通学路には嫌悪があふれている。秋を貪る残暑、固結びされたように手を握る男女、女子高生のお揃いのファッション。空から嫌悪が降り注ぎ、地上にも嫌悪が這いつくばる。
私のような人間にとって、この世界は地獄の予行練習のようなものだ。いや、地獄のほうが天国かもしれない。
視界に入る高校生たちは楽しそうに話しながら青春を謳歌している。準ぼっち属性の私には、他人の笑い声は煩わしい蝉の声と一緒だ。蝉は夏の訪れを知らせるが、同級生たちの笑い声は『お前は一人だ』という現状を知らせれくれる。その瞬間、心の隙間に空虚が佇む。
いつもならイヤホンで遮断するのだが、今日は充電を忘れてしまった。鼓膜に嫌悪が纏わりついて気持ち悪い。それと、少しだけ湧き上がる羨望が嫌になる。
だけど友達がいないというわけではない。たった一人だが、その一人が私と世界の結び目になっている。外の世界から逸れそうになったとき、彼が道標になっていた。
孤独は人を殺す。ゆっくりと静かに囁くように命を蝕む。でも彼が処方箋になって痛みを和らげてくれる。生きたい理由であり、死にたい理由にもなるけど、彼がいたから生きてこれたと思う。
「千星」
背中を叩く声で振り返ると、蒼空が優しい笑顔で駆け寄ってくる。
「おはよう」と言われ「おはよう」と返す。
世界と私の間にある解けた糸が、その言葉で結ばれる。
「千星が言ってたバンド聴いたよ。すげー良かった」
私が最近見つけたバンドを昨日話した。さっそく聴いてくれたらしい。
「でしょ! 私も初めて聴いたとき、ピーマンが反乱を起こして地球を侵略してくるぐらいの衝撃を受けた」
良いものを見つけると人に話したくなる。でも私には蒼空しか話す人がいない。だから好きのものを話すときは興奮気味になり表現がおかしくなる。
「ピーマンは子供に嫌われてるから反乱起こしても驚かない。朝起きたら両親がピーマンに変わってるぐらいの衝撃だった」
訳のわからない比喩を言っても、怪訝な顔もせず返してくれる。自分が受け入れられているようで安心できた。
「両親がピーマンになることは、たまにあるから驚かない」
「いや、ないだろ。どこの血筋だよ」
他人が聞いたら訝しがるかもしれない。でも私にとってはすごく心地いい。さっきまで心の真ん中で胡座をかいていた孤独は、今は片隅で正座している。
こんな冗談を言い合えるのは彼だけだった。他の人にはきっと一生言えないと思う。
二人でいると世界に迎合しているような気分になる。周りの笑い声から嫌悪が剥がれ落ち、この瞬間だけは普通の高校生になれる。
蒼空は小学校からの幼馴染だ。優しい雰囲気を纏い、全日本爽やかグランプリがあったら三連覇を達成してそうな顔立ちだ。私がそうめん工場の工場長なら、毎年彼にそうめんを送るだろう。それぐらい爽やかという言葉が奥村蒼空には似合う。目に少しかかる前髪もそうめんに見えてきた。この場にめんつゆがあったら、前髪を浸してしまいたい。
そんな気持ち悪い妄想をしていると学校に着いてしまった。
蒼空との会話で孤独を埋めていた私は、憂鬱という名の校門をくぐる。
少しでも長くこの時間が続いてほしいので、歩幅を狭めていたら、
「おはよう」という言葉が投げかけられた。私にではなく蒼空に。
蒼空は友達が多く、誰からも好かれていて慕われている。常に周りには人がいて、学校では近づくことができない。いや、正確に言えば近づくことはできる。だが人間嫌いの私は、蒼空以外の人と一緒にいたくない。だから学校では一人になることが多かった。
下駄箱で靴を履き替えてるだけで数多の「おはよう」を間接的に浴びる。
私は他人という存在を避けてきたし、世界を嫌悪してきた。小学六年生のあの日から。
教室に入ると「おはよう」という言葉が蒼空に目掛けて飛んでくる。隣にいた私は「おはよう」の流れ弾が来ないよう、速やかに自分の席に着いた。
基本は声をかけられないが、蒼空といるとおまけ程度に挨拶される時がある。普段、人と接していない人間からすると、急な声掛けは心臓に悪いし、話そうとすれば、
――うざい
あの日言われた言葉が呪いのように脳裏に響く。小学六年から高校二年の五年間、その呪いは今も纏わりついている。
だから近づかない。狭い世界で小さく輝きを放ち、私のことを見てくれる人がいればいい。
横目で蒼空を見ると、クラスメイトと談笑していた。その瞬間、孤独が肩を叩き、力強く手を繋いでくる。
さっきまでその隣に私がいたのに、今は別の人間がそこにいる。元カノを経験したことはないが、何故か元カノのような気持ちになった。
『蒼空の元カノ』
響としては悪くない。別れてはいるが一度結ばれているという観点でみれば、今の私より立場が上だ。好きな人に告白もできない哀れな私よりも。
でも気持ちを伝えようとしたことはある。だけど怖くて言えなかった。もしフラれたらこの関係も終わってしまうから。
今まで築いてきたものが崩れるくらいなら、せめて仲の良い幼馴染という肩書きは残したい。そんな臆病な言い訳で、私は初恋をずっと握りしめていた。
本来なら一限目の授業が始まっている時間だが、教師が遅れていて自習の時間になっている。
私はこの時間が苦手だ。雑談という不協和音が孤独にジャブを打ってくる。
蒼空も隣の子と楽しそうに話していた。その光景を視界に入れるのは自傷行為に等しい。
妄想で逃げようとしたが、蒼空と話している子を脳内で暗殺してしまいそうだったので、窓の外に視線を外す。
教室から見上げる空は青く澄んでいた。空が青ければ青いほど、消えてしまいたいと願う。太陽が空を照らせば、星の輝きは薄れていく。そこにいるはずなのに、輝けるはずなのに、光が星を消してゆく。そして星は太陽を嫌悪する。
だんだんと鬱いできたので、机から小説を取り出した。私が小説を読む理由は、一人でいる大義名分を作れるからだ。本を読んでいるときは孤独も薄れる。
作者もこんな理由で読まれるのは嫌だろうけど、あなたたちのおかげで孤独な少女が救われるのだ。だから許せ。
そんな私でも、好きな作家はいる。
枯木青葉という作家だ。
都市伝説をモチーフに物語を綴っていて、どの作品にも共通していることがあった。主人公は孤独を抱えており、世間に恨みを抱いていると言う点だ。私は共感する部分が多い。
デビュー作はそれなり売れたが、それ以降はパッとしなかった。
でも私は好きだった。ワクワクできたし、モチーフになっている都市伝説を読後に調べるのも楽しかった。
だからネットで酷評を見たときは悲しくなった。まるで自分が否定されているように感じたから。
それでも次回作を期待していたが、三年前、突如として彼はこの世界から消えてしまった。自ら命を絶って。
だが一年後、枯木青葉の小説が発表された。
出版社のホームページに書かれていたのは、枯木青葉のパソコンに未発表の作品が眠っており、それを家族の了承を得て発表したらしい。
話題性もあってか、その作品はベストセラーになった。
孤独を抱えた主人公が死んだ人間の未練を叶えていき、周りの人と繋がっていくという物語だった。
読み終わると、孤独に寄り添ってくれる優しさが、私の心に横たわってた。
部屋の中で嗚咽しながら嗚咽して、嗚咽する自分に嗚咽して、本を見るたび嗚咽するという、嗚咽祭りが私の中で開催された。
何より嬉しかったのはレビューの評価が高たったことだ。前作で溢れていた非難は賞賛に変わり、その声一つ一つが献花のように見えた。
この作品も都市伝説をモチーフにしていると思い調べたが、どこにも類似するものはなかった。
なぜこの作品だけモチーフがないのか? なぜテイストを変えたのか? そこに疑問はあった。でも彼が賞賛されるたび、そんなことはどうでもいいと思えてきた。
「遅れてごめん、じゃあ始めようか」
教室の扉が開き、教師が入ってくる。
クラスの子たちは教師の顔を見るなり、嘆きやため息を漏らしたりしているが、私は安堵した。
蒼空が隣の子と話すのをやめたこと。授業中は孤独から解放されること。楽しそうに話す声が聞こえなくなること。
普通の高校生が嫌うであろう授業は、私にとって憩いの場だった。
別に勉強が好きなわけではない。授業というものは誰とも話さないことが普通であり、ノートをとって、先生の話を聴くというタスクができる。だから手持ち無沙汰にならない。孤独というのは、自由を与えられたときにやってくるのだ。
もう少しで四限目の授業が終わる。
方程式の説明をBGM程度に聴きながら、私は五分後に来る怪物のことを考えていた。
高校生活において最も不自由で自由な時間、昼休みだ。
理想を言えば、蒼空と一緒にカリブ海を見ながらトルティーヤを食べることだが、この学校はカリブ海が見えない。文明が進化した時代において、カリブ海が見えないというのは、間違いなく校長の怠慢だ。私が校長ならそれくらいは見えるようにする。ここが私と校長の格の差だ。
蒼空といると他の人間もやってくるため、昼休みは一人で弁当を食べる。
一年生の頃は一緒に食べていたが、二人になることはほとんどなかった。
最初は二人だったとしても、次から次に人が来る。そしていつの間にか、大所帯になっていたこともある。
その場にいれば私にも話が振られる。それが苦痛だったし、蒼空が他の子と楽しそうにしているのも嫌だった。私のような人間からすると、グループという場所は孤独の餌場だ。
それに耐えられなくなり、蒼空に誘われる前に教室を出ていくようになった。
昼休みぼっちには、ミッションが課される。場所の確保だ。私はいくつかの基地を持っている。
まずは第一支部である校庭のベンチ。
ベンチはいくつかあるが、テーブルがある場所が望ましい。
だが大人数が座れるため、陽キャ軍団か友達連れ、青春しているカップルの支配下に置かれている。
仮に席の確保ができたとしても、後からくる人間たちに『一人なのにそこ使うのかよ。お前みたいな寂しい奴は、カブトムシと一緒に地べたでゼリーでも食ってろよ』と言う目で見てくるため、テーブル席は諦める。
となれば、校舎裏に置かれたベンチに向かう。ここはほとんど人が来ないので、一人になるには最適な場所だ。
でもたまに、ぼっち同士が鉢合わせすることがある。その時の「あ、仲間だ」という共感と、豪華客船が沈没したときの失望感を味わえる場所でもある。
第二支部は屋上前の踊り場。
この最上階に位置する空間は閉鎖感があり、ぼっちにとっては都だ。欠点があるとすれば逃げ場がないこと。
下の階から声が近づいてくるときの恐怖感は、ジェイソンに追われたブロンド高校生に近いものがある。『もしここに来たらどうしよう』という焦燥感で、弁当に手をつけるスピードが早くなる。
そのときの私は爆発物処理班のような気持ちになる。楽しむための食事が、一瞬にして残り数秒で爆発する爆弾に見えてくる。このときに誰か来たら、弁当を階下に投げ「伏せろ」と言ってしまいそうになる。そしたら次の日には処理班というあだ名が付くだろう。
もし私が芸能人になってインタビューを受けたとき、「高校生の頃のあだ名はなんですか?」「処理班です。主に弁当を処理していました」と答えなければいけない。この場所はそれなりのリスクが伴うのだ。
第三支部は学校の外にある公園。
ここはブランコと滑り台、砂場という簡素な公園だ。
ベンチがニ基あり、大抵はそこで弁当を食べる。意外にも学校の生徒はあまり来ず、ぼっちにとっては緊急避難場所にもなる。
だが世の中はそう甘くない。ここの欠点は親子が来ることだ。
親はなんとなく察してくれるが、子供は『高校生なのに一人かよ。お前みたいな寂しい奴は、カブトムシと一緒に地べたでゼリーでも食ってろよ』という目で見てくる。世界はぼっちに冷たい。
他にもいくつかあるが、主にこの三つが主要の支部になる。
今日はどこにしようか迷っていると、チャイムが鳴ってしまった。
教師もいつの間にか授業を締めていたらしく、すでに周りの生徒は立ち上がっている。完全に乗り遅れた。
公園が埋まっていたら、最悪トイレだなと考えていると、「千星、一緒に食べよう」という天使のような声が鼓膜に届いた。
顔を見なくても誰だか分かる。ニヤつきそうになる顔をギュッと結び、声の方に視線を向けると、蒼空が立っていた。
誘ってくれたのは久しぶりだったので嬉しかったが、他の人が来るのは嫌だ。
すぐに二つ返事で返したかったが、躊躇ってしまう。
その一刹那の沈黙を埋めるように、澄んだ声が教室に響いた。
「蒼空」
声の方を見ると、同じクラスである富田雪乃がこちらに向かって来る。
彼女は蒼空と同様、二年生の中心的な存在だ。蒼空とも仲が良い。
肩まで伸びた艶やかな髪の毛、雪を欺く白い肌、女の私も見惚れてしまうほど綺麗な子だ。
『容姿端麗』という雑誌があれば表紙を飾るだろう。学校の男たちはその雑誌を見て「可愛くね」とか言う。でも男ならジャンプを読め。可愛いって言ってる暇があるなら海賊王を目指せ。もしくは念を習得しろ。
私が妄想で嫉妬していると、蒼空が私に視線を送ってくる。
一緒に食べたいけど、この状況だと彼女も付いてくる。三人は嫌だ。それに彼女は……
「ねえ」
顔を上げると富田雪乃が目の前にいた。整った面差しが私の顔を覗き込み、その可愛さに思わず目を逸らしてしまう。さらに追い討ちをかけるように「藤沢さんも一緒にご飯食べない?」と笑顔で聞いてくる。
急な誘いに驚き「ひぇ?」という、どこから出たのか分からない変な声が出た。込み上げる恥ずかしさで異世界に転生したくなる。
「あっ、無理にとは言わないよ。嫌なら言ってね。でも人が多い方が食事も楽しくなるから、私は一緒に食べたいかなって」
言葉の隅々に優しさが滲むような喋り方だ。聖母が語尾にぶら下がっているみたいな。
「私は……」
――うざい
また思い出す。人と距離が近づきそうになるたび、あの言葉が足を掴んでくる。重い重い足枷のように。
「私は一人で食べる」
一緒にいたらきっと苦しくなる。なら自分から突き放したほうが楽だ。富田雪乃から嫌われるかもしれないが、蒼空から嫌われなければいい。
鞄から弁当を出し、急ぎ足で廊下を出た。二人の視線が背中に刺さるのが分かる。
蒼空は富田雪乃を下の名前で呼ぶ。別に同級生ならおかしなことではない。でも、私はそれが辛かった。
二人はよく噂されている。しかも最近になって二人でいることが多い。
一緒にいる所をよく見かけるようになったのは、一年の文化祭からだと思う。
一年のときは二人は同じクラスで、私は別のクラスだった。
何があったかは知らないが、文化祭みたいに男女の距離をつめるイベントは法律で禁止にした方がいい。あんなイベントで付き合うカップルは牢屋にぶち込んで、鼻の穴に木綿豆腐を入れてやればいい。
蒼空は付き合ってないって言ってたけど、気持ちまでは分からない。もしかしたら好きなのかもしれない。
懐疑的な中での名前呼びは少し応えた。三人でいたら何回聞くか分からない。もはや拷問だ。私がもし法を犯して罰を受けるなら、法廷に蒼空を呼んで「雪乃」と叫ばせればいい。二秒で死ねる。
特に目的もなく教室を飛び出してきたので、どこで食べるか昇降口で一考し、第三支部の公園に向かうことにした。
ありがたいことに公園には誰も居なかったが、味気ない風景が私の心を映しているようで少し憂いた。
ベンチに座り空を仰ぐと、太陽の光が視界を覆う。その光に自分が薄れていくような気がした。白日の星が青に飲み込まれていくように、世界との結び目が解けていくように。
自らの力だけではこの世界では輝けない。多くのものは太陽という絶対的な存在があるから生きていける。私は空のようになりたかった。
太陽によって不条理に色を変えられても美しく居続けられる。澄んだ青も、溶けるようなオレンジも、真っ黒な夜も、すべてが自分らしく見える。どんな環境に置かれても空は空だ。星は太陽のもとでは輝けない。夜空がなければ星は見えない。
悲嘆混じりのため息を空に吐くと、隣に誰か座った。
私はベンチの端に座っているから、確かにスペースはある。だからといって普通は座らないだろう。
しかもベンチは二基あり、一基は空いている。
こんな白昼に女子高生の隣を堂々と座れるのは一人しかいない。
そう、変態だ。
もしくはベンチの愛好家か、さらに選択肢を広げるなら野生のパンダだ。
パンダであってくれと願うが確率は低い。私の計算では25%くらいだ。
正直、超怖い。
ちらっと見て、目があったらぶん殴って逃げるか。いや、こちらから手を出したら法廷で不利になる。
いくら変態と言えど、法律は適用される。なぜこの国は変態を殴れないのだろう。声をかけられたら殴りたい。むしろかけてこい。こんな真っ昼間に女子高生に声をかけた時点で変態だ。うん、殴ろう。こいつが息を吐いたら殴ろう。いや、息をしなくても殴ろう。隣に座った時点で変態だ。恐怖を与えただけでも十分殴る価値はある。
私は拳を握り、いつでも殴れるよう備えると、
「弁当食べないの?」
声を聞き、私は拳を解いた。
聞き覚えのある声。驚きと嬉しさが脳内で駆け回り、軽度の混乱を起こす。
私はゆっくりと視線を隣に移すと、蒼空の姿があった。
「富田雪乃は?」
「クラスの子と食べてる」
「いいの?」
「うん」
私はニヤつく顔をグッと堪えた。恥を忍んでタップダンスしたい。
「何でここにいるって分かったの?」
タップダンスをしようと立ち上がったときにふと思った。校内ではなく、外に来た私を見つけるなんて難易度が高い。
「千星が校門出るのを見て、付いてきた」
蒼空は弁当の風呂敷を解きながら言った。
「変態」
「何でだよ」
支部長としては侵入を許したことを遺憾に思うが、蒼空なら許そう。いや、超うれしい。タップダンスしたい。
「まあ、蒼空がどうしても私と食事を共にしたいっていうことなら仕方がない。一緒に食べてやろう」
それは私だろ、と自分にツッコミをいれる。でも照れ隠しでそう言ってしまう。私も可愛いところがあるんだ。
「別に食べたいとは思ってないから、一人で食べるわ」
蒼空は広げた風呂敷を結び直し、立ち上がった。
「嘘です。一緒に食べましょう。お供させて下さい。蒼空さん」
私が焦って言うと蒼空は振り返り、いたずらっ子みたいな笑顔で再びベンチに座る。
「千星がどうしてもって言うなら、一緒に食べてあげる」
この野郎、こっちが下手に出たらツンデレという凶悪な兵器を使ってきやがった。私もやりたい。
「べ、別に、そういうわけじゃないんだからね。あんたと食べたいとか、そういうわけじゃないんだからね。なんて言うか、そういうわけじゃないんだからね」
私のツンのレパートリーは【そういうわけじゃないんだからね】しかなかった。放課後にホームセンターに行こう。あそこなら何でも売ってるから、ツンの別バージョンも置いてあるだろう。
「下手くそなツンデレは置いといて、ご飯食べよう」
蒼空は弁当を開け、何事もなかったように食べ始める。私のツンを無視して。
一人で食べているときは、時間を埋めるために食事をとっているような気がして、物悲しくなることもある。出荷されるために餌を食べている家畜のような。
でも蒼空と一緒にいるときは、食事を食事として捉えられる。同じ物でも、今の自分の心境で見え方も捉え方も変わる。特に何も感じなかった卵焼きがほんのり甘いこととか。
「ねえ蒼空」
「何?」
「楽しいね」
なんか言いたくなった。
味気ない日常や抱えていた苦しさとか全部忘れて、今だけはこの時間に浸りたい。
「うん。楽しいね」
穏やかな笑顔で返してくれた。その横顔を思い出に仕舞い、朝に怯えたときに思い出す。それで少しだけ痛みが和らぐから。
「ねえ、そのコロッケちょうだい」
「嫌だ」
「べ、別にコロッケが食べたいわけじゃないんだからね。美味しそうだなんて思ってないんだからね」
「ツンデレの使い方間違ってるぞ」
「か、唐揚げも欲しいだなんて思ってないんだからね。美味しそうだなんて……」
唐揚げを口の中に放り込まれた。餌付けされるように。
「ふぁいふぁと……」
私はありがとうと言い、唐揚げを噛み締める。
できればイチゴとかチョコのような、可愛いさとロマンチックを兼ね備えた食べ物が良かったが、唐揚げも悪くはない。
少しだけ高鳴る胸の鼓動を感じつつ、唐揚げという青春を味わった。
「クレープ食べたい」
「カラオケ行こう」
高校生の放課後を象徴する言葉が教室を飛び交う。
蒼空を見ると周りには人が集まっていた。いつもの光景だがいつものように悲しくなる。親友や好きな人が人気者で、自分はその人以外に親しい人がいない場合、劣等感に苛まれる。
何より厄介なのが、劣等感という悪魔は嫉妬という手土産を持って心に居住する。そしてその嫉妬は心を醜くする。
今も蒼空の周りの人間が消えてほしいと願っていた。この感情は蒼空にも言えない。きっと悲しませてしまうだろうから。
「蒼空」
富田雪乃が、蒼空に声をかけた。
人を惹きつけるような彼女の笑顔は、周りの男子たちの視線を集めている。
「このあとボーリング行くんだけど、どう?」
放課後に遊びに誘う。高校生にとっては普通の会話だが、私からしたら黒魔術の呪文に等しい。
迷っている蒼空に断ってくれと祈りつつ、二人が話しているところを見るのは耐え難かったので教室を出た。
一日の中で感情の起伏が激しい。準ぼっちの宿命なのだろうけど、その差で傷も深くなる。
この世界の残酷なところは、一人の力では幸福を手にできなことだ。享受し続けなければ、楽しむことも、笑うこともできない。
一人とは無力。十七歳で痛感する現実が、心に残る傷をなぞるようだった。
下駄箱で靴を履き替えようとしたとき、女子二人の会話が聞こえてきた。
「蒼空くんと雪乃ちゃんて付き合ってるの?」
不快な音が耳に張り付き、胸がざわつく。
「付き合ってはないみたい」
「でもお似合いだよね」
「わかる! 付き合っちゃえばいいのに」
わかるなバカ。全然似合ってないだろう。
みんなから優しいと言われるクラスの人気者同士。勉強もでき、おまけに二人とも容姿が良い。清潔さと気品、爽やかさも兼ね備えていて、大人からの評判も良い。だけどそれぐらいしか共通点はない。これのどこがお似合いなのかが分からない。
幼馴染というエクスカリバーを携える私の方が、圧倒的にお似合いだ。
二人はまだ、蒼空と富田雪乃の話をしている。
これ以上騒音を聞きたくなかったので、早急に昇降口を出た。
駅のホームで電車を待っていると、学校帰りの生徒たちがアニメや好きな音楽の話をしている。
自分の知ってる話題になったとき、羨望と笑い声に対する嫌悪が混ざり合い、言葉にできない感情のグラデーションができあがる。
そんなときは一人で帰っている生徒を探す。相手からしたら迷惑な話だが、見つけると少し安心する。一人でいるが一人じゃない。そう思えるのだ。
改札の方から楽しそうに話す声が聞こえてきた。目を向けると、富田雪乃と数名の生徒がおり、集団の中央には蒼空の姿があった。
この駅は改札を入るとすぐにホームになっている。私は反対ホームに繋がる階段のすぐ側にいた。そして彼女らはこちらに向かってくる。
なので咄嗟にホームの柱に身を隠した。別に隠れる必要はないのだが、なんとなく一人でいるところを見られたくなかった。
蒼空はこのあとボーリングに行くのだろう。全部ガーターになって、恥をかいて、トラウマになって、一生ボーリングに行けない体になってしまえ。
醜い祈りをしていたら、楽しそうな声は階段を上がっていった。自然と息を止めていたのか、安心したように大きく息を吐く。
「何で隠れたの?」
急に声をかけられ、肩がビクッとなる。
ゆっくり振り向くと、視界に蒼空が映った。
「ボーリングは?」
「行こうと思ったけど辞めた」
タップダンスしたい。
「そ、そうなんだ。ふーん」
めっちゃ嬉しい。今なら鼻の穴にスイカをぶち込まれても笑顔で許せる。
「何で隠れたの?」
見られていた。高揚感が羞恥に変わり、顔に紅葉を散らせる。
「別に隠れてないよ。この柱の構造が気になっただけ。いやー、良い柱だ」
いくつかある言い訳の中から最悪のチョイスをした。この言い訳を成立させるためには、父親が柱職人で、幼い頃から仕事を見てきたという設定がなければいけない。今からでもいい、父よ柱職人になれ。てか柱職人てなんだ。
「どこらへんが良い柱なの?」
なぜ話を広げるんだ。「へー、そうなんだ」で終われ。「へー、そうなんだ」はそのためにあるんだよ。
脳をフル回転させ、柱の良いところを探した。その結果、
「駅を支えてますよという、使命感を感じる」
何を言っているんだ私。嘘に嘘を重ねた結果、メルヘン女になってしまった。このままいったら、柱と会話しそうだ。
「ふーん」
蒼空は全部分かっているよ、という目でこちらを見てきた。
「確かにいい柱かも。支えてる感じがする」
嘲るように言ってきた。なんかムカいたので蒼空を睨んでいると、頭にポンと手を置かれる。
蒼空は私の過去を知っている。なぜ人を嫌いになったのか、なぜ人と関われなくなったのか。
それらすべてを含めて『無理に嘘はつかなくていいよ、分かってるから』そんな意味のこもった優しさを頭に置かれた。
なので、分かったという意味を込め「うん」と返事をする。
それに対し蒼空も「うん」と返してくる。
他人から見たら意味のわからない会話だが、私たちだけはその意味を知っていた。
家の近くに海を一望できる場所がある。岬の高台にある公園で、春になると河津桜で景色を染める。夜は星が空一面に散らばり、視界を星の群れで彩る。私が一番好きな場所だ。
電車の中で「久しぶりに行こう」ということになり、蒼空と二人で岬公園にやってきた。
公園の奥にある展望広場まで来ると、夕陽が出迎えてくれた。私たちは展望デッキに上り、海と空を眺める。
視界に広がるのは、空を心地よく酔わせるカクテルのような青とオレンジのグラデーション。瞼を閉じるように水平線に沈みゆく夕陽を、凪いだ海が優しく抱き寄せている。日中は残暑のせいで少し暑かったが、今は秋らしい涼しさが肌を撫でていた。
「綺麗だね」
「うん、綺麗」
本当に綺麗なものを視界に映したときは、修飾語は必要ないのかもしれない。目に映る景色が『綺麗』という言葉を飾ってくれるからだ。
「ここに来ると嫌なことを忘れられる。世界の片隅にいる私に、広い世界を見せてくれるから」
照らす夕陽がスポットライトのように感じた。まるで物語の主人公みたいで、泡沫の希望を持たせてくれる。
「美月もここに来ると、同じようなこと言ってた」
美月ちゃんは蒼空の妹で今年から中学に上がった。数少ない私を慕ってくれる人間だ。
「なあ千星、今も人と関わるのは嫌だ?」
その質問で過去の傷が疼いた。痛みというより苦しい。
他人と関わらなくなったは、そのほうが自分を守れるからだ。あの日から他人に境界線を引いて、この傷を守り続けてきた。たぶんこれからもずっと……
「関わる必要ある? 自分のことを分かってくれる人だけいればいい」
それ以外の人は消えればいい――。たまにそう思うことがある。そして、そんな醜い思考に支配されていく自分に嫌悪を抱く。
「無理に関わる必要はないけど、頭の片隅に置いといてほしい」
蒼空は夕日に視線を向けながら話を続ける。
「心に抱えているもので世界の映り方が変わる。同じものを見ていても、誰かにとっては美しく、他の誰かにとっては苦しめるものになる。だから自分と向き合うことが大事だと思うんだ。外に目線を向けるだけでは、自分の中にあるものを変えられないから。外からの影響で受けたものはそう簡単に剥がせるものではないけど、でも変えようとすることはできると思う」
――このままではダメだよ
人間嫌いの私に対し、遠回しに、傷つけないように、無理をさせないように伝えたんだと思う。
だけどその言葉は、私を突き放すようで心が痛んだ。
「帰るか」
蒼空は背中に夕陽を浴びながら、出口に向かっていく。
その光が、蒼空を遠くに連れていくようで胸が苦しくなった。
晩御飯は味気なかった。父と弟はテレビに視線を向け、カレーを口に運ぶ。母と私は食べることだけに集中していた。
特に会話という会話はないが、仲が悪いというわけでもない。
弟は小学校四年だ。少しだけ歳が離れている。可愛いと思うときもあれば生意気と思うときもある。家ではそんなに話すことはない。
まだ私が弟と同じ歳のときは、よく食卓で学校のことを話していた。
だけどあの出来事以来、家族に学校のことを話せなくなり、それから自然と会話が減ってしまった。親も私に話を聞いてこない。もしかしたら、反抗期と思っているのかもしれない。
テレビに目をやると、再起した経営者の物語を、ドラマ仕立てで紹介していた。
その人は貧困の家庭で生まれたそうだ。幼い頃は虐待され、学校ではいじめに合い、友達は一人もいなかったらしい。そこから努力して、今の成功を掴んだと話していた。
普通なら『自分も頑張ろう』となるのだろうが、今の私は捻くれた見かたをしてしまう。
平凡な家庭で生まれ、仲の良い幼馴染もいる。完全な孤独でもない私は、愚痴すら言ってはいけないのでは、と感じる。
この人に比べれば、私の悩みなんて『それくらいのことで』と言われるようなことだ。中途半端な自分は『辛い』という一言すら言う権利がない。
そんな歪んだ想いが自分を苦しめるのに、人の成功を見ると妬みが這い上がってくる。そしてそんな自分が心の底から嫌いだった。
晩御飯を済ませ、自分の部屋のベランダから星空を見上げる。
星は夜空の中だけで輝ける。朝に怯えながら太陽を厭い、世界を覆う光で星の存在を消してしまう。
――自分と向き合って生きることが大事なんだと思う
蒼空の言葉が頭をよぎった。
私は星を見ながら、子供の頃を思い出していた。
私のような人間にとって、この世界は地獄の予行練習のようなものだ。いや、地獄のほうが天国かもしれない。
視界に入る高校生たちは楽しそうに話しながら青春を謳歌している。準ぼっち属性の私には、他人の笑い声は煩わしい蝉の声と一緒だ。蝉は夏の訪れを知らせるが、同級生たちの笑い声は『お前は一人だ』という現状を知らせれくれる。その瞬間、心の隙間に空虚が佇む。
いつもならイヤホンで遮断するのだが、今日は充電を忘れてしまった。鼓膜に嫌悪が纏わりついて気持ち悪い。それと、少しだけ湧き上がる羨望が嫌になる。
だけど友達がいないというわけではない。たった一人だが、その一人が私と世界の結び目になっている。外の世界から逸れそうになったとき、彼が道標になっていた。
孤独は人を殺す。ゆっくりと静かに囁くように命を蝕む。でも彼が処方箋になって痛みを和らげてくれる。生きたい理由であり、死にたい理由にもなるけど、彼がいたから生きてこれたと思う。
「千星」
背中を叩く声で振り返ると、蒼空が優しい笑顔で駆け寄ってくる。
「おはよう」と言われ「おはよう」と返す。
世界と私の間にある解けた糸が、その言葉で結ばれる。
「千星が言ってたバンド聴いたよ。すげー良かった」
私が最近見つけたバンドを昨日話した。さっそく聴いてくれたらしい。
「でしょ! 私も初めて聴いたとき、ピーマンが反乱を起こして地球を侵略してくるぐらいの衝撃を受けた」
良いものを見つけると人に話したくなる。でも私には蒼空しか話す人がいない。だから好きのものを話すときは興奮気味になり表現がおかしくなる。
「ピーマンは子供に嫌われてるから反乱起こしても驚かない。朝起きたら両親がピーマンに変わってるぐらいの衝撃だった」
訳のわからない比喩を言っても、怪訝な顔もせず返してくれる。自分が受け入れられているようで安心できた。
「両親がピーマンになることは、たまにあるから驚かない」
「いや、ないだろ。どこの血筋だよ」
他人が聞いたら訝しがるかもしれない。でも私にとってはすごく心地いい。さっきまで心の真ん中で胡座をかいていた孤独は、今は片隅で正座している。
こんな冗談を言い合えるのは彼だけだった。他の人にはきっと一生言えないと思う。
二人でいると世界に迎合しているような気分になる。周りの笑い声から嫌悪が剥がれ落ち、この瞬間だけは普通の高校生になれる。
蒼空は小学校からの幼馴染だ。優しい雰囲気を纏い、全日本爽やかグランプリがあったら三連覇を達成してそうな顔立ちだ。私がそうめん工場の工場長なら、毎年彼にそうめんを送るだろう。それぐらい爽やかという言葉が奥村蒼空には似合う。目に少しかかる前髪もそうめんに見えてきた。この場にめんつゆがあったら、前髪を浸してしまいたい。
そんな気持ち悪い妄想をしていると学校に着いてしまった。
蒼空との会話で孤独を埋めていた私は、憂鬱という名の校門をくぐる。
少しでも長くこの時間が続いてほしいので、歩幅を狭めていたら、
「おはよう」という言葉が投げかけられた。私にではなく蒼空に。
蒼空は友達が多く、誰からも好かれていて慕われている。常に周りには人がいて、学校では近づくことができない。いや、正確に言えば近づくことはできる。だが人間嫌いの私は、蒼空以外の人と一緒にいたくない。だから学校では一人になることが多かった。
下駄箱で靴を履き替えてるだけで数多の「おはよう」を間接的に浴びる。
私は他人という存在を避けてきたし、世界を嫌悪してきた。小学六年生のあの日から。
教室に入ると「おはよう」という言葉が蒼空に目掛けて飛んでくる。隣にいた私は「おはよう」の流れ弾が来ないよう、速やかに自分の席に着いた。
基本は声をかけられないが、蒼空といるとおまけ程度に挨拶される時がある。普段、人と接していない人間からすると、急な声掛けは心臓に悪いし、話そうとすれば、
――うざい
あの日言われた言葉が呪いのように脳裏に響く。小学六年から高校二年の五年間、その呪いは今も纏わりついている。
だから近づかない。狭い世界で小さく輝きを放ち、私のことを見てくれる人がいればいい。
横目で蒼空を見ると、クラスメイトと談笑していた。その瞬間、孤独が肩を叩き、力強く手を繋いでくる。
さっきまでその隣に私がいたのに、今は別の人間がそこにいる。元カノを経験したことはないが、何故か元カノのような気持ちになった。
『蒼空の元カノ』
響としては悪くない。別れてはいるが一度結ばれているという観点でみれば、今の私より立場が上だ。好きな人に告白もできない哀れな私よりも。
でも気持ちを伝えようとしたことはある。だけど怖くて言えなかった。もしフラれたらこの関係も終わってしまうから。
今まで築いてきたものが崩れるくらいなら、せめて仲の良い幼馴染という肩書きは残したい。そんな臆病な言い訳で、私は初恋をずっと握りしめていた。
本来なら一限目の授業が始まっている時間だが、教師が遅れていて自習の時間になっている。
私はこの時間が苦手だ。雑談という不協和音が孤独にジャブを打ってくる。
蒼空も隣の子と楽しそうに話していた。その光景を視界に入れるのは自傷行為に等しい。
妄想で逃げようとしたが、蒼空と話している子を脳内で暗殺してしまいそうだったので、窓の外に視線を外す。
教室から見上げる空は青く澄んでいた。空が青ければ青いほど、消えてしまいたいと願う。太陽が空を照らせば、星の輝きは薄れていく。そこにいるはずなのに、輝けるはずなのに、光が星を消してゆく。そして星は太陽を嫌悪する。
だんだんと鬱いできたので、机から小説を取り出した。私が小説を読む理由は、一人でいる大義名分を作れるからだ。本を読んでいるときは孤独も薄れる。
作者もこんな理由で読まれるのは嫌だろうけど、あなたたちのおかげで孤独な少女が救われるのだ。だから許せ。
そんな私でも、好きな作家はいる。
枯木青葉という作家だ。
都市伝説をモチーフに物語を綴っていて、どの作品にも共通していることがあった。主人公は孤独を抱えており、世間に恨みを抱いていると言う点だ。私は共感する部分が多い。
デビュー作はそれなり売れたが、それ以降はパッとしなかった。
でも私は好きだった。ワクワクできたし、モチーフになっている都市伝説を読後に調べるのも楽しかった。
だからネットで酷評を見たときは悲しくなった。まるで自分が否定されているように感じたから。
それでも次回作を期待していたが、三年前、突如として彼はこの世界から消えてしまった。自ら命を絶って。
だが一年後、枯木青葉の小説が発表された。
出版社のホームページに書かれていたのは、枯木青葉のパソコンに未発表の作品が眠っており、それを家族の了承を得て発表したらしい。
話題性もあってか、その作品はベストセラーになった。
孤独を抱えた主人公が死んだ人間の未練を叶えていき、周りの人と繋がっていくという物語だった。
読み終わると、孤独に寄り添ってくれる優しさが、私の心に横たわってた。
部屋の中で嗚咽しながら嗚咽して、嗚咽する自分に嗚咽して、本を見るたび嗚咽するという、嗚咽祭りが私の中で開催された。
何より嬉しかったのはレビューの評価が高たったことだ。前作で溢れていた非難は賞賛に変わり、その声一つ一つが献花のように見えた。
この作品も都市伝説をモチーフにしていると思い調べたが、どこにも類似するものはなかった。
なぜこの作品だけモチーフがないのか? なぜテイストを変えたのか? そこに疑問はあった。でも彼が賞賛されるたび、そんなことはどうでもいいと思えてきた。
「遅れてごめん、じゃあ始めようか」
教室の扉が開き、教師が入ってくる。
クラスの子たちは教師の顔を見るなり、嘆きやため息を漏らしたりしているが、私は安堵した。
蒼空が隣の子と話すのをやめたこと。授業中は孤独から解放されること。楽しそうに話す声が聞こえなくなること。
普通の高校生が嫌うであろう授業は、私にとって憩いの場だった。
別に勉強が好きなわけではない。授業というものは誰とも話さないことが普通であり、ノートをとって、先生の話を聴くというタスクができる。だから手持ち無沙汰にならない。孤独というのは、自由を与えられたときにやってくるのだ。
もう少しで四限目の授業が終わる。
方程式の説明をBGM程度に聴きながら、私は五分後に来る怪物のことを考えていた。
高校生活において最も不自由で自由な時間、昼休みだ。
理想を言えば、蒼空と一緒にカリブ海を見ながらトルティーヤを食べることだが、この学校はカリブ海が見えない。文明が進化した時代において、カリブ海が見えないというのは、間違いなく校長の怠慢だ。私が校長ならそれくらいは見えるようにする。ここが私と校長の格の差だ。
蒼空といると他の人間もやってくるため、昼休みは一人で弁当を食べる。
一年生の頃は一緒に食べていたが、二人になることはほとんどなかった。
最初は二人だったとしても、次から次に人が来る。そしていつの間にか、大所帯になっていたこともある。
その場にいれば私にも話が振られる。それが苦痛だったし、蒼空が他の子と楽しそうにしているのも嫌だった。私のような人間からすると、グループという場所は孤独の餌場だ。
それに耐えられなくなり、蒼空に誘われる前に教室を出ていくようになった。
昼休みぼっちには、ミッションが課される。場所の確保だ。私はいくつかの基地を持っている。
まずは第一支部である校庭のベンチ。
ベンチはいくつかあるが、テーブルがある場所が望ましい。
だが大人数が座れるため、陽キャ軍団か友達連れ、青春しているカップルの支配下に置かれている。
仮に席の確保ができたとしても、後からくる人間たちに『一人なのにそこ使うのかよ。お前みたいな寂しい奴は、カブトムシと一緒に地べたでゼリーでも食ってろよ』と言う目で見てくるため、テーブル席は諦める。
となれば、校舎裏に置かれたベンチに向かう。ここはほとんど人が来ないので、一人になるには最適な場所だ。
でもたまに、ぼっち同士が鉢合わせすることがある。その時の「あ、仲間だ」という共感と、豪華客船が沈没したときの失望感を味わえる場所でもある。
第二支部は屋上前の踊り場。
この最上階に位置する空間は閉鎖感があり、ぼっちにとっては都だ。欠点があるとすれば逃げ場がないこと。
下の階から声が近づいてくるときの恐怖感は、ジェイソンに追われたブロンド高校生に近いものがある。『もしここに来たらどうしよう』という焦燥感で、弁当に手をつけるスピードが早くなる。
そのときの私は爆発物処理班のような気持ちになる。楽しむための食事が、一瞬にして残り数秒で爆発する爆弾に見えてくる。このときに誰か来たら、弁当を階下に投げ「伏せろ」と言ってしまいそうになる。そしたら次の日には処理班というあだ名が付くだろう。
もし私が芸能人になってインタビューを受けたとき、「高校生の頃のあだ名はなんですか?」「処理班です。主に弁当を処理していました」と答えなければいけない。この場所はそれなりのリスクが伴うのだ。
第三支部は学校の外にある公園。
ここはブランコと滑り台、砂場という簡素な公園だ。
ベンチがニ基あり、大抵はそこで弁当を食べる。意外にも学校の生徒はあまり来ず、ぼっちにとっては緊急避難場所にもなる。
だが世の中はそう甘くない。ここの欠点は親子が来ることだ。
親はなんとなく察してくれるが、子供は『高校生なのに一人かよ。お前みたいな寂しい奴は、カブトムシと一緒に地べたでゼリーでも食ってろよ』という目で見てくる。世界はぼっちに冷たい。
他にもいくつかあるが、主にこの三つが主要の支部になる。
今日はどこにしようか迷っていると、チャイムが鳴ってしまった。
教師もいつの間にか授業を締めていたらしく、すでに周りの生徒は立ち上がっている。完全に乗り遅れた。
公園が埋まっていたら、最悪トイレだなと考えていると、「千星、一緒に食べよう」という天使のような声が鼓膜に届いた。
顔を見なくても誰だか分かる。ニヤつきそうになる顔をギュッと結び、声の方に視線を向けると、蒼空が立っていた。
誘ってくれたのは久しぶりだったので嬉しかったが、他の人が来るのは嫌だ。
すぐに二つ返事で返したかったが、躊躇ってしまう。
その一刹那の沈黙を埋めるように、澄んだ声が教室に響いた。
「蒼空」
声の方を見ると、同じクラスである富田雪乃がこちらに向かって来る。
彼女は蒼空と同様、二年生の中心的な存在だ。蒼空とも仲が良い。
肩まで伸びた艶やかな髪の毛、雪を欺く白い肌、女の私も見惚れてしまうほど綺麗な子だ。
『容姿端麗』という雑誌があれば表紙を飾るだろう。学校の男たちはその雑誌を見て「可愛くね」とか言う。でも男ならジャンプを読め。可愛いって言ってる暇があるなら海賊王を目指せ。もしくは念を習得しろ。
私が妄想で嫉妬していると、蒼空が私に視線を送ってくる。
一緒に食べたいけど、この状況だと彼女も付いてくる。三人は嫌だ。それに彼女は……
「ねえ」
顔を上げると富田雪乃が目の前にいた。整った面差しが私の顔を覗き込み、その可愛さに思わず目を逸らしてしまう。さらに追い討ちをかけるように「藤沢さんも一緒にご飯食べない?」と笑顔で聞いてくる。
急な誘いに驚き「ひぇ?」という、どこから出たのか分からない変な声が出た。込み上げる恥ずかしさで異世界に転生したくなる。
「あっ、無理にとは言わないよ。嫌なら言ってね。でも人が多い方が食事も楽しくなるから、私は一緒に食べたいかなって」
言葉の隅々に優しさが滲むような喋り方だ。聖母が語尾にぶら下がっているみたいな。
「私は……」
――うざい
また思い出す。人と距離が近づきそうになるたび、あの言葉が足を掴んでくる。重い重い足枷のように。
「私は一人で食べる」
一緒にいたらきっと苦しくなる。なら自分から突き放したほうが楽だ。富田雪乃から嫌われるかもしれないが、蒼空から嫌われなければいい。
鞄から弁当を出し、急ぎ足で廊下を出た。二人の視線が背中に刺さるのが分かる。
蒼空は富田雪乃を下の名前で呼ぶ。別に同級生ならおかしなことではない。でも、私はそれが辛かった。
二人はよく噂されている。しかも最近になって二人でいることが多い。
一緒にいる所をよく見かけるようになったのは、一年の文化祭からだと思う。
一年のときは二人は同じクラスで、私は別のクラスだった。
何があったかは知らないが、文化祭みたいに男女の距離をつめるイベントは法律で禁止にした方がいい。あんなイベントで付き合うカップルは牢屋にぶち込んで、鼻の穴に木綿豆腐を入れてやればいい。
蒼空は付き合ってないって言ってたけど、気持ちまでは分からない。もしかしたら好きなのかもしれない。
懐疑的な中での名前呼びは少し応えた。三人でいたら何回聞くか分からない。もはや拷問だ。私がもし法を犯して罰を受けるなら、法廷に蒼空を呼んで「雪乃」と叫ばせればいい。二秒で死ねる。
特に目的もなく教室を飛び出してきたので、どこで食べるか昇降口で一考し、第三支部の公園に向かうことにした。
ありがたいことに公園には誰も居なかったが、味気ない風景が私の心を映しているようで少し憂いた。
ベンチに座り空を仰ぐと、太陽の光が視界を覆う。その光に自分が薄れていくような気がした。白日の星が青に飲み込まれていくように、世界との結び目が解けていくように。
自らの力だけではこの世界では輝けない。多くのものは太陽という絶対的な存在があるから生きていける。私は空のようになりたかった。
太陽によって不条理に色を変えられても美しく居続けられる。澄んだ青も、溶けるようなオレンジも、真っ黒な夜も、すべてが自分らしく見える。どんな環境に置かれても空は空だ。星は太陽のもとでは輝けない。夜空がなければ星は見えない。
悲嘆混じりのため息を空に吐くと、隣に誰か座った。
私はベンチの端に座っているから、確かにスペースはある。だからといって普通は座らないだろう。
しかもベンチは二基あり、一基は空いている。
こんな白昼に女子高生の隣を堂々と座れるのは一人しかいない。
そう、変態だ。
もしくはベンチの愛好家か、さらに選択肢を広げるなら野生のパンダだ。
パンダであってくれと願うが確率は低い。私の計算では25%くらいだ。
正直、超怖い。
ちらっと見て、目があったらぶん殴って逃げるか。いや、こちらから手を出したら法廷で不利になる。
いくら変態と言えど、法律は適用される。なぜこの国は変態を殴れないのだろう。声をかけられたら殴りたい。むしろかけてこい。こんな真っ昼間に女子高生に声をかけた時点で変態だ。うん、殴ろう。こいつが息を吐いたら殴ろう。いや、息をしなくても殴ろう。隣に座った時点で変態だ。恐怖を与えただけでも十分殴る価値はある。
私は拳を握り、いつでも殴れるよう備えると、
「弁当食べないの?」
声を聞き、私は拳を解いた。
聞き覚えのある声。驚きと嬉しさが脳内で駆け回り、軽度の混乱を起こす。
私はゆっくりと視線を隣に移すと、蒼空の姿があった。
「富田雪乃は?」
「クラスの子と食べてる」
「いいの?」
「うん」
私はニヤつく顔をグッと堪えた。恥を忍んでタップダンスしたい。
「何でここにいるって分かったの?」
タップダンスをしようと立ち上がったときにふと思った。校内ではなく、外に来た私を見つけるなんて難易度が高い。
「千星が校門出るのを見て、付いてきた」
蒼空は弁当の風呂敷を解きながら言った。
「変態」
「何でだよ」
支部長としては侵入を許したことを遺憾に思うが、蒼空なら許そう。いや、超うれしい。タップダンスしたい。
「まあ、蒼空がどうしても私と食事を共にしたいっていうことなら仕方がない。一緒に食べてやろう」
それは私だろ、と自分にツッコミをいれる。でも照れ隠しでそう言ってしまう。私も可愛いところがあるんだ。
「別に食べたいとは思ってないから、一人で食べるわ」
蒼空は広げた風呂敷を結び直し、立ち上がった。
「嘘です。一緒に食べましょう。お供させて下さい。蒼空さん」
私が焦って言うと蒼空は振り返り、いたずらっ子みたいな笑顔で再びベンチに座る。
「千星がどうしてもって言うなら、一緒に食べてあげる」
この野郎、こっちが下手に出たらツンデレという凶悪な兵器を使ってきやがった。私もやりたい。
「べ、別に、そういうわけじゃないんだからね。あんたと食べたいとか、そういうわけじゃないんだからね。なんて言うか、そういうわけじゃないんだからね」
私のツンのレパートリーは【そういうわけじゃないんだからね】しかなかった。放課後にホームセンターに行こう。あそこなら何でも売ってるから、ツンの別バージョンも置いてあるだろう。
「下手くそなツンデレは置いといて、ご飯食べよう」
蒼空は弁当を開け、何事もなかったように食べ始める。私のツンを無視して。
一人で食べているときは、時間を埋めるために食事をとっているような気がして、物悲しくなることもある。出荷されるために餌を食べている家畜のような。
でも蒼空と一緒にいるときは、食事を食事として捉えられる。同じ物でも、今の自分の心境で見え方も捉え方も変わる。特に何も感じなかった卵焼きがほんのり甘いこととか。
「ねえ蒼空」
「何?」
「楽しいね」
なんか言いたくなった。
味気ない日常や抱えていた苦しさとか全部忘れて、今だけはこの時間に浸りたい。
「うん。楽しいね」
穏やかな笑顔で返してくれた。その横顔を思い出に仕舞い、朝に怯えたときに思い出す。それで少しだけ痛みが和らぐから。
「ねえ、そのコロッケちょうだい」
「嫌だ」
「べ、別にコロッケが食べたいわけじゃないんだからね。美味しそうだなんて思ってないんだからね」
「ツンデレの使い方間違ってるぞ」
「か、唐揚げも欲しいだなんて思ってないんだからね。美味しそうだなんて……」
唐揚げを口の中に放り込まれた。餌付けされるように。
「ふぁいふぁと……」
私はありがとうと言い、唐揚げを噛み締める。
できればイチゴとかチョコのような、可愛いさとロマンチックを兼ね備えた食べ物が良かったが、唐揚げも悪くはない。
少しだけ高鳴る胸の鼓動を感じつつ、唐揚げという青春を味わった。
「クレープ食べたい」
「カラオケ行こう」
高校生の放課後を象徴する言葉が教室を飛び交う。
蒼空を見ると周りには人が集まっていた。いつもの光景だがいつものように悲しくなる。親友や好きな人が人気者で、自分はその人以外に親しい人がいない場合、劣等感に苛まれる。
何より厄介なのが、劣等感という悪魔は嫉妬という手土産を持って心に居住する。そしてその嫉妬は心を醜くする。
今も蒼空の周りの人間が消えてほしいと願っていた。この感情は蒼空にも言えない。きっと悲しませてしまうだろうから。
「蒼空」
富田雪乃が、蒼空に声をかけた。
人を惹きつけるような彼女の笑顔は、周りの男子たちの視線を集めている。
「このあとボーリング行くんだけど、どう?」
放課後に遊びに誘う。高校生にとっては普通の会話だが、私からしたら黒魔術の呪文に等しい。
迷っている蒼空に断ってくれと祈りつつ、二人が話しているところを見るのは耐え難かったので教室を出た。
一日の中で感情の起伏が激しい。準ぼっちの宿命なのだろうけど、その差で傷も深くなる。
この世界の残酷なところは、一人の力では幸福を手にできなことだ。享受し続けなければ、楽しむことも、笑うこともできない。
一人とは無力。十七歳で痛感する現実が、心に残る傷をなぞるようだった。
下駄箱で靴を履き替えようとしたとき、女子二人の会話が聞こえてきた。
「蒼空くんと雪乃ちゃんて付き合ってるの?」
不快な音が耳に張り付き、胸がざわつく。
「付き合ってはないみたい」
「でもお似合いだよね」
「わかる! 付き合っちゃえばいいのに」
わかるなバカ。全然似合ってないだろう。
みんなから優しいと言われるクラスの人気者同士。勉強もでき、おまけに二人とも容姿が良い。清潔さと気品、爽やかさも兼ね備えていて、大人からの評判も良い。だけどそれぐらいしか共通点はない。これのどこがお似合いなのかが分からない。
幼馴染というエクスカリバーを携える私の方が、圧倒的にお似合いだ。
二人はまだ、蒼空と富田雪乃の話をしている。
これ以上騒音を聞きたくなかったので、早急に昇降口を出た。
駅のホームで電車を待っていると、学校帰りの生徒たちがアニメや好きな音楽の話をしている。
自分の知ってる話題になったとき、羨望と笑い声に対する嫌悪が混ざり合い、言葉にできない感情のグラデーションができあがる。
そんなときは一人で帰っている生徒を探す。相手からしたら迷惑な話だが、見つけると少し安心する。一人でいるが一人じゃない。そう思えるのだ。
改札の方から楽しそうに話す声が聞こえてきた。目を向けると、富田雪乃と数名の生徒がおり、集団の中央には蒼空の姿があった。
この駅は改札を入るとすぐにホームになっている。私は反対ホームに繋がる階段のすぐ側にいた。そして彼女らはこちらに向かってくる。
なので咄嗟にホームの柱に身を隠した。別に隠れる必要はないのだが、なんとなく一人でいるところを見られたくなかった。
蒼空はこのあとボーリングに行くのだろう。全部ガーターになって、恥をかいて、トラウマになって、一生ボーリングに行けない体になってしまえ。
醜い祈りをしていたら、楽しそうな声は階段を上がっていった。自然と息を止めていたのか、安心したように大きく息を吐く。
「何で隠れたの?」
急に声をかけられ、肩がビクッとなる。
ゆっくり振り向くと、視界に蒼空が映った。
「ボーリングは?」
「行こうと思ったけど辞めた」
タップダンスしたい。
「そ、そうなんだ。ふーん」
めっちゃ嬉しい。今なら鼻の穴にスイカをぶち込まれても笑顔で許せる。
「何で隠れたの?」
見られていた。高揚感が羞恥に変わり、顔に紅葉を散らせる。
「別に隠れてないよ。この柱の構造が気になっただけ。いやー、良い柱だ」
いくつかある言い訳の中から最悪のチョイスをした。この言い訳を成立させるためには、父親が柱職人で、幼い頃から仕事を見てきたという設定がなければいけない。今からでもいい、父よ柱職人になれ。てか柱職人てなんだ。
「どこらへんが良い柱なの?」
なぜ話を広げるんだ。「へー、そうなんだ」で終われ。「へー、そうなんだ」はそのためにあるんだよ。
脳をフル回転させ、柱の良いところを探した。その結果、
「駅を支えてますよという、使命感を感じる」
何を言っているんだ私。嘘に嘘を重ねた結果、メルヘン女になってしまった。このままいったら、柱と会話しそうだ。
「ふーん」
蒼空は全部分かっているよ、という目でこちらを見てきた。
「確かにいい柱かも。支えてる感じがする」
嘲るように言ってきた。なんかムカいたので蒼空を睨んでいると、頭にポンと手を置かれる。
蒼空は私の過去を知っている。なぜ人を嫌いになったのか、なぜ人と関われなくなったのか。
それらすべてを含めて『無理に嘘はつかなくていいよ、分かってるから』そんな意味のこもった優しさを頭に置かれた。
なので、分かったという意味を込め「うん」と返事をする。
それに対し蒼空も「うん」と返してくる。
他人から見たら意味のわからない会話だが、私たちだけはその意味を知っていた。
家の近くに海を一望できる場所がある。岬の高台にある公園で、春になると河津桜で景色を染める。夜は星が空一面に散らばり、視界を星の群れで彩る。私が一番好きな場所だ。
電車の中で「久しぶりに行こう」ということになり、蒼空と二人で岬公園にやってきた。
公園の奥にある展望広場まで来ると、夕陽が出迎えてくれた。私たちは展望デッキに上り、海と空を眺める。
視界に広がるのは、空を心地よく酔わせるカクテルのような青とオレンジのグラデーション。瞼を閉じるように水平線に沈みゆく夕陽を、凪いだ海が優しく抱き寄せている。日中は残暑のせいで少し暑かったが、今は秋らしい涼しさが肌を撫でていた。
「綺麗だね」
「うん、綺麗」
本当に綺麗なものを視界に映したときは、修飾語は必要ないのかもしれない。目に映る景色が『綺麗』という言葉を飾ってくれるからだ。
「ここに来ると嫌なことを忘れられる。世界の片隅にいる私に、広い世界を見せてくれるから」
照らす夕陽がスポットライトのように感じた。まるで物語の主人公みたいで、泡沫の希望を持たせてくれる。
「美月もここに来ると、同じようなこと言ってた」
美月ちゃんは蒼空の妹で今年から中学に上がった。数少ない私を慕ってくれる人間だ。
「なあ千星、今も人と関わるのは嫌だ?」
その質問で過去の傷が疼いた。痛みというより苦しい。
他人と関わらなくなったは、そのほうが自分を守れるからだ。あの日から他人に境界線を引いて、この傷を守り続けてきた。たぶんこれからもずっと……
「関わる必要ある? 自分のことを分かってくれる人だけいればいい」
それ以外の人は消えればいい――。たまにそう思うことがある。そして、そんな醜い思考に支配されていく自分に嫌悪を抱く。
「無理に関わる必要はないけど、頭の片隅に置いといてほしい」
蒼空は夕日に視線を向けながら話を続ける。
「心に抱えているもので世界の映り方が変わる。同じものを見ていても、誰かにとっては美しく、他の誰かにとっては苦しめるものになる。だから自分と向き合うことが大事だと思うんだ。外に目線を向けるだけでは、自分の中にあるものを変えられないから。外からの影響で受けたものはそう簡単に剥がせるものではないけど、でも変えようとすることはできると思う」
――このままではダメだよ
人間嫌いの私に対し、遠回しに、傷つけないように、無理をさせないように伝えたんだと思う。
だけどその言葉は、私を突き放すようで心が痛んだ。
「帰るか」
蒼空は背中に夕陽を浴びながら、出口に向かっていく。
その光が、蒼空を遠くに連れていくようで胸が苦しくなった。
晩御飯は味気なかった。父と弟はテレビに視線を向け、カレーを口に運ぶ。母と私は食べることだけに集中していた。
特に会話という会話はないが、仲が悪いというわけでもない。
弟は小学校四年だ。少しだけ歳が離れている。可愛いと思うときもあれば生意気と思うときもある。家ではそんなに話すことはない。
まだ私が弟と同じ歳のときは、よく食卓で学校のことを話していた。
だけどあの出来事以来、家族に学校のことを話せなくなり、それから自然と会話が減ってしまった。親も私に話を聞いてこない。もしかしたら、反抗期と思っているのかもしれない。
テレビに目をやると、再起した経営者の物語を、ドラマ仕立てで紹介していた。
その人は貧困の家庭で生まれたそうだ。幼い頃は虐待され、学校ではいじめに合い、友達は一人もいなかったらしい。そこから努力して、今の成功を掴んだと話していた。
普通なら『自分も頑張ろう』となるのだろうが、今の私は捻くれた見かたをしてしまう。
平凡な家庭で生まれ、仲の良い幼馴染もいる。完全な孤独でもない私は、愚痴すら言ってはいけないのでは、と感じる。
この人に比べれば、私の悩みなんて『それくらいのことで』と言われるようなことだ。中途半端な自分は『辛い』という一言すら言う権利がない。
そんな歪んだ想いが自分を苦しめるのに、人の成功を見ると妬みが這い上がってくる。そしてそんな自分が心の底から嫌いだった。
晩御飯を済ませ、自分の部屋のベランダから星空を見上げる。
星は夜空の中だけで輝ける。朝に怯えながら太陽を厭い、世界を覆う光で星の存在を消してしまう。
――自分と向き合って生きることが大事なんだと思う
蒼空の言葉が頭をよぎった。
私は星を見ながら、子供の頃を思い出していた。