学校が終わり、花山にどう話しかけるかを考えながら自宅近くの並木道を歩いていた。
関わるなと言う相手に話しかけるのは、初期装備でラスボスに挑むくらい難しい。
いや、なんかしっくりこない。
関ヶ原の戦いに手刀だけで挑むくらい難しい。
いや、手刀を極めたら案外いけそうだ。
エリンギ一本で宇宙人の侵略を阻止するくらい難しい。
いや、エリンギのポテンシャルを考えたら難しいことじゃない。
膝の裏でポメラニアンを育てるくらい難しい。
よしこれにしよう。
関わるなと言う相手に話しかけるのは、膝の裏でポメラニアンを育てるくらい難しい。
「千星ちゃん」
本年度ナンバーワンの比喩が飛び出したとき、後ろから声をかけられた。
振り向くと、手を振りながら歩いてくる結衣さんの姿が視界に入った。
「何でいるんですか? 蒼空と会うのはまだ先ですよね?」
「会うのはまだ先なんだけど、言伝を蒼空くんから預かってきた」
「言伝?」
何だろう? 言い忘れたことがあったのかな。
「蒼空くんにはもう一つ未練があるの」
「何ですか?」
「妹を救ってほしい」
美月ちゃんのことだ。でも救ってほしいというのはどういうこと何だろう?
「蒼空くんが亡くなる前から、学校も行かずに家に引きこもってるんだって。理由も分からないから、せめてそれだけでも聞いてほしいって言ってた」
美月ちゃんが学校に行ってないことは知らなかった。蒼空と一緒に絵具を買いに言ったときは、そんな話をしていなかった。
「何で今なんですか?」
「千星ちゃんの負担を増やしたくなかったんだって。学校生活だけでも大変でしょ? だから無理しなくていいって言ってたよ」
蒼空が亡くなってから蒼空の家には行っていない。正確に言えば行けなかった。私があのとき逃げなければ……そう思うと、どんな顔で行けばいいのか分からなかった。
「じゃあ私は行くね。今ある未練も頑張って」
そう言って結衣さんは去っていった。
頬にあたる風が先ほどよりも冷たく感じる。そのせいか、指先が震えて上手く動かせなかった。
「無理しなくていいか……」
その言葉を反芻しながら、澄んだ空に向けて息を吐いた。
白煙のように濁る息は、冬と同化するように刹那に消えていった。
朝から昼休みにかけて、花山に話かけようと何度か試みた。だが私が近くに行くと離れていってしまう。
完全に距離をとられている。
でもどうにか話したかったので、花山の家まで行くことにした。
それを雪乃に言ったら、「私も行く」と言ったので、二人で花山の家に向かっていた。バスケ部は週末のどちらかと水曜日が休みらしい。
私たちは先に学校を出て、花山の自宅付近で待機した。今は電信柱で身を隠しながら家を見ている。
「なんかストーカーみたいじゃない?」
「大丈夫」
駅の売店で買った牛乳とあんパンを鞄から取り出し、雪乃に渡した。
「今の私たちは女子高生じゃなく、張り込みをする刑事だから。ストーカーじゃない」
無理矢理な理論で罪悪感を消す。
「ねえ警部、花山くんが帰ってきたらどうするの?」
「家に入ったらインターホンを押す。中に蓮夜くんがいたら開けてくれると思うから、そしたら突入する。流石に家まで来たら逃げられないでしょ」
「蓮夜くんがいなかったら?」
雪乃はあんパンを食べながら言った。
「出るまで押す」
「ものすごい迷惑だね」
実際出なかったら帰ろうと思う。また別の方法を考えて話すきっかけを作る。現時点では話しかけても避けられるだけだから、家に行くという方法以外に思いつかなかった。
「お姉ちゃん?」
二人で振り向くと、ランドセルを背負った蓮夜くんが声をかけてきた。
「蓮夜くん」
「また来てくれたの?」
蓮夜くんは嬉しそうな顔で私を見たあと、雪乃に視線を送る。
「こんにちは。お兄ちゃんと同じクラスの富田雪乃です」
雪乃はにこやかに自己紹介をした。
「兄ちゃんの友達?」
雪乃は困った表情で私を見てきた。
『友達』と言うと花山に怒られるし、かと言って『クラスメイト』と答えると、蓮夜くんは昨日みたいに悲しんだ顔をする。
どうしようかと、私が目を泳がせながら逡巡していると、
「兄ちゃん」
蓮夜くんが私たちの後ろ向けて手を振った。家の方を見ると、歩いてくる花山がいた。
花山は私を見るなり、呆れたように小さく息を吐いた。
四人でファミレスに来た。
窓際の四名席に案内されたあと、蓮夜くんがメニューを開く。
「何か食べたいのある?」
雪乃が優しく問いかけた。
私が「エスカルゴのオーブン焼き」と答えると、『お前じゃねーよ』という視線で雪乃と花山に睨まれた。
蓮夜くんは私に気を遣ったのか、「じゃあそれにしよう」と言ってくれたが、雪乃が秒で却下し、ドリンクバーとフライドポテトを注文した。
「飲み物は何がいい? 僕が持ってくるよ」
蓮夜くんが嬉々に言う。
私と雪乃がメロンソーダをお願いすると「一人じゃ持てないだろ」と花山は言い、一緒に付いて行った。たぶん気まずかったのだろう。
ここに来たのも花山の提案だった。
たぶん部屋に上げたくなかったんだと思う。閉鎖された空間に私といれば、自分の部屋なのに監獄みたいになる。かといって、嬉しそうにする弟の前で追い払うこともできない。
強引に選択させたことと、蓮夜くんをだしに使ったことを、今になって申し訳なく思った。
二人が飲み物を持ってテーブルに戻ってきたあと、フライドポテトもテーブルに運ばれてきた。
「蓮夜くんは何年生?」
雪乃が聞くと、蓮夜くんはポテトを頬張りながら六年と答える。
それから学校で流行ってること、好きな漫画やアニメなどを話してくれた。
雪乃が上手く相槌を打ちながら、澱みなく会話を繋げていて、さすがだと思った。
私は正面に座る花山をバレないようにチラッと見る。やり場のない気持ちからか、ずっと窓の外を見ていた。グラスに入った二杯目のコーラは三分の二ほど飲まれている。
「トイレ行ってくる」
花山はそう言い、店の奥に向かっていった。
「兄ちゃんて、優しいから学校でも人気者でしょ?」
唐突に聞かれた質問に、ポテトを口に運ぼうとした手が止まった。隣を見ると雪乃も同じだった。
沈黙すら許されない質問だっため「そうだね」と雪乃が答え、動揺を隠すようにポテトを口に入れた。
「兄ちゃんてすごいんだよ。倒れてるおばあちゃんを助けて、警察に表彰されたんだ。友達もたくさんいて、よく家にも来てた」
兄のことを語る弟は、自分のことのように誇らしげに話している。
「でもね、中学三年の秋ぐらいかな。その頃から友達が来なくなった。兄ちゃんは受験だからって言ってたけど、学校のことも話さなくなったんだ」
クラスの子を殴ったときだろう。蓮夜くんはそのことを知らないから不思議に思ったのかもしれない。
「高校に入ってからも学校の話をしない。友達はいるよって言ってたけど、全然家に来ないから心配してたんだ。でもお姉ちゃんが昨日来てくれて安心した。兄ちゃんが嘘ついてるのかなって思ってたけど、やっぱり人気者なんだね」
その喜ぶ顔に胸が苦しくなる。私が昨日ついた嘘は、蓮夜くんを安心させるという意味では正しかったのかもしれない。でもついてはいけない嘘のような気もした。
心が天秤のように揺れるたび、心臓に痛みが走る。
「これからも兄ちゃんの友達でいてね」
「うん……」
私も雪乃も笑顔を無理やり作る。たぶん目の奥は笑えてない。
二度目の嘘をついてしまった。でも『友達じゃない』なんて言えない。嘘で人を救えるのならつくべきだと思う。だが、何も変わらない張りぼての未来に、希望というものは微笑まない。瞬間的に傷は癒せても、その傷が消えたわけではないのだから。
蓮夜くんはこのあとも、兄の良いところをいくつも話した。
トイレから戻ってきた花山は、蓮夜くんの話を制止しようとした。だが払いのけるようにして、蓮夜くんは兄のことを語り続けた。
ドリンクバーとトイレを往復する花山は、積んでは降ろすを繰り返す、配送ドライバーみたいだった。
私たちは堤防の舗装された道を歩いていた。外はすっかり暗くなり、日中に萎れていた星が夜空に咲いている。
蓮夜くんはしゃべり疲れたのか、花山の背中でぐっすりと眠っていた。
「蓮夜くんにとって自慢のお兄ちゃんなんだね。花山くんは」
雪乃が花山に向かって言葉を投げるが返ってこない。
私たちは花山の後ろを歩いているため表情は見えない。今どんな顔をしているんだろうと想像するが、迷惑そうにしてる顔しか頭に浮かばなかった。
「なあ」
ずっと黙っていた花山が声を発する。
「昨日も言ったけど、俺にもう関わるな」
やっぱり怒っていた。言った次の日に家に来られたら誰だって怒る。
「蓮夜くん心配してたよ。学校のこと話さなくなったから」
私と花山の間に流れる澱んだ空気を切るように、雪乃が割って入る。
中学のことを聞きたいが、眠っているとはいえ蓮夜くんの前では憚られる。それは雪乃も一緒なのかもしれない。だから間接的に引き出そうとしているようにも思えた。
花山は再び口を閉ざした。沈黙のせいか足音がやけに響くように感じる。
このままだと何も変わらずに、また明日を迎えてしまう。今すぐ変わらなくてもいいから、きっかけとなる種を作らないといけないと思った。
「私はこの間まで蒼空しか友達がいなかった。でも蒼空は友達が多いから、孤独を感じることがたくさんあったの。ずっと他人のことが嫌いで、蒼空以外の人と関わるのを避けてきた。でも最近になって分かった。人は何かを抱えていて、それに縛られながら生きている。その人の中にあるものが、物事や自分を歪ませてしまう。もし花山の中にも傷や痛みがあるなら、一人で背負わなくてもいいと思う」
私の言葉がブレーキになったのか、花山が急に立ち止まった。
それに倣い、私と雪乃も立ち止まる。
言葉を待ったが、耳に届くのは静けさを強調する風の音だけだった。
時間だけが過ぎていき、諦めかけたときだった。花山が重い沈黙に言葉を挿した。
「迷惑なんだよそういうの。お前うざいよ」
――うざい。あの日のことがフラッシュバックしそうになる。
「勝手に来たのは謝るし迷惑かけたのも謝る。でも、千星の前で『うざい』って言葉は二度と使わないで」
蓮夜くんがいたからだろうか、雪乃は冷静に言った。
雪乃には私の過去を話した。だからそう言ってくれたのだろう。それが心強かった。
「もう来ないでくれ、迷惑だから。それと……学校でも話しかけないでほしい」
そう言って花山は歩き出した。
厳しい言葉ではあったが、言い方は優しかった。
駅のホームには会社帰りのサラリーマンや、スマホをいじりながらヘッドホンをする高校生など、これから帰宅するであろう人たちが散見する。
私と雪乃はホームに設置されたプラスチック製の青いベンチに腰を下ろした。
「人を避ける根本的な理由があるんだと思う」
「中学でクラスの子を殴った時かな」
雪乃の問いに、そう返す。
「私も千星も過去に縛られながら生きてきた。もしかしたら花山くんもそうなのかもしれない。人って過去が影響して内面が形成されていくんだと思う。環境や周りの人間、何を求めて生きてきたか。もし変わりたいなら、その過去と向き合う必要がある。でも簡単にできるものではない。長年染みついた思考の癖は言動を支配するから。私は千星に変えてもらえたけど、一人だったら今も苦しんでたと思う。もし何かに縛られて生きているなら、花山くんにも誰かが必要なのかもしれない」
今の自分を支配しているもので、世界の見えかたは変わる。
花山の中にあるものが他人の見えかたを変えているなら、その起因となるものを知らなければならない。でも固く閉ざした奥底の言葉は、簡単には聞けそうになかった。
「花山くんがどんな人なのかって話しだったのに、方向性が変わってきちゃったね」
そうだった。蒼空がたまに話すからどんな人なのかな、って雪乃には言ったんだ。
本当は蒼空に友達になってと頼まれたのだが、それを言ったら記憶を消すと結衣さんに言われている。そして蒼空にも会えなくなる。雪乃には話したいがやめておこう。
「雪乃はたくさん友達がいるでしょ? もし花山みたいに、周りの人間が離れていったらどう思う?」
私よりも雪乃の方が理解できそうだと思った。
「人を殴ったっていう理由があるから難しいところだけど……でも話は聞いてもらいたよね。それだけの理由があると思うから。実際どうだったんだろうね花山くんは。聞いてもらえたのかな?」
「それも聞いてみたい」
「でもあそこまではっきりと『話しかけないで』って言われると、聞くのは難しいよね」
雪乃の言う通りだった。まるで国境のような線を引かれ、足を踏み入れることすら困難になった。
話しかけることが、銃口を向けることと同等の行為にも感じた。
登校する生徒たちで賑わう昇降口に花山がいた。
昨日家に帰ってから考え、今日は話しかけるのをやめた。無理に近づけば傷をつけるかもしれないので、自重することを決めた。
花山の後ろ姿を横目に、大人しくしていようと自分に言い聞かせる。
が、昼休みになって事情が変わった。
私が屋上前の踊り場で昼食をとっていると、階段を上がってくる足音が耳に入った。
この場所は人が来ることはあまりないが、たまに隠れんぼや鬼ごっこをしている生徒がやってくる。
そういう場合は心の中で『クソ野郎』とつぶやき、私がここを離れる。
弁当を素早く片し、心の中で『クソや……』と言おうとした時だった。
「用って何?」
一つ下の踊り場で足音が止まり、聞いたことのある声が聞こえた。
この場所は、階段を上がった横のスペースは壁に覆われており、下からは見えないようになっている。
私は壁に身を隠しながら、そーっと下を覗くと、女の子が立っていた。
対面する形でもう一人いるみたいだが、もう少し身を乗り出さないと見えない位置にいた。
でも声を聞いて、その相手が誰かは想像できた。
「急に呼び出してすいません。あの……」
敬語だから一年生なのかもしれない。女の子は緊張しているみたいで、後ろで組んだ指先が忙しなく動いている。
あの……と言ってから彼女は何度も小さく息を吐く。自分を落ち着かせているのだろう。
そして大きく息を吐いたあと、勢いよく頭を下げた。
「連絡先を交換してくれませんか」
勇気を出した彼女に心の中で拍手を送る。その一言はきっと、何度も喉元で引っかかっては胸の奥に戻っていっただろう。
よく言った、そう思いつつ不安はあった。なにせ相手が相手だから。
「……あのさ」
彼女からの言葉を受け取ったあと、少ししてから言葉を返した。
「何で俺なの?」
「前からかっこいいなと思って」
女の子は顔を上げ、照れながら答える。
「俺の噂とか聞いてないの?」
「噂って何ですか?」
やっぱり一年生だった。上級生に知り合いがいないのかもしれない。いたら聞いているだろう。
「そういうの……やめてほしい。面倒だから」
女の子は今にも泣きそうな顔をしている。勇気を出して言った言葉は、咲くことを知らないまま枯れていった。いや摘み取られた。
「そうですよね……ごめんなさい」
涙を堪え、声を震わせながら彼女は階段を降りていく。
それを見た私は、一瞬で感情が沸点を超えた。
「花山!」
私は花山に詰め寄った。
『何でいるんだよ』そんな顔をしている。でも知ったこっちゃない。
「お前……」
花山が何か言おうとしたが、その言葉食って感情を吐き出した。
「あの子は勇気を出して花山に連絡先を聞こうとしたんだよ。それを受けるか断るかは好きにしたらいい。でもね、その勇気を踏み躙ることは私は許さない。好きな人に傷つけられることがどんなに辛いか分かる?」
もし蒼空に同じことを言われたら……そう思うと胸が張り裂けてしまいそうだった。
あの子は今日まで気持ちを抱えながら、花山に言葉を届けたのだと思う。それを無下にしたことが許せなかった。
「ていうか何でお前がいるんだよ」
「私が先にいた」
「そうだとしても、お前に言われる筋合いはない」
「そうだよ。私はまったく関係ない。でも言う」
呆れたように息を吐いた花山は、その場から立ち去ろうとする。
「待て、まだ終わってない」
花山は立ち止まって振り向く。
「だから何度も言ってるだろう。もう俺に関わるなよ。関係ないことまで口を挟むな。迷惑なんだよ」
「迷惑だろうが関わるよ。だって蒼空に頼まれたから」
花山は怪訝な顔をした。
その表情の意味が分からなかったが、少ししてから自分の言ってしまったことに気づいた。
「あの……前にそう言われた」
勢いを失くした言葉が、私と花山の間を漂う。
「そうだとしても、もう関わるな」
「嫌だ」
「だから関わるな」
「絶対嫌だ」
「だからそういうのがうざい……」
吐いた言葉を花山は飲み込んだ。
昨日、雪乃に言われたことを思い出したのかもしれない。
「お願いだから関わらないでくれ。苦しくなるだけだから」
花山は目を伏せながら言った。これ以上は踏み込んではいけない。そう思ったが、その苦しそうな声と表情は助けを求めてるように聞こえた。
「何でそんなに人を避けるの? 中学のときに何があったの? 私は花山の口から聞きたい。他人の言葉ではなく花山の言葉で」
一瞬だが、花山の目に涙が見えた気がした。でもすぐに背を向けられたため、それが何かは分からなかった。
「もういいから、ほっといてくれ」
その言葉を残して、花山は階段を降りていった。
花山はホームルームが終わるとすぐに教室を出た。私に話しかけられるのを嫌がったのかもしれない。
それを見て私の中に迷いが出た。冷静になって考えたら自分勝手すぎたと思う。私の考えを押し付けて花山を困らせている。
でもこのままでいいのかという想いもある。私はこの短い間で考え方が変わった。この変化は私にとってものすごく良いことだった。
だからこそ花山にも押し付けてしまいそうになる。これが自分よがりで迷惑なだけなら、今すぐにやめるべきだと思った。
私も今まで人を避けてきた。他人と接するという経験値のなさが、自分の行動に迷いを生む。
何が正解か分からない。そう思いながら校門を出ると、「お姉ちゃん」という声が聞こえた。
誰だと思い振り向くと、駆け寄ってくる蓮夜くんが視界に入った。
「どうしたの?」
そう問いかける私の顔に困惑が滲んでいたのか、払拭するように説明を始めた。
蓮夜くんが言うには、今日は創立記念日のため半日で学校が終わったらしい。ここまでの道はホームページで調べたみたいだ。手には印刷した地図が握られている。
「すごいね、一人で来たんだ」
「うん」
「でも、お兄ちゃん帰っちゃたかも」
「知ってる。さっき見たから」
よく分からなかった。兄を迎えにきたのではないのか?
「お姉ちゃんに会いに来た」
「私?」
「うん」
十分ほど歩き、住宅街の中にあるパン屋に着いた。ここは学校の生徒もよく来ているが、放課後は駅前のファーストフードやカフェに行く。
今は私と蓮夜くんだけだった。
店内にはパンを販売しているスペースと、飲食スペースが五席ある。パンと紙パックのオレンジジュースを買い、席に着いた。
私は塩クロワッサン、蓮夜くんはメロンパンを選んだ。
「何で会いに来たの?」
蓮夜くんはメロンパンを口に運ぼうとしていたが、手を止めてお皿の上に戻した。
「兄ちゃんが、もうお姉ちゃんたちは来ないって言うから、本当かどうか確かめにきた」
蓮夜くんは私たちが来たのを嬉しそうにしていた。それは花山も分かっていただろう。そのうえで酷なことを弟に告げた。
それだけ私が嫌いなのか、それとも人と関われな絶対的な理由があるか。
蓮夜くんはメロンパンに視線を預けている。私を見ないのは、もし本当だったらという気持ちの現れかもしれない。
「分からない」
そう答えたのは、今後の花山と私の関係性次第だからだ。本当にどうなるのか分からない。今のところ花山の言った通りになりそうだが。
「お姉ちゃんは兄ちゃんの友達なんだよね?」
メロンパンに視線を置いたまま、蓮夜くんが聞いてきた。
店内のBGMは最近流行りのアイドルの歌だった。先ほどまでは気づかなかったが、今は鮮明に鼓膜に響く。
「ごめん蓮夜くん、嘘ついてた。本当は友達じゃない。ただのクラスメイト」
本当のことを言うことが必ずしも正しいのかは分からない。目の前にいる男の子は悲しそうな顔をしている。
だけど、このまま嘘をつくのは余計に蓮夜くんを傷つけてしまうような気がした。
私の視線は、いつの間にか塩クロワッサンに落ちていた。
「本当は分かってたんだ」
その言葉で再び蓮夜くんに視線を戻した。
「お姉ちゃんたちが僕に気を遣ってるって。兄ちゃんの良いところをいっぱい言えば、もしかしたら友達になりたいと思うかもしれない。そしたらまた、兄ちゃんも昔みたいにたくさん笑ってくれる……そうなってほしかった。最近の兄ちゃんは、一人でいると寂しそうな顔をよくしてるんだ。僕が話しかけると笑った顔を作ってくれるけど、それを見てるのが辛かった」
河川敷で声をかけられたとき、おかしいと思った。どこの誰かも分からない人間に普通は話しかけない。蓮夜くんなりに頑張っていたんだ。大好きお兄ちゃんのために。
あのときの私は怪しい人間だったと思う。でも蓮夜くんからしたら、希望に見えたのかもしれない。もしかしたら友達かもと。
一人でいる花山を救いたいと願っていた。家に連れてったり、わざわざここまで会いに来たのは、全部お兄ちゃんのためだったんだ。
「ねえ蓮夜くん、今はただのクラスメイトだけど、私は友達になりたいと思ってる」
蓮夜くんは顔を上げた。悲しみの底に光が射し込み、それを見上げるように。
私の中に迷いはあった。無理に花山と関わるべきかどうかと。でも蓮夜くんを見て覚悟が決まった。この選択が正しいのか間違っているのかは、私次第だと思う。
「任せてとは言えないけど、私なりに頑張ってみる」
そう言うと、蓮夜くんはメロンパンを食べ始めた。泣きそうになる自分を抑えるようにして。
食べ終わると、ごちそうさまの代わりに「ありがとう」と言った。鼻水をすすりながら。
明日、花山と話してみよう。迷惑に思うかもしれないが真っ直ぐ向き合いたい。蓮夜くんを見てそう決めた。
登校する生徒たちの中に花山の後ろ姿を見つけた。私は駆け寄って声をかける。
イヤホンを付けていたため最初は無視されたが、二度目は肩を叩いた。
振り向いた花山は、私の顔を見るなり早足で昇降口に向かう。『俺はお前と話さない』という意思表示だろう。
なので、追いかけて隣を歩いた。すると花山はさらに速度を早める。だが私もそれに合わせた。
だんだん早くなり、歩く生徒たちをごぼう抜きする。ほぼ競歩だ。
恥ずかしくなったのか、呆らめたのかは分からないが、昇降口の入り口で花山はイヤホンを外し、苛立ちを声と表情に出しながら「何だよ」と言った。
「花山の家の近くに河川敷があるでしょ? 今日の十七時半に来て。話があるから」
「行かねえよ」
「じゃあ家まで行って大声でドナドナを歌う。そのあと花山の家の両隣の人とバンドを組んでメジャーデビューする。そしたら毎日私のドナドナを聞くことになる。されたくなかったら来て」
「勝手にしろ」
それが河川敷に行くことなのか、隣家の人とバンドを組むことなのかは分からなかったが、花山はそう言って下駄箱に向かっていった。
「待ってるから」
背中に言葉を投げたが、反応はなかった。
周りの生徒が私を見ていることに気づき、恥ずかしさが込み上げてくる。でもそれ以上に、花山が来てくれるかが心配だった。
昼休み、男の友情を知るためにはヤンキー漫画が一番だと思い、公園で昼食をとりながらスマホで読むことにした。
男は喧嘩すると仲良くなる生き物らしい。拳を交えたあと二人で青空を見る。そうすると友情が芽生える。
その理論は理解できないが、そうなるらしい。単純なのか複雑なのかよく分からないと思いながら読み進めた。
昼休みを終えた頃には、私は学校の番長になった。もちろん気持ちだけだが。
放課後、すぐに学校を出て家に帰った。花山と会う前に用意しないといけないものがある。
家にいた弟にお願いしてキャッチャーマスクと胸に装着するプロテクターを借りた。
「何に使うの?」と聞かれたが、友情に必要だからと言うと怪訝な顔をされた。
膝に付けるやつもあったが、動きが鈍りそうだっため置いていった。
用具ケースに防具を入れ、河川敷に向かう。
花山が来ているのか不安だった。
向こうからしたら迷惑だろうし、何より関わりたくないと宣言されている。花山が来る理由を頑張って探したが、まったく見当たらなかった。
希望もないまま河川敷に着くと、堤防で座る制服姿の花山がいた。遠くを見るように、沈んでゆく夕陽を眺めている。
私は堤防の反対側にある階段を降りて、用具ケースからキャッチャーマスクとプロテクターを取り出した。
これから世紀の一戦を交える。この喧嘩に勝ち、花山と夕日を見ながら交友を深めるつもりだ。
目的がずれているかもしれないが、友情を築かなければ心を開いてくれない。
雪乃がいたら止められていただろうが、今の私は『紅の狂犬、藤沢千星』だ。女の言葉では止められない。
防具を装着し用具ケースを肩にかける。羞恥心はギリ残っていたので、周りに人がいないことを確認したあと花山の前に出た。
「花山、私とタイマン張れ」
漫画で見た言葉をそのまま言うと、唖然とした様子で私を見てきた。
「何やってんの?」
「いいから私とタイマン張れ」
花山が立ち上がったため、腕を前に出し構えをとった。が、花山は背中を向けて反対側に歩き出す。
「ちょっと待て。どこに行く」
「帰る」こちらを見ず、背中越しにそう答えた。
「ここで逃げるなら、明日からこの格好で花山の後をずっと付いていく。私と親友だとこの格好で言い回る。昼休みにこの格好で花山と一緒にご飯を食べる。そしたら私のあだ名は特級過呪怨霊って言われるし、花山は闇落ちした呪詛師に狙われることになる。それが嫌なら私とタイマンを張れ」
花山は立ち止まり、再び堤防に腰を下ろした。
「それじゃあ、私とタイマンをは……」
「いいから座れ」
花山は冷静に言った。温度差の違いでなんだか恥ずかしくなる。
少年誌のような熱い展開になり『お前やるじゃん』みたいな言葉を期待していたのだが、言われた言葉は『座れ』だったので、とりあえず隣に座った。
「それ脱いでくれない。恥ずかしいから」
そう言われたのでキャッチャーマスクを取ると、
「防具をそういう扱いすんのはよくない」
「はい」
確かにそうだった。しかも弟の。帰ったら謝ろう。
プロテクターも取り用具ケースにしまう。特級過呪怨霊から普通の女子高生に戻ったところで、花山が問いかけてきた。
「話って?」
「中学のときのことを聞きたい。クラスの子を殴ったときのこと。ある程度の話は聞いたけど、何故殴ったのかを知りたい」
「それを知ってどうするの?」
「花山が何を抱えてるかを知りたい。自分を隠しながら生きてるように見えるから。人の生きかたは周りだけで決まるものではない。自分の中にあるものが変われば、世界の見えかたも変わると思う。私はそうだった。『花山も変わろう』なんて簡単には言えないけど、話すことで何か変わるかもしれない。価値観の押し付けかもしれないけど、進むきっかけになれたらって」
周りに影響されて人は変わっていく。それ自体は悪いことではない。でもいきすぎてしまうと人は方向を見失う。私も雪乃もそうだったように。
自分自身と向き合うことを、いつかはしなければならない。背を向けた先にあるものは、瞬間的な安らぎと継続する痛みだ。
その痛みを和らげるために言い訳をして自分を正当化する。そして周りに劣等感を吐き散らす。そうなってはいけない。それは世界から自分を乖離させるだけだ。
花山は周りをどう思ってるかは分からないが、もし憎しみに満ちた世界に足を踏み込んでいるなら、手を差し伸べなければいけない。蓮夜くんのためにも。
「奥村に頼まれたからってなんでここまですんだよ。藤沢には関係ないことだろ。それに……俺は人を殴るような人間だぞ。そんな奴に関ろうなんて、普通思わないだろ」
「私は蒼空に救ってもらった。その人から頼むって言われたら、どんなことがあってもその願いを叶えたい。花山が善い人間か悪い人間かは今は分からないけど、蒼空が悪い人じゃないって言ってたから、私はそれを信じる」
「人を信じたって報われない。そんなものに縋っても傷つくだけだ。その先に何があるんだよ」
花山は頭を抱え、思い悩むようにそう言った。
葛藤の境界線を行き来しながら、自分と向き合っているのかもしれない。
「何かに縋るために人を信じてはいけない。それでは周りに生きかたを決められてしまうから。信じた先にあるものは自分で作るんだと思う」
誰かが育てた花を摘むだけでは、花の本当の美しさは分からない。自分で育て、初めてその美しさを知れる。
「私を信用してなんて言わない。でも今まで見てきたものと、これから見るものを全部重ねなくていい。真っ直ぐなものさえ歪んで見えてしまうから。一生なんて言わないし、この瞬間だけでもいい。だけど今だけは隣を歩かせて」
もし抱えているものを吐き出すことができたら、花山は一歩進めるような気がした。私がすべきことは、そのきっかけを作ること。
面倒くさい奴とも思われていい、嫌われてもいい、でもこの瞬間だけでも頼ってほしい。自分の中にある枷を言葉にしてほしい。
祈りに近い想いが届いたのか、花山は固く結んだ口を開いた。夜にだけ咲くと決めた花が、再び太陽の下で蕾を開くように。
「人に優しくすることが好きだった。その優しさが自分の生きる意味になっていた」
花山は枯れた花を眺めるように、自らの過去を話し始めた。
関わるなと言う相手に話しかけるのは、初期装備でラスボスに挑むくらい難しい。
いや、なんかしっくりこない。
関ヶ原の戦いに手刀だけで挑むくらい難しい。
いや、手刀を極めたら案外いけそうだ。
エリンギ一本で宇宙人の侵略を阻止するくらい難しい。
いや、エリンギのポテンシャルを考えたら難しいことじゃない。
膝の裏でポメラニアンを育てるくらい難しい。
よしこれにしよう。
関わるなと言う相手に話しかけるのは、膝の裏でポメラニアンを育てるくらい難しい。
「千星ちゃん」
本年度ナンバーワンの比喩が飛び出したとき、後ろから声をかけられた。
振り向くと、手を振りながら歩いてくる結衣さんの姿が視界に入った。
「何でいるんですか? 蒼空と会うのはまだ先ですよね?」
「会うのはまだ先なんだけど、言伝を蒼空くんから預かってきた」
「言伝?」
何だろう? 言い忘れたことがあったのかな。
「蒼空くんにはもう一つ未練があるの」
「何ですか?」
「妹を救ってほしい」
美月ちゃんのことだ。でも救ってほしいというのはどういうこと何だろう?
「蒼空くんが亡くなる前から、学校も行かずに家に引きこもってるんだって。理由も分からないから、せめてそれだけでも聞いてほしいって言ってた」
美月ちゃんが学校に行ってないことは知らなかった。蒼空と一緒に絵具を買いに言ったときは、そんな話をしていなかった。
「何で今なんですか?」
「千星ちゃんの負担を増やしたくなかったんだって。学校生活だけでも大変でしょ? だから無理しなくていいって言ってたよ」
蒼空が亡くなってから蒼空の家には行っていない。正確に言えば行けなかった。私があのとき逃げなければ……そう思うと、どんな顔で行けばいいのか分からなかった。
「じゃあ私は行くね。今ある未練も頑張って」
そう言って結衣さんは去っていった。
頬にあたる風が先ほどよりも冷たく感じる。そのせいか、指先が震えて上手く動かせなかった。
「無理しなくていいか……」
その言葉を反芻しながら、澄んだ空に向けて息を吐いた。
白煙のように濁る息は、冬と同化するように刹那に消えていった。
朝から昼休みにかけて、花山に話かけようと何度か試みた。だが私が近くに行くと離れていってしまう。
完全に距離をとられている。
でもどうにか話したかったので、花山の家まで行くことにした。
それを雪乃に言ったら、「私も行く」と言ったので、二人で花山の家に向かっていた。バスケ部は週末のどちらかと水曜日が休みらしい。
私たちは先に学校を出て、花山の自宅付近で待機した。今は電信柱で身を隠しながら家を見ている。
「なんかストーカーみたいじゃない?」
「大丈夫」
駅の売店で買った牛乳とあんパンを鞄から取り出し、雪乃に渡した。
「今の私たちは女子高生じゃなく、張り込みをする刑事だから。ストーカーじゃない」
無理矢理な理論で罪悪感を消す。
「ねえ警部、花山くんが帰ってきたらどうするの?」
「家に入ったらインターホンを押す。中に蓮夜くんがいたら開けてくれると思うから、そしたら突入する。流石に家まで来たら逃げられないでしょ」
「蓮夜くんがいなかったら?」
雪乃はあんパンを食べながら言った。
「出るまで押す」
「ものすごい迷惑だね」
実際出なかったら帰ろうと思う。また別の方法を考えて話すきっかけを作る。現時点では話しかけても避けられるだけだから、家に行くという方法以外に思いつかなかった。
「お姉ちゃん?」
二人で振り向くと、ランドセルを背負った蓮夜くんが声をかけてきた。
「蓮夜くん」
「また来てくれたの?」
蓮夜くんは嬉しそうな顔で私を見たあと、雪乃に視線を送る。
「こんにちは。お兄ちゃんと同じクラスの富田雪乃です」
雪乃はにこやかに自己紹介をした。
「兄ちゃんの友達?」
雪乃は困った表情で私を見てきた。
『友達』と言うと花山に怒られるし、かと言って『クラスメイト』と答えると、蓮夜くんは昨日みたいに悲しんだ顔をする。
どうしようかと、私が目を泳がせながら逡巡していると、
「兄ちゃん」
蓮夜くんが私たちの後ろ向けて手を振った。家の方を見ると、歩いてくる花山がいた。
花山は私を見るなり、呆れたように小さく息を吐いた。
四人でファミレスに来た。
窓際の四名席に案内されたあと、蓮夜くんがメニューを開く。
「何か食べたいのある?」
雪乃が優しく問いかけた。
私が「エスカルゴのオーブン焼き」と答えると、『お前じゃねーよ』という視線で雪乃と花山に睨まれた。
蓮夜くんは私に気を遣ったのか、「じゃあそれにしよう」と言ってくれたが、雪乃が秒で却下し、ドリンクバーとフライドポテトを注文した。
「飲み物は何がいい? 僕が持ってくるよ」
蓮夜くんが嬉々に言う。
私と雪乃がメロンソーダをお願いすると「一人じゃ持てないだろ」と花山は言い、一緒に付いて行った。たぶん気まずかったのだろう。
ここに来たのも花山の提案だった。
たぶん部屋に上げたくなかったんだと思う。閉鎖された空間に私といれば、自分の部屋なのに監獄みたいになる。かといって、嬉しそうにする弟の前で追い払うこともできない。
強引に選択させたことと、蓮夜くんをだしに使ったことを、今になって申し訳なく思った。
二人が飲み物を持ってテーブルに戻ってきたあと、フライドポテトもテーブルに運ばれてきた。
「蓮夜くんは何年生?」
雪乃が聞くと、蓮夜くんはポテトを頬張りながら六年と答える。
それから学校で流行ってること、好きな漫画やアニメなどを話してくれた。
雪乃が上手く相槌を打ちながら、澱みなく会話を繋げていて、さすがだと思った。
私は正面に座る花山をバレないようにチラッと見る。やり場のない気持ちからか、ずっと窓の外を見ていた。グラスに入った二杯目のコーラは三分の二ほど飲まれている。
「トイレ行ってくる」
花山はそう言い、店の奥に向かっていった。
「兄ちゃんて、優しいから学校でも人気者でしょ?」
唐突に聞かれた質問に、ポテトを口に運ぼうとした手が止まった。隣を見ると雪乃も同じだった。
沈黙すら許されない質問だっため「そうだね」と雪乃が答え、動揺を隠すようにポテトを口に入れた。
「兄ちゃんてすごいんだよ。倒れてるおばあちゃんを助けて、警察に表彰されたんだ。友達もたくさんいて、よく家にも来てた」
兄のことを語る弟は、自分のことのように誇らしげに話している。
「でもね、中学三年の秋ぐらいかな。その頃から友達が来なくなった。兄ちゃんは受験だからって言ってたけど、学校のことも話さなくなったんだ」
クラスの子を殴ったときだろう。蓮夜くんはそのことを知らないから不思議に思ったのかもしれない。
「高校に入ってからも学校の話をしない。友達はいるよって言ってたけど、全然家に来ないから心配してたんだ。でもお姉ちゃんが昨日来てくれて安心した。兄ちゃんが嘘ついてるのかなって思ってたけど、やっぱり人気者なんだね」
その喜ぶ顔に胸が苦しくなる。私が昨日ついた嘘は、蓮夜くんを安心させるという意味では正しかったのかもしれない。でもついてはいけない嘘のような気もした。
心が天秤のように揺れるたび、心臓に痛みが走る。
「これからも兄ちゃんの友達でいてね」
「うん……」
私も雪乃も笑顔を無理やり作る。たぶん目の奥は笑えてない。
二度目の嘘をついてしまった。でも『友達じゃない』なんて言えない。嘘で人を救えるのならつくべきだと思う。だが、何も変わらない張りぼての未来に、希望というものは微笑まない。瞬間的に傷は癒せても、その傷が消えたわけではないのだから。
蓮夜くんはこのあとも、兄の良いところをいくつも話した。
トイレから戻ってきた花山は、蓮夜くんの話を制止しようとした。だが払いのけるようにして、蓮夜くんは兄のことを語り続けた。
ドリンクバーとトイレを往復する花山は、積んでは降ろすを繰り返す、配送ドライバーみたいだった。
私たちは堤防の舗装された道を歩いていた。外はすっかり暗くなり、日中に萎れていた星が夜空に咲いている。
蓮夜くんはしゃべり疲れたのか、花山の背中でぐっすりと眠っていた。
「蓮夜くんにとって自慢のお兄ちゃんなんだね。花山くんは」
雪乃が花山に向かって言葉を投げるが返ってこない。
私たちは花山の後ろを歩いているため表情は見えない。今どんな顔をしているんだろうと想像するが、迷惑そうにしてる顔しか頭に浮かばなかった。
「なあ」
ずっと黙っていた花山が声を発する。
「昨日も言ったけど、俺にもう関わるな」
やっぱり怒っていた。言った次の日に家に来られたら誰だって怒る。
「蓮夜くん心配してたよ。学校のこと話さなくなったから」
私と花山の間に流れる澱んだ空気を切るように、雪乃が割って入る。
中学のことを聞きたいが、眠っているとはいえ蓮夜くんの前では憚られる。それは雪乃も一緒なのかもしれない。だから間接的に引き出そうとしているようにも思えた。
花山は再び口を閉ざした。沈黙のせいか足音がやけに響くように感じる。
このままだと何も変わらずに、また明日を迎えてしまう。今すぐ変わらなくてもいいから、きっかけとなる種を作らないといけないと思った。
「私はこの間まで蒼空しか友達がいなかった。でも蒼空は友達が多いから、孤独を感じることがたくさんあったの。ずっと他人のことが嫌いで、蒼空以外の人と関わるのを避けてきた。でも最近になって分かった。人は何かを抱えていて、それに縛られながら生きている。その人の中にあるものが、物事や自分を歪ませてしまう。もし花山の中にも傷や痛みがあるなら、一人で背負わなくてもいいと思う」
私の言葉がブレーキになったのか、花山が急に立ち止まった。
それに倣い、私と雪乃も立ち止まる。
言葉を待ったが、耳に届くのは静けさを強調する風の音だけだった。
時間だけが過ぎていき、諦めかけたときだった。花山が重い沈黙に言葉を挿した。
「迷惑なんだよそういうの。お前うざいよ」
――うざい。あの日のことがフラッシュバックしそうになる。
「勝手に来たのは謝るし迷惑かけたのも謝る。でも、千星の前で『うざい』って言葉は二度と使わないで」
蓮夜くんがいたからだろうか、雪乃は冷静に言った。
雪乃には私の過去を話した。だからそう言ってくれたのだろう。それが心強かった。
「もう来ないでくれ、迷惑だから。それと……学校でも話しかけないでほしい」
そう言って花山は歩き出した。
厳しい言葉ではあったが、言い方は優しかった。
駅のホームには会社帰りのサラリーマンや、スマホをいじりながらヘッドホンをする高校生など、これから帰宅するであろう人たちが散見する。
私と雪乃はホームに設置されたプラスチック製の青いベンチに腰を下ろした。
「人を避ける根本的な理由があるんだと思う」
「中学でクラスの子を殴った時かな」
雪乃の問いに、そう返す。
「私も千星も過去に縛られながら生きてきた。もしかしたら花山くんもそうなのかもしれない。人って過去が影響して内面が形成されていくんだと思う。環境や周りの人間、何を求めて生きてきたか。もし変わりたいなら、その過去と向き合う必要がある。でも簡単にできるものではない。長年染みついた思考の癖は言動を支配するから。私は千星に変えてもらえたけど、一人だったら今も苦しんでたと思う。もし何かに縛られて生きているなら、花山くんにも誰かが必要なのかもしれない」
今の自分を支配しているもので、世界の見えかたは変わる。
花山の中にあるものが他人の見えかたを変えているなら、その起因となるものを知らなければならない。でも固く閉ざした奥底の言葉は、簡単には聞けそうになかった。
「花山くんがどんな人なのかって話しだったのに、方向性が変わってきちゃったね」
そうだった。蒼空がたまに話すからどんな人なのかな、って雪乃には言ったんだ。
本当は蒼空に友達になってと頼まれたのだが、それを言ったら記憶を消すと結衣さんに言われている。そして蒼空にも会えなくなる。雪乃には話したいがやめておこう。
「雪乃はたくさん友達がいるでしょ? もし花山みたいに、周りの人間が離れていったらどう思う?」
私よりも雪乃の方が理解できそうだと思った。
「人を殴ったっていう理由があるから難しいところだけど……でも話は聞いてもらいたよね。それだけの理由があると思うから。実際どうだったんだろうね花山くんは。聞いてもらえたのかな?」
「それも聞いてみたい」
「でもあそこまではっきりと『話しかけないで』って言われると、聞くのは難しいよね」
雪乃の言う通りだった。まるで国境のような線を引かれ、足を踏み入れることすら困難になった。
話しかけることが、銃口を向けることと同等の行為にも感じた。
登校する生徒たちで賑わう昇降口に花山がいた。
昨日家に帰ってから考え、今日は話しかけるのをやめた。無理に近づけば傷をつけるかもしれないので、自重することを決めた。
花山の後ろ姿を横目に、大人しくしていようと自分に言い聞かせる。
が、昼休みになって事情が変わった。
私が屋上前の踊り場で昼食をとっていると、階段を上がってくる足音が耳に入った。
この場所は人が来ることはあまりないが、たまに隠れんぼや鬼ごっこをしている生徒がやってくる。
そういう場合は心の中で『クソ野郎』とつぶやき、私がここを離れる。
弁当を素早く片し、心の中で『クソや……』と言おうとした時だった。
「用って何?」
一つ下の踊り場で足音が止まり、聞いたことのある声が聞こえた。
この場所は、階段を上がった横のスペースは壁に覆われており、下からは見えないようになっている。
私は壁に身を隠しながら、そーっと下を覗くと、女の子が立っていた。
対面する形でもう一人いるみたいだが、もう少し身を乗り出さないと見えない位置にいた。
でも声を聞いて、その相手が誰かは想像できた。
「急に呼び出してすいません。あの……」
敬語だから一年生なのかもしれない。女の子は緊張しているみたいで、後ろで組んだ指先が忙しなく動いている。
あの……と言ってから彼女は何度も小さく息を吐く。自分を落ち着かせているのだろう。
そして大きく息を吐いたあと、勢いよく頭を下げた。
「連絡先を交換してくれませんか」
勇気を出した彼女に心の中で拍手を送る。その一言はきっと、何度も喉元で引っかかっては胸の奥に戻っていっただろう。
よく言った、そう思いつつ不安はあった。なにせ相手が相手だから。
「……あのさ」
彼女からの言葉を受け取ったあと、少ししてから言葉を返した。
「何で俺なの?」
「前からかっこいいなと思って」
女の子は顔を上げ、照れながら答える。
「俺の噂とか聞いてないの?」
「噂って何ですか?」
やっぱり一年生だった。上級生に知り合いがいないのかもしれない。いたら聞いているだろう。
「そういうの……やめてほしい。面倒だから」
女の子は今にも泣きそうな顔をしている。勇気を出して言った言葉は、咲くことを知らないまま枯れていった。いや摘み取られた。
「そうですよね……ごめんなさい」
涙を堪え、声を震わせながら彼女は階段を降りていく。
それを見た私は、一瞬で感情が沸点を超えた。
「花山!」
私は花山に詰め寄った。
『何でいるんだよ』そんな顔をしている。でも知ったこっちゃない。
「お前……」
花山が何か言おうとしたが、その言葉食って感情を吐き出した。
「あの子は勇気を出して花山に連絡先を聞こうとしたんだよ。それを受けるか断るかは好きにしたらいい。でもね、その勇気を踏み躙ることは私は許さない。好きな人に傷つけられることがどんなに辛いか分かる?」
もし蒼空に同じことを言われたら……そう思うと胸が張り裂けてしまいそうだった。
あの子は今日まで気持ちを抱えながら、花山に言葉を届けたのだと思う。それを無下にしたことが許せなかった。
「ていうか何でお前がいるんだよ」
「私が先にいた」
「そうだとしても、お前に言われる筋合いはない」
「そうだよ。私はまったく関係ない。でも言う」
呆れたように息を吐いた花山は、その場から立ち去ろうとする。
「待て、まだ終わってない」
花山は立ち止まって振り向く。
「だから何度も言ってるだろう。もう俺に関わるなよ。関係ないことまで口を挟むな。迷惑なんだよ」
「迷惑だろうが関わるよ。だって蒼空に頼まれたから」
花山は怪訝な顔をした。
その表情の意味が分からなかったが、少ししてから自分の言ってしまったことに気づいた。
「あの……前にそう言われた」
勢いを失くした言葉が、私と花山の間を漂う。
「そうだとしても、もう関わるな」
「嫌だ」
「だから関わるな」
「絶対嫌だ」
「だからそういうのがうざい……」
吐いた言葉を花山は飲み込んだ。
昨日、雪乃に言われたことを思い出したのかもしれない。
「お願いだから関わらないでくれ。苦しくなるだけだから」
花山は目を伏せながら言った。これ以上は踏み込んではいけない。そう思ったが、その苦しそうな声と表情は助けを求めてるように聞こえた。
「何でそんなに人を避けるの? 中学のときに何があったの? 私は花山の口から聞きたい。他人の言葉ではなく花山の言葉で」
一瞬だが、花山の目に涙が見えた気がした。でもすぐに背を向けられたため、それが何かは分からなかった。
「もういいから、ほっといてくれ」
その言葉を残して、花山は階段を降りていった。
花山はホームルームが終わるとすぐに教室を出た。私に話しかけられるのを嫌がったのかもしれない。
それを見て私の中に迷いが出た。冷静になって考えたら自分勝手すぎたと思う。私の考えを押し付けて花山を困らせている。
でもこのままでいいのかという想いもある。私はこの短い間で考え方が変わった。この変化は私にとってものすごく良いことだった。
だからこそ花山にも押し付けてしまいそうになる。これが自分よがりで迷惑なだけなら、今すぐにやめるべきだと思った。
私も今まで人を避けてきた。他人と接するという経験値のなさが、自分の行動に迷いを生む。
何が正解か分からない。そう思いながら校門を出ると、「お姉ちゃん」という声が聞こえた。
誰だと思い振り向くと、駆け寄ってくる蓮夜くんが視界に入った。
「どうしたの?」
そう問いかける私の顔に困惑が滲んでいたのか、払拭するように説明を始めた。
蓮夜くんが言うには、今日は創立記念日のため半日で学校が終わったらしい。ここまでの道はホームページで調べたみたいだ。手には印刷した地図が握られている。
「すごいね、一人で来たんだ」
「うん」
「でも、お兄ちゃん帰っちゃたかも」
「知ってる。さっき見たから」
よく分からなかった。兄を迎えにきたのではないのか?
「お姉ちゃんに会いに来た」
「私?」
「うん」
十分ほど歩き、住宅街の中にあるパン屋に着いた。ここは学校の生徒もよく来ているが、放課後は駅前のファーストフードやカフェに行く。
今は私と蓮夜くんだけだった。
店内にはパンを販売しているスペースと、飲食スペースが五席ある。パンと紙パックのオレンジジュースを買い、席に着いた。
私は塩クロワッサン、蓮夜くんはメロンパンを選んだ。
「何で会いに来たの?」
蓮夜くんはメロンパンを口に運ぼうとしていたが、手を止めてお皿の上に戻した。
「兄ちゃんが、もうお姉ちゃんたちは来ないって言うから、本当かどうか確かめにきた」
蓮夜くんは私たちが来たのを嬉しそうにしていた。それは花山も分かっていただろう。そのうえで酷なことを弟に告げた。
それだけ私が嫌いなのか、それとも人と関われな絶対的な理由があるか。
蓮夜くんはメロンパンに視線を預けている。私を見ないのは、もし本当だったらという気持ちの現れかもしれない。
「分からない」
そう答えたのは、今後の花山と私の関係性次第だからだ。本当にどうなるのか分からない。今のところ花山の言った通りになりそうだが。
「お姉ちゃんは兄ちゃんの友達なんだよね?」
メロンパンに視線を置いたまま、蓮夜くんが聞いてきた。
店内のBGMは最近流行りのアイドルの歌だった。先ほどまでは気づかなかったが、今は鮮明に鼓膜に響く。
「ごめん蓮夜くん、嘘ついてた。本当は友達じゃない。ただのクラスメイト」
本当のことを言うことが必ずしも正しいのかは分からない。目の前にいる男の子は悲しそうな顔をしている。
だけど、このまま嘘をつくのは余計に蓮夜くんを傷つけてしまうような気がした。
私の視線は、いつの間にか塩クロワッサンに落ちていた。
「本当は分かってたんだ」
その言葉で再び蓮夜くんに視線を戻した。
「お姉ちゃんたちが僕に気を遣ってるって。兄ちゃんの良いところをいっぱい言えば、もしかしたら友達になりたいと思うかもしれない。そしたらまた、兄ちゃんも昔みたいにたくさん笑ってくれる……そうなってほしかった。最近の兄ちゃんは、一人でいると寂しそうな顔をよくしてるんだ。僕が話しかけると笑った顔を作ってくれるけど、それを見てるのが辛かった」
河川敷で声をかけられたとき、おかしいと思った。どこの誰かも分からない人間に普通は話しかけない。蓮夜くんなりに頑張っていたんだ。大好きお兄ちゃんのために。
あのときの私は怪しい人間だったと思う。でも蓮夜くんからしたら、希望に見えたのかもしれない。もしかしたら友達かもと。
一人でいる花山を救いたいと願っていた。家に連れてったり、わざわざここまで会いに来たのは、全部お兄ちゃんのためだったんだ。
「ねえ蓮夜くん、今はただのクラスメイトだけど、私は友達になりたいと思ってる」
蓮夜くんは顔を上げた。悲しみの底に光が射し込み、それを見上げるように。
私の中に迷いはあった。無理に花山と関わるべきかどうかと。でも蓮夜くんを見て覚悟が決まった。この選択が正しいのか間違っているのかは、私次第だと思う。
「任せてとは言えないけど、私なりに頑張ってみる」
そう言うと、蓮夜くんはメロンパンを食べ始めた。泣きそうになる自分を抑えるようにして。
食べ終わると、ごちそうさまの代わりに「ありがとう」と言った。鼻水をすすりながら。
明日、花山と話してみよう。迷惑に思うかもしれないが真っ直ぐ向き合いたい。蓮夜くんを見てそう決めた。
登校する生徒たちの中に花山の後ろ姿を見つけた。私は駆け寄って声をかける。
イヤホンを付けていたため最初は無視されたが、二度目は肩を叩いた。
振り向いた花山は、私の顔を見るなり早足で昇降口に向かう。『俺はお前と話さない』という意思表示だろう。
なので、追いかけて隣を歩いた。すると花山はさらに速度を早める。だが私もそれに合わせた。
だんだん早くなり、歩く生徒たちをごぼう抜きする。ほぼ競歩だ。
恥ずかしくなったのか、呆らめたのかは分からないが、昇降口の入り口で花山はイヤホンを外し、苛立ちを声と表情に出しながら「何だよ」と言った。
「花山の家の近くに河川敷があるでしょ? 今日の十七時半に来て。話があるから」
「行かねえよ」
「じゃあ家まで行って大声でドナドナを歌う。そのあと花山の家の両隣の人とバンドを組んでメジャーデビューする。そしたら毎日私のドナドナを聞くことになる。されたくなかったら来て」
「勝手にしろ」
それが河川敷に行くことなのか、隣家の人とバンドを組むことなのかは分からなかったが、花山はそう言って下駄箱に向かっていった。
「待ってるから」
背中に言葉を投げたが、反応はなかった。
周りの生徒が私を見ていることに気づき、恥ずかしさが込み上げてくる。でもそれ以上に、花山が来てくれるかが心配だった。
昼休み、男の友情を知るためにはヤンキー漫画が一番だと思い、公園で昼食をとりながらスマホで読むことにした。
男は喧嘩すると仲良くなる生き物らしい。拳を交えたあと二人で青空を見る。そうすると友情が芽生える。
その理論は理解できないが、そうなるらしい。単純なのか複雑なのかよく分からないと思いながら読み進めた。
昼休みを終えた頃には、私は学校の番長になった。もちろん気持ちだけだが。
放課後、すぐに学校を出て家に帰った。花山と会う前に用意しないといけないものがある。
家にいた弟にお願いしてキャッチャーマスクと胸に装着するプロテクターを借りた。
「何に使うの?」と聞かれたが、友情に必要だからと言うと怪訝な顔をされた。
膝に付けるやつもあったが、動きが鈍りそうだっため置いていった。
用具ケースに防具を入れ、河川敷に向かう。
花山が来ているのか不安だった。
向こうからしたら迷惑だろうし、何より関わりたくないと宣言されている。花山が来る理由を頑張って探したが、まったく見当たらなかった。
希望もないまま河川敷に着くと、堤防で座る制服姿の花山がいた。遠くを見るように、沈んでゆく夕陽を眺めている。
私は堤防の反対側にある階段を降りて、用具ケースからキャッチャーマスクとプロテクターを取り出した。
これから世紀の一戦を交える。この喧嘩に勝ち、花山と夕日を見ながら交友を深めるつもりだ。
目的がずれているかもしれないが、友情を築かなければ心を開いてくれない。
雪乃がいたら止められていただろうが、今の私は『紅の狂犬、藤沢千星』だ。女の言葉では止められない。
防具を装着し用具ケースを肩にかける。羞恥心はギリ残っていたので、周りに人がいないことを確認したあと花山の前に出た。
「花山、私とタイマン張れ」
漫画で見た言葉をそのまま言うと、唖然とした様子で私を見てきた。
「何やってんの?」
「いいから私とタイマン張れ」
花山が立ち上がったため、腕を前に出し構えをとった。が、花山は背中を向けて反対側に歩き出す。
「ちょっと待て。どこに行く」
「帰る」こちらを見ず、背中越しにそう答えた。
「ここで逃げるなら、明日からこの格好で花山の後をずっと付いていく。私と親友だとこの格好で言い回る。昼休みにこの格好で花山と一緒にご飯を食べる。そしたら私のあだ名は特級過呪怨霊って言われるし、花山は闇落ちした呪詛師に狙われることになる。それが嫌なら私とタイマンを張れ」
花山は立ち止まり、再び堤防に腰を下ろした。
「それじゃあ、私とタイマンをは……」
「いいから座れ」
花山は冷静に言った。温度差の違いでなんだか恥ずかしくなる。
少年誌のような熱い展開になり『お前やるじゃん』みたいな言葉を期待していたのだが、言われた言葉は『座れ』だったので、とりあえず隣に座った。
「それ脱いでくれない。恥ずかしいから」
そう言われたのでキャッチャーマスクを取ると、
「防具をそういう扱いすんのはよくない」
「はい」
確かにそうだった。しかも弟の。帰ったら謝ろう。
プロテクターも取り用具ケースにしまう。特級過呪怨霊から普通の女子高生に戻ったところで、花山が問いかけてきた。
「話って?」
「中学のときのことを聞きたい。クラスの子を殴ったときのこと。ある程度の話は聞いたけど、何故殴ったのかを知りたい」
「それを知ってどうするの?」
「花山が何を抱えてるかを知りたい。自分を隠しながら生きてるように見えるから。人の生きかたは周りだけで決まるものではない。自分の中にあるものが変われば、世界の見えかたも変わると思う。私はそうだった。『花山も変わろう』なんて簡単には言えないけど、話すことで何か変わるかもしれない。価値観の押し付けかもしれないけど、進むきっかけになれたらって」
周りに影響されて人は変わっていく。それ自体は悪いことではない。でもいきすぎてしまうと人は方向を見失う。私も雪乃もそうだったように。
自分自身と向き合うことを、いつかはしなければならない。背を向けた先にあるものは、瞬間的な安らぎと継続する痛みだ。
その痛みを和らげるために言い訳をして自分を正当化する。そして周りに劣等感を吐き散らす。そうなってはいけない。それは世界から自分を乖離させるだけだ。
花山は周りをどう思ってるかは分からないが、もし憎しみに満ちた世界に足を踏み込んでいるなら、手を差し伸べなければいけない。蓮夜くんのためにも。
「奥村に頼まれたからってなんでここまですんだよ。藤沢には関係ないことだろ。それに……俺は人を殴るような人間だぞ。そんな奴に関ろうなんて、普通思わないだろ」
「私は蒼空に救ってもらった。その人から頼むって言われたら、どんなことがあってもその願いを叶えたい。花山が善い人間か悪い人間かは今は分からないけど、蒼空が悪い人じゃないって言ってたから、私はそれを信じる」
「人を信じたって報われない。そんなものに縋っても傷つくだけだ。その先に何があるんだよ」
花山は頭を抱え、思い悩むようにそう言った。
葛藤の境界線を行き来しながら、自分と向き合っているのかもしれない。
「何かに縋るために人を信じてはいけない。それでは周りに生きかたを決められてしまうから。信じた先にあるものは自分で作るんだと思う」
誰かが育てた花を摘むだけでは、花の本当の美しさは分からない。自分で育て、初めてその美しさを知れる。
「私を信用してなんて言わない。でも今まで見てきたものと、これから見るものを全部重ねなくていい。真っ直ぐなものさえ歪んで見えてしまうから。一生なんて言わないし、この瞬間だけでもいい。だけど今だけは隣を歩かせて」
もし抱えているものを吐き出すことができたら、花山は一歩進めるような気がした。私がすべきことは、そのきっかけを作ること。
面倒くさい奴とも思われていい、嫌われてもいい、でもこの瞬間だけでも頼ってほしい。自分の中にある枷を言葉にしてほしい。
祈りに近い想いが届いたのか、花山は固く結んだ口を開いた。夜にだけ咲くと決めた花が、再び太陽の下で蕾を開くように。
「人に優しくすることが好きだった。その優しさが自分の生きる意味になっていた」
花山は枯れた花を眺めるように、自らの過去を話し始めた。