小学校に入学してすぐに友達ができた。明るい性格でクラスのムードメーカーだった青山陽一という子だ。
「この学校にいる全員と友達になる」
 彼は口癖のようにそんなことを言っていた。
 到底できることではないと思っていた自分は「全員は無理だよ」と陽一に言うと、
「蒼空はすぐに無理って言葉使うよな。やってもないのに出来ないって思うのは勿体無いぞ。大抵のことは自分次第で変えられるんだよ」
 まだ小学一年生なのに、何十年も生きてきたようなことを臆せず言うような子供だった。
 有言実行という言葉を、スポーツ選手がテレビで言っていた。陽一はまさにそれだった。
 彼は瞬く間に友達を増やしていき、四年生に上がる頃には、学校の半数と仲良くなっていた。
「言っただろ。自分次第でなんとかなるって」
 学校帰り、ドヤ顔で陽一にそう言われた。
「でも全員じゃない」
 本当はすごいと思っていた。でもドヤ顔がイラッとしたので否定的な言葉で返した。
「今のペースで半分てことは、六年の終わり頃には全員になるからいいんだよ」
「自慢げな顔で言うなら、全員友達になってから言うべき」
「うるさいな、半分でもすごいだろ」
「まあまあかな」
「本当、蒼空って捻くれてるよな」
 陽一の言う通り、少し捻くれているかもしれない。どこか冷めた目でクラスの子らを見ていたような気がする。それが原因かは分からないが、友達も少なく、よく話すのは陽一だけだった。遊びに誘われても他の奴がいたら行かなかったし、よく知らない人と一緒にいるのが面倒だった。
「でもさ、全員と友達になるって無理だよな」
 陽一は、空を見上げながら嘆くように言った。
「さっきと言ってること違うじゃん」
「そうなんだけどさ、三宅とは友達になりたいとは思えないんだよな」
 三宅は一年の頃から同じクラスだった。入学したての頃は気の弱い生徒だったが、三年生になってから背が大きくなり、それと並行して横柄な態度に変わっていった。しかも先生がいないところで『死ね』『ブス』など、人を傷つけるような言葉を平気で浴びせている。
「あんなやつ友達にならなくていいよ」
「だよな。三宅は全員から外すわ」
「それでいいよ」
 陽一は誰にでも優しかった。だから三宅とも仲良くすると言いだしたらどうしようかと思っていたが、そうでないと知り、胸の辺りのモヤモヤが消えていった。

 四年生の秋ごろ、事件が起きた。
 音楽の授業中、先生が急用で席を外しているときのことだ。
「三宅、お前良い加減しろ」
「うるせえな、お前に言われる筋合いねーんだよ」
 音楽室の後ろで対峙する二人を、クラスのみんなが固唾を飲んで見ている。
 壁に貼ってある偉人たちの目線も、そちらに向いているように感じた。
 きっかけは、三宅がクラスの女子に「ブスがこっち見てくんじゃねーよ」と言って泣かせてしまったことだ。
 その子は顔を両手で覆い、音楽室の隅で座り込んでいる。
 彼女のそばに行き「大丈夫?」と聞いたが、啜り泣く声だけが返ってきた。
「多田に謝れよ」
 陽一は今まで見たことのない顔をして、怒りを露わにしている。
「ブスにブスって言って何が悪いんだよ」
「多田はブスじゃねーだろ。お前みたいな性格の奴をブスって言うんだよ」
「性格にブスなんてねーだろ。頭おかしいんじゃねえの」
 陽一は容姿ではなく内面で人を見る。だからそう言ったのだろう。
「なあ、多田はブスだよな?」
 三宅が近くに座っていた女子に問いかける。
「ブスじゃないと思う……」
 目線を下に落とし、か細い声でその子は答えた。
「は? 聞こえねーよ」
 三宅は女子の髪の毛を掴んで顔を上げさせる。その子の表情は恐怖で歪んでおり、目には涙が浮かんでいた。
「三宅!」
 怒声の後に女子が悲鳴をあげた。陽一が三宅を殴り飛ばしたからだ。
 陽一は「あっ」と小さく零し、頬を抑えながら床に倒れている三宅を見下ろしていた。
 音楽室には、指先すら動かせないような緊張感が覆っている。
「てめえ、やったな……」
 三宅は憎悪を含んだ言葉と共に、ゆっくりと立ち上がる。
 体を動かすことはおろか、声も出せないほどの空気を三宅は纏っているように見えた。
「陽一!」
 三宅は叫びながら陽一を押し倒すと、そのまま上に乗り首を絞めた。
「はな……せ……」
 陽一は三宅の腕を掴み抵抗しているが、体格差があるためびくともしない。
 俺は止めようと駆け寄り、三宅の肩を掴んだ。
 すると、この世のものとは思えない形相でこちらを睨んできた。
 初めて本当の恐怖を抱いた。殺されるかもしれないと思うほどの。その瞬間、全身に震えが起きる。
「やめろよ……」
 力なく言った言葉では、三宅を止めることができなかった。
 首を絞められている陽一の顔は苦しそうに歪んでいく。目の前にいる親友が死にそうなのに、俺は何もすることができなかった。
「先生呼んでくる」
 女子の一人がそう言って、音楽室の扉を開けた。
 その声にホッとしたが、すぐに恐怖は帰ってきた。
「横山!」
 三宅が怒りに満ちた声を上げると、横山は制止した。
 そして陽一の首から手を離すと、横山の方へと向かっていく。
「大丈夫か?」
 咳き込みながら悶えている陽一に声をかけると、三宅の背中を指差していた。
 横山を救え、という意味だと思う。
 だが自分の足は震えており、立つことができなかった。
「おい」
 その声で視線を上げる。
 三宅は「どこ行くんだよ」と言って、先生を呼びに行こうとした横山の肩を掴んで振り向かせた。
「なに……」
 震えた声で横山は言う。
「呼びに言ったらぶっ殺すぞ」
「……」
「聞こえてんのかよ? 返事しねえとぶっ殺すぞ」
「先生は……呼ばない」
 教室の空気が一層重くなるような怯えた声だった。
 三宅は教室の中央に足を運ぶと、椅子の上に立ってクラスのみんなを見渡した。
「いいか、今度俺に逆らう奴がいたら、本当にぶっ殺すからな。それと今から全員で陽一を無視すること。話した奴はぶっ殺す。あと親や先生、他のクラスの奴に言ったらぶっ殺す。いいな」
 この日、クラスに稚拙な独裁者が生まれた。人を傷つけるだけで何も生み出さない、愚かな独裁者が。
 三宅は椅子から降りると、俺の前に立った。
 全身が固まった。恐怖で支配さるように。
「奥村、絶対にこいつと話すなよ」
 苦しそうな表情で床で悶えている陽一を指差して言った。
「嫌だ……」
「何?」
 三宅は手を耳に当てて聞き返してきた。
「……」
「おい! 聞こえてんのかよ」
 髪の毛を掴まれ、顔を近づけてくる。
『できない。陽一は俺の親友だから』
 本当はそう言いたかったが、怖くて言えなかった。自分が情けなくて涙が零れる。
「こいつ泣いてやがる。男のくせにダッサ」
 絡まれたくないからか、クラスの子たちは大声で笑う三宅から視線を外していた。
 その反応は理解できた。自分が第三者なら同じようにしているかもしれない。
 だけど、一人くらいは手を差し伸べてほしかった。俺にではなく親友に。
 陽一を見ると、肩を小刻みに揺らしながら腕で目を隠している。頬には涙の跡があった。

 それから三ヶ月が経った。
 クラスのムードメーカーで、いつも人に囲まれていた陽一の周りには誰もいなくなっていた。
 他のクラスの人が陽一に話しかけても、自ら距離を取り一人になることを選んでいた。
 後で知ったことだが、「お前と仲良くする奴は全員ぶっ殺す」
 三宅は陽一にそう言っていたそうだ。
 誰も巻き込まないようにするのは陽一らしかったが、そんな優しさを俺にまで向けないでほしかった。
「今日は一緒に帰ろう」
「バカ、三宅に見られたら、次はお前がターゲットにされるぞ」
 昼休み、昇降口で声をかけたらそう言われた。三ヶ月繰り返されたやりとりだ。
「蒼空、俺のことは気にしなくていい」
「でも……」
「意外と一人でいるのも楽しいんだよ。誰にも邪魔されないからな」
 屈託のない笑顔を作り、俺の肩を叩いた。
「あと千星には絶対言うなよ。俺がクラスで無視されてるって知ったら、三宅と殴り合いになるから」
 藤沢千星は陽一と同じようにムードメーカー的な存在だった。
 別のクラスということもあり、俺はそんなに話したことはなかったが、陽一は仲が良かった。
「三宅がクラスの奴に言ってる。藤沢だけには絶対に言うなって」
「あいつも千星は怖いんだな。昔あいつらが喧嘩したとき、千星が三宅の腕に思いっきし噛みついたことがあってさ、たぶんそれが今も忘れられないんだよ」
 陽一は昔話を楽しそうに話している。その姿で心が苦しくなった。
「だから絶対に言うなよ。今でさえ『なんで私を避けるの』ってうるさいんだから」
「どうにかなんないのかな?」
 分からなかった。また陽一がクラスに溶け込むために何をしたらいいかが。
「このままでいいよ。俺は一人が結構気に入ってるから。だからもう気にするな」
 こんな状況なのに、一切弱気を見せない陽一をかっこいいと思った。
 自分なら絶対に耐えられないし、周りの人間を恨むかもしれない。それどころか、俺の心配までしてくれている。それが一層、自分の弱さを引き立たせているように感じた。
「誰かに見られたら面倒だから、もう行くわ」
 そう言って陽一は去っていった。
 俺は三宅の前では話しかけない。それは怖かったからだ。
 この臆病さを何度恨んだか分からない。親友のために自分を犠牲にできない俺は、友達失格だと思った。
 でも必ず、みんなの前で笑える日を迎えられるようにする。たとえ自分が傷ついたとしても。
 去っていく背中を見ながらそう誓ったが、その誓いが果たされることはなかった。
 この日を最後に陽一は学校に来なくなった。

 終業式が終わり、空を染める早咲きの桜を見上げながら教室に向かっていた。
 体育館では綺麗に並べられていた列も、一旦外へ出てしまえば、大人が作った統率は乱れていく。
 最初は二列を作って歩いていたが、今は膨らんだり、隙間が空いたりで原型を留めていない。俺はその隙間を一人で歩いている。
 陽一が学校に来なくなってから二ヶ月経ったが、何もなかったかのようにクラスの奴らは笑って話していた。
 その光景に怒りが湧く。なんでそんなに無関心なのかということと、何も出来ないでいる自分にだ。
 三宅は最近大人しくなった。理由は分からないが、暴言を吐いているところはほとんど見ない。
「奥村くん」
 背中から声をかけられ振り向くと、藤沢千星の姿があった。
「陽一が何で学校に来なくなったか分かった?」
 藤沢は陽一が来なくなってから、毎日のように理由を聞いてきた。その度に同じように答える。
「分からない」
「そっか……他の子に聞いても、みんなそう言うんだよね」
 本当は知っている。でも言えなかった。陽一に言うなと言われているからだ。
 いや、嘘だ。本当は三宅が怖いだけだ。
 もし藤沢に言ったらきっと三宅のところへ向かう。そしたら告げ口をした人を探すだろう。たぶん俺が一番疑われる。バレたら殴られるかもしれないと思うと、想像しただけで全身が震えた。
 自分が傷ついたとしても……なんてことを思っていたが、実際には恐怖で何もできない。そんな自分が嫌いでしかたなかった。
 勇気を持てない臆病な自分を、殺してしまいたいと思うほどに。
「何か分かったら教えてね。陽一の家に行っても会ってくれないからさ」
 小さく頷くと、藤沢はクラスの輪に戻っていった。
 俺は家に行くこともできなかった。もし陽一の親に学校での様子を聞かれたら答えないといけない。仮に三宅のことを言ったとしても、あいつは大人の前では反省するだろう。だが教師や親の目が届かない場所では、俺たちに鬱憤をぶつけてくる。それが何より怖かった。
 先生に言おうと思ったこともあったが、結局できずに終わった。
 陽一が学校に来なくなった次の日、いじめが原因で自殺した子がニュースで取り上げられているのを見た。
 その学校の校長は『いじめなんかない』と言っていたが、翌週にはそれが嘘だったと判明。それが一層、口を閉ざす原因になった。
 先生に言ったとしても、誰も守ってくれない。不安だけが胸に積もり、希望が見えなくなった。
 でも助けたいという気持ちはまだ消えていない。たった一人の親友が苦しんでいるのに、自分を守るために何も行動を起こさないのは卑怯だと思った。

 ホームルームの時、先生が悲しそうな顔で教卓に立った。
「実はね、家庭の事情で陽一くんが転校するの」
 その言葉を聞いたとき頭が真っ白になった。周りの子たちはみんな目を伏せている。
「本当はもっと早く伝えたかったんだけど、陽一くんに今日まで言わないでほしいって頼まれたの」
「なんで……」
 思わず声が漏れた。その瞬間、斜め前に座っていた三宅が振り返って俺を睨んだため、視線を落とした。
「陽一くんが学校に来なくなって、みんなも心配してたと思う。それは私も一緒。だから家まで言って話を聞きに行ったけど、陽一くんは何も答えてくれなかった。むしろ詮索しないでってお願いされた。先生としては何があったか知りたかったけど、陽一くんを傷つけてしまう恐れがあるから、余計なことをしてはいけないと思った。でも後悔してる。ちゃんと話しあえば良かったって。本当にごめんなさい。私が不甲斐ないせいで、こんなことになってしまって」
 先生は涙を拭う仕草をした。でも、目には何も流れてはいなかった。
「先生は悪くないです」
 三宅が立ち上がって言った。
「陽一が何かに悩んでいるなら、俺が気づいてあげるべきだった。全部俺のせいです。だから自分を責めないで下さい。俺は先生が担任になってくれて本当に嬉しかったです。本音を言えば、卒業までずっと担任でいてほしい。先生のおかげで毎日楽しく過ごすことができるんです」
 先生は再度、涙を拭う仕草をした。今度は本当に涙が出ていた。
「ありがとう三宅くん。先生も君みたいな生徒を持てて嬉しい。教師っていう仕事はものすごく大変なの。でもそういう言葉をもらえると、やってて良かったって思える。四月からは別の先生が担任になるかもしれないけど、私はみんなのことを忘れないからね」
 いつの間にか、会話から陽一がいなくなっていた。それどころか先生と生徒の感動的なシーンが繰り広げられている。
 悔しいが三宅は賢かった。大人に何を言えば喜ばれるかを知っている。そして大人は、自分を褒めてくれる子供に愛情を注ぐ。
「みんなで寄せ書きをしましょう。こんな素晴らしいクラスだってことを知れば、陽一くんも笑顔でお別れできる」
――反吐が出る
 昔、漫画に書いてあった言葉だ。その意味を父に聞いたが、目の前の人間がまさにそうだと思った。
 俺たちは保身のために陽一を無視した最低のクラスだ。寄せ書きなんてもらっても嬉しくないし、みんな何を書いていいかも分からないだろう。
 そんなことも知らずに、浮かれた顔で色紙とペンを持つ大人が憎たらしかった。

 学校が終わると、寄せ書きを届けるために陽一の家に向かった。
 先生が言うには、今日の夕方には次の引越し先に向かうらしいので、家が近い俺が頼まれた。
 だが寄せ書きはゴミ箱に捨てた。
 みんな『元気でね』『ありがとう』と無難な言葉を添えていたが、三宅は『仲良くしてくれてありがとう。陽一のことは絶対忘れないから』と書いていた。
 こんなの見せられるはずがない。あいつのせいで陽一は学校に来れなくなったのだから。
 ちなみに俺は何も書かなかった。というより書けなかった。親友を見捨てたくせに、調子良い言葉を使いたくなかったからだ。
 それに直接謝りたかった。
 逆の立場なら、陽一は俺のために戦ってくれていたと思う。自分がターゲットにされようが、みんなの前で話しかけてくれたはずだ。なのに俺は……
 情けない自分に嫌悪していると、陽一の家が視界に入った。
 家の前には白い車が止まっており、運転席には男の人が乗っている。
 誰だろうと思っていると玄関が開き、リュックサックを背負った陽一と、大きな鞄を持った陽一のお母さんが出てきた。
 先に気づいたのは陽一のお母さんだった。目があったとき思わず顔を伏せてしまったが、再度見るとこちらを指差している。陽一に自分が来たと教えているようだ。
 すると、陽一がこちらに駆け寄ってくる。
 急に緊張してきた。どんな顔をすればいいのか分からなかったし、もしかしたら『お前が助けてくれなかったから』と言われるかもしれない。だが何を言われようと仕方ないと思った。最近は大人しいとはいえ、それでも三宅を恐れ何もできなかったのだから。
「よう」
 目の前に来た陽一は平然とした顔でそう言った。いじめられたことなんて、なかったかのように。
「ごめん。自分が臆病だから陽一の居場所を作ってあげられなかった。友達なら助けないといけないのに、三宅が怖くて怯えてるだけだけだった。本当にごめん」
 目一杯頭を下げた。それでも足りないと思ったが、他に償う方法を知らなかった。
「バカ、そんなの求めてねーよ。頭を上げろ」
 ゆっくりと頭を上げると、陽一は笑っていた。
「お前は何も悪くない。だから気にすんな。それより俺以外に友達できたか? どうせ出来てないだろ? いつも一人ぼっちだとつまらないから、絶対に友達は作れ。あっ、でも蒼空はどっか捻くれてるから、それは直せよ。じゃないと友達できないからな」
 陽一は優しい。こんなときにまで俺の心配をしてくれる。なのに自分ときたら……そう考えたら涙が出てきた。
「おい泣くなよ。そんなしんみりされたら俺も泣くぞ」
「だって……陽一、優しすぎるよ……一番辛いはずなのに、俺のこと責めてもいいはずなのに……それなのに人の心配して……俺は自分を守ることを考えてた。何もできなかったのは、自分が一番だったからだ……本当にごめん……俺が弱いから陽一が学校に来れなくなった……本当にごめん……こんな人間が、友達なんて言葉使っちゃいけないよね」
 視界が歪むほど涙を流した。その歪んだ隙間に陽一の顔が映ったが、同じように涙を流していた。
「正直、みんなに無視されて辛かった……一人でいるのがこんなに苦しいなんて思わなかった……本当は弱音を吐きたかったし、助けてって言いたかった……だけどお前らまで巻き込みたくなかった……だって大切な友達だから……蒼空や千星が話しかけてくれて嬉しかったよ……お前らがいなかったら、もっと辛かったと思う……ありがとう、俺の友達でいてくれて」
「ごめん、陽一」
「謝るなよ、バカ」
 しばらく二人で泣きあった。涙に限りがあるとしたら、きっとこの先出ることはないだろう。
「なあ、蒼空」 
 お互いの涙が枯れた頃、陽一が口を開いた。
「千星のことをよろしく」
「藤沢?」
「うん。三宅が千星のことをいじめたら助けてあげてほしい。俺さ、あいつのこと好きなんだよね」
 陽一とはそんな話しをしたことがなかったため、好きな人がいることすら知らなかった。
「だから、お前に託す。いい?」
「絶対守る」
 俺がそう言うと、陽一は嬉しそうに笑った。
「捻くれたお前でも、千星とだったら絶対に友達になれる。だからよろしくな」
 こっちは分かったと言えなかった。親友を見捨てた俺に、友達を作る資格なんてないと思ったから。
 何も答えずにいたら、陽一のお母さんが来た。
「もう行かないと」
「……分かった」
 悲しげな表情をしながら陽一は言った。そしてこちらに視線を向けると「じゃあな蒼空」と微笑みを残して車の方へ向かって行った。
「じゃあね、陽一」
 ゆっくりと去っていく背中を見ながら『ごめんね、力になれなくて』と心の中で呟いた。後悔が押し寄せ、胸が締め付けられるようだった。
「蒼空くん」
 陽一のお母さんが俺の目線に合わせてしゃがみこむ。夕日のせいかは分からないが、目が少し赤くなっているように見える。
「ありがとね、陽一に話しかけ続けてくれて。無視されてたのが本当に辛かったみたいで、家でもあまり笑わなくなってたの。でもね、蒼空くんと千星ちゃんの話しをする時だけは嬉しそうな顔をする。二人のことが本当に好きなんだと思う」
「無視されてたのを知ってたの?」
「陽一に聞いた。それで私が無理して行かなくていいって言ったの」
「先生はそれを知ってるの?」
「相談したから知ってる」
 確か、陽一に詮索しないでってお願いされたと言っていた。だから自分は何も知らないと。あれが嘘なら、先生は陽一を見捨てたということになる。そう考えたら、急に怒りのようなものが湧き上がってきた。
「先生は三宅くんに聞いたみたい。クラスの子に陽一を無視するよう指示したか。でも本人はそんなことしてないって否定したらしいけど」
「したよ。三宅が命令したから、みんな無視するようになったんだ」
「分かってる。だけどその時に手を上げちゃったんでしょ? 三宅くんは先生や親に言おうと思ったけど、陽一が可哀想だから黙っていたみたい。それを聞いた先生は、三宅くんはとても良い子だから絶対に人が嫌がることをしない。むしろ人を殴った陽一の方に問題があるって言われた」
「三宅が女子の髪の毛を掴んだからだよ。陽一はそれを止めるために手を出したんだ。悪いのは三宅だよ。陽一は意味もなく人を殴ったりしないし、怒るときはいつも友達のためだった。誰よりも優しくて、いつもみんなを笑わせてた。俺みたいに捻くれた奴の友達になってくれた。なんで陽一だけが悪者になるの? こんなのおかしいよ」
 先に手をあげたのは三宅だ。なんで陽一だけが悪くなるのか理解出来なかった。
 三宅なんてクソだ。なんで大人はあんなクソみたいな奴を庇って、陽一みたいな優しい人を見捨てるんだ。世の中腐ってる。絶対に間違っている。
「蒼空くん……」
 陽一のお母さんを見ると、目に涙が浮かんでいた。
「最後まで陽一の味方になってくれてありがとう……その言葉だけで私たちは救われる。正直この数ヶ月本当に辛かった……でも、蒼空くんや千星ちゃんの話しをしながら笑顔になる陽一を見て、なんとか耐えてこれた……二人のおかげ。本当に……ありがとう」
 陽一のお母さんは、子供のように泣きじゃくっていた。それを見ていたら、自分の目にも涙が溢れてきた。
 家の前に止まっていた白い車が、おばさんの後ろに来て止まった。
「みどり、そろそろ行かないと」
 運転席に座っていた男の人が窓を開けて言った。たぶん陽一のお父さんだろう。
「もう行かないと。ダメだよね、子供の前で大人が泣くなんて」
「ダメじゃないよ。泣きたい時は大人だって泣いたらいいよ」
「蒼空くんは優しいね」
 優しくない。俺は陽一を救うことができなかったんだから。
「おばさん」
「何?」
「転校するのは、みんなに無視されたから?」
 涙を拭いながら聞いた。おばさんも涙を拭っている。
「パパが転勤になったの。だから転校することは決まってた」
「遠いの?」
「うん」
「引越し先の住所を教えてほしい」
「ごめんね、まだちゃんと決まってなくて教えられないの」
「そっか……」
 遠いことにがっかりしたが、少しだけ不安が取れた。
 もしいじめが原因だったら自分のせいでもあるから。だけど陽一が苦しんだことには変わりはない。それは絶対に忘れてはいけないことだ。
「じゃあね蒼空くん。元気で」
 陽一と同様、おばさんは微笑みを残して車に乗った。それと同時に後部座席の窓が開き、陽一の顔が見えた。
「蒼空、またな」
「うん、またね」
「あとさ……」
「何?」
「俺が三宅を殴ったことを、千星には言わないでほしい。あいつには知られたくないから。相手がどうあれ、がっかりするかもしれないだろ」
 藤沢は三宅と喧嘩したときに噛みついたと言っていた。そんな奴なら幻滅しないだろうと思ったが、陽一の頼みだから、絶対に言わないと決めた。
「分かった」
「ありがとう。じゃあ」
 窓が閉まると車が発進した。
 遠ざかる親友を見てると、一人ぼっちになったんだと実感する。これからはもっと強くならないといけない。誰かに頼るのではなく、自分の力で変えれるように。
「奥村くん」
 後ろから大声で名前を呼ばれたため振り返ると、藤沢千星が走ってきた。
「陽一は?」
「今、行った」
「うそ!?」
「来るの遅いよ」
「だってさっき聞いたんだもん。今日塾があったから早めに学校を出て……そしたら塾で陽一が今日出発するって聞いたから……だから抜け出して……」
 藤沢は膝に手を突き、息を切らしながら話している。
「藤沢も聞いてなかったんだな」
「奥村くんも、今日知ったの?」
「うん」
「何で何も言わないんだよ」
 藤沢は俺の胸ぐらを掴みながら、怒った表情で言った。
「俺に言うなよ」
 藤沢は胸ぐらから手を離し、項垂れるように地べたに座り込んだ。
「陽一のバカ、クソ野郎、マヌケ、海老天小僧、ゴリラの片割れ、ポンコツ豆だぬき、手に張り付くタイプの鼻くそ」
 前半の文句は理解できたが、中盤以降はよく分からなかった。
「ねえ、陽一何か言ってた? 学校に来なくなった理由とか」
「……言ってなかった」
「本当に?」
「うん」
 クラスの人間に無視されていたことを話そうかと思ったがやめた。もし三宅と喧嘩になったら、今度は藤沢がみんなから無視されるかもしれない。先生はきっと三宅の方に付く。そしたらまた今回みたいになるかもしれない。何事もなく卒業まで過ごすことが、藤沢を守ることになると思った。
「引越し先は?」
「遠くって行ってた」
「遠くって?」
「まだちゃんと決まってないから、教えられないっておばさんが言ってた」
「うそ……」
 首を垂らしながら、藤沢は落胆した。
「私、塾に戻る」
 立ち上がり、肩を落としながら来た道を戻っていった。
 陽一は友達を作れと言った。でも今は作ろうとは思っていない。親友を助けられなかった俺にその資格はないから。
 もし友達を作るなら、それは誰かを守れたときだ。夕陽が射す藤沢の背中を見ながら、そう思った。

 五年生に上がるとクラス替えが行われ、また三宅と同じクラスになった。
 本来なら悲しむ出来事なのだが、俺としては嬉しかった。藤沢千星もいたからだ。
 三宅が横暴に振る舞うのは基本的にはクラス内だけだ。学年まで広げると教師や親にバレる可能性があるからだろう。そういう頭だけは持っている奴だ。
 藤沢と一緒のクラスになれば守ることができる。これは陽一との約束だからちゃんと果たしたい。親友に託すと言われたのだから。
「今日、明里の家で遊ぶんだけど、奥村くんも行かない?」
 放課後、下駄箱で靴を履き替えていたら藤沢に声をかけられた。その後ろでは、女子数名が俺の方を見てはしゃいでいる。
「行かない」
「来ないと呪うけどいい?」
「勝手にして」
「私の呪い、足の裏からブロッコリー生えてくるタイプだけど大丈夫?」
 どんなタイプだよ。
「生えたら食べるから大丈夫」
 そう言ったあと、昇降口を出た。後ろから呪文のような声が聞こえてきたが無視した。
 今の自分は誰とも友達になってはいけない。誰かを救えるようにならないと、また大切な人を失ってしまうから。
 
 五月を迎えると、最近まで大人しかった三宅の凶悪性が、徐々に牙を剥き出してきた。
「おい、バカのくせに本なんか読んでんじゃねーよ」
 昼休み、大木というメガネをかけた男子が教室で本を読んでいた。そこに三宅来が来て、掻っ攫うように本を取り上げて言った。
「返して」
 大木は本を取り返そうと手を伸ばすが、三宅は戯れるようにそれを回避する。
 クラスのほとんどは外で遊んでいたため、教室には数名しかおらず、男子は俺と大木の二人だけだった。しかも、全員四年生のときに同じクラスの奴だ。
「お願いだから、返してよ」
「じゃあ取り返せよ」
 三宅は背伸びして本を高く上げていた。大木と三宅は背の順で言えば、一番前と一番後ろだ。背の低い大木では、ジャンプしても指先が本を掠めるだけだった。
「返してやれよ」
 廊下側の席で見ていた俺は、窓側にいる幼稚な暴君に向けて言った。
「あ?」
 本を投げ捨て、三宅がこちらに歩いてきた。周りにいる数名の女子が怯えた様子で俺を見ていた。
「もう一回言ってみろよ」
 目の前に立つ三宅は、鋭い目つきで俺を睨んでいる。正直怖かった。三宅と俺の体格差は一回り違う。目の前にすると、先ほどまであった勇気が何処かへ消えてしまっていた。その動揺が手に伝わり、急に指先が震え出す。
「こいつの手、見てみろよ。めっちゃ震えてるぞ。ビビってやんの。ダサっ!」
 三宅は俺の腕を掴み、みんなに見せるように持ち上げた。楽しそうに声を弾ませ、薄汚い笑顔を振り撒いている。こんな下らないことで喜んでるのが理解できなかった。
 だけど何も言えなかった。これ以上逆らったら殴られるかもしれない。その恐怖が抵抗する気力を失わせていた。
「一言くらい返せよ。情けねーな」
 俺の腕を投げ捨てるように離すと、三宅は大木のところへ向かっていった。
「誰かにチクったりしたらぶっ殺すからな」 
「……うん」
 大木は視線を落としながら、消え入りそうな声で言った。声からも怯えていることが伝わる。
「聞こえねーよ。もっとでかい声で言え。それともバカだから日本語通じないのかよ。お前の頭に脳みそ入ってないんじゃねーか。叩いても空っぽだから痛くねーだろ」
 三宅は何度も大木の頭を叩きながら笑っている。
 自分が情けない。陽一を助けられなかったときと一緒だ。強くなると決めたのに、今も怯えて見てるだけ。しかも安心している。大木のところに三宅が行ったから。俺は本当に最低だ。
 なんでこんなに弱いんだろう。なんで勇気を持つことができないんだろう。何もできないくせに、何が『絶対守る』だよ。
「三宅!」
 突如、教室に怒号が響いた。扉の方を見ると藤沢が立っている。怒りが滲んだ視線は三宅に向けられていた。
「人の頭ぽかすか叩くんじゃない! このぽかすか星人。お前の鎖骨に血の海作るぞ」
 言葉だけでは怒ってるのかふざけてるのか分からないが、表情は確実に怒っている。
「うるせえな。ただ遊んでただけだろ」
「人の頭を叩く遊びがどこにあるんだ。このポカスカタン。あるんだったら詳細なルールを説明してみろ」
 藤沢は三宅の前に立つとそう言った。
「そんなもんねーよ。でも俺たちからしたら遊びなんだよ。なあ大木?」
「……うん」
 威圧を含ませた三宅の視線と口調に、大木は目を潤ませながら頷いた。
「ほら、大木だってそう言ってるじゃねーか」
「無理矢理だろ! この反社会的小学生が。頭を叩くのは犯罪だからな。書類送検するぞ」
「だから遊んでただけだって言ってるだろ。本当にうるせー奴だなお前は。いいから、どけ」
 三宅は藤沢の肩を押し退けて教室を去っていった。
 藤沢はその背中に向けて「今度私の肩に触れたら、三途の川を泳がせてやる」と浴びせた。
「大丈夫か大木。頭痛くないか」
 大木の方を振り返って心配そうに藤沢が言うと、目を拭いながら「大丈夫」と答えた。
「先生に言おう。そしてあの外道を牢屋にぶち込んで、二度と日の目を浴びさせないようにしよう」
「言っても無駄だよ。あいつは先生たちに気に入られてるから。それにチクったことがバレたら、もっと酷い目に合う。だから……言わないでほしい」
「言わないとあいつはまた調子に乗って、頭を叩いてくるよ?」
「僕はみんなに無視されたくないから」
 きっと陽一のことを言っていたんだと思う。他の子もそれを思い出したのか、先ほどよりも表情が暗い。
「あいつそんなこともしてたのか。私が三宅に直接言ってやる」
 藤沢は再び怒りの表情を作って教室を出ていこうとしたが、大木に腕を掴まれ制止した。
「お願いだからやめて」
 怯えた様子で言われたからか、藤沢は少し考えたあと、
「分かった。でも何かあったら私に言って」
「うん」
 とだけ言って、大木は自分の席に戻った。

 三宅は日に日に暴言や暴力が酷くなっていき、色んな人間が被害にあっていた。
 先生の前では絶対にしないため、みんな我慢するしかなかったのだが、時折タイミング良く藤沢が来ることもあった。
 基本的には言い合いだが、たまに取っ組み合いになることもあった。
 力で勝る三宅に対し、藤沢は噛みつきを駆使して、最終的には引き分けで幕を閉じる。
 俺は情けないことに、いつもその様子を見ているだけだった。加勢しようとしても、足が震えて動けなかったからだ。
 他人のために自分を犠牲にできる藤沢はかっこよかった。三宅に立ち向かう姿を見ては『いつか自分も』と奮い立った。
 だが、勇気というものは簡単には出てきてはくれない。
 恐怖の後ろで怯えながら身を潜め「全部藤沢に任せればいい。自分に被害が及ばなければそれでいいじゃないか。何で自分から傷を作りにいくんだ。どうせ他人なんだから見て見ぬふりをすればいい。こいつらだってお前のことは助けてくれない」という思考に導いてくる。
 それがすごく嫌だったが、その考えで楽になれることもあった。何もしないということで自分を守れるからだ。
 陽一に託された約束を果たせないまま一年半が過ぎた頃、昼休みの教室で嫌悪するような言葉が耳に入ってきた。
「千星ってさ、抱きしめられながら好きだよって言ってほしいんだって。しかもそれを妄想してるんだよ」
「うわっ、キモ。引くわ」
「でしょ」
 トイレから戻り、自分の席で本を読もうとしたときのことだった。
 明里と佐藤が窓際で外を見ながら話していた。いつの間にか外は雨が降っている。
 確か明里は藤沢と仲が良かったはずだ。それのなのに、本人がいないところで悪口を言っている。それを聞いた俺は、胸の辺りにモヤモヤっとしたものが生まれたように感じた。
「あの子って変わってるよね」
 佐藤がそう言うと、明里は大きく頷いた。
「そう、なんかよく分からない例えとかしてきたり、意味不明なこと言ってきたりするの。本当変人だよね」
 二人は馬鹿にしたように笑い合う。俺はだんだんと怒りが芽生えてきた。
「ちょっとしたことではしゃいだりして、本当に子供みたい。たまにうざいって思うんだよね。でも男子と仲いいじゃん? だから一緒にいるけど、それがなかったら絶対に友達になってない」
 それは友達とは言わない。自分のことしか考えてない人間が、藤沢の悪口を言う資格はない。
 もし藤沢がいなければ、このクラスは三宅の完全な支配下に置かれていた。
 今、そうなってないのは藤沢が三宅と戦ってくれているからだ。
 何もしていないのに、藤沢を馬鹿にするなよ。
「おい」
 先程まで自分の席で寝ていた三宅が、二人のもとに来た。
「今言っていたこと、藤沢に言うからな」
「寝てたんじゃないの?」
 明里は慌てた様子で三宅に聞いた。
「明里、お前藤沢と仲良くしてるくせに、それは酷いだろ。これを聞いたら藤沢どう思うんだろうな」
 三宅は声を弾ませながら言う。
 俺は廊下側の席のため、背中越しにしか三宅を見えていないが、憎たらしい笑みを浮かべていることは想像できた。 
「言わないで……」
 明里は俯きながら言った。
「やだよ」
 そう言って、三宅は教室を出て行こうとした。想像した通りの笑みを浮かべながら。
「やめて」
 明里は三宅のTシャツを掴んだ。走り出そうとした時だったため、三宅は引っ張られる形で後頭部から転倒した。
「ご、ごめん……」
 後頭部を押さえている三宅に、明里は謝罪する。
「やったなお前……」
 三宅はゆっくりと立ち上がると、明里の髪の毛を掴んだ。
「明里、俺に何したか分かってんのか」
 教室に怒号が響いた。
 明里の顔は大きく歪んでおり、首が後ろに傾いている。それほどの力で髪の毛を引っ張っている。
 三宅は狂気じみた顔で睨んでいて、陽一が首を絞められたときと同じ表情だった。
 助けないと――そう思ったが足が前に進まない。恐怖が纏わりついているかのように、地面から足が離れない。
 俺はこんな時まで自分の方が大切なのかよ。怖くても動けよ、お願いだから、もう見て見ぬふりはしたくない。
「ごめんなさい、もうしないから許して」
 明里の声に反応するように、少しだけ足が動いた。
 今日こそは行ける、俺もあいつらみたいに勇気が出せる。そう思ったが、
「ぶっ殺すぞ、明里」
 三宅の怒号に勇気はかき消された。震え出した足を見て、俺には無理だと心が折れた。
 本当に自分が情けなくなる。声を出すだけでもいいのに、それすら出ない。
 この時、自分を変えようとすることを完全に諦めた。
 臆病なままでいることの方が悩まずに済むし、楽に生きられる。それに明里が悪い。藤沢の悪口を言っていたのだから自業自得だ。
 周りを見渡すとみんな怯えた様子で三宅たちを見ていた。中には傍観するように冷めた目で見てる人もいる。
 そうだ、わざわざ自分だけ三宅から反感を買うことはない。ここにいるのは俺だけじゃない。みんなだって見てるだけだ。だから助ける必要なんて……
「何やってるの! 離せ」
 飛び出てくるように、藤沢が教室に入ってきた。
 そしてすぐさま三宅の手を叩き落とし、「大丈夫?」と明里に声をかけた。
 なんで藤沢は立ち向かっていけるんだろう? 足を震わせて怖気ついた自分と何が違う? 体格差は俺よりもあるはずなのに、なんで怖くないんだ? 
 頭の中で自問自答したが分からなかった。どうしたらそうなれるのかが。
 そのあと三宅は、明里が言っていたことを藤沢に暴露した。
 三宅が言ったから信じられなかったのだろう、クラスの人に本当かどうかを聞き周っている。
 だがそれは真実だった。
 そして答え合わせをするように、明里は三宅に促され、
「正直うざい。ちょっとしたことではしゃいだりして、うるさいって思うときもある」
 と本人の前で口にした。
 藤沢は何が起きているか分かっていないように見えた。きっと事実を受け入れられないのかもしれない。それはそうだ。もし陽一が同じように思っていたら、俺もそうなる。
「あとお前の妄想キモイぞ。抱きしめられながら好きだよって言ってほしいんだろ」
 三宅が追い討ちをかけるように藤沢に言った。それを聞いたクラスの奴はクスクスと笑っている。
 何でこの状況で笑えるのかが分からなかった。
 俺はこんな奴らと一緒でいいのか? 藤沢一人に押し付けて、自分は傍観者のままでいいのか?
――だから、お前に託す。いい?
――絶対守る
 ダメだよな陽一。
「謝れよ」
 怖かったが勇気を出した。教室の視線が俺に集まってるのが分かると指先が震え出した。悟られないように思いっきり拳を握って震えを殺す。
「藤沢に謝れ」
 いつの間にか三宅の前に来ていた。ここまでどうやって歩いたのかを覚えていない。
 目の前にしたら再度震えが出てきた。
 それを見た三宅が「こいつびびってやんの。だっせ」と馬鹿にしたように笑った。
 ここで引いたらダメだ、俺が負けたら藤沢が一人になる。もう絶対にさせてはいけない。傷を作るなら人のために作りたい。
「……謝れよ」
「なんて?」
 引くな、陽一に託されたんだろ。
「謝れって言ってんだよ」
 自分が出せる限界の声を上げた。三宅も予想外だったのか、一瞬たじろいだように見えた。
 だがすぐに表情を戻すと「誰に向かって、そんな口聞いてるのか分かってんのかよ」と拳を振り下ろしてきた。
――殴られる。そう思い目を瞑った。
 だけど拳は飛んでこなかった。それどころか、目を開けたら三宅が苦痛の表情を浮かべてうずくまっていた。
 隣を見ると、藤沢が右足を上げた状態で立っていた。たぶん蹴ったのだろう。
「てめえ……」
 三宅がゆっくりと起き上がってきた。どうすればいいか分からなかったが、とりあえず拳を力強く握った。殴ってでも絶対に守らなければならない。
 そう思っていたが、藤沢に腕を掴まれ、そのまま教室の外に連れ出された。
 引っ張られる形で廊下を走り続けた。
 このまま遠くまで行ってしまいたい。人を馬鹿にするような人間がいない所まで。平穏に過ごせて、大切な人たちが笑っていられる場所に。
 暫く走っていると、理解実験室に辿り着いた。
 藤沢を見ると泣いていたので、ハンカチをポケットから出して渡した。
 もうすぐ中学生になるから大人っぽいハンカチを持ちな、と父に渡されたものだ。バーバリーというブランドらしい。
「ありがとう」
 なんだか照れ臭くなり椅子に座る。すると藤沢が隣に座った。
 陽一以外とあまり話したことがなかったため、何を喋っていいか分からなかった。藤沢も黙っている。
 無言のまま時間が過ぎていくと、教室での出来事が思い出される。
「ごめん、何もできなかった」
 無意識に口から出た。本来なら自分が守ってあげないといけないのに、逆に守られてしまった。陽一との約束を果たせなかった罪悪感が、言葉になってしまったのかもしれない。
 悔しさからか、拳を強く握りしめていた。こちらも無意識だった。
「人を助けるって、アニメのヒーローみたいに悪いやつを倒したりするだけじゃない。寄り添ってくれるだけでも、その人は救われるんだよ」
 藤沢の言葉に俺が救われるようだった。
 もしあのまま、傍観者でいることを選んでいたら、きっと一生自分を嫌いなままだった。藤沢だったから、勇気を持つことができた。藤沢がいたから変えることができた。
「俺は『抱きしめられながら好き』って言ってもらうことを、気持ち悪いとは思わない」
 言うのは恥ずかしかったが、藤沢へ何かを返したかった。
 実際に素敵なことだと思うし、決して笑われることではない。俺なりに寄り添う言葉を考えた結果、この言葉が一番良いと思った。そしてあともう一つ。
「俺は話すのとか得意じゃないから、相手が話してくれると助かる。だから……話し相手にならなれると思う」
 誰かを救えるまで友達は作らないと決めていたが、今なら言ってもいいような気がした。何より、藤沢に一人じゃないと伝えたかった。
「私、でしゃばるし、うるさいよ」
「俺はあまり喋らないから、ちょうどいいと思う」
「でもいつか、面倒だと思うかもよ」
「思わない」
「本当に?」
「本当に」
「奥村くんが、そこまで話したいって言うなら、話してあげる」
「別に話したくないなら、話さなくていいよ」
 なぜか強がってしまった。本当は嬉しいのに。
「嘘です。話してください」
「うん」
 思わず笑みが出た。
 藤沢は変わってるかもしれないが、それがいいところでもあると思う。なんとなくだが、今そう思った。
「私、藤沢千星って言います。千星は数字の千にお星さまの星」
 千星(ちせ)良い名前だと思った。
「俺は、奥村蒼空って言います。蒼空は草冠に倉庫の倉って書いて、空は青空の空」
 彼女の名前には星、俺の名前には空という文字が入っている。
 星は空で輝き、空は星に照らされる。共に支え合いながら、お互いの存在を世界に映し出す。
「星と空だね」
「星と空だね」
 俺はこの日、どんなことがあっても藤沢千星を守ると決めた。