は私たちが勝つことが多く、小学校を卒業する頃には三宅も絡んで来なくなった。
中学に上がると蒼空の周りにはいつも人がいた。小学校のときと比べて明るくなったし、他の人とも話すようになった。
離れていくようで寂しかったが、それでもずっとそばに居てくれた。
私と世界を繋ぐ結び目であり、私が私でいられる場所。蒼空はそういう存在だ。
でも星は夜空でしか輝けなくて、朝になれば太陽に消されてしまう。蒼空がいないと、私は誰にも見えない存在になった。
ベランダに吹く少し冷たい秋の夜風が、今も消えない傷跡に染みるようだった。痛みを帯びた過去は足枷に変わり、進んでいく未来から私を遠ざけていく。
簡単に人は変われない。変わろうとしても傷が痛むだけ。ただ生きるだけなのに、なんでこんなに難しいんだろう。他の人は進んで行くのに、なんで自分は立ち止まったままなのだろう。
SNSで『死にたい』という言葉が流れてくると、私も考えてしまうことがある。その感情には色んなバックボーンがあり、抱えてる過去も違えば、痛みも違う。でも辿り着く先は『死』という出口。私が死にたいと思うときは『生きたくない』が正確な言葉だと思う。だから死にたいは少し違うのかもしれないけど、他に言葉が見つからないから『死にたい』に変換されてしまう。
私は夜空を見上げて流れ星を探した。願いを叶えてくれるかもという淡い期待を抱きながら。
十二月半ばを迎え、木々が涙を零すように葉を散らせていた。その情景に物悲しさを覚え、なんだか寂しくなる。
私は第三支部の公園でお昼ご飯を食べていた。
本当は室内で食べたかったが、どこもかしこも生徒がいて、なくなく公園に来た。
冬は青空が綺麗に見える。その美しさと地上の荒涼具合が、準ぼっちにはちくちくと刺さる。心がむず痒い。
ため息混じりに空に息を吐くと、隣に誰か座った。今はそれが誰だか分かる。
変態だ。
ウソ、蒼空だ。
「ため息を吐くと幸せが逃げるって」
「じゃあタクシー捕まえて追いかけないと」
「運転手になんて言うの?」
「前を走ってる幸せを追ってください」
「お客さん、病院は反対方向ですのでUターンしますね」
「しばくぞ運転手。お前の幸せよこせ……」
蒼空はコンビニの袋からペットボトルのお茶を取り出し「はい」と言って渡してくれた。しかも暖かい。この寒空の下では人工的な温もりでもキュンキュンする。たぶんキュンキュンの使い方は間違っているが。
「ありがとう、お礼に冷え切ったハンバーグをあげよう」
「冷え切ったハンバーグはお礼には入らない」
「私がお礼と言えばお礼なのだ。千星さんの言うことは絶対なのだ」
「勝手に王様ゲーム始めないで」
「私にお茶を渡した時からこのゲームは始まって……」
蒼空が私からペットボトルのお茶を奪った。
「私のお茶」
「あげるなんて言ってない」
「手渡ししたらあげるってことでしょ」
「ううん。見せびらかしただけ」
「性格わる! 親の膝が見てみたい」
「親の顔だろ」
こんなくだらない会話が好きだった。他人からしたら意味のない話でも、私にとっては冬の寒さを凌ぐ、温まるやりとりだった。
「学校終わったあと、買い物行くから付き合って」
蒼空からデートに誘われた。ニヤつきそうになったから、冷えたハンバーグで口元を隠す。
「何買うの?」
「絵具」
「美月ちゃんの?」
「そう」
蒼空の家に行くと、美月ちゃんは月の絵をよく見せてくれた。色合いが綺麗で引き込まれるような絵だった。
「じゃあ学校終わったら行こう」
デートだと思うと言葉の語尾に音符が付く。弾むような高い音色で冬に色を付けるような。
放課後、学校の最寄駅から二駅離れたショッピングモールの画材屋に、買いも……デートに来ていた。
壁一面に並んだ絵具を見ながら「大きい歯磨き粉みたい」と蒼空に言ったら、ゴミを見るような目で私を蔑んできた。
絵具にも色々あるらしく、美月ちゃんはアクリル絵の具を使うらしい。
「美月ちゃんて美術部入ったんだっけ?」
「うん」
「絵上手だから、コンクールとかで入賞とかしちゃうんだろうね」
「……うん」
一瞬だけ蒼空の表情が曇った。悲しみを帯びた瞳が心に残る。
蒼空はUー35と書かれた絵具を手にすると、レジに向かっていった。
画材を買ったあと雑貨屋に寄った。薄暗い店内に点在する間接照明と、棚に並んだディフューザーの芳香が世界観を作っている。アンティーク調の商品を主に扱ってるようで、それがまた雰囲気を醸し出し、一つ一つの品が登場人物のように見えた。
店の奥側の壁にペンダントがかけられていた。黒いエナメルで覆われた円の中に、金色で施されたアルファベットが描かれている。
A〜Zまでが横二列で並べられており、ポップには『好きな人のイニシャルを持ち歩くと、その人と結ばれるかも』と書かれていた。
一般の女子高生なら「これで好きな人と結ばれる! 買っちゃおう」となるが、私のような目の肥えた女子高生には、迷信まがいの小細工など通用しない。
そう思いつつ『S』のイニシャルを探した。でも買うわけではない。私は大人の手のひらで踊るような女ではないのだ。だが一応探してみた。左手に財布を抱えながら。
だが先に目に入ったのは『Y』の文字だった。
――雪乃
すぐに頭をよぎった。噂される二人、お似合いと言われる二人、蒼空は彼女のことをどう思っているのだろう。隣にいる蒼空をそっと見ると、ペンダントを眺めていた。どの文字に視線を向けているのかは分からない。
もし『Y』を手に取ったら――そう考えると不安が顔を覗かせてきた。そして耳元で囁いてくる。
「姉さん、こいつは絶対に『Y』を取りますよ。『Y』を取るような顔してますもん。蒼空くん、今日の昼ごはん焼きそばパン食べてたでしょ? 焼きそばの頭文字『Y』じゃないっすか。あー、これ確定だわ。焼きそばパン伏線すわ。これ回収しにきてますわ。姉さんドンマイっす」と、したり顔で不安は私を煽ってくる。
これ以上この場にいたら、せっかくのデートが台無しになる。
「喉乾いたから、何か買ってくるね」
「うん」
蒼空はペンダントを真剣に見ながら返答した。
不安が頂点に達する前に店内を出ようとしたが、どうせなら蒼空の飲み物も買おうと思い踵を返した。
「蒼空も何か飲……」
振り向かなければ良かった。さっさと店を出れば良かった。目に映るすべての記憶を消してしまいたい。
蒼空は『Y』と書かれたペンダントを手に取っていた。
頭が真っ白になる。彩られた世界から一瞬にして色が奪われ、すべてが白と黒に変わっていくように。
体が動かなくなる。大空に羽ばたく鳥の羽を引きちぎり、すべての自由を奪うように。
心が灰になる。痛みを伴う感情すべてを焼き尽くすように。
蒼空はペンダントから手を離し「俺も喉乾いたから買いに行く」と言って、店から出ようとする。
「買ったら。おまじない程度かもしれないけど、叶うかもしれないでしょ?」
何を言ってるんだろ私。そんなこと思ってないよ。
私の言葉で立ち止まった蒼空は、視線をこちらに向けて唐突に聞いてくる。
「千星はさ、好きな人いる?」
急な質問で驚いたが、その答えは決まっていた。なのに……
「いないよ、恋愛とか興味ないし」
強がるなよバカ。嘘なんてつかなくていいよ。
「そっか」
蒼空は語尾に沈黙を携えたあと、「じゃあ、飲み物買いに行こう」と背中を向けた。
「買わなくていいの?」
聞かなくていいのに、喉元から言葉が押し出される。
「俺のは……」
蒼空は優しい笑顔で振り向く。
「きっと叶わないから」
そう言って店を出て行った。切ない余韻を残して。
帰りの電車は空気が重苦しかった。
乗車したとき、一席だけ空いていたので蒼空が座らせてくれた。私は優しさに甘えて腰を下ろす。目の前に蒼空が立っているが、顔を見ることができなかった。
――きっと叶わないから
雑貨屋での残響が鼓膜に張り付いている。蒼空は富田雪乃が好きなんだと思う。『Y』のペンダントを手に取っていたから。
友達がいれば情報を得られるのだが、私にそんな友はいない。かといって蒼空には聞けないし、聞く勇気もない。
それに今はうまく話せない気がする。会話全部がうわの空になりそうだ。蒼空も全然話さない。たぶん富田雪乃のことを考えているのかもしれない。
いつもなら学生たちの笑い声が煩わしかったが、今は沈黙を埋めてくれるようで助かっている。
自宅の最寄り駅で降りると、すっかり日は落ち、辺りは暗くなっていた。
蒼空は私の家まで送ってくれたが、その間も会話はなかった。
玄関のドアを開けたあと、ふと空を見上げた。月が綺麗に夜を灯している。その光がなぜか孤独に見えた。
食事は喉を通らなかったため、風呂に入り部屋に戻った。早く寝ようと思いベットに横になる。今日のできごとを忘れたかったから。
だけどこういう時ほど眠気はそっぽを向く。手繰り寄せようとしても、どこにいるのか分からない。
蒼空の恋が叶わないのは、自分にとっては喜ばしいことだ。
だが反面、その辛さも分かるし、蒼空の悲しい顔も見たくない。
こういうとき、素直に喜べる人が恋を叶えるんだろうなと思った。今の状況をうまく使って、自分に矢印を向けさせる。それができたらどれだけ楽なんだろう。この世界の全員に嫌われてもいいから、そうなりたかった。
もし富田雪乃と付きえば、私は蒼空といることはできない。相手からしたら、幼馴染だとしても一緒にいるところを見るのは嫌だと思う。私だったら嫌だ。なら自分から離れないといけない。
ずっとこのままの関係性でいれると期待していた。ちゃんと考えれば分かることなのに、考えたくなかった。今の関係に甘えていたのかもしれない。好きな気持ちをぶら下げながら、好きと伝えることを恐れていた。いずれ蒼空の隣で笑い合うことができなくなる。
一人になることも、不安なときに支えになる人がいなくなることも、世界から自分が取り残されてしまうことも、全部怖い。
でもほんの数ミリ期待している。もしかしたら蒼空も……という淡い希望が。
何も伝えないまま星影の中で恋を灯し続けるか……
この関係性が崩れるとしても想いを伝えるか……
それから一時間、揺蕩う感情を部屋の中で彷徨わせながら、やっとの思いで決心がついた。
ナイトテーブルで充電していたスマホを取り、電話をかける。
プルルル……プルルル……プル
――もしもし
「今、大丈夫」
――うん
「日曜日、空いてる?」
――空いてるよ
「良かったらさ、遊びに行かない」
――いいよ。どこ行くの?
「どこに行くとかは決まってないんだけど、決まったら連絡する」
――うん、分かった
「じゃあ……おやすみ」
――おやすみ
電話を切り、天井に向かって大きく息を吐いた。場所を決めてから電話をかけようと思ったが、時間を空けると決心が鈍りそうな気がした。
明後日の日曜日、私は好きな人に想いを伝える。たとえ叶わないとしても、私は夜空に恋を散らせる。
日曜日は晴天に恵まれた。空を漂う雲が青に映える。
今日の私は少しオシャレだ。白のワンピースの上にグレーのニットを重ね着し、足元は黒のスニーカーできめた。そしてお気に入りの白のショルダーバック。いつもはもっとラフな格好だが、今日はデートだからそれっぽくしたい。
他人からみたらオシャレじゃないと言われるかもしれないが、私がオシャレだと思っているからそれでいい。
蒼空と付き合える可能性はほとんどないかもしれない。だけど少しでも可愛いって思ってほしかった。
緊張とワクワクを交えながら駅の前で待っていると、
「ごめん、待った」と蒼空が駆け足で来てくれた。待ち合わせの時間よりも十五分早いのに。
「ううん、八時間くらいしか待ってない」
私は、緊張をほぐすように冗談を言う。
「八時間ならそんなに待ってないな」
「どんな倫理観のもと育ってきたんだよ」
一昨日のことがあったから少し不安だったが、いつも通りに話せそうだ。良かった。
「どこ行くの?」
「内緒」
「じゃあ楽しみにしてる」
「楽しみにしておけ」
今日は想いを伝える。昨日の夜に改めて覚悟を決めた。怖いけど一歩踏み出したい。
私はずっと言えなかった二文字を握りしめながら、改札に入った。
背伸びをしてオシャレなカフェに来た。店の奥に大きな窓があり、そこから海が一望できる。まるで絵画のような景色を拝めながら、オムライスを口に運ぶ。蒼空はクリームパスタを頼んでいた。
「オムライスが五臓六腑に染み渡る」
「女子高生はそんな表現しない」
「男子高校生はクリームパスタを頼まない」
「クリームパスタは普通に頼む」
「海の見えるカフェでクリームパスタを頼んだら、隣の女子高生がオムライスを食べながら臓六腑に染み渡ると言っているが、女子高生は普通そんな表現をしない」
「勝手にラノベを始めるな」
こんなオシャレな場所でする会話ではないが、どんな場所でも同じでいられることは心地よい。
蒼空は大人ぶって、食後にコーヒーを頼んだ。ブラックで飲んでいる。カッコつけやがって。
私はクリームソーダを頼んだ。メロンソーダの上のアイスがくまになっている。耳はクッキーで作られ、顔はチョコで描かれている。
「可愛いね」
ふと蒼空の方に視線をやったら、私の目を見てそう言ってきた。
「え?」
急に何だ? もしかしてこのままキスされるんじゃないか。嫌じゃないけど、もっと他に場所があるだろう。私のファーストキスだぞ。せめてアルプス山脈の麓でブランコを漕ぎながら、立ち上がるクララを横目にこっそりとする、とかあるだろう。
クララがみんなを引きつけている間にするのが令和の主流だろ。なんのためにクララが立つんだよ。クララの気持ち考えろよ。
私の妄想が暴走していると、蒼空は「くま、可愛いね」と囁くように言った。
そっちかよ。何で私を見た。勘違いするだろう。私のファーストキスを返せ。いやまだしてなかった。
それよりも、私より先にくまが可愛いと言われた……
おしゃれした私よりも先に……
「可愛いよね、くまって。頭カチ割りたくなるよね」
目の奥が笑っていない笑顔を浮かべて、アイスで作られたくまの脳天にスプーンを入れる。
「ならねーし、怖えーよ」
世界に無数ある可愛いを、この世から一つ消した。
クラゲが夜を彷徨っていた。
暗い水族館は好きだ。夜を泳ぐような魚たちが幻想的に美しい。
その中でもクラゲ別格だった。暗闇に映し出される水槽の中の青を、雲のように彷徨う白いクラゲたち。まるで空を見ているみたい。
私は釘付けになっていた、初めて青空を見た子供のように。
後ろから「クスッ」という笑い声が聞こえる。
振り返ると、蒼空が幼い子を見るような目でこっちを見ていた。
たぶんこう言う――子供みたい。
「子供みたい」
ほらね。絶対に言うと思った。
「だって綺麗なんだもん」
蒼空が私の隣に来て、クラゲの泳ぐ水槽を見る。
「可愛い」
くまに続いてクラゲにも言った。私にも言え。オシャレしてきたんだぞ。
「ええ、クラゲは可愛いですよ。とても」
拗ねたように言う自分は、本当に子供みたいだと思った。素直にそうだねって言えばいいのに。こういうところは治さないといけない。
「クラゲじゃなくて、千星の今日の服」
え?
「いつもより大人っぽい」
ちょ、おい……あの……え、いや、その……なんていうか、ほら……あの……えっと、その、というか、あの……嬉しすぎて語彙が死んだ。
周りが暗くて助かった。今の私の顔はポストのように赤いと思う。ここが街中だったら、子供が私の口の中に手紙を放り込んだだろう。
――ちょっとお姉ちゃんはポストじゃないよ
――赤いからポストかと思った
――あ、赤くなんてないよ
――赤いよ。あっ! もしかして隣のお兄ちゃん彼氏?
――か、彼氏なんて、そんな! 確かにそう見えるかもしれないけど、彼氏じゃな……
――俺の彼女だよ
――蒼空……
――千星、今日も可愛いよ
「こんな街中で、恥ずかしいだろバカ」
「恥ずかしいのはこっちだよ」
ハッとなって我に帰る。悦に入り妄想が爆発してしまった。しかも現実世界に声をお届けしてしまうし、周りの人たちがこちらを見て笑っている。めっちゃ恥ずい。とりあえず、一旦冷静になってから、
「あ、ありがとう」
本当に嬉しかった。ちゃんと見てくれていたこと。それを言葉に乗せてくれたこと。また一つ宝物をくれたこと。好きな思い出がまた一つできたこと。何でもないことが特別に感じる。
何となく蒼空も照れてるように見える。それがちょっと可愛かった。
「蒼空も可愛いよ」
からかうように言ってみた。怪訝な顔でこっちを見てきたが、知らんぷりしてイワシの群を見に行った。そしてもう一度「ありがとう」と伝えた。蒼空には拾えないほど小さな声で。
高層ビルが立ち並ぶ夜の街は、イルミネーショに彩られていた。
道路に沿って植えられた木々に電飾が施され、青いトンネルが作り出されている。
このあと私は気持ちを伝える。歩くたび早くなっていく鼓動が、周りの喧騒をかき消して心音だけが頭に響く。
隣で歩く蒼空は、今何を思っているんだろう。もし「好き」と伝えたら驚くかな? そのときはどんな顔をするだろうか。混濁する想いが胸を締め付けて苦しくなっていく。
そんなことを考えているうちに駅前に着いた。ロータリーの中央にある大きな木が、LEDという魔法にかけられてクリスマスツリーになっている。カップルがツリーを背に自撮りしているのが視界に入る。
今日は告白するタイミングは何度もあった。だけど言い訳しながら先延ばしにした。今じゃないとか、あそこで言おうとか、もっと良いタイミングがあるとか。
次に言い訳をしたら言えないような気がした。だから、ここで言おう。
横断歩道を渡り、駅の出入り口付近まで来たあと、立ち止まってツリーに視線を移した。想いを伝えるのに心の準備がしたかったからだ。ツリーに見惚れてるふりをすれば時間が稼げる。
程なくして、鼓動の速度が緩やかになった。
ツリーのてっぺんにある光り輝く星に『想いが伝わりますように』と願いを込め、蒼空の方に体を向ける。
「今日は楽しかった。ありがとう」
まずはお礼を言う。緊張を慣らす意味でも。
「俺も楽しかった」
蒼空は優しく笑ってくれた。その顔がとても愛おしい。
大きく息を吸うと、冬の冷たい風が喉の奥を冷やした。
言うなら今だ。伝えないと。
「あのね、蒼空……」
蒼空と目があった。その瞬間、すべてが崩れてしまいそうで言葉を詰まらせた。覚悟を決めたはずなのに言葉が喉元で痞える。
いつの間にか目を伏せていた。蒼空の視線を感じるが顔を上げられない。鼓動が再び早くなる。
寒さからか、それとも極度の緊張からか、声どころか口すら開けない。たった二文字の言葉が蜃気楼の中に消えていくみたいだった。目の前にあるはずなのに掴むことができない。
心音をなだめるように息を吐く。蜃気楼を消すように。
「千星」
名前を呼ばれたので蒼空を見ると、神妙な顔つきでこちらを見ていた。
「ずっと言おうと思ってたことがある」
嫌な予感がした。
「俺、好きな人がいて……」
「ちょっと待った」
私が告白しようとしていたのを察したのかもしれない。こっちが言う前に自分から伝えようと。
もし好きと伝えればこの関係が終わってしまうかもしれない。でも私が何も伝えずにいたら、仲の良い幼馴染のままでいられる。蒼空のことだから気を効かせたのかもしれない。最後まで優しくするなよ、バカ。
再び視線を下に置いた。蒼空を見たらたぶん泣く。タイタニックぶりに号泣する。ジャックの気持ちが分かる気がした。いや、全然分からん。シュチュエーションが違いすぎる。ダメだ、タイタニックを思い出したら余計に泣きそうだ。
「千星、聞いてほしい。俺、好きな人がいて……」
やめて、言わないで、まだ準備ができてないから。絶対に泣くから、今だけは言わないで。
「ずっと言えなかったけど……」と言ったあと、言葉が止んだ。
言いづらいことだから躊躇しているのかもしれない。もし私の想いを察しているなら、死刑宣告をするようなものだ。孤独に突き落としかねないから、言葉を選んで頭の中で推敲している可能性もある。
色んな考えが交差し始めると、沈黙を彷徨っているように感じた。
目的地が分からない電車に揺られ、扉が開くのをただ待っているだけのような、そんな沈黙だった。
十秒ほど経っても蒼空は何も言ってこない。心配になって、顔を上げようとしたときだった。
「雪――」
その言葉を聞いて思わず走り出してしまった。
ほとんど無意識だと思う。防衛本能だったのかもしれない。傷をつける覚悟より、傷が付くことの拒絶が上回った。
本当に何をやっているんだろう私は。自分の臆病さが情けない。
視界がぼやける。いつの間にか涙が出ていたみたいだ。でも泣いている姿は絶対に見せられない。蒼空に私の気持ちが伝わってしまうかもしれないから。そしたら言い訳もできないし、話すことすら憚られる。
「千星」
背中から蒼空の声が聞こえる。すぐ後ろまで来ているのが声の大きさで分かった。
今追いつかれたら泣いているところを見られてしまう。
涙を袖で拭い、青信号が点滅する横断歩道を走り抜けようとしたときだった。
鮮明になった視界に二つのものが目に入る。
小学生くらいの女の子が空を見上げながら渡っている姿と、速度を落とさず横断歩道に向かってくる車だ。
――轢かれる
その瞬間、自然と体が向かっていった。
私は女の子の体を守るように強く抱きしめると、強い光が横から当たった。顔を向けると、車が私たちの方に突っ込んでくる。
――あっ、死んだ
そう思ったとき、周りのものがスローモーションに流れた。
死ぬ間際に時間がゆっくり流れる現象があると、テレビで見たことがある。確かなんだっけ、サキイカ? いや、タキなんちゃら現象だったかな。
鮮明なほどに一つ一つのものが視界に入ってくる。
車に乗っているのはカップルかな? 二人とも窓の外を見上げてなんか言っている。何を見てるんだろう。いやそうじゃない。よそ見するなよ、運転に集中しろ。死ぬぞ、女子高生と幼い女の子が。呆気ない最後だ。結局、蒼空には何も伝えられなかった。こんなことになるなら言えばよかった。でもこれでよかったのかもしれない。どうせ一人になるなら、いっそのこと死んだほうが楽かも。いや、やっぱり伝えたい。『好き』って言いたかった。
伝えたいことがたくさんあったけど言えそうにないや。ごめんね、ありがとう、それと、バイバイ蒼空。
死を受け入れたとき、体が前方に飛ばされた。
轢かれた? いや、そしたら横に飛ばされるはずだ。背中を誰かに押されたような感触がある。それと何か衝撃音のようなものも耳に入った。
肩から地面に落ちる。ほぼ無意識で体を捻り、女の子が頭を打たないように庇っていた。
腕の中の女の子は何が起こったのか分からないという表情をしている。それは私も同じだった。
意識がはっきりしたのは、女性の悲鳴が聞こえたときだった。
その声で咄嗟に振り返ると、視界に入る光景に意識が飛びそうになった。
なんで……ウソだよ……やめてよ……
――千星
車に轢かれそうになったとき、背中から聞こえてきた声が再生される。
嫌だ。嫌だ。嫌だよ。
あのとき背中を押したのって……ウソだ……嫌だよ蒼空。
周りの人が蒼空のところに集まって来る。
私の方にも女性が来て声をかけてくるが、耳に入ってこない。
昏迷した私は、血を流して倒れている蒼空を見ていることしかできなかった。
手術室付近の家族控室は静寂と緊張に包まれていた。
ここには私と私の母、蒼空の両親と妹の美月ちゃんがいる。
蒼空の両親は手を祈るようにしながら、蒼空の帰りを待っている。
美月ちゃんは鬱ぐように俯いており、意識が抜けているようだった。
ここに来てどれくらい経つのだろう。永遠と言えるほどの時が流れているように感じる。私の母は「大丈夫、きっと助かる」と言うが、その言葉は私の心まで届いていなかった。蒼空が死んでしまう恐怖が胸に纏わりつき、吐き気を何度も催していた。手足が震え、悪寒が背中をなぞる。神様なんて信じていないが、このときだけは神様に祈った。
――蒼空の命を救ってくれるのであれば、この命を差し上げます
何度も何度も頭の中で復唱した。
神様からしたら都合のいい人間と思われるかもしれない。私を嫌悪しているかもしれない。それでもこの願いだけは叶えてほしい。もう何も望まない、蒼空が他の人と結ばれてもいい、蒼空が自分のことを嫌いになってもいい、ずっとひとりぼっちのままでいいから、蒼空だけは助けて下さい。
能う限り祈った。両手の指が軋むほど力を込めながら、一生の運をすべて使い切るように。神への信仰を誓い、契りを結ぶように。この瞬間に私のすべてを捧げた。幼馴染に、救ってくれた人に、隣で笑ってくれた人に、私の大好きな人に――
控室の扉が開き、担当医だと思われる人が入ってくる。私は瞬間的に顔を伏せた。表情で結果が分かるのが怖かったから。
「蒼空は助かったんですか?」
蒼空のお母さんの声だ。蒼空の命を案じていたことが声だけで伝わってくる。
だが言下に振り下ろされた言葉は、
「残念ながら……」
神への祈りが呪いに変わった。そして絶望へと引き込まれる。
蒼空の両親はその場に崩れ落ち、慟哭の雨を降らせた。医師は言葉を慎重に選びながら二人に言葉をかけている。
母は私を抱きしめた。きっと寄り添ってくれているのかもしれない。でも、慰めも、同情も、励ましも、気遣いも、何もいらない。蒼空の命だけあればいい。なんで蒼空なの? なんで、死んだの? なんで……
私の大切な人は十七歳という若さでこの世を去った。
窓の外には、雪が降っていた。
蒼空が亡くなってから二週間。その間、外の世界を遮断するように部屋に閉じこもっていた。
私は行かなかったが今日は始業式だった。学校に行けば教室の空席が目に入る。一人でいる辛さよりも、世界に生じた埋められない空白が耐えられない。
それと通夜も行かなかった。行ってしまえば、蒼空が亡くなった現実を受け止めなければいけない。私の中ではまだ生きているし、何より蒼空の家族に合わせる顔がない。
蒼空の笑った顔、二人だけの思い出、くだらない会話。その全てが過去になってしまうようで嫌だった。
この二週間、両親は何も言ってこなかった。ご飯も部屋の前まで持ってきてくれた。だけど食欲がわかず、お茶と惣菜を少しだけ口にするだけだった。食べるというより、胃に入れるが的確な表現だ。
毛布に包まりながら、あの日の出来事を思い出す。もし私が蒼空を誘わなければ、もしあのとき想いを伝えていれば、もしあのとき蒼空の言葉を聞いていれば。何度もたらればを想像し、罪悪感に蝕まれる。
私が殺した。直接ではなくとも、因由の種を私が撒いた。だから蒼空は……
「死のう」
百回は言っている。最初は「死にたい」だったが、今は死の淵に立ち、何も見えない闇の底を見下ろすように「死のう」と漏らす。落ちてしまいたい。私なんかが生きていても意味はない。学校のみんなも思っているだろう。なんで蒼空なんだろうって。
もう終わりにしよう。そう思ったときだった。
ふと、蒼空と一緒に夕陽を見たことを思い出す。
――自分と向き合って生きることが大事だと思うんだ。
あのときの言葉が頭の中に響いた。
なぜかは分からないが、呼ばれてるような気がした。
家をこっそり抜け出し、岬公園の展望広場にやってきた。辺りはすっかり暗く、夜空の星が鮮明に輝いている。
星屑が照らす冬空は美しかった。こんなときでも、まだそう思える心があることに驚いたが、少しだけ痛みが和らぐようだった。
それからしばらく星を眺めた。二週間、世界から隔絶していたからか、心がひどく汚れていた気がする。纏わりついた嫌悪が体に重くのしかかり、罪悪感が蔦のように心臓に絡みついて息苦しかった。生きていること自体が蒼空への冒涜だとも思った。
人が死んだら星になると言うが、その星が死んだらどこへ行くのだろう。また人に戻るんだろうか? そしたら、蒼空とまた会えるのかな? そんな幻想を抱いていると流れ星が夜空を駆ける。
「蒼空とまた会えますように」
思わず声にして願った。しかも生き返るではなく会えるようにと。自分の心の隅にしまっていた願望が、流れる星を見て欲望として出てきた。
会いたいなんて言える立場ではないのに、神に自分の命と引き換えでいいと言ったのに、本当は一緒に生きていたい。一緒に歳を重ねて、一緒に笑いたい。
蒼空、どこにいるの? また会いたいよ。
先ほど願った流れ星は未だ消えずに、強い光を携えながらこちらに向かってくる。
え?
だんだんと光が大きくなり、ものすごいスピードで流れ星が落ちてくる。
UFO? 宇宙人? 状況が分からず混乱が脳内を走り回る。
数秒後、その光は展望広場に落ちた。眩い光を放っていたため腕で目を覆い隠す。
徐々に光が消えていくのを感じ、ゆっくりと目を開けると、一両編成の黄色い列車がそこにはあった。
夢だろうか、それとも、夢だろうか、もしくは、夢だろうか。頭では理解できないものが空から降ってきた。
呆然としていると、列車の中から女の人が出てくる。
長い黒髪に、艶やかな雰囲気、スタイルは良く、綺麗な人だった。車掌の制服のようなものを着ている。
宇宙人はUFOに乗っていて、銀色で大きな頭の生物だと思っていたが違った。列車に乗って人間みたいな姿をしている。
女宇宙人がこちらに歩いてくるが、怖くて動けなかった。
私の前に来るとニコッと笑い、「藤沢千星ちゃんだよね?」と問いかけてくる。
何で私の名前を知ってるの? 宇宙人の友達なんていない。
「千星ちゃんだよね?」
もう一度問いかけてきたので、「違います。人違いです。私は田中です。田中よしこです」と誤魔化した。
すると宇宙人は私の胸ぐらを掴み、目の笑っていない笑顔で、
「千星ちゃんだよね。大人にウソついちゃダメでしょ? その可愛いお顔、傷もんにしようか」
宇宙人というより、反社会勢力だ。
「そ、そうです」
怯えながら答えると、再び優しく微笑んで「だよね」と声を弾ませていた。
「あの……」
「何?」
「宇宙人ですか?」
女性は目つきを変え、私の頬を潰すように掴んできた。
「初対面の相手に宇宙人て失礼だよね。こんな美人でか弱そうな女性が宇宙人に見える? 千星ちゃんは、そう見えるの?」
上手く喋れないほど、強く頬を掴んできたため
「びえましゃえん」
と、日本語を逸脱したように返答する。でも、か弱くはない。
「よろしい」
そう言って、私の頬を離した。
一体この宇宙じ……女性は誰なんだろう? まったく状況が理解できない。私の名前を知っているということは、私に会いに来たってこと? 私はいつ、空から降ってくる知り合いを作ったのだろう? 考えを巡らせていると彼女は口を開く。
「まあ、急に来たらびっくりするか。私はね、流星の案内人」
「案内人?」
「この世に残した未練を叶えるために、あなたを迎えに来たの」
意味が分からない。この世に残した未練って何? それに、なんで何で私?
「千星ちゃん、会いたい人いない?」
いる。どんなことをしてでも、どんな代償を払ってでも会いたい。
私が小さく頷くと、彼女は口もとを綻ばせ、優しい表情を作る。その顔があまりにも綺麗でドキッとした。
「会いに行こうか。その人も君と会いたがってる」
頭が追いつかない。混乱に混乱をトッピングしてきた。だって、私が会いたい人はこの世に……いや、この先は言いたくない。
「彼はまだ正式にはあの世に行ってないの。亡くなってから二週間くらいでしょ? 向こうに行くのは四週間後かな。それまでは私を通して会える。回数は決まってるけどね。で、どうする? 会いたくないなら会わなくてもいいよ」
会いたい。でも、あまりにファンタジーすぎてついていけない。けど、空から来ただけでかなりの説得力がある。これがそこらへんの道で会ったなら、お巡りさんにお電話するが……私が逡巡していると、彼女が独り言のように呟きはじめた。
「確か……蒼空くんだっけ。爽やかでかっこいいよね。私のタイプだな。あと四週間もあるから、あんなことやこんなことして、それと……あっ、これは流石にまずいか。でも蒼空くんも男の子だし、十七歳なら興味あるかも――」
「行きます! 今すぐ行きます! 絶対行きます!」
「じゃあ、行こう」
釣り針にかかった魚のようだったが、蒼空のためにも行かなければならない。この女の毒牙に引っかかるような男ではないが念のため。
でも、それ以上に本当に会えるんじゃないかという期待の方が強かった。何をしてでも会いたいという想いが届いたような気もした。
彼女に案内され列車の中に入る。中はボックスシートになっており、赤のベルベットの生地が、これから起こるであろうファンタジーの世界を期待させた。
「じゃあ座って。発車から程なくして揺れるから、手すりに掴まっててね」
「本当に蒼空に会えるんですか?」
「会えるよ」
この人の笑い方はバリエーションが広い。今は子供のような無邪気な笑顔だ。なんの汚れもない無垢な表情が言葉に信用を与える。
「それと、私の名前は結衣。結衣ちゃんでもいいし、ゆっちゃんでもいいよ」
無邪気な笑顔を残して、前方にある運転席のような場所に入っていった。
蒼空に会える。まだ猜疑心は残っているが、会えるのであればどんな形でもいい。早く会いたい。
座席に着くと扉が閉まった。緊張感が背筋に走る。
すると、列車の前方が持ち上がるように浮いた。今の私はジェットコースターの頂上に向かっているときの体勢になっている。
前方だけ上がった状態で、ゆっくりと列車は動き出した。
私はグッと力を込め、座席の手すりに掴まる。徐々に速度が上がっていき、それに比例して恐怖心も強くなる。
列車はどんどんスピードを上げる。重力がのしかかり体を動かせない。
一分ほど経った頃、突如前方が下がり、列車は平行に戻った。
後ろに体重がかかっていたため、私の体は押し出される。すると、口づけをするように前の座席に顔面をぶつけた。
「痛っっつぁ」
どこから出たのか分からないような情けない声が出た。そしてどこの馬の骨かも分からない座席にファーストキスを奪われた。もし私が芸能人になって「初めてのキスは誰とですか?」と聞かれたら「列車の座席です。とても温もりを感じました」と答えることになる。
甘酸っぱさから甘いを抜いた、酸っぱい思い出に浸りながら、ふと窓の外を見た。
「綺麗」
そこには、思わずため息を漏らしてしまうような、夜空に散らばる星屑が光輝いていた。
視線を星に奪われる。あまりの美しさに酔いしれる。いつもよりも近い星の群れ。瞼から溢れるような数多の星々。夜空のフルコースがあればメインディシュだろう。それほどの光景が目の前に広がっていた。
いつの間にか、窓に顔を張り付かせるようにして星を眺めていた。子供のように。
視線を下に移すと海が見える。後方には小さくなった街。私の住んでいた場所かな? ここからだと、シルバニアファミリーのお家みたいだ。
かなり高くまで飛んいる。どこに向かっているんだろう。今の私にはシルバニアファミリーという情報しかない。
シルバニアファミリーから今後の展開を考察していると、前方から強い光が差し込んできて列車内を覆った。あまりの眩しさに目が開けられない。
数秒で光は消えた。目を開けると、窓の外には地下鉄駅のような場所が映る。
列車は徐々にスピードを下げると、程なくして止まった。
「お疲れ様。着いたよ」
結衣さんが運転席のような場所から出てきて、こちらに向かってくる。
私の前で立ち止まり、視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「ここは流星の駅。死んだ人が未練を伝える場所なの。未練を残してあの世に行くと、来世に影響が出る。自分でも理解できないことをするときは、前世でやり残したことだったりするの。理由もなく執着する時ってあるじゃん。何でこんなにこだわってるんだろうとか。その場合は前世の影響の可能性がある。そして誰かを傷つけてまで奪ったりしてしまう。そうならないために、ここがあるの」
「来世ってあるんですか?」
「あるよ。生きたくないって人もいるけど、また人として生まれる。だから今をどう生きるかが大切なの。未練が絶対にダメなわけではない。でもね、未練が執着に変われば、いずれ憎悪に支配される。誰かを傷つけるって言ったけど、他人だけではなく自分も含まれてるからね。それは覚えといて」
私のは、前世というより現世で作られた未練だ。それを来世まで引き継いだら、何かに執着してしまうのだろうか。
「ここのルールは後で説明するね。今は早く会いたいでしょ?」
ウインクしてきた。可愛い。
結衣さんが指を鳴らすと列車の扉が開く。魔法使いみたいだ。
「列車を出てすぐに階段があるから、そこを上っていって。あとこれ」
結衣さんはポケットからチェーンの付いた黒の懐中時計を取り出し、渡してきた。
時刻を表す数字がローマ文字で、短針が無く長針のみだった。針は十二を指している。
「会える時間は一時間だけね」
「たった一時間ですか?」
「階段の上に扉があるから、そこを開けると時計の針が動き出す。一時間経つ頃に迎えに行く」
「分かりました……」
一時間は短すぎるが、会えるだけでも十分だ。これ以上の贅沢は言えない。
列車を出ると、本当に地下鉄みたいだった。さっきまで空を飛んでいたのに、いつの間にか地上に戻って来たのだろうか?
一分ほど歩くと、階段の前に着いた。
コンクリートでできた階段が二十メートルほど続いており、その先には黒の扉が設けられている。
私は壁に付けられた銀の手すりに沿って、ゆっくりと上り始めた。
本当に会えるのだろうかと、ここに来て不安が押し寄せてくる。
だが幾重にも重なるファンタジー現象が、心の中にいる中学二年生を呼び覚まし『大丈夫だ。信じろ』と語りかけてくる。
もし蒼空に会うことができたら、言うことは決まっている。
――ごめん
私があのとき逃げなければ死ぬことはなかった。だからまずは謝ると決めている。
鉄製の黒い扉の前に着いた。この先で蒼空が待っている。正直、完全には信用できていなかったが、会いたいという想いが疑心を上回り、無理やり信じようとしていた。
心臓が忙しなく胸を叩いてくる。左手で胸を抑えて落ち着かせたあと、ドアノブを回した。
目の前に現れたのは、ガラス張りの大きな部屋だった。天井が高いため、そのぶん窓も大きく、圧巻の星空が視界に映った。
辺りを見渡してみると、一辺が三十メートルほどの正方形の部屋だった。天井と床、扉側の壁はコンクリートのようで、コの字型でガラス張りになっている。明かりはなく、窓から入る星彩のみで部屋を照らしているため、全体は薄暗い。
星空に圧倒されて気づかなかったが、正面の窓の前にベンチが置かれており、そこに人が座っている。
もしやと思い近づいて行くと、その人物は立ち上がってこちらを振り向いた。
星がその優しい笑顔を照らしたとき、私は自然と走り出していた。
会いたかった。話したかった。謝りたかった。笑顔が見たかった。私は彼の前まで来ると、勢いのまま抱きついた。
「蒼空」
涙が止まらなかった。蒼空の胸の中で嗚咽を漏らしながら子供のように泣いた。蒼空は私の背中を優しくさする。それでまた、涙が止まらなくなった。
「久しぶり」
鼓膜に降り注いだ優しい声に体温が上がるようだった。
「ごめん、蒼空。私のせいで……」
「千星のせいじゃないよ」
胸から顔離し、蒼空を見る。また泣きそうになるが、グッと堪える。
「蒼空、本当に死んじゃったの?」
目の前にいる蒼空を見て、本当は生きていたのではないかと思った。でもその期待はすぐに打ち砕かれた。
「死んだのは事実みたい。目を覚ましたら女の人がいて、『君は交通事故で亡くなったの』って言われた」
「結衣さん?」
「うん」
「もう会えないと思った」
袖で涙を拭った。目が潤んで蒼空をちゃんと見れないのは嫌だから。
「聞いてるかもしれないけど、あと四週間しかない」
蒼空が言うには、会えるのは一週間に一度、会える時間は一時間、四週間後には会えなくなる。会えるのは私だけで、それを選んだのは蒼空らしい。
会える頻度も、時間も少なくてがっかりしたが、最後のは嬉しかった。蒼空が私を選んでくれた。でも何で富田雪乃じゃないんだろう? 普通は好きな相手を選ぶだろうに。でも今は、選ばれた嬉しさを噛み締めることにした。
「あまり時間がないから、先に俺の未練を伝える」
懐中時計を見ると、十分ほど経っていた。
――未練を伝える場所
結衣さんにそう言われ、引っかかっていた。
ということは蒼空にも未練があり、それを私が叶える。なんか嫌な予感がした。
「蒼空の未練て何?」
「二つあるんだけど、いいかな?」
「うん」
「一つ目は、雪乃の恋を叶えてほしい」
制服に着替え、学校に行く準備をする。一日遅れの登校だ。
母からは「もう大丈夫なの?」と聞かれ「大丈夫」と答えたが、正直、学校には行きたくはない。
でもやらなければいけないことある。蒼空の未練を叶えるという人生最大のミッションだ。
家を出てから学校に着くまでの間、昨日の夜の出来事を思い返していた。
――雪乃の恋を叶えてほしい
最初は理解できなかった。富田雪乃は蒼空の好きな人で、なぜその人の恋を応援しているのか? 脳内でこんがらがる糸を解いていると、
「高校は違うんだけど雪乃には幼馴染がいて、その人のことが好きらしいんだ。相手も雪乃のことが好きで、告白もされてる」
解決した。何もせずとも恋が実っている。私は何をすればいいのだろう?
「でも雪乃は、その返事を返せていない。本当は付き合いたいんだけど、あと一歩が踏み出せない。だから雪乃の背中を押してほしい」
富田雪乃という完璧な存在に対し、教室の隅で息をする私では何の力にもならない。
「富田雪乃は何で付き合えないの?」
容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群、聖人君主、あらゆる肩書きを持った人間がなぜ一歩踏み出せないのか? しかも相手は告白もしてきている。
「俺も理由は分からない。相談されていたけど、根本にあるものまでは言ってこなかった。きっとそこに踏み出せない理由があるんだと思う。雪乃は言いたいけど言えないって感じだったから、俺も無理には聞かなかった。それを千星にお願いしたい」
蒼空は片思いの相手から恋の相談を受けていた。雑貨屋で言った「きっと叶わないから」はそう言う意味だったのか。
「あの日のことがあるから、他の人と話せないのは分かる。でも……やってほしい。千星にしか頼めない」
正直自信はない。蒼空の言う通り、他の人とまともに話せない。あの出来事から他人と関わることが怖くなってしまった。
――うざい
この言葉が今も耳に張り付いて離れない。だが、蒼空の命を間接的に奪ってしまった私が断るなんてもってのほかだ。もってのほかだか……
「私には無理だよ。背中を押すどころか、話すこともできないと思う。だって、五年もまともに話してないんだよ? 絶対出来っこない」
こんな言い方よくないのに、つい感情が先走ってしまった。人と関わりたくないということに加え、蒼空の『好きな相手』という肩書きが理性を押し潰す。
「これからは自分で自分のことを支えないといけない。過去についた傷は、今という時間の中で向き合う必要がある。今の先に未来があるから。それに俺はもう……そばにいれない」
蒼空は突き放すように言った。声に決意のようなものを感じる。
「分かってる。このままじゃいけないっていうのは。臆病な自分も大っ嫌いだし、変わりたいとも思ってる。だけどもう傷を作りたくない。あの日みたいなことはもう嫌なの。逃げるのはダメなこと? なんで辛くなると分かってるのに、自分から足を踏み入れないといけないの」
自分のバカ。何でこんな言い方するんだよ。蒼空はずっと私の味方でいてくれたのに、当たり散らすなよ。
「千星」
蒼空は真っ直ぐな目で私を見てきた。
「過去から目を背けることはダメじゃない。でも、人はいつか変わらないといけない。あの日の出来事は、簡単に払拭できるものではないけど、自分自身と向き合う日は必ず来る。そのときに逃げたら、一生自分を好きになれないよ」
あの日にできた傷が痛みを帯びる。
自分でも分かっている。でも怖くて逃げ続けた。
日常の中で孤独という傷を作っては、蒼空という居場所で傷を癒やした。
でも今は自分で傷を治さなければいけない。過去に背を向けてきたぶん、たった一歩進むことも、ものすごく大きく感じるようになった。忘れられない言葉が足枷となり、呪いのように纏わりつく。それを祓うのは……
「難しいことだけど、やってほしい」
蒼空は先ほどどは変わって、優しい目で私に投げかけた。
「勇気って、前を向こうとした人だけが掴めるものだよ」
これから進む険しい冒険のための、地図を渡されたようだった。人生という道で迷ったとき、過去に縛られて自分を見失ったとき、そんな場面で道しるべになるような言葉だった。
「でも、他人との向き合い方が分からない」
五年間、人を避けてきた私にとって、他人とは未知の生物だ。ただ話すだけでも、そこら辺のRPGより難しい。
「人と人との間には見えないフィルターがある。権威や権力などの立ち場的なものだったり、自分がその人を好きか嫌いかの好み、過去から来るトラウマ的なもの。千星はあの日の出来事で人の見かたが変わり、それがフィルターになった。だから自分の中の認識を変えないといけない。今必要なのは、人に触れて考え方の幅を持たせることだと思う。だから富田雪乃という人間を知ろうとしてほしい。学べることがたくさんあるから。それに、ずっと苦しんできた千星なら、誰よりも人に寄り添うことができる」
拠り所を求めていた私が、誰かの拠り所にならないといけない。しかも好きな人が好きな人の。
それは辛いことではあったが、蒼空のためならやるしかないと思った。あのとき私が逃げ出さなければ、蒼空は今も……
「分かった。でもできるかな? 私に」
自信がないから、もう一つ言葉が欲しかった。躊躇したとき、前に進むための言葉が。
「できるよ。千星なら」
蒼空はなんの迷いもなく答えた。シンプルな言葉だが、好きな人に言われると『私ならやれる』と思えてしまう。
私は目を瞑り、大きく息を吸う。そして吸った以上の息を吐いてから蒼空を真っ直ぐと見つめた。
「やってみる。自分のためにも」
「ありがとう」
いつものように優しく笑ってくれた。
すべてを受け止めてくれるようなその笑顔は、私の支えとなっていた。
だけどもう蒼空に助けは求められない。自分で自分を支えないといけない。未来に道をつくるために過去を払拭する。たとえ過去の傷に痛みを帯びても背中は向けない。
それは自分のためでもあったが、一番は蒼空に笑ってほしかったからだ。
「もう一つの未練は?」
「一気に言ったら負担になるから、まずは雪乃の背中を押してほしい。それが叶えられたら、二つ目を話す」
「分かった」
富田雪乃のことが好きなのかも聞こうとしたが、やっぱりやめた。
今までと同じ距離で四週間を終えたい。その名前を蒼空の口から聞けば取り繕ってしまいそうだった。
余った時間で軽い雑談といつもの冗談を言い合い合ってると、時間になる一分前に結衣さんが来て、目の前でカウントを始めた。
あとで聞いたら、「本当はそんなことしないけど、お別れのキスとかされたらムカつくから見張ってた」らしい。
次はしないでとお願いすると、不貞腐れながら「分かった」と呟いた。
最後に蒼空とした「またね」が嬉しかった。
家の前でするいつもの感じが懐かしかったし、また会えるんだと分かったことで安心できたから。次に会えるのは一週間後だ。
列車に乗ると、結衣さんは運転席に行かず私の隣に座った。指を鳴らすとドアは閉まり、列車も動き出した。
「運転は?」
懐中時計を返したあとに、そう聞いた。
「自動で動く」
「来たときは?」
「この人こんな綺麗なのに運転もできてすごい! ってなるじゃん。だから、運転してる風を醸し出した」
別に思わない。
「あっ、眩しくなるから目瞑ってな」
結衣さんがそう言うと、強い光が窓から差し込んできて列車内を覆い尽くす。
私は両手で目を覆い、光を遮断した。
「もういいよ」
その声でゆっくりと目を開くと、窓の外には星空が映っていた。
「それでどうだった? 久しぶりにあった感想は」
光のせいで目がシュパシュパしたので、何度か瞬きを繰り返したあと答えた。
「嬉しかったです。ずっと会いたかったから。理想を言えば毎日会いたい」
結衣さんは「そうだね」と小さく零したあと、話を続けた。
「四回しか会えないのは私が決めたの。死んだ人を思い続ければ、現世の人間は縛られ続ける。そしたら新たに未練を作ることになるでしょ? だから回数も決めて、会える時間も制限した。人って余裕があると先延ばしにして、言いたいことを言えなくなる。でも決められていれば、何を伝えるか、何を言わなければいけないのか、本当に大事なことだけ選択できる。一週間空くのは、考える時間でもあるの。一時間しか会えないのも同じ理由」
私はずっと先延ばしにしてきた。言いたいことを言えないまま。
「蒼空くんからルールは聞いた?」
「はい」
「とりあえず、もう一回言うわ」
結衣さんはルールの説明を始めた。さっき蒼空が言っていたことと一緒だが、一つだけ気になっていたことがある。
「何で会えるのは私だけなんですか?」
「たまにね、期限を過ぎても会えると思い込んで、ずっと列車を待っている人がいるの。だから一人だけにした。未練を叶えるために呼んだのに、その人が未練を作ってたら意味ないでしょ? そういう場合は流星の駅での記憶を消すの。胸糞悪いからやりたくないんだけど、それしかない」
「記憶を消せるんですか?」
「できるよ。でも流星の駅に関する記憶だけ。だから四週間後には会えなくなるっていうのは覚悟しといてね。私との記憶が消えるのは嫌でしょ?」
普通、蒼空の方だろ。
「他の人にこのことを言っても記憶を消す。さらに言えば、喋ったことを後悔するくらいの苦痛を与えるから、気をつけてね」
気をつけてねの『ね』の後ろにハートマークが付いていた。語尾と言ってることの内容に整合性がない。
「はい。おっしゃる通りにします」
怖いから、丁寧に約束した。
「本当にかわいいね、千星ちゃんは」と、髪の毛をクシャクシャにされながら頭を撫でられた。
さんざん掻き回したあと、結衣さんは真剣な顔つきになる。
「伝えたいことがあるなら、ちゃんと伝えないとダメだよ。未練は呪いにもなるけど、成長の種でもあるから」
意味は分からなかったが、とりあえず頷いた。
岬公園に着き、「じゃあ来週の今日、また同じ時間にくるから」と言って、結衣さんは空に帰っていった。
家に着いても眠れず、星を見ながら今日を迎えた。
そして今、憂鬱な気持ちで学校に向かっている。
こっちの世界に蒼空はいない。今の私は結び目が解かれた状況だ。
そのうえ、富田雪乃の恋も応援しないといけない。
校門に足を踏み入れたとき変な緊張があった。入学初日みたいなソワソワとした胸騒ぎに近い。
あのときは隣に蒼空がいたが今日は一人だ。
二年近く通った学校が、まるで初めて来る場所に思える。
それほど奥村蒼空という人物が自分の世界で色を作っていたということだ。
教室に入ると、いつもより少し重たい空気が漂っていた。それは現実世界で蒼空が亡くなったことを実感させる。
蒼空は学年の中心にいて、みんなから慕われていたように思う。そんな人が急に足跡を消せば消失感は否めない。桜の咲かない春を迎えたようだった。
いつもなら教室の中央は人が賑わってる。蒼空の席を囲むように笑い合っていた場所も今は空虚が佇む。
廊下側に富田雪乃の姿も見えた。その背中に哀愁を感じる。
周りに人が集まっているが、自分の居場所を探して来ているというより、ぽっかり空いた穴を埋めるために、富田雪乃のそばに来たと見受けられる。
蒼空は自分だけではなく、他の人にとっても大きな存在だったことがこの教室から感じとれた。
この空気に押しつぶされそうだったが、私には富田雪乃の恋を叶えるという約束がある。今はそれに集中しよう。
まずはどう話しかけるかを考えないといけない。最初の壁からものすごく高いが、それを越えないと先には進めない。
今日一日、富田雪乃を観察することにした。まずは人となりを知らなければいけない。
とりあえず彼女のことで私が知っている情報をまとめてみた。
成績は学年トップであり、バスケ部のキャプテン。蒼空と同じく学年の中心にいて慕われている。教師や同級生、先輩後輩からも信頼は厚い。周りの生徒が聖母と呼んでおり、性格は優しく明るいらしい。学級委員長を務めていて悔しいが美人。良い匂いがする。よく笑っているところを見る。モテる。
完璧すぎて心が折れた。領域展開ができ、写輪眼を開眼させ、念系統をすべて完璧に習得し、四十ヤードを四秒二で走り、亀有公園前の派出所に勤務しているようなものだ。私はこんな怪物と競い合っていたと思うと、鳥肌が背伸びする。
一限目の英語では彼女は完璧な発音で英語を話していた。
二限目の体育では二位の人に一周差をつけて校庭五周をゴール。
三限目は指数関数と対数関数を教科書よりも上手く説明。
四限目は自らの解釈を添えて古典を解説していた。
大人が理想とする高校生とはこういうことだろう。勉強ができて、運動もこなす。教科書通りの優秀な生徒だ。
私が担任の教師なら自慢したくなる。でも同い歳となれば別だ。富田雪乃が空を優雅に飛ぶ美しい白鳥だとすれば、私は地下で走り回るドブネズミのようなものだ。
ここまで格差があると嫉妬すら烏滸がましい。もう別の世界の生物に見えてきた。出身はたぶん暗黒大陸だろう。
こんな人が一歩進めない恋なんてあるのだろうか? 蒼空の言っていた根本にあるものって何なんだろう? 表面からは奥にあるものまでは見えない。やっぱりちゃんと話してみないと分からない。
昼休みになり、教室で弁当箱を開けた。
いつもならここでは絶対に昼食をとらないが、富田雪乃が同じクラスの女子二人と近くの席で食べていたため、耳をそばだてながら、ぼっちめしをすることにした。
「今度和也くんとデートすることになったんだけどさ、どんな服がいいと思う?」
コンビニで買ったであろうサンドイッチを頬張りながら、ひとりの子が言った。
「マジ! そこまでこぎつけたんだ」
もうひとりの子が言う。
「ちょー頑張った」
蒼空が亡くなったのにデートに浮かれやがって、と怒りが沸いたが、今は自分の感情を人に押し付けるのはやめよう。富田雪乃に集中すべきだ。
「裕子は甘めのコーデが多いから、そこにストリート要素を入れて、今っぽいカジュアルにすると良いんじゃないかな」
「なるほど、カジュアルっぽくか」
「たとえば、上下はモノトーンにして、スニーカーはソフトピンクのニュアンシーなカラーとかにすると、大人っぽさも出せると思う」
富田雪乃はファッションも押さえているのか。
「香水も変えようかと思ってるんだけどさ、何がいいと思う?」
「いつもと同じで良いんじゃない。街角でその香水の匂いがすると、その人を思い出すんだって。それをプルースト効果って言うみたい。今の匂いを嫌がってないんだったら、覚えてもらうって意味でも、同じでいいと思う」
そうだったのか。それを早く知っていれば、蒼空と会うときはファブリーズを振り撒いたのに。そうすれば部屋にいても私を思い出す。
「雪乃ってなんでも知ってるから本当に頼りになる。友達にいてくれて助かるわ」
「それな。私も恋愛のことは雪乃に頼りっぱなしだもん」
富田雪乃は恋愛上手でもあるのか。でも自分の恋は叶えられてない。相手からは告白もされていて、二つ返事で返せばいいだけ。相手側に何か不安要素があるということなのか。
「てかさ、なんで雪乃は彼氏作らないの? 秒で作れるっしょ」
「私もそれ思ってた。こんな可愛いのにもったいなよね」
ナイス。今、私が聞きたいのはそれだ。
「部活のこともあるし、今は恋愛って気分じゃないかな」
相手がどうこうじゃなく部活が理由か。キャプテンの責任もあるのかもしれない。でもそれなら、蒼空にそう言えばいい。
踏み出せない理由があり、それを言いたいけど言えなかった。きっとこれは本音じゃない。
「雪乃も恋したほうがいいよ。青春の半分は恋愛だから。マジ損してる」
「部活だけだと味気ないよね。女子高生って恋してなんぼだもんね」
なんだろう、この二人なんか苦手だ。理由は説明できないが、なんか苦手だ。鼻の中にスイカをぶち込んでやりたい。そこでスイカ割りをしたい。スイカパーティーを開催して、夜通しスイカを鼻にぶち込んでいたい。
「……そうだね。恋愛も大事だよね」
富田雪乃は笑ってはいるが、どこか悲しさを帯びた目が印象に残る。心の奥に閉まった何かが、一瞬だけ表に現れたように見えた。
放課後、体育館に来ていた。
女バスの顧問にお願いして、部活の見学をすることにしたからだ。
顧問には「プロリーグを見て興味を持ったので」と言って頼んだ。
私は邪魔にならないよう、体育館の隅で富田雪乃を観察する。
女バスは県大会でも上位に入る強豪だった。
去年の夏の大会では、もう少しで全国に手が届きそうだったが、惜しくも敗退してしまったらしい。
そして今は富田雪乃がキャプテンを務める。
私はバスケのことはまったく分からないが、彼女が上手いのだけは分かった。ドリブル、シュート、パス、どれをとっても周りと違う。
何が違うかは分からないが何かが違う。とりあえず、何かが違うことだけが分かるほど何かが違った。
率先して声掛けをし、後輩の指導も卒なくこなす。みんなが富田雪乃を頼りにしているのが空気感で伝わってくる。
こちらが吐き気を催すほどの練習が続いてるのにも関わらず、彼女は苦しそうな顔を一切見せない。みんな膝に手をついて肩で息をしているのに、一人だけ声を出して鼓舞している。
監督が一年生に厳しい言葉を投げかけたら、すぐさまその子のもとに行き激励する。漫画に出てくる理想のキャプテンそのものだった。
休憩が入り、なぜか私がホッとする。息をするのも忘れるくらいの練習内容で、こちらまで体に力が入っていた。
ひと息つくと、「藤沢さん」と声をかけられた。
前を見ると、ポニーテールを揺らしながら富田雪乃がこちらに向かって来る。再び体に力が入った。
何を話そうかと頭の中で話題になるものを探した。だが『ブラジルの首都はサンパウロではなくブラジリア』ということしか出てこない。
ブラジリア一本で勝負するのは無謀だ。これでは関ヶ原の戦いをマカロニ一本で戦うようなものではないか。
困惑している私をよそに、富田雪乃が隣に座った。
「バスケ興味あるの?」
なんでもない質問なのに、職質されてるような気分だ。
「テレビで見て」
目を伏せながら答えた。
「そうなんだ。もし何か聞きたいことがあったら言ってね。ルールが分からないと、見ててつまらないと思うから」
「うん」
これだけ厳しい練習の最中、他人のことに目を向けれるのはすごいと思った。
『お前邪魔なんだよ、小指の第二関節折られたくなかったら、はよ出て行かんかい。いてこますぞ』と言われたらどうしようかと考えてたが、彼女はそんなこと一切思っていなかったらしい。格の差を見せつけられた。
「藤沢さん、最後まで見て行く?」
「一応……」
「じゃあさ、終わったら一緒に帰らない?」
びっくりして相手の顔を二度見してしまった。その反応が面白かったのか、富田雪乃は笑みを浮かべている。恥ずかしくなり、再び目を伏せた。
「私ね、藤沢さんと話してみたかったの」
また二度見しそうになったがなんとか堪えた。
でもなんで私と話したいのだろう。理由が思いつかない。
「雪乃先輩、ポストプレイのことで聞きたいことがあって」
タオルで汗を拭いながら、一年生がやってきた。
富田雪乃は立ち上がり、私に視線を送る。
「もし一緒に帰ってくれるなら昇降口で待ってて」
そう言って、後輩とコートに戻っていった。
私と話してみたいと思ってる人がいることに驚いた。学校では蒼空以外の人をずっと避けてきたし、話しかけらても、一言、二言で会話を終わらせていた。だから一年生の夏前には、蒼空以外に話してかけてくる人はいなくなった。
一体何を話したいんだろう? なんで私なんかに興味を持ったのだろう? 何度も考えたが分からなかった。でもこれで彼女との接点が生まれる。とりあえず第一関門は突破だ。
私は富田雪乃と何を話そうかと考えながら、彼女の観察を続けた。
練習が終わり、顧問に挨拶したあと体育館を出た。
富田雪乃に声をかけようと思ったが、後輩に囲まれていたため、何も言わずに昇降口で待つことにした。
待っている間、ソワソワして歩き回った。結局何を話していいか分からないままだ。
他の人は何を話しているんだろう? 蒼空とはどんな話をしていたんだろう? 考えれば考えるほど緊張して頭が回らなくなる。
好きな人のことを聞きたいが、いきなりそんな話をするわけにもいかない。マッチングアプリで会う人は毎回こんな苦境に立たされているのだろうか。
私からしたら出会い系アプリではなく修行系アプリだ。初めて会う人間と話すことなんてない。
なさすぎて「最後にレーズンを食べたのはいつですか?」とか聞いちゃいそうだ。いや、そんなことはどうでもいい。とりあえずバスケの話は聞いておこう。好きな選手を聞いても分からないから、好きなドリブルを聞こう。いや、好きなドリブルって何だ。食べ物みたいに言うな。そうだ、好きな食べ物を聞こう。よし、一個増えたぞ。
「藤沢さんごめん。待たせちゃったね」
制服姿の富田雪乃が駆け足でやってきた。私はまだ心の準備ができていない。
「じゃあ帰ろうか」
「うん……」と聞こえるか、聞こえないかぐらいの声をこぼして、私たちは校舎を出た。
沈黙が降り積もる。
学校を出てから五分、会話が途切れた。
最初は富田雪乃がリードしてくれていた。「寒いよね」「バスケ見ててどうだった?」「休みの日は何してるの?」「進路ってもう決めてる?」など聞いてくれたが、私は「うん」「面白かった」「特に何も」「まだ決めてない」と、進行を遮断するような返答しかできず、会話は冬を迎えていた。
蒼空といるときは何も考えずに話すことができた。それは受け入れらているという絶対的な信頼があったから。
私がどういう人間かを知っていたし、蒼空がどういう人かも分かっていた。だから意味のないことも言えたし、沈黙だって怖くなかった。
――うざい
あの一言が他人との会話のブレーキになる。もしまた同じように思われたら……そう考えると無意識に会話を途切れさせてしまう。
もう五年も経つのに、未だに過去が手を離してくれない。多くの人はそんなこと忘れたらいいのにと言うだろう。私もそう思う。
でも一度ついた恐怖心は中々拭うことはできない。蒼空もそれを理解してくれていた。
だけど、このままではダメだということも言っていた。自分でも分かってる。分かってるけど、その一歩が踏み出せない。
臆病すぎて自分で自分を嫌悪する。
「蒼空がね、よく藤沢さんの話をしてたの」
沈黙に足跡をつけるように、富田雪乃が言葉を発した。
「二人で話してるときも、必ずと言っていいほど藤沢さんの名前が出てくる。だからどんな人なんだろうって思ってた」
「蒼空は私のことなんて言ってたの?」
シンプルに気になる。
「藤沢さんがどんな本を読んで、どんな音楽を聞いてるのか。あとは……昨日はこういう会話をしたとか、ツンデレをしたいけど下手なこととか」
最後のは余計だ。でも他人との会話で私の名前を出してたのは初めて知った。
「色々聞いてるうちに、私と似てるのかもって思った」
全然似てない。むしろ正反対だ。鎧を身につけたおじいちゃんと、おじいちゃんを身につけた鎧くらい違う。
「だから藤沢さんとなら、話せそうだなって」
富田雪乃は夜空を眺めながら白い息を吐いた。どこか憂いた目をしながら。
「私との共通点は人間ていうところだけで、あとは比較にもならない。みんなから慕われてないし、勉強も普通だし、運動もたいしてできないし、優しさなんて一ミリも持ちあわせてないし、誰かの相談なんて乗れないし、綺麗でもない。私なんて道端のごみと同じようなものだから」
自分で言って悲しくなった。ここまで卑下する必要はない。でも相手が富田雪乃なら実際の私はこれくらいの存在だ。
「全部作り物だよ。私はそんな自分が嫌い」
吐き捨てるように言った言葉にどんな意味があるかは分からなかったが、その言葉に富田雪乃という人間の本心が隠れているような気がした。蒼空も開けなかった扉の鍵がそこにある。なんだかそう感じた。
「なんてね。そうだ、この間ね……」
誤魔化すように笑ってバスケ部の話を始めた。
何かを取り繕うように饒舌になる彼女は、自分で吐き捨てた言葉を、自分の言葉で埋めているようだった。
富田雪乃の家とは反対方向だったので、私たちは駅のホームで別れた。
「また明日ね」と笑顔で手を振る彼女に、私も小さく手を振る。
今日は少しだけ進展した気がする。まったく接点のないところから、一緒に帰るというところまで近づけた。でもほとんど話せなかった。
好きな人のことを聞き出さなくてはいけないのに、このペースでは一生聞き出せない。
蒼空との約束には期限がある。その間に必ず叶えたい。そのためにはもう少し関係を築かなければ。
でも他人と深く関わるには、過去と向き合わないといけない。新しい傷を作らないように生きてきた私にとって、逃げることは自分を守るためでもあった。
ただでさえ過去の傷が残ってるのに、これ以上傷を増やしても苦しくなるだけだ。なら痛みを伴いながら進むより、立ち止まって過去の傷を眺めながら生きるほうが楽。
いつからかそう思っていたのかもしれない。
変わらなきゃいけないときは必ず来る。
それは自分でも分かっていた。きっと蒼空も。だから私を選んだのかもしれない。新しく世界との結び目を作るために。
――勇気って、前を向こうとした人だけが掴めるものだよ。
蒼空の言葉が頭をよぎる。
ずっと過去に背中を見せてきた。振り向くときが来たのかもしれない。
明日、自分から声をかけてみよう。ほんの少しでも前を向けるように。
「あれ、めっちゃ面白いよね」
登校中、生徒たちの会話を盗み聞きしていた。
会話をするためには種となるものが必要となる。そのためには最近の女子高生事情を知らなければならない。
前を歩いている二人組はYouTuberの話をしていた。
ビン&ボンという二人組のコンビで、ビンがプラモデルを作り、ボンが隣で皿回しをする動画らしい。
それ面白いか? とも思ったが、今をときめく女子高生が面白いというのだから、きっと面白いのだろう。あとでチェックしよう。
校門をくぐると、富田雪乃の後ろ姿が見えた。
打ち上げられた魚のごとく心臓が跳ねる。
とりあえず落ち着け、藤沢千星。まずは挨拶だ。ただ「おはよう」というだけ。難しいことじゃない。お前ならできる。
一番の難関は挨拶してからの会話だ。だが今の私にはビン&ボンがいる。この二人のことは知らないが、きっと女子高生の間では有名なんだろう。
だいたいの女子高生は同じものを見ているはずだ。女子高生は周りとの接点を作るために共有と共感を使って仲間意識を高める。そして縄張りを張り、自らの力を誇示する。と、なんかの図鑑で読んだ記憶がある。
群れに向かうのはリスクが高いが、富田雪乃は一人で歩いている。今なら狩れる。
私は彼女の背後に駆け寄り、渾身の挨拶をかます。
「お、お、おはよう」
二度噛んだ。MPを半分以上消費した「おはよう」は、コミュ障全開の挨拶となった。
「藤沢さん。おはよう」
振り向いた彼女は、笑顔で答えてくれた。出来損ないの挨拶だったが、なんとか一面をクリアした。
「今日は一段と寒いね」
おはようを言えた余韻に浸っている間に、もう次のステージに進んだ。上手く会話を繋げなければ。
「寒いね……とても寒いね」
下手くそ。二回も言わなくていい。しかも寒いを修飾して強調までしてしまった。冬に弱い女だと思われる。
「うん、とても寒いね」
優しく笑ってくれた。私のコミュ障っぷりを受け入れてくれたようで、ちょっと嬉しかった。
蒼空もそうだが、みんなから慕われる人間は許容という能力が高いのかもしれない。
「寒いとお鍋食べたくなるよね」
富田雪乃が言った。
なるほど。寒いというワードに関連した鍋の話題に持っていくのか。勉強になる。私のコミュ力が2上がった。
「そうだね……」
鍋に関連するものを必死に探した。脳内を駆け回り記憶の引き出しを漁る。そして導きだした返答が……
「ビン&ボンって知ってる?」
テンパってビン&ボンを出してしまった。これでは自分の話をしたいだけの自己中な人間に見られてしまう。
「知らない。お鍋の種類?」
知られてないのかよビン&ボン、もっと頑張れ。
「あ、いや、なんか、流行ってるのかなって」
「どんなやつ?」
主語を忘れた。会話がこんがらがっていく。まず落ち着こう。上手い具合に鍋の話題に戻すんだ。
「YouTuberみたいなんだけど、さっき話してる人がいて、それでなんか面白いのかなって」
「そうなんだ。今度見てみる」
ビン&ボンの視聴回数を伸ばした。でも私の好感度はたぶん落ちた。
「好きな鍋の具ってある?」
強引だが、鍋の話に戻す。
「そうだな……お豆腐かな」
「美味しいよね、お豆腐……とても美味しいよね」
だからそれやめろ。二回繰り返すな。何度同じ過ちを繰り返すんだ。この短い間で何度事故ったのだろう。会話の保険があれば入りたい。
「ふふ。美味しい、とても美味しい」
めっちゃ恥ずい。普通に話すってこんなに難しいのか。
蒼空とは何も考えずに話せてたのに、今は針の穴に糸を通すような感覚だ。
的確な言葉で返したい。面白くなくてもいいから、まとまなラリーがしたい。
心が折れかけながら教室にたどり着いた。この短い距離の間に私のHPとMPは底をつきかけていた。
「一限目体育だから頑張ろうね」
そう言って、富田雪乃は自分の席に着いた。
ため息まじりに私も自分の席に着く。もしかしたら、うざいと思われたかもしれない。
そう考えると話しかけるのが怖くなる。
当たり前のことができない不甲斐なさに、ますます自分が嫌いになっていく。
一限目の体育はバスケだった。私は朝に起きた『富田雪乃会話事変』で負った傷で心が荒んでいたが、「やったね、同じチームだ」と、富田雪乃に笑顔で言われたことで、なんとか心を立て直すことができた。
正直、引かれたと思っていた。でも何もなかったように振る舞ってくれた彼女に安堵した。
これも全部ビン&ボンのせいだ。さっき調べたら、登録者数三百五人だった。正確に言えば一人増えて三百六だ。私が増やしといた。
球技は得意ではないので、試合が始まったらなるべく邪魔にならないようにボールが来ない場所に行く。
パスがくれば近くの人に渡して、無難に十分を過ごす。これが鉄則だったが、富田雪乃は私にパスを出してくる。
嫌がらせかと思ったが、満遍なく同じチームの人にパスを出していた。
今まで存在を消しながら球技を行っていた私は、今日はチームの一員になっている。ここらへんの気遣いをできるのが富田雪乃なのだろう。
試合は接戦だった。だんだんと周りが熱くなって来たので、迷惑かけないようにボールから逃げていると、たまたまゴール下でフリーになってしまった。そこにすかさず富田雪乃のパスが来る。
「千星、シュート」
そう言われたので適当にシュートを放つと、「スパッ」と音をたててゴールに吸い込まれた。それと同時にブザーが鳴り、私たちのチームが勝った。
「ナイッシュー」と言われ、富田雪乃とハイタッチする。
「藤沢さん、ナイス」と他のチームメイトにも言われ、気持ちが高ぶるようだった。髪の毛を赤くして全国制覇を目指そうかと思った。
私たちのチームは休憩に入り、体育館の隅で他のチームの試合を見る。
「雪乃って本当に完璧だよね。運動も勉強もできるとかマジ羨ましい」
隣に座る同じチームの子たちの会話が耳に入ったので、そちらに意識を傾けた。
「欠点ないよね。全部百点だもん」
「それが雪乃だよ。ダメな部分があったら雪乃じゃないもん」
「確かに、それは雪乃じゃない」
笑いながら話している三人とは裏腹に、富田雪乃はどこか哀しげに苦笑いをしていた。
別に貶されている訳でもない。むしろ褒められて嬉しいはずだ。
なのに贈られた花束を厭うように、言葉に背を向けているみたいだった。
体育が終わり渡り廊下を歩いていると、後ろから「藤沢さん」と富田雪乃に声をかけられた。
「さっきはごめん」
何かされたのか私? と疑問に思っていると、
「下の名前を呼び捨てで呼んじゃったから」
あー、私が後世に語り継がれるであろう、伝説の決勝ゴールを決めたときだ。
あの時は高揚感で気にしていなかったが、そういえば下の名前で呼ばれた。
「別に気にしてない」
「良かった。バスケで熱くなると、つい呼んじゃうんだよね。嫌だったどうしようって思って」
「……嫌ではない」
「じゃあさ、下の名前で呼んでもいい?」
「うん」
「私のことも、雪乃でいいよ」
「わ、分かった」
なんか青春ぽい。下の名前で呼ぶのは、私の家族と蒼空の家族だけだ。今は学校で名前を呼ばれることもなくなった。
「雪乃」
他の生徒が後ろからやってきて、とみ……雪乃に抱きついた。そしてそのまま教室に向かっていく。
取り残されたような感じになったが、なんとなく一歩進んだ気がした。
昼休み、雪乃に声をかけ一緒にご飯を食べようとしたが、他の生徒に先を越された。
昨日と同様、近くの席で昼食をとっていたため、ぼっちめしついでに情報を収集することにした。
ちなみに今日は昨日と違うメンツだ。友達が多いと、人付き合いが大変そうだなと思った。
「雪乃、今度勉強教えて」
「いいよ」
「じゃあ私にはお菓子作り教えて」
もうひとりの子が言った。
「お菓子?」
「来月バレンタインがあるでしょ? 手作りで渡そうかなって。雪乃器用だからそういうのも得意そうだし」
「雪乃なんでもこなすから、お菓子作りくらい余裕でしょ。ね?」
「……うん、今度一緒に作ろう」
「ありがとう、マジ神。本当に雪乃って優しいよね」
「人の悪口とかも言わないもんね」
「雪乃は聖母だから。人のこと悪く思わないし言わないの。私たちとは違う」
「一緒にしないでよ」
二人は冗談を言い合い、笑い合っている。本人は体育館のときと同様、何も言わず苦笑いをしていた。
褒められすぎるとあんまり嬉しくないのだろうか? 私なら嬉しすぎてタップダンスを踊ってる。
そのあとも何気ない会話が続き、昼休みは終わった。
私はスマホのメモに『お菓子作りもできる』と記入し、雪乃の情報をアップデートした。
放課後、下駄箱で靴を履き替えながら、このあとの予定を考えていた。
今日もバスケ部を見に行こうか迷ったが、二日連続で行くの邪魔になりそうなのでやめた。
その代わり本屋によることにした。お菓子作りの本を買い、少しでも話せるように準備をしようと思ったからだ。
「千星」
下の名前で呼ばれたため、驚いて肩がビクッとなった。私を下の名前を呼ぶのは一人しかいない。振り返ると、思った通り雪乃だった。
「一緒に帰らない?」
「部活は?」
「今日は休み、だから家の近くのバスケットコートで自主練する」
「そうなんだ……じゃあ一緒に帰りましょう」
語尾にコミュ障が顔を出した。緊張して敬語になる。育ち盛りのお嬢様みたいな話し方だ。いや、育ち盛りのお嬢様って何だ。心の中までコミュ障が伝染する。
「帰りましょう」
寛容な笑顔で迎え入れてくれた。でも疑問が残る。なんで私に話しかけるのだろう。ましてや昨日も今朝もろくに話すことができていない私に対し、一緒に帰ろうと誘うのだろうか……
はっ! もしや美人局。このあと男の人が出てきて私を連れ去り、マグロ漁船に乗せて一緒にUNOをやるのかもしれない。それで私にだけdraw4を使って嵌めようとしている。そして笑い物にする算段だ。お、恐ろしい女だ。
靴を履き替えた彼女は「じゃあ行こう」と言って、校舎を出た。私はUNOの戦略を考えながら後ろを付いて行った。
駅までの道中、雪乃は好きな映画の話をしてくれた。私はそれをただ聞いていた。
たぶんだが、私のコミュ障具合を把握して会話をリードしてくれてるのだと思う。一つの物事を話し終えるたびに一旦間を置き、私が一言、二言で返すとまた喋ってくれた。
私的にはだいぶ助かったが、もう少し会話を広げる努力をせねばならない。家に帰ったら映画も見よう。次は私も話せるようにならなければ。
駅のホームに着く。彼女は反対ホームだからここでお別れだ。
「また明日ね」と言おうとしたとき、
「そうだ、一緒にバスケしようよ。見てるだけよりやってみる方が楽しいよ」そう言われ、小さく頷く。
電車が来ていたので反対ホームまで走った。
発車メロディが鳴り終わる寸前で乗車し、空いている席に腰を下ろす。
雪乃の自宅はニ駅先らしい。結構近い。
「見てママ、すごい高く飛べる」
車両の中央で子供が騒ぎ始めた。靴のまま座席に上がりジャンプしている。
隣に座る母親はスマホを見ていて、一向に注意しない。
最初は我慢していたが、だんだんムカついてきた。
母親のスマホに味噌を塗りたい。そのまま気づかずにポケットに入れて、ズボンが味噌まみれになってしまえばいい。そのズボンを洗濯機で回してしまい、洗濯機の中が味噌汁になればいい。その味噌汁を朝食に出して、姑から「⚪︎⚪︎さん、今日の味噌汁フローラルすぎない?」と言われて怒られればいい。
子供も子供だ。人が座る場所に土足で上がるな。その座席を作った人の気持ちを考えろ。上司には怒鳴られ、娘には「お父さんと洗濯もの一緒にしないで」と言われながら、それでも乗客に喜んでほしくて懸命に作った座席だ。電車の座席に込められた想いを感じ取れ。テストに出るぞ。
心の中で憤怒していると、「元気がいいね」と雪乃が子供を見ながら言った。
私は「そうだね」と返す。
本当はそんなこと思っていないが、本音というのはそう簡単に口には出せない。
――味噌まみれになればいいのにね。
――え? その思考キモい。お前の鼻の穴にスイカぶち込みたいんだけど。
たぶんこうなり、そして引かれる。だから本音は心の隅に押し込んだ。
電車を降りたあと、ボールを取りに行くため雪乃の家に寄った。
建売住宅が並ぶ一角の一番奥に雪乃の家はあった。二階建てで比較的新しいように見える。
私は玄関前で待っていた。「寒いから、中に入って」と言われたが、親と遭遇する可能性があるため断った。他人の親は未知数で怖い。
「お待たせ」
雪乃は家に入ってから五分経たらずで出てきた。ボールを持ち、ジャージに着替えている。
今日は一段と寒く、公園にはほとんど人がいなかった。バスケットコートも誰も使用していなかったため、すんなりと使えた。
普段は小学生が使っているみたいなのだが、雪乃も混ざって一緒にやるらしく、人がいてもいなくても関係ないらしい。私としては誰もいなくて助かった。
まずはシュートを教えてもらった。ダッフルコートを着てやっていたが、だんだん暑くなってきたため、脱いで制服になった。
雪乃は教え方が上手い。感覚的ではなく具体的に指摘してくれるため、とても分かりやすかった。しかも丁寧で優しい。後輩が頼るのも頷ける。
最初はスリーポイントラインからシュートを放ってもまったく届かなかったが、十回に一回は届くようになった。
体の向き、ボールの持ち方、ジャンプの仕方。それらを意識したら飛ぶようになった。
球技は好きじゃないが、上達を実感できると意外と楽しい。自分には向いていないと思っていたものでも、やってみないと分からないものだなと思う。
頭の中だけで判断することが多い私にとって、新たな発見だった。他人と関わることで知らない道を見つけられた。そんな感じ。
雪乃は自主練と言いつつ、ほとんど私の指導をしてくれた。
「やらないの?」と聞くと「教えるのも自分のためになるからと」言った。
一時間ほど経ち、暗くなってきたので切り上げることにした。久しぶりにちゃんと動いたので疲れて歩けない。
それを見た雪乃は「少し休憩してから帰ろうか」と言い、近くにあった自販機で暖かいお茶を私に買ってくれた。
コートのフェンスに腰をかけながら二人でお茶を飲む。
ここからは会話ゾーンに入るため、急に緊張してきた。
さっきまでは沈黙をバスケで埋めれていたが、今はそこに埋めれるものは会話だけだ。頭の中で会話の種を探す。
「雪乃……ちゃんてさ」
呼び捨てにビビった私はちゃんを付けた。
「雪乃でいいよ」
スマートに呼び捨てにさせる。できる女だ。
「雪乃はさ、蒼空みたいだね」
とりあえず思いついたままのことを言ってみた。誰からも慕われるようなところ。自然体な優しさ。彼女に蒼空と同じようなものを感じていた。少し前なら絶対にそうは思いたくなかったけど、今は嫉妬すら持てない。蒼空が好きになる理由も納得できるし、彼女から学ぼうとしてる自分がいるから。
「私は蒼空にはなれないよ。あんなに優しくなれない」
十分に優しいと思う。気遣いもできるし、寛容さもある。
「千星にとって、蒼空ってどういう存在?」
唐突な質問で驚いたが、その質問の答えに迷いはなかった。
「生きたいと思える居場所を作ってくれる人」
私の中にある『自分』を守ってくれた人。蒼空がいなかったら、もっと自分を嫌いになっていた。世界をもっと嫌悪していた。もしかしたら、学校にも行っていなかったかもしれない。道から外れないように私を支えてくれていた。そして一番大切な、一番好きな人。
「分かる。そんな人だよね、蒼空って」
雪乃は空に向かって言葉を零す。
「私、お姉ちゃんの影響でバスケを始めたの。勉強も運動も何でもできる人で、私の憧れだった。そういう意味では自分の居場所になっていたのかもしれない。生きる上で目標になってたから。でも、息苦しい場所でもあった。光が強すぎるとさ、影って消えちゃうんだよね」
そう言った彼女の横顔は、孤独の中を彷徨う雪のようだった。
地面に触れたら溶けてしまうし、かと言って手のひらで掴むこともできない。そんな儚ない白い花が、目の前に咲いているみたいだった。
「千星って好きな人いる?」
雪乃は空に送っていた視線を私に合わせる。その目と急な問いかけにドキッとした。
「いない」
この世界には。だからそう答えた。
「そっか……」
今なら聞けるかも。タイミング的にはここしかない。そう思い、勇気を出して聞いてみた。
「雪乃は好きな人いるの?」
「……いるよ」
そう言ったあと彼女は、手元のバスケットボールをいじり始めた。照れ隠しのように見えた仕草が、ほんの一瞬だけ心の奥を覗けたみたいだった。そして核心に迫るチャンスでもあった。
「その人は雪乃のことどう思ってるの?」
雪乃は手を止めて何かを考えているようだった。心の奥底にあるものを眺めるように、じーっとボールを見つめている。
この先は蒼空も知らない。応援するにしても根本にあるものが何なのか分からないと進めない。でも私がそこに辿り着けるとは思えなかった。まだ距離が遠すぎる。蒼空でさえ聞き出せなかったのだから。
「もしもの話だけど……」
目を伏せながら、消え入りそうな声で雪乃が言う。
「好きな相手に告白されたけど、その人を嫌いになる可能性があるとしたら千星は付き合う?」
好きな人を嫌いになる……私なら耐えられない。好きな人って、世界の景色を変えてくれる存在で、何でもないことも色づいて見える。
嫌いになるっていうのは、その色彩がすべて剥落し、二人で渡し合った言葉も、思い出も、すべて枯れていくようなものだ。失うことも辛いけど、嫌いになることも辛い。
質問には簡単に答えられなかった。好きな人の一番近くで笑っていたいという想いと、その人の一番遠い存在になってしまう恐怖。その二つを天秤に乗せても揺れ続けるだけだった。
「ごめんね、変なこと聞いて。もう遅いし帰ろっか」
雪乃は立ち上がり、コートの出口に向かっていった。
私はその背中を見ながら質問の答えを探していた。
雪乃は駅まで送ってくれると言い、私たちは街灯に照らされた住宅街を歩いていた。
私はさっきの質問の答えを考えていた。蒼空との思い出を彷徨い、たらればを繰り返しては感情が起伏する。希望と失意が絡み合った雪乃の問いは、天国と地獄の狭間にいるような気持ちにさせる。
苦慮している私の顔を見て察したのか、
「さっきのは気にしないで、なんとなく聞いただけだから」
雪乃は笑顔で言う。
『もしも』と仮定で質問してきたが、あれは一歩踏み出せない理由の真意が混ざってると思う。何かを伝えたかったのかもしれない。何かを知ってほしかったのかもしれない。きっとそこに扉を開ける鍵がある。
私は言葉の裏側に縫い付けられたメッセージを必死に探したが、何も分からないまま駅に着いてしまった。
「じゃあまた明日ね」
「うん……また明日」
手を降る雪乃に見送られながら改札に向かう。
このままでいいんだろうか。今を逃したらもう辿り着けないような気がする。そう思ったら、自然と足が雪乃の方に向かって行った。
「どうしたの?」
怪訝な顔をする雪乃。何も考えずに目の前に来てしまった私は、雑な言葉で間を埋める。
「あの……楽しかった」
主語の抜けた言葉。せめて「今日」くらいは付けるべきだった。
「私も。また今度一緒にやろうよ」
「私も」「また」「今度」「一緒」このワードは嬉しかった。このまま悦に浸りたいが、今はもっと大切なことがある。
「好きな人を嫌いになることもあるかもしれない。でも、何も行動を起こさなかったら何も知らないまま、後悔だけが残る。頭の中だけで考えてたことも、実際やってみたら全然違ったってこともあるよ。質問の答えは正直分からない。何度も考えたけど、どうしていいか検討もつかなかった。でも信じたい。自分の気持ちも、相手のことも」
蒼空が亡くなってから感じたこと、今日知れたこと、それを踏まえて思ったままの言葉を吐いた。
今、言った自分の言葉を正しいとは思わない。考えても答えは出せなかったし、勢いで言っている部分もある。けれど、信じたいという言葉に迷いはなかった。
「ありがとう」
雪乃は顔を綻ばせた。雪解けに芽吹いた花のように。
「雪だ」
近くにいた中学生たちが空を指している。
見上げると、冬を染め上げようとする雪花が夜空に花弁を散らしている。
「今度、好きな人と会うの。その時に自分の気持ち伝えてみようかな? 千星の言う通り、頭の中だけで考えすぎてたのかも」
空から降る雪を眺めながら、雪乃は言った。
「……うん」とだけ言葉を残した。
なんて返していいか分からなかったのもあるが、蒼空との約束を果たせたことで浮き立ち、言葉を詰まらせた。
誰かの気持ちを変える。そのきっかけになれることが、こんなにも嬉しいことだなんて知らなかった。
生まれて初めてかもしれない経験に戸惑いつつ、空の上にいる大切な人に『叶えられたかも』と心の中で呟いた。
翌朝、玄関の扉を開けると白い世界が視界を染めた。
真っ白な雪に足跡を付けると、新しい世界に足を踏み入れた高揚感があった。降り注ぐ日差しに導かれながら青く澄んだ空を見上げる。
太陽の視線を浴びても、今日は厭わしく思わない。自分の中で何かが芽吹いているように感じた。
学校に着き教室に入ると、雪乃の周りには数名のクラスメイトが集まり、いつものように談笑している。
ふと目が合うと、笑顔で私に手を振ってくれた。
それに答えるように小さく手を振りかえす。
あのあと連絡先を交換した。
普通の女子高生からしたら、普通の出来事なんだろうが、私にとってはオリンピックやワールドカップに匹敵するイベントだ。私のスマホもびっくりしただろう。
それでかは分からないが、昨夜は変な夢を見た。
手足の生えたスマホが私の目の前で、「ちょっと騙されてませんか、きっとマグロ漁船に乗せられてUNOさせられますよ。draw4とかめっちゃ使ってきますよ」と言ってきた。
私はムカついたから、画面をバキバキにしてライ麦畑に埋めるという謎の夢だ。
だが目覚めは良かった。
自分がちょっと変われたこと。
蒼空の願いを叶えられたかもしれないこと。
雪乃が一歩進めたこと。
その余韻が目を覚ましても残っていた。
蒼空がいなくなった世界には悲しみだけが降り続いていたが、少しだけ溶けたような気がする。
次に蒼空にあった時、昨日のことを話そう。
それで褒めてもらう。「頑張ったね」って言ってほしい。
昼休み、体育館のステージ上に腰掛けて、雪乃とご飯を食べた。
向こうから「一緒に食べよう」と誘ってくれた。
最初は雪が積もった話をした。そのあとは好きな食べ物、来月の期末テストと話が進み、バスケ部の話になった。
一年生に熊倉という子がいるらしく、ずっと片思いをしていた相手と付き合ったらしい。
雪乃は自分のように喜びながらその話をしていた。
「千星ってどんな人が好きなの?」
そう聞かれ、返答に迷った。
『蒼空』と言いたいところだが、たぶん気まずくなる。私はまた会えるがこっちではもう亡くなった存在だ。
「優しい人かな」
とりあえず無難にいった。もっと詳細に言えば、蒼空だとバレてしまう。そしたら変な空気が流れるから、当たり障りのない特徴で誤魔化した。
「優しさは大事だよね」
彼女は二回ほど大きく頷いてから、冷凍のグラタンを口にした。
「雪乃の好きな人ってどんな人?」
私がそう聞くと雪乃は宙を見上げた。たぶんその先には彼がいるのだろう。
「人ってさ、表面に見えるものでその人を判断するでしょ? 彼はその裏側を見ようとしてくれる。そういう人かな」
照れながら言う表情は可愛かった。スマホの待ち受けにしたい。
「良い人なんだね、その人」
「うん、私が好きな人だもん」
雪乃は満面の笑みでこちらを向き、本日二度目の可愛いを盛り付けてきた。もう可愛いでお腹がいっぱいだ。あと一回可愛いを見せられたら、可愛いを吐き出してしまう。吐き出した可愛いは持って帰ろう。私は自分で何を言っているのか分からなかった。
「雪乃にこれだけ好きになってもらえるなんて、その人は世界一幸せかもね」
「それは私かな。こんなにも好きと思える相手を見つけられた。それだけで世界が変わる」
その気持ちは私にも分かる。付き合う、付き合わない関係なく、好きという気持ちだけで見えるものも感じ方も、受け取るものも変わる。
私はそれを蒼空に教えてもらった。
思い出すと切なくなるけど、今は我慢しよう。雪乃の恋に水を差したくない。
私と雪乃は教室に戻るため、渡り廊下を歩いていた。
「富田」
重低音の効いた声が後ろから響く。振り向くと女バスの顧問だった。
「熊倉に連絡取ってくれ」
さっき雪乃が話をしていた子だ。バスケ部の後輩で最近彼氏ができた子。
「何でですか?」
「彼氏が二股してたらしいんだよ。それがショックで学校に来てないみたいなんだ。それでさっき保護者がクレーム入れてきた」
「クレーム?」
「どうやら彼氏が同じクラスの奴みたいでな、『学校としてはどう対象するんですか?』とか言ってきたんだよ。そんなこと言われても困るんだけどな」
確かに困る。学校には関係ない。マウンテンゴリラとマウンテンバイクくらい関係ない。
「恋人を作るのは良いんだけど、わざわざ学校休まなくていいだろう? 高校生の恋愛なんて長い人生で見れば通過点みたいなもんなんだから」
顧問よ、それは違う。私たちは人生を賭けて恋をしているんだ。それを通過点と呼ぶならぶっ飛ばすぞ。
「その点、富田は助かるよ。勉強の成績もよくて、恋愛にうつつを抜かさず、部活に誠心誠意取り組んでくれる。教師からしたら理想の生徒だ」
雪乃の顔に陰りが見えた。今の言葉は『お前はするなよ』とも聞こえる。顧問はそういう意味で言ったわけではないのかもしれないが、今の雪乃にとってはそう聞こえるかもしれない。
「熊倉に電話して、学校に来させてくれ。男なんて他にもいるんだ。だから落ち込むなって言っといてくれ」
じゃあ頼んだぞ、そう言って顧問は去って行った。
「辛いよね。自分の好きな人がそんなことしてたら」
隣から同情を孕んだ声が小さく響いた。
雪乃は自分と重ね合わせたのかもしれない。ずっと好きだった人と付き合えたと思えたら、その相手が二股をしていた。しかも同じクラス。私も学校に行かないと思う。
「恋ってするもんじゃないのかな?」
その言葉は私にではなく、自問自答のように聞こえた。
雪乃はスマホを取り出した。バスケ部の後輩に連絡するのだろう。
「先に戻ってて」
何か声をかけたかったが、私は「うん」と言い残し、一人教室に向かった。
五限目の始まる間際に雪乃は教室に戻ってきた。
「どこ行ってたの?」
クラスの子にそう聞かれた雪乃は、いつものような明るい笑顔で「トイレ行ってて」と言った。
私にはその顔が繕っているように見え、少し胸が痛んだ。
授業中、雪乃のことが気になり、教師の話はほとんど頭に入らなかった。
顧問の言葉で雪乃の恋愛に支障をきたさないか? 後輩が恋愛で苦しんでるなか、自分の恋愛に億劫にならないないか?
雪乃は責任感が強いように見えた。だからこそ心配になる。
でも私が何かを言える立場でもない。今、彼女はどう思っているんだろう? 周りのこと、自分のこと、好きな人のこと。何も分からない自分が情けなく感じた。
あの日から人を嫌いになって、他人と関わらなくなった。それでいいとも思っていた。でも今は人の気持ちを知ろうとしなければならない。蒼空のために、自分のために、雪乃のために。
私には経験値が無さすぎる。こんなとき、なんて話かけたらいいんだろう? 蒼空ならどうするのだろう? 色々考えていると、窓から差し込む太陽の日差しが煩わしく感じた。
放課後になり、雪乃はいち早く教室を出て行った。
心配だったので女バスを見学しに行こうとも考えたが、今は邪魔になるような気がしたので帰路に着いた。
街路樹が並ぶ道を一人で歩く。枝を晒して立つ木々の姿は、冬の寂しさを描いたようだった。
今日も朝から寒かったため、まだ雪は残っている。明日には溶けているかもしれない。
雪は刹那を白く灯して幻想を作る。日常には咲けない花のようで、そこが美しくもあり儚いところでもある。
ここ二日、雪乃と一緒に帰っていたためか、一人になると詩人になってしまう。
寂しさを埋める時、人は詩を読みたくなるものだ。
詩は時々SNSで見たりする。その人の奥底にあるものを吐き出したり、表には見えないものを言葉にする。
生きていると自分というものが周りに影響されて形作られていく。詩を書いている人たちは、言葉で感情を紡ぎながら、自分という存在をこの世界に残そうとしているのかなと思う。
日常で消えていく雪のような感情を、消えないようにネットの海に流していく。
でも現実世界では心の一番奥に仕舞い、無理やり押さえつけながら世界と迎合していく。離されなように、置いていかれないように。
雪乃はどうなんだろう? 学校という世界では中心いるけど、実際周りをどう見ているんだろう? 私は隅っこで逸れないようにしながら、その手の中にある糸を強く握ぎりしめていた。
世界の端から見る雪乃は糸を作る人で、羨ましく思うときもあった。でも話すようになってから見えかたは変わった。
雪乃も何かを掴みながら生きているような気がする。私とは違う何かを。
もしかしたら、それが一歩踏み出せない理由なのかもしれない。
――恋ってするもんじゃないのかな?
踏みだした決心が引いてしまったようにも聞こえた。
明日、もう一度話してみよう。奥底にある言葉を聞いてみたい。
昨日の朝とは違い、靄が張ったような目覚めだった。筆舌に尽くし難い感情が体の中に漂う。
朝食に出されたパンはいつもより味気なく感じ、バターの油分が口内にまとわりつくようだった。
駅から学校までの道を歩いていると、生徒たちの喧騒が鼓膜を揺らした。
声は聞こえているが内容は入らない。私の脳内は雪乃のことでいっぱいだったから、入る余地がなかった。
好きな人に想いを伝えることは相当勇気のいることだ。決心するまで何十回と思考を往復させ、マイナスな思考に囚われながら、やっとの思いで一歩踏み出す。
私はできなかった。今も胸の中には、恋染めの言葉たちが彷徨っている。
雪乃は自分次第で恋を成就させることができる。でもその先に進むことができない。なかなか理解し難い状況だが、私には見えない大きな隔たりがあるんだと思う。
だから簡単に「相手も好きなんだから付き合えばいいじゃん」などと言ってはいけない気がしてた。
私も他人から理解されない部分をたくさん持っている。感覚的だが雪乃にも同様のものがあると感じた。
「おはよう」
澄んだ声が背中に触れる。
振り向くと、空の青を背景に、笑みを零した雪乃の姿が双眸に映った。
「おはよう」
挨拶の交換をし、肩を並べて学校に向かう。
どう切り出そうか迷う。
「好きな気持ちは伝えるの?」
これは直接的すぎて聞きづらいし、相手も困るような気がする。
「やっぱり恋って最高だよね」
これはパリピ感が強すぎて引かれそうだ。
「恋の甘さって人生の苦さを中和する最高の調味料だよね」
これは結構好きだが今じゃない。
「恋のレイアップは決めないの?」
これは論外。
脳内を駆け回りながら思案していると「あのね」と雪乃がブレーキをかけた。
「気持ち伝えるのやめることにした。部活もあるし、今は恋なんてしてる場合じゃないなって」
表情は変えず、おはようと同じトーンで言ったその言葉は、私の思考を停止させた。
「だから、昨日言ったことは忘れて」
そう付言し、前を歩いていく。
「いいの? 本当に」
小さく嘆いた言葉は雪乃の足を止めた。
数秒の間を置いてから雪乃は振り向き、
「いいの本当に」
笑顔で言った。雲一つない晴れわたる顔で。雨が止んだあとの澄んだ空のように。
言葉が出なかった。普通なら何か言うべきなのに、見繕ってでも渡すべきなのに、私の喉元を通るのは、言葉を携えない白く吐き出されるだけの息のみだった。
無言の私を見た雪乃は、一瞬だけ寂しそうな顔をした。そしてすぐに表情を戻し、
「前に私が聞いたことあったでしょ? もしも、好きな人を嫌いになってしまったらって」
「うん」
「あんな質問に悩んでくれたのが嬉しかった。それと……私に勇気をくれてありがとう」
笑顔を残して雪乃は学校へ向かって行った。
私は声も足も出すことができなかった。
立ちすくむ自分の足元を見ると、太陽の光で溶けかけた雪があった。
消えてしまわないようにと残る姿に、胸が苦しくなった。
昼休み、一人で公園に来ていた。ブランコで小さく揺れながら雪乃の言葉を反芻していた。
今日の雪乃はいつもと変わらない様子でクラスの子と接していた。
胸臆に仕舞った恋を、摘まずに眺めるだけと決めた彼女。いや、自ら枯らしたのかもしれない。そう思うとあの笑顔が切なく見える。
でも本心ではないと思う。きっと理由がある。私はこれまで雪乃と話したことを整理することにした。
まずお姉ちゃんのこと。
勉強も運動もできて、憧れと言っていた。まさに雪乃と一緒だ。でも息苦しい場所とも言っていた。
憧れが苦しい存在になることがあるのだろうか? でもここにヒントがあるような気もする。
そして褒められても嬉しそうにしていなかった。私なら歓喜すると思うが、雪乃は違った。
むしろ困ったような顔をしていたようにも見える。褒められて嫌になる理由があるとすれば……分からん。褒められることがほとんどない私にとっては、想像する種すらない。
友達には「好きな人はいない」と答えていたのに、蒼空や、まだ話すようになって間もない私には「いる」と答えた。
普通は逆だ。なんで私には言ったんだ? 特に話しやすい訳でもなかったと思う。むしろ会話がぎこちなさすぎて、面倒くさいと感じただろう。
私みたいな人間は、蜂蜜を体に塗って大量のカブトムシを集めるぐらいしか脳がない。そんな人間に自ら話かけてきた。
蒼空がよく話していたからと言ってたが、本当にそうなんだろうか? これも他に理由があるのかもしれない。
あとは好きな人だ。
確か、裏側を見てくれる人と言っていた。私と蒼空で例えるなら、本当の自分が出せる場所で、それを受け入れてくれる人。
もし同じなら、雪乃の学校生活で見せてる姿は仮で、本当は別の性格を宿しているのだろうか? 勉強も運動もこなし、大人からの信頼も厚く、誰からも慕われて、優しさを持った女の子。それとは別の顔を持っているということなのか? でも裏表がないように見えた。
考えれば考えるほど、冷たい風も相まって頭が痛くなってくる。
今の私は深刻な顔しているのだろう。真昼間から一人でブランコに乗ってる女子高生は、行き交う親子連れに怪訝な顔をされる。
冬のBJ(ブランコ女子)は公園の景観をより寂しいものに変えているだろう。
はぁー、と白い息を目の前の空間に吐き出す。人工的な白煙は静かに消えていく。
冬という季節は存在していたものを初めからなかったように見せる。だから寂しさも助長する。
息も、木々を染める葉も、空に舞う雪も、全部消えていく。そして、雪乃の想いも。
日曜日、部屋のベランダから星を眺めていた。
夜空をため息で曇らせては、悲哀が感情に降り注ぐ。
昨日と今日は学校が休みだったので、ずっと家に引きこもり模索していた。
だが、この二日間何もできなかった。
雪乃に連絡しようとも思ったが、直前で指は止まり、スマホを握りしめるだけの時間が続いた。
明日の夜は蒼空と会う日。本当は良い報告がしたかったが、まだできそうにない。
未練は二つあると言っていた。もう一つも叶えたいが、今は雪乃と向き合いたい。
明日蒼空に謝ろう。もう少し時間がほしいと。
雪乃は諦めたと言っていたが、たぶん嘘だと思う。そんな簡単に好きな人を諦められるはずがない。それだけは私にも理解できる。
一昨日の朝に話したとき、一瞬だけ寂しい顔を見せた。もしかしたら私に何か言ってほしかったのかもしれない。でも何も言えなかった。
この数日で、何度言葉を詰まらせたんだろう。
他の人たちは、人付き合いの中でたくさん経験をして、適した言葉を渡せるのかもしれない。でも私にはその経験があまりもなさすぎる。
恋愛相談なんてしたことないし、好きな人と結ばれる方法も知らない。ましてや人と上手く喋れない。
過去に縛られて、今まで多くの未来を失っていたことに気付いた。
蒼空に依存していたと思う。だから前を向かなくてもよかった。そこに居場所があったから。
蒼空は友達が多い。その中で知り得たことが累々にあったのだろう。私がこのままでいけないことも、変わらなくちゃいけないことも、きっと分かっていた。雪乃と接してそれを痛感した。誰かを救いたいなんて思ったこともないのに、今は純粋に雪乃の恋を応援したいと思っている。
人が嫌いになってから、世界の見え方は大きく変わった。歪んだ見かたをしていたんだと思う。まっすぐ見てしまえば自分を傷つけてしまうから。景色を捻じ曲げれば自分を正当化できるから。
前までは雪乃のことが苦手だった。
すべてを兼ね備え、多くの人に囲まれ、蒼空が好きな相手だったから。
だが話してみて変わった。私と外の世界の間には過去という澱んだフィルターがある。
雪乃がそのフィルターを取り除くように接してくれたから、こんな自分でも受け入れてもらえることを知れた。
嫉妬や嫌悪で歪ませていた世界が、少しずつだが変わってきている。
景色を変えるのは他人だけではない。自分の意識や価値観に目を向けなければ、周りに恵まれていても変えることはできない。
きっかけを与えてもらったとしても、その先は自分の受け取り方で決まるのだから。
今の雪乃は、自分一人では変えられないのかもしれない。ならその手助けをしたい。
ずっと蒼空に手を握ってもらってた。だけどこれからは誰かの手を握れるような人になりたい。
痛みに寄り添い、見えない傷に気づいてあげられる、そんな人間に。
昇降口は登校する生徒たちで賑わっている。今日はいつもより早く学校に来ていた。
日陰にはまだ微かに雪が残っている。明日には完全に溶けてしまうだろう。
周りを見渡すと、歩いてくる雪乃を視界にとらえた。向こうも私に気づき「おはよう」と顔を綻ばせながら近づいてくる。
今日はちゃんと話そうと決めていた。
雪乃が散らせた恋を、もう一度咲かせるために。
「昼休み、一緒にご飯食べない?」
私がそう聞くと、雪乃は少し間を空けてから、
「ごめん、今日バスケ部の後輩と話すことになってて」
彼氏に二股をかけられて、学校を休んでいた後輩のことかもしれない。
「そっか……」
「明日一緒に食べよう」
「うん」
今日も寒いね、と言いいながら靴を履き替える雪乃。私は昨夜に灯した覚悟を消さないようにその姿を見ていた。
昼休みになり、誰もいない体育館で母が作ったお弁当を口にする。
ステージに腰掛けながら、この広い空間を眺める。普通なら寂しいと思うのかもしれないが、この静寂さが今は心地いい。思考に何の邪魔も入らず、一人の時間を過ごせる。
「ちょっと待ってよ」
「着いてくんなよ」
緊迫を纏う声が、入り口の方から聞こえてきた。
私は咄嗟に緞帳の裏に隠れた。
一人でいると、こういう時は姿を隠そうとしてしまう。ぼっちの習性だ。ただごとならぬ声色だったのもあるが。
「ちゃんと話そうよ」
「もう話したろ」
声は体育館に入ってきた。緊張が走る。
「なんで浮気したの?」
もしやと思い、緞帳を盾のようにしながら片目だけで覗く。
体育館の中央に男と女が立っていた。
男は女に背を向けている。女の後ろには雪乃のがいた。
彼氏に二股をかけられたバスケ部の後輩だろう。確か、熊倉と言ったか。
じゃあ前にいる男が二股男と言うことか。不可抗力とはいえ、嫌な場面に出会してしまった。
男の方は面倒くさそうな表情をしている。女の子の方は今にも泣きそうだ。雪乃は冷静な感じ。
「私はまだ浩司のこと好きなの。もうしないって言うなら、またやり直そう」
男は呆れた顔でため息を吐き、女の子の方を振り向いた。
「だからもう終わりでいいって言ってんじゃん。別に無理に付き合う必要ないでしょ? そっちも嫌でしょ、浮気したやつと付き合うの」
完全に開き直っている。
私は全く関係ないがムカついてきた。あいつのセンター分けした髪を毟り取りたい。分け目すら作れない頭にしたい。
「佳奈は高本くんのことまだ好きなんだよ。だから信じたいの。それなのに、そんな言い方ないんじゃない」
雪乃は先ほどの冷静な顔つきから打って変わって、怒りが滲み出ていた。
「先輩には関係ないっすよね。俺ら二人の問題なんで」
「私が呼んだの。二人だと不安だったから」
声を振るわせながら、倉本さんは言う。
「てかさ、お前重いんだよ。友達と遊んでても『女の子いるの?』とか、毎回毎回『私のこと好き?』とか聞いてきてうざいんだよ。こっちの身になってみろよ。監視されてるみたいでマジ面倒くさい。俺が浮気したのはさ、お前が原因だよ」
――うざい。この言葉に私も反応してしまう。その言葉がどれだけ心に傷を付けることか。
熊倉さんは涙を流しながら、膝から崩れた。
「重いのは分かってる。私に原因があることも。でも好きなの。こんなことされてもまだ嫌いになれない。一緒にいたいって思ってるし、まだ浩司のこと信用してる。だから……」
涙で言葉が詰まったのか、嗚咽だけが静寂な体育館に響いた。
雪乃は彼女のもとに行き、優しく背中をさする。そして男を睨みながら後輩の代弁を始めた。
「佳奈はね、ずっと高本くんのことが好きだったの。入学して間もない頃からずっと。付き合うことができたとき、本当に嬉しそうにしてた。重くなるのは、安心したいだけなんだよ。やっと叶えられた恋だから、好きな人に自分を見ていてほしいから。だから言葉が欲しいの。たった二文字だけど、その言葉で明日を笑って過ごすことができる」
雪乃は途中から涙を浮かべていた。もしかしたら自分と重ねていたのかもしれない。
ずっと好きだった相手にあんなことを言われたら、きっと明日を生きることも辛くなる。生きる意味を見失ってしまう。好きな人の言葉は明日を生きるための糧になるから。
「そんなの知らねーよ。重いもんは重いの。なんで俺がそれを背負わないといけないんすか。こいつが勝手に俺を好きになって、仕方なく付き合ってるのに、何で面倒かけられなきゃいけないんだよ」
「仕方なくって何? 佳奈の前で何でそんなことが言えるの。人の気持ち考えたことある? 佳奈に謝って。今すぐ」
雪乃は男の前に立ち、憤怒に燃えるような顔で睨んでいた。
「怒りたいのは、俺の彼女じゃないっすかね。あっ、彼女って言ってもこいつじゃなくて、もう一人の方です。そいつとは中学から付き合ってるんで、正確に言えば浮気はこっちです。だからそこまで重くされると面倒なんすよね。そうだ、先輩俺と付き合いません? それか体だけの関係でもいいっすよ? 富田雪乃とやれたら、クラスの奴に自慢できるんで。どうです? 俺、結構上手いっすよ」
何でこんな人間が生きてるのだろう? なんの迷いもなく『死ねばいい』と思った。人を傷付けることを何とも思ってない人間。男の目の前に行って全部吐き出したい。この胸にある不快なもの全部。
雪乃を見ると、肩を震わせながら強く拳を握り締めていた。
「雪乃先輩、もういいです」
ゆっくりと立ち上がり、涙を拭いながら熊倉さんは言った。
「私が悪いんです。こんな人を好きになったから。だから、もう……」
ここまで言われても好きな気持ちが残っているように見えた。本人もその気持ちを捨てたいが、心にしがみついてきて離れない。そんな感じだ。
「じゃあもういいっすか? 佳奈もさ、早く新しい男作って忘れなよ。次は遊び程度の相手見つけて、そこそこに楽しみな。たかだか高校生の恋愛で、マジになるとかダサいから。あと、またやりたくなったらいつでも連絡してよ。お前上手くないから、俺がみっちり教えてや……」
「おい!」
私はステージの上から、男に対して叫んでいた。
「千星」
雪乃は驚きながら、こちらを見ている。
我慢できなかった。ずっと自分を好きだった相手に、一生消えないであろう傷を残したことが。
人を好きになるというのは自分の世界を変えることだ。こいつは今、彼女のすべてを壊そうとしている。それだけは絶対に許せない。
ステージから飛び降り、男の前に行こうとしたが、着地に失敗し転んだ。
「ぐへっ」という変な声が、静寂に包まれた体育館に響く。三人の視線が集まるのを感じ、恥ずかしさが増長される。
顔を上げるのも億劫だったが、今言わないと彼女は私みたいになるかもしれない。あの日、蒼空が私に寄り添ってくれたように、今日は私が蒼空にならないといけない。
恥ずかしさを押し殺して立ち上がり、三人の方へ向かった。
「誰?」
男の前に立つと、怪訝な顔で私を見てきた。視界の隅に雪乃の心配そうな顔も入る。
「たかだか高校生の恋愛かもしれない。でもね、それが自分の支えになって生きる理由に変わる。辛い日常も明日に怯える夜も、その人と会うことを想像すれば、また頑張れるんだよ。好きな人の言葉で嬉しくなって、好きな人の言葉で支えられて、そうやって一日を過ごしていく。好きな人の言葉っていうのは、それぐらい特別なの。だから言葉一つですべてを奪うことができる。そうやってできた傷は消えないで残り続けるの。君からしたら長い人生のほんの一瞬の出来事かもしれない。でも彼女にとっては、一生背負っていく出来事になるかもしれないんだよ。私は過去に縛られながら生きてきた。彼女にはそうなってほしくない。必要のない傷を抱えながら生きるのって、ものすごく辛いの」
自分の生きてきた軌跡を辿りながら、言葉を縒り合わせた。目の前で泣く女の子を助けたくて。
「好きって気持ちは簡単に消えるものじゃない。だから彼女は君に強い言葉を吐けないんだよ。それに甘えないで。君が付けた傷は未来を奪うものなんだよ。もしまた彼女を泣かせることがあったら、私は一生許さない」
思いの丈を全部ぶちまけると、体育館には熊倉さんの啜り泣く声だけが響いていた。
目の前のセンター分けクズは、「もうこいつと関わるつもりないんで」とだけ残し、狼狽えながら去っていった。
私は何かできたんだろうか? そんな不安が残る。彼女がこの先、傷を背負ったまま生きていくかもと思うと、顔を見ることができなかった。
「千星」
雪乃に名前を呼ばれて我にかえった。関係のない自分が勝手に話を終わらせてしまい、しかも盗み聞きみたいな形になっていたので、急に焦りが出てきた。
「そ、そこでみんなを食べてたらご飯が来て、急だったから思わず自分を隠蔽しないとと思って、なんか、だんだん我慢できなくなって。それで、その、勝手なことしてごめん」
テンパりすぎて自分が何を言っているのか分からなかった。下げた頭をずっとこのままにしておきたい。
「ありがとうございます」
雪乃の声じゃなかった。顔を上げると目の前に熊倉さんが立っていた。
目が充血したように赤く、彼女の心情がその瞳に映し出されているようだった。
「私が思ってることを言ってくれて助かりました。もしかしたらずっと傷が残ってたかもしれない。でも、さっきの言葉で少し和らいだ」
悲しみが覆っていた表情に、微かだが笑顔が零れる。
「本当は私が言うべきだった。後輩があんな酷いこと言われたのに、立ち竦むだけだった。先輩失格だよ」
熊倉さんは、首を大きく横に振る。
「雪乃さんがいてくれて助かりました。一人だったら泣くだけで終わってたと思います。あんなクソ野郎なのにまだ気持ちが残ってる。おかしいですよね。さっき言ってたことが嘘なんじゃないかって、どこかでそう思ってる自分がいる。本当バカですよね、私」
「人を好きになることはバカなことじゃないよ。向ける相手は間違ったけど、恋をした自分は責めないで」
雪乃の言葉に熊倉さんは再び涙を流した。
この場面で言うか迷ったが、言わないといけない思い、私は喉元で抑えていた言葉を吐いた。
「熊倉さん自身も変わらないといけないと思う。自分が変わらないと、また同じような人を好きになってしまうから。他人の見えかたは自分の心の中にあるもので決まる。それを変えない限り、幸せにはなれないと思う。関係のない私が言える立場ではないし、大きなお世話かもしれないけど、自分のことを大切にしてくれる人を好きになってほしい」
奥底にあるものが視界を歪めたり、価値観を作ってしまう。それと向き合いながら人は生きていかないといけない。この数日で私が学んだことだった。
「はい。自分でもそう思います。あんなやつを好きになったのは、恋してる自分に酔っていたんだと思う。だから汚れている部分に目を瞑って、自分の好きな世界を作りあげてた。それが楽しかったから。今度はもっと人を見ます。恋をしてる自分ではなく、相手の心を」
そのあと、熊倉さん笑顔で教室に戻っていった。元カレに一発ビンタする、と息巻きながら。女って怖い。
私と雪乃は五限目をサボり、第三支部の公園に来ていた。
「サボろっか」と言い出したのは雪乃の方からだった。なので私は公園を案内した。
「こんなとこあったんだ。今度から私もここで食べようかな」
蒼空以外の人を初めて招いたので緊張したが、喜んでもらえてよかった。私の家ではないが。
ベンチに座り、一息吐く。
今日はよく晴れていて青が映える。
流れる雲が気持ちよさそうに泳でいるのを眺めていたら、
「恋ってなんでこんなに難しいんだろうね?」
隣を見ると、雪乃も空を見上げていた。
「手を繋いで、一緒に笑って、お互いに気持ちを伝える。これだけで十分なのに、それが上手くいかない。ただ人を好きになっただけなのに、なんでこんなに苦しくなるんだろう」
雪乃は好きな人に気持ちを伝えることをやめた。そこに大きな隔たりがあるんだと思う。今ならそれを聞けそうな気がした。
「好きな人に気持ちを伝えなくていいの?」
沈黙が会話に空白を作った。その空白には雪乃の考えていることが詰まっている。私はそれを知りたい。
「うん。そう決めたから。これでいいんだと思う」
十数秒の沈黙が明けたあと、雪乃は自分を納得させるように言った。
「嘘だよ」
自分に嘘をついていると思ったから、私はそう言った。
今まではその先に進まなかったが、今日は無理にでもこじ開けたかった。ここで引いたら、雪乃は心の中に本音を仕舞い込むと思ったから。
「嘘じゃないよ」
「本当は伝えたいくせになんで嘘つくの? 自分の恋でしょ? 自分にまで嘘つかなくていいよ」
「自分の恋だから自分で決めたの、もう伝えないって。だからこれでいいの」
「よくない! 一生後悔するかもしれないんだよ。伝えたくても、二度と伝えられなくなることだってある。あとで言っとけばよかったって思っても遅いの。今思ってることは、今言うべきだよ」
「だからもういいんだって! 千星には私の気持ちは分からないよ」
「分からないよ。だから知りたいの。私は後悔した。自分の気持ちを伝えられないまま、私の好きな人はこの世を去った。あのとき伝えていればって何回も思った。その気持ちはずっと心の中で生き続ける。自分で自分を苦しめることになるんだよ」
「千星の好きな人って……」
「蒼空だよ」
雪乃は言葉を失ったように押し黙った。
私も言葉を見失い、二人で地面に視線を送りながら沈黙の中を放浪する。
頬に当たる冷たい風がさっきよりも強く感じる。車の走行音がいつもより鼓膜に響く。落ち葉の筋が一本一本くっきりと見える。
静けさが五感を鋭くさせた。そのせいか、言葉が枯れた空間は一層重さを感じる。
先に声を発したのは雪乃だった。
「本当は好きって伝えたい。でも、一歩踏み出せないの……自分が邪魔をするから」
喉元で閊えていたものを押し出すように、雪乃は言葉を口にする。
「私……」
そして抱えたものを紡ぐように過去を語り始めた。