学校が終わったあと、中学校を訪問した。
卒業してから一度も来ていないので約二年ぶりになる。
中学のときは蒼空しか友達がいなかったし、学年の中でも地味なほうだった。だから私を覚えている先生はほとんどいないかもしれない。
『誰?』という顔をされたらどうしよう。そんな想いを抱きながら昇降口に入った。
「おー、藤沢じゃないか」
正面にある階段から牧野が降りて来た。大声で私の名前を呼ぶので羞恥心が芽生える。
二年前と変わらず角刈りだった。ふくよかな体型にジャージ姿なのも一緒だ。
美術部の顧問と言われても誰も信じないだろう。どちらかといえばラーメン屋の格好の方が似合う。
「どうした? 俺に会いに来たか」
豪快に笑いながら、ざらついた声でつまらない冗談を言う。
「美術部に一年生の秋山さんていますよね? 会いに来ました」
本来ならツッコミを入れるところであったがスルーした。面倒くさいから。
「秋山のこと知ってるのか? あっ、奥村の妹から聞いたのか。あいつ学校来なくなってな。次に会ったら来いって言っといてくれ。悩みがあるなら俺が聞くからって。最近の子は何かあるとすぐに引きこもる。気合いと根性が足りないんだよな」
牧野は美術部の顧問なのに体育会系の考えを持っている。大体のことを根性論で片付けようとするところも相変わらずだった。
それと、あんまり人の家庭の事情を他人に話すべきではない。私は美月ちゃんのことを知っていたからいいものの。
「秋山なら、美術室にいると思うから案内するぞ」
一人で行くので大丈夫です。と言ったが、軽快に無視され三階にある美術室に向かった。
「奥村が亡くなったから、藤沢のこと心配してたんだよ。中学のときに奥村しか友達がいなかったろ? だから高校で一人になってないか不安でな……」
こいつは昔からデリカシーがない。牧野は私が三年のときの担任だった。一人でいた私を無理やり他の生徒と仲良くさせようとしたり、ホームルームで『誰か藤沢と友達になってやれ』と言ってきたり、とにかくムカついた。本人に悪気はないのだが、それもムカついた。私のためと思っていたのかもしれないが、ひたすらムカついた。そのせいで学校に行くのをやめようと思ったこともある。あまりにムカついたから、黒魔術の教室に通おうかと思ったが、蒼空に止められた。
「高校では友達できたか?」
どうせできてないだろ? みたいな顔で言ってきたので、「学年のほとんどの人と友達です。多すぎて困ってるくらいです」と見栄を張った。
全然いませんとか言ったら、根性論を発動してくるのでそれを阻止した。
「本当か? 本当に友達か」
こいつぶん殴ってやろうか。自分の教え子の言ったことを信じろよ。嘘だけど信じろよ。上辺だけでも信じろよ。
「ええ、友達です」
ほとんど感情の乗ってない「友達です」を言ったとき美術室に着いた。牧野は首を傾げながら扉を開ける。
中に入ると、窓から入ってくる乾いた風が絵の具の匂いを運んできた。雰囲気や匂いがどこか懐かしく感じる。
窓側の一番後ろの席に紗奈ちゃんがいた。絵の具を使って何か描いていたが、私に気づくと立ち上がって綺麗なお辞儀をした。
「秋山、藤沢を知ってるか?」
「はい」
「お前に会いに来たみたいだぞ」
こいつにお前と呼ばれるのはムカつくだろうなと思う。言われてない私がもうムカついてるのだから。
「一昨日は失礼しました」
「ううん」
私は首を横に振る。
「俺は職員室にいるから、用が済んだら挨拶こいよ」
牧野は頭をかきながら教室を後にした。先ほどまで胸に纏わりついた不快感が安堵に変わる。
「奥村さんのことですか?」
「それと紗奈ちゃんのことも」
「私ですか?」
「うん」
そう言ったあと、私は彼女の隣の席に座った。
紗奈ちゃんは机の上に置いてある画材道具を片付けようとしたが「大丈夫、そのままで」と私が言うと、すいませんと軽く頭を下げた。
「すごい……」
先ほどまで紗奈ちゃんが描いていた絵を見て、思わず声が漏れた。
小さなキャンパスには、海に沈んでいく夕日が描かれている。
オレンジに染まる海と空。空の上部には夜が薄らかにかかり、そのグラデーションがなんとも美しい。絵のことはまったく分からないが、彼女の才能は私でも分かった。
「あの……」
絵の世界に魅せられていて、現実から意識が遠のいていた。彼女の言葉で戻ってくる。
「ごめん、あまりにすごすぎて、つい見入っちゃった」
「ありがとうございます」
「美術部って紗奈ちゃん一人だけなの?」
「いえ、他にもいます」
彼女が言うには、部員は美月ちゃんを入れて五人。他の三人はほとんど顔を出さないようだ。来ても漫画を読んだり話をしているだけなので、実質、彼女と美月ちゃんの二人らしい。基本自由な部活みたいだ。
「それで聞きたいことって何ですか?」
「美月ちゃんが絵をやめるって言った理由に心当たりないの?」
「奥村さんは私が理由って言ってたけど、まったく心当たりがなくて……」
「変わった様子もなかった?」
紗奈ちゃんは細い指を口元に当てながら考えていた。
音が消えた美術室には、運動部と思われる声が外から響いてくる。
「あっ」
何かを思い出したように口を開いた。
「奥村さんが絵をやめると言った何日か前に、ここで絵を描いていたんですけど」
「うん」
「教室にスケッチブックを忘れたことに気づいて取りに戻ったんです。帰ってきたら、奥村さんが涙ぐみながら美術室から出てきました」
「泣いてたの?」
「はい。理由は分かりませんが、奥村さんは自分の描いた絵を持っていました。月の絵なんですが、その絵を参考に私も月を描いていたんです」
「そのとき何か話した?」
「私が描いた月の絵を見たらしく、『どれくらいの期間で描いたのか』『月の絵を描くのは初めてか』と聞かれました。質問に答えたら、そのまま去ってしまったので、事情が把握できませんでした。あと、美術室に入ったら牧野先生がいました」
牧野に何か言われた? あいつなら余計なことを言いそうだ。
「牧野は何か言ってた?」
「私の描いた月の絵を見て、コンクールに出すよう言ってきました」
「コンクール?」
「はい。月をテーマにしたコンクールの公募があるから、そこに出した方がいいって」
月といえば美月ちゃんが得意な絵だ。
「その絵って今見れる?」
「はい。準備室に置いてあります」
紗奈ちゃんは立ち上がって、教室の後ろにある準備室に向かった。私もその後を付いていく。
中は思ったより広く、数人入っても余裕があるぐらいだった。棚にはイラスト集や画材道具、除湿剤などが置いてある。
そして奥には木の台(確かイーゼル)に立てられた一枚の絵があった。
「これです」
そこに描かれていたのは、向日葵を抱えた少女が夜空の月を見上げている絵だった。少女はこの学校の制服を着ており、腰まで伸びた髪が風で揺られている。少女の顔は靡いた髪で隠れている。
さっきの絵もすごいが、こちらはそれ以上だ。なにより月が美しい。白を帯びた満月が少女を照らすようにして夜空に君臨している。この絵で真っ先に目がいくのはこの月だ。それほど存在感がある。
「これは絵の具?」
「はい」
「すごいね。特にこの月が綺麗」
「奥村さんに比べればまだまだです。彼女の描く月は本当に綺麗だし、私はあの絵が好きなんです。だからまた描いてほしい」
紗奈ちゃんは月の絵を見ながら言った。双眸に切なさを滲ませている。
「この絵、写真撮ってもいい?」
「はい」
ブレザーのポケットからスマホを出し、絵の写真を撮った。画面越しでもこの絵の素晴らしさは伝わる。
「紗奈ちゃんありがとう。邪魔しちゃってごめんね」
「いえ、奥村さんはあのあと何か言ってませんでしたか?」
部屋から出てこなくなった、とは言えない。だから代わりに、
「美月ちゃんが絵をやめた理由は分からない。でも描きたいって気持ちがまだあるなら、描いてもらえるように頑張ってみる」
「お願いします。私にも協力できることがあったら言ってください」
「ありがとう」
そのあと、紗奈ちゃんと連絡先を交換して美術室を出た。
そのまま家に戻りたかったが、牧野に帰ることを伝えないといけなかった。昇降口に向かう足を無理やり捻り、職員室に入る。
「社会っていうのはお前が思ってるより厳しいところだから、もっとコミュニケーションをとらないとダメだぞ。お前は内気すぎるから……」
帰りますと伝えると、説教じみた演説を十五分ほど聞かされた。その間、私は一言も喋らなかった。それでも気にせずに話しを続ける牧野を見て、コミュニュケーションとはなんなのだろうと思った。
牧野が話し終えたあと、さきほど紗奈ちゃんが言っていたことを聞いてみた。こいつが美月ちゃんに何か言ったのではと私は踏んでいる。
「秋山の絵はすごいだろ。俺がすごいと思うってことは、相当すごいぞ」
それは誰でも分かる。聞いてるのはそっちじゃない。また一人語りが始まりそうなので、「美月ちゃんに何か言いましたか」と具体的に聞いた。
「奥村が応募しようとしていたコンクールがあったんだが、他に変えた方がいいって薦めたんだ。秋山の絵のほうが賞を獲れると思ったからな。コンクールってのはたくさんあるから、可能性があるところに送るのが一番いいんだよ」
そのあと、牧野は絵のことを語り始めた。長くなりそうなので話を遮り「もう帰ります」と伝えると「そうか」と寂しそうな顔をした。だがそれは、教え子が帰ることへの寂しさではなく、話し相手がいなくなる寂しさだと思った。
就寝前に写真で撮った紗奈ちゃんの絵を見返した。
何度見ても美しいと感じる。でも気になる点もあった。絵に描かれた少女は中学の制服を着ている。しかも冬服だ。
誰かモデルがいるのだろうか? なぜ向日葵を抱えているのだろうか? 制服は冬服なのに抱えているのは夏の花。
芸術の世界は分からないが、こういうのは意味があったりするもんなのか? 涙ぐんでいたのは、牧野に他のコンクールを薦められたからなのだろうか? 考えれば考えれるほど、疑問が湧き出てきて頭が痛くなる。
芸術の世界は私みたいな人間には知り得ないことがたくさんあるんだろう。もしそれを知らないと解決できないことだったら、美月ちゃんに再び絵を描いてもらうのは絶望的だ。
芸術関連の知り合いがいれば何か掴めるのかもしれないけど、そんな人間、私の周りには……
いた。知り合いではないし、分野も違うけど、創作という点において共通点があるかもしれない。
私の視線はカラーボックスにある枯木青葉の本に向いていた。
枯木青葉は担当編集の青木という人を流星の駅に呼んで、あの本を書いた。その人に話を聞けたら、何かヒントを見つけられるかもしれない。
結衣さんは青木って人に私の番号を伝えると言っていたが、一向にかかってこない。あの人は本当に伝えたんだろうか。一抹の不安を抱えながら、私は眠りについた。
「そうだっんだ……」
昼休み、公園のベンチで雪乃と昼食をとった。その際に、花山がなぜ殴ってしまったのかという理由を説明した。
雪乃にも協力してもらったので、報告するべきだと思ったし、私が信頼を置く人には知ってほしかった。
「花山くんは優しく在りたいと思っていたのに、その優しさの向け方が分からなくなったんだね」
「うん。蓮夜くんだけに優しさを向けれたのは、信頼できたからだと思う。他人では何が返ってくるか分からないから」
優しさって難しいよね、と雪乃は言った。そして付言するように言葉を繋げる。
「『周りの人に優しくできる人が好き』って言ったとしても、特別な優しさは自分だけに向けてほしいじゃん。おばあちゃんが重い荷物を持っているから手伝うとか、店員さんへの接し方とか、これは『周りの人に優しい』。女友達が風邪を引いたからお見舞いに行くは『特別な優しさ』だから『周りの人に優しい』の部分には入らない。だけど言葉だけみれば間違ってはいない。要は安心と不安が境界線になってるんだと思うの。付き合っていく上で、良い関係性を築けるのかって。でも表面の言葉だけで全部は汲み取れない。人によってその線引きは変わるし、優しさをオーダーメイドしないと細部まで理解してもらえない。だからと言って、理想ばかり押し付けたら相手が苦しむ。妥協しながら失敗と経験を経て、人は優しさを理解していくんだと思う」
人それぞれの生き方があり、バックボーンがある。その過程で考えや価値観が変わり、求めるものや受け取り方が決まってくる。だからこそ、普通に生きるということが難しいんだと思う。違う道を歩いてきたなら見てきたものも違う。だからこそ人に傷つけられることもあれば、人を傷つけてしまうこともある。優しさにも相性があって、噛み合わないとぶつかってしまうのかもしれない。
「生きるって何でこんなに難しいんだろうね」
美月ちゃんのことも相まって思わず口に出た。
大人はまだ十七歳だろと笑うだろうが、十七歳でも世知辛い世の中なのだ。
「何ででしょうね」
雪乃はおばあちゃんみたいな口調で言った。
「幸せになりたいですね」
私もおばあちゃんみたいな口調で返した。
「そうですね」
雪乃はおばあちゃん返しを再度してきた。
「いい天気ですね」
再度私もおばあちゃんで返す。
「雲が綺麗ですね」
「カリフラワーみたいですね」
「茹でましょうか」
「今日の晩御飯にしましょう」
「美味しそうですね」
「ええ、美味しいですとも」
私たちは昼休みが終わるまで、おばあちゃんをしていた。
放課後、駅前のファーストフード店でポテトとメロンソーダを注文し、二階の奥の席に着いた。
学校の人も何人かおり、楽しそうに話している。少し前ならその光景に嫌悪していたが、今は何も思わない。孤独は世界を歪んで見せる。今までの澱んだ感情は自分で作っていたんだなと思った。
ポテトを口に運びながら、スマホで枯木青葉のことを調べた。
枯木青葉の作品は亡くなった後に出した本も含め、全部で五作品ある。そのどれもが同じ出版社だ。ホワイトノベル大賞というコンクールで大賞を受賞し、デビューに至った。
デビュー作はそれなりに売れたようだが、二作目からは批判も増え、三作目では売上がだいぶ落ちたらしい。生前最後の作品に至っては、売れもしなければ、批判もかなり多かった。私は四作とも好きだったが、嫌いという人の意見も理解できる。
枯木青葉の作品は好みがはっきりと分かれる。著者の思考がもろに出ており、その考えに共感できれば面白いだろうが、理解できなければ価値観を押し付けられているように感じると思う。実際にそういうレビューはたくさんあった。
「作者のためにキャラクターがいる」「主人公を理解できないし、共感もできない」「自己満の作品。キャラクターの後ろに作者が透けて見える」
作品が好きだった私は、その一つ一つの批判にショックを受けたが、反面その理由も理解できた。
だが、亡くなった後に出た作品は今までとは変わり、読んでいる人に寄り添うような優しい言葉が多かった。枯木青葉という個性を残しつつ、新規層にも届くようになっていたと思う。
家に帰ったら、もう一度全部読み返そう。そう思ったときスマホに着信が入った。
知らない番号が表示されていたため、もしやと思いメロンソーダでポテトを流し込んで電話に出た。
「藤沢千星さんの携帯でお間違いないでしょうか?」
「はい」
「白川出版の青木と申します。結衣さんから電話番号を教えてもらい、おかけしました。枯木青葉について聞きたいということですよね?」
本当にかかってきた。結衣さんを疑ったことを心の中で謝罪し、電話に戻る。
「はい。最後の作品のことをお聞かせいただければと……」
「明日の十七時頃って空いてますか?」
「はい、大丈夫です。どこに行けばいいですか?」
「確か高校生でしたよね? こっちまで来たら帰る時間も遅くなると思ので、こちらから伺います」
「それはかたじけないので、こちらからお伺いするでございます」
緊張して、得体の知れない敬語の化け物が産まれた。冒頭に武士がいた気がする。
普段は言葉遣いを意識していないため、丁寧に言おうとすると敬語が絡み合ってしまう。
電話越しから「フフッ」と一笑した声が聞こえてきて、思わず恥ずかしくなった。
「大丈夫、こっちから行くから。最寄りの駅だけ教えてもらっていい?」
駅名を伝えたあと、集合場所も決め、明日の十七時に会うことになった。
電話を切り、再びポテトを口に運ぶ。
結衣さんの話を聞くかぎり、枯木青葉は絶望していた。自分の作品が世間に評価されないことを悔やみ、命を絶った。
彼にとって小説とは人生そのものだったのかもしれない。それを否定され、生きる希望を無くしてしまったのだろうか?
美月ちゃんは絵を描く仕事に就きたいと言っていた。絵を人生の目標に掲げていたなら、夢を捨てるという行為は、命に傷を付けることではないのか? そう思ったら、急に不安が押し寄せ来た。
不安と連動したようにスマホに着信が入る。画面には美里さんの名前が表示されていた。
胸がざわついた。まだそうと決まったわけではないが、変な想像が頭をよぎる。
一度深呼吸をしてから、恐る恐る電話に出た。
「もしもし……」
「今、家にいる?」
「これから帰るとこ」
「……」
表情の見えない沈黙が想像を広げる。鼓膜から不安が入ってきて、全身を這いずり回り蹂躙していくようだった。
耐えかねた私は自然と口が開いた。
「何かあったの?」
「美月がいなくなった」
卒業してから一度も来ていないので約二年ぶりになる。
中学のときは蒼空しか友達がいなかったし、学年の中でも地味なほうだった。だから私を覚えている先生はほとんどいないかもしれない。
『誰?』という顔をされたらどうしよう。そんな想いを抱きながら昇降口に入った。
「おー、藤沢じゃないか」
正面にある階段から牧野が降りて来た。大声で私の名前を呼ぶので羞恥心が芽生える。
二年前と変わらず角刈りだった。ふくよかな体型にジャージ姿なのも一緒だ。
美術部の顧問と言われても誰も信じないだろう。どちらかといえばラーメン屋の格好の方が似合う。
「どうした? 俺に会いに来たか」
豪快に笑いながら、ざらついた声でつまらない冗談を言う。
「美術部に一年生の秋山さんていますよね? 会いに来ました」
本来ならツッコミを入れるところであったがスルーした。面倒くさいから。
「秋山のこと知ってるのか? あっ、奥村の妹から聞いたのか。あいつ学校来なくなってな。次に会ったら来いって言っといてくれ。悩みがあるなら俺が聞くからって。最近の子は何かあるとすぐに引きこもる。気合いと根性が足りないんだよな」
牧野は美術部の顧問なのに体育会系の考えを持っている。大体のことを根性論で片付けようとするところも相変わらずだった。
それと、あんまり人の家庭の事情を他人に話すべきではない。私は美月ちゃんのことを知っていたからいいものの。
「秋山なら、美術室にいると思うから案内するぞ」
一人で行くので大丈夫です。と言ったが、軽快に無視され三階にある美術室に向かった。
「奥村が亡くなったから、藤沢のこと心配してたんだよ。中学のときに奥村しか友達がいなかったろ? だから高校で一人になってないか不安でな……」
こいつは昔からデリカシーがない。牧野は私が三年のときの担任だった。一人でいた私を無理やり他の生徒と仲良くさせようとしたり、ホームルームで『誰か藤沢と友達になってやれ』と言ってきたり、とにかくムカついた。本人に悪気はないのだが、それもムカついた。私のためと思っていたのかもしれないが、ひたすらムカついた。そのせいで学校に行くのをやめようと思ったこともある。あまりにムカついたから、黒魔術の教室に通おうかと思ったが、蒼空に止められた。
「高校では友達できたか?」
どうせできてないだろ? みたいな顔で言ってきたので、「学年のほとんどの人と友達です。多すぎて困ってるくらいです」と見栄を張った。
全然いませんとか言ったら、根性論を発動してくるのでそれを阻止した。
「本当か? 本当に友達か」
こいつぶん殴ってやろうか。自分の教え子の言ったことを信じろよ。嘘だけど信じろよ。上辺だけでも信じろよ。
「ええ、友達です」
ほとんど感情の乗ってない「友達です」を言ったとき美術室に着いた。牧野は首を傾げながら扉を開ける。
中に入ると、窓から入ってくる乾いた風が絵の具の匂いを運んできた。雰囲気や匂いがどこか懐かしく感じる。
窓側の一番後ろの席に紗奈ちゃんがいた。絵の具を使って何か描いていたが、私に気づくと立ち上がって綺麗なお辞儀をした。
「秋山、藤沢を知ってるか?」
「はい」
「お前に会いに来たみたいだぞ」
こいつにお前と呼ばれるのはムカつくだろうなと思う。言われてない私がもうムカついてるのだから。
「一昨日は失礼しました」
「ううん」
私は首を横に振る。
「俺は職員室にいるから、用が済んだら挨拶こいよ」
牧野は頭をかきながら教室を後にした。先ほどまで胸に纏わりついた不快感が安堵に変わる。
「奥村さんのことですか?」
「それと紗奈ちゃんのことも」
「私ですか?」
「うん」
そう言ったあと、私は彼女の隣の席に座った。
紗奈ちゃんは机の上に置いてある画材道具を片付けようとしたが「大丈夫、そのままで」と私が言うと、すいませんと軽く頭を下げた。
「すごい……」
先ほどまで紗奈ちゃんが描いていた絵を見て、思わず声が漏れた。
小さなキャンパスには、海に沈んでいく夕日が描かれている。
オレンジに染まる海と空。空の上部には夜が薄らかにかかり、そのグラデーションがなんとも美しい。絵のことはまったく分からないが、彼女の才能は私でも分かった。
「あの……」
絵の世界に魅せられていて、現実から意識が遠のいていた。彼女の言葉で戻ってくる。
「ごめん、あまりにすごすぎて、つい見入っちゃった」
「ありがとうございます」
「美術部って紗奈ちゃん一人だけなの?」
「いえ、他にもいます」
彼女が言うには、部員は美月ちゃんを入れて五人。他の三人はほとんど顔を出さないようだ。来ても漫画を読んだり話をしているだけなので、実質、彼女と美月ちゃんの二人らしい。基本自由な部活みたいだ。
「それで聞きたいことって何ですか?」
「美月ちゃんが絵をやめるって言った理由に心当たりないの?」
「奥村さんは私が理由って言ってたけど、まったく心当たりがなくて……」
「変わった様子もなかった?」
紗奈ちゃんは細い指を口元に当てながら考えていた。
音が消えた美術室には、運動部と思われる声が外から響いてくる。
「あっ」
何かを思い出したように口を開いた。
「奥村さんが絵をやめると言った何日か前に、ここで絵を描いていたんですけど」
「うん」
「教室にスケッチブックを忘れたことに気づいて取りに戻ったんです。帰ってきたら、奥村さんが涙ぐみながら美術室から出てきました」
「泣いてたの?」
「はい。理由は分かりませんが、奥村さんは自分の描いた絵を持っていました。月の絵なんですが、その絵を参考に私も月を描いていたんです」
「そのとき何か話した?」
「私が描いた月の絵を見たらしく、『どれくらいの期間で描いたのか』『月の絵を描くのは初めてか』と聞かれました。質問に答えたら、そのまま去ってしまったので、事情が把握できませんでした。あと、美術室に入ったら牧野先生がいました」
牧野に何か言われた? あいつなら余計なことを言いそうだ。
「牧野は何か言ってた?」
「私の描いた月の絵を見て、コンクールに出すよう言ってきました」
「コンクール?」
「はい。月をテーマにしたコンクールの公募があるから、そこに出した方がいいって」
月といえば美月ちゃんが得意な絵だ。
「その絵って今見れる?」
「はい。準備室に置いてあります」
紗奈ちゃんは立ち上がって、教室の後ろにある準備室に向かった。私もその後を付いていく。
中は思ったより広く、数人入っても余裕があるぐらいだった。棚にはイラスト集や画材道具、除湿剤などが置いてある。
そして奥には木の台(確かイーゼル)に立てられた一枚の絵があった。
「これです」
そこに描かれていたのは、向日葵を抱えた少女が夜空の月を見上げている絵だった。少女はこの学校の制服を着ており、腰まで伸びた髪が風で揺られている。少女の顔は靡いた髪で隠れている。
さっきの絵もすごいが、こちらはそれ以上だ。なにより月が美しい。白を帯びた満月が少女を照らすようにして夜空に君臨している。この絵で真っ先に目がいくのはこの月だ。それほど存在感がある。
「これは絵の具?」
「はい」
「すごいね。特にこの月が綺麗」
「奥村さんに比べればまだまだです。彼女の描く月は本当に綺麗だし、私はあの絵が好きなんです。だからまた描いてほしい」
紗奈ちゃんは月の絵を見ながら言った。双眸に切なさを滲ませている。
「この絵、写真撮ってもいい?」
「はい」
ブレザーのポケットからスマホを出し、絵の写真を撮った。画面越しでもこの絵の素晴らしさは伝わる。
「紗奈ちゃんありがとう。邪魔しちゃってごめんね」
「いえ、奥村さんはあのあと何か言ってませんでしたか?」
部屋から出てこなくなった、とは言えない。だから代わりに、
「美月ちゃんが絵をやめた理由は分からない。でも描きたいって気持ちがまだあるなら、描いてもらえるように頑張ってみる」
「お願いします。私にも協力できることがあったら言ってください」
「ありがとう」
そのあと、紗奈ちゃんと連絡先を交換して美術室を出た。
そのまま家に戻りたかったが、牧野に帰ることを伝えないといけなかった。昇降口に向かう足を無理やり捻り、職員室に入る。
「社会っていうのはお前が思ってるより厳しいところだから、もっとコミュニケーションをとらないとダメだぞ。お前は内気すぎるから……」
帰りますと伝えると、説教じみた演説を十五分ほど聞かされた。その間、私は一言も喋らなかった。それでも気にせずに話しを続ける牧野を見て、コミュニュケーションとはなんなのだろうと思った。
牧野が話し終えたあと、さきほど紗奈ちゃんが言っていたことを聞いてみた。こいつが美月ちゃんに何か言ったのではと私は踏んでいる。
「秋山の絵はすごいだろ。俺がすごいと思うってことは、相当すごいぞ」
それは誰でも分かる。聞いてるのはそっちじゃない。また一人語りが始まりそうなので、「美月ちゃんに何か言いましたか」と具体的に聞いた。
「奥村が応募しようとしていたコンクールがあったんだが、他に変えた方がいいって薦めたんだ。秋山の絵のほうが賞を獲れると思ったからな。コンクールってのはたくさんあるから、可能性があるところに送るのが一番いいんだよ」
そのあと、牧野は絵のことを語り始めた。長くなりそうなので話を遮り「もう帰ります」と伝えると「そうか」と寂しそうな顔をした。だがそれは、教え子が帰ることへの寂しさではなく、話し相手がいなくなる寂しさだと思った。
就寝前に写真で撮った紗奈ちゃんの絵を見返した。
何度見ても美しいと感じる。でも気になる点もあった。絵に描かれた少女は中学の制服を着ている。しかも冬服だ。
誰かモデルがいるのだろうか? なぜ向日葵を抱えているのだろうか? 制服は冬服なのに抱えているのは夏の花。
芸術の世界は分からないが、こういうのは意味があったりするもんなのか? 涙ぐんでいたのは、牧野に他のコンクールを薦められたからなのだろうか? 考えれば考えれるほど、疑問が湧き出てきて頭が痛くなる。
芸術の世界は私みたいな人間には知り得ないことがたくさんあるんだろう。もしそれを知らないと解決できないことだったら、美月ちゃんに再び絵を描いてもらうのは絶望的だ。
芸術関連の知り合いがいれば何か掴めるのかもしれないけど、そんな人間、私の周りには……
いた。知り合いではないし、分野も違うけど、創作という点において共通点があるかもしれない。
私の視線はカラーボックスにある枯木青葉の本に向いていた。
枯木青葉は担当編集の青木という人を流星の駅に呼んで、あの本を書いた。その人に話を聞けたら、何かヒントを見つけられるかもしれない。
結衣さんは青木って人に私の番号を伝えると言っていたが、一向にかかってこない。あの人は本当に伝えたんだろうか。一抹の不安を抱えながら、私は眠りについた。
「そうだっんだ……」
昼休み、公園のベンチで雪乃と昼食をとった。その際に、花山がなぜ殴ってしまったのかという理由を説明した。
雪乃にも協力してもらったので、報告するべきだと思ったし、私が信頼を置く人には知ってほしかった。
「花山くんは優しく在りたいと思っていたのに、その優しさの向け方が分からなくなったんだね」
「うん。蓮夜くんだけに優しさを向けれたのは、信頼できたからだと思う。他人では何が返ってくるか分からないから」
優しさって難しいよね、と雪乃は言った。そして付言するように言葉を繋げる。
「『周りの人に優しくできる人が好き』って言ったとしても、特別な優しさは自分だけに向けてほしいじゃん。おばあちゃんが重い荷物を持っているから手伝うとか、店員さんへの接し方とか、これは『周りの人に優しい』。女友達が風邪を引いたからお見舞いに行くは『特別な優しさ』だから『周りの人に優しい』の部分には入らない。だけど言葉だけみれば間違ってはいない。要は安心と不安が境界線になってるんだと思うの。付き合っていく上で、良い関係性を築けるのかって。でも表面の言葉だけで全部は汲み取れない。人によってその線引きは変わるし、優しさをオーダーメイドしないと細部まで理解してもらえない。だからと言って、理想ばかり押し付けたら相手が苦しむ。妥協しながら失敗と経験を経て、人は優しさを理解していくんだと思う」
人それぞれの生き方があり、バックボーンがある。その過程で考えや価値観が変わり、求めるものや受け取り方が決まってくる。だからこそ、普通に生きるということが難しいんだと思う。違う道を歩いてきたなら見てきたものも違う。だからこそ人に傷つけられることもあれば、人を傷つけてしまうこともある。優しさにも相性があって、噛み合わないとぶつかってしまうのかもしれない。
「生きるって何でこんなに難しいんだろうね」
美月ちゃんのことも相まって思わず口に出た。
大人はまだ十七歳だろと笑うだろうが、十七歳でも世知辛い世の中なのだ。
「何ででしょうね」
雪乃はおばあちゃんみたいな口調で言った。
「幸せになりたいですね」
私もおばあちゃんみたいな口調で返した。
「そうですね」
雪乃はおばあちゃん返しを再度してきた。
「いい天気ですね」
再度私もおばあちゃんで返す。
「雲が綺麗ですね」
「カリフラワーみたいですね」
「茹でましょうか」
「今日の晩御飯にしましょう」
「美味しそうですね」
「ええ、美味しいですとも」
私たちは昼休みが終わるまで、おばあちゃんをしていた。
放課後、駅前のファーストフード店でポテトとメロンソーダを注文し、二階の奥の席に着いた。
学校の人も何人かおり、楽しそうに話している。少し前ならその光景に嫌悪していたが、今は何も思わない。孤独は世界を歪んで見せる。今までの澱んだ感情は自分で作っていたんだなと思った。
ポテトを口に運びながら、スマホで枯木青葉のことを調べた。
枯木青葉の作品は亡くなった後に出した本も含め、全部で五作品ある。そのどれもが同じ出版社だ。ホワイトノベル大賞というコンクールで大賞を受賞し、デビューに至った。
デビュー作はそれなりに売れたようだが、二作目からは批判も増え、三作目では売上がだいぶ落ちたらしい。生前最後の作品に至っては、売れもしなければ、批判もかなり多かった。私は四作とも好きだったが、嫌いという人の意見も理解できる。
枯木青葉の作品は好みがはっきりと分かれる。著者の思考がもろに出ており、その考えに共感できれば面白いだろうが、理解できなければ価値観を押し付けられているように感じると思う。実際にそういうレビューはたくさんあった。
「作者のためにキャラクターがいる」「主人公を理解できないし、共感もできない」「自己満の作品。キャラクターの後ろに作者が透けて見える」
作品が好きだった私は、その一つ一つの批判にショックを受けたが、反面その理由も理解できた。
だが、亡くなった後に出た作品は今までとは変わり、読んでいる人に寄り添うような優しい言葉が多かった。枯木青葉という個性を残しつつ、新規層にも届くようになっていたと思う。
家に帰ったら、もう一度全部読み返そう。そう思ったときスマホに着信が入った。
知らない番号が表示されていたため、もしやと思いメロンソーダでポテトを流し込んで電話に出た。
「藤沢千星さんの携帯でお間違いないでしょうか?」
「はい」
「白川出版の青木と申します。結衣さんから電話番号を教えてもらい、おかけしました。枯木青葉について聞きたいということですよね?」
本当にかかってきた。結衣さんを疑ったことを心の中で謝罪し、電話に戻る。
「はい。最後の作品のことをお聞かせいただければと……」
「明日の十七時頃って空いてますか?」
「はい、大丈夫です。どこに行けばいいですか?」
「確か高校生でしたよね? こっちまで来たら帰る時間も遅くなると思ので、こちらから伺います」
「それはかたじけないので、こちらからお伺いするでございます」
緊張して、得体の知れない敬語の化け物が産まれた。冒頭に武士がいた気がする。
普段は言葉遣いを意識していないため、丁寧に言おうとすると敬語が絡み合ってしまう。
電話越しから「フフッ」と一笑した声が聞こえてきて、思わず恥ずかしくなった。
「大丈夫、こっちから行くから。最寄りの駅だけ教えてもらっていい?」
駅名を伝えたあと、集合場所も決め、明日の十七時に会うことになった。
電話を切り、再びポテトを口に運ぶ。
結衣さんの話を聞くかぎり、枯木青葉は絶望していた。自分の作品が世間に評価されないことを悔やみ、命を絶った。
彼にとって小説とは人生そのものだったのかもしれない。それを否定され、生きる希望を無くしてしまったのだろうか?
美月ちゃんは絵を描く仕事に就きたいと言っていた。絵を人生の目標に掲げていたなら、夢を捨てるという行為は、命に傷を付けることではないのか? そう思ったら、急に不安が押し寄せ来た。
不安と連動したようにスマホに着信が入る。画面には美里さんの名前が表示されていた。
胸がざわついた。まだそうと決まったわけではないが、変な想像が頭をよぎる。
一度深呼吸をしてから、恐る恐る電話に出た。
「もしもし……」
「今、家にいる?」
「これから帰るとこ」
「……」
表情の見えない沈黙が想像を広げる。鼓膜から不安が入ってきて、全身を這いずり回り蹂躙していくようだった。
耐えかねた私は自然と口が開いた。
「何かあったの?」
「美月がいなくなった」