雪乃が抱えていたものが分かった。
褒められることが自分を苦しめるなんて、他人では理解できないかもしれない。人によっては雪乃の言う通り、自慢に聞こえてしまうだろう。
彼女より完璧な存在がいないから、誰にも理解されないと奥底に閉じ込めてしまう。
唯一、近い存在だった蒼空には、少しだけ自分を見せれたのかもしれない。
「富田雪乃という存在が自分を苦しめている。褒められたくてやっきたことが今は義務になってる。でもその重荷が下ろすことができない。染みついた思考は言葉も行動も支配する。好きな人にそれを向けたくないの」
――もし、好きな人を嫌いになったら
あの質問の意味はそういうことだったのか。
求められる自分を作り上げてきた雪乃にとって、『そうならなければならない』という脅迫概念に近いものが自然と出てきてしまう。
それが積み重なれば『好き』という大切な気持ちが『嫌悪』に変わる。一歩踏み出せない理由はそれだった。
雪乃はベンチの下に残る、溶けかけた雪を見ていた。
「雪ってさ、降り続けないと太陽に溶かされてしまう。その存在がなかったように日常が過ぎていくの。幼い頃はそれが怖かった。だから必死に努力した。消えないように。雪はきっと太陽のことが嫌いだと思う」
自分という存在が周りによって決まられてしまう。抗ったとしても何もなかったかのように世界は進んでいく。雪乃はその恐怖とずっと戦ってきたんだ。
「千星が部活を見に来てくれた日、私から声をかけたでしょ?」
ほとんど接点がないのに不思議だった。
「自分と関わりがない人と話したかったの。蒼空がいなくなってから、学校では誰にも相談できなくなった。富田雪乃は誰かに弱音を吐かないから。だから精神的に不安定になってた。私のことを決めつけないでフラットに話せる人がほしかったの。たぶん千星のこと安定剤代わりにしようと思ってた。私、最低でしょ? 一緒に電車乗ったとき、子供が騒いでたでことがあったの覚えてる? あの時も『元気がいいね』って言ったけど、本当はうるさいと思ってたし、かなりムカついた。でも富田雪乃ならこう言うだろうなって言葉を繕ってしまう。そんな自分が本当に嫌になる」
色んな選択肢があっても『周りが思ってる富田雪乃』が優先されてしまう。それが外の世界とのフィルターになっているんだと思った。
「私も一緒だよ。蒼空に依存してたし、安定剤代わりにしてたのかもしれない。電車で騒いでた子供の母親にも『味噌まみれになればいいのに』って思った」
「ごめん、私はそこまで思ってなかった」
味噌まみれエピソードを出すタイミングではなかった。寄り添おうとするつもりが引かれてしまった。
「でも千星と話せて良かった。勇気をもらえたし、一歩踏み出そうとも思えた。それに自分のことを誰かに話すなんて一生ないと思ってたから、気持ちが楽になった」
ありがとう、雪乃は笑顔で言った。もう吹っ切れた、みたいな笑顔で。
「想いは伝えないの?」
そう聞いたら口を噤んだ。気持ちはまだ彷徨っているように見える。
「誰かのために頑張るってすごいことだと思う。それが義務になってたとしても、もっと自分を褒めていいんじゃないかな。春野くんの存在は大きかったかもしれない。だけど成績もバスケも周りからの信頼も、全部自分の力で得たものでしょ。自分を変えるために、誰よりも頑張ったから富田雪乃がいるんだよ。私はそれを悪いことだと思わない。だから、今までの自分を否定しなくていいよ」
根本にあるものを変えようとするんじゃなく、認めてあげることが大事だと思った。
苦しい中で頑張って生きてきたなら、それを肯定してあげたい。それが今の雪乃にとって必要なものだと思う。
「私はずっと受け身だった。蒼空がいたから自分で何かを変えようなんて思わなかったの。でも今は後悔してる。与えられているときは、幸せの価値を知ることはできない。失ったときに初めてその価値に気づけるから。取り戻せないと分かれば想いだけが心に残り、いずれ世界を歪めてしまう」
もし蒼空が私を選んでなかったら、今も部屋に閉じこもり、世界から取り残されていたと思う。
卑屈な後悔を垂れ流しながら、命を絶っていた可能性もある。
知らなかった世界を見れたことで考え方が変わった。そのおかげで新たな道を見つけられた。
私も蒼空のように誰かの居場所を作れる人になりたい。
「雪乃は私とは逆で、全部一人で抱えこんで道に迷ってしまった。二人ともバランスを崩していたのかもしれない。今までと同じような考えになったら私に相談して。良い言葉はかけられないけど、負担は減らせると思うから。もう一人で無理しなくていい。頼りないかもしれないけど、辛くなったら私がいる」
ずっとブレーキを踏み続けていた私。ずっとアクセルを踏み続けた雪乃。お互い偏った生き方をしていたのかもしれない。
「雪乃、私と友達になって。片方だけがしがみついているような関係ではなく支え合えるような友達に。背伸びしなくてもいい自由な場所を作ろう。それと、他人に言われて好きな気持ちを捨てる必要なんてないよ。自分が求めるものも大事にして。富田雪乃だろうが、姉の妹だろうが、雪乃は雪乃だよ」
雪は美しい。だけどその先で咲く花もまた美しい。
季節を超えらなかったあなたに、春を知ってもらいたい。
「うん……言ってくる。大好きだって、付き合おうって。私の恋だから、私が決める」
雪乃の目から涙が落ちた。
雪解けに流れる一滴の雫のように。
そのあと、私の過去も話した。
なぜ人を嫌いになってしまったのか、なぜ他人と話せなくなったのか。雪乃はただ静かに、寄り添うように聴いてくれいた。
「私の前では自分らしくいて。私も千星の前では自分らしくいるから」
話し終えると、雪乃はそう言ってくれた。
「蒼空の前と私の前では違うでしょ? 子供のお母さんを味噌まみれにしようとする千星が見たい」
それは忘れてくれ。
「分かった」
降り積もった雪が溶け、花笑むような笑顔がそこにはあった。
お互いの好きなものを話し合っていたら、六限目もサボってしまった。
私たちが学校に戻ると、下校する生徒たちが昇降口に溢れていた。
「雪乃、どこ行ってたの?」
下駄箱で靴を履き替えようとしたとき、クラスの女子三人と鉢合わせした。
「面倒くさいからサボった」
雪乃がそう言うと、三人は隣にいる私に視線を送る。藤沢と? と疑問視した目で。
「雪乃なんかあったの?」
「たまにはそういう時もあるんだよ、私にも」
「なら誘ってよ、私もサボりたかった」
「じゃあ今度サボってうち来ない? 雪乃にお菓子作り教わりたいし」
その言葉で雪乃は俯いた。表情がだんだんと曇っていく。
「どうしたの雪乃?」
一人の子が察して言葉をかけた。
具合が悪いと思ったのか、心配そうに顔を覗いている。
私は雪乃の背中に手を添えた。『大丈夫、私がいるから』そういう想いを込めて。
「ごめん、私お菓子作れないんだ」
視線を落としたまま雪乃は言った。肩の震えが私の手に伝わってくる。
普通の人にとっては何でもない言葉だが、雪乃にとっては長年縛り付いたものを祓う言葉だ。
そこには痛みが伴うし、きっと不安だと思う。作り上げてきた富田雪乃という存在を否定されるかもしれないから。
「なんだ、言ってよ。じゃあ動画見ながら一緒に作ろう」
雪乃は呆然としていた。
本人の覚悟とは反比例し、“できない”ことがすんなりと受け入れられたからだと思う。
「うん。今度作ろう」
声を震わせながら雪乃は言った。
長年降り積もった想いが溶けていくように。
「え? 大丈夫?」
ひとりの子がそう言った。雪乃の顔を見ると目が潤んでいる。
「大丈夫、部活だから行くね」
靴を履き替え、二人で教室に向かう。
背中から「藤沢さんと仲良かったんだ」と声が聞こえた。
「友達だからね」
雪乃がつぶやくように言った言葉を、私は聞き逃さなかった。
部活に行く雪乃と別れ、鼻歌を歌いながら校門を曲がろうとしたとき、男子生徒とぶつかった。
忘れ物を取りに戻ったきたのか、反対方向から歩いてきた。
鼻歌を聞かれた恥ずかしさから、私は顔を隠すようにして「すいません」と頭を下げる。
こんなときに限ってアルマゲドンの主題歌をチョイスしてしまった。
令和の女子高生にしては渋すぎた。明日から渋沢渋子と呼ばれるかもしれない。
ぶつかった拍子に肩に掛けていた鞄を落としてしまった。拾おうとしたら相手が先に手をかける。
相手の顔を見ると、同じクラスの花山翔吾だった。
短髪で目つきが鋭く、身長も百八十くらいあるからか威圧感がすごい。不良漫画に出てきそうな風貌だ。中学生のときに同じクラスの人を殴ったという噂を耳にしたことがある。
花山は鞄の持ち手を掴んだまま動かない。早く返してと思っていると、掴んでいた持ち手を離し、私を睨んでから校舎の方へ去っていった。
何がしたいんだ花山。一度手にかけたなら拾え。そして女の子にぶつかったら謝れ。そのあとは舞踏会に招待して豪勢な料理を振る舞い、お土産にヘッドスパの回数券をプレゼントしろ。私の地元ではみんなそうするぞ。
ふてぶてしい花山の背中にがんを飛ばし、鞄を拾って校門を出た。
夜になり岬公園の展望広場に来ていた。これから一週間ぶりに蒼空と会う。
学校から家に着いて、ずっとソワソワしていた。ソワソワというよりドキドキかワクワクかもしれない。いや、その三つが混ざったものとも言える。とにかく、嬉しいっていうことだ。
雪乃の背中を押せたことは、ものすごく大きな一歩だった。
蒼空との約束を果たしただけでなく、自分の変化、誰かの人生に影響を与える、今までの自分では考えられないことをこの一週間でやった。
何かを待っているだけの人生では得られなかっただろう。これも全部蒼空のおかげだ。だから、会ったときにお礼を言おうと思う。
直接ありがとうと言うのはなんだか恥ずかしかったので、スワヒリ語で言おうと思った。
スマホで言語を検索しようとしたとき、夜空に流れ星が降る。
その光は強い光を携えて展望広場に落ちた。纏う光を徐々に弱めていき、黄色い列車の姿をあらわにする。
完全に光が消えると、列車の中から結衣さんが出てきた。
「やっほ」
なんか古臭い挨拶だなと思った。
結衣さんはニコニコしながらこちらに歩いてくる。
駆け寄って挨拶しようとしたら、握り潰すように私の頬を掴んできた。
「今、古臭い挨拶したなとか思っただろ」
「おぼってましぇん」
頬を思いっきり潰されているためうまく喋れない。
「そうだよね、古臭いなんて千星ちゃんは思わないよね」
目が笑っていない笑顔を浮かべながら、頬を握る手は力強さを増していく。
「ふぁい。もちろんです」
「よろしい」
そう言ったあと、結衣さんは私の頬から手を話した。
「じゃあ行こうか」
列車に向かう結衣さんの背中に「ババアめ」と、聞こえないような声で吐き捨て、後を付いていく。
すると結衣さんはバッっと私の方を振り向き、
「今ババアって言った?」
「言っておりません。こんな綺麗で奥ゆかしく淑やかで艶やかなお姉様にババアだなんて言うわけがございません」
蒼空のもとには綺麗な顔のまま行きたかったので、私が知るかぎりの褒め言葉を並べてみた。
「もうそんなに褒めないでよ。おばさんぐらいでいいからね」
おばさんって言ったらきっとぶっ飛ばされる。
「結衣さん」
「何?」
「あんな派手に落ちてきたら誰かに見られませんか?」
疑問に思っていたことを聞いた。他の人にはこのことを言うなと釘を刺された。なら見られるのもダメなはずだ。
「この列車は私と千星ちゃん以外見えてないから大丈夫」
「そうなんですか?」
「選ばれしものだけが見えるの」
選ばれしもの……厨二心をくすぐる。
「じゃあ行こう」
私たちは列車に乗り、蒼空のもとに向かった。
空飛ぶ列車から見る星空は、いつ見ても美しいと思える。
この景色をずっと眺めていたいが、ババ……結衣さんが私の前で絶えず喋っている。
どういう経緯でその話になったのかは分からないが、今は肉まんの椎茸について語ってる。
私は「そうなんですね」と「確かに」の二パターンの相槌をうちながら、夜空に浮かぶ星たちを見ていた。
「どうだった、この一週間?」
急に聞かれたので「確かに」と言いそうになったが、喉元で言葉を引き留め、別の言葉を脳内から引っ張り出した。
「願いって自分で叶えるものなんだなって思いました」
この一週間で知ったことだ。踏み出すことをしなければ世界は変わらない。
「願いっていうのは待っているだけでは叶えてくれない。行動したうえで、それが咲くように祈りを込める。種を植えるのも、育てるのも、蕾をつけるのも、自分ですること。願うだけでは花は咲かない。それは種のない花壇に水をやるのと一緒」
結衣さんの言葉が胸に染みた。
今までは願うだけで花を咲かそうとしていた。
だけどこれからは、種を植えて育てないといけない。
「蒼空は私に気づいてほしかったのかもしれない。花を咲かせるのは他人ではなく自分だと。今までは小さい角度から世界を見てきた。でも見えていなかった部分に新しい選択肢があった。生き辛くなるのは、知らないことが多いからなんですね」
「良い一週間を過ごしたんだね」
「はい」
大人の笑みというのだろうか、結衣さん子供の成長を見守るような顔で一笑した。
流星の駅に着き、結衣さんに見送られながら階段を上った。
もう少しで会えると思うと心音が弾む。その音に合わせながら駆け上がる。
ガラス張りの部屋に着くと、星に照らされた蒼空の背中が見えた。窓の前に置かれたベンチに座っている。
「蒼空」
近くまで行き声をかけると、蒼空が微笑みながら振り向いた。
「久しぶり」
私の顔はニヤついているだろう。そう思いながら蒼空の隣に座る。
「あのね……」
私は興奮気味に、この一週間の出来事を話した。
雪乃が一歩踏み出せかった理由や背中を押せたこと。そして友達になれたことも。
息継ぎをせずに喋っていたと思う。蒼空はそんな私を優しい表情で見守りながら、ときおり嬉しそうな顔を浮かべていた。
「頑張ったね」
私が話し終えると、そう言ってくれた。
好きな人に褒められると、これまでの苦労が嬉しさに変わる。
特別な言葉ではないかもしれないけど、その一言で私の心音は一音上がる。
「ありがとう」
スワヒリ語ではなく、ちゃんと日本語で伝えた。
「お礼を言うのは俺だよ」
「ううん、蒼空が私を変えるきっかけをくれたの。もし私を選んでくれなかったら、ずっと過去に縛られたままだった。自分の力で一歩踏み出すことができたのは、蒼空のために頑張ろうと思えたから。だから、お礼を言うのは私のほう」
勢いで「好きだよ」と言ってしまいそうだったけど、今は胸に仕舞っておこう。
「千星は人を変える力があるんだよ。でもそれを過去に置いてきてしまった。だからもっと自分を信じてほしい。俺も藤沢千星という人間に変えてもらったんだから」
私が蒼空を変えた記憶はない。むしろずっと依存していた。蒼空がいなかったら本当に一人になっていたし、雪乃とも友達になれていなかった。
「でも良かった、友達ができて」
「うん、私が一番驚いてる」
「あと、もう一つの未練なんだけど……」
「何?」
蒼空は真っ直ぐな目で私を見てきた。
「花山翔吾と友達になってほしい」
褒められることが自分を苦しめるなんて、他人では理解できないかもしれない。人によっては雪乃の言う通り、自慢に聞こえてしまうだろう。
彼女より完璧な存在がいないから、誰にも理解されないと奥底に閉じ込めてしまう。
唯一、近い存在だった蒼空には、少しだけ自分を見せれたのかもしれない。
「富田雪乃という存在が自分を苦しめている。褒められたくてやっきたことが今は義務になってる。でもその重荷が下ろすことができない。染みついた思考は言葉も行動も支配する。好きな人にそれを向けたくないの」
――もし、好きな人を嫌いになったら
あの質問の意味はそういうことだったのか。
求められる自分を作り上げてきた雪乃にとって、『そうならなければならない』という脅迫概念に近いものが自然と出てきてしまう。
それが積み重なれば『好き』という大切な気持ちが『嫌悪』に変わる。一歩踏み出せない理由はそれだった。
雪乃はベンチの下に残る、溶けかけた雪を見ていた。
「雪ってさ、降り続けないと太陽に溶かされてしまう。その存在がなかったように日常が過ぎていくの。幼い頃はそれが怖かった。だから必死に努力した。消えないように。雪はきっと太陽のことが嫌いだと思う」
自分という存在が周りによって決まられてしまう。抗ったとしても何もなかったかのように世界は進んでいく。雪乃はその恐怖とずっと戦ってきたんだ。
「千星が部活を見に来てくれた日、私から声をかけたでしょ?」
ほとんど接点がないのに不思議だった。
「自分と関わりがない人と話したかったの。蒼空がいなくなってから、学校では誰にも相談できなくなった。富田雪乃は誰かに弱音を吐かないから。だから精神的に不安定になってた。私のことを決めつけないでフラットに話せる人がほしかったの。たぶん千星のこと安定剤代わりにしようと思ってた。私、最低でしょ? 一緒に電車乗ったとき、子供が騒いでたでことがあったの覚えてる? あの時も『元気がいいね』って言ったけど、本当はうるさいと思ってたし、かなりムカついた。でも富田雪乃ならこう言うだろうなって言葉を繕ってしまう。そんな自分が本当に嫌になる」
色んな選択肢があっても『周りが思ってる富田雪乃』が優先されてしまう。それが外の世界とのフィルターになっているんだと思った。
「私も一緒だよ。蒼空に依存してたし、安定剤代わりにしてたのかもしれない。電車で騒いでた子供の母親にも『味噌まみれになればいいのに』って思った」
「ごめん、私はそこまで思ってなかった」
味噌まみれエピソードを出すタイミングではなかった。寄り添おうとするつもりが引かれてしまった。
「でも千星と話せて良かった。勇気をもらえたし、一歩踏み出そうとも思えた。それに自分のことを誰かに話すなんて一生ないと思ってたから、気持ちが楽になった」
ありがとう、雪乃は笑顔で言った。もう吹っ切れた、みたいな笑顔で。
「想いは伝えないの?」
そう聞いたら口を噤んだ。気持ちはまだ彷徨っているように見える。
「誰かのために頑張るってすごいことだと思う。それが義務になってたとしても、もっと自分を褒めていいんじゃないかな。春野くんの存在は大きかったかもしれない。だけど成績もバスケも周りからの信頼も、全部自分の力で得たものでしょ。自分を変えるために、誰よりも頑張ったから富田雪乃がいるんだよ。私はそれを悪いことだと思わない。だから、今までの自分を否定しなくていいよ」
根本にあるものを変えようとするんじゃなく、認めてあげることが大事だと思った。
苦しい中で頑張って生きてきたなら、それを肯定してあげたい。それが今の雪乃にとって必要なものだと思う。
「私はずっと受け身だった。蒼空がいたから自分で何かを変えようなんて思わなかったの。でも今は後悔してる。与えられているときは、幸せの価値を知ることはできない。失ったときに初めてその価値に気づけるから。取り戻せないと分かれば想いだけが心に残り、いずれ世界を歪めてしまう」
もし蒼空が私を選んでなかったら、今も部屋に閉じこもり、世界から取り残されていたと思う。
卑屈な後悔を垂れ流しながら、命を絶っていた可能性もある。
知らなかった世界を見れたことで考え方が変わった。そのおかげで新たな道を見つけられた。
私も蒼空のように誰かの居場所を作れる人になりたい。
「雪乃は私とは逆で、全部一人で抱えこんで道に迷ってしまった。二人ともバランスを崩していたのかもしれない。今までと同じような考えになったら私に相談して。良い言葉はかけられないけど、負担は減らせると思うから。もう一人で無理しなくていい。頼りないかもしれないけど、辛くなったら私がいる」
ずっとブレーキを踏み続けていた私。ずっとアクセルを踏み続けた雪乃。お互い偏った生き方をしていたのかもしれない。
「雪乃、私と友達になって。片方だけがしがみついているような関係ではなく支え合えるような友達に。背伸びしなくてもいい自由な場所を作ろう。それと、他人に言われて好きな気持ちを捨てる必要なんてないよ。自分が求めるものも大事にして。富田雪乃だろうが、姉の妹だろうが、雪乃は雪乃だよ」
雪は美しい。だけどその先で咲く花もまた美しい。
季節を超えらなかったあなたに、春を知ってもらいたい。
「うん……言ってくる。大好きだって、付き合おうって。私の恋だから、私が決める」
雪乃の目から涙が落ちた。
雪解けに流れる一滴の雫のように。
そのあと、私の過去も話した。
なぜ人を嫌いになってしまったのか、なぜ他人と話せなくなったのか。雪乃はただ静かに、寄り添うように聴いてくれいた。
「私の前では自分らしくいて。私も千星の前では自分らしくいるから」
話し終えると、雪乃はそう言ってくれた。
「蒼空の前と私の前では違うでしょ? 子供のお母さんを味噌まみれにしようとする千星が見たい」
それは忘れてくれ。
「分かった」
降り積もった雪が溶け、花笑むような笑顔がそこにはあった。
お互いの好きなものを話し合っていたら、六限目もサボってしまった。
私たちが学校に戻ると、下校する生徒たちが昇降口に溢れていた。
「雪乃、どこ行ってたの?」
下駄箱で靴を履き替えようとしたとき、クラスの女子三人と鉢合わせした。
「面倒くさいからサボった」
雪乃がそう言うと、三人は隣にいる私に視線を送る。藤沢と? と疑問視した目で。
「雪乃なんかあったの?」
「たまにはそういう時もあるんだよ、私にも」
「なら誘ってよ、私もサボりたかった」
「じゃあ今度サボってうち来ない? 雪乃にお菓子作り教わりたいし」
その言葉で雪乃は俯いた。表情がだんだんと曇っていく。
「どうしたの雪乃?」
一人の子が察して言葉をかけた。
具合が悪いと思ったのか、心配そうに顔を覗いている。
私は雪乃の背中に手を添えた。『大丈夫、私がいるから』そういう想いを込めて。
「ごめん、私お菓子作れないんだ」
視線を落としたまま雪乃は言った。肩の震えが私の手に伝わってくる。
普通の人にとっては何でもない言葉だが、雪乃にとっては長年縛り付いたものを祓う言葉だ。
そこには痛みが伴うし、きっと不安だと思う。作り上げてきた富田雪乃という存在を否定されるかもしれないから。
「なんだ、言ってよ。じゃあ動画見ながら一緒に作ろう」
雪乃は呆然としていた。
本人の覚悟とは反比例し、“できない”ことがすんなりと受け入れられたからだと思う。
「うん。今度作ろう」
声を震わせながら雪乃は言った。
長年降り積もった想いが溶けていくように。
「え? 大丈夫?」
ひとりの子がそう言った。雪乃の顔を見ると目が潤んでいる。
「大丈夫、部活だから行くね」
靴を履き替え、二人で教室に向かう。
背中から「藤沢さんと仲良かったんだ」と声が聞こえた。
「友達だからね」
雪乃がつぶやくように言った言葉を、私は聞き逃さなかった。
部活に行く雪乃と別れ、鼻歌を歌いながら校門を曲がろうとしたとき、男子生徒とぶつかった。
忘れ物を取りに戻ったきたのか、反対方向から歩いてきた。
鼻歌を聞かれた恥ずかしさから、私は顔を隠すようにして「すいません」と頭を下げる。
こんなときに限ってアルマゲドンの主題歌をチョイスしてしまった。
令和の女子高生にしては渋すぎた。明日から渋沢渋子と呼ばれるかもしれない。
ぶつかった拍子に肩に掛けていた鞄を落としてしまった。拾おうとしたら相手が先に手をかける。
相手の顔を見ると、同じクラスの花山翔吾だった。
短髪で目つきが鋭く、身長も百八十くらいあるからか威圧感がすごい。不良漫画に出てきそうな風貌だ。中学生のときに同じクラスの人を殴ったという噂を耳にしたことがある。
花山は鞄の持ち手を掴んだまま動かない。早く返してと思っていると、掴んでいた持ち手を離し、私を睨んでから校舎の方へ去っていった。
何がしたいんだ花山。一度手にかけたなら拾え。そして女の子にぶつかったら謝れ。そのあとは舞踏会に招待して豪勢な料理を振る舞い、お土産にヘッドスパの回数券をプレゼントしろ。私の地元ではみんなそうするぞ。
ふてぶてしい花山の背中にがんを飛ばし、鞄を拾って校門を出た。
夜になり岬公園の展望広場に来ていた。これから一週間ぶりに蒼空と会う。
学校から家に着いて、ずっとソワソワしていた。ソワソワというよりドキドキかワクワクかもしれない。いや、その三つが混ざったものとも言える。とにかく、嬉しいっていうことだ。
雪乃の背中を押せたことは、ものすごく大きな一歩だった。
蒼空との約束を果たしただけでなく、自分の変化、誰かの人生に影響を与える、今までの自分では考えられないことをこの一週間でやった。
何かを待っているだけの人生では得られなかっただろう。これも全部蒼空のおかげだ。だから、会ったときにお礼を言おうと思う。
直接ありがとうと言うのはなんだか恥ずかしかったので、スワヒリ語で言おうと思った。
スマホで言語を検索しようとしたとき、夜空に流れ星が降る。
その光は強い光を携えて展望広場に落ちた。纏う光を徐々に弱めていき、黄色い列車の姿をあらわにする。
完全に光が消えると、列車の中から結衣さんが出てきた。
「やっほ」
なんか古臭い挨拶だなと思った。
結衣さんはニコニコしながらこちらに歩いてくる。
駆け寄って挨拶しようとしたら、握り潰すように私の頬を掴んできた。
「今、古臭い挨拶したなとか思っただろ」
「おぼってましぇん」
頬を思いっきり潰されているためうまく喋れない。
「そうだよね、古臭いなんて千星ちゃんは思わないよね」
目が笑っていない笑顔を浮かべながら、頬を握る手は力強さを増していく。
「ふぁい。もちろんです」
「よろしい」
そう言ったあと、結衣さんは私の頬から手を話した。
「じゃあ行こうか」
列車に向かう結衣さんの背中に「ババアめ」と、聞こえないような声で吐き捨て、後を付いていく。
すると結衣さんはバッっと私の方を振り向き、
「今ババアって言った?」
「言っておりません。こんな綺麗で奥ゆかしく淑やかで艶やかなお姉様にババアだなんて言うわけがございません」
蒼空のもとには綺麗な顔のまま行きたかったので、私が知るかぎりの褒め言葉を並べてみた。
「もうそんなに褒めないでよ。おばさんぐらいでいいからね」
おばさんって言ったらきっとぶっ飛ばされる。
「結衣さん」
「何?」
「あんな派手に落ちてきたら誰かに見られませんか?」
疑問に思っていたことを聞いた。他の人にはこのことを言うなと釘を刺された。なら見られるのもダメなはずだ。
「この列車は私と千星ちゃん以外見えてないから大丈夫」
「そうなんですか?」
「選ばれしものだけが見えるの」
選ばれしもの……厨二心をくすぐる。
「じゃあ行こう」
私たちは列車に乗り、蒼空のもとに向かった。
空飛ぶ列車から見る星空は、いつ見ても美しいと思える。
この景色をずっと眺めていたいが、ババ……結衣さんが私の前で絶えず喋っている。
どういう経緯でその話になったのかは分からないが、今は肉まんの椎茸について語ってる。
私は「そうなんですね」と「確かに」の二パターンの相槌をうちながら、夜空に浮かぶ星たちを見ていた。
「どうだった、この一週間?」
急に聞かれたので「確かに」と言いそうになったが、喉元で言葉を引き留め、別の言葉を脳内から引っ張り出した。
「願いって自分で叶えるものなんだなって思いました」
この一週間で知ったことだ。踏み出すことをしなければ世界は変わらない。
「願いっていうのは待っているだけでは叶えてくれない。行動したうえで、それが咲くように祈りを込める。種を植えるのも、育てるのも、蕾をつけるのも、自分ですること。願うだけでは花は咲かない。それは種のない花壇に水をやるのと一緒」
結衣さんの言葉が胸に染みた。
今までは願うだけで花を咲かそうとしていた。
だけどこれからは、種を植えて育てないといけない。
「蒼空は私に気づいてほしかったのかもしれない。花を咲かせるのは他人ではなく自分だと。今までは小さい角度から世界を見てきた。でも見えていなかった部分に新しい選択肢があった。生き辛くなるのは、知らないことが多いからなんですね」
「良い一週間を過ごしたんだね」
「はい」
大人の笑みというのだろうか、結衣さん子供の成長を見守るような顔で一笑した。
流星の駅に着き、結衣さんに見送られながら階段を上った。
もう少しで会えると思うと心音が弾む。その音に合わせながら駆け上がる。
ガラス張りの部屋に着くと、星に照らされた蒼空の背中が見えた。窓の前に置かれたベンチに座っている。
「蒼空」
近くまで行き声をかけると、蒼空が微笑みながら振り向いた。
「久しぶり」
私の顔はニヤついているだろう。そう思いながら蒼空の隣に座る。
「あのね……」
私は興奮気味に、この一週間の出来事を話した。
雪乃が一歩踏み出せかった理由や背中を押せたこと。そして友達になれたことも。
息継ぎをせずに喋っていたと思う。蒼空はそんな私を優しい表情で見守りながら、ときおり嬉しそうな顔を浮かべていた。
「頑張ったね」
私が話し終えると、そう言ってくれた。
好きな人に褒められると、これまでの苦労が嬉しさに変わる。
特別な言葉ではないかもしれないけど、その一言で私の心音は一音上がる。
「ありがとう」
スワヒリ語ではなく、ちゃんと日本語で伝えた。
「お礼を言うのは俺だよ」
「ううん、蒼空が私を変えるきっかけをくれたの。もし私を選んでくれなかったら、ずっと過去に縛られたままだった。自分の力で一歩踏み出すことができたのは、蒼空のために頑張ろうと思えたから。だから、お礼を言うのは私のほう」
勢いで「好きだよ」と言ってしまいそうだったけど、今は胸に仕舞っておこう。
「千星は人を変える力があるんだよ。でもそれを過去に置いてきてしまった。だからもっと自分を信じてほしい。俺も藤沢千星という人間に変えてもらったんだから」
私が蒼空を変えた記憶はない。むしろずっと依存していた。蒼空がいなかったら本当に一人になっていたし、雪乃とも友達になれていなかった。
「でも良かった、友達ができて」
「うん、私が一番驚いてる」
「あと、もう一つの未練なんだけど……」
「何?」
蒼空は真っ直ぐな目で私を見てきた。
「花山翔吾と友達になってほしい」