小学四年生のとき、ミニバスの県大会で優勝した。
 私は補欠だったためベンチから試合を見ていたが、姉が活躍するたび自分のことのように喜んだ。
 そして、その姿に憧れた。 
  試合が終わったあと、お姉ちゃんはお母さんに褒められていた。
 笑いながら歩く二人の後ろ姿がとても羨ましく、頭の中で姉と私を入れ替え、母に褒められている自分を想像した。
 姉の日向《ひなた》は二個上で、勉強も運動もできる誇らしいお姉ちゃんだ。しかも優しい。
 私はというと、勉強が嫌いでテストの成績も悪い。走るのは得意だったが球技は苦手。だからバスケでは結果は出せていなかった。
 親は真逆の評価を姉妹につけていたのではないかと思う。
 ある日、三十点の算数のテストを持ち帰ったら、両親にため息をつかれた。
 それもそうだ、この数分前に姉が百点のテストを渡していたのだから。
 歓喜していた両親から感情を奪ったようで申し訳なく思った。
 重い空気感に耐えられず、いたたまれない気持ちで足早にリビングを出る。
 扉を閉め、階段を上がろうとすると、
「雪乃もお姉ちゃんみたいだったらな……」
 電気代が上がったときと同じような嘆き方でお母さんが言った。
 その声がとても苦しくかった。自分に対してというより、母を悲しませてしまったことが。
 学校でもよくお姉ちゃんと比較されていた。
「姉はすごいけど妹はね……」
 そんなことを耳にするたび「雪乃は雪乃でいいからね」と、お姉ちゃんは優しい言葉をかけてくれる。
 大好きだった。私もこんな人になりたいと思った。だけどお姉ちゃんがみんなから慕われてる姿を見ると、嫉妬が湧き上がった。
 姉に対して暗い感情が出ると自分を嫌悪した。好きでいたいし、今までと同じ関係性で居続けたい。
 でも胸から伝う澱みが、頭の中で大きくなってくる。
 それを抑えながら生きることが、だんだんと苦痛になってきた。
 周りは富田雪乃ではなく『姉の妹』という認識でいたため、他人と接していると自分の存在がないように感じた。
 話しかけられるときは「雪乃のお姉ちゃんてさ……」と、姉関連の話題から切り込まれることが多かった。
 姉がいないと、富田雪乃は人と会話できない。ずっと、そう思っていた。
 私は姉を嫌いになりたくなくて、自分を変えることにした。
 勉強を頑張り、バスケの動画を見て必死に練習した。
 その甲斐あってか、テストの点数は上がり、ミニバスでもレギュラーを取った。
 姉を真似して周りの人にも優しく接すると、人が集まってくるようにもなった。
 何より嬉しかったのは、両親が私を見てくれるようになったことだ。
 百点のテストを見せると頭を撫でてくれた。優しい言葉もかけてもらえるようになった。バスケの試合で活躍すると褒めてくれた。
 友達のお母さんからも「姉妹ですごいね」と言われ、初めてお姉ちゃんの隣に立てた気がした。
 その時に初めて「姉の妹」ではなく「富田雪乃」になれた気がした。
 褒められれば褒められるほど、勉強も運動も頑張った。富田雪乃で居続けるために。
「雪乃ちゃんは頭がいい」
「雪乃ちゃんはバスケが上手い」
「雪乃ちゃんは優しい」
「雪乃ちゃんみたいになりなさい」
 最初は期待されることに誇りを持っていたが、だんだんと負担に感じてくるようになった。
 みんなが期待する富田雪乃で居続けなければいけない。勉強ができて、運動もできて、優しい富田雪乃を求められているから。
 中学に上がると、よりプレッシャーがのしかかった。
 三年生の姉は、成績は学年トップでバスケ部のキャプテン。周りからの信頼は厚く、中学でも姉の存在は大きかった。
 そのため、バスケ部に入った私は先輩や顧問からの期待を大きく受けた。
「日向の妹だから、きっと上手いよね」
「お前の姉は、県内でも優れた選手だぞ」
 上手くないといけない、優れた選手でないといけない。私にはそう聞こえた。
 姉は「自分のペースでいいよ」というが、周りはそう思っていない。妹も富田日向と同じでなければいけないのだ。
 私に求められるのは、みんなが理想とする富田雪乃だから。
 担任からも「富田のお姉ちゃんは運動だけじゃなく、勉強もできてすごいな。両親はきっと誇らしいだろう。妹だからって負けてられないな」と言われた。
 私がダメだと家族に恥をかかせてしまう。お姉ちゃんが築き上げてきたものを壊してしまう。
 優秀な姉の妹として入学した私は、一層努力しないといけなかった。
 また『姉の妹』に戻ってしまえば、自分という存在が消えてしまう。求められる自分がいるから、私は世界と繋がっていられる。
 だから勉強も部活も必死に頑張った。みんなが求める富田雪乃になるために。自分という存在を守るために。
 努力した結果、一年でレギュラーを取り、成績も学年で一番だった。
 先生も生徒も「姉妹ですごいね」と褒めてくれる。そのときは嬉さよりも安心が強かった。
 学校では姉の名前もあり、先輩や同級生に慕われていたと思う。周りにはよく人が集まってきた。
 でもそれは、みんなが求める富田雪乃だからであって、もし期待を裏切ったら周りの人は離れていく。
 『姉の妹』にみんな興味はないのだ。もとに戻れば、自分の存在は消えてしまう。だから期待に応え続けなければならないし、姉を嫌いにならないためには、そうするしかなかった。
 体育祭の打ち上げで、姉に借りた服を着て行った。
「雪乃って服のセンスもいいんだ。今度、私の服も選んでよ」
 正直、服はあまり興味がなかった。
 でもクラスの子が求める富田雪乃は服のセンスも良くないといけない。そう思い、次の日に書店でファッション雑誌を買って勉強することにした。
 制服は校則通りに着こなす。教師のために。
 みんながオシャレだと思う格好をする。同級生のために。
 部活ではレギュラーをとり、テストでは学年で一番になる。親のために。
 先輩には礼儀正しくする。良い後輩でいるために。
 二年に上がってからは、後輩に積極的に優しく接した。良き先輩であるために。
 一年から三年まで学級委員を務めた。みんなが思う富田雪乃ならそうしただろうから。
 クラスメイトからもよく相談された。勉強、部活、恋愛、あらゆることを。
 そのたびに「雪乃は自分でなんでもできるからいいよね」「雪乃ぐらい完璧なら悩みなんてないでしょ?」と言われた。
 私だって悩みはある。誰かに相談したいし、愚痴もこぼしたい。好きな人のことだって、みんなと同じように話したい。
 でもできなかった。みんなが求める富田雪乃は、誰かに相談なんてしないらしい。自分で全部こなすのだから。
 そう在り続けなければいけない。それが富田雪乃だから。

 中学の卒業式、告白をされた。
 今まで何人かに言われたれたことはあるが、全部断ってきた。
 小学生の頃から、ずっと同じ人を好きだったから。
 そしてその相手が「好きです。付き合って下さい」と想いを伝えてきた。
 春野祐介は、『姉の妹』だったときから、私の努力を見ていてくれた人だ。
 よく話すようになったのは小学五年生の頃。
 彼もミニバスをやっており一緒のチームだった。
「最近頑張ってるな」
 今まであまり話したことのない春野くんから唐突に言われた。
 このときの私は親に褒めてもらうため、勉強もバスケも必死に努力していたときで、精神的にしんどくなっていた。
 頑張ってるだけでは認めてもらえない。姉と並ばないと私は評価されない。あまりにも高い壁に心が折れかけていたが、その一言が繋ぎ止めてくれた。
 それから春野くんとはよく話すようになった。
 春野くんは私のことを聞いてくれる。
 好きな漫画は? 好きなアニメは? 将来の夢は? お姉ちゃんのことばかり聞かれていた私にとって、春野くんとの時間は、自分が自分でいられる場所になっていた。
 憂鬱になることが多かったけど、その時間だけは特別だったし、何よりも楽しかった。
「富田みたいな人」
 春野くんに好きなタイプを聞いたら、こう返ってきた。
 恥ずかしくなって「そ、そうなんだ」とだけ言って濁してしまったが、すごく嬉しかった。
 私も彼を好きだったから。
 この頃は周りからも褒められることが増えてきて、自分の努力が報われていたときだった。
 でも多くの人は結果を見て褒めてくれたが、春野くんは過程を褒めてくれる。
 彼だけはちゃんと私を見てくれていた。
 春野くんがいなかったら、きっと挫折していた。
 努力を認めてくれたことが私の支えになり、苦しくても頑張ることができた。
 それが好きになった理由だ。
 
「俺の前では頑張らなくていいよ」
 部活が終わり、二人で帰っているときに春野くんに言われた。
 中学に上がり、姉のプレッシャーに押しつぶされそうになっていたときのことだ。
 彼に悩みを打ち明けたことはない。きっと理解されないし、自慢のように思れたら嫌だから、誰にも言ったことはなかった。
 だが彼は気づいてくれた。縛り付けられた期待という呪いが、そのときは剥がれ落ちたようだった。
 春野くんといるときは背伸びしない自分でいられた。みんなが求める富田雪乃ではなく普通の中学生に。
 好きという気持ちは中学の三年間でも変わらなかった。ずっと彼のことを見ていたし、彼だけを好きで居続けた。
 期待に応えなければいけないという重圧に耐えられたのは、彼という存在がいたからだと思う。
 今の富田雪乃ではなく『姉の妹』である私を好きになってくれたという安心感。それを持ってるのは彼だけだ。
 そんな彼が卒業式で「好き」と言ってくれた。すごく嬉しかった。今でも好きでいてくれたことが。同じ気持ちを持っていることが。
 でも私は断った。怖かったから。
 恋人になれば、彼の求めるものを探して私はそれになりきってしまう。友達だからこそ今の関係でいられるが、付き合えば同じではいられない。好きで居続けてほしいし、嫌われたくないという気持ちはもっと強くなる。そして嫉妬も出てくる。
 いずれそれが負担になり、彼を嫌いになってしまうかもしれない。
 初恋をくれた人。初めて私を好きになってくれた人。世界でたった一人だけの特別な人。そんな人を嫌いになりたくない。
 私は「ごめんさい」という言葉を残して、空知らぬ雪に包まれながら初恋を枯らせた。

 高校生になってからも変わらなかった。
 彼の気持ちも、期待される富田雪乃になろうとしてしまう自分も。
 一年でバスケ部のレギュラーをとり、勉強は学年で一番だった。
「雪乃ちゃんってすごいね」
「勉強も運動もできるし、おまけに可愛いし優しい」
「雪乃は何でもできるから」
「完璧じゃないと雪乃じゃないもんね」
 期待が降り積もるたび、悪意のない言葉に私は埋もれていった。
 この頃は両親に褒められても何も感じなくなっていた。
 テストで百点を取り「さすが雪乃だね」と母に言われる。
 バスケ部でレギュラーをとって「雪乃はすごいね」と父に言われる。
「うん」
 それ以外の言葉が返せなかった。
 小学生の頃に、あれだけ喜んでいた言葉が心からすり抜けていく。
 何のために期待に応えているのか、誰のために生きてるのか、自分でも分からなくなっていた。
 機械のように求められたものだけをこなす生き方は、喜びという感情を失わせる。
「歯磨きできてすごいね」
 こんなことを言われて喜ぶ大人はいない。なぜなら、できて当然だから。
「富田雪乃は何でもこなす」
 こんなことを言われても私は喜ばない。なぜなら、やるのが当然だから。
 一年生のとき、文化祭の出し物で演劇をすることになった。
 学級委員である私が中心となり、役割分担をすることになったのだが、脚本を書くことをみんなが嫌がって時間だけが進んでいった。
 そんなとき一人の生徒が、
「富田が書いてよ。この中で一番センスあるじゃん」
「そうだね。雪乃なら良いもの書いてくれそう」
 周りからも賛同する声が上がる。
 正直嫌だった。部活の練習や中間テスト、私は全部こなさないといけない。親や教師が求める生徒で居続けるために。
「分かった。じゃあ私が決めるね」
 気持ちとは裏腹に言葉を飾言していた。みんなが求める私でいるために。
 部活終わりに家で勉強し、そのあとに脚本を考えると、深夜二時を回っていた。
 朝練が七時からあるため、ほどんど眠れずに学校へ向かう。
 授業中に眠ることは許されない。教師が求める富田雪乃は居眠りなんかしないのだから。
 だが朝練もあり、疲れはとれない。
 一週間ほどこんな生活が続くと、クラスの笑い声に苛立ちを覚えるようになった。
 そして、助けを求められない自分にも腹が立った。
 無理に作る笑顔や、人付き合いが煩わしくなってくる。それでもみんが求める富田雪乃は弱音を吐かずに一人でこなす。
 そうでないとけない。
 何で?
 それが富田雪乃だから。
 勝手に決めないでよ。
 そうでないと『姉の妹』に戻るよ。
 お姉ちゃんはここにはいない。
 でもやるんでしょ?
 うん、やるよ
 自問自答しても、義務感で縛り付けられた孤独からは逃げることができなかった。

 昼休み、教室の喧騒を耳に入れたくなくて図書室で脚本を考えていた。
 新しく買ったノートは白紙のまま進んでおらず、視界に映る白が頭の中まで染めていくようだった。
「文化祭の脚本どう?」
 誰だろう? そう思い振り返ると蒼空くんだった。
「順調だよ」
 反射的に答えてしまう。富田雪乃なら簡単こなさないといけないから。
 蒼空くんはノートに視線を送っていた。まだ足跡すらない真っ白な紙を見れらた。
 私は反射的にノートを閉じる。何もできてないと思われたくないから。
「嫌じゃなかったら、俺にも協力させて。稚拙なものかもしれないけど、一応考えてきた」
 蒼空くんは私の前に座って、自分の案を話し始めた。
 私は彼の話す内容をノートにとり、二人で考えながら脚本を書いていった。
 二週間後、脚本は完成した。
 最後は私が部活に専念できるように、蒼空くんが脚本を仕上げてくれた。
「いいね」
 放課後の教室で私がそう言うと、蒼空くんは安心したようにホッと息を吐いた。
 内容は現代風ロミオとジュリエットと王道だが、それなりの出来にはなったと思う。
 もちろんプロと比べれば拙いかもしれないが、経験のない高校生二人で書いたものだと考えれば上出来だと感じた。
「富田」
 私が安堵していると、蒼空くんは真剣な顔つきでこちらを見てきた。
「人に優しいことは良いことだと思う。でも、自分のことを大事にできないと、いつかその優しさが自分を傷つける」
 グサリと心臓を刺すようだった。私はバレないように振る舞っていたが、彼は気づいていたのかもしれない。
 ここ最近は精神状態が顔に出ていた気もする。たぶん見られていたんだ。
 でもその言葉で少し荷が降りた。どこかで気づいてほしかったのかもしれない。
 蒼空とよく話すようになったのはこの頃からだった。

 二年生の六月、思わぬ再会があった。
 その日は部活が休みだったので、家の近くのバスケットコートで自主練しようと思い、早めに帰路に着いた。
 自宅の最寄り駅で降りたとき「富田」という声が背中にかけられる。
 振り返って声の主を見ると、胸が高鳴った。
 彼は駆け寄ってきて「久しぶり」と笑顔で言う。
 私も笑顔で「久しぶり、春野くん」と返す。
 春野くんは中学の頃より、少し大人びた顔つきになっていた。背も数センチくらい伸びた気がする。
 最初は気まずかった。私は彼の告白を断っていたから。
 だが帰路につく道中で、学校のことや部活の話をしていくと、徐々に会話は花を咲かせていった。気づいたらあの頃と同じように話している。
「この間の中間テストどうだった?」
 彼がそう聞くので「良かったよ」と答える。
「頑張ってるんだね」
 褒められても何も感じなくなっていたのに、見失っていた嬉しさが帰ってきた。
 特別な人の言葉は感情を与えてくれる。今まで降り積もっていたものが溶けていくようだった。
 あの頃と変わらず彼を好きだと思った。
 それから連絡を取り合うようになり、何度か遊びにも行った。
 そして十一月、一緒に映画を見に行った帰り道に「付き合ってほしい」と二度目の告白を受けた。
 その言葉を聞いて、心の底から歓喜した。
 だが、彼を嫌いになりたくなかった。今と同じ歩幅で歩き続けるには、求められる私を捨てないといけない。でもそんなことできるはずがない。何年間も苦しんだ『富田雪乃』という呪縛は、簡単には剥がれ落ちないのだから。
 恋人という特別な存在だからこそ、特別で居続ける必要がある。
 世界でたった一人の存在だから、それに相応しい自分にならないといけない。
 だけどそれを負担と感じるようになればきっと……
「返事はもう少し待ってほしい」
 すぐにでも好きと伝えたかったが、先のことを考えたら一歩踏み出せなかった。

「春野祐介って人がいるの。その人に告白されたんだけど……」
 蒼空にこのことを相談したが、なぜ想いを伝えられないかまでは言わなかった。いや、言えなかった。
 今まで自分の抱えているものを話したことがなかったから、どう言えばいいのかも分からない。
 それに理解してもらえないだろう。人によっては自慢のように聞こえてしまう。そう思ったら、本音を言うことができなかった。
 降り積もった想いは奥底で溶けないまま、今も残り続けている。