孤独は夜空で星を結ぶ

 昨日に続き、雪乃と花山と教室で昼食をとった。花山の席に集まり三人で机を囲む。
 花山は購買で買ったパンだが、私と雪乃はお弁当を机に並べた。この光景がなんだか青春ぽい。
 この三人で集まってるのが珍しいからか、周りの視線を感じる。
 一番は花山の存在だろう。私と雪乃は事情を知っているが、周りの人たちは『中学の時にクラスメイトを殴った怖い奴』という認識だと思う。
 花山も自分がどう思われているかは分かっている。
 雪乃が「今日は教室で食べよう」と言った時も、「お前たちの印象が悪くなる」と断ってきた。
「それならそれでいいよ」
 雪乃がそう返すと、花山は照れ臭そうに「勝手にしろ」と言った。
 その言葉が嬉しかったのだろう。自分が傷つかないように他人を突き放していたが、心の底では人と繋がりたかった。
 そして今、解かれた糸が友達という結び目を作ろうとしている。
 それは花山と同じく、私も嬉しかった。
 スマホを取り出し、二人に紗奈ちゃんの描いた絵を見せた。
 『向日葵を抱えた少女が月を見上げる絵』は写真でも美しい。
「綺麗」
「上手いな」
 二人は感嘆の声を漏らし写真を眺めた。
「この絵に何か意味があるような気がするんだけど、どう思う?」
 昨日の電話で紗奈ちゃんに聞けば良かったのだが忘れていた。これだけで連絡するのも憚られたので二人に聞いてみた。
「これは制服?」
「うん。私が通ってた中学のもの。絵を描いた子も同じ中学」
「じゃあモデルがいるってことか」
「たぶん」
 花山は机に置いたスマホを自分の方に向けた。
「なんで向日葵なんだろ?」
 と言い、画面をピンチアウトさせて向日葵の部分を拡大させる。
「長袖ってことは夏ではないよね」
 雪乃は自分の方にスマホを向けてピンチインさせ、再び絵の大きさを戻す。
「夏を過ぎても枯れない向日葵……」
「向日葵より月が主役じゃない?」
「月の方が目立つけど、俺は女の子あっての月だと思う」
「なんで?」
「なんとなく」
 しばらく議論を交わしていると、チャイムが鳴った。
 答えは出なかったが、二人が話し合っているのを見てなんだか嬉しくなった。
 少し前までは外から見ていた景色だったのに、今は目の前にある。孤独の淵で枯れていた青春に雪が降り花が咲いた。
 その光景を見て、美月ちゃんを独りにさせてはいけないと思った。
 私のように他人を嫌いになり世界を歪ませれば、自分が苦しむだけだ。
「向日葵のこと調べてみたら」
 自分の席に戻ろうとした時、雪乃が言った。
 今まで絵の表面だけで意味を探ろうとしていが、裏側を見るには花のことを知る必要があるのかもしれない。
 五限目、教師にバレないよう教科書でスマホ隠し、向日葵について調べてみた。
 育てかた、特徴、花言葉、種類などが書かれており、その中に一つ引っかかるものがあった。
 紗奈ちゃんが言っていた言葉を反芻しながら、頭の中で絵と言葉を重ね合わせる。
――彼女の描く月が好きだから
 この言葉が何度か頭をよぎったとき、ふと思いつく。もしかしたら……
 明日、直接聞いてみよう。この絵の奥にあるものが、何か導いてくれるかもしれない。

「無理だよ」
 学校が終わってから蒼空の家に来た。美月ちゃんと話すためだ。
 部屋に入ってすぐ「紗奈ちゃんが来てほしいと言ってる。だから明日、美術室に行こう」と言うと、言下に断られた。
「紗奈ちゃんに絵を描かなくなった理由を言った。彼女は知らないといけないから」
「……」
「本心を言ってほしい。絵をやめたい?」
 美月ちゃんは座っている椅子を回転させ、机の上に置いたあったトロフィーに視線を向けた。
 画材などは段ボールに仕舞ったのに、トロフィーだけは見えるところに置いてある。きっとまだ迷いがあるんじゃないかと思う。
「好きって気持ちだけでいいと思う。絵を描く理由を他と結びつけるから苦しいんじゃないかな? 美月ちゃんが自分らしくいられるなら続けるべきだよ。『絵を描いていて良かった』、描き続けた先でそう思える瞬間があるかもしれない」
「純粋に絵を楽しめるならそうしていたい。でもできないの。絵がきっかけで友達ができた。私は絵がないと何も手にすることができない。絵で自分のすべてを測ろうとしてしまうの。手放したいのに離れてくれないんだよ。だから描かない、これ以上苦しみたくないから」
 今苦しんでいる人は、何かに縛られているんだと思う。才能、トラウマ、コンプレックス、その悩みや苦悩が足枷となり足を止めてしまう。
 私もそうだった。苦しみかたは違うけど、その痛みは理解できる。
「私の好きな作家は、よく酷評されてた。自分に向けられた言葉でいくつも傷を作り、苦しかったと思う。だけど最後に書いた作品は多くの人に賞賛された。今までは自分のためだけに書いていたけど、その作品だけは読んでくれる人のために書いたらしい。思い描く理想だけが正解じゃない。追い求めていた道から外れて迷ったとしても、その道が間違ってるわけではない。新しい可能性を見つけるために必要な道なんだよ。立ち止まっていたら迷うことはない。前に進もうとしてるから迷うんだよ。だから今は成長の過程にいるの。自分の積み重ねてきたものが、否定されたわけじゃないよ」
 枯木青葉は想いの方向性を変えたことで、読者の人生に影響を与えた。
 最後の作品が評価を得たということは、その想いが否定されていたのではなく、伝え方が批判されていんだと思う。
 大切にしているものは捨てなくていい。だけど自分だけに寄り添う想いは、いずれ枯れていく。そういうメッセージも込められていたのかもしれない。
 美月ちゃんは俯いたまま黙っていた。萎れた月のように。
「『心に抱えているもので世界の映り方が変わる。同じものを見ていても、誰かにとっては美しく、他の誰かにとっては苦しめるものになる。だから自分と向き合うこと大事だと思んだ』、蒼空が私に言った言葉。私は過去の出来事で人を嫌いになった。だから人を避けて生きてきたの。でもいつかは変わらないといけない。でないとずっと苦しさが続いてしまう。逃げるのがダメなことではないけど、自分のことを自分で支えられるようにならないと、この先ずっと何かに背を向けたまま生きることになる。蒼空はそういう意味で私に言ったんだと思う」
 でも目を背けたくなる気持ちは死ぬほど分かる。ずっと逃げ続けてきた人間だから。
「明日、紗奈ちゃんに会いに行こう。絵をやめるかどうかはそのあと決めればいい。判断するにしても、今じゃないと思う」
「……分かった」
 美月ちゃんは力なく頷いた。
 再び描くためには、絵に対しての価値観を変える必要がある。それを変えられるのは……

 中学校の校門の前に着くと紗奈ちゃんが待っていた。私と美月ちゃんを見るなり、綺麗なお辞儀をして出迎えてくれた。
 美月ちゃんは帽子を深く被り顔を隠す。それは紗奈ちゃんに対してどういう顔で会えばいいのか分からないのと、他の生徒に見つかりたくないからだと思った。
 私が来ることは牧野に報告してあるらしく、挨拶は帰りだけでいいとのことだ。
 ちなみに美月ちゃんが来ることは言わなかったらしい。「先生に言うとややこしくなりそうなので」と紗奈ちゃんは言った。
 牧野は私がいた頃から土日も学校に来ていた。これは噂だが、家族からも毛嫌いされているらしく居場所が学校にしかないらしい。ソースは分からないが、信憑性は高いと思う。
 美術室までの道程に会話はなかった。
 先頭を歩く紗奈ちゃんの後ろを付いていってるのだが、美月ちゃんは私の背中に隠れるように歩いている。
 なんだが中間管理職のような気持ちになってきた。なにかあったら私がなんとかしないと、という気持ちがプレッシャーとなる。
 世のお父さんたちに敬意を払っていると美術室に着いた。
 中に入ると『向日葵を抱えた少女が月を見上げる絵』がイーゼルに立てられていた。
 美月ちゃんは俯いている。絵を見れないのかもしれない。
 紗奈ちゃんが絵の方に向かったので付いていこうとするが、美月ちゃんはその場から動かない。私は促すように袖を引っ張り歩かせる。
「千星さんから聞いた。なんで絵をやめると言ったのか」
 紗奈ちゃんは絵の前で立ち止まると、そう言った。
 美月ちゃんは帽子で顔を隠している。というより絵を視界に入れないようにしている。
「あなたには才能がある。だから絵をやめる必要はない。また描くべき」
 この絵の前でそれを言うのは酷なように感じたが、この絵と向き合わないと前には進めない。紗奈ちゃんからのメッセージのように思えた。
「才能なんてないよ。秋山さんみたいな天才に私の気持ちなんて分からない」
「なんで自分の描いたものを信じないの。今まで積み重ねてきたならもっと胸を張ればいい。あの月の絵は素晴らしい絵だよ」
「信じたいよ。だってあの絵は私自身だから。でもぜんぶ失った。秋山さんが奪っていったんだよ」
「私は何も奪ってない。自分で捨てたんでしょ。描きたいなら自分の意志で描けばいい」
 そう言われた美月ちゃんは帽子を取り、感情が剥き出しになった表情で反論した。
「誰かの影で描くなんてできない。あんなに好きだったのに今は筆すら握りたくない。積み上げてきたものが簡単に超えられていく辛さを、秋山さんが理解できるはずない。才能なんて軽々しく言わないでよ。天才を追いかけて苦しむより、夢を捨てた方が楽になれる。秋山さんがいなかったら今も絵を描けてた。私の絵だってもっと褒めてもらえてた」
 美月ちゃんは全身から振り絞るように感情をぶつけた。荒げた声は目の前の女の子を殴りつけるようだった。
「牧野先生の言い方は酷かったと思う。でも絵をやめるって決めたのは奥村さんでしょ。それを私のせいにしないで。他人に左右されるくらいのことなら、それを夢とは言わない。私より上手い人なんて外の世界にはたくさんいる。その度に誰かのせいにするの? 周りのせいにしたって何も変わらない。悔しいと思ったらその人の絵を見て学ぶ。それを自分の絵に還元してもっといいものを描く。私はずっとそうやってきた。今まで必死に描いてきたのは私だって一緒。才能って言葉だけで片付けないで」
 表面に見えるものがすべてではない。それを知っていても、人は見える部分で判断してしまう。私もそうしてた。
 紗奈ちゃんの絵を見て、どれだけ努力をしたのかまでは考えていなかった。天才と言われる人たちは才能の一言だけでもてはやされ、その裏にある血の滲んだ努力を語られずに羨望を浴びる。圧倒的な実力を持つ人間は、理解されない孤独を抱えているのかもしれない。
 美月ちゃんも何か受けとったのか、視線は絵に向いている。
「私も挫折しかけたことがある」
 紗奈ちゃんがそう言うと、美月ちゃんは「え?」と驚いた表情を浮かべた。
「SNSで自分より上手い人の絵を見て、心が折れそうになったことがあるの。それも一人ではなく何人もいたから。そのときは本当に辛かった。いずれこの人たちの中に入って、自分の絵を評価してもらわなといけない。私には無理だって思ったし、自分に才能なんてないと思った。でも絵が好きだったから諦めたくなかった。だからもっと上手くなるって決めたの。『今の自分を認めてもらうこと』より『どうやったらもっと上手くなれるか』を優先することにした。自分の実力ではトップにいる人間には敵わない。だけど、いずれ全員超えて見せる。今は成長段階だからどっちが上手いかなんて考えてない。でもいつか、私は日本一の絵師になる。そのためには学ばないといけない。たとえ心が折れそうになっても、もがきつづけるつもり」
 こんなすごい絵を描く人でも、才能の壁を感じることがあるのかと驚いた。でも一番は彼女の絵を描く姿勢だ。
 創作する人間でなくとも承認欲求はある。だけどそれを隅に置いて、成長を一番上に持ってこれる十三才なんて中々いない。そして心が折れかけたところから、学ぼうとする意識に向かった。本当の才能とは、こういうところを言うのかもしれない。
「だから奥村さんからも学びたいし、色々教えてほしい」
 先程とは打って変わり、落ち着いた声で美月ちゃんに声を向けた。
「私が教えられることなんてないよ。私が持ってるものを秋山さんは全部持ってるから」
 会話が止まり、沈黙が二人の間に佇む。
「この絵に描いてある女の子って紗奈ちゃんじゃない?」
 私が沈黙を押し退けて問いかけると、紗奈ちゃんはゆっくりと頷いた。
「そうです。でもよく分かりましたね」
 冷静に答える紗奈ちゃんは、ミステリーでたまに出てくる、バレたのに全然動じない犯人みたいだと思った。
「最初の引っ掛かりは制服だった。ここの学校の制服を着てること、そして向日葵を持っているのに冬服なこと。この季節のズレに違和感を覚えた。そのあとに向日葵の花言葉を調べたの。そしたら『憧れ』って書いてあった。私が初めてこの絵を見たとき、美月ちゃんの描く月が好きって言ってたでしょ? それでもしかしてと思って考えてみた」
 なんだかトリックを暴くシーンみたいになっているが、気にせず話を続ける。
「憶測だけど、この絵の女の子は月に憧れていて、そしてこの月は美月ちゃんを表している」
 隣にいる美月ちゃんが目を丸くして私を見た。
「千星さんが言った通りです。この絵の女の子は私で、月は奥村さんです」
 紗奈ちゃんは月の絵を見ながら言った。その声に哀愁を纏わせて。
「あともう一つ意味があります。千星さんが言った通り、この絵は冬です。本来なら枯れているはずの向日葵が夏を超えても咲き続ける。憧れは枯れない。奥村さんが描いた月の絵は、私の中で美しく在り続ける。その瞬間だけなく、この先もずっと。そういう意味でこの絵を描きました」
 この絵に惹かれる理由が分かった。ただ上手いだけだけではなく、込めた想いが表面に表れているからだ。
 枯木青葉の最後の作品も、紗奈ちゃんが描いたこの絵も、誰かのために描かれている。それが作品の奥行きを作っているから心に響くんだ。
「奥村さんに憧れていた。人と話すのが苦手な私からしたら、絵も描けて友達も多いあなたが羨ましかった。絵が上手いだけでは友達は作れない。あくまできっかけでしかないの。奥村美月っていう人間に惹きつけるものがあるから、人がそこに居続ける。あなたの価値は絵だけじゃない。それを放棄しちゃダメ。私はずっと一人だったけど、奥村さんが笑った方が可愛いって言ってくれたから笑うようにした。そのおかげで友達もできた。無理して笑わなくてもいいけど、奥村美月は笑顔のほうがいい。それに、絵を描いているから人が集まったんじゃないよ。絵を描いてるときが一番輝いてるから人が集まって来るの。だからやめるべきじゃない。自分らしくいるためにも」
 紗奈ちゃんがそう言ったあと、私の隣から鼻を啜る音が聞こえてきた。
「絵を描きたい……大好きだから……私の夢だから……もう一度……描いてもいいかな」
 涙を拭いながら、美月ちゃんは奥底の言葉を吐き出した。自分の心にきつく縛りついていた足枷が、涙腺と共に緩んでくように見えた。
「自分のことだから、自分で決めな」
「描く!」
 紗奈ちゃんの笑顔に釣られて、美月ちゃんも笑顔になった。太陽が月を照らして輝くように。

 そのあと三人で職員室に行った。数人の教師がおり、自分の席で何か作業をしていたが、ドアが開く音で一斉にこちらに振り向く。
 美月ちゃんがいることに気づくと、先生たちは驚いた顔をしていた。その中に担任の先生がいたらしく、少しのあいだ美月ちゃんと話をしていた。
「月曜日から学校に行きます」
 美月ちゃんがそう言うと、担任の先生は安堵の表情を浮かべていた。
「最近のやつは……」
 牧野がおじさんの定型分を携えて私たちのところへ来た。
 こういう類の人間は自分が言うことはすべて正論だと思っているから、簡単に人の心を折ってくる。
「ちょっと何かあったくらいで学校を休んでたら、社会では通用しないぞ。もっと自分と向き合っていかないと……」
「牧野先生」
 紗奈ちゃんが説教の冒頭に言葉を挟んだ。こいつの説教はプロローグが長く、本編は二、三ページで終わるくらい薄い。だから序盤で止めてもなんら問題はない。
「もう少し生徒を見た方がいいと思います。その人が大切にしてるものを知ろうとしないから、自分の価値観を押し付けて人を傷つけるんです。私たちはまだ未熟です。一人で生きていくことはできません。だから大人の力は必要だと思います。でも、子供から才能を奪わないで下さい。奥村さんの絵は素晴らしいし、コンクールに出しても賞を取れます。だから簡単に否定しないで下さい。大人からしたら何でもない言葉でも、私たちにとっては人生が変わる一言になるかもしれないんです」
 他の教師はなんとなく察したのか、牧野に視線を向けた。だが当の本人はなんのことか分かっていない様子だ。この鈍感さが安易に人を傷つける。
「いや、お前らはまだ子供だろ。大人の言うことは聞いとけ。俺の方が長く生きてるんだから」
 話が通じてない。通じないから周りは何も言わなくなり、こんなモンスターが産まれてしまったのだろう。そう言った意味ではこいつも被害者なのかもしれないが、だからと言って人を傷つけていい理由にはならない。
「自分と向き合うのは生徒だけじゃないってことを紗奈ちゃんは言ってるんです。大人になるから人を理解できるようになるんじゃなく、自分と向き合い続けてきた人が、他人を理解できるようになる。外だけに意識を向けてたら、表面に映るものしか見えなくなりますよ。自分を知ることで、見えない痛みに気づくことができる。これは私の考えですけど」
 牧野にはたぶん理解されてない。今もポカンと口を開けたままこちらを見てる。でも二人がこの先の人生で躓いたときに、この言葉が何かのヒントになってくれればと思った。

「もっと上手くなりたいから、絵を教えてほしい」
 三人で校門を出たとき、美月ちゃんが言った。
「じゃあ私にも教えて。月の描き方」
「うん、じゃあ教え合いっこしよう」
 隣を歩く二人のやりとりを微笑ましく思う。なんだか保護者みたいな気持ちだ。
「千星ちゃんありがとね」
 美月ちゃんが私を見上げながら言う。
「もしかしたら、ずっと部屋に引きこもってたかもしれない。千星ちゃんが何度も来てくれたから、私はまた外に出ることができた」
「私は何もしてないよ」
 多少のきっかけは作ったかもしれないが、変えたのは紗奈ちゃんだ。
「遅かれ早かれ私はどこかで挫折してたと思う。今回みたく、それを他人のせいにしてたかもしれない。自分のためだけに絵を描いていたから、歪んだ見えかたになっていた。いつか私も誰かを笑顔にさせる絵を描く」
 美月ちゃんはそう言ったあと、急に立ち止まった。私と紗奈ちゃんも釣られて立ち止まる。
「ごめんなさい。絵をやめることを秋山さんのせいにして。それと……ありがとう。これからは、もっと絵を好きになれそうな気がする。秋山さんがいてくれて良かった」
 紗奈ちゃんはその言葉を微笑みで受け止めると、美月ちゃんの前に立った。
「自分のために描くことも必要だと思う。それが支えになるから。両方をバランスよく持って。偏りすぎないように」
「うん。あと……」
 美月ちゃんは指をモジモジとさせながら、何か言いたそうにしている。
「何?」
「下の名前で呼んでいいかな?」
 美月ちゃんは、恥ずかしさを頬に灯して聞いた。
「いいよ。私も美月って呼ぶ」
「私も紗奈って呼ぶ!」
 そのあと二人は好きな絵師の話をして盛り上がっていた。
 その光景を微笑ましく思う。なんだか保護者みたいな気持ちだ……いやこれさっきも言ってたなと思いつつ、笑顔が咲く二人を静かに見ていた。
 降り積もった雪は溶け、二人の間に新しい芽が生まれる。その芽はいつか美しい花を咲かすだろう。枯れることのない久遠の花を。
 週明けの月曜日、一週間で最も憂鬱な日がやってきた。週の始まりというのもあるが、今日は蒼空に会える最後の日だ。
 私の中では蒼空は生きている。実際に会ってもいるし。でも明日からは本当にいなくなってしまうと考えると気分が重くなった。
 この四週間、未練を叶えることに集中していたからか、蒼空がいなくなる想像ができない。みんなはもう現実を受け止めて、次に進んでいるのかもしれないが、私は今日という日が本当の別れになる。
 世界には空が広がっていて、星はその中を彷徨い続けてきた。天気のような感情に一喜一憂しながら、縋るように生きてきたと思う。
 太陽の光は自分の存在を薄めていく。そのたびに夜に輝きを求め、黒を奪っていく朝を嫌悪した。
 これからは自分の力で光を灯さないといけない。だから蒼空は私を選び、未練という名の道を与えたんじゃないかと思っている。
 でもやっぱり辛い。別れの言葉なんて言いたくないし、できるならずっと会いたい。今までみたいにくだらない冗談で笑い合っていたい。
 結局、覚悟ができないまま夜を迎え、流星の駅に向かう列車に乗った。
 四度目となる空飛ぶ列車だが、今日は感動がなかった。窓に映る星空も、幻想的な空間も、どこか絵空事に見える。
 美しい景色よりも、蒼空と一緒に見るありふれた風景の方が、私には価値があると思った。
「最後だからね」
 目の前で足を組んで座る結衣さんに、釘を刺すように言われた。もしかしたら表情に出ていたのかもしれない。
「本当に最後なんですか?」
「うん」
 素っ気なく返された。結衣さからしたら何でもないことかもしれないが、私は大切な人との最後になる。もう少し温情がほしい。
「伝えたいことがあるならちゃんと伝えなよ。後悔しても、もう会えないからね」
――好き
 このニ文字を言うか迷っていた。蒼空が好きなのはたぶん雪乃だから。
 「さよなら」の代わりに「ごめん」と言われてしまったら、私はきっと立ち直れない。なら仲の良い幼馴染で終わりたいと思っていた。
「蒼空くんのこと好き?」
 唐突に聞かれた。冷静な人は動揺しても隠せるのだろうが、私みたいな乙女は瞳がマーメイドになる。
 翻訳すると、目が泳いでしまう。
 たぶん結衣さんにもバレてるだろう。隠してもしょうがないと思ったので小さく口を開く。
「……好きです」
 からかわれそうな気がしたので目線を落として言った。零した恋心を捏ねくり回されたくなかった。
「過去が未練に変わるのは、今を生きてないから。目の前にある新しい道を見ないで、後悔したものだけが美化されていく。今の千星ちゃんだったら、伝えても、伝えなくても、胸に抱えた想いはいずれ未練に変わる。どちらが正しいかは自分次第で、大事なのは、なぜその選択をしたのかという理由」
 死んだ人は今を生きられない。だからこそ未練が強くなる。変えることはできないし、新しい道を選べないから。
 今は『伝えない』という割合の方が大きい。その理由は傷つきたくないから。これでは前と一緒だ。逃げ出した自分から成長していない。
 結衣さんは色んな人を見てきているから分かるのかもしれない。私の持っている想いがどう変わっていくのかを。
「過去は変えられない。だからこそ未練に変わりやすい。自分でコントロールできないものほど、人は執着して苦しんでゆく。特に恋っていう特別な感情はね。言う言わないは、千星ちゃんの好きにしたらいい。でもどんな結果が出ようと、今を生きることを忘れないで。変えられないものは糧にするしかない」
 過去は強力な呪いになることを知っている。ずっと縛り付けられてきたから。
 蒼空のことを過去にするつもりはないが、未来への隔たりにしてはいけない。それは蒼空が一番嫌がることだ。
「気持ちを伝えてみようと思います。もう一人でも歩いていけるよって、蒼空に知ってほしいから」
 結衣さんは微笑んでくれた。この人は厳しい言葉をよく使うが、笑った顔は本当に優しい。
「好きって言ったことイジられるかと思いました」
 雑談を重ねたあと、会話の隙間に言ってみた。
 この言葉に意味はなかったが、結衣さんとも今日で最後だから空白を作るのが惜しかった。
 陽気に返してくるんだろうなと思っていたが、結衣さんは真剣な顔つきで私を見た。
「いい女は人の恋を茶化さないんだよ」
 それから姉さんと呼ぶようになった。

 流星の駅に着き、蒼空が待っている部屋へと向かった。階段の一段一段に心臓が波打つ。
 今日で最後だけど、いつも通りの二人でいたい。くだらない冗談を言って、何でもないことで笑いあって、そして好きと伝えてさよならを言いたい。
 しんみりとしたお別れは後悔に変わりそうだから、楽しく過ごして蒼空を見送ろう。
 そう思ったが、五年間の二人の思い出が頭の中を通り過ぎていくたび、涙が出そうになる。辛いことも楽しいことも、そのすべてが愛おしい。
 このままでは涙腺が崩壊してしまいそうなので、思い出の中の蒼空の顔をゴリラに変えて耐え忍ぶことにした。
 ゴリラと一緒に夕日を見ているところで、扉の前に着いた。危うくゴリラを好きになってしまいそうだったので、良いタイミングだった。
 一度深呼吸する。息を吐きながら頭の中のゴリラに別れを告げ、涙腺に叱咤してから、ゆっくりと扉を開ける。
 ガラス張りの部屋には星の明かりが差し込み、幻想的な空間を演出する。
 シンデレラのように自分を着飾ることはできないが、この雰囲気だけで特別なものになれたような気がした。
「千星」
 声の方に視線を移すと、蒼空がこちらに歩いてくるのが見えた。
 この優しい笑顔を見るのが最後だと思うと泣きそうになる。でもここで涙を見せたら、いつものように話せなくなるので、太ももをつねって笑顔を作った。
 肩を並べて、窓の前にあるベンチに向かう。
 その間、お互いに何も話さなかった。蒼空も今日が最後だと意識しているのかもしれない。
――お前ピーマンみたいな顔してるな
 これぐらいの挨拶をしてくれると流れを作れるのだが、そんな雰囲気でもなかった。仮にされたとしても、ぶん殴ってしまう。いくら何でもピーマンに失礼すぎる。
 沈黙が緊張を産み落とすなか、二人でベンチに腰を下ろす。話すことはいくつもあるが、最後ということを意識しすぎて口が開かない。
 だんだんと頭の中がゴリラとピーマンで溢れてきて、ピーゴリラーマンという造語を爆誕させた頃、蒼空が沈黙に言葉を添えた。
「無茶なお願いをしてごめん。千星が人と関われないと知りながら、俺のわがままに付き合わせた。一人で辛かったろ」
「ううん、そのおかげで自分を変えることができた。蒼空が私を選んでくれたおかげ。ありがとう」
 短い会話だったが緊張がほぐれた。蒼空の声は安心できる。
「美月ちゃん、学校行ったよ。それと、また絵を描くって」
 今日の昼休みに美里さんから連絡がきた。『美月が登校した。千星ありがとう』と。
 『最終的には自分で選択したことだから、美月ちゃんを褒めてあげて。それが学校に行くモチベーションに変わるから』と返信した。
 学校に行くのは当たり前かもしれないが、その当たり前を褒めてあげることも大事だと思う。人に何かを言われて決めるより、自分の意思で行動するほうが納得できると思う。
 そのあと、美月ちゃんが絵をやめた理由や紗奈ちゃんのことなど、一連の流れを蒼空に説明した。
「あれだけ好きだったから、絵をやめてるなんて思ってなかった。なんで気づいてあげれなかったんだろう。もっと早く美月を救えたかもしれないのに」
 蒼空は表情を曇らせて言った。
「紗奈ちゃんが必要だったから、今で良かったんだと思う。もしまた同じようなことがあっても、美月ちゃんはそれを糧に絵を描き続けられる。挫折した先の希望を見つけるには、違う視点を持つことが大事。二人にそう教わった。迷いは人は成長させるから、今回のことは大事な通過点だったんだよ」
 私がそう言うと、蒼空は笑みを浮かべた。どこか嬉しそうに見える。
「千星、変わったね。見ないうちに大人になった」
「雪乃に化粧教わったから、それでかな」
 今日のために雪乃に色々と聞いた。可愛いと思われたかったのでメイクには一時間かけ、洋服は昨日買ったオフホワイトのニットとレース生地のロングスカートを合わせた。
 もちろん衣服にはファブリーズプレミアム・パステルフローラル&ブロッサムの香りをつけた。最近の女子高生はみなファブリーズを愛用している。私調べだ。私調べということは私だけにしかアンケートはとっていない。
「外見じゃなくて中身のほう。大人になるって、見た目とか年齢より考え方だと思う。この四週間で言葉が変わった」
 色んな人に触れて世界が広がった。人との接し方、優しさの向け方、夢との向き合い方、それぞれが自分の考えの幅を広げたと思う。教室の片隅で嫉妬と嫌悪を抱いていた頃より、見える景色が鮮やかになった。思考という根で、言葉の咲きかたは変わる。表面だけ着飾っても美しい花は育たない。
「一人では何も変えられなかった。周りの人たちがいたから、外の世界や自分と向き合うことができた。そのきっかけを作ってくれたのは蒼空だよ」
 ここに呼んでくれなかったら、今も私は部屋の中で閉じこもっていたと思う。蒼空が残した未練が私の道標になった。
「きっかけだけでは始まらないよ。一歩踏み出すことを選んだのは千星だし、それがあったから雪乃も花山も美月も変わることができた。千星が頑張ったから、周りも自分も変われたんだよ」
「でも運がよかったのもある。雪乃から話しかけてくれなかったらどうなってたか分からないし、蓮夜くんがいなかったら花山と話せなかったと思う。紗奈ちゃんがいたから、美月ちゃんはまた絵を描くことを選べた。私一人では何もできなかった」
 今振り返ると、少しでも道が違えば同じ結果にはなっていなかったのかもしれない。偶然が重なって生まれた変化だった気がする。
「運が良かった部分もあるかもしれない。でも待っているだけでは何も起こらなかったと思う。行動がなければ偶然も生まれない」
 今までの私は種を植えていない花壇を眺めながら、咲いてほしいと願っているだけだった。
 過去の傷が足枷となって、外の世界に踏み出すことを躊躇するようになった。
 それがダメなことだとは今も思ってないが、傷を痛みだけで終わらせてしまえば、未来にある可能性まで捨ててしまうことになる。それを伝えたくて、私を呼んだのかもしれない。
「蒼空が私を選んだのは、一人でも歩いていけるようになるためでしょ? 本当は他に会いたかった人もいたと思う。ごめんね、最後まで気を遣わせちゃって。それと、ありがとう。私の背中を押してくれて」
「べ、別に千星のためじゃないから。俺の未練を叶えてほしいだけだったから。だから、そういうわけじゃないから」
 蒼空は照れくさそうにしながら、下手くそなツンをかましてきた。
「私のツンを盗るな。逮捕するぞ」
「ツンって何?」
「ツンデレのツン」
「ツンだけ言われても分からないから」
「義務教育で習っただろ。開国したときにツンとデレがお忍びで来日したのを覚えてないのか」
「ツンデレって伝来してきたの?」
「鉄砲の中に入ってたらしい」
「伝来に引っ張られてるじゃん」
「べ、別に引っ張られてないんだからね、蒼空が伝来って言ったから鉄砲って単語を出したわけじゃないんだからね」
「最早ツンなのかも分からない」
 最後の会話がこれでいいのか分からなかったが、いつもの二人でいられると思うと楽しかった。
 意味のない言葉たちは、やがて思い出に変わって意味を持つようになる。だから今は何も考えず、この瞬間を大切にしよう。過去を振り返ったとき、私は笑っていたい。
「そうだ、美月ちゃんの絵、撮ってきたよ」
 スマホを取り出して、海の上空に浮かぶ月の絵を蒼空に見せた。
「上手い、やっぱり続けるべきだよ」
 慈しむような目で絵を見ながら、表情を満悦で染める。その顔を見て私まで嬉しくなった。
「美月ちゃんと紗奈ちゃんを見てて、私も何か目指してれば良かったって思った。人生の支えになるようなものを」 
「今からでも遅くはないんじゃない」
「今から? うーん……何がいいと思う?」
 蒼空は視線を宙に向けて思案している。
「何に就くかじゃなく、どう生きたいかを決めてみたら」
「どういうこと?」
「たとえばだけど、人の役に立つ仕事をしたいと思ったらいくつか選択肢が生まれるでしょ? でも軸がなければどこに向かっていいか分からなくなるし、したいことが見つかりにくくなる。仮に車を製造する仕事に就いたとする。何となくすごい車を作りたいと思ってる人と、人の役に立つ車を作りたいと思っている人では発想が変わるし、自分の視点を持つことができる。だからまずは軸を探したらいいんじゃないかな。それがいつか道に変わるよ」
 軸はまだ持ってない。今は先の見えない森の中をただ歩いているだけなのかもしれない。要はコンパスを持てということなのだろう。
「なんのために生きるか……幼稚園の頃はブロッコリーおばさんになりたいと思ってたけど、そこに軸はないしな……」
「何その仕事?」
「私が三歳のときに作った仕事。ひたすらブロッコリーを体に浴びるの。そうだ、ブロッコリーの役に立つ仕事をするってのもいいかも」
「千星はまだ軸を作らなくていい。今は模索の時期にしよう」
「なんか緑の軸が見えてきた。ありがとう蒼空、生きる目的ができるかも」
「頭の中にあるブロッコリーを一回冷蔵庫に戻せ。ブロッコリーのために生きることも素晴らしい人生だけど、ブロッコリーに身を捧げるのはもう少し考えてからにしろ」
「確定申告のときにブロッコリーを書く欄てあるのかな」
「ねーよ」
「何でだよ」
「誰も書かないからだよ」
「書けよ」
「書けねーよ」
「ブロッコリーの想いを汲み取れよ」
「汲み取れねーよ」
 蒼空と目が合うと、二人で笑った。最後の会話なのにブロッコリーの話をするなんてバカらしい。でも変わらない日常がそこにはあった。この先もずっと続いていくような、思い出の中でも笑えるような、そんないつものくだらない会話が。
「楽しいね」
 私がそういうと、蒼空は優しく微笑んで、
「そうだね」
 と言ってくれた。
 その言葉で、またあなたを好きになる。
 そのあとも何でもない話を続けた。
 美里さんが大事にとっていたクッキーをこっそり食べて二人で怒られたこと。中学の卒業式で蒼空の第二ボタンを無理やり奪い、女の子たちの争奪戦を止めたこと。部屋で一緒にゲームをしているときに、負け続けた私が怒って拗ねたこと。数え上げたらキリがない思い出たちを、味がなくなるまで笑いあった。
 時間の流れというのは想いと反比例する。退屈なときほどゆっくりと進むのに、幸福を抱くと光の如く過ぎてゆく。本来なら逆にすべきだ。苦しいことはすぐに消えてしまえばいいし、楽しいことは永遠に続けばいい。流れ星が刹那で消えるのは、幸せを祈るからかもしれない。
 懐中時計をポケットから取り出して確認すると、残り五分となっていた。
 お互い、終わりが近いと意識し始めたのか、澱みなく続いていた会話に沈黙が挟まっていた。
 あと少しでお別れをしなければならないと思うと、先ほどまで咲いていた笑顔はいつの間にか萎れていた。
 まだ自分の気持ちも伝えてない。でもこんな顔で好きなんて言いたくないし、悲しいさよならではなく、笑ってさよならをしたい。
 物語のエンドロールは、涙ではなく笑顔がいい。
 私が感情を落ち着かせていると、蒼空が沈黙に言葉を挿した。
「星、綺麗だね」
 窓の外を見ると星屑が夜を染めていた。これが二人で見る最後の景色となる。
「綺麗だね」
 そう返すと蒼空は「星と空だね」と言った。
 世界から切り離されそうになったとき、蒼空が私を救ってくれた。あの日と同じ言葉が私の鼓膜を優しく撫でる。
「星と空だね」
 私も倣ってそう言った。
「小学生のとき千星に憧れてた。俺もこうなれたらって」
「私に?」
「うん。あの頃はずっと三宅が怖かったんだ」
 小学六年のあの日から、ずっと過去に縛られてきた。三宅は私が人を嫌いになる原因を作った奴だ。よく暴言を吐いたり手を上げてたりしていた。
「体が大きくて力も強かっただろ? いじめられている子がいても、恐怖で何もできなかった。そんな自分が嫌いだったし、友達を作る資格もないと思ってた。俺も他の子らも自分を守ることで必死だったのに、千星だけが三宅に立ち向かっていった。その姿を見て、誰かを守れる人になろうって決めたんだ。覚悟を持つまで、だいぶ時間はかかったけど」
 前に蒼空は私に変えられたと言っていたが、どうりで覚えていないはずだ。私と話すようになる前なら気づけない。
「千星の居場所になれていたと思うと嬉しかった。今の俺がいるのは千星のおかげだから。遅いかもしれないけど、変えてくれてありがとう。友達になれて良かった」
 友達……その言葉が胸に刺さる。この期に及んで、期待していたのかもしれない。蒼空も私と同じ気持ちを持っているかもと。
 徒恋に降る切なさが涙に変わりそうだった。それでも散りゆく想いをかき集め、言葉にして伝えないといけない。
 落としたものを眺めるだけでは、この先の道で花は咲かない。
「あの日、手を差し伸べてくれたから一人にならずにすんだ。蒼空がいなかったら今も人を嫌いなままだった。私を救ってくれて、私を変えてくれてありがとう。でもね、友達じゃなければって思うことがたくさんあった。蒼空が女の子と話してると嫉妬したし、その子を嫌いになりそうになったこともある。自分以外の人間が消えて、二人だけになれたらって何度も考えた。こんなどうしようもない人間だけど、一つだけ誇れることがあるの。それはね、奥村蒼空という人を好きになれたこと」
 蒼空は何かを堪えるような顔で私の目を見ている。今ままでだったら恥ずかしくて視線を逸らしていたが、それだと真っ直ぐに想いが伝わらないような気がした。だから今日は俯かない。たとえ神様が下を向けと言っても。
「泣きたくなることもあったし、苦しくなることもあった。でも好きになったことを後悔した日は一度もない。恋をするために好きになったんじゃなく、蒼空という人に恋をしたから、辛いことがあっても好きで居続けられた。迷惑かもしれないけど、これが私の気持ち。蒼空のことが大好きです」
 初恋という花をくれたあなたに、想いを摘んだ言葉の花束を渡す。美しくはないけれど、心の片隅にでもいいから飾ってほしい。
 蒼空は口を閉ざしたままだった。それが答えだということは明白だったが、逃げずに伝えた私を褒めてあげたい。そうしないと泣いてしまうから。
「いやー、緊張するね告白って。手汗がすごいや。たった二文字言うだけなのに、MP消費全部したよ。今魔王が現れたら、即キルされるわ。来たら媚び売って仲間にしてもらおう。きっといいところ住んでるだろうな。あいつら無職のくせにお城持ってるんだよ。ずるい……よね」
 明るさで誤魔化そうとしたが、涙が込み上げてきた。話すのをやめたら絶対に泣く。今日は笑顔でさよならを言いたい。
「そうだ、覚えてる? 小学生のときに二人でRPGやっててさ、私が勇者の名前を『三代目よしぞう』にしようって言ったら、蒼空がよしぞうって誰だよってツッコミいれたけど、普通は『初代と二代目いるのかよ』だからね。そのツッコミだと……どんな名前でもそうなるから……だから……あれは間違って……」
 泣くなよ。もうお別れを言わないといけないのに、笑って見送らないといけないのに、なんでこんなときに泣くんだよ。
「るからね……そんなんじゃ、女の子にモテないから……私くらいだよ……そんなツッコミで許して……許してあげれるのは……こんないい女、他に……他にいないんだから……」
 涙が小雨から本降りに変わったとき、蒼空が私を抱き寄せた。
「千星、一緒にいれて楽しかった。くだらない冗談を言い合ったり、何でもないことで笑いあったり、そんな何気ない日常が本当に好きだった。思い出の一つ一つに名前を付けたいと思えるほど、大切な時間を過ごすことができて嬉しかった。今日が最後になるけど、明日からも笑っていてほしい。千星には笑顔が似合うから」
 涙を堪えながら、一つ一つの言葉を頭に入れた。今日という日が思い出に変わったとき、一秒も忘れていたくなかったから。
「これからは自信を持って生きてほしい。前にも言ったけど、千星には人を変える力がある。そのことを忘れないで」
「うん」
「忘れたら化けて出るから」
「じゃあ忘れる」
「いいの? 写真撮るたび俺が写るけど」
「お化けは嫌いだけど、好きな人なら嬉しい」
 わがままを言いたい、優しく甘やかしてもらいたい、幸せに溺れながらこの腕の中で眠ってしまいたい。本音を言えば、欲望を満たしてずっとこうしていたい。
「千星」
「何?」
「もうそばにいることはできないけど、今の千星なら俺がいなくても大丈夫だと思う。これからは自信を持って生きてほしい。変わってるところもあるけど、でもそれが千星の良さだし、自分らしくいれば笑っていられるから。過去を振り返るときは、後悔ではなく一歩進むために。それも覚えといて」
「私、変わってないもん」
 声を潤ませながらで精一杯返す。
「変わってるよ。でもそれがいいところだから。千星が千星でいるときが一番輝いてる」
「うん」
「いつか誰かと恋をして、幸せに生きてほしい。今日という日を思い出にするなら涙ではなく笑顔で。もう過去に縛られなくていい、大切のものはこれから進んでいく道に落ちてるから。だから泣かないで。これは悲しい別れではなく、千星にとっては始まりだから」
 涙を止めるため、思いっきり鼻を啜った。その音が可笑しかったのか、蒼空の笑い声が耳に入った。
「千星がいてくれてよかった。本当に楽しかったし、たくさん思い出をもらった。これでお別れだけど、元気でね。それと……好きになってくれてありがとう」
「バカ、せっかく涙が止んだのに、また出てくるだろう」
 実際はまだ泣いていた。梅雨のような涙腺が頬を何度も濡らし、床に涙の跡を残していた。
 歯を食いしばりながら止めようとしていると、抱き寄せられていた体が蒼空から離れる。
「まだ泣いてるじゃん」
 そう言いながら優しく涙を拭ってくれた。微笑んだ顔が視界に映る。
「私も一緒にいれて楽しかった。蒼空があのときいてくれたから、生きる意味を見つけられた。本当に会えて良かった。それと……好きという気持ちを教えてくれてありがとう」
 最後に笑うことができた。今もまだ辛い気持ちは残ってるけど、蒼空に安心してほしくて笑顔を残した。 
 物語の終わりは、沈むような雨ではなく、歩きたくなるような青空がいい。
 察したのかどうかは分からないが、部屋の扉が開き結衣さんが入ってきた。
 目の前に来ると「もう大丈夫?」と、私たちの顔を交互に見て確認した。
「はい」
 私と蒼空は、声を重ねて言った。
「じゃあ千星ちゃん、行こうか」
 最後は笑顔で、何度も頭の中で復唱してから蒼空の顔を見た。
「もう行くね」
「うん」
「……さよなら」
「さよなら」
 私も蒼空も笑ってお別れをした。背中に残る視線で何度も振り返ろうとしたが、決心が鈍ってしまいそうだったので前だけを見た。
 本当は『またね』と言いたかった。花が散り、再度季節で会えるような、そんな別れをしたかったから。
 でも『さよなら』じゃないとダメだと思った。花の代わりに未練が咲きそうだったから。
 部屋を出るときは蒼空の顔は見ないで出た。泣いてる顔を見せたくなかったから。
 名残惜しいが、涙で締めたくなかった。
 名状しがたい感情を抱えながら列車の席に着いた。結衣さんは運転席に入る。
 今は一人だと辛いから、目の前に座ってほしかった。もしかしたら気を遣ってくれたのかもしれない。
 扉が閉まり列車が動き出すと、強い光が窓から差し込んできたので、目を瞑って下を向いた。これで本当にお別れなんだなと思いながら。
 程なくして光が消えたのを感じ、ゆっくりと目を開ける。窓の外には夜空一帯に広がる星々が映った。
 感覚的にだが、速度がいつもより遅いような気がする。余韻がそう思わせているだけかもしれないが。
 自然と蒼空の顔が浮かぶ。小中高と一緒だったため、本当の別れはこれが初めてだった。いつかは来ると分かっていたが、こんなにも早いと思わなかった。 
 当たり前に思っていた日常が当たり前でないと気づくのは、何かを失ってからだ。そうやって人は後悔を繰り返すのだろうなと思った。
 外の景色を見ながらため息を吐くと、結衣さんが来て目の前に座った。
「幸せが逃げるよ」
「地獄の果てまで追いかけます」
「それ矛盾してない?」
「地獄で幸せになるので大丈夫です」
 結衣さんは怖いけど、なぜだか安心する。気は短そうに見えるけど、包容力がある人だと私は思う。それに裏表のない感じも、安心を与える要因になっている気がする。
「あっという間だったね」
「はい。少し寂しいです」
「少し?」
「かなり」
 結衣さんは窓枠に肘をかけ、頬杖をつきながら一笑する。
「蒼空はこれからどうなるんですか?」
「私は案内人だから、この先のことは知らない。未練を叶えるまでが仕事だから」
「他にも案内人ているんですか?」
「いるよ。私が一番美人だけど」
 それは聞いてない。
「もし私が未練を残して亡くなったら、結衣さんが担当してください」
「えー、イケメンがいい」
 しばくぞ。
「未練を残さない生き方をしなよ。人生の大半は考え方でなんとかなるんだから」
「この四週間でそれを感じました。狭い世界で物事を見ていた気がします」
「世の中にはさ、変えれるものと変えれないものがある。変えれるものに関しては、考え方で良い方向に導くことができる。でもそれを無理だと思ってしまうから世界が狭くなっていく。この先、千星ちゃんが苦境に立たされるようなことがあったら思い出してほしいの。変えれないものより、変えれるものが何かを探して。それが小さな一歩だとしても、やがて世界を広げてくれるから」
「はい」
 と頷いたとき、窓から光が差し込んだ。
 外に目を向けると、十数個ほどの流星が空に降り注いでいる。青や緑、白や黄色など、様々な色で夜を染めている。
「綺麗」
「他の案内人に頼んだの。千星ちゃんが頑張ったからご褒美」
「全部列車ですか?」
「うん」
 流星のにわか雨は列車を降りるまで続いた。
 この色づく夜を忘れることはないだろう。
 人が死んだら流れ星が落ちる。
 その言葉は嘘ではなかった。
 いつか今日という日が思い出に変わったとき、
 私は何を思って生きているのだろう。
 悲しみに暮れていても、
 喜びに満ちていても、
 前を見て歩いていたい。
 たとえ小さな光だとしても、
 孤独の中を彷徨っていたとしても、
 輝きを失わなければ、
 星は夜空で結ばれる。
 泡沫のような冬が終わり春が芽吹き始める。
 蒼空との別れから一ヶ月が過ぎ、心に空いた穴は未だ塞がっていなかった。まだどこかで生きてるのではないかと、幻想を追ってしまうことがある。
 こんなことを思っていたら蒼空は怒るだろう。
 だけどもう少しだけ思い出に浸らせてほしい。好きな人の言葉は特別だから。
 学校では少し変化があった。
 雪乃は求められる自分から卒業し、私や周りの友達に相談することが増えた。相談される相手は嬉しそうな顔をする。それは雪乃だからだろう。かく言う私も、その一人だ。
 花山は今もよく一人でいる。そっちの方が楽だと言っていた。
「藤沢や富田が知ってくれてるから、今は辛くない」と付け足して。
 でも相澤さんには中学の時のことを説明した方がいいと思った。
 花山に聞くと「どっちでもいい」と言ったので、空き教室に相澤さんを呼んで、花山が塩谷を殴った理由を説明した。
「どうしよう、みんなに花山くんが殴ったこと言っちゃった」
 自責の念からか、彼女は頭を抱えながら慌てふためいていた。
「花山は周りからの軽蔑の視線で理由を言えなかった。人って恐怖を感じると言葉が出せなくなるの。私も似たようなことがあったから分かる」
「謝ったほうがいいのかな?」
「相澤さんにこのことを言ったのは、知っとくべきだと思ったから。それ以上でも以下でもない。花山は誤解を解いてほしいとは言わなかった。むしろ言わなくていいと言った。ここからは憶測だけど、今もまだ怖いんだと思う。周りに信頼されていると思っていたのに、そのときは誰も間に入ろうする人がいなかった。塩谷の意見だけ鵜呑みにして、本人に直接理由を聞いてくる人もいない。だから人を寄せ付けないようにした。それなら、初めから期待しないで済むから。その場にいなかった私が偉そうに言えることではないけど、もし誰か一人でも花山を信じてくれる人がいたら、生きかたが変わってたのかもしれない」
 相澤さんは俯いたまま聞いている。
「言いたかったのはそれだけ。ごめんね、せっかくの昼休みに呼び出して」
 じゃあ、と言い残し教室から去ろうとしたときだった。
「私、謝ろうと思う。みんなに言うべきことではなかった。それでね、できれば藤沢さんにも付いて来てほしい。一人では怖くて……」
 今の花山の風貌なら、一人で行くのは怖いだろう。目を見られただけで、何も言えなくなるかもしれない。
「分かった。一緒に行こう」

 放課後、花山に事情を説明してから、一緒に校舎裏へ向かった。
 陸上部の掛け声が響く校庭を横切り、校舎の影が覆う殺風景な場所に相澤さんはいた。
 緊張しているのが遠目でも分かる。私がいなかったら告白する場面に見えるかもしれない。
「あのね、花山くん」
 私たちが目の前に来ると、相澤さんは視線を泳がせながら口を開いた。
「理由も知らずに、みんなに中学のときのこと言ってごめんなさい。それと、あのとき信じてあげられなくてごめん」
 肩まで伸びた髪が地面に着きそうなほど、彼女は頭を下げた。
 数秒の沈黙を置き「顔上げて」と花山が言うと、相澤さんはゆっくりと頭を上げ、恐る恐る花山の顔を見た。
「俺にも原因はあるし、その後もそういう態度をとってた。だから相澤が謝ることじゃない。もう忘れていいよ。それと、わざわざ謝ってくれてありがとう。その気持ちだけで救われる」
「でも、みんなに誤解させちゃったから……」
「相澤が言ってなくても、自分から周りを突き放してたから一緒だよ。俺は優しい自分に酔ってただけだった。それを大人になる前に知れたから、これでよかったと思ってる。成長するために必要なことだったんだよ」
 本当にごめんなさい、と相澤さんは頭を下げた。
 そのあと、「もういいから」という花山の声と「ごめんなさい」という謝罪のラリーが一分ほど続いた。
 相澤さんは先に帰り、私は花山と駅まで向かっていた。
「何度も言うけど、みんなの誤解解かなくていいの?」
「何度も言うけど、知ってくれてる奴がいればいいよ。自分の持ってる優しさは、そういう人たちに使いたい」
 花山の顔を見ると、どこか吹っ切れたような表情を浮かべていた。
「成長したな、花山」
「うるせえ、黙れ」
「女の子にハゲなんて言うな」
「ハゲなんて言ってねーだろ」
 桜の蕾を携えた並木道を、私たちは笑いながら歩いた。
 
 ある日の放課後、雪乃に誘われてショッピングモールにあるアパレルショップに来ていた。
 昼休みに洋服の話しになり、一緒に見に行こうとなったからだ。
「これどう思う?」
 雪乃がショート丈の白のパーカーを見ながら言った。
「木の上で首をかしげるシマエナガを見て喜んでいる孫娘を、微笑みながら遠くで見守っている祖父母くらい可愛い」
「表現が独特過ぎて分からない。もう少し短めで例えて」
「木の上で首をかしげる祖父母くらい可愛い」
「それホラーだよ。可愛いが見つからない」
「花山はどう思う?」
 私と雪乃の後ろで手持ち無沙汰でいる花山に聞いた。
 六限目の終わりに誘ったら、行くと言ったので一緒に来た。
「いいんじゃない」
 素っ気なく答える。
「何エナガくらい可愛い?」
 私がそう聞くと、花山は無視して視線を逸らした。
「おい、無視するな。交響曲第九番・第四楽章・歓喜の歌を熱唱するぞ」
「恥ずかしいからやめろ」
「じゃあ私が指揮やろうか?」
 雪乃がジェスチャーで指揮棒を振る。
「それなら私は観客をやるから、花山が歌って」
「観客いらないだろ。それでなんで俺が歌うんだよ」
 私と雪乃が笑うと、花山は照れくさそうにする。
 数ヶ月前なら考えられなかった。蒼空以外の人とこうして笑い合っていることが。
 今までは狭い円の中で生きていて、そこから世界を見ていた。境界線の外に踏み出すのを恐れ、先の見えない道に背を向けていた。
 大事なのは円を広げるということだ。その円は価値観や考え方が作るもので、自分と向き合うことがで広げることができる。そうすれば境界線を超えなくとも、見える景色は変わってゆく。
「千星、大丈夫?」
 雪乃が私の顔を覗き込み聞いてきた。
 目の前にある小さな幸せを噛み締めていたからか、たぶんぼーっとした顔になっていたのかもしれない。
「楽しいね」
「どうしたんだよ、急に」
「別に」
 この時間は大切なものにしたい。蒼空が残してくれた日常だから。
 それと二人には笑っていてほしい。私の大切な友達だから。

 二人と別れたあと、家の付近で美月ちゃんと会った。どうやら部活帰りらしい。
 あのあとから休まず学校に行っていると美里さんから聞いた。家に帰って来たらクラスのことや絵のこと、それと紗奈ちゃんの話を楽しそうにしてるみたいだ。その顔を想像すると思わず顔が綻ぶ。
「今日、紗奈にキャラクターの描き方を教わったの。今までそういう絵を描いてこなかったけど、これからは月以外も描いてみようと思ってるんだ」
「そうなの?」
「月だけが生きる絵じゃなくて、月を生かす絵を描いたほうがいいって紗奈に言われたの。だから色んな絵に触れて、技術の幅を伸ばそうかなって」
「月だけが生きる絵と月を生かす絵って何が違うの?」
 美月ちゃんは宙を見上げて思案したあと、閃いたように口を開いた。
「右のパンチが得意なボクサーがいるとするでしょ? でも右のパンチばっかり鍛えていても相手に対策される。だから左のパンチも練習することで、警戒するポイントが増える。だから右のパンチが当たりやすくなる。そんな感じ」
 いや、どんな感じか分からん。
 とりあえず頭の中で整理して、別の例えを出してみた。
「食材だけに目をやるのではなく、調理法にも目を向けて、もっと美味しくするってこと?」
「そう、そんな感じ」
 当てずっぽうで言ったら的を得ていたらしい。
「最初から教えてもらえばよかった。今の自分を褒めてほしいって気持ちが強すぎて、成長を奪ってた。紗奈は人物画も上手でしょ? だからあの絵に想像という奥行きが生まれた。そこが私と紗奈の差だったのかもしれない。瞬間ではなく心に残り続ける。私もそういう絵を描きたい」
 大人になるって言うのは、見た目や年齢ではなく考え方。蒼空がそう言っていた。
 今まさに、その階段を美月ちゃんは上っている。
 紗奈ちゃんと言う存在が境界線を広げ、新たに見つけた道で夢の解像度を上げた。
 壁にぶつかったとしても、それを糧にして世界を見ることができるだろう。
「描けるよ、美月ちゃんなら」
「うん。ありがとう」

 夜に描かれた星を、部屋のベランダから眺めていた。
 すると星影が灯す三月の空に流れ星が落ちる。
 私は願う代わりに「頑張って」と声をかけた。
 蒼空が亡くなってからの出来事は、長い人生において小さな一歩かもしれない。でもこの一歩が私の生きかたを変えた。
 過去という檻の中で世界を嫌悪してた頃より、今は少しだけ見える景色が変わった。
 臆病な星は雪に触れて人を知り、花を見て優しさ知り、月を見て夢を知った。
 夜を彷徨うだけでは知り得ない世界を空が教えてくれた。
 空が美しいのは周りを輝かせるからだと思う。いつか私もそうなりたい。大切な人が笑って過ごせて、いつでも泣ける場所に。
 一人よがりな星では夜を照らすことはできない。何かを求めるだけでは自分の世界に光は射さない。
 夜があるから星は輝き、星があるから夜は輝く。
 小学校に入学してすぐに友達ができた。明るい性格でクラスのムードメーカーだった青山陽一という子だ。
「この学校にいる全員と友達になる」
 彼は口癖のようにそんなことを言っていた。
 到底できることではないと思っていた自分は「全員は無理だよ」と陽一に言うと、
「蒼空はすぐに無理って言葉使うよな。やってもないのに出来ないって思うのは勿体無いぞ。大抵のことは自分次第で変えられるんだよ」
 まだ小学一年生なのに、何十年も生きてきたようなことを臆せず言うような子供だった。
 有言実行という言葉を、スポーツ選手がテレビで言っていた。陽一はまさにそれだった。
 彼は瞬く間に友達を増やしていき、四年生に上がる頃には、学校の半数と仲良くなっていた。
「言っただろ。自分次第でなんとかなるって」
 学校帰り、ドヤ顔で陽一にそう言われた。
「でも全員じゃない」
 本当はすごいと思っていた。でもドヤ顔がイラッとしたので否定的な言葉で返した。
「今のペースで半分てことは、六年の終わり頃には全員になるからいいんだよ」
「自慢げな顔で言うなら、全員友達になってから言うべき」
「うるさいな、半分でもすごいだろ」
「まあまあかな」
「本当、蒼空って捻くれてるよな」
 陽一の言う通り、少し捻くれているかもしれない。どこか冷めた目でクラスの子らを見ていたような気がする。それが原因かは分からないが、友達も少なく、よく話すのは陽一だけだった。遊びに誘われても他の奴がいたら行かなかったし、よく知らない人と一緒にいるのが面倒だった。
「でもさ、全員と友達になるって無理だよな」
 陽一は、空を見上げながら嘆くように言った。
「さっきと言ってること違うじゃん」
「そうなんだけどさ、三宅とは友達になりたいとは思えないんだよな」
 三宅は一年の頃から同じクラスだった。入学したての頃は気の弱い生徒だったが、三年生になってから背が大きくなり、それと並行して横柄な態度に変わっていった。しかも先生がいないところで『死ね』『ブス』など、人を傷つけるような言葉を平気で浴びせている。
「あんなやつ友達にならなくていいよ」
「だよな。三宅は全員から外すわ」
「それでいいよ」
 陽一は誰にでも優しかった。だから三宅とも仲良くすると言いだしたらどうしようかと思っていたが、そうでないと知り、胸の辺りのモヤモヤが消えていった。

 四年生の秋ごろ、事件が起きた。
 音楽の授業中、先生が急用で席を外しているときのことだ。
「三宅、お前良い加減しろ」
「うるせえな、お前に言われる筋合いねーんだよ」
 音楽室の後ろで対峙する二人を、クラスのみんなが固唾を飲んで見ている。
 壁に貼ってある偉人たちの目線も、そちらに向いているように感じた。
 きっかけは、三宅がクラスの女子に「ブスがこっち見てくんじゃねーよ」と言って泣かせてしまったことだ。
 その子は顔を両手で覆い、音楽室の隅で座り込んでいる。
 彼女のそばに行き「大丈夫?」と聞いたが、啜り泣く声だけが返ってきた。
「多田に謝れよ」
 陽一は今まで見たことのない顔をして、怒りを露わにしている。
「ブスにブスって言って何が悪いんだよ」
「多田はブスじゃねーだろ。お前みたいな性格の奴をブスって言うんだよ」
「性格にブスなんてねーだろ。頭おかしいんじゃねえの」
 陽一は容姿ではなく内面で人を見る。だからそう言ったのだろう。
「なあ、多田はブスだよな?」
 三宅が近くに座っていた女子に問いかける。
「ブスじゃないと思う……」
 目線を下に落とし、か細い声でその子は答えた。
「は? 聞こえねーよ」
 三宅は女子の髪の毛を掴んで顔を上げさせる。その子の表情は恐怖で歪んでおり、目には涙が浮かんでいた。
「三宅!」
 怒声の後に女子が悲鳴をあげた。陽一が三宅を殴り飛ばしたからだ。
 陽一は「あっ」と小さく零し、頬を抑えながら床に倒れている三宅を見下ろしていた。
 音楽室には、指先すら動かせないような緊張感が覆っている。
「てめえ、やったな……」
 三宅は憎悪を含んだ言葉と共に、ゆっくりと立ち上がる。
 体を動かすことはおろか、声も出せないほどの空気を三宅は纏っているように見えた。
「陽一!」
 三宅は叫びながら陽一を押し倒すと、そのまま上に乗り首を絞めた。
「はな……せ……」
 陽一は三宅の腕を掴み抵抗しているが、体格差があるためびくともしない。
 俺は止めようと駆け寄り、三宅の肩を掴んだ。
 すると、この世のものとは思えない形相でこちらを睨んできた。
 初めて本当の恐怖を抱いた。殺されるかもしれないと思うほどの。その瞬間、全身に震えが起きる。
「やめろよ……」
 力なく言った言葉では、三宅を止めることができなかった。
 首を絞められている陽一の顔は苦しそうに歪んでいく。目の前にいる親友が死にそうなのに、俺は何もすることができなかった。
「先生呼んでくる」
 女子の一人がそう言って、音楽室の扉を開けた。
 その声にホッとしたが、すぐに恐怖は帰ってきた。
「横山!」
 三宅が怒りに満ちた声を上げると、横山は制止した。
 そして陽一の首から手を離すと、横山の方へと向かっていく。
「大丈夫か?」
 咳き込みながら悶えている陽一に声をかけると、三宅の背中を指差していた。
 横山を救え、という意味だと思う。
 だが自分の足は震えており、立つことができなかった。
「おい」
 その声で視線を上げる。
 三宅は「どこ行くんだよ」と言って、先生を呼びに行こうとした横山の肩を掴んで振り向かせた。
「なに……」
 震えた声で横山は言う。
「呼びに言ったらぶっ殺すぞ」
「……」
「聞こえてんのかよ? 返事しねえとぶっ殺すぞ」
「先生は……呼ばない」
 教室の空気が一層重くなるような怯えた声だった。
 三宅は教室の中央に足を運ぶと、椅子の上に立ってクラスのみんなを見渡した。
「いいか、今度俺に逆らう奴がいたら、本当にぶっ殺すからな。それと今から全員で陽一を無視すること。話した奴はぶっ殺す。あと親や先生、他のクラスの奴に言ったらぶっ殺す。いいな」
 この日、クラスに稚拙な独裁者が生まれた。人を傷つけるだけで何も生み出さない、愚かな独裁者が。
 三宅は椅子から降りると、俺の前に立った。
 全身が固まった。恐怖で支配さるように。
「奥村、絶対にこいつと話すなよ」
 苦しそうな表情で床で悶えている陽一を指差して言った。
「嫌だ……」
「何?」
 三宅は手を耳に当てて聞き返してきた。
「……」
「おい! 聞こえてんのかよ」
 髪の毛を掴まれ、顔を近づけてくる。
『できない。陽一は俺の親友だから』
 本当はそう言いたかったが、怖くて言えなかった。自分が情けなくて涙が零れる。
「こいつ泣いてやがる。男のくせにダッサ」
 絡まれたくないからか、クラスの子たちは大声で笑う三宅から視線を外していた。
 その反応は理解できた。自分が第三者なら同じようにしているかもしれない。
 だけど、一人くらいは手を差し伸べてほしかった。俺にではなく親友に。
 陽一を見ると、肩を小刻みに揺らしながら腕で目を隠している。頬には涙の跡があった。

 それから三ヶ月が経った。
 クラスのムードメーカーで、いつも人に囲まれていた陽一の周りには誰もいなくなっていた。
 他のクラスの人が陽一に話しかけても、自ら距離を取り一人になることを選んでいた。
 後で知ったことだが、「お前と仲良くする奴は全員ぶっ殺す」
 三宅は陽一にそう言っていたそうだ。
 誰も巻き込まないようにするのは陽一らしかったが、そんな優しさを俺にまで向けないでほしかった。
「今日は一緒に帰ろう」
「バカ、三宅に見られたら、次はお前がターゲットにされるぞ」
 昼休み、昇降口で声をかけたらそう言われた。三ヶ月繰り返されたやりとりだ。
「蒼空、俺のことは気にしなくていい」
「でも……」
「意外と一人でいるのも楽しいんだよ。誰にも邪魔されないからな」
 屈託のない笑顔を作り、俺の肩を叩いた。
「あと千星には絶対言うなよ。俺がクラスで無視されてるって知ったら、三宅と殴り合いになるから」
 藤沢千星は陽一と同じようにムードメーカー的な存在だった。
 別のクラスということもあり、俺はそんなに話したことはなかったが、陽一は仲が良かった。
「三宅がクラスの奴に言ってる。藤沢だけには絶対に言うなって」
「あいつも千星は怖いんだな。昔あいつらが喧嘩したとき、千星が三宅の腕に思いっきし噛みついたことがあってさ、たぶんそれが今も忘れられないんだよ」
 陽一は昔話を楽しそうに話している。その姿で心が苦しくなった。
「だから絶対に言うなよ。今でさえ『なんで私を避けるの』ってうるさいんだから」
「どうにかなんないのかな?」
 分からなかった。また陽一がクラスに溶け込むために何をしたらいいかが。
「このままでいいよ。俺は一人が結構気に入ってるから。だからもう気にするな」
 こんな状況なのに、一切弱気を見せない陽一をかっこいいと思った。
 自分なら絶対に耐えられないし、周りの人間を恨むかもしれない。それどころか、俺の心配までしてくれている。それが一層、自分の弱さを引き立たせているように感じた。
「誰かに見られたら面倒だから、もう行くわ」
 そう言って陽一は去っていった。
 俺は三宅の前では話しかけない。それは怖かったからだ。
 この臆病さを何度恨んだか分からない。親友のために自分を犠牲にできない俺は、友達失格だと思った。
 でも必ず、みんなの前で笑える日を迎えられるようにする。たとえ自分が傷ついたとしても。
 去っていく背中を見ながらそう誓ったが、その誓いが果たされることはなかった。
 この日を最後に陽一は学校に来なくなった。

 終業式が終わり、空を染める早咲きの桜を見上げながら教室に向かっていた。
 体育館では綺麗に並べられていた列も、一旦外へ出てしまえば、大人が作った統率は乱れていく。
 最初は二列を作って歩いていたが、今は膨らんだり、隙間が空いたりで原型を留めていない。俺はその隙間を一人で歩いている。
 陽一が学校に来なくなってから二ヶ月経ったが、何もなかったかのようにクラスの奴らは笑って話していた。
 その光景に怒りが湧く。なんでそんなに無関心なのかということと、何も出来ないでいる自分にだ。
 三宅は最近大人しくなった。理由は分からないが、暴言を吐いているところはほとんど見ない。
「奥村くん」
 背中から声をかけられ振り向くと、藤沢千星の姿があった。
「陽一が何で学校に来なくなったか分かった?」
 藤沢は陽一が来なくなってから、毎日のように理由を聞いてきた。その度に同じように答える。
「分からない」
「そっか……他の子に聞いても、みんなそう言うんだよね」
 本当は知っている。でも言えなかった。陽一に言うなと言われているからだ。
 いや、嘘だ。本当は三宅が怖いだけだ。
 もし藤沢に言ったらきっと三宅のところへ向かう。そしたら告げ口をした人を探すだろう。たぶん俺が一番疑われる。バレたら殴られるかもしれないと思うと、想像しただけで全身が震えた。
 自分が傷ついたとしても……なんてことを思っていたが、実際には恐怖で何もできない。そんな自分が嫌いでしかたなかった。
 勇気を持てない臆病な自分を、殺してしまいたいと思うほどに。
「何か分かったら教えてね。陽一の家に行っても会ってくれないからさ」
 小さく頷くと、藤沢はクラスの輪に戻っていった。
 俺は家に行くこともできなかった。もし陽一の親に学校での様子を聞かれたら答えないといけない。仮に三宅のことを言ったとしても、あいつは大人の前では反省するだろう。だが教師や親の目が届かない場所では、俺たちに鬱憤をぶつけてくる。それが何より怖かった。
 先生に言おうと思ったこともあったが、結局できずに終わった。
 陽一が学校に来なくなった次の日、いじめが原因で自殺した子がニュースで取り上げられているのを見た。
 その学校の校長は『いじめなんかない』と言っていたが、翌週にはそれが嘘だったと判明。それが一層、口を閉ざす原因になった。
 先生に言ったとしても、誰も守ってくれない。不安だけが胸に積もり、希望が見えなくなった。
 でも助けたいという気持ちはまだ消えていない。たった一人の親友が苦しんでいるのに、自分を守るために何も行動を起こさないのは卑怯だと思った。

 ホームルームの時、先生が悲しそうな顔で教卓に立った。
「実はね、家庭の事情で陽一くんが転校するの」
 その言葉を聞いたとき頭が真っ白になった。周りの子たちはみんな目を伏せている。
「本当はもっと早く伝えたかったんだけど、陽一くんに今日まで言わないでほしいって頼まれたの」
「なんで……」
 思わず声が漏れた。その瞬間、斜め前に座っていた三宅が振り返って俺を睨んだため、視線を落とした。
「陽一くんが学校に来なくなって、みんなも心配してたと思う。それは私も一緒。だから家まで言って話を聞きに行ったけど、陽一くんは何も答えてくれなかった。むしろ詮索しないでってお願いされた。先生としては何があったか知りたかったけど、陽一くんを傷つけてしまう恐れがあるから、余計なことをしてはいけないと思った。でも後悔してる。ちゃんと話しあえば良かったって。本当にごめんなさい。私が不甲斐ないせいで、こんなことになってしまって」
 先生は涙を拭う仕草をした。でも、目には何も流れてはいなかった。
「先生は悪くないです」
 三宅が立ち上がって言った。
「陽一が何かに悩んでいるなら、俺が気づいてあげるべきだった。全部俺のせいです。だから自分を責めないで下さい。俺は先生が担任になってくれて本当に嬉しかったです。本音を言えば、卒業までずっと担任でいてほしい。先生のおかげで毎日楽しく過ごすことができるんです」
 先生は再度、涙を拭う仕草をした。今度は本当に涙が出ていた。
「ありがとう三宅くん。先生も君みたいな生徒を持てて嬉しい。教師っていう仕事はものすごく大変なの。でもそういう言葉をもらえると、やってて良かったって思える。四月からは別の先生が担任になるかもしれないけど、私はみんなのことを忘れないからね」
 いつの間にか、会話から陽一がいなくなっていた。それどころか先生と生徒の感動的なシーンが繰り広げられている。
 悔しいが三宅は賢かった。大人に何を言えば喜ばれるかを知っている。そして大人は、自分を褒めてくれる子供に愛情を注ぐ。
「みんなで寄せ書きをしましょう。こんな素晴らしいクラスだってことを知れば、陽一くんも笑顔でお別れできる」
――反吐が出る
 昔、漫画に書いてあった言葉だ。その意味を父に聞いたが、目の前の人間がまさにそうだと思った。
 俺たちは保身のために陽一を無視した最低のクラスだ。寄せ書きなんてもらっても嬉しくないし、みんな何を書いていいかも分からないだろう。
 そんなことも知らずに、浮かれた顔で色紙とペンを持つ大人が憎たらしかった。

 学校が終わると、寄せ書きを届けるために陽一の家に向かった。
 先生が言うには、今日の夕方には次の引越し先に向かうらしいので、家が近い俺が頼まれた。
 だが寄せ書きはゴミ箱に捨てた。
 みんな『元気でね』『ありがとう』と無難な言葉を添えていたが、三宅は『仲良くしてくれてありがとう。陽一のことは絶対忘れないから』と書いていた。
 こんなの見せられるはずがない。あいつのせいで陽一は学校に来れなくなったのだから。
 ちなみに俺は何も書かなかった。というより書けなかった。親友を見捨てたくせに、調子良い言葉を使いたくなかったからだ。
 それに直接謝りたかった。
 逆の立場なら、陽一は俺のために戦ってくれていたと思う。自分がターゲットにされようが、みんなの前で話しかけてくれたはずだ。なのに俺は……
 情けない自分に嫌悪していると、陽一の家が視界に入った。
 家の前には白い車が止まっており、運転席には男の人が乗っている。
 誰だろうと思っていると玄関が開き、リュックサックを背負った陽一と、大きな鞄を持った陽一のお母さんが出てきた。
 先に気づいたのは陽一のお母さんだった。目があったとき思わず顔を伏せてしまったが、再度見るとこちらを指差している。陽一に自分が来たと教えているようだ。
 すると、陽一がこちらに駆け寄ってくる。
 急に緊張してきた。どんな顔をすればいいのか分からなかったし、もしかしたら『お前が助けてくれなかったから』と言われるかもしれない。だが何を言われようと仕方ないと思った。最近は大人しいとはいえ、それでも三宅を恐れ何もできなかったのだから。
「よう」
 目の前に来た陽一は平然とした顔でそう言った。いじめられたことなんて、なかったかのように。
「ごめん。自分が臆病だから陽一の居場所を作ってあげられなかった。友達なら助けないといけないのに、三宅が怖くて怯えてるだけだけだった。本当にごめん」
 目一杯頭を下げた。それでも足りないと思ったが、他に償う方法を知らなかった。
「バカ、そんなの求めてねーよ。頭を上げろ」
 ゆっくりと頭を上げると、陽一は笑っていた。
「お前は何も悪くない。だから気にすんな。それより俺以外に友達できたか? どうせ出来てないだろ? いつも一人ぼっちだとつまらないから、絶対に友達は作れ。あっ、でも蒼空はどっか捻くれてるから、それは直せよ。じゃないと友達できないからな」
 陽一は優しい。こんなときにまで俺の心配をしてくれる。なのに自分ときたら……そう考えたら涙が出てきた。
「おい泣くなよ。そんなしんみりされたら俺も泣くぞ」
「だって……陽一、優しすぎるよ……一番辛いはずなのに、俺のこと責めてもいいはずなのに……それなのに人の心配して……俺は自分を守ることを考えてた。何もできなかったのは、自分が一番だったからだ……本当にごめん……俺が弱いから陽一が学校に来れなくなった……本当にごめん……こんな人間が、友達なんて言葉使っちゃいけないよね」
 視界が歪むほど涙を流した。その歪んだ隙間に陽一の顔が映ったが、同じように涙を流していた。
「正直、みんなに無視されて辛かった……一人でいるのがこんなに苦しいなんて思わなかった……本当は弱音を吐きたかったし、助けてって言いたかった……だけどお前らまで巻き込みたくなかった……だって大切な友達だから……蒼空や千星が話しかけてくれて嬉しかったよ……お前らがいなかったら、もっと辛かったと思う……ありがとう、俺の友達でいてくれて」
「ごめん、陽一」
「謝るなよ、バカ」
 しばらく二人で泣きあった。涙に限りがあるとしたら、きっとこの先出ることはないだろう。
「なあ、蒼空」 
 お互いの涙が枯れた頃、陽一が口を開いた。
「千星のことをよろしく」
「藤沢?」
「うん。三宅が千星のことをいじめたら助けてあげてほしい。俺さ、あいつのこと好きなんだよね」
 陽一とはそんな話しをしたことがなかったため、好きな人がいることすら知らなかった。
「だから、お前に託す。いい?」
「絶対守る」
 俺がそう言うと、陽一は嬉しそうに笑った。
「捻くれたお前でも、千星とだったら絶対に友達になれる。だからよろしくな」
 こっちは分かったと言えなかった。親友を見捨てた俺に、友達を作る資格なんてないと思ったから。
 何も答えずにいたら、陽一のお母さんが来た。
「もう行かないと」
「……分かった」
 悲しげな表情をしながら陽一は言った。そしてこちらに視線を向けると「じゃあな蒼空」と微笑みを残して車の方へ向かって行った。
「じゃあね、陽一」
 ゆっくりと去っていく背中を見ながら『ごめんね、力になれなくて』と心の中で呟いた。後悔が押し寄せ、胸が締め付けられるようだった。
「蒼空くん」
 陽一のお母さんが俺の目線に合わせてしゃがみこむ。夕日のせいかは分からないが、目が少し赤くなっているように見える。
「ありがとね、陽一に話しかけ続けてくれて。無視されてたのが本当に辛かったみたいで、家でもあまり笑わなくなってたの。でもね、蒼空くんと千星ちゃんの話しをする時だけは嬉しそうな顔をする。二人のことが本当に好きなんだと思う」
「無視されてたのを知ってたの?」
「陽一に聞いた。それで私が無理して行かなくていいって言ったの」
「先生はそれを知ってるの?」
「相談したから知ってる」
 確か、陽一に詮索しないでってお願いされたと言っていた。だから自分は何も知らないと。あれが嘘なら、先生は陽一を見捨てたということになる。そう考えたら、急に怒りのようなものが湧き上がってきた。
「先生は三宅くんに聞いたみたい。クラスの子に陽一を無視するよう指示したか。でも本人はそんなことしてないって否定したらしいけど」
「したよ。三宅が命令したから、みんな無視するようになったんだ」
「分かってる。だけどその時に手を上げちゃったんでしょ? 三宅くんは先生や親に言おうと思ったけど、陽一が可哀想だから黙っていたみたい。それを聞いた先生は、三宅くんはとても良い子だから絶対に人が嫌がることをしない。むしろ人を殴った陽一の方に問題があるって言われた」
「三宅が女子の髪の毛を掴んだからだよ。陽一はそれを止めるために手を出したんだ。悪いのは三宅だよ。陽一は意味もなく人を殴ったりしないし、怒るときはいつも友達のためだった。誰よりも優しくて、いつもみんなを笑わせてた。俺みたいに捻くれた奴の友達になってくれた。なんで陽一だけが悪者になるの? こんなのおかしいよ」
 先に手をあげたのは三宅だ。なんで陽一だけが悪くなるのか理解出来なかった。
 三宅なんてクソだ。なんで大人はあんなクソみたいな奴を庇って、陽一みたいな優しい人を見捨てるんだ。世の中腐ってる。絶対に間違っている。
「蒼空くん……」
 陽一のお母さんを見ると、目に涙が浮かんでいた。
「最後まで陽一の味方になってくれてありがとう……その言葉だけで私たちは救われる。正直この数ヶ月本当に辛かった……でも、蒼空くんや千星ちゃんの話しをしながら笑顔になる陽一を見て、なんとか耐えてこれた……二人のおかげ。本当に……ありがとう」
 陽一のお母さんは、子供のように泣きじゃくっていた。それを見ていたら、自分の目にも涙が溢れてきた。
 家の前に止まっていた白い車が、おばさんの後ろに来て止まった。
「みどり、そろそろ行かないと」
 運転席に座っていた男の人が窓を開けて言った。たぶん陽一のお父さんだろう。
「もう行かないと。ダメだよね、子供の前で大人が泣くなんて」
「ダメじゃないよ。泣きたい時は大人だって泣いたらいいよ」
「蒼空くんは優しいね」
 優しくない。俺は陽一を救うことができなかったんだから。
「おばさん」
「何?」
「転校するのは、みんなに無視されたから?」
 涙を拭いながら聞いた。おばさんも涙を拭っている。
「パパが転勤になったの。だから転校することは決まってた」
「遠いの?」
「うん」
「引越し先の住所を教えてほしい」
「ごめんね、まだちゃんと決まってなくて教えられないの」
「そっか……」
 遠いことにがっかりしたが、少しだけ不安が取れた。
 もしいじめが原因だったら自分のせいでもあるから。だけど陽一が苦しんだことには変わりはない。それは絶対に忘れてはいけないことだ。
「じゃあね蒼空くん。元気で」
 陽一と同様、おばさんは微笑みを残して車に乗った。それと同時に後部座席の窓が開き、陽一の顔が見えた。
「蒼空、またな」
「うん、またね」
「あとさ……」
「何?」
「俺が三宅を殴ったことを、千星には言わないでほしい。あいつには知られたくないから。相手がどうあれ、がっかりするかもしれないだろ」
 藤沢は三宅と喧嘩したときに噛みついたと言っていた。そんな奴なら幻滅しないだろうと思ったが、陽一の頼みだから、絶対に言わないと決めた。
「分かった」
「ありがとう。じゃあ」
 窓が閉まると車が発進した。
 遠ざかる親友を見てると、一人ぼっちになったんだと実感する。これからはもっと強くならないといけない。誰かに頼るのではなく、自分の力で変えれるように。
「奥村くん」
 後ろから大声で名前を呼ばれたため振り返ると、藤沢千星が走ってきた。
「陽一は?」
「今、行った」
「うそ!?」
「来るの遅いよ」
「だってさっき聞いたんだもん。今日塾があったから早めに学校を出て……そしたら塾で陽一が今日出発するって聞いたから……だから抜け出して……」
 藤沢は膝に手を突き、息を切らしながら話している。
「藤沢も聞いてなかったんだな」
「奥村くんも、今日知ったの?」
「うん」
「何で何も言わないんだよ」
 藤沢は俺の胸ぐらを掴みながら、怒った表情で言った。
「俺に言うなよ」
 藤沢は胸ぐらから手を離し、項垂れるように地べたに座り込んだ。
「陽一のバカ、クソ野郎、マヌケ、海老天小僧、ゴリラの片割れ、ポンコツ豆だぬき、手に張り付くタイプの鼻くそ」
 前半の文句は理解できたが、中盤以降はよく分からなかった。
「ねえ、陽一何か言ってた? 学校に来なくなった理由とか」
「……言ってなかった」
「本当に?」
「うん」
 クラスの人間に無視されていたことを話そうかと思ったがやめた。もし三宅と喧嘩になったら、今度は藤沢がみんなから無視されるかもしれない。先生はきっと三宅の方に付く。そしたらまた今回みたいになるかもしれない。何事もなく卒業まで過ごすことが、藤沢を守ることになると思った。
「引越し先は?」
「遠くって行ってた」
「遠くって?」
「まだちゃんと決まってないから、教えられないっておばさんが言ってた」
「うそ……」
 首を垂らしながら、藤沢は落胆した。
「私、塾に戻る」
 立ち上がり、肩を落としながら来た道を戻っていった。
 陽一は友達を作れと言った。でも今は作ろうとは思っていない。親友を助けられなかった俺にその資格はないから。
 もし友達を作るなら、それは誰かを守れたときだ。夕陽が射す藤沢の背中を見ながら、そう思った。

 五年生に上がるとクラス替えが行われ、また三宅と同じクラスになった。
 本来なら悲しむ出来事なのだが、俺としては嬉しかった。藤沢千星もいたからだ。
 三宅が横暴に振る舞うのは基本的にはクラス内だけだ。学年まで広げると教師や親にバレる可能性があるからだろう。そういう頭だけは持っている奴だ。
 藤沢と一緒のクラスになれば守ることができる。これは陽一との約束だからちゃんと果たしたい。親友に託すと言われたのだから。
「今日、明里の家で遊ぶんだけど、奥村くんも行かない?」
 放課後、下駄箱で靴を履き替えていたら藤沢に声をかけられた。その後ろでは、女子数名が俺の方を見てはしゃいでいる。
「行かない」
「来ないと呪うけどいい?」
「勝手にして」
「私の呪い、足の裏からブロッコリー生えてくるタイプだけど大丈夫?」
 どんなタイプだよ。
「生えたら食べるから大丈夫」
 そう言ったあと、昇降口を出た。後ろから呪文のような声が聞こえてきたが無視した。
 今の自分は誰とも友達になってはいけない。誰かを救えるようにならないと、また大切な人を失ってしまうから。
 
 五月を迎えると、最近まで大人しかった三宅の凶悪性が、徐々に牙を剥き出してきた。
「おい、バカのくせに本なんか読んでんじゃねーよ」
 昼休み、大木というメガネをかけた男子が教室で本を読んでいた。そこに三宅来が来て、掻っ攫うように本を取り上げて言った。
「返して」
 大木は本を取り返そうと手を伸ばすが、三宅は戯れるようにそれを回避する。
 クラスのほとんどは外で遊んでいたため、教室には数名しかおらず、男子は俺と大木の二人だけだった。しかも、全員四年生のときに同じクラスの奴だ。
「お願いだから、返してよ」
「じゃあ取り返せよ」
 三宅は背伸びして本を高く上げていた。大木と三宅は背の順で言えば、一番前と一番後ろだ。背の低い大木では、ジャンプしても指先が本を掠めるだけだった。
「返してやれよ」
 廊下側の席で見ていた俺は、窓側にいる幼稚な暴君に向けて言った。
「あ?」
 本を投げ捨て、三宅がこちらに歩いてきた。周りにいる数名の女子が怯えた様子で俺を見ていた。
「もう一回言ってみろよ」
 目の前に立つ三宅は、鋭い目つきで俺を睨んでいる。正直怖かった。三宅と俺の体格差は一回り違う。目の前にすると、先ほどまであった勇気が何処かへ消えてしまっていた。その動揺が手に伝わり、急に指先が震え出す。
「こいつの手、見てみろよ。めっちゃ震えてるぞ。ビビってやんの。ダサっ!」
 三宅は俺の腕を掴み、みんなに見せるように持ち上げた。楽しそうに声を弾ませ、薄汚い笑顔を振り撒いている。こんな下らないことで喜んでるのが理解できなかった。
 だけど何も言えなかった。これ以上逆らったら殴られるかもしれない。その恐怖が抵抗する気力を失わせていた。
「一言くらい返せよ。情けねーな」
 俺の腕を投げ捨てるように離すと、三宅は大木のところへ向かっていった。
「誰かにチクったりしたらぶっ殺すからな」 
「……うん」
 大木は視線を落としながら、消え入りそうな声で言った。声からも怯えていることが伝わる。
「聞こえねーよ。もっとでかい声で言え。それともバカだから日本語通じないのかよ。お前の頭に脳みそ入ってないんじゃねーか。叩いても空っぽだから痛くねーだろ」
 三宅は何度も大木の頭を叩きながら笑っている。
 自分が情けない。陽一を助けられなかったときと一緒だ。強くなると決めたのに、今も怯えて見てるだけ。しかも安心している。大木のところに三宅が行ったから。俺は本当に最低だ。
 なんでこんなに弱いんだろう。なんで勇気を持つことができないんだろう。何もできないくせに、何が『絶対守る』だよ。
「三宅!」
 突如、教室に怒号が響いた。扉の方を見ると藤沢が立っている。怒りが滲んだ視線は三宅に向けられていた。
「人の頭ぽかすか叩くんじゃない! このぽかすか星人。お前の鎖骨に血の海作るぞ」
 言葉だけでは怒ってるのかふざけてるのか分からないが、表情は確実に怒っている。
「うるせえな。ただ遊んでただけだろ」
「人の頭を叩く遊びがどこにあるんだ。このポカスカタン。あるんだったら詳細なルールを説明してみろ」
 藤沢は三宅の前に立つとそう言った。
「そんなもんねーよ。でも俺たちからしたら遊びなんだよ。なあ大木?」
「……うん」
 威圧を含ませた三宅の視線と口調に、大木は目を潤ませながら頷いた。
「ほら、大木だってそう言ってるじゃねーか」
「無理矢理だろ! この反社会的小学生が。頭を叩くのは犯罪だからな。書類送検するぞ」
「だから遊んでただけだって言ってるだろ。本当にうるせー奴だなお前は。いいから、どけ」
 三宅は藤沢の肩を押し退けて教室を去っていった。
 藤沢はその背中に向けて「今度私の肩に触れたら、三途の川を泳がせてやる」と浴びせた。
「大丈夫か大木。頭痛くないか」
 大木の方を振り返って心配そうに藤沢が言うと、目を拭いながら「大丈夫」と答えた。
「先生に言おう。そしてあの外道を牢屋にぶち込んで、二度と日の目を浴びさせないようにしよう」
「言っても無駄だよ。あいつは先生たちに気に入られてるから。それにチクったことがバレたら、もっと酷い目に合う。だから……言わないでほしい」
「言わないとあいつはまた調子に乗って、頭を叩いてくるよ?」
「僕はみんなに無視されたくないから」
 きっと陽一のことを言っていたんだと思う。他の子もそれを思い出したのか、先ほどよりも表情が暗い。
「あいつそんなこともしてたのか。私が三宅に直接言ってやる」
 藤沢は再び怒りの表情を作って教室を出ていこうとしたが、大木に腕を掴まれ制止した。
「お願いだからやめて」
 怯えた様子で言われたからか、藤沢は少し考えたあと、
「分かった。でも何かあったら私に言って」
「うん」
 とだけ言って、大木は自分の席に戻った。

 三宅は日に日に暴言や暴力が酷くなっていき、色んな人間が被害にあっていた。
 先生の前では絶対にしないため、みんな我慢するしかなかったのだが、時折タイミング良く藤沢が来ることもあった。
 基本的には言い合いだが、たまに取っ組み合いになることもあった。
 力で勝る三宅に対し、藤沢は噛みつきを駆使して、最終的には引き分けで幕を閉じる。
 俺は情けないことに、いつもその様子を見ているだけだった。加勢しようとしても、足が震えて動けなかったからだ。
 他人のために自分を犠牲にできる藤沢はかっこよかった。三宅に立ち向かう姿を見ては『いつか自分も』と奮い立った。
 だが、勇気というものは簡単には出てきてはくれない。
 恐怖の後ろで怯えながら身を潜め「全部藤沢に任せればいい。自分に被害が及ばなければそれでいいじゃないか。何で自分から傷を作りにいくんだ。どうせ他人なんだから見て見ぬふりをすればいい。こいつらだってお前のことは助けてくれない」という思考に導いてくる。
 それがすごく嫌だったが、その考えで楽になれることもあった。何もしないということで自分を守れるからだ。
 陽一に託された約束を果たせないまま一年半が過ぎた頃、昼休みの教室で嫌悪するような言葉が耳に入ってきた。
「千星ってさ、抱きしめられながら好きだよって言ってほしいんだって。しかもそれを妄想してるんだよ」
「うわっ、キモ。引くわ」
「でしょ」
 トイレから戻り、自分の席で本を読もうとしたときのことだった。
 明里と佐藤が窓際で外を見ながら話していた。いつの間にか外は雨が降っている。
 確か明里は藤沢と仲が良かったはずだ。それのなのに、本人がいないところで悪口を言っている。それを聞いた俺は、胸の辺りにモヤモヤっとしたものが生まれたように感じた。
「あの子って変わってるよね」
 佐藤がそう言うと、明里は大きく頷いた。
「そう、なんかよく分からない例えとかしてきたり、意味不明なこと言ってきたりするの。本当変人だよね」
 二人は馬鹿にしたように笑い合う。俺はだんだんと怒りが芽生えてきた。
「ちょっとしたことではしゃいだりして、本当に子供みたい。たまにうざいって思うんだよね。でも男子と仲いいじゃん? だから一緒にいるけど、それがなかったら絶対に友達になってない」
 それは友達とは言わない。自分のことしか考えてない人間が、藤沢の悪口を言う資格はない。
 もし藤沢がいなければ、このクラスは三宅の完全な支配下に置かれていた。
 今、そうなってないのは藤沢が三宅と戦ってくれているからだ。
 何もしていないのに、藤沢を馬鹿にするなよ。
「おい」
 先程まで自分の席で寝ていた三宅が、二人のもとに来た。
「今言っていたこと、藤沢に言うからな」
「寝てたんじゃないの?」
 明里は慌てた様子で三宅に聞いた。
「明里、お前藤沢と仲良くしてるくせに、それは酷いだろ。これを聞いたら藤沢どう思うんだろうな」
 三宅は声を弾ませながら言う。
 俺は廊下側の席のため、背中越しにしか三宅を見えていないが、憎たらしい笑みを浮かべていることは想像できた。 
「言わないで……」
 明里は俯きながら言った。
「やだよ」
 そう言って、三宅は教室を出て行こうとした。想像した通りの笑みを浮かべながら。
「やめて」
 明里は三宅のTシャツを掴んだ。走り出そうとした時だったため、三宅は引っ張られる形で後頭部から転倒した。
「ご、ごめん……」
 後頭部を押さえている三宅に、明里は謝罪する。
「やったなお前……」
 三宅はゆっくりと立ち上がると、明里の髪の毛を掴んだ。
「明里、俺に何したか分かってんのか」
 教室に怒号が響いた。
 明里の顔は大きく歪んでおり、首が後ろに傾いている。それほどの力で髪の毛を引っ張っている。
 三宅は狂気じみた顔で睨んでいて、陽一が首を絞められたときと同じ表情だった。
 助けないと――そう思ったが足が前に進まない。恐怖が纏わりついているかのように、地面から足が離れない。
 俺はこんな時まで自分の方が大切なのかよ。怖くても動けよ、お願いだから、もう見て見ぬふりはしたくない。
「ごめんなさい、もうしないから許して」
 明里の声に反応するように、少しだけ足が動いた。
 今日こそは行ける、俺もあいつらみたいに勇気が出せる。そう思ったが、
「ぶっ殺すぞ、明里」
 三宅の怒号に勇気はかき消された。震え出した足を見て、俺には無理だと心が折れた。
 本当に自分が情けなくなる。声を出すだけでもいいのに、それすら出ない。
 この時、自分を変えようとすることを完全に諦めた。
 臆病なままでいることの方が悩まずに済むし、楽に生きられる。それに明里が悪い。藤沢の悪口を言っていたのだから自業自得だ。
 周りを見渡すとみんな怯えた様子で三宅たちを見ていた。中には傍観するように冷めた目で見てる人もいる。
 そうだ、わざわざ自分だけ三宅から反感を買うことはない。ここにいるのは俺だけじゃない。みんなだって見てるだけだ。だから助ける必要なんて……
「何やってるの! 離せ」
 飛び出てくるように、藤沢が教室に入ってきた。
 そしてすぐさま三宅の手を叩き落とし、「大丈夫?」と明里に声をかけた。
 なんで藤沢は立ち向かっていけるんだろう? 足を震わせて怖気ついた自分と何が違う? 体格差は俺よりもあるはずなのに、なんで怖くないんだ? 
 頭の中で自問自答したが分からなかった。どうしたらそうなれるのかが。
 そのあと三宅は、明里が言っていたことを藤沢に暴露した。
 三宅が言ったから信じられなかったのだろう、クラスの人に本当かどうかを聞き周っている。
 だがそれは真実だった。
 そして答え合わせをするように、明里は三宅に促され、
「正直うざい。ちょっとしたことではしゃいだりして、うるさいって思うときもある」
 と本人の前で口にした。
 藤沢は何が起きているか分かっていないように見えた。きっと事実を受け入れられないのかもしれない。それはそうだ。もし陽一が同じように思っていたら、俺もそうなる。
「あとお前の妄想キモイぞ。抱きしめられながら好きだよって言ってほしいんだろ」
 三宅が追い討ちをかけるように藤沢に言った。それを聞いたクラスの奴はクスクスと笑っている。
 何でこの状況で笑えるのかが分からなかった。
 俺はこんな奴らと一緒でいいのか? 藤沢一人に押し付けて、自分は傍観者のままでいいのか?
――だから、お前に託す。いい?
――絶対守る
 ダメだよな陽一。
「謝れよ」
 怖かったが勇気を出した。教室の視線が俺に集まってるのが分かると指先が震え出した。悟られないように思いっきり拳を握って震えを殺す。
「藤沢に謝れ」
 いつの間にか三宅の前に来ていた。ここまでどうやって歩いたのかを覚えていない。
 目の前にしたら再度震えが出てきた。
 それを見た三宅が「こいつびびってやんの。だっせ」と馬鹿にしたように笑った。
 ここで引いたらダメだ、俺が負けたら藤沢が一人になる。もう絶対にさせてはいけない。傷を作るなら人のために作りたい。
「……謝れよ」
「なんて?」
 引くな、陽一に託されたんだろ。
「謝れって言ってんだよ」
 自分が出せる限界の声を上げた。三宅も予想外だったのか、一瞬たじろいだように見えた。
 だがすぐに表情を戻すと「誰に向かって、そんな口聞いてるのか分かってんのかよ」と拳を振り下ろしてきた。
――殴られる。そう思い目を瞑った。
 だけど拳は飛んでこなかった。それどころか、目を開けたら三宅が苦痛の表情を浮かべてうずくまっていた。
 隣を見ると、藤沢が右足を上げた状態で立っていた。たぶん蹴ったのだろう。
「てめえ……」
 三宅がゆっくりと起き上がってきた。どうすればいいか分からなかったが、とりあえず拳を力強く握った。殴ってでも絶対に守らなければならない。
 そう思っていたが、藤沢に腕を掴まれ、そのまま教室の外に連れ出された。
 引っ張られる形で廊下を走り続けた。
 このまま遠くまで行ってしまいたい。人を馬鹿にするような人間がいない所まで。平穏に過ごせて、大切な人たちが笑っていられる場所に。
 暫く走っていると、理解実験室に辿り着いた。
 藤沢を見ると泣いていたので、ハンカチをポケットから出して渡した。
 もうすぐ中学生になるから大人っぽいハンカチを持ちな、と父に渡されたものだ。バーバリーというブランドらしい。
「ありがとう」
 なんだか照れ臭くなり椅子に座る。すると藤沢が隣に座った。
 陽一以外とあまり話したことがなかったため、何を喋っていいか分からなかった。藤沢も黙っている。
 無言のまま時間が過ぎていくと、教室での出来事が思い出される。
「ごめん、何もできなかった」
 無意識に口から出た。本来なら自分が守ってあげないといけないのに、逆に守られてしまった。陽一との約束を果たせなかった罪悪感が、言葉になってしまったのかもしれない。
 悔しさからか、拳を強く握りしめていた。こちらも無意識だった。
「人を助けるって、アニメのヒーローみたいに悪いやつを倒したりするだけじゃない。寄り添ってくれるだけでも、その人は救われるんだよ」
 藤沢の言葉に俺が救われるようだった。
 もしあのまま、傍観者でいることを選んでいたら、きっと一生自分を嫌いなままだった。藤沢だったから、勇気を持つことができた。藤沢がいたから変えることができた。
「俺は『抱きしめられながら好き』って言ってもらうことを、気持ち悪いとは思わない」
 言うのは恥ずかしかったが、藤沢へ何かを返したかった。
 実際に素敵なことだと思うし、決して笑われることではない。俺なりに寄り添う言葉を考えた結果、この言葉が一番良いと思った。そしてあともう一つ。
「俺は話すのとか得意じゃないから、相手が話してくれると助かる。だから……話し相手にならなれると思う」
 誰かを救えるまで友達は作らないと決めていたが、今なら言ってもいいような気がした。何より、藤沢に一人じゃないと伝えたかった。
「私、でしゃばるし、うるさいよ」
「俺はあまり喋らないから、ちょうどいいと思う」
「でもいつか、面倒だと思うかもよ」
「思わない」
「本当に?」
「本当に」
「奥村くんが、そこまで話したいって言うなら、話してあげる」
「別に話したくないなら、話さなくていいよ」
 なぜか強がってしまった。本当は嬉しいのに。
「嘘です。話してください」
「うん」
 思わず笑みが出た。
 藤沢は変わってるかもしれないが、それがいいところでもあると思う。なんとなくだが、今そう思った。
「私、藤沢千星って言います。千星は数字の千にお星さまの星」
 千星(ちせ)良い名前だと思った。
「俺は、奥村蒼空って言います。蒼空は草冠に倉庫の倉って書いて、空は青空の空」
 彼女の名前には星、俺の名前には空という文字が入っている。
 星は空で輝き、空は星に照らされる。共に支え合いながら、お互いの存在を世界に映し出す。
「星と空だね」
「星と空だね」
 俺はこの日、どんなことがあっても藤沢千星を守ると決めた。
 千星は一人でいることが増えた。
 仲の良かった明里から『うざい』と言われてたことで、「他の人も同じように思ってるかも」と、不安を浮かべながら話していた。
「俺はそんなこと思わないから。だから一人ぼっちにはさせない」
 どう返したらいいか分からなかったが、陽一なら何て言うかを考えた結果、この言葉が出た。
「ありがとう」
 照れ臭そうに答える千星を見て、こちらまで恥ずかしくなる。
 三宅は度々、一人でいる千星を見て茶化してきた。その都度、取っ組み合いになったが、俺も参戦して三宅に勝利することが増えていった。
 正直言うと今も三宅は怖いが、『千星を守るため』と考えたら不思議と体が動いた。
 段々と大人しくなっていく三宅に安心したが、千星が日に日に人を避けるようになり不安を覚えた。
 あの日の出来事で、人を信用することが怖くなってしまったのかもしれない。俺だけは絶対に裏切るようなことをしてはいけないと思った。
 そんなことをすれば、もう千星は笑えなくなる。俺は屈託なく笑う千星の笑顔が好きだったから、それを守りたかった。
「蒼空の家に行ってみたい」
 そう言われたため、明日ならいいよと言った。
 本当は今日でも良かったが準備をしたかった。
 家に帰ると、両親がリビングでテレビを見ていた。
「藤沢千星っていう子が、明日家に来たいって言ってるんだけどいいかな?」
 二人とも驚いたような顔をしている。それもそうだ。陽一すら呼んだことがないので、学校の人を連れてくるのは初めてだった。陽一は他人の家で遊ぶのを嫌った。だから行くことはあっても、家に来たことはない。
「クラスの子?」
 お母さんが目を丸くしながら聞いてきた。
「うん。その子、色々あって学校に居場所がなくなったから、俺がその子の居場所になりたいって思ってる。だから千星を家族みたいに思ってもらいたい。一人ぼっちにさせたくないから」
「分かった。家族と思って接する」
 母は優しく微笑みながら頷いてくれた。
「その子に何があったかは分からないけど、一緒にいて安心できる存在になってあげな。そういう人がいるだけで不安が和らぐから。一人でも自分に寄り添ってくれる人がいるだけで、優しさを持つことができる。そしてその優しさが、いつかその子の救いになる」
 この時はまだ、父の言葉を理解することはできなかった。でも大切なことなんだろうと思い、胸の中に仕舞うことにした。

「お、お兄ちゃん、明日友達来るの?」
 夕飯のとき、美月が目を丸くさせながら聞いてきた。母と同じような反応だ。
「うん、同じクラスの藤沢千星って子」
「そ、そうなんだ」
 なぜか分からないが美月は動揺しており、水の入ったグラスにスプーンを入れて掬っていた。たぶん隣にあるスープの入ったカップと間違っている。
「会ってみる?」
 美月は小学校に入学してから、誰かと遊んでいるところを見たことがない。両親はそれを心配しているようだった。
「だ、大丈夫、私は部屋にいるから。お兄ちゃんたちの会話を盗み聞きなんてしないからね」
 たぶんするな。
「分かった。一緒に遊びたくなったら、いつでも来て」
「うん……」
 もし美月と千星が仲良くなってくれたら……このとき、そんな想像を膨らませていた。
 千星に美月のことを話すと「蒼空の妹なら友達になれる」と言ってくれた。
 実際、家に遊びに来たときは、前のような千星の姿を見ることができた。居場所になれていると思い、嬉しくなった。
 中学に上がっても千星は変わらなかった。俺以外の人と接することなく、友達を作ろうとしなかった。
 逆に自分は友達を多く作ろうと思った。
 学年の中心にいれば、何かあったときに守りやすくなるし、千星がいじめらる確率は低くなる。
 できるか不安だったが、千星を守るためなら頑張れると思った。
 陽一と千星しか交友関係がなかったため最初は苦戦したが、学年の中心にいる何人かを参考にして、自分の中に落とし込んでいった。
 観察していて分かったのは、人それぞれの価値観の違いだ。
 距離感、悩み、環境、求めるものや大切にしていること、人によって踏み込んではいけない範囲、絶対に馬鹿にしてはいけないものなど、多様で繊細なグラデーションで円を描いていた。
 自分の色を出せる人もいれば、周りの色に染められてしまう人もいる。多岐にわたる色彩は、学校というキャンパスでは上手く混ざり合うことは難しい。
 ならせめて、俺といるときにその色が一番美しく輝ければ、居心地のいい場所になる。そうすれば友達だって増やすことができると思った。
 二年に上がる頃には学年の中心に位置するようになった。
 ほとんどの人と友達になったが、三宅や明里、佐藤とはあまり話さなかった。千星が見たら悲しむだろうから。
 三宅は小学校の時と比べて、だいぶ大人しくなった。
 同学年に三宅より体格のいい安西という子がいて、俺はそいつと仲が良かった。
 安西は三宅と違って優しいやつだった。だから純粋に友達になりたいと思い、仲良くなった。
「蒼空、付き合ってほしい」
 同学年の女子から告白されることがたまにあったが、ほとんど断っていた。
 恋愛に興味がなかったからではなく、好きな人がいたから。
 
「おい蒼空、早くスペードの3を出せ。持っているのは分かっているぞ。さっきチラっと見たからな」
 俺の部屋で、千星と美月と七並べをしていた。
「いや、勝手に見るなよ。ルールは守れ」
「千星ちゃんもダイヤの10出してよ。私が上がれない」
「なんで私が持ってるの知ってるの?」
「千星ちゃんがお兄ちゃんの手札を見てる時に、こっそり見た」
「卑怯だぞ。人の手札を見るのは道路交通法に引っかかる行為だ」
「人のこと言えないだろ。しかもなんで道路交通法なんだよ」
「とにかくスペ3を出せ、蒼空」
 千星は俺の手札から、無理矢理スペードの3を引っこ抜こうとした。
「おい、やめろ」
 抜かれるのを阻止するため、力強くカードを握る。
「3を寄越せ」
「美月、今のうちにダイヤの10を取れ」
 美月が千星の手札からダイヤの10を取り、ダイヤの9の隣に置いた。
「あー! ずるいぞ、この極悪兄弟め。か弱き女子中学生から、命に等しいダイヤの10を奪うなんて。それでも地球人か」
「せめて人間か、だろ。規模がでかいんだよ」
「私のバックには火星人がいるかなら、お前ら覚えとけよ」
「千星ちゃん、火星にお友達いるの?」
 美月は目を輝かせながら聞いた。
「火星生まれ、水星育ちだから」
「すごい、千星ちゃん。宇宙人みたい」
「信じるな美月。千星の言うことを聞いてたら、知性レベルが著しく落ちるぞ」
「おい蒼空、次に私を蔑んだら、役所に行って婚姻届け提出するぞ」
「千星ちゃんがお姉ちゃんになるの?」
 再度、美月は目を輝かせる。
「そうだよ。今日からお姉ちゃんて呼びな」
「勝手に決めるな」
「お姉ちゃん」
「もう一回」
「お姉ちゃん!」
「お前らやめろ」
 こんな下らないやりとりをよくしていた。でも居心地が良かった。千星は学校で冗談を言ったり、笑ったりすることはなかったが、俺や、俺の家族の前ではよくふざけたことを言ったり、笑ったりしていた。自分にだけ見せるような顔もある。それが何より嬉しかった。
 この頃には陽一に託されたからではなく、俺の意思で守りたいと思っていた。
 世界で一番大切な人だから。
 幸せなんて贅沢なものを望まない。平穏な日常があればいい。ただ笑って過ごせる場所を作りたい。
 それが、俺のできる精一杯のことだった。

「高校どこに行くの?」
 一緒に帰っていたときに千星に聞かれた。
「昭栄に行こうかと思ってる」
「偏差値高いよね……」
 昭栄は県内でもトップレベルの高校だった。それを聞いた千星は表情を曇らせていた。
「千星は?」
 気になっていた。千星はこんな感じだが、それなりに成績はいい。だから少しだけ期待していた。
「私も昭栄に行く」
「じゃあこれから毎日勉強しないとな。しょうがないから付き合ってやる」
「べ、別に教えてなんて言ってないもん。私の力で昭栄くらい受かるもん」
「じゃあ一人でいいな」
「嘘です。教えてクレメンス」
 嬉しかった。千星が同じ高校を目指してくれるのが。また一緒に通えることを想像したら思わず表情が綻ぶ。
「何で笑ってるの? あっ! 私と一緒の学校に通えて嬉しいのでござろう。このドスケベ男子」
 なんでスケベなのかは分からなかったが、その予想は当たっていた。
「別に嬉しくはないけど」
 嘘だ。めちゃくちゃ嬉しい。
「本当かなー?」
 そう言って、ニヤニヤしながら俺の顔を覗いてきた。
「まだ受かってないから一緒のところに行けるか分からないだろ? 俺も受かるか分かんないし」
「私は死ぬ気で勉強する。だから一緒の高校に行こう。蒼空と一緒がいい」
「うん」
 俺も千星も必死になって勉強した。結果はお互い合格し、晴れてもう三年間、同じ学校に通うことになった。
 だけど千星は、中学と変わらず友達を作ろうとしなかった。
 最初はそれでもいいと思っていたが、段々と不安が募ってきた。
 高校を卒業したら、別々の道に行くかもしれない。そしたら千星は一人ぼっちになる。
 この三年間で俺以外の友達を作ったほうが、今後の糧になるんじゃないかと思った。
 だが仲の良かった明里から『うざい』と言われたこと、これが今も尾を引いている。だからこそ友達選びは慎重にしないとダメだと思った。
 高校でも学年の中心になれるように努力した。それは中学の時と同様だが、信頼できる人間を探したかった。
 千星が不安なく一緒にいれて、笑って毎日を過ごせるような相手を見つけるために。
 色んな人を見てきて、富田雪乃が一番信頼を置けると思った。
 周りからも聖母と呼ばれるほど優しく、裏表も“あまり”感じなかった。
 だが、どこか取り繕ってるように見えるときがある。それは悪い意味ではなく、周りに合わせて無理しているような感じだった。
 富田とよく話すようになったのは、一年の文化祭のときだ。クラスで演劇をすることになり、富田は脚本を書くことが決まった。
 うちの高校のバスケ部は強豪で、朝練も早くからある。富田の成績は学年トップだったため、きっと部活が終わってから家で勉強をしていると思った。
 最初は変わろうかと思ったが、たぶん富田は断る。
 富田は何でも自分一人で背負い、そのすべてを完璧にこなそうとする性格だった。
 だから富田には言わず、こっそりと脚本を書いた。
 もし必要なければ捨てればいいし、必要だったら協力する形で渡せばいい。シナリオの本を買ったり、動画サイトで演劇部の舞台を見ながら脚本を書いた。
 富田の様子を見ると、寝不足気味だったのが顔に表れていた。
 それを見て昼休みに声をかけた。
 富田は図書室で作業をしていたのだが、頭を小刻みに揺らしている。たぶん眠いんだろうなと思った。
 机の上にはノートが開かれていたが、何も書かれていない綺麗な白が視界に入った。
 自分で書いた脚本は三分のニほどしか出来上がってなかったが、口頭で説明した。
 本当は書いているものを直接見せようと思ったが、一人で背負うタイプの人間なら、プライドを傷つける可能性があるので見せなかった。
 『俺が作った』ではなく『一緒に作った』の方が、富田は受け入れやすいと思ったからだ。
 これをきっかけに、よく話すようになった。
 実際話してみて、富田なら信用できると思った。だから千星のことをよく話し、興味を持ってもらおうと考えた。
 親友とまで行かなくてもいいから、千星に友達を作ってほしい。過去という足枷が外れれば、もっと自由に生きられる。

「蒼空、知ってる? 花山が中学の時にクラスの奴を殴ったこと」
 昼休み、校内にある自販機の前で、同じクラスの金村にそう言われた。
「金村、花山と同じ中学だっけ?」
 小銭を自販機に入れながら聞いた。
「俺は違うけど、三組に相澤っているじゃん? あいつが同じ中学で、そう言ってたらしい」
 緑茶にするか、ボトル缶のコーヒーかで悩む。
「何で殴ったの?」
 ボタンを押し、取り出し口からコーヒーを取る。
「殴った奴に金を貸してたみたいなんだけど、勘違いかなんかでトラブったらしい。結構な怪我を負わせたんだって」
 花山は目つきが鋭く、入学当初からみんなに怖がられていた。理由は分からないが、人を避けるように常に一人でいる。
「最低だよな。まあ、あいつならやりそうだけど」
 金村は隣の自販機でコーラのボタンを押し、そう言った。
 このとき、陽一の顔が頭に浮かんだ。
 陽一も殴ったことがあったが、あれはクラスの女子を三宅から守るためだった。
 殴るという行為を肯定するわけではないが、『なぜ殴ったのか』という理由が大事だ。
 三宅のように気に食わないだけで人を殴ったなら軽蔑する。でも他に理由があるなら、それを聞いてからでないと判断はできない。
「花山にそのこと聞いた?」
「無理、無理。そんなこと聞いたら、殴られるかもしれねーじゃん」
 金村は顔の前で大きく手を振りながら答える。
「知らないなら、あんまり言わない方がいい。尾ひれが付いて、話しが誇張されるかもしれないから」
「わーった」
 不貞腐れたような表情で頭を掻きながら、金村は言った。

 絵具を買うため、千星と画材屋に来た。
 美月が学校に行かなくなってから一ヶ月が過ぎた頃だった。
 母が学校に行かない理由を厳しく問いただしていたので、俺は何も言わないことにした。拠り所となる場所がなければ、孤独を感じてしまうと思ったからだ。
 千星に相談しようと思い誘ったのだが、やっぱり言わないことにした。
 美月は千星のことが好きだったから、もしかしたら知ってほしくない可能性もある。
 画材屋の後に雑貨屋に寄った。
 店の奥に行くと、アルファベットのペンダントが並べられている。
 A〜Zまでが横二列で並べられており、ポップには『好きな人のイニシャルを持ち歩くと、その人と結ばれるかも』と書かれていた。
『Y』というペンダントが目に入り、雪乃のことを思い出す。好きな人がいて、想いを伝えられずにいると相談を受けていた。その相手の名前は春野裕介というらしい。
 こういう迷信じみたものは信じていないが、雪乃も裕介もどちらも『Y』だったため、少しだけ運命的なものを感じてしまった。
「喉乾いたから、何か買ってくるね」
 千星がそう言ったので、ペンダントを見ながら「うん」と答えた。
『Y』のペンダントを手に取って眺めていると、「蒼空も何か飲……」と聞こえてきたので振り返る。
 千星が愕然とした様子でこちらを見ていた。
 なんでそんな顔をしているのか分からなかったが、一通り店内を見たので「俺も喉が渇いたから買いに行く」と言った。
「買ったら、おまじない程度かもしれないけど、叶うかもしれないでしょ?」
 取り繕ったような顔で千星は言ってきた。たぶんペンダントのことだと思う。
 千星の気持ちが気になっていた。たぶんお互いに好きだと思う。でも陽一のことを考えると一歩踏み出せなかった。
 何もできずに守れなかった俺が、親友の好きだった人と結ばれていいものなのかと。葛藤の狭間で揺れながら、今日まで過ごしてきた。
「千星はさ、好きな人いる?」
 迷いながら聞いた。この先どうなるか分からなかったが、本心では進みたいと思っていたから。幼馴染としてではなく恋人として。
「いないよ、恋愛とか興味ないし」
 吹き荒れた嵐ですべての花が散るように、頭の中が真っ白になる。
 両思いだと信じていたものは、自惚れた片思いだった。
「そっか」
「買わなくていいの?」
「俺のは……」
 悟られないように笑顔を作った。せめてこの関係性にひびが入らないように、今までと同じ仲の良い幼馴染でいられるように。
「きっと叶わないから」
 失恋の悲しさを嘘の笑顔で塗りつぶして、俺は店を後にした。

 母に夕食はいらないと伝えたあと、部屋に行き無気力なままベッドに横たわった。
 今日の出来事を早く忘れたくて寝ようとしたが、目を瞑ると鮮明に記憶が蘇ってくる。
――いないよ。恋愛とか興味ないし
 好きな人にそう言われるのは、こんなにも辛いものなのか。ましてや両思いだと思っていたから尚更だ。
 でもこれで良かったのかもしれない。千星が昔みたいに友達を作るようになれば、必ず男友達だってできる。それを温かく見守ってあげたいし、頑張りを褒めてあげたい。嫉妬で千星の足を引っ張るようなことは絶対にしたくないから、友達として側にいる方がいい。
 それに、俺には付き合う資格はない。陽一を守れなかったくせに、千星を好きになること自体が間違っていた。
 そうだ、これでいいんだ。これで……
 葛藤の中を彷徨っていると、千星の顔がよぎる。
 屈託のない笑顔、拗ねて頬をふくらます横顔、照れを隠すための変顔。
 五年間、隣で見てきた思い出たちが、頭の中を星のように流れいていく。
 自分に言い訳していることは分かっている。
 言い聞かせないと自分を保てなくなるから、嘘を並べて本音を隠した。
 本当は千星に好きと伝えたい。ずっと側にいたい。一番の存在でいたい。俺の隣で笑っていてほしい。
 本心を曝け出せば欲望が溢れてくる。それが悪いことだと、どこかで思っていた。親友を守れなかったから。
 ごめん陽一。俺、お前の好きな人を好きになった。ずっと罪悪感を感じていたから、告白することができなかったんだ。
 絶対に悲しませたりしないから、何があっても守るから、だから……許してほしい。千星に好きと伝えることを。
 覚悟を決め、枕もとに置いてあったスマホに手を伸ばそうとすると、千星から着信が入った。
 急に緊張してきたので、一度大きく息を吐いてから電話に出る。
 話の内容は、日曜日に出かけようということだった。
 突拍子もなく電話をかけてくることはよくあることだし、出かけようと言ってくることもある。
 だが今回は自分も誘おうとしていたため、神様が背中を押してくれたのかと思った。
 明後日の日曜日、たとえ叶わないとしても、星に想いを伝える。

 日曜日は晴天に恵まれた。青が広がる世界に白い雲が漂う。
 待ち合わせしていた駅には少し早めに行ったが、すでに千星が来ていた。その姿を見たとき思わず息を呑んだ。
 いつもよりおしゃれをしていて、すごく可愛かったから。
 そのことを伝えようかと思ったが、恥ずかしかったので代わりに冗談を言った。
 最初に行ったのはカフェだった。そこで食事をとった後、コーヒーを頼んだ。
 千星はクリームソーダだった。アイスとクッキーで作られたくまが乗っかっている。
 服装を褒めるタイミングを計っていた。やっぱり可愛いと伝えたい。いつもと違うからには、きっと理由があるだろうし、何より本当に可愛い。
 だけど普段はあまり言わない言葉だったから、少し照れ臭かった。
「可愛いね」
 千星を見ていたら目が合ったので、思わずそう言ってしまった。
「え?」
 時間が止まったように茫然としたあと、千星は急にあたふたし始めた。
 それを見ていたらこちらまで恥ずかしくなり「くま、可愛いね」と小さな声で誤魔化した。
 何故だか分からないが、アイスのくまの脳天にスプーンを入れ、怒っていた。

 水族館でクラゲを見ている千星は子供のようだった。その姿がとても愛おしく感じる。
 今度はちゃんと言おう、そう思い「可愛い」とクラゲを見ながら言った。
 千星はクラゲのことだと思ったみたいだったが、服装のことだと伝えると頬を赤らめて照れ始めた。それがまた可愛かった。
 イワシの群れの方に向かっていくとき、千星は小さな声で「ありがとう」と呟いた。たぶん俺には届いていないと思っているだろうが、ちゃんとお礼は耳に入った。

 街に施されたイルミネーションは、夜の底に幻想的な光を散りばめていた。
 大通りの人波の中を千星と歩いている。木々を伝う青い電飾が幻想的に足元照らす。
 このあと俺は気持ちを伝える。どう言おうかと考えると、鼓動が走り出すようだった。大きく跳ねる心音が周りの喧騒をかき消していく。
 隣で歩く千星は、今何を思っているのだろう。もし「好き」と伝えたら驚くかな? そのときはどんな顔をするだろうか。絡み合う思考が心臓まで締め付ける。
 駅前に着くと、ロータリーの中央にある大きな木が、LEDによってクリスマスツリーになっていた。
 告白するタイミングは何度もあったが、この関係性が壊れるかもしれないと思うと、言葉が喉元から落ちていった。
 でも、ここを逃したらもう言えないような気がしたので、胸臆の言葉を拾い集め、慎重に縫い合わせる。最初で最後の告白になるかもしれないから。
 横断歩道を渡り、駅の出入り口の手前まで来た。
 まだ覚悟が決まっていなかったため焦っていたが、千星が立ち止まってツリーを見始めた。
 運が良いと思った。この隙に心の準備ができる。何度も深呼吸して、鼓動の速度を緩めた。
 ツリーのてっぺんに光輝く星があり『想いが届きますように』と願いを込める。もし叶うなら、すべてを賭けて千星を幸せにする。
「今日は楽しかった。ありがとう」
 千星がこちらに体を向けて言ってきた。
「俺も楽しかった」
 思わず笑みが零れた。本当に楽しかったから。
 千星は大きく息を吸ったあと「あのね、蒼空……」と、目を見てきた。
 だが、そこから言葉が止まった。
 待っていたが千星は俯いたまま何も話さない。なので俺から先に話そうと思った。
「千星、ずっと言おうと思ってたことがある。俺、好きな人がいて……」
「ちょっと待った」
 千星は息を整えながら、自分を落ち着かせようとしている。もしかしたら気づいたのかもしれない。俺が好きなのは千星だと。
 この反応を見る限り、上手くいきそうにないと思った。あたふたしているのは、どう断るかで悩んでいるからかもしれない。
 ごめん、迷惑をかけて。きっと辛い思いをさせてしまうかもしれないけど、それでも言わせてほしい。
「千星、聞いてほしい。俺、好きな人がいて……ずっと言えなかったけど……」
 この先の言葉を伝えたら、もう今までのようにはいられないかもしれない。なら、仲の良い幼馴染のままの方が……
 こんなときに臆病が顔を出す。あの頃となんにも変わってない。大事なときほど勇気は背を向ける。そして立ち止まっている間に、その背中は離れていってしまう。
 振り向かせるためには、自分も前に進まないといけない。それを教えてくれたのは千星だった。
 もし断られても、二人の関係性は変わらい。この五年で積み重ねてきたものは簡単に崩れないはずだ。
 信じよう、これまで歩んできた道を。
 覚悟を決めて言おうとしたとき、空から雪が降ってきた。夜空に舞う白い花は、ゆっくりと二人の間に落ちる。
「雪――」
 俺がそう言ったとき、千星が走り出した。
 理由は分からない。でも追いかけないとと思い、その背中を追った。 
 横断歩道の手前で追いつけそうだったが、視界に二つのものが目に入る。
 一つは空を見上げながら渡る女の子、もう一つは速度を落とさず横断歩道に向かってくる車だ。
「千星」
 危ないと思い叫んだが、一向に止まる気配がない。そしてそのまま横断歩道に入った千星は女の子を抱き寄せた。
 ほとんど無意識だった。自分が何をしているかも分からなかった。
――守らなければ
 その想いだけが足を動かし、俺は千星の背中を押していた。
 目を覚ますと、目の前には幻想的な星空が広がっていた。
 あまりの美しさに見惚れてしまったが、すぐに千星のことを思い出した。
 鉄製の黒いベンチから立ち上がって、辺りを見渡す。
 一辺が三十メートルほどの正方形の部屋だった。
 ガラス張りになっているが、高い天井と床、一辺の壁はコンクリートのように見える。その壁には鉄製の黒い扉が下側の中央に設置されていた。照明は無く、窓から入る星彩のみで部屋を照らしているため全体は薄暗い。
 あの扉から入ってきたのだろうかと考えたが、見覚えのない場所に頭が混乱する。
 千星の背中を押したところまでは覚えているが、その先の記憶がない。
 なぜここにいるんだろうか? どうやってここまで来たのだろうか? 一体ここはどこなのだろうか? 疑問点が多すぎて線が繋がらなかった。
 錯綜していると扉が開いた。そこから女の人が入ってきて、こちらに向かってくる。
「やっほ」
 目の前に来た女性は、片手を上げながら陽気に言った。
 状況がさらに分からなくなる。この人は俺のことを知っているのだろうか? 初対面の人間に「やっほ」なんて挨拶はしないだろうから、もしかしたら会ったことがあるのかもしれない。でも俺はまったく記憶にない。
「どちら様ですか?」
 とりあえず状況を整理するために聞いてみた。
「私は流星の案内人。君が現世に残した未練を聞きにきた」と彼女は答えた。
「案内人?」
「信じられないかもしれないけど、君は交通事故で亡くなったの。それで死んだ人間の中から……」
「ちょっと待ってください。死んだってどういうことですか?」
「車に轢かれたんだよ。覚えてない? いや覚えてないか。確か……女の子を庇って轢かれたって言ってたかな。うん、たぶんそんな感じ。私が直接見た訳ではないから分からないけど、視察官がそう言ってた」
 理解できなかった。実際に自分の体はここにあって、動くことも話すこともできる。でも女の子を庇って轢かれたと言うのは心当たりがある。たぶん……
「千星ちゃんだっけ? 幼馴染の子。あの子無事だったみたいよ。良かったね」
「千星はどこにいます? いるなら会わせて下さい」
「会いに行く?」
「はい」
「でもその前にちゃんと事実を受け止めて」
 そう言ったあと、色々と説明を受けた。
 ここは流星の駅と言って、死んだ人の未練を叶える場所。。
 現世で生きる人間を一人だけ指定して、その人に未練を託すことができる。
 その人とはここで会い、面会時間は一時間。
 亡くなってから四十九日を迎えると、現世の人間には会えなくなる。
 未練を残して亡くなると、来世に影響が残る。
 そして最後に、奥村蒼空は交通事故で亡くなったと、再度説明された。
 正直、何を言っているのか理解できなかった。いきなり非現実なことを並べられても「はい、分かりました」とはならない。彼女もそれを察したのか、「まあ信用できないよね。とりあえず地上に降りて現実を見て」と言い、扉の方へ歩き出した。
「地上ってなんですか?」
 彼女は足を止めたあと、長い黒髪を揺らしてこちらに振り向いた。
「ここは空の上にあるの。窓から下を覗いてみて。まあ、夜だから何も見えないだろうけど」
 言われた通り窓から下を覗くと、底の見えない暗闇が続いていた。
 浮いてると言うことなのだろうか? 余計に混乱してきて頭が痛くなる。
「少しだけ実感できたかな?」
 彼女は俺の隣に来て、そう言った。
「いえ、まだ自分が死んだなんて思ってないですし、さっき説明していたことも信じてないです」
「言い忘れてたけど、審査するのに二週間かかったから、あと四週間しかない。そしたら千星ちゃんて子にも会えなくなるし、未練も叶えられなくなる。それでもいいなら、ずっとここにいたらいい。でも消える前に会いたい人がいるなら、私に付いてきて」
 どのみち、ここから出ないといけない。付いていく以外の選択は無いように思えた。
「分かりました……」
「じゃあ行こうか」
 彼女は扉の方に再度向かったが、途中で足を止め振り返った。
「そうだ、名前言ってなかったよね。私は結衣。結衣ちゃんでもいいし、ゆっちゃんでもいいよ」

「うそ……」
 列車が空を飛んでいた。強い光が消えたあと、窓の外には星空が映し出され、下には海が広がっていた。
「すごいでしょ」
 目の前に座る結衣さんが言った。膝の上にはファイルがある。
「これ本当に飛んでるんですか?」
「飛んでるよ」
 ファイルを開き、中身に視線を落としながら答えた。
「何を見てるんですか?」
「このファイルの中に、蒼空くんの今までのことが書かれてるの。どこで生まれて、どう育って、どういう人間かってことが。小学生のときに陽一って子と仲良かったでしょ?」
「何で陽一を知ってるんですか?」
 思わず体が前に出た。陽一の名前が出て驚いたから。
「視察官っていう記録係がいるの。その人間が生まれてからの行動を記録して、死んだ後に私たちに報告する」
 結衣さんは、俺に見せるようにファイルを持ち上げた。
「俺のことをずっと見てた人がいるってことですか?」
 さっきまでなら、視察官がいるなんて聞かされても信じなかっただろう。でも空を飛ぶ列車に乗っていることで、本当に自分は死んでいるんじゃないかと思い始めてきていた。今は突拍子もないことを言われても、すべてが真実に聞こえる。
「そういうこと。でも一人で何人も担当してるから、全部の行動を記録できるわけでは無いんだけどね。同時期に亡くなった人がいた場合、調査書を渡されてそこから私たちが選ぶんだけど、案内人にも好みがあるからねー。どうせなら自分が良いと思う人にしたいじゃん」
「俺のことを見てたのってどんな人ですか?」
「規定で言えないけど、節目で担当が変わるから何人かいる。君の視察官は真面目な奴が多かったから、しっかりと書かれてるよ。小学生のときはちょっと贔屓目だけど」
「結衣さんはなんで俺のことを選んだんですか?」
「顔」
 即答で返ってきた。なんだか複雑な気持ちになる。
「まあそれはおまけみたいなもん。君の生きかたが好きだったから」
 結衣さんは優しい笑顔で言った。
「俺って、本当に死んだんですか?」
『そんなことないって思う自分』と『本当かもと思っている自分』の間で揺れていた。もし死んでいたら、千星とは……そう考えると、胸が痛くなる。
「もうすぐ地上に着くから、自分の目で確かめてみて」

 岬公園の展望広場に列車は降りた。月がどこか孤独に見える。
「良い場所だね。ここにするか」
 列車を降りたあと、星空を見上げながら結衣さんがそう零した。
「そうだ、先に説明しとくね。自分たちは俗に言う霊体みたいなものだから姿は見えない。それと行く場所は私が指定する。ここに来たのは、君に死んだという事実を確認させるため。色んな所に行って未練が増えたら意味がないでしょ?」
「あの……陽一の所には行きますか?」
 今どうなっているのかが知りたかった。あれから七年経つが、陽一のことは忘れたことがない。
「行くのは蒼空くんの家と千星ちゃんの所だけ。全部の未練を叶えるのは難しいの。だから蒼空くんの中で、大きい未練を一番に取り除く。基本は家族だけなんだけど、亡くなった時の状況からして、千星ちゃんには会った方がいいと思った。私の判断でそう決めたの」
「……分かりました」
「じゃあ蒼空くんの家から行こうか」
 
 家の前で列車は止まった。この列車も周りの人には見えないらしい。
 先に結衣さんが降りると、門扉をすり抜け玄関の前まで行った。
「すり抜けられるんですか?」
「さっきも言ったけど、霊体みたいなものだから。蒼空くんも早く来て」
 列車から降りて突っ切ると、体が門扉をすり抜けた。
「じゃあ中に入ろう」
 玄関の扉を抜けると、たたきに靴が3足並べられていた。
 一つは父の革靴。その隣には母が良く履いていたサンダル。そしてもう一つは、美月が履いていた白い綺麗なスニーカー。
 小学校から履いていたスニーカーで学校に通っていたが、靴底が剥がれたため夏頃に新しいものを買ってもらっていた。まだほとんど汚れていないのを見ると、悲しい気持ちが溢れてくる。
 結衣さんは正面の扉を抜けていった。そこはリビングだ。すりガラスから明かりが漏れている。
 後に続きリビングに入ると、ダイニングに着く母とソファに座る父がいた。二人の表情はどこか沈んでいる。
「ねえ」
 二人に声をかけた。だが、まったく反応はない。
「ねえ」
 再度かけたが、反応はない。
「蒼空くん」
 結衣さんはサイドボードの上を指で差しており、そこには仏壇が置いてあった。
「見て」
「見たくないです……」
「ダメ、見て」
「嫌です」
「蒼空くんは死んだ。それを受け止めさせるために、ここに来たの」
「俺はまだ死んで……」
 ここまでくれば分かっていた。体がすり抜けることで確証を得たし、声が届かないことで理解した。でも信じたくはなかった。
 まだ十七歳だ。やりたいことはたくさんある。死んだことを受け入れるには、時間が足りなすぎる。どこかで嘘だと思いたかった。どこかでまだ期待していた。
 だけどもう、自分が生きているという理由を見つけることができなかった。
 いつの間にか涙が溢れていた。その涙を生きている理由にしたかったが、「死んでも泣くことはできるの」という結衣さんの言葉で、薄く差し込んだ光は遮断された。
「本当に死んだんですね……俺」
「君は死んだ。それは間違いない」
 ただ事実を述べるニュースキャスターのように、その言葉に温情はなかった。
「美月の部屋に行っていいですか?」
「うん」
 涙を拭い、美月の部屋に行った。
「妹ちゃん、学校に行ってないみたいだね」
「はい」
 美月はベッドのヘッドボードにもたれながら、俺があげた絵具を手に持って眺めていた。その目には哀愁が纏っている。
「美月が学校に行ってない理由とかは分からないんですか?」
「それは知らない。基本的には死んだ人間の調査書しか見れないから。学校に行っていないということが書かれていても、理由までは分からない」
「そうですか……」
 せめて理由だけでもと思ったが、期待は早々に散っていった。
「そろそろ千星ちゃんの家に行こうか」
「もうですか?」
「ここに来たのは、死んだということを自覚させるため。懐かしむ為ではないから」
「分かりました」
 最後にもう一度リビングに寄らせてもらい、両親に「今までありがとう」と言葉を残して家を出た。

「重症だね、これは」
 カーテンが閉め切られた真っ暗な部屋で、俺と結衣さんはベッドで泣き沈む千星の姿を見下ろしていた。
 家族に聞かれないようにしているのか、腕で口を塞ぎながら、漏れる声を抑えている。
 時折、「蒼空ごめん……」という声が耳に届き、何とも言えない気持ちになった。
「自分のせいで蒼空くんが亡くなったと思ってるのかも。だとしたら結構引きずるかもね」
 自分を責めなくていい。俺が死んだのは千星のせいじゃないから。
「じゃあ流星の駅に戻って、呼ぶ人を決めよう」
「もう決まってます」
 美月と迷っていたが、この姿を見て決断した。
「誰?」
「千星を呼んで下さい」
 結衣さんは千星に視線を移し「この子で本当に大丈夫? 余計に辛くなるかもよ」と言った。
「千星には変わってもらいます。ずっとこのままではいられないから」
「分かった。じゃあ私の手を握って」
 と言って、左手を差し出してきた。
「何をするんですか?」
「案内人はね、記憶を消すことと、記憶を呼び起こすことが許可されてるの。まあ制限はあるんだけどね。これからすることは呼び起こす方。特定の記憶を彼女の頭にセットして、明日のこの時間にその記憶が呼び起こされるようにする。そうすると、その記憶の場所に彼女は行くって仕組み」
「これは?」
 結衣さんの左手を見ながら言った。
「特定の記憶をセットするって言ったでしょ? 蒼空くんがその記憶を決めるの。決めるって言っても、場所は私が指定する。急に私が家に来ても、怪しんで列車に乗らないでしょ? だから空から降りて来るところを見せる。そうすれば信じてもらいやすいから」
 確かにそうだ。最初は信じられないが、空飛ぶ列車を見たら信憑性は増す。
「場所ってどこですか?」
「さっきの公園。海が見える所」
「岬公園ですね」
「二人で行ったことはあるでしょ? 審査書に書いてあったし」
「あります」
 千星の好きな場所だ。そして俺も。
「何度か行ってると思うけど、その中の一つを頭に思い浮かべて」
――自分と向き合って生きることが大事だと思うんだ。
 岬公園で俺が千星に言った言葉だ。二人で行ったのは、あれが最後になった。
 俺はもう、そばにいることはできない。これからは一人で外の世界を歩いていかなければならない。だから前を向いてほしい。そういう想い込めて、このときの記憶に決めた。
「決まったら、私の手を握って」
 左手を握ると結衣さんは目を瞑った。
 程なくして目を開き「今の千星ちゃんにはぴったりかもね」と言った。
 俺が選んだ記憶が、結衣さんの頭の中に流れたのかもしれない。
「じゃあ千星ちゃんに、この記憶をセットするね」
 結衣さんは千星の頭の上に左手を置いた。
「触れるんですか?」
「私だけね。でも相手は気づかないけど」
 言った通り、千星はずっと泣いたままだ。
 十秒ほどして手を離すと「これでOK」とウインクしてきた。
「じゃあ流星の駅に帰ろう」
 最後に千星の頭を撫でようとしたが、手がすり抜け触れることは叶わなかった。
 再び列車に乗って、流星の駅に向かった。
 窓の外を見ると、街がどんどん小さくなっていく。もし千星がこれを見たら、シルバニアファミリーみたいと言うだろう。
「あの……」
「ん?」
 目の前に座る結衣さんは、眠たそうな顔でこちらを見てきた。
「来るのは明日なんですよね?」
「そうだよ」
「できれば、会うのは一週間に一度にしてほしいんですけど」
 結衣さんは微睡んでいた目を見開いて、驚いた顔をしている。
「別にいいけど、何で?」
「千星はずっと人を避けてきたから友達は俺しかいません。でもこれからは一人で歩まないといけない。だから自分の力で立ち直ってほしいんです。誰かに頼らなくても大丈夫だって思ってほしい。俺の未練は……千星を変えられないまま死んでしまったことです」
 本当は毎日会いたいが、それでは俺が満足するだけで終わってしまう。今一番大切なのは、千星が自分で自分を支えられるようになることだ。
 千星には人を変える力がある。もしそれを実感できたら、自分に自信が付くのではないかと思った。
 その先で道を見つけられたら、
 世界との結び目を見つけられたら、
 孤独な星は星座に変わる。
「分かった」
「ありがとうございます。でも初めに俺から伝えさせて下さい。その方が千星も納得しやすいだろうから」
「うん」
 結衣さんは微笑みながら頷いた。

「ごめん、蒼空。私のせいで……」
「千星のせいじゃないよ」
 千星は泣きながら俺の胸に飛び込んできた。とても愛おしく、とても切ないハグだった。
 その後、ルールを説明した。一週間に一度と言うと、千星は寂しそうな顔で小さく頷く。
 本当は毎日会いたかったが、喉元でその言葉を抑え、胸に下ろした。
「雪乃の恋を叶えてほしい」
 そう言うと、千星は愕然としていた。
 それもそうだ。学校では俺以外の人と滅多に話すことはないし、千星にとって他人と関わることは非常に難関なことだ。
 でも雪乃と友達になってほしかった。
 色んな人を見てきた結果、雪乃なら千星を受け入れてくれると思った。
 そして何より信頼できる。初めの一人で躓いてしまったら、もっと深い孤独の底に落ちてしまう可能性がある。そしたら二度、外の世界で笑えなくなる。
 だからこそ慎重に人を見てきた。
 もし友達になれることができたら、自信を取り戻し、自分らしく振る舞うことができる。そうなることを願っていた。
 『恋を叶えてほしい』と言ったのは雪乃のためでもある。
 完璧な人間が恋に悩んでいても、
「雪乃なら大丈夫だよ」
 と言われるだけで、何の解決にもならない。
 でも千星なら真剣に向き合い、別の角度から一緒に悩んでくれるはずだ。
 雪乃に必要なのは、寄り添ってくれる人であり、理解してくれる人だと思う。
 友達になるにしても、雪乃だけに頼ってはいけない。千星も踏み出さなければ、本当の意味で友達になることはできない。
 そいういことも含めて『恋を叶えてほしい』とお願いした。
 
 千星は一週間で雪乃の背中を押し、しかも友達になった。
 正直、こんなに早くできると思っていなかったので驚いた。
 でも一番嬉しかったのは、雪乃との出来事を楽しそうに話していることだった。
 俺と千星の会話で他人の名前が出ることは滅多にない。むしろ避けてきたことだ。
 名前を出せば悲しそうな顔をするから、ある時から言わなくなった。
 だけど今は「雪乃がね……」と、千星の口から他人の名前が出る。
 感慨深くて泣きそうになったが、グッと堪えて話に耳を傾けた。
 聞き終えたあと、もう一つの未練を言った。
「花山翔吾と友達になってほしい」
 花山に陽一を重ね合わせていた。
 あのとき救えなかったことを今でも後悔している。だから手を差し伸べたかった。
――なあ、俺も人に優しくしていいのかな?
 花山はこんなことを言っていた。普通なら人に聞かないことだ。
 言葉から推測すると、人を避ける理由は自責からきてる可能性がある。
 それは中学時代のことかは分からないが、花山が三宅のような人間には見えなかった。
 だとしたら殴った理由を知りたい。そこに苦悩の種があるような気がする。
――俺みたいな奴でも、友達を作っていいのかな?
 花山はこんなことも言っていた。
 このときはまだ、どういう人間かは知らなかったが、みんなが思ような人ではないと思った。
 ちゃんと向き合って花山翔吾を知る必要がある。
 あの頃は陽一を救えなかったが、今の自分ならできる自信があった。
 だが、その想いは叶えられなかった。だからこの未練を千星に託した。
 
「千星ちゃん、一週間で成長したね」
 地上に千星を送ったあと、戻ってきた結衣さんが俺の隣に座って言った。
「自分も驚いてます。他人と関われなかった千星が、たった一週間で友達を作るなんて」
 小学生のときは友達がたくさんいたが、あの出来事で人を信用できなくなった。
 だから過去という足枷が無くなれば、周りと溶け込むことはできると思っていた。
 でもこんな早いとは思わなかったが。
 雪乃にも感謝しなければいけない。
「妹のことはいいの?」
「迷ってます。千星は美月と仲がいいので、言えば力になってくれると思うけど、今は外の世界との繋がりを優先しなければいけない。千星が自分で自分を支えられるようになるまでは、色んなものを背負わせたくないんです。それと、自分のせいで俺が死んだっていう自責の念は、まだ消えてないと思います。俺の両親と会うだけも、きっと辛いだろうから」
 美月のことを言えば、全力で救おうとしてくれるだろうけど、まだ不安定な時期だと思う。
 雪乃と友達になれたとはいえ、土台をしっかりさせないとすぐに崩れてしまう。
 そのためには学校生活を安定させる必要がある。
 順番を間違えれば、余計に苦しませてしまうような気がした。
「未練は人を成長させる。色んな人間を見てきて、そう思った。蒼空くんの言うことも間違ってないけど、千星ちゃんは自分で考えられる子だよ。そういう人間は背負ったものを糧にできる。一つの物事を色んな角度から見ようとするから。もちろん背負いすぎるのは良くないけど、信じてみてもいいんじゃないかな」
 時間が経てば経つほど、自分の力で立ち直ることは難しくなる。そしていつか、外の世界を嫌悪してしまう。美月にはそうなってほしくない。
 どこに向かっていいのか分からなくなっているとしたら、誰かの導きが必要になる。千星なら……
「結衣さんはいつでも地上に降りられるんですか?」
「うん、降りられるよ」
「明日にでも、妹のこと伝えられたりしますか?」
「できるよ」
「お願いします。でも無理はしなくていいとお伝えください」
「分かった」

 千星はまたしても、誰にも打ち明けられなかった苦悩を花山から引き出した。
 雪乃と友達になれたことが自信に繋がったのか、自ら人と関わりに行けるようになっている。
 少しずつだが、地上の星は線を描き始めていた。
 そして美月にも会いに行ってくれたようだ。
 今の千星なら状況を変えられる。そう思わせるほど、この短期間で成長した。
 できればその過程をそばで見ていたかった。
 千星が前に進んでいく姿を、隣で見守っていたかった。
 一週間の出来事を話す千星を見ていると、嬉しさと切なさが胸の中で混ざり合った。
 
 千星を地上に送り、結衣さんが戻ってきた。
「次で最後だね」
「はい」
 そう答えたあと、お互いベンチに座った。
「蒼空くんは千星ちゃんのこと好きなの?」
 唐突な質問に顔が火照る。
「……はい」
 少し時間を置いてから答えた。誰にも言ったことのない気持ちだったため、喉で閊える。
「伝えるの?」
「ずっと考えてたんですけど、言わないと決めました。最後は笑ってお別れをしたいんです。俺の片想いだから、きっと気まずくなる」
「本当にいいの?」
「仲の良い幼馴染で終わらせます。そっちの方が千星も良いだろうから」
 本当は伝えたいが、いつもの二人で終わらせたかった。最後に見る景色は千星の笑顔がいい。
「千星ちゃんのどこを好きになったの?」
「この人がいるから辛いことでも頑張れる。それは好きになったからではなく、好きになる前からそう思えた。だからですかね」
 もし千星がいなかったら、今の自分はいない。
 ずっと陽一のことを悔やみ続け、自分を嫌悪しながら生きていたと思う。
 人の世界を変えられる人はほとんどいない。でも千星はそれができる人だった。
 周りからしたら、夜に紛れる小さな星かもしれない。でも俺にとっては、夜空を美しく変えるたった一つの星だった。
「『好きだから頑張れる』と『頑張れるから好きになった』では確かに違うね。うん、素敵な理由だ」
 結衣さんは穏やかな笑顔でそう言ってくれた。
「恋をしたいから好きになったわけではなく、千星だったから好きになりました。そんな人に会えたこと、そして好きになれたことが、俺の短い人生で誇れることです」
「君みたいな人がいるから、私は案内人という仕事を選んだ。良かったよ、蒼空くんを選んで」
「案内人と視察官以外にもあるんですか?」
「このあと関わるので言えば、裁司《さいし》かな」
「裁司?」
「君たちの言う天国と地獄ってあるでしょ? それと似た場所があるの。来世に行くまでの間はそこで過ごすんだけど、どちらに振り分けるかは裁司が決める。何人かの裁司がそれぞれの視点から議論して、最終的に一番偉い司長《しちょう》が判断するの。ざっくり言うとこんな感じかな。千星ちゃんとお別れした後に裁司の見習いの人が迎えに来るから、その人に付いていってね」
 本来なら信じられないことだが、今までのことを振り返ると「そうなんですね」という言葉が簡単に出てしまう。
「俺はどっちですかね?」
「私はあくまで案内人だから、期待させるようなことは言わないようにしてる。私の役割はなるべく来世に未練を残さないようにすること。それだけを全うする」
 陽一のことがあるから、もしかしたら地獄かもしれない。そうなったとしても受け止めようと思った。親友を救えなかった償いなら、俺はいくらでも受ける。

 窓に映る無数の星々に見守られながら、千星との最後時間を過ごしていた。
「星、綺麗だね」
「綺麗だね」
 一緒にいられる時間も僅かとなり、五年間の物語にエンドロールがかかり始める。
「星と空だね」
 あの日と同じ言葉を告げた。
 そして千星も「星と空だね」と、あの日と同じように返してきた。
 小学生の時に千星に憧れていたことを話した。
 今まで言えなかった言葉を、思い出の中から紡いでいく。
「千星の居場所になれていたと思うと嬉しかった。今の俺がいるのは千星のおかげだから。遅いかもしれないけど、変えてくれてありがとう。友達になれて良かった」
 友達……自分で言っときながら悲しくなった。好きというニ文字を抱えながら、枯れることない想いが胸に咲く。
 何よりも美しく、何よりも切ないこの一輪を、俺は渡さないと決めた。好きな人の笑顔で最後を飾りたいから。
「……こんなどうしようもない人間だけど、一つだけ誇れることがあるの。それはね、奥村蒼空という人を好きになれたこと」
 真剣な眼差しで千星が言った。
 空飛ぶ列車や、霊体のようになる自分。信じられない出来事をいくつか経験したが『奥村蒼空という人を好きになれたこと』、この一言が一番信じられなかった。
 思わず涙が零れそうになったが何とか堪える。最後まで千星の目を見て、話を聞きたかったから。
「……迷惑かもしれないけど、これが私の気持ち。蒼空のことが大好きです」
 迷惑じゃない。俺も千星のことが好きだから。
 でも自分の想いは伝えられない。
 『好き』と言ってしまったら、千星はこの先ずっと引きずってしまうかもしれない。せっかく過去の足枷を外すことができたのに、再び立ち止まらせることをしてはいけない。
 俺が足を引っ張り、これから歩んでいく道の障害になりたくなかった。
 何か言葉を返したかったが、口を開けば想いを伝えてしまいそうだった。
 ずっと言えなかった二文字の言葉を、奥歯を噛み締めて喉元で抑えた。
「いやー、緊張するね告白って。手汗がすごいや。たった二文字言うだけなのに、MP全部消費したよ……そうだ覚えてる? 小学生のときに二人でRPGやっててさ、私が勇者の名前を『三代目よしぞう』にしようって言ったら、蒼空がよしぞうって誰だよってツッコミいれたけど、普通は『初代と二代目いるのかよ』だからね。そのツッコミだと……どんな名前でもそうなるから……だから……あれは間違って……」
 泣くなよ、バカ。
 最後は笑ってさよならを言いたいのに……そんな顔されたら、俺も泣くだろ。
「るからね……そんなんじゃ、女の子にモテないから……私くらいだよ……そんなツッコミで許して……許してあげれるのは……こんないい女、他に……他にいないんだから……」
 千星の涙が大粒に変わったとき、自然と体を抱きしめていた。
 ずっと好きだった人の体温が胸の中で重なり合う。そして少しだけ優しい香りがした。
「……今日が最後になるけど、明日からも笑っていてほしい。千星には笑顔が似合うから」
 俺が話し始めると、啜り泣く声は止んだ。
「千星」
「何?」
「もうそばにいることはできないけど、今の千星なら俺がいなくても大丈夫だと思う。これからは自信を持って生きてほしい。変わってるところもあるけど、でもそれが千星の良さだし、自分らしくいれば笑っていられるから。過去を振り返るときは、後悔ではなく一歩進むために。それも覚えといて」
「私、変わってないもん」
「変わってるよ。でもそれがいいところだから。千星が千星でいるときが一番輝いてる」
「うん」
 たとえ変な人と言われても、それは千星の良いところを知らない奴の言葉だ。
「いつか誰かと恋をして、幸せに生きてほしい。今日という日を思い出にするなら涙ではなく笑顔で。もう過去に縛られなくていい、大切のものはこれから進んでいく道に落ちてるから。だから泣かないで。これは悲しい別れではなく、千星にとっては始まりだから」
 千星は思いっきり鼻を啜った。その音が可笑しくて、つい笑ってしまった。
 でもこの空気感がいつもらしい。
「千星がいてくれてよかった。本当に楽しかったし、たくさん思い出をもらった。これでお別れだけど、元気でね。それと……」
――俺も好きだよ
「好きになってくれてありがとう」
「バカ、せっかく涙が止んだのに、また出てくるだろう」
 抱き寄せていた体を離して千星の顔を見ると、目から涙が零れていた。
「まだ泣いてるじゃん」
 そう言って、涙を拭った。
「私も一緒にいれて楽しかった。蒼空があのときいてくれたから、生きる意味を見つけられた。本当に会えて良かった。それと……好きという気持ちを教えてくれてありがとう」
 その言葉が合図になったように、部屋の扉が開いて結衣さんが入ってきた。
「もう大丈夫?」
 結衣さんに聞かれ「はい」と声を重ねて言う。
「じゃあ千星ちゃん、行こうか」
 最後は笑顔で、何度も頭の中で復唱してから千星の顔を見た。
「もう行くね」
「うん」
「……さよなら」
「さよなら」
 俺も千星も笑って別れを告げた。
 だが千星が背中を向けたとき、今まで我慢していたものが目から溢れてきた。
『またね』本当はそう言いたかった。
 また笑って隣を歩きたかった。
 下らない会話で日常を灯したかった。
 でも『さよなら』でなければいけない。
 千星がこれから進む先に、奥村蒼空はいないのだから。
 最後にもう一度顔を見たかったが、千星は振り向かずに部屋を出て行った。
 でもそれで良かったと思う。
 名残惜しく過去を振り返っても、未来の隔たりになるだけだ。
 それと、二人の終わりには笑顔が相応しい。

 千星と別れてから数時間ほど経ち、夜に瞬く星を眺めていた。
 後ろから足音が聞こえてきたので、結衣さんが戻ってきたのかと思い振り向くと、そこには同い年くらいの男が立っていた。
 星の明かりに照らされた男は、あの頃の面影を残したままだった。
「久しぶり」
「なんで……」
「今は裁司の見習いをやってる」
「俺の視察官って……」
「途中で外されたけど、小学生のときは俺が担当だった。視察官は対象に感情移入しすぎてはいけないし、ましてや好きになってもいけない。基本的には何があっても俯瞰して見ないといけないんだけど、俺はそれが出来なかった。しかも俺の母親も、蒼空を好意的に見てた。まあ簡単に言えば規則を守れなかったってことだけど」
 視察官の子供は両親と地上で暮らし、そこで視察官の教育を受けながら、俺たちと同じように生活するとも説明された。
 子供の判断だけでは難しいため、家に友達を呼んで両親にも審査してもらうらしい。なぜ他人の家で遊びたがらなかったのかが今わかった。
「視察官としては三宅の行いに目をつぶらないといけなかった。でも耐えらなかったから母親に相談したんだ。そしたら、『自分は小学生の時にクラスの子がいじめられていたのを見過ごした。視察官としては正しい行いだったけど、今でもあのことを後悔してる。だからあなたのしたいようにすればいい。責任は私が取る』って言ってくれた。視察官としては失格だけど、母親としては最高だと思った」
「ごめん、あのとき俺が救ってあげられなかったから……」
「普通は自分のことで精一杯なのに、それでも蒼空は話しかけてくれた。それだけで十分救われたよ。それに悪いのは三宅だろ? お前は何一つ悪くない」
「うん……」
「そうだ、調査書見たよ。今日まで千星のことを守ってくれてありがとう。お前に託して正解だった」
 あの頃と変わらない笑顔で、そう言ってくれた。だけど……
「もう一つ謝らないといけないことがある。俺、千星のことを好きに……」
「それも謝ることじゃないだろ。ずっとそばにいたのはお前だし、千星だって蒼空のこと……」
 急に口を噤んだ。どうしたのかと思い問いかけると「ううん、何でもない」と首を横に振った。
「そういえば、結衣さんが褒めてたぞ。あの若さで立派なもんだって」
「そうなの?」
「あの人元々は視察官だったんだよ。だから客観的に人を見るんだけど、その上で褒めるってことは相当なもんだぞ」
「そっか。向こうに行く前に聞けて良かった」
「なあ、蒼空」
「何?」
「俺は規則違反を繰り返した。視察官としては失格だけど、まったく後悔はしてない。蒼空と千星に会えて良かった。お前らがいてくれたから、本当に楽しかった。ありがとう、友達になってくれて」
 枯れることのない言の葉が胸に落ちた。
 旧友の言葉は、人生の終わりに相応しいピリオドを打ってくれた。
「それは俺だよ。お前がいてくれたから……俺は……」
 あの頃の思い出が蘇り、涙で言葉が詰まった。
「泣くなよ、バカ」
「うん」
 顔を上げると、向こうも顔を崩して泣いていた。
「泣くなよ、バカ」
「うん」
 あの日の別れのように二人は泣いた。まるで子供のように。
 薄命の人生に降り積もったいくつもの日常を、俺はいつかは思い出せなくなる。
 だけど、残してきたものは消えることはない。
 『ただ生きる』ということが許されない世界で、
 『どう生きる』かを強いられながら人は命を削っていく。
 だからこそ何かに縋り、救いを求めるのだろう。
 だけど自分の中にある可能性を見失ってはいけない。
 たとえ小さな光だとしても、
 何も見えない闇の中を彷徨っていても、
 輝きを灯せるのは自分自身だ。
 そしてその光が道を照らし、
 星は世界と結ばれて星座に変わる。
「じゃあ、そろそろ行くか」
「ああ」
 しばらく二人で泣いたあと、肩を並べて扉に向かった。
「あの世で全員と友達になる」
「全員は無理だよ」
「やってもないのに出来ないって思うのは勿体無いぞ。大抵のことは自分次第で変えられるんだよ」
「そうだったな」
 あの日を思い出し、二人で笑い合った。

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