「君は一人の命を救ったんだよ」
小学四年生のとき、警察署長から感謝状を授与された。
学校の帰りに熱中症で倒れていたおばあちゃんを発見し、持っていたスマホで救急車を呼んだからだ。
後日、母と弟と共に警察署に行き、署長室で表彰を受けた。制服を着た警察官がたくさんいたのを覚えている。
「翔吾くんえらいね」
「よく通報したね」
大人に頭を撫でられながら褒められた。
そこにおばあちゃんの家族もおり、「君がいなかったら母は亡くなってかもしれない。本当にありがとう」そう言われて自分が誇らしく思えた。
何より嬉しかったのは「兄ちゃんすごい」と蓮夜が嬉しそうにしていたことと、「息子さん立派ですね」と褒められ、照れくさそうにしている母を見れたことだ。
人の役に立つと自分だけではなく家族も喜ぶ。それを知り、優しい人間になろうと思った。
それからは困っている人を見たら積極的に手助けするようになり、友達がたくさん増えた。
家に友達が来るたび、蓮夜は俺の部屋に来る。
人懐っこい性格からか、みんなから可愛がられていた。
「俺も兄ちゃんみたいに優しい人になる」
蓮夜は口癖のように言っており、それが人に優しくするためのモチベーションにもなっていた。
ある日、教師が生徒に暴力を振るうという事件がテレビで報道されていた。
それを見て怒りが湧いた。この教師は何も分かってない。力で解決することなんて何もないんだ。優しさがあれば相手は理解してくれるし、こんな問題にもならない。俺は暴力を使う人間を軽蔑した。
中学三年のとき、塩谷という子と同じクラスになった。
伏目がちで、どことなく暗い雰囲気纏っていたため、周りの生徒たちは距離をとっていたように思う。
昼休みに勉強ばかりしていたので『ガリ勉』と呼ぶ生徒もいた。俺はその言い方が好きではなかった。人が一生懸命やっているのをバカにするような言葉を使うべきではない。むしろ褒めるべきことだ。
塩谷は帰宅部で、清掃が終わるとすぐに下校する。部活での交流もないため、クラスにも馴染みづらかったのかもしれない。
きっと辛いだろうと思い、昼休みに話しかけてみた。
「塩谷はすごいよな。俺はそんなに勉強はできない。だから尊敬するよ」
「別に好きでやってるわけじゃない」
急に声をかけたからか、塩谷は驚いた顔で俺を見たあと、目を伏せてそう答えた。
「だったら尚更すごい。好きじゃないことを昼休みにまでやってるんだから」
「別に普通だと思う」
塩谷はノートをとりながら消え入りそうな声で言う。
「勉強もいいけど、たまには外でサッカーやらない? みんなと過ごすのも大事なことだよ」
クラスの人と打ち解けるきっかけを作りたかった。塩谷もきっと仲良くしたいと思ってるはずだ。
「今から外行って、一緒にやろう」
塩谷は迷っているように見えた。
それもそうだ、クラスに馴染めていないのだから。だから間に入る人間が必要になる。
他の人は塩谷を得体の知れない人間という目で見てたと思う。だからこそ知ってもらわなければならない。一人でいることは辛いはずだから。
「大丈夫、俺と一緒のチームでやろう」
自分で言うのもなんだが、学年の中心にいたし、周りからの信頼も厚いと思う。俺と一緒にいれば、塩谷も話しかけられやすくなるはずだ。そうすればクラスから浮くことはない。
「……分かった」
塩谷の腕をとり、グラウンドへ向かった。
それから塩谷とよく話すようになった。野球部が休みの日は一緒に帰ったり、昼休みにもサッカーやバスケをするようになった。
最初は馴染めていなかった塩谷も、夏頃には周りと話すようになり雰囲気も明るくなった。
「花山は本当に優しいよね」
移動教室の際、クラスの女子に言われた。
「最近は変わったけど、最初は塩谷のこと暗くて苦手だったんだよね。あっ、今はそんなことないよ。でもなんで花山は塩谷と話してるんだろうって不思議だった。花山だけじゃない? あの時の塩谷に話しかけようとしたの」
「一人でいたから辛そうだなって思って。だから話しかけた。でもみんなと打ち解けられて良かったよ」
「花山といるから塩谷にも声かけやすくなった。他の子もそう言ってる。あっ、そういえばさ、二組の子が花山くんって優しいから良いよねって言ってた。たぶん好きっぽいよ」
「いいよ、そういうのは」
今の塩谷はクラスにだいぶ馴染んでいる。友達も増え、一人でいるところはほとんど見なくなった。
それは嬉しかったし、自分でも誇らしかった。優しさで人を変えることができたから。
塩谷はクラスの人と家に来ることもあり、蓮夜も混ざってみんなでテレビゲームをした。
蓮夜は友達を連れてくるといつも嬉しそうにする。
「兄ちゃんって友達多いから、みんなから慕われてるんだね。俺も兄ちゃんみたいな人になる」
いずれそういう言葉も言わなくなるだろう。そう考えると寂しくなるが、できるだけ長く、弟が誇れる兄になっていようと思う。
塩谷にも弟がいるらしいが、病気がちで学校にはあまり行けてないらしい。
「弟は俺くらいしか話す相手がいないからさ、いつか友達を作ってほしいんだよね」
「今度弟も連れて来いよ」
「いいの?」
「蓮夜も喜ぶよ」
「じゃあ今度、弟と一緒に花山の家行くよ」
塩谷の弟にも居場所を作ってやりたかった。誰かの手助けをすることが自分の生きる意味だと思っていたから。
人に優しくするとこで自信を持てたし、自分を好きになれた。それが周りからの信頼にも繋がって人が集まってくる。このときはそう思っていた。
「お願い、少しだけでいいからお金を貸してほしい」
塩谷が家の前まで来て、頭を下げてきた。
理由を聞くと、「弟が入院して、お金がいるから少しでも足しにしたい、頼めるのは花山しかいない」と、懇願するように言う。
弟が入院しているのは知っていた。担任が言っていたし、うちの親もそう言ってた。
塩谷は古びたアパートに住んでおり、私服も同じTシャツをよく着ている。
そのことが頭をよぎり、俺は迷いなくお金を貸した。
貸したと言っても中学生では微々たるものだったが、塩谷が嬉しそうにするのを見て、心地よい気分が胸を走る。
それから定期的にせがまれるようになった。
お年玉で貯めていた貯金を切り崩し、塩谷の弟のためと言い聞かせながら貸していた。
このときに疑うべきだった。普通に考えればおかしなことなのに。
弟がいるから感情移入していたのかもしれない。それと「頼めるのは花山しかいない」という言葉に酔っていたのだと思う。
これが後に、自分という存在を世界から切り離すきっかけになった。
蓮夜の誕生日にゲームソフトを買う約束をしていたが、塩谷に二万ほど貸していたため貯金はあまりなかった。
言いづらかったが、少しだけお金を返してもらおうと思い、校舎裏に塩谷を呼び出して誕生日のことを話した。
「ごめん、入院費で全部使ったから残ってない。母親に相談してみるけど、うちもあまり余裕がないから」
申し訳なさそうにする塩谷を見て、これ以上なにも言えなかった。
「ううん、弟が良くなるといいな」
「本当にごめん、絶対に返すから」
何度も頭を下げるため、こっちが申し訳なくなってきた。
帰ってから蓮夜に謝った。詳しい事情は話さなかったが、友達のためと言うと「兄ちゃんは優しいね」と笑顔で返してくる。
来年はちゃんと買うからと言うと、「別にそんなに欲しくなかったらいいよ」と興味なさげな顔でテレビに視線を戻した。
その気遣いに心苦しくなり、「ちゃんと買うから」と言葉をかけると、再放送のドラマを見ながら「うん」とだけ言った。
下校時に教科書を忘れたことに気づいて学校に戻った。
もうすぐ受験が始まるため、誰もいないだろうと思っていたが、教室の中から声がした。
「かっこよくない?」
「俺もこれ欲しかったんだよね」
「てか、このスニーカー結構高くなかった?」
「買うために貯金したから」
最後の声で扉を開ける手が止まった。
少しだけ開いた扉から教室を覗くと、机の上に座った塩谷が、クラスの男子二人にスマホを見せている。
「これいくらだった?」
「二万で買った」
塩谷が自慢気な顔で言った。
何を言っているかすぐに理解できなかった。二万は弟の入院費に使ったはずだ。じゃあ何でスニーカーを買えたんだ?
頭の中で絡みあう糸が、点と点を結ぶまで時間がかかった。そのあとの会話は、ほとんど耳に入っていなかったと思う。
何度も糸を解き、何度も結び直して、ようやく理解に繋げる。
散らかった思考を整理しながら、煮えたぎるような感情を優しさで抑えていた。
すると目の前の扉が開いて、三人が出てきた。
「びっくりした。花山いたのかよ」
「教科書忘れて」
「これから駅前のファミレス行くけど花山も行く?」
「いや、いい」
「じゃあ明日な」
塩谷は目を伏せながら二人に付いて行こうとしていた。
「塩谷、話がある」
肩をビクッとさせて立ち止まった。その反応を見るかぎり、もう何を言われるか分かったはずだ。
「じゃあ俺ら先行ってるから」
そう言って二人は廊下を歩いていく。
彼らの足音が遠のくたび、塩谷の視線は下に向かう。今は自分の黒ずんだ上履きを見てる。
二人が階段を降りるのを確認したあと、塩谷に教室に戻るよう言った。
日中は喧騒に包まれている教室も、放課後になると哀愁が漂う。その哀愁が、より緊張感を高めているように感じた。
塩谷は教卓付近で足を止める。顔を見せたくないのか、こちらに背を向けていた。
「スニーカー買ったんだって」
塩谷は沈黙で返す。
正直バカだと思った。なぜクラスの奴にわざわざ自慢したのか。しかも値段まで丁寧に説明して。いずれ俺の耳に入る可能性もあるなら黙っておくべきだ。自己顕示欲の方が勝ったということか。
そう考えると、こんな奴に貸した自分が哀れに感じた。
「返せばいいんだろ」
開き直ったのか、投げ捨てるように言った。
「そう言う問題じゃないだろ。俺はお前の弟のためにお金を貸したんだぞ。スニーカーを買わせるためじゃない。嘘までついて自分が情けないと思わないのか?」
「そう言うところがムカつくんだよ……」
塩谷は肩を震わせながら小さく零した。
その言葉の意味が分からなかったため聞き返すと、塩谷は形相を変えてこちらを振り返った。
「お前だって利用してたじゃないか。俺みたいにクラスで浮いていた奴と仲良くすれば、周りから優しいって思われるもんな。聞いたぞ、お前が女子と話してたの。それで自分の好感度を上げて、女に好意を持たれる。そのために俺を使ったんだろ」
前に廊下で話してた時だ。あのときそばににいたのか。
でもそんなつもりは全くない。塩谷は言葉の受け取り方を間違っている。
「なんか勘違いしてるぞ。お前と仲良くしたのは利用するためじゃない。一人でいたから辛いと思って……」
「あの時だってそうだ。俺は周りからガリ勉ってバカにされてたのを知っている。お前も『俺はそんなに勉強できない。尊敬する』とか言って、皮肉を言ってきただろ」
「違う、本当にすごいと思ったから言ったんだよ」
「嘘つけ、今もどうせバカにしてるんだろ。お前の偽善みたいな優しさが全部ムカつくんだよ」
優しさを否定されたことで、怒りの火種が自分の中に生まれたのが分かった。ずっと大切にしていたものを傷つけられたように思えたから。
「弟の誕生日とか言ってたよな? どうせ良いお兄ちゃんを演じて好感度をあげようってことだろ。最悪な兄貴だな、弟まで利用するなんて。それに気づかず、兄ちゃん、兄ちゃん言って、本当に可哀想だよ。だからあんな馬鹿面になったんだな」
その言葉で糸が切れた。思考よりも早く右手が塩谷を殴る。その衝撃で塩谷は教卓に頭をぶつけ、呻きながら横たわっていた。
人生で初めて人を殴った。右手の拳に感触が残る。俺は呆然としながら塩谷を見下ろしていた。
「お前だけずるいんだよ……」
塩谷は泣きそうな声で嘆いた。俺に見られたくないのか、腕で顔を覆いながら喋る。
「俺だって努力したんだよ。クラスの奴と仲良くできるように無理して明るく振る舞った。それなのに全部お前が持っていく。俺がクラスに溶け込めたのは花山のおかげだって。なんでお前だけが褒められるんだよ」
塩谷に友達ができたのは自分のおかげだと思っていた。俺といるからみんなが声をかける。そう思っていた。
確かにちゃんと見てなかったかもしれない。塩谷は努力してたのに、それを全部自分の手柄にしていた。そして周りも。
「お前の優しさは人のためじゃない。自分のために周りに優しくしてるだけだ。ただの押し付けだよ。人のことなんて見てないじゃないか」
その言葉に何も返せなかった。今まで積み上げてきたものが張りぼてのように感じ、それを受け入れることができないまま、ただ立ち尽くすだけだった。
塩谷は制服の袖で涙を拭いながら立ち上がると、何も言わずに俺の横を通り過ぎていった。
暴力を嫌悪していたはずなのに人を殴ってしまった。優しさで築き上げてきた今までの自分が、ひどく醜い存在に思える。
何かが崩れていくのを感じ、俺は何度も頭の中で塩谷を責めた。
あいつが悪い。あいつがおかしいだけだ。優しさがあれば人は争いなどしない。あいつがまともな人間なら俺が殴ることもなかった。クラスのみんなはきっと理解してくれる。俺はずっと優しくしてきたんだ。その積み重ねがあるから、みんなは俺の味方してくれるはずだし、優しさは自分を守ってくれる。あいつは俺が与えた優しさを無碍に扱ったし、蓮夜も侮辱した。殴られてもしかたのない人間だ。
汚れていく自分に目を瞑りながら、暴力という行いを正当化した。そうしなければ自分を保つことができなかったから。
翌日、教室に入ると中央付近に人だかりができていた。他のクラスの人間も混ざっている。
不思議に思っていると「花山」とその中の誰かが言った。
それを合図にするかのように、一斉に視線がこちらに向く。
胸がざわついた。その視線に軽蔑のようなものが混じっていたから。その瞬間に恐怖が湧き上がり、足がすくんで動けなくなった。
「花山がこんなことする人だとは思わなかった」
女子の一人が言った。
すると人だかりが開き、席に着く塩谷が視界に入る。
同時に言葉を失った。意味が分からなかった。理解の範疇を超えていた。
確かに昨日、俺は塩谷を殴った。一発だけ、そう一発だけだ。だが目の前にいる塩谷は頭に包帯を巻き、顔にはガーゼが三枚貼ってある。
もしかしたら、あのあと転んだりして怪我をしたのかもしれない。そう思い塩谷に問いかけた。
「どうしたんだよ、それ?」
「昨日、花山が俺を殴っただろ。忘れたの?」
「大袈裟すぎるだろ。なんでそうなるんだよ。確かに殴ったけど、俺は一発だけしか殴って……」
「やっぱり殴ったんだ。サイテー」
侮蔑するような目で、クラスの女子に言葉を遮られた。
「違う、塩谷にお金を貸して……」
俺が理由を述べようとすると塩谷は立ち上がった。そして「俺が悪いんだ」と話し始めた。
「花山からお金を借りてたんだ。それを自分の貯金と合わせて弟の入院費に充てようとした。だけど都合がついて必要がなくなったんだ。自分が貯めたお金のほうでスニーカーを買ったんだけど、それを花山が勘違いして、『嘘ついてそれを買ったんだろ』って責められた。俺も説明したけど上手くできなくて、そのまま殴られた」
教室中の視線が俺に集まってきた。完全なる軽蔑に変化した目に戦慄を覚えた。
再度説明しようとしたが、恐怖で言葉が喉に詰まった。
その瞬間、塩谷が小さくほくそ笑んだのが見えた。そして制服のポケットから二万を取り出して、俺に渡してきた。
「花山、本当にごめん。俺の説明不足でこんなことになって。みんなも花山を責めないでほしい。悪いのは全部俺だから」
悲劇の主人公だった。嘘と真実を織り交ぜて脚色したストーリーは、視線というスポットライトを浴びて、俺を悪役に仕立て上げた。
「理由があったとしても、これは流石にやりすぎだろ」
歓声変わりの同情が、周りの声を感化する。
「良い奴だと思ってたのに」
「花山くんがこんなことするなんて」
違う、こいつは自分を正当化してるだけだ。なんで騙される、なんで誰も俺に理由を聞いてこない。
このとき、積み上げた先に何もないと知った。そして自分を肯定してきた優しさは、絶望に変わり散ってゆく。
「俺は……」
声を出したときに集まった視線が、もう他人に向ける目になっていた。
三年間ともに過ごしてきた友達ではなく、罪を犯した疎ましい人間を見る目だった。
その光景に言葉を出すのが怖くなった。今の自分が何を説明しても、すべてが言い訳になってしまう空気が出来上がっているように感じた。
何より、三年間で積み上げてきた信頼が、こんなにも脆いものだと知りショックを受けた。
「もうすぐ受験だし、俺はこれ以上事を大きくしたくないから、先生には転んだって言う。だからみんなも黙っててほしいんだ。俺は花山のことを恨んでもないから」
舞台は薄汚れたハッピーエンドで幕を閉じた。
綺麗事を並べた主人公に観客たちは哀れみを送り、悪役には失望の眼差しが向けられた。
そのあと、自分に送られる軽蔑の視線や蔑む声を聞きながら一日を過ごした。
後悔した。ちゃんと説明すればこんなことにはなっていなかったのかもしれない。
自分の中で期待してしまった。誰かが『ちゃんと花山の話も聞こうよ』と言ってくれることを。それがくるものだと当然のように思っていた。
だが実際は俺への非難だけで終わった。
自分は周りから慕われており、信頼を得ている。そう思っていたのは自分だけだった。それが一番辛かった。
今から説明しようとも思ったが、一度タイミングを外してしまうと、すべてが嘘のように聞こえてしまう。
一人でいるというのは、こんなにも辛いことなのか。たった一日だが、もう限界だった。
放課後、俺は塩谷の家に向かった。
学校で話そうとしたが、塩谷は怯えた表情を浮かべ、クラスの人間を縦にした。
「もう解決したんだろ。これ以上塩谷をいじめるなよ」
「また殴ろうとしてるんじゃない」
蔑んだ目で非難を浴びると、学校で話かけるのは無理だと思った。
塩谷の家は、アパート一階の一番奥だった。俺より少し高いブロック塀が周りを覆っており、敷地内は外からは見えづらくなっていた。
十分ほど家の前で待つと、塩谷が帰ってきた。俺を見るなり「何?」と面倒くさそうな顔をする。
「なんで嘘ついたんだよ。正直にみんなに説明しろよ」
「もう遅いだろ。ていうかさ、お前って誰にも信用されてないんだな。庇う奴もいるかと思ったけど誰もいなかったな。みんな偽善者だって分かってたんだよ」
痛いとこをついてくる。一番言われたくないことだ。
「お前を殴ったことは謝るし、別に咎めたりしない。頼むからみんなに本当のことを話してくれ」
屈辱だったが頭を下げた。もうこれしかないと思ったから。
「無理。もうお金も返したし、俺に構わないでくれよ」
「あの金どうしたんだよ。お前スニーカー買ったんだろ?」
これは気になっていた。親から借りるにも二万という額は大きすぎる。
「スニーカーと弟のゲーム機売ったんだよ。せっかく買ったのにお前のせいで買い損したよ」
「最低だな、お前」
軽蔑を込めた視線を送るが、塩谷は振り払うように嘲笑う。
「どの口が言ってるんだよ。人のこと殴った奴が最低? ぜんぶお前が蒔いた種だろ。殴らなければこんなことにならなかったのになあ。あのとき我慢できなかったお前が悪い。全部自分のせいだろ。それを棚に上げて、なに被害者ぶってるんだよ。こんな兄貴持った弟が可哀想だよ。いや、あんな馬鹿面の弟を持った兄貴の方が可哀想か」
俺は塩谷の胸ぐらを掴みブロック塀に押しつけた。その勢いのまま右手を振りかぶる。
拳が顔の寸前まで伸びたところで自我を戻し、かろうじで止めた。
「なんだよ殴れよ。そしたら慰謝料ふんだぐれたのに。こっちはゲーム機買い戻さないといけねえのに……そうだ、弟が退院するまでにお前が買ってくれよ。そしたら考えてやる」
腐ってる。こんな人間の言うことを信じたクラスの奴らが腹立たしく思えた。
「お前に話しかけたことがすべての間違いだった。あの日からぜんぶ狂った」
胸ぐらを掴んでいた手を離し、敷地の外に向かった。
「いいのかよ、最後のチャンスだぞ」
煩わしい声が背中から聞こえたが、ぜんぶ無視した。
優しさなんて意味がない。積み重ねたところで紙クズと変わらない。
俺はこの日、優しさを捨てた。蓮夜の前だけで見せればいい。そう誓って。
中学を卒業するまでずっと一人で過ごした。
周りからの軽蔑も「こいつらはすぐに騙される奴ら」と心の中で見下した。このやり方は間違っているが、そうしなければ苦しさに耐えることができなかった。
高校では誰とも親しくしないと決めた。
人に優しくすることが自分の存在意義になっていたが、それが今では崩壊した。嫌われてもいいから、一人でいるほうが楽だった。
だが、声をかけられる度に相手を突き放すのが苦しかった。自分が人を傷つけていると分かりながら、それでも傷つける。
だから自ら距離をとり、わざと目つきを鋭くさせて近づかせないようにした。最初は耐え難かったが、幸か不幸か、同じ中学だった相澤もここに入学していた。
すぐに中学の噂は広まり、話しかけてくる者はいなくなった。安堵したが、どこか寂しさも横たわっているように感じた。
一年の秋頃、校庭の隅に設置されたベンチで昼食をとっていた。
校舎から聞こえてくる生徒たちの声が、煩わしさと羨望のグラデーションを感情に描いた。
「いい天気だな」
急な声にカレーパンを喉に詰まらせそうになった。紙パックのレモンティーでなんとか流し込む。
声の主は隣のベンチに座った。誰かと思い横目で見ると奥村蒼空だった。
缶コーヒーを手に、青に蹂躙された空を見上げていた。
奥村を見ていると、塩谷を殴る前の自分を思い出す。学年の中心にいて常に周りには人がいる。そして優しさを兼ね備えていた。
俺は優しさが仇となって返ってきた。こいつもいずれそうなるんじゃないかと思ってる。いや、どこかで期待しているのかもしれない。
同じ道を辿れば、俺自身が安心できる。自分だけじゃないと、一人じゃないと。
俺がベンチを離れようとしたときだった。
「たまにさ、全部が鬱陶しくなることがあるんだよ。もうどうでもいいなって思う日が。でも、そんなときに会いたいって思う人もいる。そいつと会うとさ、澱んでいたものが澄んでいくんだよ。俺もこういう人間になりたいって思う」
何を言ってるか分からなかった。奥村はそのあと、何も言わずに空を眺めていた。
それから、俺が一人で飯を食ってると、たまに奥村が来ることがあった。
特に何かを話すわけではなかったが嫌ではなかった。孤独の中にいた自分にとって、世界と繋がれている感じがしたから。
無理に何かを求めるのではなく、寄り添ってくれているような気がして居心地が良かった。
あるとき、気になっていたことを聞いてみた。
「中学のときの噂は知ってるだろ。なんで俺のとこにくるんだよ」
奥村も知ってるはずだ。そのうえで来てる。その理由が分からなかった。
「噂は聞いたけど、直接見たわけじゃないから。信じるにしても自分の目で見てから決めるよ」
その言葉に心が揺れた。全員が自分を軽蔑していると思っていたから。
だがお人好しにも感じた。こいつはいつか俺みたいになるかもしれない。
「奥村は誰にでも優しくしてしんどくならないの?」
自分と重ねていたのかもしれない。あのときの俺は優しさが存在意義になっていた。でも今は、優しさは自分を傷つけるものだと思っている。
持っていても意味などない、ただの紙くずだと。
「自分を優しいだなんて思ってない。ただ、相手が自分らしくいられるような場所になりたいとは思う。だからしんどいって感じるときは、自分の優しさに気づいてもらえないときじゃなく、自分が相手の居場所になれなかったときかな。それと全員には優しくしない。自分が苦しくなる相手なら俺は背を向ける。非情さも持ち合わせていないと、誰かに優しくなんてできない。傷が治れば優しさの意味を知るけど、傷が付いたときは自分のことで精一杯だから」
優しさは持っているだけではダメ。それをどう使うかが大事。そう言われたような気がした。
「なあ、俺も人に優しくしてもいいのかな?」
思わず零れた。
捨てたつもりでいたのに、まだ心の奥底に仕舞っていたのか。こんなものを持っていても、自分が傷つくだけなのに……
「それは俺が決めることじゃない。花山が自分で決めればいい」
「……優しさってなんだと思う?」
分からなくなっていた。あのとき自分が信じていたものは、今となってはガラクラのように思える。それを手放せないでいる自分が惨めだった。答えが欲しい。自分を信じていいと思える答えが。
「優しさで傷を癒すこともできれば、傷を付けることもある。普段からその人を見ていないと、相手の求める優しさを理解できないと思う。優しい人って、優しさとは何かを知っている人なんじゃないかな」
優しさを知る……自分は分かっていたのだろうか。
今までの俺は自分本位の優しさだったのかもしれない。それは塩谷に対しても。
「俺みたいな人間でも、友達って作っていいのかな?」
無意識に言葉が出てきた。心のどこかで救いを求めてたのかもしれない。
「来週の月曜に映画見ようと思ってるんだけど、ホラーだから一人で見るの怖いんだよね。だから付いてきてくれない?」
「子供かよ」
「花山はホラー映画、一人で見れるの?」
「もう十七だぞ」
「じゃあ付いてきてよ」
「……分かった」
少し迷ったが、自分を見てくれている人間がいると知って嬉しかった。
それと、奥村なら信じられるような気がした。
「藤沢千星っているだろ?」
「うん」
「あいつもホラー映画苦手でさ、怖いシーンがあると手で目を隠すんだけど、なぜか俺の目まで隠してくるんだよ。しかもさ……」
話を聞いているだけだったが、高校に入って一番楽しいと思えた瞬間だった。閉ざされた扉が開き、光が差し込むような気がしたから。
だが、奥村と映画に行くことはなかった。ホームルームで告げられた死は世界から色彩を奪った。
もう光さえ見たくない。希望が散ったとき心に絶望を咲かせる。
これ以上苦しみたくなかった。だから人と関わるのはこれで最後にしようと思った。
いつか離れゆくものに、自分を委ねてはいけない。
花山が話し終えると辺りはすっかり暗くなっていた。
私たちを見守るように夜空には星屑が咲いている。
花山は自分の軸になっていた優しさを枯らされ、世界から隔絶された。
それは信じていたものが踏み潰されたことを意味する。
だが、まだその花を抱えて、咲くことを祈っているように私は思えた。
「どうしたいのか自分でも分からないんだ。心の奥では誰かと繋がっていたいと思う反面、怖さから逃げるために一人でいたいと思う自分もいる。正解が欲しい。どう生きればいいのか」
優しさという花を太陽の下で散らせ、夜にだけ咲くと決めた。
でも本心はきっと違う。私や雪乃のように踏み出せないまま揺れている。一枚一枚花びらを落としながら。
「花山が望む生き方をすればいい。でもそのためには自分と向き合わなければいけない。多くの答えは自分の中にあると思うから」
花山はゆっくりとこちらを見た。夜に紛れてはいるが、切望に染められた表情に見える。
「花山には悪いけど、その塩谷って子の気持ちが少し分かる。もちろんやったことは許されることじゃないし、話を聞いててムカついた。でもずっと一人でいる人間は周りの人が怖いの。自分がどう思われているか、もし上手く話せなかったらどうしようか、色んな葛藤を抱えて日常を送っている。強引に自分の世界に引き込んだでしょ? たぶん無理してたんだと思う。明るく話しているように見えても、本人のなかではそれが負担になっていた。さらに言えば、花山みたいに常に人に囲まれている人間を疎んでいたのかもしれない。蒼空が一人で来たのは、花山にあった優しさを見つけるためだと思う。優しさって人によって受け取り方が変わるから」
他人を嫌悪していた私も、もしかしたら塩谷みたいになっていたかもしれない。だけど蒼空という存在がいたから一線を超えなかった。
「最初は奥村のことが嫌いで、自分と同じようになれって思ってた。なのに手を差し伸べられたら嬉しくなって、友達になりたいなんて都合よく考えを変えた。本当に自分が醜い。俺も塩谷と一緒だ。ああなったのは、自分のせいなのかもしれない」
花山は右手の拳を、もう片方の手で強く握り締めていた。
「自分に余裕がないと人に優しくなんてできないよ。生活が苦しいのに、地球のこと考えろって言われても無理じゃん。だから今は自分を楽にしてあげていいと思う。愚痴ってもいいし、人を嫌いになってもいい。でも進む方向は間違えてはいけない。その人のことを知らないのに、歪んだ想いをぶつけてはいけない。自分が苦しむだけだし、周りはもっと離れていく」
人と人の間にはフィルターがあり、それが隔たりにもなるし結び目にもなる。思考が歪むと何もないところに壁を造り、相手を蔑んでしまう。そうなれば、外の世界との間に大きな溝ができる。
今の花山は優しさの向け方が分からなくなっていて、彷徨うことに苦しんでいると思った。それと人の信じ方も。
「優しさって種類があるんだと思う。今進んでる道を肯定して寄り添うこと。別の道を示して背中を押してあげること。蒼空は私に変わらないといけないと言った。突き放されたように感じたけど、それも一つの優しさだった」
気づいたのは最近だけど。
「優しさを持つことは間違いじゃないよ。だから自分を否定しなくていい。今大事なのは優しさの幅を増やすことじゃないかな」
「自分で優しさの尺度を決めてた。それを押し付けていただけかもしれない。優しさを知るっていうのは相手を見るってことか」
「そうだと思う」
「奥村の優しさは誰かを生かすもので、俺の優しさは自分を生かすものだった。思い上がりだったんだな。自分だけ満足してたから裏切られたのかもしれない」
「仮にその優しさが鼻についたとしても、裏切っていい理由にはならない。それはその塩谷って奴が悪い」
花山は星を見上げた。遠い空の向こうを眺めるように。
「もう一度優しさを持ってもいいんじゃない。私は嫌なときは嫌って言う。違うと思ったら違うって言う。だから花山も私の前ではそうして。そういう友達が必要だと思う」
私がそう言うと、花山は何かを堪えるように俯いた。
「俺のこと信用できるの? 今のが嘘かもしれないだろ」
俯いたまま花山は言う。
「信じるよ。でも嘘だったら花山をぶっ飛ばす」
「ありがとう」
ずっと閉じていた蕾が開くように、花山は顔を綻ばせた。
土曜日、私は蒼空の家に向かっていた。
覚悟を決めれず行くことができなかったが、昨日花山と話して、自分も一歩進まなければと思った。
あのあと花山の家に行き、蓮夜くんに会った。
玄関先に出てきた蓮夜くんに親指を立てると、それを察したのか同じく親指を立てた。
花山は不思議そうに見ていたが、私と蓮夜くんだけ分かればいいのだ。
蒼空の家が視界に入るとやけに足が重く感じた。家に近づいていくほど、水の中を進んでいるように感じる。
正直怖い。なんて言われるか分からなかったから。蒼空は私を庇って亡くなった。家族からしたら、私に殺されたと思っているかもしれない。もし鋭利な言葉を投げられたら私は生きていく自信がない。
蒼空の家族の顔を思い出すと胸が締め付けられた。だから無理やり閉じ込めていた。でも向き合わなければ、本当に進んだことにはならない。蒼空の家族に会って謝らないと、私は一生逃げたままだ。そして美月ちゃんのことも。
十五分ほどで着くはずが三十分かかった。
途中で足を止め、何度も深呼吸して緊張を押し殺そうとした。
門扉の前に着き「奥村」と書かれた表札を見る。隣にはカメラ付きのインターホンがある。
ボタンに人差し指を置くと小刻みに揺れた。その度に人差し指を強く握りしめ、強引に震えを抑える。
逃げたかった。自分を楽にしたいから。
でも逃げた先でずっと縛られたまま生きることになる。それでは前と変わらない。
最後に大きく息を吐き、覚悟を決めた。
震えた指でインターホンを押す。チャイムの音が脈を早める。
数秒経ち「今行くね」とインターホンから聞こえた。蒼空のお母さん――美里さんの声だった。カメラで私と分かったのだろう。
会うのは、病院で蒼空が亡くなった日以来だ。約一ヶ月ぶり。
どんな顔で出てくるのだろう? 声はいつも通りだった。でも、それは今だけで……考えれば考えるほど、マイナスなことばかりが脳内を駆け回る。
ガチャ、と玄関のドアの鍵が開く音がした。ゆっくりと開いたドアから美里さんが出てくる。
顔を見ることが怖くて、思わず目を伏せてしまった。
謝らなきゃと思い、目線を上げようとするが、緊張と恐怖で体の動かし方が分からなくなっていた。
ーーなんのために来たんだよ
心の中で何度も言い聞かせていると、足音が目の前で止まった。
心臓が一つギアを上げ、胸を強く叩く。
「あの……」
指先の震えが唇に伝染して小刻みに揺れる。それが緊張と恐怖に拍車をかけた。
声を発するどころか、言葉が頭の中で霧散し、思考が上手く働かない。
出口のない森の中に迷い込み、彷徨っているようだった。
「千星」
一筋の光が差し込むように、私の名前が鼓膜に注ぐ。
顔を上げると、美里さんは優しく微笑んでいた。
「待ってたよ」
その笑顔は蒼空とそっくりだった。
リビングのサイドボードの上に小さな仏壇が置かれている。仏壇の中には蒼空の写真があり、笑ってこちらを見ていた。
この写真は高校の入学式のときに、蒼空の家族と私の家族が校門の前で撮ったときのものだ。私も持っているため、すぐに気づいた。
香炉に線香を刺し、目を瞑って手を合わせる。
線香の匂いが鼻腔の中に入ってくると、蒼空がこの世界にいないことを再度認識した。
目を開け、蒼空の写真を見てからダイニングに着いく。
蒼空のお父さんは仕事でいないらしい。ホテルで勤務していると前に聞いた。土日は忙しいのだろう。
キッチンから美里さんが出てきて、湯呑みに入ったお茶ときんつばを私の前に置いた。きんつばは仏壇に備えられたものと同じものだ。
「蒼空、きんつば好きだったんだよね」
そう言って私の前に座り、頬杖をつきながら仏壇に視線を送った。
懐かしむような声だったが、目はどこか切なさを宿している。
その顔を見たとき謝らなきゃいけない思った。私が逃げ出さなければ蒼空が亡くなることはなかった。
あのときのことを話さないといけない。
「美里さん、蒼空が亡くなったのは私のせいなの。蒼空の気持ちを聞くのが怖くて逃げ出した。それで追いかけてきたときに……」
「千星」
美里さんは私の言葉を遮り、真っ直ぐな目で私を見てきた。双眸に優しさが滲んでいる。
「千星のせいじゃない。蒼空は罪悪感を感じなから生きてほしいなんて思ってない。そんな悲しい顔してたら、蒼空も嫌がるでしょ?」
「でも、私を庇って……」
「なら蒼空の分まで生きて。千星がこれからしないといけないのは償いじゃない。笑って生きること。それが私たちの求めることだよ」
その言葉が涙腺を緩ませる。ここで泣くのはダメだ。美里さんの方が辛いんだから。
私は奥歯をグッと噛んで堪えた。美里さんは我慢しなくていいよと言ったが、絶対に泣かないと決めた。
楽になるためにここに来たのではない。私は背負う覚悟を持つために謝りにきたのだから。
全身に力を込めて涙を阻止した。かなり踏ん張った顔をしていたからなのか、美里さんは優しく笑っていた。
「ありがとう、美里さん」
「うん」
気持ちが少し落ち着いてきてから感謝を述べた。
言葉は不思議な力を持っている。死に追いやることもあれば、命を掬うこともある。
今の私は、優しさに染められた美里さんの言葉に救われた。
そのあと美月ちゃんのことを聞いた。まずは引きこもっている理由を探さなければ。
「蒼空から聞いたんだけど、美月ちゃん学校行ってないの?」
本当は結衣さんに聞いたが、蒼空からということにした。名前を出したら結衣さんのことを聞かれる。そしたら記憶を消されるかもしれない。
「ニヶ月くらい前から行かなくなったの。本人に理由を聞いても答えてくれない。担任に学校での様子を聞いたんだけど、いじめられてるとかはないらしんだよね。普通に友達もいるみたいだし」
その心配もしていたが、もしないのだとしたら良かった。
「今、美月ちゃんいる?」
「部屋にいるよ」
「会ってもいい?」
美里さんは「うん」と頷き立ち上がった。二人でリビングを出てニ階に上がる。
一番奥にある部屋が美月ちゃんの部屋だ。その隣には蒼空の部屋がある。一緒に勉強やゲームをしたことが頭の中に映し出された。
「美月、千星が来た」
美里さんはドアをノックしたあと、私が来てることを告げた。そもそも出てくるんだろうかと心配したが、少ししてドアが開いた。
「千星ちゃん、久しぶり」
腰のあたりまで伸びたおさげを揺らしながら、パジャマ姿で出てくるなり満面の笑みで私を出迎えた。
顔色は悪くなそうだったのでそこは安心したが、思ってた反応と違いびっくりした。
「ひ、久しぶり」
「入って」
引網のごとく腕を引っ張られ、部屋の中に押し込まれた。私が入るとすぐに美月ちゃんはドアを閉める。
「ここ座って」
美月ちゃんは学習机の前に置かれたキャスター付きの椅子を回転させ、私の方に座面を向けた。
座面の高さが低かったので少し上げて座ると、正面に三段のメタルラックが見えた。
一番下の段には漫画が積まれており、ほとんどが少女漫画だ。なぜかラブコンの五巻と七巻の間にボボボーボ・ボーボボの六巻が挟まっている。
五巻の終わりに何があったか分からないが、テイスト変わりすぎだろ。同じラブコメでも毛色が違いすぎる。
真ん中の段にはゲーム機があり、一番上の段にはテレビが置かれていた。
ラックの隣にはガムテープで閉じられてるダンボールがある。
「ゲームやろう」
美月ちゃんはゲームのセッティングを始めた。
部屋を見渡すと画材道具が置かれてないことに気づいた。美月ちゃんは美術部だし、何より絵が好きだったはず。だが部屋には痕跡すら見当たらない。
唯一近しいものといえば、机の上に置いてある金色に施されたトロフィーだけだった。『月のアートコンクール・小学生の部・金賞』と台座に書かれている。
「はい」
ワイヤレスのコントローラーを渡された。美月ちゃんも同じカラーのコントローラを持ってベッドの上に座る。
テレビ画面に映ったのは、赤い帽子を被ったおじさんたちがゴーカートに乗って順位を競い合うレースゲームだ。
美月ちゃんは金髪のお姫様を選び、私は緑の恐竜を選んだ。
スタートして間もなく、ゴリラが私に赤甲羅を当ててきた。ムカついたので執拗にゴリラにぶつかりにいく。
もはや順位など関係なく、ゴリラが私に赤甲羅を当てたことを後悔させるため、待ち伏せして甲羅を投げ続けた。
「千星ちゃん、ルール間違ってる」
そう言われたのでゴリラ狩りやめ、キノコ狩りをすることにした。
美月ちゃんは楽しそうな顔でゲームをしており、引きこもっているようには思えなかった。
それにものすごく違和感を感じた。
学校に行けていない現状や、蒼空が亡くなってからまだ一ヶ月ということを考えると、幼い少女の無邪気な笑顔は何かを取り繕っているように思える。私の方を見るときの笑顔も、口角を無理に引き上げているように見えた。
会話の隙間に落ちた沈黙も美月ちゃんはすぐに拾った。ゲームやアニメの話で埋めて、主導権を常に自分の傍に置いておく。
聞かれたくないことがある。直感でそう感じた。
雪乃と花山のことを思い出した。表面では自分の中にあるものを隠して、別の顔を作る。
同じように何かを抱えていて、それを見せたくないのかもしれない。
でも、笑顔は本心を隠すためにあるものじゃない。
直接美月ちゃんに聞こうか考えたが今はやめた。
何も聞かないで側にいてくれる人を求めているかもしれない。
こういうのはタイミングやきっかけが大事になるから、今日はそばにいるだけにしよう。
数時間経ち、窓からオレンジに染まった西日が差し込んできた。あまり長居をするのはよくないと思い、私はコントローラーを机に置き、帰る支度をした。
「もう帰るの」と美月ちゃんに言われたため、もう少し居ようか考えたが、夕飯前だったので帰ることにした。
リビングに行き、美里さんに挨拶をしようとすると「家まで送ってくよ」と言われ、二人で玄関を出た。
住宅街を美里さんと歩く。二人きりで歩くのは中学生以来だ。
「美月が楽しそうにしてるの久しぶりに聞いた」
「部屋の前にいたの?」
「最初だけね」
「いつもは違うの?」
「何も喋らないし、もっと暗い。まあ、私が厳しく言ったせいもあるんだけどね。理由聞いても言わないから『じゃあ学校行け』って怒っちゃったの。でも久しぶりに笑い声を聞けて安心した。昔から千星には懐いてたもんね」
私によく絵を見せてきた。褒めるとすごく嬉しそうな顔をしていて、それが可愛かった。
「美月ちゃんはなんで学校に行かなくなったんだろう?」
「蒼空が言ってたんだけど、家で絵を描かなくなったって」
「将来はイラストの仕事就くとか言ってなかった?」
絵はかなり上手かった。素人目でも分かるくらいに。よく月を描いていた。
「うん。中学でも美術部に入ったし、友達に褒められたって嬉しそうにしてたけど、半年くらい前から一切、絵の話はしなくなった」
絵のことで何かあったのかもしれない。起因がそこにあるのだとすれば解決策を辿れる。
「でも部活でも何かあったとかはないみたい。担任が美術部の顧問に聞いて、そう言ってたらしい」
「じゃあなんで絵を描かなくなったんだろう?」
二人で夕日を眺めながら思案したが、全く想像できなかった。
まだ情報が少なすぎるし、今日の様子だけでは何も判断できない。
でも取り繕っているように見えたから、笑顔の裏側には苦悩があるのかもしれない。それと、私には悟られないように気丈に振る舞っていたのも気になる。
頭の中で思考を巡らせていると、家に着いた。
「千星、今日は来てくれてありがとう。また来てよ」
「うん」
美里さんは「お母さんによろしく」と言って踵を返し、戻っていった。
私は自分の部屋に戻り、部屋着に着替えてからベッドの上に横になった。
美月ちゃんの今日の様子を頭に浮かべながら、学校に行かなくなった理由を自分なりに考えた。
「なんでだろう?」
結局分からず、口から疑問符が零れた。
ため息混じりに寝返りを打つと、カラーボックスに並べられた小説が目に入った。その中の黒いハードカバーに視点を合わせる。
しばらく眺めていると、ふと頭の中をよぎるものがあり、その本を手に取った。
表紙の中央には流れ星に乗った男の絵が描かれており、上部に『夜の祈りは星になる』と黄色い文字で書かれいる。タイトルの下には枯木青葉の文字が置かれていた。
これは枯木青葉が亡くなってから発表された作品だ。
孤独を抱える主人公が、死んだ人間の未練を叶えるという物語。
私と同じだと思いながら、適当にページを捲っていく。
真ん中あたりのページで指が止まった。
そこには『枯れた花に願いは届かない』というセリフがある。
結衣さんは前に『願うだけでは花は咲かない』と言っていた。この言葉と似ている。
枯木青葉は都市伝説をモチーフに描いてるが、この作品だけモチーフとなるものが調べても出てこない。
そしてこの本は『人が死ぬと流れ星が落ちる』という一文から物語が始まる。
亡くなってから発表……死んだ人の未練を叶える……枯れた花に願いは届かない……最後の作品だけモチーフとなったものが不明……人が死ぬと流れ星が落ちる……
出てきたワードを縒り合わせて、一つの仮説をたてた。
枯木青葉は亡くなった後、流星の駅で誰かに未練を託した。
その未練がこの本だ。
あくまで仮説だが重なる部分がいくつかある。
私はタイトルの部分を親指で撫で、しばらく表紙を眺めていた。
日曜日の午後、コンビニで二リットルの炭酸飲料と表面がギザギザのポテトチップスを買って蒼空の家に向かった。
その往路でレースゲームの動画サイトを見て勉強した。ロケットスタート、ドリフト、ジャンプアクション、色々な小技を覚えた。今ならあのゴリラを確実に仕留めることができる。一日たったが、赤甲羅を当てられたことは許していない。
蒼空の家に着きインターホンを押すと、スピーカーから「ちょっと待ってて」と美里さんの声がした。
なのでちょっと待ってると、女の子がやってきた。私から数メートル離れたところで立ち止まり、手に持った紙を見ている。
腰あたりまで伸びた艶やかな黒い髪に、凛とした顔つき。幼さの隙間に大人びた雰囲気と気品を感じる。黒のニットとグレーのロングスカートが、よりその佇まいを強調させていた。
目が合うと会釈をしてきたので会釈で返した。たぶん中学生くらいなので、美月ちゃんの同級生のなかもしれない。
彼女に話しかけようとしたとき、美里さんが出てきた。
「上がって」
いつものようにフランクな感じで言ってきた。私は美里さんのこういうところが好きだ。なんか姉さん感がある。
「美里さん」
「何?」
私は離れた場所にいる彼女に視線を向ける。
大人びた少女は腰を曲げ、綺麗な四十五度で一礼した。
人は空気というもの作る。お互いの関係性やその時の心情、それらが相まって空間の色が決まる。
今この場所に漂うのは、この二人の内面にある想いだと思う。
部屋を通されたとき、美月ちゃんは笑顔で出迎えてくれた。それは昨日と変わらない。
だが私の後ろにいた彼女を見たとき、表情に咲いた小さな花は、一瞬で萎れた。
彼女の名前は秋山紗奈。美月ちゃんと同じクラスで彼女も美術部らしい。玄関で紗奈ちゃんからそう聞いた。
美里さんも彼女のことはよく知らないように見える。家に来るのは初めてらしく、クラスの子に聞いたと言っていた。
この二人は仲が良いのかと思っていたが、そうでもないらしい。二人の醸し出す空気でそう感じた。
部屋に入ってから十分ほど経つが一切会話がない。美月ちゃんはベットの上、紗奈ちゃんは学習机の椅子、私は床に正座しており、ちょうど三角形の形になった。
立場的に私は、底辺×高さ÷2でいう÷2の部分だろう。÷2が悪いわけではないが、底辺と高さの個性を否定しているように思えてしまう。底辺と高さに個性があるのかは疑問だが、『なんで俺たちを割ろうとするんだよ』そう言われている気がして÷2には同情の念を抱いていた。
そして今、私が二人の間を割っているような気がする。良い意味で言えば空気の中和、悪く言えば話を切り出せない理由。たぶん邪魔だろうなと思い、申し訳なさが出てきた。
「私、帰ろうか?」
「千星ちゃんはいて」
紗奈ちゃんからしたら帰ってとも聞こえる。気まずい空気が部屋を蝕んでいく。
二人よりも大人な私がなんとかしなければいけない。そう思い、周りを見渡して沈黙を脱するきっかけを探した。
目に入ったのは、学習机の上に置いてある炭酸飲料とポテトチップスだった。
とりあえずパーティー感を出そうと思い、ポテトチップスに手を伸ばした。
「せっかくだから食べようか。表面がギザギザのやつ買ったの」
二人は反応しない。それに焦った私は咄嗟に言葉を見繕う。
「このギザギザが好きで、いつかここに一軒家建てようと思ってるんだよね」
何か言わないとと思った結果、自分でも意味が分からない言葉を口にしてしまった。
こういうときは大抵、普段から思ってることを口走ってしまうものだ。私の潜在意識はポテトチップスに一軒家を建てようとしていたらしい。
恐る恐る二人を見ると顔が死んでいた。
気まずい空気を÷2するどころか二乗してしまった。きっとやばい女だと思われている。
もしこれが合コンなら、このあと誰からも話しかけられず、一人でチャーハンを食べているやつだ。私がトイレに行っている間に会計を済まされ、帰って来たらチャーハンだけになってるやつだ。私以外の人でグループラインを作り、みんなで私をチャーハンと呼び合うやつだ。
絶望に沈んでいると、気まずい空気から産まれたチャーハンの化け物をよそに、紗奈ちゃんが口を開いた。
「絵は描かいてるの?」
変な空気が一瞬にして張り詰めた。たぶん核心に触れたのだろう。美月ちゃんの顔に陰りが見える。
前までは、私が来たら真っ先に絵を見せにきたのに、昨日は絵の話すらしてこなかった。むしろ遠ざけているようにも感じた。
「もし描いてないなら描くべきだよ。やめるなんてもったいない」
紗奈ちゃんは真剣な顔つきで言った。私が作った地獄の空気はすでに消えている。
何も返答がなかったので美月ちゃんの方に視線を移すと、表情が固まっていた。そして徐々に顔が歪んでいく。
「ちゃんとした理由を聞いてない。なんであのとき絵をやめるって言ったの?」
美月ちゃんにとって絵は夢だったはず。それを捨てていたことに衝撃が走る。
「なんでもいいでしょ」
「よくない、奥村さんは描くべきだよ」
「うるさい、もうやめるって決めたの。だから帰って」
「理由を聞くまで帰らない」
美月ちゃんは口を噤んだ。喉元にある言葉を押さえるようにしながら。
「教えて、なんで絵をやめるって言ったの?」
その言葉が引き金になったのか、押し出されるように美月ちゃんの口から言葉が零れた。
「私が絵を描けなくなった理由は、秋山さんだよ」
紗奈ちゃんの顔に動揺が見える。それもそうだ、いきなり言われたら理解できない。
「どういう意味?」
「もう帰って」
「言ってくれなきゃ分からない」
「いいから帰ってよ」
私は何も言えなかった。二人の関係性も事情も知らない。お互いの間にある隔たりを知らなければ、干渉すべきでないと思ったから。
「また来るから、そのときは理由を言って」
紗奈ちゃんは静かに部屋を出ていった。追いかけようとも思ったが、美月ちゃんを一人だけ残して行くのは憚られた。
どう声をかけようかと五分ほど思案していたら「ごめん千星ちゃん、今日は一人でいたい」と言われ、私も部屋を後にすることにした。
「何かあった?」
リビングに行くと、美里さんが不安そうな表情で聞いてきた。
たぶん下まで声が聞こえていたのだろう。しかもそのあとに紗奈ちゃんだけ先に出て行った。
「学校に行かなくなった理由は、絵をやめたことと関係するんだと思う」
さっき部屋で起こったことを説明したあと、私はそう言った。
美里さんは「そっか……」と表情を曇らせ、天井を仰いでいた。
週明けの月曜日、朝に良い報告を受けた。
雪乃が好きな相手に告白し、付き合うことになったみたいだ。
日曜日に二人で映画を見に行き、その帰り道で彼に想いを伝えた結果、幼馴染が彼氏になった。
雪乃は嬉しさを隠しながら昇降口で私に話した。それは照れ隠しとかではなく、蒼空を好きな私に気を遣ってのことだと思う。
「千星のおかげだよ。ありがとう」
「雪乃が頑張ったからだよ」と嬉しさを隠しながら言い返した。私の方は完全に照れ隠しだ。
そしてもう一つ、花山が一年生に謝りに行った。
連絡先の交換を求められた際に、花山は酷い断り方をしてしまった。
「謝りに行った方がいいよな」
「行くべき」
そう聞いてきたので、即答で答えた。
昼休み、花山は屋上前の踊り場にその子を呼び出した。
私は”たまたま“そこに居合わせ一部始終を聞く。
花山が頭を下げて謝ると、なぜか彼女も頭を下げて謝った。
「話したこともないのに急に呼び出したら、ああなりますよね。迷惑かけてごめんなさい。それとわざわざ謝りに来てくれてありがとうございます」
礼儀正しい一年生に、花山は再度頭を下げて謝っていた。
私がいたことを花山は気づいていたみたいで、後ですごく怒られた。
言い訳をするなら、相手の子がすごい怒っている可能性もあり、そのときは間に入ろうと思っていた。
結局何もなかったので、ただ興味本位で見に来ただけになってしまった。
塩谷を殴った件について誤解を解いた方がいいと花山に言った。
まずは相澤さんに話し、そのあと雪乃にも協力してもらえば、周りからの目も変わると思ったからだ。
「もういいよ。話したところで信じてもらえないだろうし、それにお前らも変な目で見られるかもしれないだろ。分かってくれる人間がいるってだけで救われる」
花山は首を横に振ってからそう答えた。でも雪乃には話すと言うと「分かった」とだけ言い、教室へ戻っていった。
花山と友達になったのかは分からないが、蒼空の未練は二つ叶えた。あとは美月ちゃんだけだ。
なぜ絵をやめたのか。ここが起因になっていると思う。そしてそれは紗奈ちゃんだと言っていた。
でも紗奈ちゃんもその理由を知らない。直接美月ちゃんに聞くしかないと思い、学校が終わってから蒼空の家に行った。
リビングに入ると蒼空のお父さんがいた。ダイニングテーブルで真剣な顔つきでパソコンを打っている。
「蒼空パパ、久しぶり」
「ああ、千星ちゃん。久しぶり」
私の顔を見て表情が柔らかくなった。蒼空の顔はお母さん似だが、優しい雰囲気はお父さんと似ている。
「今日は仕事休み?」
「うん」
声も優しい。これも蒼空と似ている。
「ありがとね。美月に会いに来てくれて。今は家族だけしか会ってないから、千星ちゃんが来てくれると助かる」
「私で良かったらいつでも来るよ」
ありがとね、とまた笑顔で言った。
私は自分の家族より蒼空の家族と話すことのほうが多い。赤の他人の私を家族のように迎えてくれるから、それが心地良かった。だからこそ美月ちゃんの力になりたい。それは蒼空のためだけでなく、二人のためにも。
美月ちゃんの部屋に行こうとすると、
「せっかく来てもらったところ悪いけど、今は誰とも会いたくないって。部屋からも出てこないんだよね」
昨日の紗奈ちゃんとのことで、より深いところまで潜ってしまったのだろうか。だが本人に絵をやめた理由を聞かないと前に進めない。
今日は蒼空と会う日だから、できれば理由を知りたかったが、一日置いた方がいい気がした。
「明日も来るって美月ちゃんに言っといて。会いたくなくても来るって」
「分かった」
そのあと美里さんにお茶を出してもらい、三十分ほど三人で話したあと、家を出た。
空を飛ぶ列車から星を眺めていた。
対面に座る結衣さんは男とは何かを語っている。一区切りついたとこで、私は枯木青葉のことを聞いてみた。
「枯木青葉?」
顎に手を添えながら考えている。
「亡くなってから小説を出版したんですけど、その本がベストセラーになったんです。物語の内容が、死んだ人の未練を叶えるってもので……」
「作家?」
「はい」
「あー、いたいた。流星の駅で未練を託してたよ」
結衣さんはワントーン上げた声で頷いた。
「やっぱり。結衣さんが言ってた言葉と似ている台詞があったんです」
「なんて言葉?」
「『枯れた花に願いは届かない』、結衣さんが言ってたのは『願うだけでは花は咲かない』でしたけど」
結衣さんは隣の座席を見た。どこか懐かしみながら、幻想を見るようにして。
「その作家、自分で命を絶ったのは知ってる?」
「はい」
夕方のニュースで知った。三十秒ほどで枯木青葉の報道は終わり、次の話題に切り替わったのがショックだった。人の死より芸能人の不倫のほうが長い時間を割かれていたので、子供ながら大人ってくだらない生き物なんだと思った。
「自分が書きたいものを書いても売れない。世間は自分を理解できない。それに絶望したんだって」
枯木青葉はデビュー作がピークと言われていた。本を出すたびに批判が増えたのは私も辛かった。
「そのときに言ったの。『願うだけでは花は咲かない』って。ただ自分のしたいことを書いてるだけでは、自分を満足させるための作品になってしまう。それでもいいなら何も言わない。でも、嘆くならなぜ理解されないのかを考えろ。その作家にそう言った」
自ら命を絶った人間に対して厳しい言葉だ。でもこの人なら言いそう。
「向こうも『お前に何が分かるんだ』って怒ってきたんだけどさ、胸ぐら掴んで怒鳴り返したら静かになっちゃった」
てへっ、みたいな顔をして言って来た。その顔が背筋に悪寒を走らせる。
「何て言い返したんですか?」
「たった一人でいいから、そいつの人生が変わるような本を書いてから死んでいけ」
死んでいけ……会社の上司なら間違いなく問題になる。この人は現世で生きるには向かないと思った。
「そのあとに本を書いたんじゃないかな」
「枯木青葉も誰か呼んだんですか?」
「担当編集の人だったかな。確か……青木っていう男の人」
私の仮説は当たっていた。枯木青葉は流星の駅に青木って人を呼び、最後の作品である『夜の祈りは星になる』を書いた。
「その青木って人と会って、枯木青葉の話を聞いてもいいですか?」
「なんで?」
「蒼空の妹が引きこもりになってるって言ってたじゃないですか? 彼女、自分の夢を捨ててしまったんです。その編集の人に枯木青葉のことを聞けば、何か参考になるかなと思って」
「うーん」
と言いながら、結衣さんは宙を見て逡巡している。
枯木青葉の最後の作品は、他の作品とかなり毛色が違っていた。二作品目から四作品目までは独りよがりと酷評されたが、死後の小説は絶賛された。
きっと本人の中で何か変化があったんだと思う。その変化の経路に、美月ちゃんが再び絵を描くきっかけが落ちていたらと期待した。
「まあいいか、うん、いいよ」
結衣さんは投げやりに答えた。
「青木って人には私から話しとくよ。だから千星ちゃんの携番教えて。電話かけさせるから」
この間もそうだが、地上に簡単に来れるのだろうか? 普段はどこに住んでるのだろう? そんな疑問を抱きながら番号を伝えた。
オッケーと軽く答えたので、ちゃんと覚えたのか不安になった。だが、本当に覚えましたか? なんて聞いたら殴られそうなので聞くのをやめた。
「向こうも忙しいだろうから、すぐにはかかってこないと思うけど気長に待ってて」
「はい。ありがとうございます」
流星の駅に着き、一週間ぶりに蒼空と会った。
いつもと変わらない優しい笑顔を見ると、どこか安心する。
雪乃が付き合ったことを報告すると、「良かった」と安堵の表情を浮かべた。
次に花山のことを話した。中学のときに何があったのか、何を抱えていたのかを。
「花山は自分の中にある優しさで自分を肯定していた。その軸となるものが信用できなくなって人を遠ざけてたのか」
「また傷つけられのが怖かったんだと思う。優しさを捨ててしまえば、傷を作らなくて済むから」
でも背を向けた先で苦しみながら生きていた。ただ捨てただけでは人は救われない。
「優しさの向け方って難しいね」
ぼやくように私は言った。
「そのとき、そのときでほしい優しさって変わるからな。でも常に相手が求める優しさを提示できる人なんていないし、相手だけに背負わせるのも違う。優しさを知るって、自分と相手を知ろうとすることなのかも」
優しさは常に変化する。曖昧なものだからこそ、癒しにも傷にもなる。甘すぎるだけでも、厳しすぎるだけでも、優しさにはたどり着けないのかもしれない。
「千星、頑張ってくれてありがとう」
唐突に言われたから反応できなかった。でも時間差で来る嬉しさに表情が緩まされた。
だがすぐに顔を引き締め、美月ちゃんのことを話した。
「ごめん、無理言って」
「ううん、蒼空の家族にはお世話になってるし、私自身も力になりたいから」
蒼空から再びありがとうと言われたが、嬉しさを噛み締めて美月ちゃんの話に戻した。
「蒼空は秋山紗奈って子、知ってる?」
「美術部の話は聞いたことあるけど、その子のことは知らない」
「絵を描くのをやめたのは、紗奈ちゃんが原因らしいんだよね」
「でも理由が分からない。本人も」
「うん」
それを知っているのは美月ちゃんだけかもしれない。だから直接聞かないといけないのだが……
「部屋からも出てこないんだよね?」
「うん」
「紗奈ちゃんって子は絵を描かかせようとしてたんだよね。原因はその子よりも美月にあるのかも」
「どういうこと?」
「無理やりやめさせられたというより、自分からやめたってことでしょ? 紗奈ちゃんって子はわざわざ家まで来てるわけだし」
彼女もそう言っていた。なんで絵をやめるのと。
「その子と話した?」
「まだちゃんと話してない」
蒼空は視線を落として何か考えている様子だ。一度私を見ると、すぐに視線を落とした。
なんとなく察しがついた。その案は私も億劫だが、美月ちゃんのためなら仕方ない。
「美術部に行ってみるよ」
「顧問は牧野だよ」
「うん。でも行かないと進めないから」
「ごめん」
「大丈夫、もう昔とは違うから」
過去が足枷となっていたときは他人が嫌いだったが、雪乃や花山と接して人の見えかたが変わった。
その纏わりついていた起因が溶ければ、新たな価値観を咲かす。自分の中にある考えかたで世界の景色は決まってくる。
そのことを二人を通じて知ることができた。
「千星、強くなったね」
蒼空に言われて顔が綻んだ。好きな人の言葉というものは自分に勇気を与えてくれる。
その言葉で、私はまた一歩進めそうだった。
学校が終わったあと、中学校を訪問した。
卒業してから一度も来ていないので約二年ぶりになる。
中学のときは蒼空しか友達がいなかったし、学年の中でも地味なほうだった。だから私を覚えている先生はほとんどいないかもしれない。
『誰?』という顔をされたらどうしよう。そんな想いを抱きながら昇降口に入った。
「おー、藤沢じゃないか」
正面にある階段から牧野が降りて来た。大声で私の名前を呼ぶので羞恥心が芽生える。
二年前と変わらず角刈りだった。ふくよかな体型にジャージ姿なのも一緒だ。
美術部の顧問と言われても誰も信じないだろう。どちらかといえばラーメン屋の格好の方が似合う。
「どうした? 俺に会いに来たか」
豪快に笑いながら、ざらついた声でつまらない冗談を言う。
「美術部に一年生の秋山さんていますよね? 会いに来ました」
本来ならツッコミを入れるところであったがスルーした。面倒くさいから。
「秋山のこと知ってるのか? あっ、奥村の妹から聞いたのか。あいつ学校来なくなってな。次に会ったら来いって言っといてくれ。悩みがあるなら俺が聞くからって。最近の子は何かあるとすぐに引きこもる。気合いと根性が足りないんだよな」
牧野は美術部の顧問なのに体育会系の考えを持っている。大体のことを根性論で片付けようとするところも相変わらずだった。
それと、あんまり人の家庭の事情を他人に話すべきではない。私は美月ちゃんのことを知っていたからいいものの。
「秋山なら、美術室にいると思うから案内するぞ」
一人で行くので大丈夫です。と言ったが、軽快に無視され三階にある美術室に向かった。
「奥村が亡くなったから、藤沢のこと心配してたんだよ。中学のときに奥村しか友達がいなかったろ? だから高校で一人になってないか不安でな……」
こいつは昔からデリカシーがない。牧野は私が三年のときの担任だった。一人でいた私を無理やり他の生徒と仲良くさせようとしたり、ホームルームで『誰か藤沢と友達になってやれ』と言ってきたり、とにかくムカついた。本人に悪気はないのだが、それもムカついた。私のためと思っていたのかもしれないが、ひたすらムカついた。そのせいで学校に行くのをやめようと思ったこともある。あまりにムカついたから、黒魔術の教室に通おうかと思ったが、蒼空に止められた。
「高校では友達できたか?」
どうせできてないだろ? みたいな顔で言ってきたので、「学年のほとんどの人と友達です。多すぎて困ってるくらいです」と見栄を張った。
全然いませんとか言ったら、根性論を発動してくるのでそれを阻止した。
「本当か? 本当に友達か」
こいつぶん殴ってやろうか。自分の教え子の言ったことを信じろよ。嘘だけど信じろよ。上辺だけでも信じろよ。
「ええ、友達です」
ほとんど感情の乗ってない「友達です」を言ったとき美術室に着いた。牧野は首を傾げながら扉を開ける。
中に入ると、窓から入ってくる乾いた風が絵の具の匂いを運んできた。雰囲気や匂いがどこか懐かしく感じる。
窓側の一番後ろの席に紗奈ちゃんがいた。絵の具を使って何か描いていたが、私に気づくと立ち上がって綺麗なお辞儀をした。
「秋山、藤沢を知ってるか?」
「はい」
「お前に会いに来たみたいだぞ」
こいつにお前と呼ばれるのはムカつくだろうなと思う。言われてない私がもうムカついてるのだから。
「一昨日は失礼しました」
「ううん」
私は首を横に振る。
「俺は職員室にいるから、用が済んだら挨拶こいよ」
牧野は頭をかきながら教室を後にした。先ほどまで胸に纏わりついた不快感が安堵に変わる。
「奥村さんのことですか?」
「それと紗奈ちゃんのことも」
「私ですか?」
「うん」
そう言ったあと、私は彼女の隣の席に座った。
紗奈ちゃんは机の上に置いてある画材道具を片付けようとしたが「大丈夫、そのままで」と私が言うと、すいませんと軽く頭を下げた。
「すごい……」
先ほどまで紗奈ちゃんが描いていた絵を見て、思わず声が漏れた。
小さなキャンパスには、海に沈んでいく夕日が描かれている。
オレンジに染まる海と空。空の上部には夜が薄らかにかかり、そのグラデーションがなんとも美しい。絵のことはまったく分からないが、彼女の才能は私でも分かった。
「あの……」
絵の世界に魅せられていて、現実から意識が遠のいていた。彼女の言葉で戻ってくる。
「ごめん、あまりにすごすぎて、つい見入っちゃった」
「ありがとうございます」
「美術部って紗奈ちゃん一人だけなの?」
「いえ、他にもいます」
彼女が言うには、部員は美月ちゃんを入れて五人。他の三人はほとんど顔を出さないようだ。来ても漫画を読んだり話をしているだけなので、実質、彼女と美月ちゃんの二人らしい。基本自由な部活みたいだ。
「それで聞きたいことって何ですか?」
「美月ちゃんが絵をやめるって言った理由に心当たりないの?」
「奥村さんは私が理由って言ってたけど、まったく心当たりがなくて……」
「変わった様子もなかった?」
紗奈ちゃんは細い指を口元に当てながら考えていた。
音が消えた美術室には、運動部と思われる声が外から響いてくる。
「あっ」
何かを思い出したように口を開いた。
「奥村さんが絵をやめると言った何日か前に、ここで絵を描いていたんですけど」
「うん」
「教室にスケッチブックを忘れたことに気づいて取りに戻ったんです。帰ってきたら、奥村さんが涙ぐみながら美術室から出てきました」
「泣いてたの?」
「はい。理由は分かりませんが、奥村さんは自分の描いた絵を持っていました。月の絵なんですが、その絵を参考に私も月を描いていたんです」
「そのとき何か話した?」
「私が描いた月の絵を見たらしく、『どれくらいの期間で描いたのか』『月の絵を描くのは初めてか』と聞かれました。質問に答えたら、そのまま去ってしまったので、事情が把握できませんでした。あと、美術室に入ったら牧野先生がいました」
牧野に何か言われた? あいつなら余計なことを言いそうだ。
「牧野は何か言ってた?」
「私の描いた月の絵を見て、コンクールに出すよう言ってきました」
「コンクール?」
「はい。月をテーマにしたコンクールの公募があるから、そこに出した方がいいって」
月といえば美月ちゃんが得意な絵だ。
「その絵って今見れる?」
「はい。準備室に置いてあります」
紗奈ちゃんは立ち上がって、教室の後ろにある準備室に向かった。私もその後を付いていく。
中は思ったより広く、数人入っても余裕があるぐらいだった。棚にはイラスト集や画材道具、除湿剤などが置いてある。
そして奥には木の台(確かイーゼル)に立てられた一枚の絵があった。
「これです」
そこに描かれていたのは、向日葵を抱えた少女が夜空の月を見上げている絵だった。少女はこの学校の制服を着ており、腰まで伸びた髪が風で揺られている。少女の顔は靡いた髪で隠れている。
さっきの絵もすごいが、こちらはそれ以上だ。なにより月が美しい。白を帯びた満月が少女を照らすようにして夜空に君臨している。この絵で真っ先に目がいくのはこの月だ。それほど存在感がある。
「これは絵の具?」
「はい」
「すごいね。特にこの月が綺麗」
「奥村さんに比べればまだまだです。彼女の描く月は本当に綺麗だし、私はあの絵が好きなんです。だからまた描いてほしい」
紗奈ちゃんは月の絵を見ながら言った。双眸に切なさを滲ませている。
「この絵、写真撮ってもいい?」
「はい」
ブレザーのポケットからスマホを出し、絵の写真を撮った。画面越しでもこの絵の素晴らしさは伝わる。
「紗奈ちゃんありがとう。邪魔しちゃってごめんね」
「いえ、奥村さんはあのあと何か言ってませんでしたか?」
部屋から出てこなくなった、とは言えない。だから代わりに、
「美月ちゃんが絵をやめた理由は分からない。でも描きたいって気持ちがまだあるなら、描いてもらえるように頑張ってみる」
「お願いします。私にも協力できることがあったら言ってください」
「ありがとう」
そのあと、紗奈ちゃんと連絡先を交換して美術室を出た。
そのまま家に戻りたかったが、牧野に帰ることを伝えないといけなかった。昇降口に向かう足を無理やり捻り、職員室に入る。
「社会っていうのはお前が思ってるより厳しいところだから、もっとコミュニケーションをとらないとダメだぞ。お前は内気すぎるから……」
帰りますと伝えると、説教じみた演説を十五分ほど聞かされた。その間、私は一言も喋らなかった。それでも気にせずに話しを続ける牧野を見て、コミュニュケーションとはなんなのだろうと思った。
牧野が話し終えたあと、さきほど紗奈ちゃんが言っていたことを聞いてみた。こいつが美月ちゃんに何か言ったのではと私は踏んでいる。
「秋山の絵はすごいだろ。俺がすごいと思うってことは、相当すごいぞ」
それは誰でも分かる。聞いてるのはそっちじゃない。また一人語りが始まりそうなので、「美月ちゃんに何か言いましたか」と具体的に聞いた。
「奥村が応募しようとしていたコンクールがあったんだが、他に変えた方がいいって薦めたんだ。秋山の絵のほうが賞を獲れると思ったからな。コンクールってのはたくさんあるから、可能性があるところに送るのが一番いいんだよ」
そのあと、牧野は絵のことを語り始めた。長くなりそうなので話を遮り「もう帰ります」と伝えると「そうか」と寂しそうな顔をした。だがそれは、教え子が帰ることへの寂しさではなく、話し相手がいなくなる寂しさだと思った。
就寝前に写真で撮った紗奈ちゃんの絵を見返した。
何度見ても美しいと感じる。でも気になる点もあった。絵に描かれた少女は中学の制服を着ている。しかも冬服だ。
誰かモデルがいるのだろうか? なぜ向日葵を抱えているのだろうか? 制服は冬服なのに抱えているのは夏の花。
芸術の世界は分からないが、こういうのは意味があったりするもんなのか? 涙ぐんでいたのは、牧野に他のコンクールを薦められたからなのだろうか? 考えれば考えれるほど、疑問が湧き出てきて頭が痛くなる。
芸術の世界は私みたいな人間には知り得ないことがたくさんあるんだろう。もしそれを知らないと解決できないことだったら、美月ちゃんに再び絵を描いてもらうのは絶望的だ。
芸術関連の知り合いがいれば何か掴めるのかもしれないけど、そんな人間、私の周りには……
いた。知り合いではないし、分野も違うけど、創作という点において共通点があるかもしれない。
私の視線はカラーボックスにある枯木青葉の本に向いていた。
枯木青葉は担当編集の青木という人を流星の駅に呼んで、あの本を書いた。その人に話を聞けたら、何かヒントを見つけられるかもしれない。
結衣さんは青木って人に私の番号を伝えると言っていたが、一向にかかってこない。あの人は本当に伝えたんだろうか。一抹の不安を抱えながら、私は眠りについた。
「そうだっんだ……」
昼休み、公園のベンチで雪乃と昼食をとった。その際に、花山がなぜ殴ってしまったのかという理由を説明した。
雪乃にも協力してもらったので、報告するべきだと思ったし、私が信頼を置く人には知ってほしかった。
「花山くんは優しく在りたいと思っていたのに、その優しさの向け方が分からなくなったんだね」
「うん。蓮夜くんだけに優しさを向けれたのは、信頼できたからだと思う。他人では何が返ってくるか分からないから」
優しさって難しいよね、と雪乃は言った。そして付言するように言葉を繋げる。
「『周りの人に優しくできる人が好き』って言ったとしても、特別な優しさは自分だけに向けてほしいじゃん。おばあちゃんが重い荷物を持っているから手伝うとか、店員さんへの接し方とか、これは『周りの人に優しい』。女友達が風邪を引いたからお見舞いに行くは『特別な優しさ』だから『周りの人に優しい』の部分には入らない。だけど言葉だけみれば間違ってはいない。要は安心と不安が境界線になってるんだと思うの。付き合っていく上で、良い関係性を築けるのかって。でも表面の言葉だけで全部は汲み取れない。人によってその線引きは変わるし、優しさをオーダーメイドしないと細部まで理解してもらえない。だからと言って、理想ばかり押し付けたら相手が苦しむ。妥協しながら失敗と経験を経て、人は優しさを理解していくんだと思う」
人それぞれの生き方があり、バックボーンがある。その過程で考えや価値観が変わり、求めるものや受け取り方が決まってくる。だからこそ、普通に生きるということが難しいんだと思う。違う道を歩いてきたなら見てきたものも違う。だからこそ人に傷つけられることもあれば、人を傷つけてしまうこともある。優しさにも相性があって、噛み合わないとぶつかってしまうのかもしれない。
「生きるって何でこんなに難しいんだろうね」
美月ちゃんのことも相まって思わず口に出た。
大人はまだ十七歳だろと笑うだろうが、十七歳でも世知辛い世の中なのだ。
「何ででしょうね」
雪乃はおばあちゃんみたいな口調で言った。
「幸せになりたいですね」
私もおばあちゃんみたいな口調で返した。
「そうですね」
雪乃はおばあちゃん返しを再度してきた。
「いい天気ですね」
再度私もおばあちゃんで返す。
「雲が綺麗ですね」
「カリフラワーみたいですね」
「茹でましょうか」
「今日の晩御飯にしましょう」
「美味しそうですね」
「ええ、美味しいですとも」
私たちは昼休みが終わるまで、おばあちゃんをしていた。
放課後、駅前のファーストフード店でポテトとメロンソーダを注文し、二階の奥の席に着いた。
学校の人も何人かおり、楽しそうに話している。少し前ならその光景に嫌悪していたが、今は何も思わない。孤独は世界を歪んで見せる。今までの澱んだ感情は自分で作っていたんだなと思った。
ポテトを口に運びながら、スマホで枯木青葉のことを調べた。
枯木青葉の作品は亡くなった後に出した本も含め、全部で五作品ある。そのどれもが同じ出版社だ。ホワイトノベル大賞というコンクールで大賞を受賞し、デビューに至った。
デビュー作はそれなりに売れたようだが、二作目からは批判も増え、三作目では売上がだいぶ落ちたらしい。生前最後の作品に至っては、売れもしなければ、批判もかなり多かった。私は四作とも好きだったが、嫌いという人の意見も理解できる。
枯木青葉の作品は好みがはっきりと分かれる。著者の思考がもろに出ており、その考えに共感できれば面白いだろうが、理解できなければ価値観を押し付けられているように感じると思う。実際にそういうレビューはたくさんあった。
「作者のためにキャラクターがいる」「主人公を理解できないし、共感もできない」「自己満の作品。キャラクターの後ろに作者が透けて見える」
作品が好きだった私は、その一つ一つの批判にショックを受けたが、反面その理由も理解できた。
だが、亡くなった後に出た作品は今までとは変わり、読んでいる人に寄り添うような優しい言葉が多かった。枯木青葉という個性を残しつつ、新規層にも届くようになっていたと思う。
家に帰ったら、もう一度全部読み返そう。そう思ったときスマホに着信が入った。
知らない番号が表示されていたため、もしやと思いメロンソーダでポテトを流し込んで電話に出た。
「藤沢千星さんの携帯でお間違いないでしょうか?」
「はい」
「白川出版の青木と申します。結衣さんから電話番号を教えてもらい、おかけしました。枯木青葉について聞きたいということですよね?」
本当にかかってきた。結衣さんを疑ったことを心の中で謝罪し、電話に戻る。
「はい。最後の作品のことをお聞かせいただければと……」
「明日の十七時頃って空いてますか?」
「はい、大丈夫です。どこに行けばいいですか?」
「確か高校生でしたよね? こっちまで来たら帰る時間も遅くなると思ので、こちらから伺います」
「それはかたじけないので、こちらからお伺いするでございます」
緊張して、得体の知れない敬語の化け物が産まれた。冒頭に武士がいた気がする。
普段は言葉遣いを意識していないため、丁寧に言おうとすると敬語が絡み合ってしまう。
電話越しから「フフッ」と一笑した声が聞こえてきて、思わず恥ずかしくなった。
「大丈夫、こっちから行くから。最寄りの駅だけ教えてもらっていい?」
駅名を伝えたあと、集合場所も決め、明日の十七時に会うことになった。
電話を切り、再びポテトを口に運ぶ。
結衣さんの話を聞くかぎり、枯木青葉は絶望していた。自分の作品が世間に評価されないことを悔やみ、命を絶った。
彼にとって小説とは人生そのものだったのかもしれない。それを否定され、生きる希望を無くしてしまったのだろうか?
美月ちゃんは絵を描く仕事に就きたいと言っていた。絵を人生の目標に掲げていたなら、夢を捨てるという行為は、命に傷を付けることではないのか? そう思ったら、急に不安が押し寄せ来た。
不安と連動したようにスマホに着信が入る。画面には美里さんの名前が表示されていた。
胸がざわついた。まだそうと決まったわけではないが、変な想像が頭をよぎる。
一度深呼吸をしてから、恐る恐る電話に出た。
「もしもし……」
「今、家にいる?」
「これから帰るとこ」
「……」
表情の見えない沈黙が想像を広げる。鼓膜から不安が入ってきて、全身を這いずり回り蹂躙していくようだった。
耐えかねた私は自然と口が開いた。
「何かあったの?」
「美月がいなくなった」
ため息の数だけ幸せは逃げていく。
この迷信を信じるなら、美里さんは何度幸せを吐き捨てたのだろう。
リビングに漂うため息が、この空間を重くしているように感じる。
頭を抱えながらダイニングテーブルに着く美里さんが、再度幸せを逃がそうとしたので言葉を発してそれを阻止した。
「私が探しに行くから美里さんは家にいて。美月ちゃんが帰って来るかもしれないから」
「ありがとう、千星」
「見つけたら連絡するから。自転車借りてくね」
「宜しく」
私は玄関に向かい、シューズボックスの上にある自転車の鍵を取って外に出た。
美里さんが言うには、昼食を部屋まで持っていった際に美月ちゃんと口論になったそうだ。
学校に行かない理由を聞いたが、一切口を開かないので思わず怒ってしまったらしい。
夕方頃、部屋に食器を取りに行くと、手のつけられていない昼食が机の上に置いてあり、美月ちゃんの姿はなかった。
もしかしたら私の家に行っていると思い、自宅の固定電話にかけたらしい。だが来ていないとのことだったので、私のスマホに電話をした。
というのがここまでの流れだ。
美月ちゃんのスマホが部屋に置いてあったと美里さんは言っていた。連絡する手段がないため、まずは家周辺を手当たり次第探すことにした。
コンビニ、スーパー、駅周辺を捜索したが、どこにも姿は見当たらない。
もしかしたら美術部に顔を出しているかもと思い、【美月ちゃんとはそのあと連絡取った?】と紗奈ちゃんにLINEを送る。
美月ちゃんが来ていないかを直接聞いた方が早いが、まだ大ごとにしない方がいいと思い、遠回りに確認することにした。
一分後、通知が鳴ったので開くと、
【いえ、あれ以来取ってないです】と返ってきたので【そっか、何かあったら連絡してね】と親指を上げたゴリラのスタンプを添えて送り返した。
すぐに通知が来て【分かりました。私に協力できることがあったら連絡ください】と親指を上げた可愛いネコのスタンプが添えられて返ってきた。
探し始めてから一時間が経ち、辺りはすっかり暗くなっていた。残すは岬公園だけだ。
こんなときに枯木青葉が頭をよぎる。自身の書いた本が世間に認められず自ら命を絶った。美月ちゃんは自身で夢を捨て、学校にも行かなくなった……
したくもない想像が脳内を駆け回る。私は胸中のざわつきを払拭するように、重くなった足を無理やり動かしてペダルを漕いだ。
十分ほどで着き、駐車場、子供広場とくまなく探したあと、一番奥にある展望広場へ向かった。
すると柵の手前にあるベンチに、女の子が座っているのが見えた。まだ距離があるため、美月ちゃんかどうかは判断できない。
もしかしてと思い近づいていくと、その子は立ち上がって柵に手をかけた。
この公園は高台にあるため、その先を越えると斜面になっており、下には海が広がっている。
私は咄嗟に「ダメ!」と叫んだ。
急に大声を出されたからか、女の子は肩をビクッとさせこちらを振り向く。
月が照らすその顔は、やっとの思いで見つけた美月ちゃんだった。
私は駆け寄り、力強く美月ちゃんを抱きしめた。「痛いよ」と言う声が聞こえたが、このまま離してしまったらどこか遠くに行ってしまいそうだと思った。
「ダメだよ、死のうとしたら」
震えた声が出た。憂いと安堵が混ざり合った不安定な声色。白と黒のグラデーションできつく抱きしめる。
「そんなことしないよ。ただ月を見に来ただけ」
「え?」
腕を解いて美月ちゃんを見ると、怪訝な顔でこちらを見ている。
「飛び降るのかと……」
美月ちゃんは首を横に振る。
「お兄ちゃんが亡くなったばかりなのに、そんなことできない」
その言葉で安心の極地までいき、膝から崩れそうになる。今まで探し回っていた疲れがどっと押し寄せてきて、ベンチに腰を下ろした。
「美里さん心配してたよ」
「もしかして、私を探してたの?」
「うん」
「ごめん……」
「帰ったら美里さんにそうとう怒られると思うけど、私も一緒にいるから」
美月ちゃんは頷いたあと、肩を落として私の隣に座った。落ち込んだ表情を見ていると、夜に捨てられた月を拾ったように思えた。
早く安心させたいと思い、美里さんに電話をかけた。
見つけたことを報告すると、力の抜けた様子が声だけで伝わってきた。
「よかった」と何度も口にしている。
「美里さん、少しだけ時間もらってもいい? 二人で話したいことがあるから」
美月ちゃんがこちらを振り向いた。
――分かった。でもできるだけ早く帰ってきて。
「うん」
電話を切り、美月ちゃんの方に体を向けると、不安と緊張が見てとれた。
私が普段は見せない、真剣な顔つきになっているからかもしれない。
「教えて。なんで絵をやめるって言ったのか」
美月ちゃんは自分の右手に視線を落とした。
「才能がないから。それだけ」
「あんなに上手なのに?」
「自信はあった。月の絵なら誰にも負けない、これだけは絶対に一番になれると思ってた。だからひたすらに月だけを描いてきた。でもね、才能って簡単に人の努力を否定できるの。私が初めて絵を描いてからの数年間、その積み上げてきたものを一瞬で壊されたようだった」
心当たりがあった。つい最近、その絵を見たから。
「でもこれからじゃない? まだ中学生なんだから」
美月ちゃんは夜に浮かんでいる満月に視線を移した。
「私にとって絵がすべてだった。それがないと自分に価値なんてないから……」
憂いた声で、絵をやめた理由を話し始めた。
幼い頃は何事にも自信がなく臆病な性格だった。
小学校に入学すると、みんなが友達を増やしていくのに対し、私の周りには喧騒だけが響いた。
教室から外で遊ぶクラスの子たちを眺めながら、その中で楽しそうに笑っている自分の姿を想像する。
みんなが私を囲んで、「美月ちゃん」と名前を呼ぶ。そんな夢を教室の隅で思い描いていた。
ある日の夜、お兄ちゃんとこっそり家を抜け出し、岬公園で月を見た。
夜というキャンパスに描かれた月は、今まで見た何よりも美しく、私はその光景を目に焼き付けた。
家に帰ったあと、夢中でノートに月を描いた。あの美しい月を手元に置いておきたいと思い、必死に思い出しながら色鉛筆に感情を乗せた。
このときの拙い月の絵が、私の夢の始まりだった。
それから一年経った小学二年生の秋ごろ、お兄ちゃんが初めて学校の人を家に連れてきた。
四年生までは陽一くんという仲の良い友達がいたらしいが、家に来たことはない。
その子が転校してからは、お兄ちゃんの口から友達の名前を聞いたことがなかった。
でも最近、女の子と一緒にいる所を学校でよく見かける。
今日来てるのは、たぶんその子だ。
私はそっと部屋の前まで行く。どんな話をしているんだろうか? 友達ってどういう風に作るんだろう? 私が知りたいことが目の前の部屋に詰まっていると思った。
ドキドキしながら中の声を聞こうとしたとき、急にドアが開いて女の子が目の前に現れた。いけないことをしているからか、目があった瞬間に体が動かなくなった。
「伊賀と甲賀どっちの者だ。名を名乗れ」
「奥村です」
名前を聞かれたと思い、そう答えた。
女の子は私を怪しんでいる。自分の家にいるのに泥棒になった気持ちがした。
「千星、俺の妹」
女の子の後ろで、お兄ちゃんが言った。兄の声を聞けたからか、少しホッとした。お巡りさんに職務質問を受けている人の気持ちが何となく分かった気がする。
「家康の後輩かと思った」
女の子がお兄ちゃんの方を向いて言う。
「伊賀も甲賀も後輩ではないから」
「地元の怖い先輩に率いられてるんじゃないの?」
「そんなヤンキーみたいな関係性じゃない」
なんの話をしているのか分からなかったが、二人のやりとりを見て、友達っていいなと思った。
「美月、この人は同じクラスの藤沢千星」
お兄ちゃんが紹介したあと、女の子は胸を張って「私が藤沢だ」とドヤ顔で言った。
「妹の奥村美月です」
六年生の人とはあまり話したことがなかったため緊張した。どこに目線をやればいいのか分からず、ずっと自分の靴下を見ていた。
「美月、絵を見せてあげて」
お兄ちゃんがそう言うので、二人を部屋に案内して月の絵を見せた。
初めて他人に絵を見せるため、どんな反応をされるのか怖かった。もし下手と思われたらどうしよう。そう考えたら急に心臓が大きく動いた。
「すごい、上手だ」
アクリル絵具で描いた『海の上空に浮かぶ月』の絵を見たあと、千星ちゃんは笑顔で言った。
褒められたこともそうだが、それ以上に、自分の描いた絵で人を笑顔にできたことが嬉しかった。
「絵ってこれだけ?」
「まだいっぱいある……」
「もっと見せてよ」
机の引き出しから小さいキャンバスボード取り出して見せると、千星ちゃんは目を輝かせていた。
「美月ちゃん本当に上手だね。将来、絵師になれるよ」
「私なんかじゃ無理だよ……」
「なれる。私がなれると言ったからなれる。なれ川なれ子だよ」
最後のは意味が分からなかったが、自分が認められたようで嬉しくなる。
後ろにいるお兄ちゃんを見ると、優しく微笑んでくれた。
初めて外の世界と繋がれた気がした。絵というものが自分の存在を肯定してくれて、生きる意味を与えてくれた。
それから千星ちゃんと仲良くなり、学校や家でよく話すようになった。
千星ちゃんはなぜか、同学年の子とあまり話していないみたいだった。私の前では笑ってくれるのに、六年生が目の前を通ると顔が暗くなる。
お兄ちゃんにそのことを話すと「千星にそのことは絶対に聞かないで」とだけ言われた。
触れてはいけないことなのかなと思い、それ以上は何も聞かなかった。
普段は学校で絵を描かなかった。
見られるのは恥ずかしいので内緒にしていたが、「みんなにも見せた方がいいよ」と千星ちゃんが言うので、昼休みに自分の席で絵具を用意し、海の上空に浮かぶ月を描いた。
「何描いてるの?」
クラスの女の子が上から覗き込んでいた。
どんな反応をするんだろう? 上手くないと思われたらどうしよう? そう考えたら、心臓が飛び出るんじゃないかと思うほどバクバクした。
「美月ちゃん上手だね。すごいよ」
「あ、ありがとう」
「ねえ見て、美月ちゃんって絵描けるんだよ」
その一言で、クラスの子が私の席に集まってきた。
「本当だ。すごい上手」
「綺麗なお月様だね」
「美月ちゃんすごい」
外の世界で聞こえていた音が、自分に向けられている。同じ音なのに、ひとりぼっちの時とは聞こえ方が違う。
「私にも教えてよ」
「うん……」
「じゃあ今日うちで描こうよ。美月ちゃんも来て」
「いいの?」
「うん」
ずっと頭の中で描いていたことが、絵というものを通して叶えられた。
絵が私と世界を結んでくれて、絵が私という存在を世界に教えてくれる。絵が私のすべてだと思った。
小学六年生に上がった頃には、もう寂しいという気持ちはなかった。友達もたくさん増え、羨ましく思っていた声が日常に溶け込んでいたから。
最初は拙かった絵もだいぶ上達した。
お小遣いで買ったイラスト集や教本、お父さんから借りたパソコンで動画を見ながら勉強し、人物や静物画も描くようになった。
でも一番多く描いたのは原点である月だ。始まりであり、私の世界を変えてくれたもの。
誕生日にUー35というアクリル絵の具を買ってもらい、今はそれを愛用している。
本当はゲームにしようと思っていたが、動画で見たときに欲しくなった。
画材にこだわると絵を描くのが楽しくなる。思い入れも強くなるし、モチベーションも高くなる。
将来はイラストの仕事に就く。SNSで流れる絵を見たときにそう思った。
いいねがいっぱい貰えて、コメント欄で賞賛を得られる。キラキラした世界で私も輝きたかった。
千星ちゃんにそのことを話したら、
「美月ちゃんなら絶対なれるよ」
初めて私の絵を褒めてくれた人がそう言ってくれた。
その言葉で、真っ直ぐ夢を追うことが出来る。
そして、今まで迷っていたコンクールに応募することを決めた。
規模は小さかったが、月をテーマにしたコンクールだったので絶対に出したかった。
月の絵だけは誰にも負けたくなかったし、自分なら賞を獲れる自信もあった。
だが初めての公募で不安が募り、千星ちゃんに背中を押してもらいたかった。
結果は、小学生の部で金賞を受賞した。
学校でも表彰され、先生も周りのみんなも褒めてくれた。
絵が私を照らしてくれる。絵が私の未来を彩ってくれる。絵が私という人間を証明してくれる。絵が私のすべてを作ってくれている。絵を描いたことで、人生は大きく変化し、幸せが滲む日々を手にすることができた。
中学に上がり、入学初日から新しい友達ができた。同じ小学校の子が、私の絵をみんなに紹介してくれたことで、話すきっかけを作ることができた。
「上手だね」
「奥村、すごいな」
月の絵をみんなが褒めてくれる。その声が自分を輝かせてくれるようだった。
だがその輝きは、より大きな光によって薄まっていくことになる。
私は美術部に入った。
部員は私も含めて四人しかいない。二年生が三人、一年生が私だけだった。
しかも先輩たちはすぐに帰り、顧問の牧野先生もなんか適当だ。
ガッカリしたが、美術室で絵を描くのはワクワクした。
染みついた絵具の匂い、使い古された画材、飾られた彫刻や絵、そのすべてが心を震わせた。
数日語、初めての美術の授業を迎えた。
みんなが教室を見渡し、ソワソワしているのが伝わってくる。
美術室は他の教室と違うので、別世界に感じているのかもしれない。
美術部の私からすると、その光景がなんだか嬉しく感じた。
牧野先生が入ってきて授業が始まった。最初は美術とは何かということを話していた。私は早く絵を描きたかったので、授業が終わらないか心配なり、何度も時計を見ては鉛筆を握りしめていた。
十五分経ち、話しが一区切り着く。やっとだと思い、気持ちが高ぶる。
「じゃあ今日は手を描くか」
手はそれなりに自信があった。教本に手の書き方が載っていたので、気分転換に描いてみたら思ったより上手くできた。
それからたまに描くので、この課題は難しいものではなかった。
みんな眉間に皺を寄せながら自分の手を見ている。その姿が面白かった。私はB4のスケッチブックに澱みなく鉛筆を動かしながら、描き終えた後のことを想像していた。
――美月ちゃん上手
――手も描けるんだ
称賛されている自分を頭で思い描いていると、一人の生徒が大きな声を上げた。
「めっちゃ上手じゃん!」
私は廊下側に座っている。でも、声は反対側の方から聞こえた。
窓側を見ると、みんなが一人の席に集まっている。確かあの席は秋山さんだったと思う。
秋山さんはクラスの中でも一目置かれた存在だ。
見た目や雰囲気が大人っぽく、みんなから密かに憧れを抱かれている。男子もよくチラチラと見ていた。
でもクールな印象からか、話しかけたくても話しかけられない、クラスではそんな立ち位置だった。秋山さんもあまり話す人ではないから余計にだ。
私もみんなが集まっている場所に向い、その中心にある一枚の絵を見た。
声を失った。鉛筆だけで書かれた手は、絵ではなく本物のように見えた。造りものではなく生きている、そう感じた。
「秋山さんすごい」
「俺にも教えてよ!」
称賛の声が飛び交うたび、何かを奪われたような感覚が襲った。
「上手いな秋山」
牧野先生が来てそう言った。そのあと私を見るなり、
「奥村、お前は美術部だろ。秋山に負けてられないぞ」
――勝てない、そう思わせるほどの画力だった。
「奥村のも見せてよ」
一人の男子がそう言いうと、私の席に向かう。それに倣って他の子もついて行く。
『見ないで』心で叫びながら後を追ったが、間に合わなかった。
「あー……」
「でも上手だよね」
気を遣ったことがすぐに分かるような褒め方だった。
美しい花の後では、造花で心は揺らせない。人生で初めての挫折を味わった瞬間だった。
昼休みにも秋山さんの周りには人が集まっていた。
一人の生徒が「絵を見せてよ」と言うと、秋山さんは鞄からスケッチブックを取り出して開いた。私も気になり見にいく。
そこに描かれていたのは漫画のキャラや幻想的な風景で、色は透明水彩で塗られている。どれも目を惹きつけるほど上手で、私には絶対に描けない絵だった。
大衆的な絵だが、そこに技術がある。SNSに出せばバスるだろう。みんな私の絵を見たときより目を輝かせている。その光景に胸が苦しくなり自分の席に戻った。
「このキャラ私好き!」
「これ、秋山さんのオリジナルなの?」
「すごい、めっちゃ綺麗!」
中学生なら私の絵より、秋山さんの絵の方を好むだろう。
外の世界から聞こえてくる喧騒が、心の中に黒い感情を垂らしてくる。彩っていた自分の世界に、あの頃の色が再び滲んできた。
それから三日経った日の放課後、美術室に向かおうとすると秋山さんから声をかけられた。
「奥村さんも絵を描いてるんだよね?」
「うん……」
「みんなが奥村さんの月の絵がすごいって言ってたから」
月の絵は私の中でも特別で、これだけは他の人にも負けない自信がある。
「見せてほしいなって……」
恥ずかしながら俯むいて言う表情が美しかった。絵にしたいと思うほど。
「美術室に置いてあるから見に来る?」
「うん」
鞄の中にあるスケッチブックでも良かったが、それを見せるのは怖かった。だから自分の中で一番自信のある作品を彼女に見せようと思った。
二人で美術室に向かう間、秋山さんは何も話さなかった。私も自分の絵がどう思われるかという不安で頭の中がいっぱいだった。
美術室に着き準備室に案内した。私は部屋の奥にあるイーゼルに被さっていた布に手をかける。
指が震えた。布を取れば私の絵を秋山さんが見ることになる。この絵は小学生のときから半年以上かけて描いた絵だ。三日前にやっと完成させた。
もし反応が悪かったとき、私のすべてが否定されることになる。それだけは嫌だ。
静けさが緊張を煽るなか、覆いかぶさっていた布を取った。
アクリル絵具で描いた『海の上空に浮かぶ月』の絵。最高傑作であり、自分自身でもある。
反応を知りたかったが秋山さんの顔を見れなかった。その顔に浮かぶ表情で心の中が分かってしまう。視線を自分の足元に置き、声を待った。
だが、しばらく沈黙は続き秒針の音だけが響いた。何を思っているんだろう? 良かったのかな? 悪かったのかな? 頭の中で思考が右往左往する。
あまりに無言の時間が長かったので、耐えきれず秋山さんの顔を見ると、彼女の目は少し輝いているように見えた。
「これはアクリル絵具?」
「うん」
やっと発した言葉はすぐに途絶えた。
どう? その一言が言えれば良かったが、怖くて聞けなかった。空気感に耐えられず、
「私、向こうにいるから、何かあったら言って」
「うん」
準備室を出て椅子に座った。結局どう思っているのか分からずモヤモヤとする。
しばらくの間、秋山さんは準備室から出て来なかった。
オレンジの光が差し込む美術室は静寂さに包まれていた。
一週間後、美術部に秋山さんが入部した。
彼女は人物、静物、風景どれも上手で、しかも絵の幅も広かった。
美術館に飾られているような芸術的な絵も描けば、大衆的なアニメチックな絵も卒なく描く。
そのどれもが目を見張るもので、才能の残酷さを思い知らされた。
部活の時間はニ人きりで絵を描くことが多かった。
彼女は淡々と描くだけで特に会話もなかったが、私がアクリル絵具で月の絵を描いてるときだけ、彼女の視線を感じた。それが緊張を誘い、部活が終わった頃には、筆の軸に染み付きそうなくらい手汗をかいた。
この日も、お互い無言のまま美術室で絵を描いていた。
私はスケッチブックに月のラフ画を描き、秋山さんは一列挟んだ隣の席で、水彩ペンでキャラクターの絵に色を塗っている。
『私の月の絵どうだった?』
この一言が今も言えない。秋山さんは絵の感想を言ってくれないため、ずっとモヤモヤしている。
いつか言ってくれると期待したが、待っていても聞けそうにないので、きっかけ作りで話しかけてみることにした。
「秋山さんて、誰かに絵を習ってたりしたの?」
「動画見ながら描いてただけ」
絵を塗りながら秋山さんは答える。
「そうなんだ……」
才能の差を感じさせられたため心が折れそうになった。
上手い人に習っていたなら、まだ自分を保てていたかもしれない。
だが、私と同じ手法で描いてきたとなれば、環境のせいにはできなかった。
「奥村さんは?」
「私も動画とか本を見て勉強した」
「月の絵も?」
「うん。でもひたすら描いて、徐々に上手くなっていったって感じかな。初めて描いたのも、初めて褒められた絵も月だった。だから私にとって、月の絵は特別なものなんだよね」
「上手だった……月の絵」
秋山さんを見ると、体をこちらに向けている。だが、視線は私の周りを泳いでいた。
「ありがとう……」
いつもならもっと素直に言えるのに、今日は小さな声で言ってしまった。
千星ちゃんは嬉しいことがあると、よくタップダンスを踊っている。意味が分からなかったが、今ならその気持ちが理解できる。
「秋山さんは将来、絵の仕事に就くの?」
「まだ分からない。でもたくさんの人が私の絵を見て笑顔になってくれたらって思ってる」
なんか意外だった。秋山さんの口からそういう言葉を聞くのは。
「できるよ、秋山さんの絵なら。だって上手だもん」
少しだけ秋山さんの口角が上がった。だが私の視線に気づくと表情を戻した。
「秋山さん、笑った顔のほうがいいよ。クールな感じがするから、みんな話かけづらいんだと思う。それに笑顔も可愛いし」
「……そうしてみる」
照れくさそうに頬を赤らめる秋山さんは、すごく可愛かった。
六月にある体育祭に向け、クラスで応援旗を作ろうということになった。
私と秋山さんが中心となって、クラスの女子数名と共に、昼休みの教室で相談していた。
「なんか可愛い感じのがいい」
「かっこいいのもよくない?」
「キャラクターがあったほうがいいでしょ?」
みんな自分の好みを言い合っていて中々話がまとまらない。
だんだんと面倒くさくなってきたのか、アイドルに話題がすげ替えられた。
そうこうしているうちにチャイムが鳴ると、一人の子が腕を伸ばしながら投げやりに言う。
「もう決まらないから、秋山さんに任せる」
「それな。秋山さんのセンスなら任せても大丈夫だわ」
ショックだった。同じ美術部である私の名前がでなかったことに。
みんな私の絵を見ている。そのうえで彼女が選ばれた。自然とスカートを握る拳が固くなる。
「奥村さんと一緒に決まる」
秋山さんがみんなを静めるように言った。
「じゃあ二人に任せた」
再びアイドルの話をしながら、みんな自分の席に戻っていく。
「部活のとき決めよう」
「うん……」
心ここに在らずで頷く。秋山さんが椅子を引いた音がどこか虚しく聞こえ、遠ざかる足音に孤独を感じた。
「秋山さん、絵見せて」
誰かが言った言葉が耳に入った。何気ない言葉が痛みに変わっていく。
周りの人は私に絵の話をほとんどしない。絵を描いてと言われるのは、たいてい秋山さんだ。
それが少しづつ、世界と私を解離させていくように感じてきた。
夏休みが明け数週間が経った。この頃には、秋山さんの周りには常に人が集まっていて、彼女自身もよく笑うよになった。
体育祭のために作った応援旗は、今流行っているアニメのキャラを描き、クラスのみんなからは好評を得た。
私は月を描きたいと思っていたが、「クラスのみんなが好きなものにしよう」と秋山さんは言い、自分が否定されたように感じた。
クラスの中で自分だけが浮いている。世界だけが先に進み、自分は取り残されている。いつからかそう思うようになった。
だから必死に描いた。来る日も、来る日も絵を描き続けた。本を買って、動画もたくさん見て、夜中まで絵に没頭した。
「美月の絵も上手だけど、秋山さんは別格だよね」
そんな声を耳にした。
凡人はいくら努力しても、才能という壁を越えることはできない。
だんだんと美術部にも顔を出さなくなった。秋山さんを見ていると、自分という存在が薄まっていく気がしたから。
家に早く帰っても、特にすることはなかった。絵も描きたいと思わないし、かといって他にすることもない。
椅子に座ってぼーっとしていると、机の上にあるトロフィーが目に入った。
六年生の時、月をテーマにしたコンクールで金賞を獲ったときのものだ。そういえば去年の今ごろに……
私はスマホでコンクールの公募を調べた。
「あった」
締切は来週になっているが、すでに完成させた月の絵がある。私の中の最高傑作……今は準備室にあるため、明日家に持ってかえり発送することにしよう。
もう一度トロフィーを見ると、一層輝いて見えた。
翌日の昼休みに職員室に行き、牧野先生に応募していいか確認を取った。
「好きにしていいぞ」
いつも通り適当な返答だったが、私は高揚感に包まれていた。
放課後、美術部に絵を取りに行ったが、秋山さんが中に入るのが見えた。
ずっと顔を出していなかったため、彼女とはどこか気まづさがあった。最近はあまり話していない。
どうしようかと考えていると、美術室から秋山さんが出てきた。正面の階段を降りていく。
空き教室に身を隠していた私は、駆け足で美術室に入る。
中に入るとイーゼルが二脚並んでおり、片方には私が描いた月の絵。そしてもう一方には、『向日葵を抱えた少女が月を見上げている絵』が立てられていた。
たぶん秋山さんが描いたものだろう。私はその絵を見て絶句した。あまりの月の美しさに。
他の絵で負けるのは仕方ないと思っていた。でも月の絵だけは負けたくなかった。だが圧倒的な才能の前では、自分が守りたいものなど簡単に踏み潰されてしまうと知った。
「奥村だけか?」
振り向くと、牧野先生が入ってきた。
「秋山さんは今出て行きましたけど、たぶん戻ってくると思います」
「そうか……ん?」
先生は絵に気づくと、目の前まで行って足を止めた。
「どっちが奥村の絵だ?」
「海が描かれている方です」
「こっちは秋山か」
月を見上げる少女の絵を指差し、聞いてきた。
「たぶん」
先生の背中しか見えないが、何かを考えている様子は分かった。
うーん、という声が何度も美術室に響く。声が漏れるたび背中に寒気が走り、その先の言葉は聞いてはいけない気がした。
「奥村」
名前を呼ばれ、鼓動が速くなる。
「確か月のコンクールに出すって言ってたよな」
「はい……」
それ以上は言わないで。
「そのコンクールに出すのをやめて、他のにしたらどうだ? 奥村の絵も悪くはないが、秋山の絵は次元が違う。こっちの方が賞を獲る可能性が高い。だから来年に回すか、別のコンクールに出して、二人で賞を狙いにいくほうが効率いいと思わないか?」
私の方を振り向き、ドヤ顔で問いかけてきた。
「私の絵より、秋山さんの絵の方が素晴らしいってことですか?」
「単体で見たらこの絵でも賞を獲れそうなんだけど、並ぶと何か足らないように感じるんだよな」
下唇が痛かった。気づかないうちに強く噛んでいたみたいだ。もしかしたら血が出てるかもしれない。でもそんなのどうでもよかった。今は目に見える傷より、心が痛かった。
「そうですよね……そうします」
自分の絵を手に取って美術室から出ていった。横目に映った月の美しさが自分を醜くさせている、そう思いながら。
廊下に出ると、スケッチブックを持った秋山さんと出会した。
「大丈夫?」
ハンカチをポケットから取り出して、私の前に差し出してきた。
最初は何でハンカチ? と思ったが、視界がぼやけてることに気づいて急いで袖で拭った。
「大丈夫」と答えると、秋山さんは私が持ってる絵に視線を合わせた。
「ごめんなさい、勝手に拝借して。その絵を参考にして月を描こうと思って。私、その絵が……」
「あの絵、どれくらいで描いたの?」
一瞬悩んでいたが、すぐにどの絵か気づいたようだった。
「一ヶ月くらいかな」
「月を描いたのは初めて?」
「ちゃんと描いたのは初めて」
「そっか……」
夢というものは人を強くするものでもあるが、ときに残酷に人を傷つける。太陽の前では、月は輝くことができない。
何も言わずに階段を降りた。背中に刺さる視線を感じながら。
それから一週間後、秋山さんの周りに集まる人たちを眺めがら、静かに夢を枯らせた。
「最近部活に来ないけど、絵は描いてる?」
放課後、昇降口で靴を履き替えようとした時、秋山さんにそう聞かれた。
「……」
私は沈黙で返した。彼女になんて言えばいいのか分からなかったから。
「もし描いてないなら、一緒に描かない? 奥村さんが月を描いて、私が周りの情景を描く。共同で絵を創作したいなって……」
そんなことしたら、私の下手さが目立つだけだ。
彼女だけが賞賛され、私は再度心を折られる。
「できない……」
「そっか……もし一緒に描きたいと思ったら、部活に来て。私は奥村さんと絵を描きたい」
「……やめる」
「え?」
「絵はもうやめる」
秋山さんは放心状態で私を見ている。
「どうして?」
その問いかけには答えられない。
だって……あなたに筆を折られたのだから。
私は何も言わず、昇降口を出た。
秋山さんの「待って」という声を無視して。
彼女を見るだけで心が苦しかった。
そして、湧き出る黒い感情で自分を嫌悪する日々が、部屋のドアを開けることを拒んだ。
部屋にあった画材を段ボールにしまい、月の絵をクローゼットに閉じこめた。自分の絵を見ることすら苦痛を伴うようになったから。
これから先、私は誰にも求められないまま生きていく。絵を描かない私に価値なんてないから。
学校に行かなくなってから一ヶ月が過ぎた。
お母さんから理由聞かれたが、なんと答えればいいか分からなかった。
きっと大人には理解されない悩みだし、言ったとしても行けと言われるのがオチだ。
私にとって絵は人生そのものだったから「そのくらいで」と言われるのが嫌だった。
お兄ちゃんには絶対に言えない。千星ちゃんに絵をやめたことを知られたくなかったから。
言わないでと頼めば内緒にしてくれるだろうが、もしものこともある。私の絵を初めて褒めてくれた人に、自分の価値がなくなったと思われたくなかった。
ある日、お兄ちゃんが部屋に入ってきて絵具を渡さしてきた。私がよく使っていたアクリル絵具だ
「何で買ってきたの?」
「最近絵を描いてるところ見てないから、久しぶりに美月の絵を見たいなと思って。今日、千星と一緒に買いに行った」
千星ちゃんの名前が出てドキッとした。もしお兄ちゃんが絵をやめたことを察しているなら、そのことを話しているのではないか。そしたら千星ちゃんは失望するかもしれない。私から絵を取ったら何も残らなくなる。そしたらもう……
「絵は描いてる。昔も今も好きだから」
「そっか。じゃあ今度見せてほしい。美月の描いた月」
その優しい笑顔が私の胸を締め付けた。学校に行かなくなってからも、兄はいつも通り接してくれている。それが救いだった。すべてを失った私にとって、兄という存在が唯一残されたものだと思った。
だが、最後の光も失われた。
初雪の降る夜にこの世界から姿を消した。名前と同じ空へと旅立ち、私は一人になった。
――絵が好き
それがお兄ちゃんについた最後の嘘となった。
月明かりに照らされる美月ちゃんの顔には、空夜のような寂しさが浮かんでいた。
美月ちゃんも才能はあると思う。でも紗奈ちゃんの絵は他の絵を力でねじ伏せるような存在感があった。
「才能という圧倒的な存在の前では、夢を見ることすらできない」
月を見上げながら美月ちゃんは言う。
牧野に腹が立った。もし人のことを考えて言葉を選んでいたなら、こんなことにはなっていなかったかもしれない。
最高傑作であった月の絵を間接的に否定した。それは、美月ちゃん自身の否定にもなる。
起因は才能の差を感じたことかもしれない。だが崖から背中を押したのは牧野だ。
あいつはたぶん悪気なく言ったのだろうが、結果、美月ちゃんから夢を奪い、それが紗奈ちゃんのせいになってしまった。
きっと嫉妬も混ざっていてんだと思う。だけど大人が子供の才能を摘み取ってはいけない。
「知ってた? 月は自分一人では輝けないの。太陽の光を反射して、はじめて夜を照らすことができる。周りに認められないと何の価値もないんだよ」
美月ちゃんが寂しげに吐いた言葉が、冬の夜風と共に耳に触れる。
誰しも世界との結び目がある。私は蒼空で、雪乃は求められる自分。花山は優しさで美月ちゃんは絵。
その結び目が才能で解かれて、自分という存在が世界から零れてしまった。
「美月ちゃん、絵をやめたとしても価値がなくなるわけじゃない。私はずっと友達だから。どんなことがあっても」
「ありがとう。でもね、絵がないと私は私でいられない。絵が自分を作っていたから、描けなくなったらもう何も残ってないんだよ」
絵を続けるべき……私がそう言ったところで、空いた穴は塞がらないと思った。それほど絵という存在が大きい。
だが、絵の代わりになるような結び目なんてあるのだろうか? 他で補えるようには思えない。雪乃や花山とは違った向き合い方が必要だ。
「美月ちゃんはもう絵を描かないの?」
「……自信がない。自分の描いた絵が誰かの影でしか生きられないと思うと、筆を握ることすら怖くなる」
それでも描こうよ、なんて言葉を軽々しく吐くわけにはいかない。正解がまったく分からなかった。何を言っても、どう答えても、ぜんぶ的外れなことを言ってしまいそうで、私も口を閉ざしてしまった。
「もう帰ろっか」
私が思案していると、美月ちゃんは立ち上がって言った。
「ごめんね千星ちゃん、心配かけて。でも嬉しかった、私のこと探してくれて。じゃあ行こう」
歩き出した美月ちゃんの背中を追いかけた。世界から逸れてしまわないように。
家に戻ると美里さんが血相を変えて出迎えてくれた。
「まあまあ」となだめながら美里さんをリビングまで連れていき、美月ちゃんには部屋に行くよう、ジェスチャーで伝えた。
ダイニングに着き、美月ちゃんが学校に行かなくなった理由を説明すると、美里さんは思い悩んだ様子で天井を見上げていた。
「また絵を描けるようになったら学校に行けると思うの。今はどうしていいかは分からないけど、でもなんとかしてみせる」
根拠はなかった。でもきっと道はある。今は光が遮断され、それが見えていないだけだと思う。
「ありがとう、千星」
美里さんは寄り添ってあげて、と言葉を残したあと、美月ちゃんの部屋に向かった。
「月の絵を見せて」と言うと、美月ちゃんはクローゼットからキャンパスを取り出し、机の上に置いた。
美しい月が海の上空に浮かんだ絵。綺麗だった。ずっと見ていたいと思うほど。でも……
「すごくいい絵だよ。やめることない。美月ちゃんだって十分すごいよ」
本当に素晴らしい絵だった。本当に……
「私も自信はあった。自分の描く月が好きだった。でも、ずっと描き続けてきたものが簡単に追い越されて、支えになっていたものが踏み潰されていくみたいだった。これだけは誰にも負けたくなかったのに……周りと繋がることができたきっかけだったのに……ずるいよ、才能だけですべてを超えていくなんて」
夢という希望は失望の底に落ちて涙に変わった。
目の前の女の子は雲に覆われ消えてゆく月のようだった。
美月ちゃんにかける言葉を何十個も考えた。
でもその中に、再び絵を描けるような言葉は見つからなかった。
安易な慰めや同情では、その涙は拭えないと思った。
昼休み、雪乃と花山と一緒に体育館のステージ上で昼食をとった。
一人で食べていた花山を、私と雪乃で誘ったかたちだ。
「雪乃は将来バスケ選手になるの?」
「うーんどうだろう? バスケは好きだけど、それで食べていこうとまでは思ってないかも。それに自分より上手い人なんてたくさんいるし」
「もし自分が一番上手かったら目指してた?」
雪乃は箸で掴んだタコさんウインナーを見ながら考えている。相談しているんだろうか。
「プロでやれるのか、引退してからどうするのか、そういうこと全部考えてから決めるかな。やめてからの方が人生長いしね」
現実的な考えだ。それも間違ってない。
「花山は将来やりたいこととかあるの?」
「警察官になろうかなって思ってる」
購買で買ったカツサンドを頬張りながら答えた。
「そうなの?」
雪乃がタコさんの頭を齧りながら言う。
「なろうかなって思ってるだけで、確定ではないけど」
「千星は?」
将来の夢を持ったことがなかった。何をしたいとかもなく、ただ一日一日を流れてきただけの十七年だなと思った。
「まだ分からない。そもそも夢ってなんなんだろう?」
「人は現実だけで生きていくのは苦しいから、夢を見て紛らわす。でもその夢が覚めたら人は道を失う。それを知ってるからこそ、人は夢を見続けるために自分に嘘をついて現実から目を背ける。眠っていれば幸せは終わらないから」
花山は紙パックのレモンティーにストローを刺して言った。
「誰の言葉?」
雪乃が花山に視線を傾け聞いた。
「元詐欺師がテレビのインタビューで答えてた」
どこから引用してるんだ。
「そいつはさ、芸能界を目指している子たちを騙して事務所の登録料をふんだくってた。被害者の人たちが口を揃えて言ってたのが、『俺がスターにしてやる。その言葉を信じて騙されました』って言うんだよ。犯罪者を肯定するつもりはないけど、夢を人に託した時点で、その人たちの夢は枯れてたんだと思う。もし俺が警察官なら被害者に優しい言葉だけじゃなく、自分の力で歩んでいけるような言葉もかけたいなって……それを見てて思った。夢って人を成長させるものでもあると思うし」
「それで警察官になろうって思ったの?」
「うん……」
雪乃の問いかけに、花山は照れくさそうに答えた。
「花山くんは良い警察官になるかもね」
「まだなるって決めたわけじゃない」
「花山が警察官になったらパトカーで京都に行こう」
「いいね、私パトカーで京都行ってみたかったんだ」
「勝手に決めるな。パトカーをタクシー代わりに使うな。何で京都なんだよ。新幹線の方が早いだろ。車だと時間かかりすぎるだろ。そんなことしたらクビになるぞ。そもそも簡単にパトカーに乗れないだろ」
花山が丁寧にツッコミをいれるのがおかしくて、私と雪乃は顔を見合わせて笑った。
それが恥ずかしかったのか、花山はステージを降りて「先に戻ってる」と言って出口に向かった。
「おい教室に戻るのか。昼休みはまだ残ってるだろ。何で先に行くんだ。みんなで戻ったほうがいいだろ。カツサンド美味しかったか。そもそもレモンティーとカツサンド合わないだろ」
私が煽ると「うるせー」とだけ残して去っていった。
再び雪乃と顔を見合わせると、二人で笑顔を零した。
放課後、出版社と自宅の中間にある駅で降車し、閑静な住宅街にある、おしゃれなカフェに入った。
おしゃれな椅子におしゃれな机、おしゃれな店員におしゃれな制服、おしゃれな照明におしゃれな絵、おしゃれのスクランブル交差点か、と心の中でおしゃれにつっこむ。なんだか私までおしゃれな存在に感じるほど、おしゃれなカフェだった。
要約すると、店内の壁がレンガで造られており、木製のラウンドテーブルと椅子が均等にいくつか並んでいる。一番奥の席はチェスターフィールドソファが置かれており、天井にはシーリングファンライトが回っている。ヴィンテージのインテリアとBGMで流れるジャズ、それらが店の雰囲気を作っている。
客層は大人ばかりで、制服を着ているのは私だけだった。
出版社から私の家の最寄り駅までの距離を調べたら、一時間以上かかることが分かった。なので青木さんに電話をして、場所を変えることにした。
自分から話を聞きたいと言ったのに、わざわざ遠くから来てもらうのは申し訳ない。
少し早めに着いたので、先にホットコーヒーを頼んで席に着いた。鞄から、枯木青葉の最後の作品を取り出す。
枯木青葉は最後にどんなことを想って書いたのだろう? それを知れば何か変わるんじゃないかという期待があった。生きていた時と亡くなってからの変化、そこに枯れた夢を再度咲かせる何かがあると思っている。自分の作品を批判され命を投げ出した作家は、この本に何を残そうとしたんだろう。
「奥村千星さん?」
五分ほど待っていると声をかけられた。本を読んでいた私は顔を上げ、声の主を確認した。
黒のセーターの上に紺のジャケットを羽織り、下はベージュのチノパン。メガネをかけており、縁の部分に前髪がかかっている。ビジネスバックを肩にかけ、カップを乗せたトレーを持っていた。三十代半ばで雰囲気は優しそうだった。
「はい」
本を閉じて返答した。
「白川出版の青木といいます」
青木さんは席に腰を下ろしたあと、爽やかな表情で言った。
「奥村です。今日は来てくださってありがとうございます」
緊張からかたどたどしい挨拶になる。
「久しぶりに結衣さんが来たからびっくりしたよ。もう何年前かな? あの頃と全然変わってないね。見た目も中身も」
若作りに必死なんだと思います。こんなことを言ったら、急に出てきて首を絞められそうだと思い、言うのをやめた。
「枯木くんのことを聞きたいんだよね?」
「はい。この本を書いたときのことを教えてほしいです」
手元にあった枯木青葉の死後に発表された作品、『夜の祈りは星になる』を指差して言った。
「どこから話せばいいかな」
思い出を辿るように、宙に視線を向けて言った。
「枯木さんは作品への批判が原因で、自ら命を絶ったんですよね?」
「うん。枯木くんの作品てさ、読者のために書いた作品ではなく、自分のために書いた作品だったんだよ。主人公に自分の想いを代弁させて、世間の人に枯木青葉という人間を受け入れてほしかった。彼の作品は彼自身なんだ。読者にとっては作品の批判でも、枯木くんにとっては自分に向けられた批判だった。だから自分のすべてを否定されたと思い、命をなげうった」
僕は好きなんだけどね、と青木さんは付け足した。
作品と自分を重ね合わせる。そこは美月ちゃんと共通するところだ。
「彼は自分の過去を話したがらなかった。たぶん、ずっと孤独の中で生きていたんだと思う。小説というものが自分と世界を繋いで、いつからか生きる意味に変わった。でもその糸が切れたとき、枯木青葉という人間はこの世を去った。誰にも知られないまま生きるより、知ってもらってから背中を向けられる方が辛いのかもしれない」
青木さんは静かにカップを持ち上げて、湯気の立つコーヒーを口にした。
「この本だけ他の作品と違うテイストになってますよね? 四作品までは自分のために書いていたと思います。でも最後の作品は“自分”ではなく“誰か”のために書いたように感じました。亡くなってから何か変化があったんですか?」
カップを静かに置いたあと、青木さんは思い出に浸るような目でコーヒーを眺めた。
「僕が流星の駅に呼ばれたとき、彼はもう一度本を書きたいと言ったんだ。『今までは自分のために書いてきた。でも最後は同じ悩みを持つ人たちが救われる本を書きたい。俺を満足させるために存在していたキャラクターたちを、誰かの心の中でずっと生き続けるようにしてあげたい。あの女の人に言われて気づいた。俺が書いた小説は俺自身じゃなく、自分の子供だって。だからこの手で生み出した作品もキャラクターたちも、みんな報われてほしい。読んでくれた人たちに好きになってもらいたい。それが親としての責任だと思います』そう言ってた」
青木さんは私の手元にある本を見た。まるで旧友を懐かしむように。
「それから一緒に話し合った。どうやったら読者の心に残るのか、その人の人生に影響を与えられるのか、辛いときの支えになれるかを。編集の仕事を始めてから、その期間が今までで一番楽しかった。自分のためにやることも大事だけど、読んでくれる人のために作ることも、同じくらい大切だって気づけたから。設定とプロットを練ったあと、最後の一週間で彼は初稿を仕上げた」
青木さんはメガネの縁にかかっていた前髪を小指で掻き分ける。
「最後の日に枯木くんが言ったんだ。『死んだことを後悔してます。誰かに否定されたからって死ななくても良かった。小説なんて書かなければよかったと思っていたけど、もっと書いていたい。読んでくれた人が笑って生きていけるような作品をもっと作りたかった。死んでからそれに気付くなんて、俺バカですよね』って」
青木さんを見ると目が潤んでいた。
私の視線に気づいたのか、誤魔化かすようにコーヒーを飲む。カップがソーサーに戻るまで少し時間がかかったが、私は置かれるまで何も言わずに待つことにした。
ゆっくりとカップを置くと、青木さんは再び話し始めた。
「そのあとは枯木くんの意図を汲み取りながら、細かい修正を僕がやった。だからその本は甥っ子みたいなものなんだ。売れたときは本当に嬉しかった。その本と枯木くんが報われたようで」
この本には枯木青葉の想いが込められている。でもそれは“自分”に向けられたものではなく、“誰か”に向けられたものだ。そこに今までの作品との違いがある。
「でも一番嬉しかったのは、本を読んだ人から手紙が来たことなんだ」
青木さんは鞄から一枚の封筒を取り出し、中から便箋を出した。
「一ヶ月前に出版社に届いた手紙なんだけど、読んでみて」
折り畳まれた便箋を広げると、丁寧に書かれた文章が綴られていた。そこにはこう書いてある。
枯木青葉先生が書かれた「夜の祈りは星になる」を
拝読させていただきました。
本を読んで手紙を書こうと思ったのはこれが初めて
です。
当時の私は死のうと考えていました。
幼い頃から孤独の中で生き、自分の存在価値が見出
せなかったからです。
でもこの作品を読んで、もう一度生きてみようと思
いました。
言葉一つ、一つが孤独な私に寄り添ってくれて、こ
んな自分を肯定してくれた。
今、抱えている苦しさは私だけじゃなく、他の人も
持っている。だから一人じゃない、『あなただって
生きていていいんだよ』そう言ってくれているよう
でした。
当時の私は死ぬ以外の選択肢を持っていなかった。
死ぬことだけが救いだと思っていた。
でもこの本に出会えたことで『生きることに希望を
抱いてもいいのではないか』と考えらるようになり
ました。
私の人生が変わった瞬間だった。
今は結婚して子供を授かることができました。
あのとき死んでいたら、この子に会えていなかった
です。
私はこの作品に救われ、生きていてよかったと思え
るようになりました。
枯木先生に直接言葉を届けることは叶いませんが、
この作品を世に出して頂いたことを心より感謝申し
上げます。
枯木青葉は最後の作品で人の命を救い、そして新しい命に繋げた。一つの作品の持つ力は、私が思っていた以上なのかもしれない。
青木さんに手紙を返すと、慎重に封筒に戻してから鞄に仕舞った。
「すごいですね。面白いと思わせるだけでも大変なのに、人の人生にまで影響を与えるなんて」
「人を救う仕事っていくつかあるでしょ? そのほとんどが何かあってから救うという行動に移すけど、自分たちの仕事は“何かある前に”誰かの命を救うことができる。こんな素晴らしい仕事なんだよって、枯木くんは最後に教えてくれた。良い作品って、読み終わった後に道を作ってくれるんだと思う。だから今は、読んでくれた人に何を残せるかを考えながら物語を作ってる」
何気なく読んでいた本には、もう一つ見えないストーリーがあって、それが顕在化した作品が『夜の祈りは星になる』だった。
そして顕在化したものが読者の現実に反映されたとき、作品はその人の中で生き続けるのかもしれない。
「もし才能の壁にぶつかって夢を諦めてしまった人がいるとしたら、どう声をかけたらいいと思いますか?」
萎れていく才能を枯木青葉は再び咲かせた。美月ちゃんが再び夢を拾い上げることだってできると信じたい。
「その人は夢を目指している人?」
「はい。その子は絵を描いているんですけど、枯木さんと同じく作品に自分を投影させています。圧倒的な才能に触れて、自分の価値がなくなったと思い込んでしまった。だけど何て言ったらいいか分からないんです。私は何かを目指したことがないから、正しい言葉が見つからなくて……」
今は道が閉ざされ、どこに向かって良いのか分からない。だから希望が見えるような言葉を言ってほしかった。
「才能の種は誰にでもあると思う。でも多くの人は育てかたが分からなかったり、育てかたを間違ってしまう。躓いたときは一度立ち止まって、自分と向き合うことが必要なんだ。創作って自分の理想を追い求めてしまうけど道は一つじゃない。その人の軸になっているものが、どうやったらもっと良くなるのかを考えると視野が広がっていく。迷いは新しい道を探すきっかけなんだよ。でもそれをスランプとか才能がないって方向に変換してしまう。本当は才能の芽が育っているのに」
美月ちゃんは才能に躓いて立ち止まってしまっている。今必要なのは自分の絵と向き合って、視野を広げることなのかもしれない。
そのあと青木さんのスマホに着信がきて、職場に戻らないといけなくなった。
「ごめんね、急用ができちゃって」
「いえ、色々とお話が聞けて良かったです。ありがとうございました」
青木さんはトレーを持って立ち上がると、私を見てこう言った。
「好きなだけでは続けられないかもしれない。でも、好きなだけでも続けていいんだよ。誰かより下手だったとしても、自分が自分でいられるなら、その人にとっては必要なものだから」
最後に「結衣さんによろしく言っといて」と言葉を残し、青木さんは店を出て行った。
何かを続けるのに大きな理由はいらないのかも知れない。
『好きだから』これも立派な理由だった。
本を開き、再び読み直した。ここには書いていないストーリーを重ねながら。
本に夢中になってしまい、気づけば外の世界は夜を迎えていた。母からの着信で現実に引き戻され、速やかに帰る支度をする。
店内を出ると、少し欠けた月が夜空に浮かんでいた。
月は夜の中で圧倒的な存在を示している。だが孤独にも見えた。
星は周辺の星と繋がって星座となるが、月は一人で夜空に佇む。
外の世界と繋がりを感じれば孤独は薄まる。
だが美月ちゃんは一人なってしまった。
いや、一人になることを選んだ。絵という結び目が解ければ、自分の周りから人が離れていく。そう思ったから、解ける前に自ら解いてしまったのかもしれない。そっちの方が傷が浅くなるから。
ふと紗奈ちゃんの顔が浮かぶ。美月ちゃんが再び世界との結び目を作るには、彼女の力が必要だ。そう思ったら無意識にスマホを開いていた。
少し遅い時間だったからかけるのに躊躇したが、早めに話しておいた方がいいと思い、路地に入って電話をかける。
――もしもし
「こんな時間にごめんね。今大丈夫?」
――はい
紗奈ちゃんに美月ちゃんのことを話した。彼女には言わないといけないと思う。知らないままでは何も変わらないから。
なぜ絵をやめたのか、なぜ学校に行かなくなったのか、その理由と起因を紗奈ちゃんに伝えると、沈黙がしばらく続いた。
――土曜日に奥村さんを美術室に連れてきてもらえませんか。直接彼女と話したいので
沈黙の間に色んな想いを反芻していたのだろう、声から覚悟を感じる。
「分かった。明日、会いに行って話してみる」
――ありがとうございます
時間などを決めたあと電話を切り、再び月を見上げた。
夜という世界で美しく佇み、朝になれば太陽に埋もれてしまう。自分よりも光り輝く存在が現れれば、どんな美しいものでも影に消えていく。多くの人はその光に飲み込まれていくんだと思う。
だけどそれでも生きていかないといけない。妥協して、自分に嘘をついて、消える光を眺めながら、才能の芽を自ら摘み取って、新たな道を探していく。そうしないと世界に置いていかれてしまうから。
でも捨てる必要はない。自分らしくいられるなら、光は消えないのだから。
昨日に続き、雪乃と花山と教室で昼食をとった。花山の席に集まり三人で机を囲む。
花山は購買で買ったパンだが、私と雪乃はお弁当を机に並べた。この光景がなんだか青春ぽい。
この三人で集まってるのが珍しいからか、周りの視線を感じる。
一番は花山の存在だろう。私と雪乃は事情を知っているが、周りの人たちは『中学の時にクラスメイトを殴った怖い奴』という認識だと思う。
花山も自分がどう思われているかは分かっている。
雪乃が「今日は教室で食べよう」と言った時も、「お前たちの印象が悪くなる」と断ってきた。
「それならそれでいいよ」
雪乃がそう返すと、花山は照れ臭そうに「勝手にしろ」と言った。
その言葉が嬉しかったのだろう。自分が傷つかないように他人を突き放していたが、心の底では人と繋がりたかった。
そして今、解かれた糸が友達という結び目を作ろうとしている。
それは花山と同じく、私も嬉しかった。
スマホを取り出し、二人に紗奈ちゃんの描いた絵を見せた。
『向日葵を抱えた少女が月を見上げる絵』は写真でも美しい。
「綺麗」
「上手いな」
二人は感嘆の声を漏らし写真を眺めた。
「この絵に何か意味があるような気がするんだけど、どう思う?」
昨日の電話で紗奈ちゃんに聞けば良かったのだが忘れていた。これだけで連絡するのも憚られたので二人に聞いてみた。
「これは制服?」
「うん。私が通ってた中学のもの。絵を描いた子も同じ中学」
「じゃあモデルがいるってことか」
「たぶん」
花山は机に置いたスマホを自分の方に向けた。
「なんで向日葵なんだろ?」
と言い、画面をピンチアウトさせて向日葵の部分を拡大させる。
「長袖ってことは夏ではないよね」
雪乃は自分の方にスマホを向けてピンチインさせ、再び絵の大きさを戻す。
「夏を過ぎても枯れない向日葵……」
「向日葵より月が主役じゃない?」
「月の方が目立つけど、俺は女の子あっての月だと思う」
「なんで?」
「なんとなく」
しばらく議論を交わしていると、チャイムが鳴った。
答えは出なかったが、二人が話し合っているのを見てなんだか嬉しくなった。
少し前までは外から見ていた景色だったのに、今は目の前にある。孤独の淵で枯れていた青春に雪が降り花が咲いた。
その光景を見て、美月ちゃんを独りにさせてはいけないと思った。
私のように他人を嫌いになり世界を歪ませれば、自分が苦しむだけだ。
「向日葵のこと調べてみたら」
自分の席に戻ろうとした時、雪乃が言った。
今まで絵の表面だけで意味を探ろうとしていが、裏側を見るには花のことを知る必要があるのかもしれない。
五限目、教師にバレないよう教科書でスマホ隠し、向日葵について調べてみた。
育てかた、特徴、花言葉、種類などが書かれており、その中に一つ引っかかるものがあった。
紗奈ちゃんが言っていた言葉を反芻しながら、頭の中で絵と言葉を重ね合わせる。
――彼女の描く月が好きだから
この言葉が何度か頭をよぎったとき、ふと思いつく。もしかしたら……
明日、直接聞いてみよう。この絵の奥にあるものが、何か導いてくれるかもしれない。
「無理だよ」
学校が終わってから蒼空の家に来た。美月ちゃんと話すためだ。
部屋に入ってすぐ「紗奈ちゃんが来てほしいと言ってる。だから明日、美術室に行こう」と言うと、言下に断られた。
「紗奈ちゃんに絵を描かなくなった理由を言った。彼女は知らないといけないから」
「……」
「本心を言ってほしい。絵をやめたい?」
美月ちゃんは座っている椅子を回転させ、机の上に置いたあったトロフィーに視線を向けた。
画材などは段ボールに仕舞ったのに、トロフィーだけは見えるところに置いてある。きっとまだ迷いがあるんじゃないかと思う。
「好きって気持ちだけでいいと思う。絵を描く理由を他と結びつけるから苦しいんじゃないかな? 美月ちゃんが自分らしくいられるなら続けるべきだよ。『絵を描いていて良かった』、描き続けた先でそう思える瞬間があるかもしれない」
「純粋に絵を楽しめるならそうしていたい。でもできないの。絵がきっかけで友達ができた。私は絵がないと何も手にすることができない。絵で自分のすべてを測ろうとしてしまうの。手放したいのに離れてくれないんだよ。だから描かない、これ以上苦しみたくないから」
今苦しんでいる人は、何かに縛られているんだと思う。才能、トラウマ、コンプレックス、その悩みや苦悩が足枷となり足を止めてしまう。
私もそうだった。苦しみかたは違うけど、その痛みは理解できる。
「私の好きな作家は、よく酷評されてた。自分に向けられた言葉でいくつも傷を作り、苦しかったと思う。だけど最後に書いた作品は多くの人に賞賛された。今までは自分のためだけに書いていたけど、その作品だけは読んでくれる人のために書いたらしい。思い描く理想だけが正解じゃない。追い求めていた道から外れて迷ったとしても、その道が間違ってるわけではない。新しい可能性を見つけるために必要な道なんだよ。立ち止まっていたら迷うことはない。前に進もうとしてるから迷うんだよ。だから今は成長の過程にいるの。自分の積み重ねてきたものが、否定されたわけじゃないよ」
枯木青葉は想いの方向性を変えたことで、読者の人生に影響を与えた。
最後の作品が評価を得たということは、その想いが否定されていたのではなく、伝え方が批判されていんだと思う。
大切にしているものは捨てなくていい。だけど自分だけに寄り添う想いは、いずれ枯れていく。そういうメッセージも込められていたのかもしれない。
美月ちゃんは俯いたまま黙っていた。萎れた月のように。
「『心に抱えているもので世界の映り方が変わる。同じものを見ていても、誰かにとっては美しく、他の誰かにとっては苦しめるものになる。だから自分と向き合うこと大事だと思んだ』、蒼空が私に言った言葉。私は過去の出来事で人を嫌いになった。だから人を避けて生きてきたの。でもいつかは変わらないといけない。でないとずっと苦しさが続いてしまう。逃げるのがダメなことではないけど、自分のことを自分で支えられるようにならないと、この先ずっと何かに背を向けたまま生きることになる。蒼空はそういう意味で私に言ったんだと思う」
でも目を背けたくなる気持ちは死ぬほど分かる。ずっと逃げ続けてきた人間だから。
「明日、紗奈ちゃんに会いに行こう。絵をやめるかどうかはそのあと決めればいい。判断するにしても、今じゃないと思う」
「……分かった」
美月ちゃんは力なく頷いた。
再び描くためには、絵に対しての価値観を変える必要がある。それを変えられるのは……
中学校の校門の前に着くと紗奈ちゃんが待っていた。私と美月ちゃんを見るなり、綺麗なお辞儀をして出迎えてくれた。
美月ちゃんは帽子を深く被り顔を隠す。それは紗奈ちゃんに対してどういう顔で会えばいいのか分からないのと、他の生徒に見つかりたくないからだと思った。
私が来ることは牧野に報告してあるらしく、挨拶は帰りだけでいいとのことだ。
ちなみに美月ちゃんが来ることは言わなかったらしい。「先生に言うとややこしくなりそうなので」と紗奈ちゃんは言った。
牧野は私がいた頃から土日も学校に来ていた。これは噂だが、家族からも毛嫌いされているらしく居場所が学校にしかないらしい。ソースは分からないが、信憑性は高いと思う。
美術室までの道程に会話はなかった。
先頭を歩く紗奈ちゃんの後ろを付いていってるのだが、美月ちゃんは私の背中に隠れるように歩いている。
なんだが中間管理職のような気持ちになってきた。なにかあったら私がなんとかしないと、という気持ちがプレッシャーとなる。
世のお父さんたちに敬意を払っていると美術室に着いた。
中に入ると『向日葵を抱えた少女が月を見上げる絵』がイーゼルに立てられていた。
美月ちゃんは俯いている。絵を見れないのかもしれない。
紗奈ちゃんが絵の方に向かったので付いていこうとするが、美月ちゃんはその場から動かない。私は促すように袖を引っ張り歩かせる。
「千星さんから聞いた。なんで絵をやめると言ったのか」
紗奈ちゃんは絵の前で立ち止まると、そう言った。
美月ちゃんは帽子で顔を隠している。というより絵を視界に入れないようにしている。
「あなたには才能がある。だから絵をやめる必要はない。また描くべき」
この絵の前でそれを言うのは酷なように感じたが、この絵と向き合わないと前には進めない。紗奈ちゃんからのメッセージのように思えた。
「才能なんてないよ。秋山さんみたいな天才に私の気持ちなんて分からない」
「なんで自分の描いたものを信じないの。今まで積み重ねてきたならもっと胸を張ればいい。あの月の絵は素晴らしい絵だよ」
「信じたいよ。だってあの絵は私自身だから。でもぜんぶ失った。秋山さんが奪っていったんだよ」
「私は何も奪ってない。自分で捨てたんでしょ。描きたいなら自分の意志で描けばいい」
そう言われた美月ちゃんは帽子を取り、感情が剥き出しになった表情で反論した。
「誰かの影で描くなんてできない。あんなに好きだったのに今は筆すら握りたくない。積み上げてきたものが簡単に超えられていく辛さを、秋山さんが理解できるはずない。才能なんて軽々しく言わないでよ。天才を追いかけて苦しむより、夢を捨てた方が楽になれる。秋山さんがいなかったら今も絵を描けてた。私の絵だってもっと褒めてもらえてた」
美月ちゃんは全身から振り絞るように感情をぶつけた。荒げた声は目の前の女の子を殴りつけるようだった。
「牧野先生の言い方は酷かったと思う。でも絵をやめるって決めたのは奥村さんでしょ。それを私のせいにしないで。他人に左右されるくらいのことなら、それを夢とは言わない。私より上手い人なんて外の世界にはたくさんいる。その度に誰かのせいにするの? 周りのせいにしたって何も変わらない。悔しいと思ったらその人の絵を見て学ぶ。それを自分の絵に還元してもっといいものを描く。私はずっとそうやってきた。今まで必死に描いてきたのは私だって一緒。才能って言葉だけで片付けないで」
表面に見えるものがすべてではない。それを知っていても、人は見える部分で判断してしまう。私もそうしてた。
紗奈ちゃんの絵を見て、どれだけ努力をしたのかまでは考えていなかった。天才と言われる人たちは才能の一言だけでもてはやされ、その裏にある血の滲んだ努力を語られずに羨望を浴びる。圧倒的な実力を持つ人間は、理解されない孤独を抱えているのかもしれない。
美月ちゃんも何か受けとったのか、視線は絵に向いている。
「私も挫折しかけたことがある」
紗奈ちゃんがそう言うと、美月ちゃんは「え?」と驚いた表情を浮かべた。
「SNSで自分より上手い人の絵を見て、心が折れそうになったことがあるの。それも一人ではなく何人もいたから。そのときは本当に辛かった。いずれこの人たちの中に入って、自分の絵を評価してもらわなといけない。私には無理だって思ったし、自分に才能なんてないと思った。でも絵が好きだったから諦めたくなかった。だからもっと上手くなるって決めたの。『今の自分を認めてもらうこと』より『どうやったらもっと上手くなれるか』を優先することにした。自分の実力ではトップにいる人間には敵わない。だけど、いずれ全員超えて見せる。今は成長段階だからどっちが上手いかなんて考えてない。でもいつか、私は日本一の絵師になる。そのためには学ばないといけない。たとえ心が折れそうになっても、もがきつづけるつもり」
こんなすごい絵を描く人でも、才能の壁を感じることがあるのかと驚いた。でも一番は彼女の絵を描く姿勢だ。
創作する人間でなくとも承認欲求はある。だけどそれを隅に置いて、成長を一番上に持ってこれる十三才なんて中々いない。そして心が折れかけたところから、学ぼうとする意識に向かった。本当の才能とは、こういうところを言うのかもしれない。
「だから奥村さんからも学びたいし、色々教えてほしい」
先程とは打って変わり、落ち着いた声で美月ちゃんに声を向けた。
「私が教えられることなんてないよ。私が持ってるものを秋山さんは全部持ってるから」
会話が止まり、沈黙が二人の間に佇む。
「この絵に描いてある女の子って紗奈ちゃんじゃない?」
私が沈黙を押し退けて問いかけると、紗奈ちゃんはゆっくりと頷いた。
「そうです。でもよく分かりましたね」
冷静に答える紗奈ちゃんは、ミステリーでたまに出てくる、バレたのに全然動じない犯人みたいだと思った。
「最初の引っ掛かりは制服だった。ここの学校の制服を着てること、そして向日葵を持っているのに冬服なこと。この季節のズレに違和感を覚えた。そのあとに向日葵の花言葉を調べたの。そしたら『憧れ』って書いてあった。私が初めてこの絵を見たとき、美月ちゃんの描く月が好きって言ってたでしょ? それでもしかしてと思って考えてみた」
なんだかトリックを暴くシーンみたいになっているが、気にせず話を続ける。
「憶測だけど、この絵の女の子は月に憧れていて、そしてこの月は美月ちゃんを表している」
隣にいる美月ちゃんが目を丸くして私を見た。
「千星さんが言った通りです。この絵の女の子は私で、月は奥村さんです」
紗奈ちゃんは月の絵を見ながら言った。その声に哀愁を纏わせて。
「あともう一つ意味があります。千星さんが言った通り、この絵は冬です。本来なら枯れているはずの向日葵が夏を超えても咲き続ける。憧れは枯れない。奥村さんが描いた月の絵は、私の中で美しく在り続ける。その瞬間だけなく、この先もずっと。そういう意味でこの絵を描きました」
この絵に惹かれる理由が分かった。ただ上手いだけだけではなく、込めた想いが表面に表れているからだ。
枯木青葉の最後の作品も、紗奈ちゃんが描いたこの絵も、誰かのために描かれている。それが作品の奥行きを作っているから心に響くんだ。
「奥村さんに憧れていた。人と話すのが苦手な私からしたら、絵も描けて友達も多いあなたが羨ましかった。絵が上手いだけでは友達は作れない。あくまできっかけでしかないの。奥村美月っていう人間に惹きつけるものがあるから、人がそこに居続ける。あなたの価値は絵だけじゃない。それを放棄しちゃダメ。私はずっと一人だったけど、奥村さんが笑った方が可愛いって言ってくれたから笑うようにした。そのおかげで友達もできた。無理して笑わなくてもいいけど、奥村美月は笑顔のほうがいい。それに、絵を描いているから人が集まったんじゃないよ。絵を描いてるときが一番輝いてるから人が集まって来るの。だからやめるべきじゃない。自分らしくいるためにも」
紗奈ちゃんがそう言ったあと、私の隣から鼻を啜る音が聞こえてきた。
「絵を描きたい……大好きだから……私の夢だから……もう一度……描いてもいいかな」
涙を拭いながら、美月ちゃんは奥底の言葉を吐き出した。自分の心にきつく縛りついていた足枷が、涙腺と共に緩んでくように見えた。
「自分のことだから、自分で決めな」
「描く!」
紗奈ちゃんの笑顔に釣られて、美月ちゃんも笑顔になった。太陽が月を照らして輝くように。
そのあと三人で職員室に行った。数人の教師がおり、自分の席で何か作業をしていたが、ドアが開く音で一斉にこちらに振り向く。
美月ちゃんがいることに気づくと、先生たちは驚いた顔をしていた。その中に担任の先生がいたらしく、少しのあいだ美月ちゃんと話をしていた。
「月曜日から学校に行きます」
美月ちゃんがそう言うと、担任の先生は安堵の表情を浮かべていた。
「最近のやつは……」
牧野がおじさんの定型分を携えて私たちのところへ来た。
こういう類の人間は自分が言うことはすべて正論だと思っているから、簡単に人の心を折ってくる。
「ちょっと何かあったくらいで学校を休んでたら、社会では通用しないぞ。もっと自分と向き合っていかないと……」
「牧野先生」
紗奈ちゃんが説教の冒頭に言葉を挟んだ。こいつの説教はプロローグが長く、本編は二、三ページで終わるくらい薄い。だから序盤で止めてもなんら問題はない。
「もう少し生徒を見た方がいいと思います。その人が大切にしてるものを知ろうとしないから、自分の価値観を押し付けて人を傷つけるんです。私たちはまだ未熟です。一人で生きていくことはできません。だから大人の力は必要だと思います。でも、子供から才能を奪わないで下さい。奥村さんの絵は素晴らしいし、コンクールに出しても賞を取れます。だから簡単に否定しないで下さい。大人からしたら何でもない言葉でも、私たちにとっては人生が変わる一言になるかもしれないんです」
他の教師はなんとなく察したのか、牧野に視線を向けた。だが当の本人はなんのことか分かっていない様子だ。この鈍感さが安易に人を傷つける。
「いや、お前らはまだ子供だろ。大人の言うことは聞いとけ。俺の方が長く生きてるんだから」
話が通じてない。通じないから周りは何も言わなくなり、こんなモンスターが産まれてしまったのだろう。そう言った意味ではこいつも被害者なのかもしれないが、だからと言って人を傷つけていい理由にはならない。
「自分と向き合うのは生徒だけじゃないってことを紗奈ちゃんは言ってるんです。大人になるから人を理解できるようになるんじゃなく、自分と向き合い続けてきた人が、他人を理解できるようになる。外だけに意識を向けてたら、表面に映るものしか見えなくなりますよ。自分を知ることで、見えない痛みに気づくことができる。これは私の考えですけど」
牧野にはたぶん理解されてない。今もポカンと口を開けたままこちらを見てる。でも二人がこの先の人生で躓いたときに、この言葉が何かのヒントになってくれればと思った。
「もっと上手くなりたいから、絵を教えてほしい」
三人で校門を出たとき、美月ちゃんが言った。
「じゃあ私にも教えて。月の描き方」
「うん、じゃあ教え合いっこしよう」
隣を歩く二人のやりとりを微笑ましく思う。なんだか保護者みたいな気持ちだ。
「千星ちゃんありがとね」
美月ちゃんが私を見上げながら言う。
「もしかしたら、ずっと部屋に引きこもってたかもしれない。千星ちゃんが何度も来てくれたから、私はまた外に出ることができた」
「私は何もしてないよ」
多少のきっかけは作ったかもしれないが、変えたのは紗奈ちゃんだ。
「遅かれ早かれ私はどこかで挫折してたと思う。今回みたく、それを他人のせいにしてたかもしれない。自分のためだけに絵を描いていたから、歪んだ見えかたになっていた。いつか私も誰かを笑顔にさせる絵を描く」
美月ちゃんはそう言ったあと、急に立ち止まった。私と紗奈ちゃんも釣られて立ち止まる。
「ごめんなさい。絵をやめることを秋山さんのせいにして。それと……ありがとう。これからは、もっと絵を好きになれそうな気がする。秋山さんがいてくれて良かった」
紗奈ちゃんはその言葉を微笑みで受け止めると、美月ちゃんの前に立った。
「自分のために描くことも必要だと思う。それが支えになるから。両方をバランスよく持って。偏りすぎないように」
「うん。あと……」
美月ちゃんは指をモジモジとさせながら、何か言いたそうにしている。
「何?」
「下の名前で呼んでいいかな?」
美月ちゃんは、恥ずかしさを頬に灯して聞いた。
「いいよ。私も美月って呼ぶ」
「私も紗奈って呼ぶ!」
そのあと二人は好きな絵師の話をして盛り上がっていた。
その光景を微笑ましく思う。なんだか保護者みたいな気持ちだ……いやこれさっきも言ってたなと思いつつ、笑顔が咲く二人を静かに見ていた。
降り積もった雪は溶け、二人の間に新しい芽が生まれる。その芽はいつか美しい花を咲かすだろう。枯れることのない久遠の花を。
週明けの月曜日、一週間で最も憂鬱な日がやってきた。週の始まりというのもあるが、今日は蒼空に会える最後の日だ。
私の中では蒼空は生きている。実際に会ってもいるし。でも明日からは本当にいなくなってしまうと考えると気分が重くなった。
この四週間、未練を叶えることに集中していたからか、蒼空がいなくなる想像ができない。みんなはもう現実を受け止めて、次に進んでいるのかもしれないが、私は今日という日が本当の別れになる。
世界には空が広がっていて、星はその中を彷徨い続けてきた。天気のような感情に一喜一憂しながら、縋るように生きてきたと思う。
太陽の光は自分の存在を薄めていく。そのたびに夜に輝きを求め、黒を奪っていく朝を嫌悪した。
これからは自分の力で光を灯さないといけない。だから蒼空は私を選び、未練という名の道を与えたんじゃないかと思っている。
でもやっぱり辛い。別れの言葉なんて言いたくないし、できるならずっと会いたい。今までみたいにくだらない冗談で笑い合っていたい。
結局、覚悟ができないまま夜を迎え、流星の駅に向かう列車に乗った。
四度目となる空飛ぶ列車だが、今日は感動がなかった。窓に映る星空も、幻想的な空間も、どこか絵空事に見える。
美しい景色よりも、蒼空と一緒に見るありふれた風景の方が、私には価値があると思った。
「最後だからね」
目の前で足を組んで座る結衣さんに、釘を刺すように言われた。もしかしたら表情に出ていたのかもしれない。
「本当に最後なんですか?」
「うん」
素っ気なく返された。結衣さからしたら何でもないことかもしれないが、私は大切な人との最後になる。もう少し温情がほしい。
「伝えたいことがあるならちゃんと伝えなよ。後悔しても、もう会えないからね」
――好き
このニ文字を言うか迷っていた。蒼空が好きなのはたぶん雪乃だから。
「さよなら」の代わりに「ごめん」と言われてしまったら、私はきっと立ち直れない。なら仲の良い幼馴染で終わりたいと思っていた。
「蒼空くんのこと好き?」
唐突に聞かれた。冷静な人は動揺しても隠せるのだろうが、私みたいな乙女は瞳がマーメイドになる。
翻訳すると、目が泳いでしまう。
たぶん結衣さんにもバレてるだろう。隠してもしょうがないと思ったので小さく口を開く。
「……好きです」
からかわれそうな気がしたので目線を落として言った。零した恋心を捏ねくり回されたくなかった。
「過去が未練に変わるのは、今を生きてないから。目の前にある新しい道を見ないで、後悔したものだけが美化されていく。今の千星ちゃんだったら、伝えても、伝えなくても、胸に抱えた想いはいずれ未練に変わる。どちらが正しいかは自分次第で、大事なのは、なぜその選択をしたのかという理由」
死んだ人は今を生きられない。だからこそ未練が強くなる。変えることはできないし、新しい道を選べないから。
今は『伝えない』という割合の方が大きい。その理由は傷つきたくないから。これでは前と一緒だ。逃げ出した自分から成長していない。
結衣さんは色んな人を見てきているから分かるのかもしれない。私の持っている想いがどう変わっていくのかを。
「過去は変えられない。だからこそ未練に変わりやすい。自分でコントロールできないものほど、人は執着して苦しんでゆく。特に恋っていう特別な感情はね。言う言わないは、千星ちゃんの好きにしたらいい。でもどんな結果が出ようと、今を生きることを忘れないで。変えられないものは糧にするしかない」
過去は強力な呪いになることを知っている。ずっと縛り付けられてきたから。
蒼空のことを過去にするつもりはないが、未来への隔たりにしてはいけない。それは蒼空が一番嫌がることだ。
「気持ちを伝えてみようと思います。もう一人でも歩いていけるよって、蒼空に知ってほしいから」
結衣さんは微笑んでくれた。この人は厳しい言葉をよく使うが、笑った顔は本当に優しい。
「好きって言ったことイジられるかと思いました」
雑談を重ねたあと、会話の隙間に言ってみた。
この言葉に意味はなかったが、結衣さんとも今日で最後だから空白を作るのが惜しかった。
陽気に返してくるんだろうなと思っていたが、結衣さんは真剣な顔つきで私を見た。
「いい女は人の恋を茶化さないんだよ」
それから姉さんと呼ぶようになった。
流星の駅に着き、蒼空が待っている部屋へと向かった。階段の一段一段に心臓が波打つ。
今日で最後だけど、いつも通りの二人でいたい。くだらない冗談を言って、何でもないことで笑いあって、そして好きと伝えてさよならを言いたい。
しんみりとしたお別れは後悔に変わりそうだから、楽しく過ごして蒼空を見送ろう。
そう思ったが、五年間の二人の思い出が頭の中を通り過ぎていくたび、涙が出そうになる。辛いことも楽しいことも、そのすべてが愛おしい。
このままでは涙腺が崩壊してしまいそうなので、思い出の中の蒼空の顔をゴリラに変えて耐え忍ぶことにした。
ゴリラと一緒に夕日を見ているところで、扉の前に着いた。危うくゴリラを好きになってしまいそうだったので、良いタイミングだった。
一度深呼吸する。息を吐きながら頭の中のゴリラに別れを告げ、涙腺に叱咤してから、ゆっくりと扉を開ける。
ガラス張りの部屋には星の明かりが差し込み、幻想的な空間を演出する。
シンデレラのように自分を着飾ることはできないが、この雰囲気だけで特別なものになれたような気がした。
「千星」
声の方に視線を移すと、蒼空がこちらに歩いてくるのが見えた。
この優しい笑顔を見るのが最後だと思うと泣きそうになる。でもここで涙を見せたら、いつものように話せなくなるので、太ももをつねって笑顔を作った。
肩を並べて、窓の前にあるベンチに向かう。
その間、お互いに何も話さなかった。蒼空も今日が最後だと意識しているのかもしれない。
――お前ピーマンみたいな顔してるな
これぐらいの挨拶をしてくれると流れを作れるのだが、そんな雰囲気でもなかった。仮にされたとしても、ぶん殴ってしまう。いくら何でもピーマンに失礼すぎる。
沈黙が緊張を産み落とすなか、二人でベンチに腰を下ろす。話すことはいくつもあるが、最後ということを意識しすぎて口が開かない。
だんだんと頭の中がゴリラとピーマンで溢れてきて、ピーゴリラーマンという造語を爆誕させた頃、蒼空が沈黙に言葉を添えた。
「無茶なお願いをしてごめん。千星が人と関われないと知りながら、俺のわがままに付き合わせた。一人で辛かったろ」
「ううん、そのおかげで自分を変えることができた。蒼空が私を選んでくれたおかげ。ありがとう」
短い会話だったが緊張がほぐれた。蒼空の声は安心できる。
「美月ちゃん、学校行ったよ。それと、また絵を描くって」
今日の昼休みに美里さんから連絡がきた。『美月が登校した。千星ありがとう』と。
『最終的には自分で選択したことだから、美月ちゃんを褒めてあげて。それが学校に行くモチベーションに変わるから』と返信した。
学校に行くのは当たり前かもしれないが、その当たり前を褒めてあげることも大事だと思う。人に何かを言われて決めるより、自分の意思で行動するほうが納得できると思う。
そのあと、美月ちゃんが絵をやめた理由や紗奈ちゃんのことなど、一連の流れを蒼空に説明した。
「あれだけ好きだったから、絵をやめてるなんて思ってなかった。なんで気づいてあげれなかったんだろう。もっと早く美月を救えたかもしれないのに」
蒼空は表情を曇らせて言った。
「紗奈ちゃんが必要だったから、今で良かったんだと思う。もしまた同じようなことがあっても、美月ちゃんはそれを糧に絵を描き続けられる。挫折した先の希望を見つけるには、違う視点を持つことが大事。二人にそう教わった。迷いは人は成長させるから、今回のことは大事な通過点だったんだよ」
私がそう言うと、蒼空は笑みを浮かべた。どこか嬉しそうに見える。
「千星、変わったね。見ないうちに大人になった」
「雪乃に化粧教わったから、それでかな」
今日のために雪乃に色々と聞いた。可愛いと思われたかったのでメイクには一時間かけ、洋服は昨日買ったオフホワイトのニットとレース生地のロングスカートを合わせた。
もちろん衣服にはファブリーズプレミアム・パステルフローラル&ブロッサムの香りをつけた。最近の女子高生はみなファブリーズを愛用している。私調べだ。私調べということは私だけにしかアンケートはとっていない。
「外見じゃなくて中身のほう。大人になるって、見た目とか年齢より考え方だと思う。この四週間で言葉が変わった」
色んな人に触れて世界が広がった。人との接し方、優しさの向け方、夢との向き合い方、それぞれが自分の考えの幅を広げたと思う。教室の片隅で嫉妬と嫌悪を抱いていた頃より、見える景色が鮮やかになった。思考という根で、言葉の咲きかたは変わる。表面だけ着飾っても美しい花は育たない。
「一人では何も変えられなかった。周りの人たちがいたから、外の世界や自分と向き合うことができた。そのきっかけを作ってくれたのは蒼空だよ」
ここに呼んでくれなかったら、今も私は部屋の中で閉じこもっていたと思う。蒼空が残した未練が私の道標になった。
「きっかけだけでは始まらないよ。一歩踏み出すことを選んだのは千星だし、それがあったから雪乃も花山も美月も変わることができた。千星が頑張ったから、周りも自分も変われたんだよ」
「でも運がよかったのもある。雪乃から話しかけてくれなかったらどうなってたか分からないし、蓮夜くんがいなかったら花山と話せなかったと思う。紗奈ちゃんがいたから、美月ちゃんはまた絵を描くことを選べた。私一人では何もできなかった」
今振り返ると、少しでも道が違えば同じ結果にはなっていなかったのかもしれない。偶然が重なって生まれた変化だった気がする。
「運が良かった部分もあるかもしれない。でも待っているだけでは何も起こらなかったと思う。行動がなければ偶然も生まれない」
今までの私は種を植えていない花壇を眺めながら、咲いてほしいと願っているだけだった。
過去の傷が足枷となって、外の世界に踏み出すことを躊躇するようになった。
それがダメなことだとは今も思ってないが、傷を痛みだけで終わらせてしまえば、未来にある可能性まで捨ててしまうことになる。それを伝えたくて、私を呼んだのかもしれない。
「蒼空が私を選んだのは、一人でも歩いていけるようになるためでしょ? 本当は他に会いたかった人もいたと思う。ごめんね、最後まで気を遣わせちゃって。それと、ありがとう。私の背中を押してくれて」
「べ、別に千星のためじゃないから。俺の未練を叶えてほしいだけだったから。だから、そういうわけじゃないから」
蒼空は照れくさそうにしながら、下手くそなツンをかましてきた。
「私のツンを盗るな。逮捕するぞ」
「ツンって何?」
「ツンデレのツン」
「ツンだけ言われても分からないから」
「義務教育で習っただろ。開国したときにツンとデレがお忍びで来日したのを覚えてないのか」
「ツンデレって伝来してきたの?」
「鉄砲の中に入ってたらしい」
「伝来に引っ張られてるじゃん」
「べ、別に引っ張られてないんだからね、蒼空が伝来って言ったから鉄砲って単語を出したわけじゃないんだからね」
「最早ツンなのかも分からない」
最後の会話がこれでいいのか分からなかったが、いつもの二人でいられると思うと楽しかった。
意味のない言葉たちは、やがて思い出に変わって意味を持つようになる。だから今は何も考えず、この瞬間を大切にしよう。過去を振り返ったとき、私は笑っていたい。
「そうだ、美月ちゃんの絵、撮ってきたよ」
スマホを取り出して、海の上空に浮かぶ月の絵を蒼空に見せた。
「上手い、やっぱり続けるべきだよ」
慈しむような目で絵を見ながら、表情を満悦で染める。その顔を見て私まで嬉しくなった。
「美月ちゃんと紗奈ちゃんを見てて、私も何か目指してれば良かったって思った。人生の支えになるようなものを」
「今からでも遅くはないんじゃない」
「今から? うーん……何がいいと思う?」
蒼空は視線を宙に向けて思案している。
「何に就くかじゃなく、どう生きたいかを決めてみたら」
「どういうこと?」
「たとえばだけど、人の役に立つ仕事をしたいと思ったらいくつか選択肢が生まれるでしょ? でも軸がなければどこに向かっていいか分からなくなるし、したいことが見つかりにくくなる。仮に車を製造する仕事に就いたとする。何となくすごい車を作りたいと思ってる人と、人の役に立つ車を作りたいと思っている人では発想が変わるし、自分の視点を持つことができる。だからまずは軸を探したらいいんじゃないかな。それがいつか道に変わるよ」
軸はまだ持ってない。今は先の見えない森の中をただ歩いているだけなのかもしれない。要はコンパスを持てということなのだろう。
「なんのために生きるか……幼稚園の頃はブロッコリーおばさんになりたいと思ってたけど、そこに軸はないしな……」
「何その仕事?」
「私が三歳のときに作った仕事。ひたすらブロッコリーを体に浴びるの。そうだ、ブロッコリーの役に立つ仕事をするってのもいいかも」
「千星はまだ軸を作らなくていい。今は模索の時期にしよう」
「なんか緑の軸が見えてきた。ありがとう蒼空、生きる目的ができるかも」
「頭の中にあるブロッコリーを一回冷蔵庫に戻せ。ブロッコリーのために生きることも素晴らしい人生だけど、ブロッコリーに身を捧げるのはもう少し考えてからにしろ」
「確定申告のときにブロッコリーを書く欄てあるのかな」
「ねーよ」
「何でだよ」
「誰も書かないからだよ」
「書けよ」
「書けねーよ」
「ブロッコリーの想いを汲み取れよ」
「汲み取れねーよ」
蒼空と目が合うと、二人で笑った。最後の会話なのにブロッコリーの話をするなんてバカらしい。でも変わらない日常がそこにはあった。この先もずっと続いていくような、思い出の中でも笑えるような、そんないつものくだらない会話が。
「楽しいね」
私がそういうと、蒼空は優しく微笑んで、
「そうだね」
と言ってくれた。
その言葉で、またあなたを好きになる。
そのあとも何でもない話を続けた。
美里さんが大事にとっていたクッキーをこっそり食べて二人で怒られたこと。中学の卒業式で蒼空の第二ボタンを無理やり奪い、女の子たちの争奪戦を止めたこと。部屋で一緒にゲームをしているときに、負け続けた私が怒って拗ねたこと。数え上げたらキリがない思い出たちを、味がなくなるまで笑いあった。
時間の流れというのは想いと反比例する。退屈なときほどゆっくりと進むのに、幸福を抱くと光の如く過ぎてゆく。本来なら逆にすべきだ。苦しいことはすぐに消えてしまえばいいし、楽しいことは永遠に続けばいい。流れ星が刹那で消えるのは、幸せを祈るからかもしれない。
懐中時計をポケットから取り出して確認すると、残り五分となっていた。
お互い、終わりが近いと意識し始めたのか、澱みなく続いていた会話に沈黙が挟まっていた。
あと少しでお別れをしなければならないと思うと、先ほどまで咲いていた笑顔はいつの間にか萎れていた。
まだ自分の気持ちも伝えてない。でもこんな顔で好きなんて言いたくないし、悲しいさよならではなく、笑ってさよならをしたい。
物語のエンドロールは、涙ではなく笑顔がいい。
私が感情を落ち着かせていると、蒼空が沈黙に言葉を挿した。
「星、綺麗だね」
窓の外を見ると星屑が夜を染めていた。これが二人で見る最後の景色となる。
「綺麗だね」
そう返すと蒼空は「星と空だね」と言った。
世界から切り離されそうになったとき、蒼空が私を救ってくれた。あの日と同じ言葉が私の鼓膜を優しく撫でる。
「星と空だね」
私も倣ってそう言った。
「小学生のとき千星に憧れてた。俺もこうなれたらって」
「私に?」
「うん。あの頃はずっと三宅が怖かったんだ」
小学六年のあの日から、ずっと過去に縛られてきた。三宅は私が人を嫌いになる原因を作った奴だ。よく暴言を吐いたり手を上げてたりしていた。
「体が大きくて力も強かっただろ? いじめられている子がいても、恐怖で何もできなかった。そんな自分が嫌いだったし、友達を作る資格もないと思ってた。俺も他の子らも自分を守ることで必死だったのに、千星だけが三宅に立ち向かっていった。その姿を見て、誰かを守れる人になろうって決めたんだ。覚悟を持つまで、だいぶ時間はかかったけど」
前に蒼空は私に変えられたと言っていたが、どうりで覚えていないはずだ。私と話すようになる前なら気づけない。
「千星の居場所になれていたと思うと嬉しかった。今の俺がいるのは千星のおかげだから。遅いかもしれないけど、変えてくれてありがとう。友達になれて良かった」
友達……その言葉が胸に刺さる。この期に及んで、期待していたのかもしれない。蒼空も私と同じ気持ちを持っているかもと。
徒恋に降る切なさが涙に変わりそうだった。それでも散りゆく想いをかき集め、言葉にして伝えないといけない。
落としたものを眺めるだけでは、この先の道で花は咲かない。
「あの日、手を差し伸べてくれたから一人にならずにすんだ。蒼空がいなかったら今も人を嫌いなままだった。私を救ってくれて、私を変えてくれてありがとう。でもね、友達じゃなければって思うことがたくさんあった。蒼空が女の子と話してると嫉妬したし、その子を嫌いになりそうになったこともある。自分以外の人間が消えて、二人だけになれたらって何度も考えた。こんなどうしようもない人間だけど、一つだけ誇れることがあるの。それはね、奥村蒼空という人を好きになれたこと」
蒼空は何かを堪えるような顔で私の目を見ている。今ままでだったら恥ずかしくて視線を逸らしていたが、それだと真っ直ぐに想いが伝わらないような気がした。だから今日は俯かない。たとえ神様が下を向けと言っても。
「泣きたくなることもあったし、苦しくなることもあった。でも好きになったことを後悔した日は一度もない。恋をするために好きになったんじゃなく、蒼空という人に恋をしたから、辛いことがあっても好きで居続けられた。迷惑かもしれないけど、これが私の気持ち。蒼空のことが大好きです」
初恋という花をくれたあなたに、想いを摘んだ言葉の花束を渡す。美しくはないけれど、心の片隅にでもいいから飾ってほしい。
蒼空は口を閉ざしたままだった。それが答えだということは明白だったが、逃げずに伝えた私を褒めてあげたい。そうしないと泣いてしまうから。
「いやー、緊張するね告白って。手汗がすごいや。たった二文字言うだけなのに、MP消費全部したよ。今魔王が現れたら、即キルされるわ。来たら媚び売って仲間にしてもらおう。きっといいところ住んでるだろうな。あいつら無職のくせにお城持ってるんだよ。ずるい……よね」
明るさで誤魔化そうとしたが、涙が込み上げてきた。話すのをやめたら絶対に泣く。今日は笑顔でさよならを言いたい。
「そうだ、覚えてる? 小学生のときに二人でRPGやっててさ、私が勇者の名前を『三代目よしぞう』にしようって言ったら、蒼空がよしぞうって誰だよってツッコミいれたけど、普通は『初代と二代目いるのかよ』だからね。そのツッコミだと……どんな名前でもそうなるから……だから……あれは間違って……」
泣くなよ。もうお別れを言わないといけないのに、笑って見送らないといけないのに、なんでこんなときに泣くんだよ。
「るからね……そんなんじゃ、女の子にモテないから……私くらいだよ……そんなツッコミで許して……許してあげれるのは……こんないい女、他に……他にいないんだから……」
涙が小雨から本降りに変わったとき、蒼空が私を抱き寄せた。
「千星、一緒にいれて楽しかった。くだらない冗談を言い合ったり、何でもないことで笑いあったり、そんな何気ない日常が本当に好きだった。思い出の一つ一つに名前を付けたいと思えるほど、大切な時間を過ごすことができて嬉しかった。今日が最後になるけど、明日からも笑っていてほしい。千星には笑顔が似合うから」
涙を堪えながら、一つ一つの言葉を頭に入れた。今日という日が思い出に変わったとき、一秒も忘れていたくなかったから。
「これからは自信を持って生きてほしい。前にも言ったけど、千星には人を変える力がある。そのことを忘れないで」
「うん」
「忘れたら化けて出るから」
「じゃあ忘れる」
「いいの? 写真撮るたび俺が写るけど」
「お化けは嫌いだけど、好きな人なら嬉しい」
わがままを言いたい、優しく甘やかしてもらいたい、幸せに溺れながらこの腕の中で眠ってしまいたい。本音を言えば、欲望を満たしてずっとこうしていたい。
「千星」
「何?」
「もうそばにいることはできないけど、今の千星なら俺がいなくても大丈夫だと思う。これからは自信を持って生きてほしい。変わってるところもあるけど、でもそれが千星の良さだし、自分らしくいれば笑っていられるから。過去を振り返るときは、後悔ではなく一歩進むために。それも覚えといて」
「私、変わってないもん」
声を潤ませながらで精一杯返す。
「変わってるよ。でもそれがいいところだから。千星が千星でいるときが一番輝いてる」
「うん」
「いつか誰かと恋をして、幸せに生きてほしい。今日という日を思い出にするなら涙ではなく笑顔で。もう過去に縛られなくていい、大切のものはこれから進んでいく道に落ちてるから。だから泣かないで。これは悲しい別れではなく、千星にとっては始まりだから」
涙を止めるため、思いっきり鼻を啜った。その音が可笑しかったのか、蒼空の笑い声が耳に入った。
「千星がいてくれてよかった。本当に楽しかったし、たくさん思い出をもらった。これでお別れだけど、元気でね。それと……好きになってくれてありがとう」
「バカ、せっかく涙が止んだのに、また出てくるだろう」
実際はまだ泣いていた。梅雨のような涙腺が頬を何度も濡らし、床に涙の跡を残していた。
歯を食いしばりながら止めようとしていると、抱き寄せられていた体が蒼空から離れる。
「まだ泣いてるじゃん」
そう言いながら優しく涙を拭ってくれた。微笑んだ顔が視界に映る。
「私も一緒にいれて楽しかった。蒼空があのときいてくれたから、生きる意味を見つけられた。本当に会えて良かった。それと……好きという気持ちを教えてくれてありがとう」
最後に笑うことができた。今もまだ辛い気持ちは残ってるけど、蒼空に安心してほしくて笑顔を残した。
物語の終わりは、沈むような雨ではなく、歩きたくなるような青空がいい。
察したのかどうかは分からないが、部屋の扉が開き結衣さんが入ってきた。
目の前に来ると「もう大丈夫?」と、私たちの顔を交互に見て確認した。
「はい」
私と蒼空は、声を重ねて言った。
「じゃあ千星ちゃん、行こうか」
最後は笑顔で、何度も頭の中で復唱してから蒼空の顔を見た。
「もう行くね」
「うん」
「……さよなら」
「さよなら」
私も蒼空も笑ってお別れをした。背中に残る視線で何度も振り返ろうとしたが、決心が鈍ってしまいそうだったので前だけを見た。
本当は『またね』と言いたかった。花が散り、再度季節で会えるような、そんな別れをしたかったから。
でも『さよなら』じゃないとダメだと思った。花の代わりに未練が咲きそうだったから。
部屋を出るときは蒼空の顔は見ないで出た。泣いてる顔を見せたくなかったから。
名残惜しいが、涙で締めたくなかった。
名状しがたい感情を抱えながら列車の席に着いた。結衣さんは運転席に入る。
今は一人だと辛いから、目の前に座ってほしかった。もしかしたら気を遣ってくれたのかもしれない。
扉が閉まり列車が動き出すと、強い光が窓から差し込んできたので、目を瞑って下を向いた。これで本当にお別れなんだなと思いながら。
程なくして光が消えたのを感じ、ゆっくりと目を開ける。窓の外には夜空一帯に広がる星々が映った。
感覚的にだが、速度がいつもより遅いような気がする。余韻がそう思わせているだけかもしれないが。
自然と蒼空の顔が浮かぶ。小中高と一緒だったため、本当の別れはこれが初めてだった。いつかは来ると分かっていたが、こんなにも早いと思わなかった。
当たり前に思っていた日常が当たり前でないと気づくのは、何かを失ってからだ。そうやって人は後悔を繰り返すのだろうなと思った。
外の景色を見ながらため息を吐くと、結衣さんが来て目の前に座った。
「幸せが逃げるよ」
「地獄の果てまで追いかけます」
「それ矛盾してない?」
「地獄で幸せになるので大丈夫です」
結衣さんは怖いけど、なぜだか安心する。気は短そうに見えるけど、包容力がある人だと私は思う。それに裏表のない感じも、安心を与える要因になっている気がする。
「あっという間だったね」
「はい。少し寂しいです」
「少し?」
「かなり」
結衣さんは窓枠に肘をかけ、頬杖をつきながら一笑する。
「蒼空はこれからどうなるんですか?」
「私は案内人だから、この先のことは知らない。未練を叶えるまでが仕事だから」
「他にも案内人ているんですか?」
「いるよ。私が一番美人だけど」
それは聞いてない。
「もし私が未練を残して亡くなったら、結衣さんが担当してください」
「えー、イケメンがいい」
しばくぞ。
「未練を残さない生き方をしなよ。人生の大半は考え方でなんとかなるんだから」
「この四週間でそれを感じました。狭い世界で物事を見ていた気がします」
「世の中にはさ、変えれるものと変えれないものがある。変えれるものに関しては、考え方で良い方向に導くことができる。でもそれを無理だと思ってしまうから世界が狭くなっていく。この先、千星ちゃんが苦境に立たされるようなことがあったら思い出してほしいの。変えれないものより、変えれるものが何かを探して。それが小さな一歩だとしても、やがて世界を広げてくれるから」
「はい」
と頷いたとき、窓から光が差し込んだ。
外に目を向けると、十数個ほどの流星が空に降り注いでいる。青や緑、白や黄色など、様々な色で夜を染めている。
「綺麗」
「他の案内人に頼んだの。千星ちゃんが頑張ったからご褒美」
「全部列車ですか?」
「うん」
流星のにわか雨は列車を降りるまで続いた。
この色づく夜を忘れることはないだろう。
人が死んだら流れ星が落ちる。
その言葉は嘘ではなかった。
いつか今日という日が思い出に変わったとき、
私は何を思って生きているのだろう。
悲しみに暮れていても、
喜びに満ちていても、
前を見て歩いていたい。
たとえ小さな光だとしても、
孤独の中を彷徨っていたとしても、
輝きを失わなければ、
星は夜空で結ばれる。