小学生ときの私は活発で誰とでも話せるような子供だった。
 今とは真逆で学年の中心にいたし、友達もたくさんいた。
 その中でも特に仲の良かったのは明里ちゃんという女の子だ。
 毎日のように一緒にいたし、帰る時も一緒。放課後はお互いの家に行ってゲームなどをした。
 たまに恋バナもした。このときの私は好きな人がいなかったため、よく妄想を話していた。
「抱きしめられながら『好きだよ』って言ってもらいたいの」
「分かる! いいよね」
 私が理想を語ると、明里ちゃんは大きく頷きながら肯定してくれた。
「他の人に聞かれたら恥ずかしいから、誰にも言わないでね」
「もちろん。当たり前じゃん」
 他人には絶対に聞かれたくないことまで、その子には喋っていた。信頼していたから。
 誰かを嫌いと思うことはほとんどなかったが、どうしても仲良くなれない子がいた。
 三宅という男の子だ。
 三宅は態度も体も大きく、暴力的なところもあった。
 この間は大木くんの頭を叩いていたため、見つけたときは叱りつけた。
 酷いときは取っ組み合いになることもある。力では勝てないため、そういうときは噛みついて対抗する。
 こいつの一番許せないところは、大人の前では良い子ぶることだ。だから先生たちは三宅のことをあまり叱りつけない。それが物凄く腹ただしかった。
 小学六年の夏頃、その日は私の人生を変える大きな出来事があった。
 昼休みに外でサッカーをしていたが、急に降ってきた雨で教室に戻ることに。
 濡れた衣服を手でバサバサと叩きながら廊下を歩いていると、「ぶっ殺すぞ、明里」と憎悪が混じる声が教室から聞こえてきた。
 私は急いで教室の中に入ると、そこには明里ちゃんの髪の毛を掴む三宅がいた。
 周りの子は怯えながらその様子を見ている。
 その光景に怒りが一瞬でピークに達した。
「何やってるの! 離せ」
 三宅の手を叩き落としたあと、泣いている明里ちゃんに「大丈夫?」と声をかけた。
 だが反応はない。体は震え、恐怖していることがこちらにも伝わってくる。
「明里ちゃんに何したの!」
 生きてきた中で、一番の怒りを視線に込めた。
「こいつが悪いんだよ。俺は何も悪くない」
「は? 何で明里ちゃんが悪いの? 本当に腐った奴」
 心の底からムカついた。正当な理由もなく、人に害を与える目の前の人間が。
「明里、さっき言ってたこと、こいつに言ってやれよ」
 言っている意味が分からなかった。明里ちゃんをに視線を移すと俯いている。
「じゃあ俺が代わりに言ってやるよ」
「やめて」
 明里ちゃんは慌てたように三宅に懇願する。まるで秘密を握られてるかのようだった。
「こいつさ、お前のこと嫌いなんだって。うるさいし、すぐでしゃばるからムカつくってさ」
「嘘に決まってる。明里ちゃんがそんなこと言うはずない」
「じゃあ聞いてみろよ」
 彼女に目をやると、視線を逸らされた。
「佐藤と明里がお前の悪口を言ってたから伝えようとしたんだよ。そしたら服を掴んできたから、髪の毛を掴み返しただけだよ」
 信じられなかった。絶対に三宅が嘘をついていると思った。だが、明里ちゃんは何も言い返さないまま、ずっと床に視線を落としている。
 何で反論してくれないの。嘘なら嘘って言ってよ。
 私は教室の隅にいた佐藤さんを見つけて問い詰めた。
「嘘だよね。明里ちゃんが私の悪口なんか言わないよね」
「……」
 沈黙で返された。ほとんど答え合わせになっていたが、それでも信じたくなかった。
 他の子に聞いてみよう。「言ってないよ」この一言が聞きたい。
「今の嘘だよね。明里ちゃんは何も言ってないよね」
 一番近くに座っていた男の子に聞くと、困惑した表情で明里ちゃんを見た。そして少し間を置いたあと、
「言ってたよ……楽しそうに」
 隣の席に座っていた子も、黙って頷いた。
 色んな感情が頭を駆け巡り、悪い夢の中を彷徨っているようだった。
「おい明里、直接言ってやれよ。さっき、うざいって言ってただろ」
 彼女は今にも泣きそうな顔だった。下唇を噛んだまま、肩を震わせている。言わないことが答えかもしれないが、私はまだ明里ちゃんを信じている。だって親友だから。
「早く言えよ」
 三宅は明里ちゃんの前に立って拳を振り上げると、彼女は閉した口を開いた。
「正直うざい。ちょっとしたことではしゃいだりして、うるさいって思うときもある」
 自分の意識がどこにあるのか分からなかった。仲が良いと思っていた子が、自分を『うざい』と思っていた。
「あとお前の妄想キモイぞ。抱きしめられながら、好きだよって言ってほしいんだろ」
 恋バナをしたときに彼女に話したことだ。それは誰にも言わないでとお願いしたのに……
 周りからクスクスと笑い声が聞こえ、涙が零れそうだった。でも泣けば馬鹿にされる。この場から立ち去りたいのに、足が思うように動かない。
 そしてなにより怖かった。この状況で聞こえる笑い声や、信じていた人が自分を嫌っていたという事実が。その恐怖で声も出なくなっていた。
「謝れよ」
 涙を堪えるのが限界を迎えたとき、後ろから声がした。振り向くと、奥村蒼空くんが立っていた。
 奥村くんとはほとんど話したことがない。いつも一人でおり、自ら周りと距離をとっているように見えたので、あまり話かけることはしなかった。でも女子からは人気があった。よくかっこいいと言われていて、みんなよりも大人びているいるところがクールだとかで騒がれていた。
「藤沢に謝れ」
 奥村くんは三宅の前まで行き、そう言った。
「は? それ俺に言ってんのか」
 三宅は上から見下ろすように言う。体を大きく見せたいのか、胸を張って背筋を伸ばしている。
 奥村くんの肩は震えていた。これだけ身長差と体格差があればそうなるのは当然だ。
「こいつびびってやんの。だっせ」
 つんざく笑い声が教室に響く。私が代わりに言い返してやりたかったが、思うように口が動かない。
「……謝れよ」
 奥村くんは消え入りそうな声で言った。
 三宅は馬鹿にしたように耳に手を当て「なんて?」と聞き返す。それを見て笑ってる奴らがいることに腹が立った。何もできないくせに人を笑う資格はない。
「謝れって言ってんだよ!」
 奥村くんが張り上げた声で言ったからか、一瞬、三宅はたじろいだ。だが周りの視線もあり、すぐさま表情を戻す。
「誰に向かって、そんな口聞いてるのか分かってんのかよ」
 三宅は蒼空くんめがけて拳を振り下ろそうとした。
『ドン!』という物音が教室に響く。でもそれは殴った音ではなく、三宅が壁にぶつかった音だった。
 ほとんど無意識だったと思う。さっきまで動かなかった私の足が、自然と三宅のお腹を蹴っていた。
 壁まで飛ばされた三宅は腹を押さえながら苦痛の表情を浮かべている。
「てめえ……」
 ゆっくりと起き上がる三宅を見て、私は奥村くんの腕を掴んで教室の外に走った。
 無我夢中だった。なんで彼の腕をとったのかも、廊下を走ってるのかも分からない。でもあの場から抜け出したかった。彼と一緒に。
 しばらく走ったあと、理科実験室に入った。中に入ると私は手を離し、無言のまま二人で立ち尽くした。
「はい」
 奥村くんがハンカチを差し出してきた。青と黒のタオル生地で、英語で書かれているから読み方が合っているかは分からないが、ブルーベリーと書かれている。大人が使うようなものなので、たぶんお父さんのものだと思う。
 最初は渡された意味が分からなかったが、頬に伝うものを感じ理由が分かった。
「ありがとう」
 私は優しさで涙を拭った。
 奥村くんが椅子に座ったので、とりあえず隣に座ることにした。だがお互い無言のまま時間が過ぎていく。
 先に沈黙を破ったのは奥村くんだった。
「ごめん、何もできなかった」
 膝の上に置いている拳を力強く握りしめながら彼は言った。
「人を助けるって、アニメのヒーローみたいに悪いやつを倒したりするだけじゃない。寄り添ってくれるだけでも、その人は救われるんだよ」
 奥村くんは拳の力を緩めて「うん」と頷いた。
 そして視線を下に向けながら、恥ずかしそうな顔で言葉を付け足した。
「俺は『抱きしめられながら好き』って言ってもらうことを、気持ち悪いとは思わない」
 今、それを言われると恥ずかしさが込み上げてくる。でもそれ以上に嬉しかった。肯定してくれたことが。
 あの場所ではみんなが敵に見えた。あそこにいる全員が私の悪口を言って、笑いながらのけ者にしてる。世界から私だけが切り離されて、二度と戻れなくなると思った。あのたった数分ですべてが壊れそうだったが、彼が私を掴んでくれた。世界から逸れないように。
 あと少し遅かったら、私の中の私はきっと死んでいた。
「俺は話すのとか得意じゃないから、相手が話してくれると助かる。だから……話し相手にならなれると思う」
 また涙が出そうになったので、太ももを思いっきりつねってなんとか堪える。
「私、でしゃばるし、うるさいよ」
「俺はあまり喋らないから、ちょうどいいと思う」
「でもいつか、面倒だと思うかもよ」
「思わない」
「本当に?」
「本当に」
「奥村くんがそこまで話したいって言うなら、話してあげる」
 早速でしゃばった。嬉しさを隠したくて。
「別に話したくないなら、話さなくていいよ」
「嘘です。話してください」
「うん」
 奥村くんは少し笑ったように見えた。それがちょとだけ嬉しかった。
「私は藤沢千星って言います。千星は数字の千にお星さまの星」
 あまり話したことはなかったため自己紹介をした。
「俺は奥村蒼空って言います。蒼空は草冠に倉庫の倉って書いて、空は青空の空」
 蒼空(そら)良い名前だと思った。
「星と空だね」
 奥村くんが優しい表情で言う。
「星と空だね」
 私も倣ってそう言った。

 ***

 そのあとの小学校生活はずっと蒼空と一緒だった。
 最初は私が一方的に話してたけど、そのうち蒼空も話してくれるようになり、バランスの取れた関係性になったと思う。
 そしてあの件以降、他の子とは話さなくなった。
――うざい
 あの言葉が頭をよぎり、人と関わることが嫌になった。話せたのは蒼空の家族ぐらいだ。
 三宅はあれ以降も私に絡んできては罵倒してきた。そのたびに取っ組み合いになったが、そこに蒼空も参加してくれて二対一で戦った。大抵は私たちが勝つことが多く、小学校を卒業する頃には三宅も絡んで来なくなった。
 中学に上がると蒼空の周りにはいつも人がいた。小学校のときと比べて明るくなったし、他の人とも話すようになった。
 離れていくようで寂しかったが、それでもずっとそばに居てくれた。
 私と世界を繋ぐ結び目であり、私が私でいられる場所。蒼空はそういう存在だ。
 でも星は夜空でしか輝けなくて、朝になれば太陽に消されてしまう。蒼空がいないと、私は誰にも見えない存在になった。
 ベランダに吹く少し冷たい秋の夜風が、今も消えない傷跡に染みるようだった。痛みを帯びた過去は足枷に変わり、進んでいく未来から私を遠ざけていく。
 簡単に人は変われない。変わろうとしても傷が痛むだけ。ただ生きるだけなのに、なんでこんなに難しいんだろう。他の人は進んで行くのに、なんで自分は立ち止まったままなのだろう。
 SNSで『死にたい』という言葉が流れてくると、私も考えてしまうことがある。その感情には色んなバックボーンがあり、抱えてる過去も違えば、痛みも違う。でも辿り着く先は『死』という出口。私が死にたいと思うときは『生きたくない』が正確な言葉だと思う。だから死にたいは少し違うのかもしれないけど、他に言葉が見つからないから『死にたい』に変換されてしまう。
 私は夜空を見上げて流れ星を探した。願いを叶えてくれるかもという淡い期待を抱きながら。