孤独は夜空で星を結ぶ

 制服に着替え、学校に行く準備をする。一日遅れの登校だ。
 母からは「もう大丈夫なの?」と聞かれ「大丈夫」と答えたが、正直、学校には行きたくはない。
 でもやらなければいけないことある。蒼空の未練を叶えるという人生最大のミッションだ。
 家を出てから学校に着くまでの間、昨日の夜の出来事を思い返していた。
――雪乃の恋を叶えてほしい
 最初は理解できなかった。富田雪乃は蒼空の好きな人で、なぜその人の恋を応援しているのか? 脳内でこんがらがる糸を解いていると、
「高校は違うんだけど雪乃には幼馴染がいて、その人のことが好きらしいんだ。相手も雪乃のことが好きで、告白もされてる」
 解決した。何もせずとも恋が実っている。私は何をすればいいのだろう?
「でも雪乃は、その返事を返せていない。本当は付き合いたいんだけど、あと一歩が踏み出せない。だから雪乃の背中を押してほしい」
 富田雪乃という完璧な存在に対し、教室の隅で息をする私では何の力にもならない。
「富田雪乃は何で付き合えないの?」
 容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群、聖人君主、あらゆる肩書きを持った人間がなぜ一歩踏み出せないのか? しかも相手は告白もしてきている。
「俺も理由は分からない。相談されていたけど、根本にあるものまでは言ってこなかった。きっとそこに踏み出せない理由があるんだと思う。雪乃は言いたいけど言えないって感じだったから、俺も無理には聞かなかった。それを千星にお願いしたい」
 蒼空は片思いの相手から恋の相談を受けていた。雑貨屋で言った「きっと叶わないから」はそう言う意味だったのか。
「あの日のことがあるから、他の人と話せないのは分かる。でも……やってほしい。千星にしか頼めない」
 正直自信はない。蒼空の言う通り、他の人とまともに話せない。あの出来事から他人と関わることが怖くなってしまった。
――うざい
 この言葉が今も耳に張り付いて離れない。だが、蒼空の命を間接的に奪ってしまった私が断るなんてもってのほかだ。もってのほかだか……
「私には無理だよ。背中を押すどころか、話すこともできないと思う。だって、五年もまともに話してないんだよ? 絶対出来っこない」
 こんな言い方よくないのに、つい感情が先走ってしまった。人と関わりたくないということに加え、蒼空の『好きな相手』という肩書きが理性を押し潰す。
「これからは自分で自分のことを支えないといけない。過去についた傷は、今という時間の中で向き合う必要がある。今の先に未来があるから。それに俺はもう……そばにいれない」
 蒼空は突き放すように言った。声に決意のようなものを感じる。
「分かってる。このままじゃいけないっていうのは。臆病な自分も大っ嫌いだし、変わりたいとも思ってる。だけどもう傷を作りたくない。あの日みたいなことはもう嫌なの。逃げるのはダメなこと? なんで辛くなると分かってるのに、自分から足を踏み入れないといけないの」
 自分のバカ。何でこんな言い方するんだよ。蒼空はずっと私の味方でいてくれたのに、当たり散らすなよ。
「千星」
 蒼空は真っ直ぐな目で私を見てきた。
「過去から目を背けることはダメじゃない。でも、人はいつか変わらないといけない。あの日の出来事は、簡単に払拭できるものではないけど、自分自身と向き合う日は必ず来る。そのときに逃げたら、一生自分を好きになれないよ」
 あの日にできた傷が痛みを帯びる。
 自分でも分かっている。でも怖くて逃げ続けた。
 日常の中で孤独という傷を作っては、蒼空という居場所で傷を癒やした。
 でも今は自分で傷を治さなければいけない。過去に背を向けてきたぶん、たった一歩進むことも、ものすごく大きく感じるようになった。忘れられない言葉が足枷となり、呪いのように纏わりつく。それを祓うのは……
「難しいことだけど、やってほしい」
 蒼空は先ほどどは変わって、優しい目で私に投げかけた。
「勇気って、前を向こうとした人だけが掴めるものだよ」
 これから進む険しい冒険のための、地図を渡されたようだった。人生という道で迷ったとき、過去に縛られて自分を見失ったとき、そんな場面で道しるべになるような言葉だった。
「でも、他人との向き合い方が分からない」
 五年間、人を避けてきた私にとって、他人とは未知の生物だ。ただ話すだけでも、そこら辺のRPGより難しい。
「人と人との間には見えないフィルターがある。権威や権力などの立ち場的なものだったり、自分がその人を好きか嫌いかの好み、過去から来るトラウマ的なもの。千星はあの日の出来事で人の見かたが変わり、それがフィルターになった。だから自分の中の認識を変えないといけない。今必要なのは、人に触れて考え方の幅を持たせることだと思う。だから富田雪乃という人間を知ろうとしてほしい。学べることがたくさんあるから。それに、ずっと苦しんできた千星なら、誰よりも人に寄り添うことができる」
 拠り所を求めていた私が、誰かの拠り所にならないといけない。しかも好きな人が好きな人の。
 それは辛いことではあったが、蒼空のためならやるしかないと思った。あのとき私が逃げ出さなければ、蒼空は今も……
「分かった。でもできるかな? 私に」
 自信がないから、もう一つ言葉が欲しかった。躊躇したとき、前に進むための言葉が。
「できるよ。千星なら」
 蒼空はなんの迷いもなく答えた。シンプルな言葉だが、好きな人に言われると『私ならやれる』と思えてしまう。
 私は目を瞑り、大きく息を吸う。そして吸った以上の息を吐いてから蒼空を真っ直ぐと見つめた。
「やってみる。自分のためにも」
「ありがとう」
 いつものように優しく笑ってくれた。
 すべてを受け止めてくれるようなその笑顔は、私の支えとなっていた。
 だけどもう蒼空に助けは求められない。自分で自分を支えないといけない。未来に道をつくるために過去を払拭する。たとえ過去の傷に痛みを帯びても背中は向けない。
 それは自分のためでもあったが、一番は蒼空に笑ってほしかったからだ。
「もう一つの未練は?」
「一気に言ったら負担になるから、まずは雪乃の背中を押してほしい。それが叶えられたら、二つ目を話す」
「分かった」
 富田雪乃のことが好きなのかも聞こうとしたが、やっぱりやめた。
 今までと同じ距離で四週間を終えたい。その名前を蒼空の口から聞けば取り繕ってしまいそうだった。
 余った時間で軽い雑談といつもの冗談を言い合い合ってると、時間になる一分前に結衣さんが来て、目の前でカウントを始めた。
 あとで聞いたら、「本当はそんなことしないけど、お別れのキスとかされたらムカつくから見張ってた」らしい。
 次はしないでとお願いすると、不貞腐れながら「分かった」と呟いた。
 最後に蒼空とした「またね」が嬉しかった。
 家の前でするいつもの感じが懐かしかったし、また会えるんだと分かったことで安心できたから。次に会えるのは一週間後だ。

 列車に乗ると、結衣さんは運転席に行かず私の隣に座った。指を鳴らすとドアは閉まり、列車も動き出した。
「運転は?」
 懐中時計を返したあとに、そう聞いた。
「自動で動く」
「来たときは?」
「この人こんな綺麗なのに運転もできてすごい! ってなるじゃん。だから、運転してる風を醸し出した」
 別に思わない。
「あっ、眩しくなるから目瞑ってな」
 結衣さんがそう言うと、強い光が窓から差し込んできて列車内を覆い尽くす。
 私は両手で目を覆い、光を遮断した。
「もういいよ」
 その声でゆっくりと目を開くと、窓の外には星空が映っていた。
「それでどうだった? 久しぶりにあった感想は」
 光のせいで目がシュパシュパしたので、何度か瞬きを繰り返したあと答えた。
「嬉しかったです。ずっと会いたかったから。理想を言えば毎日会いたい」
 結衣さんは「そうだね」と小さく零したあと、話を続けた。
「四回しか会えないのは私が決めたの。死んだ人を思い続ければ、現世の人間は縛られ続ける。そしたら新たに未練を作ることになるでしょ? だから回数も決めて、会える時間も制限した。人って余裕があると先延ばしにして、言いたいことを言えなくなる。でも決められていれば、何を伝えるか、何を言わなければいけないのか、本当に大事なことだけ選択できる。一週間空くのは、考える時間でもあるの。一時間しか会えないのも同じ理由」
私はずっと先延ばしにしてきた。言いたいことを言えないまま。
「蒼空くんからルールは聞いた?」
「はい」
「とりあえず、もう一回言うわ」
 結衣さんはルールの説明を始めた。さっき蒼空が言っていたことと一緒だが、一つだけ気になっていたことがある。
「何で会えるのは私だけなんですか?」
「たまにね、期限を過ぎても会えると思い込んで、ずっと列車を待っている人がいるの。だから一人だけにした。未練を叶えるために呼んだのに、その人が未練を作ってたら意味ないでしょ? そういう場合は流星の駅での記憶を消すの。胸糞悪いからやりたくないんだけど、それしかない」
「記憶を消せるんですか?」
「できるよ。でも流星の駅に関する記憶だけ。だから四週間後には会えなくなるっていうのは覚悟しといてね。私との記憶が消えるのは嫌でしょ?」
 普通、蒼空の方だろ。
「他の人にこのことを言っても記憶を消す。さらに言えば、喋ったことを後悔するくらいの苦痛を与えるから、気をつけてね」
 気をつけてねの『ね』の後ろにハートマークが付いていた。語尾と言ってることの内容に整合性がない。
「はい。おっしゃる通りにします」
 怖いから、丁寧に約束した。
「本当にかわいいね、千星ちゃんは」と、髪の毛をクシャクシャにされながら頭を撫でられた。
 さんざん掻き回したあと、結衣さんは真剣な顔つきになる。
「伝えたいことがあるなら、ちゃんと伝えないとダメだよ。未練は呪いにもなるけど、成長の種でもあるから」
 意味は分からなかったが、とりあえず頷いた。
 岬公園に着き、「じゃあ来週の今日、また同じ時間にくるから」と言って、結衣さんは空に帰っていった。
 家に着いても眠れず、星を見ながら今日を迎えた。
 そして今、憂鬱な気持ちで学校に向かっている。
 こっちの世界に蒼空はいない。今の私は結び目が解かれた状況だ。
 そのうえ、富田雪乃の恋も応援しないといけない。
 
 校門に足を踏み入れたとき変な緊張があった。入学初日みたいなソワソワとした胸騒ぎに近い。
 あのときは隣に蒼空がいたが今日は一人だ。
 二年近く通った学校が、まるで初めて来る場所に思える。
 それほど奥村蒼空という人物が自分の世界で色を作っていたということだ。
 教室に入ると、いつもより少し重たい空気が漂っていた。それは現実世界で蒼空が亡くなったことを実感させる。
 蒼空は学年の中心にいて、みんなから慕われていたように思う。そんな人が急に足跡を消せば消失感は否めない。桜の咲かない春を迎えたようだった。
 いつもなら教室の中央は人が賑わってる。蒼空の席を囲むように笑い合っていた場所も今は空虚が佇む。
 廊下側に富田雪乃の姿も見えた。その背中に哀愁を感じる。
 周りに人が集まっているが、自分の居場所を探して来ているというより、ぽっかり空いた穴を埋めるために、富田雪乃のそばに来たと見受けられる。
 蒼空は自分だけではなく、他の人にとっても大きな存在だったことがこの教室から感じとれた。
 この空気に押しつぶされそうだったが、私には富田雪乃の恋を叶えるという約束がある。今はそれに集中しよう。
 まずはどう話しかけるかを考えないといけない。最初の壁からものすごく高いが、それを越えないと先には進めない。

 今日一日、富田雪乃を観察することにした。まずは人となりを知らなければいけない。
 とりあえず彼女のことで私が知っている情報をまとめてみた。
 成績は学年トップであり、バスケ部のキャプテン。蒼空と同じく学年の中心にいて慕われている。教師や同級生、先輩後輩からも信頼は厚い。周りの生徒が聖母と呼んでおり、性格は優しく明るいらしい。学級委員長を務めていて悔しいが美人。良い匂いがする。よく笑っているところを見る。モテる。
 完璧すぎて心が折れた。領域展開ができ、写輪眼を開眼させ、念系統をすべて完璧に習得し、四十ヤードを四秒二で走り、亀有公園前の派出所に勤務しているようなものだ。私はこんな怪物と競い合っていたと思うと、鳥肌が背伸びする。
 一限目の英語では彼女は完璧な発音で英語を話していた。
 二限目の体育では二位の人に一周差をつけて校庭五周をゴール。
 三限目は指数関数と対数関数を教科書よりも上手く説明。
 四限目は自らの解釈を添えて古典を解説していた。
 大人が理想とする高校生とはこういうことだろう。勉強ができて、運動もこなす。教科書通りの優秀な生徒だ。
 私が担任の教師なら自慢したくなる。でも同い歳となれば別だ。富田雪乃が空を優雅に飛ぶ美しい白鳥だとすれば、私は地下で走り回るドブネズミのようなものだ。
 ここまで格差があると嫉妬すら烏滸がましい。もう別の世界の生物に見えてきた。出身はたぶん暗黒大陸だろう。
 こんな人が一歩進めない恋なんてあるのだろうか? 蒼空の言っていた根本にあるものって何なんだろう? 表面からは奥にあるものまでは見えない。やっぱりちゃんと話してみないと分からない。

 昼休みになり、教室で弁当箱を開けた。
 いつもならここでは絶対に昼食をとらないが、富田雪乃が同じクラスの女子二人と近くの席で食べていたため、耳をそばだてながら、ぼっちめしをすることにした。
「今度和也くんとデートすることになったんだけどさ、どんな服がいいと思う?」
 コンビニで買ったであろうサンドイッチを頬張りながら、ひとりの子が言った。
「マジ! そこまでこぎつけたんだ」
 もうひとりの子が言う。
「ちょー頑張った」
 蒼空が亡くなったのにデートに浮かれやがって、と怒りが沸いたが、今は自分の感情を人に押し付けるのはやめよう。富田雪乃に集中すべきだ。
「裕子は甘めのコーデが多いから、そこにストリート要素を入れて、今っぽいカジュアルにすると良いんじゃないかな」
「なるほど、カジュアルっぽくか」
「たとえば、上下はモノトーンにして、スニーカーはソフトピンクのニュアンシーなカラーとかにすると、大人っぽさも出せると思う」
 富田雪乃はファッションも押さえているのか。
「香水も変えようかと思ってるんだけどさ、何がいいと思う?」
「いつもと同じで良いんじゃない。街角でその香水の匂いがすると、その人を思い出すんだって。それをプルースト効果って言うみたい。今の匂いを嫌がってないんだったら、覚えてもらうって意味でも、同じでいいと思う」
 そうだったのか。それを早く知っていれば、蒼空と会うときはファブリーズを振り撒いたのに。そうすれば部屋にいても私を思い出す。
「雪乃ってなんでも知ってるから本当に頼りになる。友達にいてくれて助かるわ」
「それな。私も恋愛のことは雪乃に頼りっぱなしだもん」
 富田雪乃は恋愛上手でもあるのか。でも自分の恋は叶えられてない。相手からは告白もされていて、二つ返事で返せばいいだけ。相手側に何か不安要素があるということなのか。
「てかさ、なんで雪乃は彼氏作らないの? 秒で作れるっしょ」
「私もそれ思ってた。こんな可愛いのにもったいなよね」
 ナイス。今、私が聞きたいのはそれだ。
「部活のこともあるし、今は恋愛って気分じゃないかな」
 相手がどうこうじゃなく部活が理由か。キャプテンの責任もあるのかもしれない。でもそれなら、蒼空にそう言えばいい。
 踏み出せない理由があり、それを言いたいけど言えなかった。きっとこれは本音じゃない。
「雪乃も恋したほうがいいよ。青春の半分は恋愛だから。マジ損してる」
「部活だけだと味気ないよね。女子高生って恋してなんぼだもんね」
 なんだろう、この二人なんか苦手だ。理由は説明できないが、なんか苦手だ。鼻の中にスイカをぶち込んでやりたい。そこでスイカ割りをしたい。スイカパーティーを開催して、夜通しスイカを鼻にぶち込んでいたい。
「……そうだね。恋愛も大事だよね」
 富田雪乃は笑ってはいるが、どこか悲しさを帯びた目が印象に残る。心の奥に閉まった何かが、一瞬だけ表に現れたように見えた。

 放課後、体育館に来ていた。
 女バスの顧問にお願いして、部活の見学をすることにしたからだ。
 顧問には「プロリーグを見て興味を持ったので」と言って頼んだ。
 私は邪魔にならないよう、体育館の隅で富田雪乃を観察する。
 女バスは県大会でも上位に入る強豪だった。
 去年の夏の大会では、もう少しで全国に手が届きそうだったが、惜しくも敗退してしまったらしい。
 そして今は富田雪乃がキャプテンを務める。
 私はバスケのことはまったく分からないが、彼女が上手いのだけは分かった。ドリブル、シュート、パス、どれをとっても周りと違う。
 何が違うかは分からないが何かが違う。とりあえず、何かが違うことだけが分かるほど何かが違った。
 率先して声掛けをし、後輩の指導も卒なくこなす。みんなが富田雪乃を頼りにしているのが空気感で伝わってくる。
 こちらが吐き気を催すほどの練習が続いてるのにも関わらず、彼女は苦しそうな顔を一切見せない。みんな膝に手をついて肩で息をしているのに、一人だけ声を出して鼓舞している。
 監督が一年生に厳しい言葉を投げかけたら、すぐさまその子のもとに行き激励する。漫画に出てくる理想のキャプテンそのものだった。
 休憩が入り、なぜか私がホッとする。息をするのも忘れるくらいの練習内容で、こちらまで体に力が入っていた。
 ひと息つくと、「藤沢さん」と声をかけられた。
 前を見ると、ポニーテールを揺らしながら富田雪乃がこちらに向かって来る。再び体に力が入った。
 何を話そうかと頭の中で話題になるものを探した。だが『ブラジルの首都はサンパウロではなくブラジリア』ということしか出てこない。
 ブラジリア一本で勝負するのは無謀だ。これでは関ヶ原の戦いをマカロニ一本で戦うようなものではないか。
 困惑している私をよそに、富田雪乃が隣に座った。
「バスケ興味あるの?」
 なんでもない質問なのに、職質されてるような気分だ。
「テレビで見て」
 目を伏せながら答えた。
「そうなんだ。もし何か聞きたいことがあったら言ってね。ルールが分からないと、見ててつまらないと思うから」
「うん」
 これだけ厳しい練習の最中、他人のことに目を向けれるのはすごいと思った。
『お前邪魔なんだよ、小指の第二関節折られたくなかったら、はよ出て行かんかい。いてこますぞ』と言われたらどうしようかと考えてたが、彼女はそんなこと一切思っていなかったらしい。格の差を見せつけられた。
「藤沢さん、最後まで見て行く?」
「一応……」
「じゃあさ、終わったら一緒に帰らない?」
 びっくりして相手の顔を二度見してしまった。その反応が面白かったのか、富田雪乃は笑みを浮かべている。恥ずかしくなり、再び目を伏せた。
「私ね、藤沢さんと話してみたかったの」
 また二度見しそうになったがなんとか堪えた。
 でもなんで私と話したいのだろう。理由が思いつかない。
「雪乃先輩、ポストプレイのことで聞きたいことがあって」
 タオルで汗を拭いながら、一年生がやってきた。
 富田雪乃は立ち上がり、私に視線を送る。
「もし一緒に帰ってくれるなら昇降口で待ってて」
 そう言って、後輩とコートに戻っていった。
 私と話してみたいと思ってる人がいることに驚いた。学校では蒼空以外の人をずっと避けてきたし、話しかけらても、一言、二言で会話を終わらせていた。だから一年生の夏前には、蒼空以外に話してかけてくる人はいなくなった。
 一体何を話したいんだろう? なんで私なんかに興味を持ったのだろう? 何度も考えたが分からなかった。でもこれで彼女との接点が生まれる。とりあえず第一関門は突破だ。
 私は富田雪乃と何を話そうかと考えながら、彼女の観察を続けた。

 練習が終わり、顧問に挨拶したあと体育館を出た。
 富田雪乃に声をかけようと思ったが、後輩に囲まれていたため、何も言わずに昇降口で待つことにした。
 待っている間、ソワソワして歩き回った。結局何を話していいか分からないままだ。
 他の人は何を話しているんだろう? 蒼空とはどんな話をしていたんだろう? 考えれば考えるほど緊張して頭が回らなくなる。
 好きな人のことを聞きたいが、いきなりそんな話をするわけにもいかない。マッチングアプリで会う人は毎回こんな苦境に立たされているのだろうか。
 私からしたら出会い系アプリではなく修行系アプリだ。初めて会う人間と話すことなんてない。
 なさすぎて「最後にレーズンを食べたのはいつですか?」とか聞いちゃいそうだ。いや、そんなことはどうでもいい。とりあえずバスケの話は聞いておこう。好きな選手を聞いても分からないから、好きなドリブルを聞こう。いや、好きなドリブルって何だ。食べ物みたいに言うな。そうだ、好きな食べ物を聞こう。よし、一個増えたぞ。
「藤沢さんごめん。待たせちゃったね」
 制服姿の富田雪乃が駆け足でやってきた。私はまだ心の準備ができていない。
「じゃあ帰ろうか」
「うん……」と聞こえるか、聞こえないかぐらいの声をこぼして、私たちは校舎を出た。

 沈黙が降り積もる。
 学校を出てから五分、会話が途切れた。
 最初は富田雪乃がリードしてくれていた。「寒いよね」「バスケ見ててどうだった?」「休みの日は何してるの?」「進路ってもう決めてる?」など聞いてくれたが、私は「うん」「面白かった」「特に何も」「まだ決めてない」と、進行を遮断するような返答しかできず、会話は冬を迎えていた。
 蒼空といるときは何も考えずに話すことができた。それは受け入れらているという絶対的な信頼があったから。
 私がどういう人間かを知っていたし、蒼空がどういう人かも分かっていた。だから意味のないことも言えたし、沈黙だって怖くなかった。
――うざい
 あの一言が他人との会話のブレーキになる。もしまた同じように思われたら……そう考えると無意識に会話を途切れさせてしまう。
 もう五年も経つのに、未だに過去が手を離してくれない。多くの人はそんなこと忘れたらいいのにと言うだろう。私もそう思う。
 でも一度ついた恐怖心は中々拭うことはできない。蒼空もそれを理解してくれていた。
 だけど、このままではダメだということも言っていた。自分でも分かってる。分かってるけど、その一歩が踏み出せない。
 臆病すぎて自分で自分を嫌悪する。
「蒼空がね、よく藤沢さんの話をしてたの」
 沈黙に足跡をつけるように、富田雪乃が言葉を発した。
「二人で話してるときも、必ずと言っていいほど藤沢さんの名前が出てくる。だからどんな人なんだろうって思ってた」
「蒼空は私のことなんて言ってたの?」
 シンプルに気になる。
「藤沢さんがどんな本を読んで、どんな音楽を聞いてるのか。あとは……昨日はこういう会話をしたとか、ツンデレをしたいけど下手なこととか」
 最後のは余計だ。でも他人との会話で私の名前を出してたのは初めて知った。
「色々聞いてるうちに、私と似てるのかもって思った」
 全然似てない。むしろ正反対だ。鎧を身につけたおじいちゃんと、おじいちゃんを身につけた鎧くらい違う。
「だから藤沢さんとなら、話せそうだなって」
 富田雪乃は夜空を眺めながら白い息を吐いた。どこか憂いた目をしながら。
「私との共通点は人間ていうところだけで、あとは比較にもならない。みんなから慕われてないし、勉強も普通だし、運動もたいしてできないし、優しさなんて一ミリも持ちあわせてないし、誰かの相談なんて乗れないし、綺麗でもない。私なんて道端のごみと同じようなものだから」
 自分で言って悲しくなった。ここまで卑下する必要はない。でも相手が富田雪乃なら実際の私はこれくらいの存在だ。
「全部作り物だよ。私はそんな自分が嫌い」
 吐き捨てるように言った言葉にどんな意味があるかは分からなかったが、その言葉に富田雪乃という人間の本心が隠れているような気がした。蒼空も開けなかった扉の鍵がそこにある。なんだかそう感じた。
「なんてね。そうだ、この間ね……」
 誤魔化すように笑ってバスケ部の話を始めた。
 何かを取り繕うように饒舌になる彼女は、自分で吐き捨てた言葉を、自分の言葉で埋めているようだった。

 富田雪乃の家とは反対方向だったので、私たちは駅のホームで別れた。
「また明日ね」と笑顔で手を振る彼女に、私も小さく手を振る。
 今日は少しだけ進展した気がする。まったく接点のないところから、一緒に帰るというところまで近づけた。でもほとんど話せなかった。
 好きな人のことを聞き出さなくてはいけないのに、このペースでは一生聞き出せない。
 蒼空との約束には期限がある。その間に必ず叶えたい。そのためにはもう少し関係を築かなければ。
 でも他人と深く関わるには、過去と向き合わないといけない。新しい傷を作らないように生きてきた私にとって、逃げることは自分を守るためでもあった。
 ただでさえ過去の傷が残ってるのに、これ以上傷を増やしても苦しくなるだけだ。なら痛みを伴いながら進むより、立ち止まって過去の傷を眺めながら生きるほうが楽。
 いつからかそう思っていたのかもしれない。
 変わらなきゃいけないときは必ず来る。
 それは自分でも分かっていた。きっと蒼空も。だから私を選んだのかもしれない。新しく世界との結び目を作るために。
――勇気って、前を向こうとした人だけが掴めるものだよ。
 蒼空の言葉が頭をよぎる。
 ずっと過去に背中を見せてきた。振り向くときが来たのかもしれない。
 明日、自分から声をかけてみよう。ほんの少しでも前を向けるように。
「あれ、めっちゃ面白いよね」
 登校中、生徒たちの会話を盗み聞きしていた。
 会話をするためには種となるものが必要となる。そのためには最近の女子高生事情を知らなければならない。
 前を歩いている二人組はYouTuberの話をしていた。
 ビン&ボンという二人組のコンビで、ビンがプラモデルを作り、ボンが隣で皿回しをする動画らしい。
 それ面白いか? とも思ったが、今をときめく女子高生が面白いというのだから、きっと面白いのだろう。あとでチェックしよう。
 校門をくぐると、富田雪乃の後ろ姿が見えた。
 打ち上げられた魚のごとく心臓が跳ねる。
 とりあえず落ち着け、藤沢千星。まずは挨拶だ。ただ「おはよう」というだけ。難しいことじゃない。お前ならできる。
 一番の難関は挨拶してからの会話だ。だが今の私にはビン&ボンがいる。この二人のことは知らないが、きっと女子高生の間では有名なんだろう。
 だいたいの女子高生は同じものを見ているはずだ。女子高生は周りとの接点を作るために共有と共感を使って仲間意識を高める。そして縄張りを張り、自らの力を誇示する。と、なんかの図鑑で読んだ記憶がある。
 群れに向かうのはリスクが高いが、富田雪乃は一人で歩いている。今なら狩れる。
 私は彼女の背後に駆け寄り、渾身の挨拶をかます。
「お、お、おはよう」
 二度噛んだ。MPを半分以上消費した「おはよう」は、コミュ障全開の挨拶となった。
「藤沢さん。おはよう」
 振り向いた彼女は、笑顔で答えてくれた。出来損ないの挨拶だったが、なんとか一面をクリアした。
「今日は一段と寒いね」
 おはようを言えた余韻に浸っている間に、もう次のステージに進んだ。上手く会話を繋げなければ。
「寒いね……とても寒いね」
 下手くそ。二回も言わなくていい。しかも寒いを修飾して強調までしてしまった。冬に弱い女だと思われる。
「うん、とても寒いね」
 優しく笑ってくれた。私のコミュ障っぷりを受け入れてくれたようで、ちょっと嬉しかった。
 蒼空もそうだが、みんなから慕われる人間は許容という能力が高いのかもしれない。
「寒いとお鍋食べたくなるよね」
 富田雪乃が言った。
 なるほど。寒いというワードに関連した鍋の話題に持っていくのか。勉強になる。私のコミュ力が2上がった。
「そうだね……」
 鍋に関連するものを必死に探した。脳内を駆け回り記憶の引き出しを漁る。そして導きだした返答が……
「ビン&ボンって知ってる?」
 テンパってビン&ボンを出してしまった。これでは自分の話をしたいだけの自己中な人間に見られてしまう。
「知らない。お鍋の種類?」
 知られてないのかよビン&ボン、もっと頑張れ。
「あ、いや、なんか、流行ってるのかなって」 
「どんなやつ?」
 主語を忘れた。会話がこんがらがっていく。まず落ち着こう。上手い具合に鍋の話題に戻すんだ。
「YouTuberみたいなんだけど、さっき話してる人がいて、それでなんか面白いのかなって」
「そうなんだ。今度見てみる」
 ビン&ボンの視聴回数を伸ばした。でも私の好感度はたぶん落ちた。
「好きな鍋の具ってある?」
 強引だが、鍋の話に戻す。
「そうだな……お豆腐かな」
「美味しいよね、お豆腐……とても美味しいよね」
 だからそれやめろ。二回繰り返すな。何度同じ過ちを繰り返すんだ。この短い間で何度事故ったのだろう。会話の保険があれば入りたい。
「ふふ。美味しい、とても美味しい」
 めっちゃ恥ずい。普通に話すってこんなに難しいのか。
 蒼空とは何も考えずに話せてたのに、今は針の穴に糸を通すような感覚だ。
 的確な言葉で返したい。面白くなくてもいいから、まとまなラリーがしたい。
 心が折れかけながら教室にたどり着いた。この短い距離の間に私のHPとMPは底をつきかけていた。
「一限目体育だから頑張ろうね」
 そう言って、富田雪乃は自分の席に着いた。
 ため息まじりに私も自分の席に着く。もしかしたら、うざいと思われたかもしれない。
 そう考えると話しかけるのが怖くなる。
 当たり前のことができない不甲斐なさに、ますます自分が嫌いになっていく。

 一限目の体育はバスケだった。私は朝に起きた『富田雪乃会話事変』で負った傷で心が荒んでいたが、「やったね、同じチームだ」と、富田雪乃に笑顔で言われたことで、なんとか心を立て直すことができた。
 正直、引かれたと思っていた。でも何もなかったように振る舞ってくれた彼女に安堵した。
 これも全部ビン&ボンのせいだ。さっき調べたら、登録者数三百五人だった。正確に言えば一人増えて三百六だ。私が増やしといた。
 球技は得意ではないので、試合が始まったらなるべく邪魔にならないようにボールが来ない場所に行く。
パスがくれば近くの人に渡して、無難に十分を過ごす。これが鉄則だったが、富田雪乃は私にパスを出してくる。
 嫌がらせかと思ったが、満遍なく同じチームの人にパスを出していた。
 今まで存在を消しながら球技を行っていた私は、今日はチームの一員になっている。ここらへんの気遣いをできるのが富田雪乃なのだろう。
 試合は接戦だった。だんだんと周りが熱くなって来たので、迷惑かけないようにボールから逃げていると、たまたまゴール下でフリーになってしまった。そこにすかさず富田雪乃のパスが来る。
「千星、シュート」
 そう言われたので適当にシュートを放つと、「スパッ」と音をたててゴールに吸い込まれた。それと同時にブザーが鳴り、私たちのチームが勝った。
「ナイッシュー」と言われ、富田雪乃とハイタッチする。
「藤沢さん、ナイス」と他のチームメイトにも言われ、気持ちが高ぶるようだった。髪の毛を赤くして全国制覇を目指そうかと思った。
 私たちのチームは休憩に入り、体育館の隅で他のチームの試合を見る。
「雪乃って本当に完璧だよね。運動も勉強もできるとかマジ羨ましい」
 隣に座る同じチームの子たちの会話が耳に入ったので、そちらに意識を傾けた。
「欠点ないよね。全部百点だもん」
「それが雪乃だよ。ダメな部分があったら雪乃じゃないもん」
「確かに、それは雪乃じゃない」
 笑いながら話している三人とは裏腹に、富田雪乃はどこか哀しげに苦笑いをしていた。
 別に貶されている訳でもない。むしろ褒められて嬉しいはずだ。
 なのに贈られた花束を厭うように、言葉に背を向けているみたいだった。
 体育が終わり渡り廊下を歩いていると、後ろから「藤沢さん」と富田雪乃に声をかけられた。
「さっきはごめん」
 何かされたのか私? と疑問に思っていると、
「下の名前を呼び捨てで呼んじゃったから」
 あー、私が後世に語り継がれるであろう、伝説の決勝ゴールを決めたときだ。
 あの時は高揚感で気にしていなかったが、そういえば下の名前で呼ばれた。
「別に気にしてない」
「良かった。バスケで熱くなると、つい呼んじゃうんだよね。嫌だったどうしようって思って」
「……嫌ではない」
「じゃあさ、下の名前で呼んでもいい?」
「うん」
「私のことも、雪乃でいいよ」
「わ、分かった」
 なんか青春ぽい。下の名前で呼ぶのは、私の家族と蒼空の家族だけだ。今は学校で名前を呼ばれることもなくなった。
「雪乃」
 他の生徒が後ろからやってきて、とみ……雪乃に抱きついた。そしてそのまま教室に向かっていく。
 取り残されたような感じになったが、なんとなく一歩進んだ気がした。

 昼休み、雪乃に声をかけ一緒にご飯を食べようとしたが、他の生徒に先を越された。
 昨日と同様、近くの席で昼食をとっていたため、ぼっちめしついでに情報を収集することにした。
 ちなみに今日は昨日と違うメンツだ。友達が多いと、人付き合いが大変そうだなと思った。
「雪乃、今度勉強教えて」
「いいよ」
「じゃあ私にはお菓子作り教えて」
 もうひとりの子が言った。
「お菓子?」
「来月バレンタインがあるでしょ? 手作りで渡そうかなって。雪乃器用だからそういうのも得意そうだし」
「雪乃なんでもこなすから、お菓子作りくらい余裕でしょ。ね?」
「……うん、今度一緒に作ろう」
「ありがとう、マジ神。本当に雪乃って優しいよね」
「人の悪口とかも言わないもんね」
「雪乃は聖母だから。人のこと悪く思わないし言わないの。私たちとは違う」
「一緒にしないでよ」
 二人は冗談を言い合い、笑い合っている。本人は体育館のときと同様、何も言わず苦笑いをしていた。
 褒められすぎるとあんまり嬉しくないのだろうか? 私なら嬉しすぎてタップダンスを踊ってる。
 そのあとも何気ない会話が続き、昼休みは終わった。
 私はスマホのメモに『お菓子作りもできる』と記入し、雪乃の情報をアップデートした。

 放課後、下駄箱で靴を履き替えながら、このあとの予定を考えていた。
 今日もバスケ部を見に行こうか迷ったが、二日連続で行くの邪魔になりそうなのでやめた。
 その代わり本屋によることにした。お菓子作りの本を買い、少しでも話せるように準備をしようと思ったからだ。
「千星」
 下の名前で呼ばれたため、驚いて肩がビクッとなった。私を下の名前を呼ぶのは一人しかいない。振り返ると、思った通り雪乃だった。
「一緒に帰らない?」
「部活は?」
「今日は休み、だから家の近くのバスケットコートで自主練する」
「そうなんだ……じゃあ一緒に帰りましょう」
 語尾にコミュ障が顔を出した。緊張して敬語になる。育ち盛りのお嬢様みたいな話し方だ。いや、育ち盛りのお嬢様って何だ。心の中までコミュ障が伝染する。
「帰りましょう」
 寛容な笑顔で迎え入れてくれた。でも疑問が残る。なんで私に話しかけるのだろう。ましてや昨日も今朝もろくに話すことができていない私に対し、一緒に帰ろうと誘うのだろうか……
 はっ! もしや美人局。このあと男の人が出てきて私を連れ去り、マグロ漁船に乗せて一緒にUNOをやるのかもしれない。それで私にだけdraw4を使って嵌めようとしている。そして笑い物にする算段だ。お、恐ろしい女だ。
 靴を履き替えた彼女は「じゃあ行こう」と言って、校舎を出た。私はUNOの戦略を考えながら後ろを付いて行った。
 駅までの道中、雪乃は好きな映画の話をしてくれた。私はそれをただ聞いていた。
 たぶんだが、私のコミュ障具合を把握して会話をリードしてくれてるのだと思う。一つの物事を話し終えるたびに一旦間を置き、私が一言、二言で返すとまた喋ってくれた。
 私的にはだいぶ助かったが、もう少し会話を広げる努力をせねばならない。家に帰ったら映画も見よう。次は私も話せるようにならなければ。
 駅のホームに着く。彼女は反対ホームだからここでお別れだ。
「また明日ね」と言おうとしたとき、
「そうだ、一緒にバスケしようよ。見てるだけよりやってみる方が楽しいよ」そう言われ、小さく頷く。
 電車が来ていたので反対ホームまで走った。
 発車メロディが鳴り終わる寸前で乗車し、空いている席に腰を下ろす。
 雪乃の自宅はニ駅先らしい。結構近い。
「見てママ、すごい高く飛べる」
 車両の中央で子供が騒ぎ始めた。靴のまま座席に上がりジャンプしている。
 隣に座る母親はスマホを見ていて、一向に注意しない。
 最初は我慢していたが、だんだんムカついてきた。
 母親のスマホに味噌を塗りたい。そのまま気づかずにポケットに入れて、ズボンが味噌まみれになってしまえばいい。そのズボンを洗濯機で回してしまい、洗濯機の中が味噌汁になればいい。その味噌汁を朝食に出して、姑から「⚪︎⚪︎さん、今日の味噌汁フローラルすぎない?」と言われて怒られればいい。
 子供も子供だ。人が座る場所に土足で上がるな。その座席を作った人の気持ちを考えろ。上司には怒鳴られ、娘には「お父さんと洗濯もの一緒にしないで」と言われながら、それでも乗客に喜んでほしくて懸命に作った座席だ。電車の座席に込められた想いを感じ取れ。テストに出るぞ。
 心の中で憤怒していると、「元気がいいね」と雪乃が子供を見ながら言った。
 私は「そうだね」と返す。
 本当はそんなこと思っていないが、本音というのはそう簡単に口には出せない。
――味噌まみれになればいいのにね。
――え? その思考キモい。お前の鼻の穴にスイカぶち込みたいんだけど。
 たぶんこうなり、そして引かれる。だから本音は心の隅に押し込んだ。
 電車を降りたあと、ボールを取りに行くため雪乃の家に寄った。
 建売住宅が並ぶ一角の一番奥に雪乃の家はあった。二階建てで比較的新しいように見える。
 私は玄関前で待っていた。「寒いから、中に入って」と言われたが、親と遭遇する可能性があるため断った。他人の親は未知数で怖い。
「お待たせ」
 雪乃は家に入ってから五分経たらずで出てきた。ボールを持ち、ジャージに着替えている。

 今日は一段と寒く、公園にはほとんど人がいなかった。バスケットコートも誰も使用していなかったため、すんなりと使えた。
 普段は小学生が使っているみたいなのだが、雪乃も混ざって一緒にやるらしく、人がいてもいなくても関係ないらしい。私としては誰もいなくて助かった。
 まずはシュートを教えてもらった。ダッフルコートを着てやっていたが、だんだん暑くなってきたため、脱いで制服になった。
 雪乃は教え方が上手い。感覚的ではなく具体的に指摘してくれるため、とても分かりやすかった。しかも丁寧で優しい。後輩が頼るのも頷ける。
 最初はスリーポイントラインからシュートを放ってもまったく届かなかったが、十回に一回は届くようになった。
 体の向き、ボールの持ち方、ジャンプの仕方。それらを意識したら飛ぶようになった。
 球技は好きじゃないが、上達を実感できると意外と楽しい。自分には向いていないと思っていたものでも、やってみないと分からないものだなと思う。
 頭の中だけで判断することが多い私にとって、新たな発見だった。他人と関わることで知らない道を見つけられた。そんな感じ。
 雪乃は自主練と言いつつ、ほとんど私の指導をしてくれた。
 「やらないの?」と聞くと「教えるのも自分のためになるからと」言った。
 一時間ほど経ち、暗くなってきたので切り上げることにした。久しぶりにちゃんと動いたので疲れて歩けない。
 それを見た雪乃は「少し休憩してから帰ろうか」と言い、近くにあった自販機で暖かいお茶を私に買ってくれた。
 コートのフェンスに腰をかけながら二人でお茶を飲む。
 ここからは会話ゾーンに入るため、急に緊張してきた。
 さっきまでは沈黙をバスケで埋めれていたが、今はそこに埋めれるものは会話だけだ。頭の中で会話の種を探す。
「雪乃……ちゃんてさ」
 呼び捨てにビビった私はちゃんを付けた。
「雪乃でいいよ」
 スマートに呼び捨てにさせる。できる女だ。
「雪乃はさ、蒼空みたいだね」
 とりあえず思いついたままのことを言ってみた。誰からも慕われるようなところ。自然体な優しさ。彼女に蒼空と同じようなものを感じていた。少し前なら絶対にそうは思いたくなかったけど、今は嫉妬すら持てない。蒼空が好きになる理由も納得できるし、彼女から学ぼうとしてる自分がいるから。
「私は蒼空にはなれないよ。あんなに優しくなれない」
 十分に優しいと思う。気遣いもできるし、寛容さもある。
「千星にとって、蒼空ってどういう存在?」
 唐突な質問で驚いたが、その質問の答えに迷いはなかった。
「生きたいと思える居場所を作ってくれる人」
 私の中にある『自分』を守ってくれた人。蒼空がいなかったら、もっと自分を嫌いになっていた。世界をもっと嫌悪していた。もしかしたら、学校にも行っていなかったかもしれない。道から外れないように私を支えてくれていた。そして一番大切な、一番好きな人。
「分かる。そんな人だよね、蒼空って」
 雪乃は空に向かって言葉を零す。
「私、お姉ちゃんの影響でバスケを始めたの。勉強も運動も何でもできる人で、私の憧れだった。そういう意味では自分の居場所になっていたのかもしれない。生きる上で目標になってたから。でも、息苦しい場所でもあった。光が強すぎるとさ、影って消えちゃうんだよね」
 そう言った彼女の横顔は、孤独の中を彷徨う雪のようだった。
 地面に触れたら溶けてしまうし、かと言って手のひらで掴むこともできない。そんな儚ない白い花が、目の前に咲いているみたいだった。
「千星って好きな人いる?」
 雪乃は空に送っていた視線を私に合わせる。その目と急な問いかけにドキッとした。
「いない」
 この世界には。だからそう答えた。
「そっか……」
 今なら聞けるかも。タイミング的にはここしかない。そう思い、勇気を出して聞いてみた。
「雪乃は好きな人いるの?」
「……いるよ」
 そう言ったあと彼女は、手元のバスケットボールをいじり始めた。照れ隠しのように見えた仕草が、ほんの一瞬だけ心の奥を覗けたみたいだった。そして核心に迫るチャンスでもあった。
「その人は雪乃のことどう思ってるの?」
 雪乃は手を止めて何かを考えているようだった。心の奥底にあるものを眺めるように、じーっとボールを見つめている。
 この先は蒼空も知らない。応援するにしても根本にあるものが何なのか分からないと進めない。でも私がそこに辿り着けるとは思えなかった。まだ距離が遠すぎる。蒼空でさえ聞き出せなかったのだから。
「もしもの話だけど……」
 目を伏せながら、消え入りそうな声で雪乃が言う。
「好きな相手に告白されたけど、その人を嫌いになる可能性があるとしたら千星は付き合う?」
 好きな人を嫌いになる……私なら耐えられない。好きな人って、世界の景色を変えてくれる存在で、何でもないことも色づいて見える。
 嫌いになるっていうのは、その色彩がすべて剥落(はくらく)し、二人で渡し合った言葉も、思い出も、すべて枯れていくようなものだ。失うことも辛いけど、嫌いになることも辛い。
 質問には簡単に答えられなかった。好きな人の一番近くで笑っていたいという想いと、その人の一番遠い存在になってしまう恐怖。その二つを天秤に乗せても揺れ続けるだけだった。
「ごめんね、変なこと聞いて。もう遅いし帰ろっか」
 雪乃は立ち上がり、コートの出口に向かっていった。
 私はその背中を見ながら質問の答えを探していた。

 雪乃は駅まで送ってくれると言い、私たちは街灯に照らされた住宅街を歩いていた。
 私はさっきの質問の答えを考えていた。蒼空との思い出を彷徨い、たらればを繰り返しては感情が起伏する。希望と失意が絡み合った雪乃の問いは、天国と地獄の狭間にいるような気持ちにさせる。
 苦慮している私の顔を見て察したのか、
「さっきのは気にしないで、なんとなく聞いただけだから」
 雪乃は笑顔で言う。
 『もしも』と仮定で質問してきたが、あれは一歩踏み出せない理由の真意が混ざってると思う。何かを伝えたかったのかもしれない。何かを知ってほしかったのかもしれない。きっとそこに扉を開ける鍵がある。
 私は言葉の裏側に縫い付けられたメッセージを必死に探したが、何も分からないまま駅に着いてしまった。
「じゃあまた明日ね」
「うん……また明日」
 手を降る雪乃に見送られながら改札に向かう。
 このままでいいんだろうか。今を逃したらもう辿り着けないような気がする。そう思ったら、自然と足が雪乃の方に向かって行った。
「どうしたの?」
 怪訝な顔をする雪乃。何も考えずに目の前に来てしまった私は、雑な言葉で間を埋める。
「あの……楽しかった」
 主語の抜けた言葉。せめて「今日」くらいは付けるべきだった。
「私も。また今度一緒にやろうよ」
 「私も」「また」「今度」「一緒」このワードは嬉しかった。このまま悦に浸りたいが、今はもっと大切なことがある。
「好きな人を嫌いになることもあるかもしれない。でも、何も行動を起こさなかったら何も知らないまま、後悔だけが残る。頭の中だけで考えてたことも、実際やってみたら全然違ったってこともあるよ。質問の答えは正直分からない。何度も考えたけど、どうしていいか検討もつかなかった。でも信じたい。自分の気持ちも、相手のことも」
 蒼空が亡くなってから感じたこと、今日知れたこと、それを踏まえて思ったままの言葉を吐いた。
今、言った自分の言葉を正しいとは思わない。考えても答えは出せなかったし、勢いで言っている部分もある。けれど、信じたいという言葉に迷いはなかった。
「ありがとう」
 雪乃は顔を綻ばせた。雪解けに芽吹いた花のように。
「雪だ」
 近くにいた中学生たちが空を指している。
 見上げると、冬を染め上げようとする雪花が夜空に花弁を散らしている。
「今度、好きな人と会うの。その時に自分の気持ち伝えてみようかな? 千星の言う通り、頭の中だけで考えすぎてたのかも」
 空から降る雪を眺めながら、雪乃は言った。
「……うん」とだけ言葉を残した。
 なんて返していいか分からなかったのもあるが、蒼空との約束を果たせたことで浮き立ち、言葉を詰まらせた。
 誰かの気持ちを変える。そのきっかけになれることが、こんなにも嬉しいことだなんて知らなかった。
 生まれて初めてかもしれない経験に戸惑いつつ、空の上にいる大切な人に『叶えられたかも』と心の中で呟いた。

 翌朝、玄関の扉を開けると白い世界が視界を染めた。
 真っ白な雪に足跡を付けると、新しい世界に足を踏み入れた高揚感があった。降り注ぐ日差しに導かれながら青く澄んだ空を見上げる。
 太陽の視線を浴びても、今日は厭わしく思わない。自分の中で何かが芽吹いているように感じた。
 学校に着き教室に入ると、雪乃の周りには数名のクラスメイトが集まり、いつものように談笑している。
 ふと目が合うと、笑顔で私に手を振ってくれた。
 それに答えるように小さく手を振りかえす。
 あのあと連絡先を交換した。
 普通の女子高生からしたら、普通の出来事なんだろうが、私にとってはオリンピックやワールドカップに匹敵するイベントだ。私のスマホもびっくりしただろう。
 それでかは分からないが、昨夜は変な夢を見た。
 手足の生えたスマホが私の目の前で、「ちょっと騙されてませんか、きっとマグロ漁船に乗せられてUNOさせられますよ。draw4とかめっちゃ使ってきますよ」と言ってきた。
 私はムカついたから、画面をバキバキにしてライ麦畑に埋めるという謎の夢だ。
 だが目覚めは良かった。
 自分がちょっと変われたこと。
 蒼空の願いを叶えられたかもしれないこと。
 雪乃が一歩進めたこと。
 その余韻が目を覚ましても残っていた。
 蒼空がいなくなった世界には悲しみだけが降り続いていたが、少しだけ溶けたような気がする。
 次に蒼空にあった時、昨日のことを話そう。
 それで褒めてもらう。「頑張ったね」って言ってほしい。
 昼休み、体育館のステージ上に腰掛けて、雪乃とご飯を食べた。
 向こうから「一緒に食べよう」と誘ってくれた。
 最初は雪が積もった話をした。そのあとは好きな食べ物、来月の期末テストと話が進み、バスケ部の話になった。
 一年生に熊倉という子がいるらしく、ずっと片思いをしていた相手と付き合ったらしい。
 雪乃は自分のように喜びながらその話をしていた。
「千星ってどんな人が好きなの?」
 そう聞かれ、返答に迷った。
 『蒼空』と言いたいところだが、たぶん気まずくなる。私はまた会えるがこっちではもう亡くなった存在だ。
「優しい人かな」
 とりあえず無難にいった。もっと詳細に言えば、蒼空だとバレてしまう。そしたら変な空気が流れるから、当たり障りのない特徴で誤魔化した。
「優しさは大事だよね」
 彼女は二回ほど大きく頷いてから、冷凍のグラタンを口にした。
「雪乃の好きな人ってどんな人?」
 私がそう聞くと雪乃は宙を見上げた。たぶんその先には彼がいるのだろう。
「人ってさ、表面に見えるものでその人を判断するでしょ? 彼はその裏側を見ようとしてくれる。そういう人かな」
 照れながら言う表情は可愛かった。スマホの待ち受けにしたい。
「良い人なんだね、その人」
「うん、私が好きな人だもん」
 雪乃は満面の笑みでこちらを向き、本日二度目の可愛いを盛り付けてきた。もう可愛いでお腹がいっぱいだ。あと一回可愛いを見せられたら、可愛いを吐き出してしまう。吐き出した可愛いは持って帰ろう。私は自分で何を言っているのか分からなかった。
「雪乃にこれだけ好きになってもらえるなんて、その人は世界一幸せかもね」
「それは私かな。こんなにも好きと思える相手を見つけられた。それだけで世界が変わる」
 その気持ちは私にも分かる。付き合う、付き合わない関係なく、好きという気持ちだけで見えるものも感じ方も、受け取るものも変わる。
 私はそれを蒼空に教えてもらった。
 思い出すと切なくなるけど、今は我慢しよう。雪乃の恋に水を差したくない。

 私と雪乃は教室に戻るため、渡り廊下を歩いていた。
「富田」
 重低音の効いた声が後ろから響く。振り向くと女バスの顧問だった。
「熊倉に連絡取ってくれ」
 さっき雪乃が話をしていた子だ。バスケ部の後輩で最近彼氏ができた子。
「何でですか?」
「彼氏が二股してたらしいんだよ。それがショックで学校に来てないみたいなんだ。それでさっき保護者がクレーム入れてきた」
「クレーム?」
「どうやら彼氏が同じクラスの奴みたいでな、『学校としてはどう対象するんですか?』とか言ってきたんだよ。そんなこと言われても困るんだけどな」
 確かに困る。学校には関係ない。マウンテンゴリラとマウンテンバイクくらい関係ない。
「恋人を作るのは良いんだけど、わざわざ学校休まなくていいだろう? 高校生の恋愛なんて長い人生で見れば通過点みたいなもんなんだから」
 顧問よ、それは違う。私たちは人生を賭けて恋をしているんだ。それを通過点と呼ぶならぶっ飛ばすぞ。
「その点、富田は助かるよ。勉強の成績もよくて、恋愛にうつつを抜かさず、部活に誠心誠意取り組んでくれる。教師からしたら理想の生徒だ」
 雪乃の顔に陰りが見えた。今の言葉は『お前はするなよ』とも聞こえる。顧問はそういう意味で言ったわけではないのかもしれないが、今の雪乃にとってはそう聞こえるかもしれない。
「熊倉に電話して、学校に来させてくれ。男なんて他にもいるんだ。だから落ち込むなって言っといてくれ」
 じゃあ頼んだぞ、そう言って顧問は去って行った。
「辛いよね。自分の好きな人がそんなことしてたら」
 隣から同情を孕んだ声が小さく響いた。
 雪乃は自分と重ね合わせたのかもしれない。ずっと好きだった人と付き合えたと思えたら、その相手が二股をしていた。しかも同じクラス。私も学校に行かないと思う。
「恋ってするもんじゃないのかな?」
 その言葉は私にではなく、自問自答のように聞こえた。
 雪乃はスマホを取り出した。バスケ部の後輩に連絡するのだろう。
「先に戻ってて」
 何か声をかけたかったが、私は「うん」と言い残し、一人教室に向かった。

 五限目の始まる間際に雪乃は教室に戻ってきた。
「どこ行ってたの?」
 クラスの子にそう聞かれた雪乃は、いつものような明るい笑顔で「トイレ行ってて」と言った。
 私にはその顔が繕っているように見え、少し胸が痛んだ。
 授業中、雪乃のことが気になり、教師の話はほとんど頭に入らなかった。
 顧問の言葉で雪乃の恋愛に支障をきたさないか? 後輩が恋愛で苦しんでるなか、自分の恋愛に億劫にならないないか? 
 雪乃は責任感が強いように見えた。だからこそ心配になる。
 でも私が何かを言える立場でもない。今、彼女はどう思っているんだろう? 周りのこと、自分のこと、好きな人のこと。何も分からない自分が情けなく感じた。
 あの日から人を嫌いになって、他人と関わらなくなった。それでいいとも思っていた。でも今は人の気持ちを知ろうとしなければならない。蒼空のために、自分のために、雪乃のために。
 私には経験値が無さすぎる。こんなとき、なんて話かけたらいいんだろう? 蒼空ならどうするのだろう? 色々考えていると、窓から差し込む太陽の日差しが煩わしく感じた。
 放課後になり、雪乃はいち早く教室を出て行った。
 心配だったので女バスを見学しに行こうとも考えたが、今は邪魔になるような気がしたので帰路に着いた。
 街路樹が並ぶ道を一人で歩く。枝を晒して立つ木々の姿は、冬の寂しさを描いたようだった。
 今日も朝から寒かったため、まだ雪は残っている。明日には溶けているかもしれない。
 雪は刹那を白く灯して幻想を作る。日常には咲けない花のようで、そこが美しくもあり儚いところでもある。
 ここ二日、雪乃と一緒に帰っていたためか、一人になると詩人になってしまう。
 寂しさを埋める時、人は詩を読みたくなるものだ。
 詩は時々SNSで見たりする。その人の奥底にあるものを吐き出したり、表には見えないものを言葉にする。
 生きていると自分というものが周りに影響されて形作られていく。詩を書いている人たちは、言葉で感情を紡ぎながら、自分という存在をこの世界に残そうとしているのかなと思う。
 日常で消えていく雪のような感情を、消えないようにネットの海に流していく。
 でも現実世界では心の一番奥に仕舞い、無理やり押さえつけながら世界と迎合していく。離されなように、置いていかれないように。
 雪乃はどうなんだろう? 学校という世界では中心いるけど、実際周りをどう見ているんだろう? 私は隅っこで逸れないようにしながら、その手の中にある糸を強く握ぎりしめていた。
 世界の端から見る雪乃は糸を作る人で、羨ましく思うときもあった。でも話すようになってから見えかたは変わった。
 雪乃も何かを掴みながら生きているような気がする。私とは違う何かを。
 もしかしたら、それが一歩踏み出せない理由なのかもしれない。
――恋ってするもんじゃないのかな?
 踏みだした決心が引いてしまったようにも聞こえた。
 明日、もう一度話してみよう。奥底にある言葉を聞いてみたい。

 昨日の朝とは違い、(もや)が張ったような目覚めだった。筆舌に尽くし難い感情が体の中に漂う。
 朝食に出されたパンはいつもより味気なく感じ、バターの油分が口内にまとわりつくようだった。
 駅から学校までの道を歩いていると、生徒たちの喧騒が鼓膜を揺らした。
 声は聞こえているが内容は入らない。私の脳内は雪乃のことでいっぱいだったから、入る余地がなかった。
 好きな人に想いを伝えることは相当勇気のいることだ。決心するまで何十回と思考を往復させ、マイナスな思考に囚われながら、やっとの思いで一歩踏み出す。
 私はできなかった。今も胸の中には、恋染めの言葉たちが彷徨っている。
 雪乃は自分次第で恋を成就させることができる。でもその先に進むことができない。なかなか理解し難い状況だが、私には見えない大きな隔たりがあるんだと思う。
 だから簡単に「相手も好きなんだから付き合えばいいじゃん」などと言ってはいけない気がしてた。
 私も他人から理解されない部分をたくさん持っている。感覚的だが雪乃にも同様のものがあると感じた。
「おはよう」
 澄んだ声が背中に触れる。
 振り向くと、空の青を背景に、笑みを零した雪乃の姿が双眸に映った。
「おはよう」
 挨拶の交換をし、肩を並べて学校に向かう。
 どう切り出そうか迷う。
「好きな気持ちは伝えるの?」
 これは直接的すぎて聞きづらいし、相手も困るような気がする。
「やっぱり恋って最高だよね」
 これはパリピ感が強すぎて引かれそうだ。
「恋の甘さって人生の苦さを中和する最高の調味料だよね」
 これは結構好きだが今じゃない。
「恋のレイアップは決めないの?」
 これは論外。
 脳内を駆け回りながら思案していると「あのね」と雪乃がブレーキをかけた。
「気持ち伝えるのやめることにした。部活もあるし、今は恋なんてしてる場合じゃないなって」
 表情は変えず、おはようと同じトーンで言ったその言葉は、私の思考を停止させた。
「だから、昨日言ったことは忘れて」
 そう付言し、前を歩いていく。
「いいの? 本当に」
 小さく嘆いた言葉は雪乃の足を止めた。
 数秒の間を置いてから雪乃は振り向き、
「いいの本当に」
 笑顔で言った。雲一つない晴れわたる顔で。雨が止んだあとの澄んだ空のように。
 言葉が出なかった。普通なら何か言うべきなのに、見繕ってでも渡すべきなのに、私の喉元を通るのは、言葉を携えない白く吐き出されるだけの息のみだった。
 無言の私を見た雪乃は、一瞬だけ寂しそうな顔をした。そしてすぐに表情を戻し、
「前に私が聞いたことあったでしょ? もしも、好きな人を嫌いになってしまったらって」
「うん」
「あんな質問に悩んでくれたのが嬉しかった。それと……私に勇気をくれてありがとう」
 笑顔を残して雪乃は学校へ向かって行った。
 私は声も足も出すことができなかった。
 立ちすくむ自分の足元を見ると、太陽の光で溶けかけた雪があった。
 消えてしまわないようにと残る姿に、胸が苦しくなった。

 昼休み、一人で公園に来ていた。ブランコで小さく揺れながら雪乃の言葉を反芻していた。
 今日の雪乃はいつもと変わらない様子でクラスの子と接していた。
 胸臆に仕舞った恋を、摘まずに眺めるだけと決めた彼女。いや、自ら枯らしたのかもしれない。そう思うとあの笑顔が切なく見える。
 でも本心ではないと思う。きっと理由がある。私はこれまで雪乃と話したことを整理することにした。
 まずお姉ちゃんのこと。
 勉強も運動もできて、憧れと言っていた。まさに雪乃と一緒だ。でも息苦しい場所とも言っていた。
 憧れが苦しい存在になることがあるのだろうか? でもここにヒントがあるような気もする。
 そして褒められても嬉しそうにしていなかった。私なら歓喜すると思うが、雪乃は違った。
 むしろ困ったような顔をしていたようにも見える。褒められて嫌になる理由があるとすれば……分からん。褒められることがほとんどない私にとっては、想像する種すらない。
 友達には「好きな人はいない」と答えていたのに、蒼空や、まだ話すようになって間もない私には「いる」と答えた。
 普通は逆だ。なんで私には言ったんだ? 特に話しやすい訳でもなかったと思う。むしろ会話がぎこちなさすぎて、面倒くさいと感じただろう。
 私みたいな人間は、蜂蜜を体に塗って大量のカブトムシを集めるぐらいしか脳がない。そんな人間に自ら話かけてきた。
 蒼空がよく話していたからと言ってたが、本当にそうなんだろうか? これも他に理由があるのかもしれない。
 あとは好きな人だ。
 確か、裏側を見てくれる人と言っていた。私と蒼空で例えるなら、本当の自分が出せる場所で、それを受け入れてくれる人。
 もし同じなら、雪乃の学校生活で見せてる姿は仮で、本当は別の性格を宿しているのだろうか? 勉強も運動もこなし、大人からの信頼も厚く、誰からも慕われて、優しさを持った女の子。それとは別の顔を持っているということなのか? でも裏表がないように見えた。
 考えれば考えるほど、冷たい風も相まって頭が痛くなってくる。
 今の私は深刻な顔しているのだろう。真昼間から一人でブランコに乗ってる女子高生は、行き交う親子連れに怪訝な顔をされる。
 冬のBJ(ブランコ女子)は公園の景観をより寂しいものに変えているだろう。
 はぁー、と白い息を目の前の空間に吐き出す。人工的な白煙は静かに消えていく。
 冬という季節は存在していたものを初めからなかったように見せる。だから寂しさも助長する。
 息も、木々を染める葉も、空に舞う雪も、全部消えていく。そして、雪乃の想いも。
 日曜日、部屋のベランダから星を眺めていた。
 夜空をため息で曇らせては、悲哀が感情に降り注ぐ。
 昨日と今日は学校が休みだったので、ずっと家に引きこもり模索していた。
 だが、この二日間何もできなかった。
 雪乃に連絡しようとも思ったが、直前で指は止まり、スマホを握りしめるだけの時間が続いた。
 明日の夜は蒼空と会う日。本当は良い報告がしたかったが、まだできそうにない。
 未練は二つあると言っていた。もう一つも叶えたいが、今は雪乃と向き合いたい。
 明日蒼空に謝ろう。もう少し時間がほしいと。
 雪乃は諦めたと言っていたが、たぶん嘘だと思う。そんな簡単に好きな人を諦められるはずがない。それだけは私にも理解できる。
 一昨日の朝に話したとき、一瞬だけ寂しい顔を見せた。もしかしたら私に何か言ってほしかったのかもしれない。でも何も言えなかった。
 この数日で、何度言葉を詰まらせたんだろう。
 他の人たちは、人付き合いの中でたくさん経験をして、適した言葉を渡せるのかもしれない。でも私にはその経験があまりもなさすぎる。
 恋愛相談なんてしたことないし、好きな人と結ばれる方法も知らない。ましてや人と上手く喋れない。
 過去に縛られて、今まで多くの未来を失っていたことに気付いた。
 蒼空に依存していたと思う。だから前を向かなくてもよかった。そこに居場所があったから。
 蒼空は友達が多い。その中で知り得たことが累々にあったのだろう。私がこのままでいけないことも、変わらなくちゃいけないことも、きっと分かっていた。雪乃と接してそれを痛感した。誰かを救いたいなんて思ったこともないのに、今は純粋に雪乃の恋を応援したいと思っている。
 人が嫌いになってから、世界の見え方は大きく変わった。歪んだ見かたをしていたんだと思う。まっすぐ見てしまえば自分を傷つけてしまうから。景色を捻じ曲げれば自分を正当化できるから。
 前までは雪乃のことが苦手だった。
 すべてを兼ね備え、多くの人に囲まれ、蒼空が好きな相手だったから。
 だが話してみて変わった。私と外の世界の間には過去という澱んだフィルターがある。
 雪乃がそのフィルターを取り除くように接してくれたから、こんな自分でも受け入れてもらえることを知れた。
 嫉妬や嫌悪で歪ませていた世界が、少しずつだが変わってきている。
 景色を変えるのは他人だけではない。自分の意識や価値観に目を向けなければ、周りに恵まれていても変えることはできない。
 きっかけを与えてもらったとしても、その先は自分の受け取り方で決まるのだから。
 今の雪乃は、自分一人では変えられないのかもしれない。ならその手助けをしたい。
 ずっと蒼空に手を握ってもらってた。だけどこれからは誰かの手を握れるような人になりたい。
 痛みに寄り添い、見えない傷に気づいてあげられる、そんな人間に。

 昇降口は登校する生徒たちで賑わっている。今日はいつもより早く学校に来ていた。
 日陰にはまだ微かに雪が残っている。明日には完全に溶けてしまうだろう。
 周りを見渡すと、歩いてくる雪乃を視界にとらえた。向こうも私に気づき「おはよう」と顔を綻ばせながら近づいてくる。
 今日はちゃんと話そうと決めていた。
 雪乃が散らせた恋を、もう一度咲かせるために。
「昼休み、一緒にご飯食べない?」
 私がそう聞くと、雪乃は少し間を空けてから、
「ごめん、今日バスケ部の後輩と話すことになってて」
 彼氏に二股をかけられて、学校を休んでいた後輩のことかもしれない。
「そっか……」
「明日一緒に食べよう」
「うん」
 今日も寒いね、と言いいながら靴を履き替える雪乃。私は昨夜に灯した覚悟を消さないようにその姿を見ていた。
 昼休みになり、誰もいない体育館で母が作ったお弁当を口にする。
 ステージに腰掛けながら、この広い空間を眺める。普通なら寂しいと思うのかもしれないが、この静寂さが今は心地いい。思考に何の邪魔も入らず、一人の時間を過ごせる。
「ちょっと待ってよ」
「着いてくんなよ」
 緊迫を纏う声が、入り口の方から聞こえてきた。
 私は咄嗟に緞帳(どんちょう)の裏に隠れた。
 一人でいると、こういう時は姿を隠そうとしてしまう。ぼっちの習性だ。ただごとならぬ声色だったのもあるが。
「ちゃんと話そうよ」
「もう話したろ」
 声は体育館に入ってきた。緊張が走る。
「なんで浮気したの?」
 もしやと思い、緞帳を盾のようにしながら片目だけで覗く。
 体育館の中央に男と女が立っていた。
 男は女に背を向けている。女の後ろには雪乃のがいた。
 彼氏に二股をかけられたバスケ部の後輩だろう。確か、熊倉と言ったか。
 じゃあ前にいる男が二股男と言うことか。不可抗力とはいえ、嫌な場面に出会してしまった。
 男の方は面倒くさそうな表情をしている。女の子の方は今にも泣きそうだ。雪乃は冷静な感じ。
「私はまだ浩司のこと好きなの。もうしないって言うなら、またやり直そう」
 男は呆れた顔でため息を吐き、女の子の方を振り向いた。
「だからもう終わりでいいって言ってんじゃん。別に無理に付き合う必要ないでしょ? そっちも嫌でしょ、浮気したやつと付き合うの」
 完全に開き直っている。
 私は全く関係ないがムカついてきた。あいつのセンター分けした髪を毟り取りたい。分け目すら作れない頭にしたい。
「佳奈は高本くんのことまだ好きなんだよ。だから信じたいの。それなのに、そんな言い方ないんじゃない」
 雪乃は先ほどの冷静な顔つきから打って変わって、怒りが滲み出ていた。
「先輩には関係ないっすよね。俺ら二人の問題なんで」
「私が呼んだの。二人だと不安だったから」
 声を振るわせながら、倉本さんは言う。
「てかさ、お前重いんだよ。友達と遊んでても『女の子いるの?』とか、毎回毎回『私のこと好き?』とか聞いてきてうざいんだよ。こっちの身になってみろよ。監視されてるみたいでマジ面倒くさい。俺が浮気したのはさ、お前が原因だよ」
――うざい。この言葉に私も反応してしまう。その言葉がどれだけ心に傷を付けることか。
 熊倉さんは涙を流しながら、膝から崩れた。
「重いのは分かってる。私に原因があることも。でも好きなの。こんなことされてもまだ嫌いになれない。一緒にいたいって思ってるし、まだ浩司のこと信用してる。だから……」
 涙で言葉が詰まったのか、嗚咽だけが静寂な体育館に響いた。
 雪乃は彼女のもとに行き、優しく背中をさする。そして男を睨みながら後輩の代弁を始めた。
「佳奈はね、ずっと高本くんのことが好きだったの。入学して間もない頃からずっと。付き合うことができたとき、本当に嬉しそうにしてた。重くなるのは、安心したいだけなんだよ。やっと叶えられた恋だから、好きな人に自分を見ていてほしいから。だから言葉が欲しいの。たった二文字だけど、その言葉で明日を笑って過ごすことができる」
 雪乃は途中から涙を浮かべていた。もしかしたら自分と重ねていたのかもしれない。
 ずっと好きだった相手にあんなことを言われたら、きっと明日を生きることも辛くなる。生きる意味を見失ってしまう。好きな人の言葉は明日を生きるための糧になるから。
「そんなの知らねーよ。重いもんは重いの。なんで俺がそれを背負わないといけないんすか。こいつが勝手に俺を好きになって、仕方なく付き合ってるのに、何で面倒かけられなきゃいけないんだよ」
「仕方なくって何? 佳奈の前で何でそんなことが言えるの。人の気持ち考えたことある? 佳奈に謝って。今すぐ」
 雪乃は男の前に立ち、憤怒に燃えるような顔で睨んでいた。
「怒りたいのは、俺の彼女じゃないっすかね。あっ、彼女って言ってもこいつじゃなくて、もう一人の方です。そいつとは中学から付き合ってるんで、正確に言えば浮気はこっちです。だからそこまで重くされると面倒なんすよね。そうだ、先輩俺と付き合いません? それか体だけの関係でもいいっすよ? 富田雪乃とやれたら、クラスの奴に自慢できるんで。どうです? 俺、結構上手いっすよ」
 何でこんな人間が生きてるのだろう? なんの迷いもなく『死ねばいい』と思った。人を傷付けることを何とも思ってない人間。男の目の前に行って全部吐き出したい。この胸にある不快なもの全部。
 雪乃を見ると、肩を震わせながら強く拳を握り締めていた。
「雪乃先輩、もういいです」
 ゆっくりと立ち上がり、涙を拭いながら熊倉さんは言った。
「私が悪いんです。こんな人を好きになったから。だから、もう……」
 ここまで言われても好きな気持ちが残っているように見えた。本人もその気持ちを捨てたいが、心にしがみついてきて離れない。そんな感じだ。
「じゃあもういいっすか? 佳奈もさ、早く新しい男作って忘れなよ。次は遊び程度の相手見つけて、そこそこに楽しみな。たかだか高校生の恋愛で、マジになるとかダサいから。あと、またやりたくなったらいつでも連絡してよ。お前上手くないから、俺がみっちり教えてや……」
「おい!」
 私はステージの上から、男に対して叫んでいた。
「千星」
 雪乃は驚きながら、こちらを見ている。
 我慢できなかった。ずっと自分を好きだった相手に、一生消えないであろう傷を残したことが。
 人を好きになるというのは自分の世界を変えることだ。こいつは今、彼女のすべてを壊そうとしている。それだけは絶対に許せない。
 ステージから飛び降り、男の前に行こうとしたが、着地に失敗し転んだ。
 「ぐへっ」という変な声が、静寂に包まれた体育館に響く。三人の視線が集まるのを感じ、恥ずかしさが増長される。
 顔を上げるのも億劫だったが、今言わないと彼女は私みたいになるかもしれない。あの日、蒼空が私に寄り添ってくれたように、今日は私が蒼空にならないといけない。
 恥ずかしさを押し殺して立ち上がり、三人の方へ向かった。
「誰?」
 男の前に立つと、怪訝な顔で私を見てきた。視界の隅に雪乃の心配そうな顔も入る。
「たかだか高校生の恋愛かもしれない。でもね、それが自分の支えになって生きる理由に変わる。辛い日常も明日に怯える夜も、その人と会うことを想像すれば、また頑張れるんだよ。好きな人の言葉で嬉しくなって、好きな人の言葉で支えられて、そうやって一日を過ごしていく。好きな人の言葉っていうのは、それぐらい特別なの。だから言葉一つですべてを奪うことができる。そうやってできた傷は消えないで残り続けるの。君からしたら長い人生のほんの一瞬の出来事かもしれない。でも彼女にとっては、一生背負っていく出来事になるかもしれないんだよ。私は過去に縛られながら生きてきた。彼女にはそうなってほしくない。必要のない傷を抱えながら生きるのって、ものすごく辛いの」
 自分の生きてきた軌跡を辿りながら、言葉を縒り合わせた。目の前で泣く女の子を助けたくて。
「好きって気持ちは簡単に消えるものじゃない。だから彼女は君に強い言葉を吐けないんだよ。それに甘えないで。君が付けた傷は未来を奪うものなんだよ。もしまた彼女を泣かせることがあったら、私は一生許さない」
 思いの丈を全部ぶちまけると、体育館には熊倉さんの啜り泣く声だけが響いていた。
 目の前のセンター分けクズは、「もうこいつと関わるつもりないんで」とだけ残し、狼狽えながら去っていった。
 私は何かできたんだろうか? そんな不安が残る。彼女がこの先、傷を背負ったまま生きていくかもと思うと、顔を見ることができなかった。
「千星」
 雪乃に名前を呼ばれて我にかえった。関係のない自分が勝手に話を終わらせてしまい、しかも盗み聞きみたいな形になっていたので、急に焦りが出てきた。
「そ、そこでみんなを食べてたらご飯が来て、急だったから思わず自分を隠蔽しないとと思って、なんか、だんだん我慢できなくなって。それで、その、勝手なことしてごめん」
 テンパりすぎて自分が何を言っているのか分からなかった。下げた頭をずっとこのままにしておきたい。
「ありがとうございます」
 雪乃の声じゃなかった。顔を上げると目の前に熊倉さんが立っていた。
 目が充血したように赤く、彼女の心情がその瞳に映し出されているようだった。
「私が思ってることを言ってくれて助かりました。もしかしたらずっと傷が残ってたかもしれない。でも、さっきの言葉で少し和らいだ」
 悲しみが覆っていた表情に、微かだが笑顔が零れる。
「本当は私が言うべきだった。後輩があんな酷いこと言われたのに、立ち竦むだけだった。先輩失格だよ」
 熊倉さんは、首を大きく横に振る。
「雪乃さんがいてくれて助かりました。一人だったら泣くだけで終わってたと思います。あんなクソ野郎なのにまだ気持ちが残ってる。おかしいですよね。さっき言ってたことが嘘なんじゃないかって、どこかでそう思ってる自分がいる。本当バカですよね、私」
「人を好きになることはバカなことじゃないよ。向ける相手は間違ったけど、恋をした自分は責めないで」
 雪乃の言葉に熊倉さんは再び涙を流した。
 この場面で言うか迷ったが、言わないといけない思い、私は喉元で抑えていた言葉を吐いた。
「熊倉さん自身も変わらないといけないと思う。自分が変わらないと、また同じような人を好きになってしまうから。他人の見えかたは自分の心の中にあるもので決まる。それを変えない限り、幸せにはなれないと思う。関係のない私が言える立場ではないし、大きなお世話かもしれないけど、自分のことを大切にしてくれる人を好きになってほしい」
 奥底にあるものが視界を歪めたり、価値観を作ってしまう。それと向き合いながら人は生きていかないといけない。この数日で私が学んだことだった。
「はい。自分でもそう思います。あんなやつを好きになったのは、恋してる自分に酔っていたんだと思う。だから汚れている部分に目を瞑って、自分の好きな世界を作りあげてた。それが楽しかったから。今度はもっと人を見ます。恋をしてる自分ではなく、相手の心を」
 そのあと、熊倉さん笑顔で教室に戻っていった。元カレに一発ビンタする、と息巻きながら。女って怖い。

 私と雪乃は五限目をサボり、第三支部の公園に来ていた。
「サボろっか」と言い出したのは雪乃の方からだった。なので私は公園を案内した。
「こんなとこあったんだ。今度から私もここで食べようかな」
 蒼空以外の人を初めて招いたので緊張したが、喜んでもらえてよかった。私の家ではないが。
 ベンチに座り、一息吐く。
 今日はよく晴れていて青が映える。
 流れる雲が気持ちよさそうに泳でいるのを眺めていたら、
「恋ってなんでこんなに難しいんだろうね?」
 隣を見ると、雪乃も空を見上げていた。
「手を繋いで、一緒に笑って、お互いに気持ちを伝える。これだけで十分なのに、それが上手くいかない。ただ人を好きになっただけなのに、なんでこんなに苦しくなるんだろう」
 雪乃は好きな人に気持ちを伝えることをやめた。そこに大きな隔たりがあるんだと思う。今ならそれを聞けそうな気がした。
「好きな人に気持ちを伝えなくていいの?」
 沈黙が会話に空白を作った。その空白には雪乃の考えていることが詰まっている。私はそれを知りたい。
「うん。そう決めたから。これでいいんだと思う」
 十数秒の沈黙が明けたあと、雪乃は自分を納得させるように言った。
「嘘だよ」
 自分に嘘をついていると思ったから、私はそう言った。
 今まではその先に進まなかったが、今日は無理にでもこじ開けたかった。ここで引いたら、雪乃は心の中に本音を仕舞い込むと思ったから。
「嘘じゃないよ」
「本当は伝えたいくせになんで嘘つくの? 自分の恋でしょ? 自分にまで嘘つかなくていいよ」
「自分の恋だから自分で決めたの、もう伝えないって。だからこれでいいの」
「よくない! 一生後悔するかもしれないんだよ。伝えたくても、二度と伝えられなくなることだってある。あとで言っとけばよかったって思っても遅いの。今思ってることは、今言うべきだよ」
「だからもういいんだって! 千星には私の気持ちは分からないよ」
「分からないよ。だから知りたいの。私は後悔した。自分の気持ちを伝えられないまま、私の好きな人はこの世を去った。あのとき伝えていればって何回も思った。その気持ちはずっと心の中で生き続ける。自分で自分を苦しめることになるんだよ」
「千星の好きな人って……」
「蒼空だよ」
 雪乃は言葉を失ったように押し黙った。
 私も言葉を見失い、二人で地面に視線を送りながら沈黙の中を放浪する。
 頬に当たる冷たい風がさっきよりも強く感じる。車の走行音がいつもより鼓膜に響く。落ち葉の筋が一本一本くっきりと見える。
 静けさが五感を鋭くさせた。そのせいか、言葉が枯れた空間は一層重さを感じる。
 先に声を発したのは雪乃だった。
「本当は好きって伝えたい。でも、一歩踏み出せないの……自分が邪魔をするから」
 喉元で閊えていたものを押し出すように、雪乃は言葉を口にする。
「私……」
 そして抱えたものを紡ぐように過去を語り始めた。
 小学四年生のとき、ミニバスの県大会で優勝した。
 私は補欠だったためベンチから試合を見ていたが、姉が活躍するたび自分のことのように喜んだ。
 そして、その姿に憧れた。 
  試合が終わったあと、お姉ちゃんはお母さんに褒められていた。
 笑いながら歩く二人の後ろ姿がとても羨ましく、頭の中で姉と私を入れ替え、母に褒められている自分を想像した。
 姉の日向《ひなた》は二個上で、勉強も運動もできる誇らしいお姉ちゃんだ。しかも優しい。
 私はというと、勉強が嫌いでテストの成績も悪い。走るのは得意だったが球技は苦手。だからバスケでは結果は出せていなかった。
 親は真逆の評価を姉妹につけていたのではないかと思う。
 ある日、三十点の算数のテストを持ち帰ったら、両親にため息をつかれた。
 それもそうだ、この数分前に姉が百点のテストを渡していたのだから。
 歓喜していた両親から感情を奪ったようで申し訳なく思った。
 重い空気感に耐えられず、いたたまれない気持ちで足早にリビングを出る。
 扉を閉め、階段を上がろうとすると、
「雪乃もお姉ちゃんみたいだったらな……」
 電気代が上がったときと同じような嘆き方でお母さんが言った。
 その声がとても苦しくかった。自分に対してというより、母を悲しませてしまったことが。
 学校でもよくお姉ちゃんと比較されていた。
「姉はすごいけど妹はね……」
 そんなことを耳にするたび「雪乃は雪乃でいいからね」と、お姉ちゃんは優しい言葉をかけてくれる。
 大好きだった。私もこんな人になりたいと思った。だけどお姉ちゃんがみんなから慕われてる姿を見ると、嫉妬が湧き上がった。
 姉に対して暗い感情が出ると自分を嫌悪した。好きでいたいし、今までと同じ関係性で居続けたい。
 でも胸から伝う澱みが、頭の中で大きくなってくる。
 それを抑えながら生きることが、だんだんと苦痛になってきた。
 周りは富田雪乃ではなく『姉の妹』という認識でいたため、他人と接していると自分の存在がないように感じた。
 話しかけられるときは「雪乃のお姉ちゃんてさ……」と、姉関連の話題から切り込まれることが多かった。
 姉がいないと、富田雪乃は人と会話できない。ずっと、そう思っていた。
 私は姉を嫌いになりたくなくて、自分を変えることにした。
 勉強を頑張り、バスケの動画を見て必死に練習した。
 その甲斐あってか、テストの点数は上がり、ミニバスでもレギュラーを取った。
 姉を真似して周りの人にも優しく接すると、人が集まってくるようにもなった。
 何より嬉しかったのは、両親が私を見てくれるようになったことだ。
 百点のテストを見せると頭を撫でてくれた。優しい言葉もかけてもらえるようになった。バスケの試合で活躍すると褒めてくれた。
 友達のお母さんからも「姉妹ですごいね」と言われ、初めてお姉ちゃんの隣に立てた気がした。
 その時に初めて「姉の妹」ではなく「富田雪乃」になれた気がした。
 褒められれば褒められるほど、勉強も運動も頑張った。富田雪乃で居続けるために。
「雪乃ちゃんは頭がいい」
「雪乃ちゃんはバスケが上手い」
「雪乃ちゃんは優しい」
「雪乃ちゃんみたいになりなさい」
 最初は期待されることに誇りを持っていたが、だんだんと負担に感じてくるようになった。
 みんなが期待する富田雪乃で居続けなければいけない。勉強ができて、運動もできて、優しい富田雪乃を求められているから。
 中学に上がると、よりプレッシャーがのしかかった。
 三年生の姉は、成績は学年トップでバスケ部のキャプテン。周りからの信頼は厚く、中学でも姉の存在は大きかった。
 そのため、バスケ部に入った私は先輩や顧問からの期待を大きく受けた。
「日向の妹だから、きっと上手いよね」
「お前の姉は、県内でも優れた選手だぞ」
 上手くないといけない、優れた選手でないといけない。私にはそう聞こえた。
 姉は「自分のペースでいいよ」というが、周りはそう思っていない。妹も富田日向と同じでなければいけないのだ。
 私に求められるのは、みんなが理想とする富田雪乃だから。
 担任からも「富田のお姉ちゃんは運動だけじゃなく、勉強もできてすごいな。両親はきっと誇らしいだろう。妹だからって負けてられないな」と言われた。
 私がダメだと家族に恥をかかせてしまう。お姉ちゃんが築き上げてきたものを壊してしまう。
 優秀な姉の妹として入学した私は、一層努力しないといけなかった。
 また『姉の妹』に戻ってしまえば、自分という存在が消えてしまう。求められる自分がいるから、私は世界と繋がっていられる。
 だから勉強も部活も必死に頑張った。みんなが求める富田雪乃になるために。自分という存在を守るために。
 努力した結果、一年でレギュラーを取り、成績も学年で一番だった。
 先生も生徒も「姉妹ですごいね」と褒めてくれる。そのときは嬉さよりも安心が強かった。
 学校では姉の名前もあり、先輩や同級生に慕われていたと思う。周りにはよく人が集まってきた。
 でもそれは、みんなが求める富田雪乃だからであって、もし期待を裏切ったら周りの人は離れていく。
 『姉の妹』にみんな興味はないのだ。もとに戻れば、自分の存在は消えてしまう。だから期待に応え続けなければならないし、姉を嫌いにならないためには、そうするしかなかった。
 体育祭の打ち上げで、姉に借りた服を着て行った。
「雪乃って服のセンスもいいんだ。今度、私の服も選んでよ」
 正直、服はあまり興味がなかった。
 でもクラスの子が求める富田雪乃は服のセンスも良くないといけない。そう思い、次の日に書店でファッション雑誌を買って勉強することにした。
 制服は校則通りに着こなす。教師のために。
 みんながオシャレだと思う格好をする。同級生のために。
 部活ではレギュラーをとり、テストでは学年で一番になる。親のために。
 先輩には礼儀正しくする。良い後輩でいるために。
 二年に上がってからは、後輩に積極的に優しく接した。良き先輩であるために。
 一年から三年まで学級委員を務めた。みんなが思う富田雪乃ならそうしただろうから。
 クラスメイトからもよく相談された。勉強、部活、恋愛、あらゆることを。
 そのたびに「雪乃は自分でなんでもできるからいいよね」「雪乃ぐらい完璧なら悩みなんてないでしょ?」と言われた。
 私だって悩みはある。誰かに相談したいし、愚痴もこぼしたい。好きな人のことだって、みんなと同じように話したい。
 でもできなかった。みんなが求める富田雪乃は、誰かに相談なんてしないらしい。自分で全部こなすのだから。
 そう在り続けなければいけない。それが富田雪乃だから。

 中学の卒業式、告白をされた。
 今まで何人かに言われたれたことはあるが、全部断ってきた。
 小学生の頃から、ずっと同じ人を好きだったから。
 そしてその相手が「好きです。付き合って下さい」と想いを伝えてきた。
 春野祐介は、『姉の妹』だったときから、私の努力を見ていてくれた人だ。
 よく話すようになったのは小学五年生の頃。
 彼もミニバスをやっており一緒のチームだった。
「最近頑張ってるな」
 今まであまり話したことのない春野くんから唐突に言われた。
 このときの私は親に褒めてもらうため、勉強もバスケも必死に努力していたときで、精神的にしんどくなっていた。
 頑張ってるだけでは認めてもらえない。姉と並ばないと私は評価されない。あまりにも高い壁に心が折れかけていたが、その一言が繋ぎ止めてくれた。
 それから春野くんとはよく話すようになった。
 春野くんは私のことを聞いてくれる。
 好きな漫画は? 好きなアニメは? 将来の夢は? お姉ちゃんのことばかり聞かれていた私にとって、春野くんとの時間は、自分が自分でいられる場所になっていた。
 憂鬱になることが多かったけど、その時間だけは特別だったし、何よりも楽しかった。
「富田みたいな人」
 春野くんに好きなタイプを聞いたら、こう返ってきた。
 恥ずかしくなって「そ、そうなんだ」とだけ言って濁してしまったが、すごく嬉しかった。
 私も彼を好きだったから。
 この頃は周りからも褒められることが増えてきて、自分の努力が報われていたときだった。
 でも多くの人は結果を見て褒めてくれたが、春野くんは過程を褒めてくれる。
 彼だけはちゃんと私を見てくれていた。
 春野くんがいなかったら、きっと挫折していた。
 努力を認めてくれたことが私の支えになり、苦しくても頑張ることができた。
 それが好きになった理由だ。
 
「俺の前では頑張らなくていいよ」
 部活が終わり、二人で帰っているときに春野くんに言われた。
 中学に上がり、姉のプレッシャーに押しつぶされそうになっていたときのことだ。
 彼に悩みを打ち明けたことはない。きっと理解されないし、自慢のように思れたら嫌だから、誰にも言ったことはなかった。
 だが彼は気づいてくれた。縛り付けられた期待という呪いが、そのときは剥がれ落ちたようだった。
 春野くんといるときは背伸びしない自分でいられた。みんなが求める富田雪乃ではなく普通の中学生に。
 好きという気持ちは中学の三年間でも変わらなかった。ずっと彼のことを見ていたし、彼だけを好きで居続けた。
 期待に応えなければいけないという重圧に耐えられたのは、彼という存在がいたからだと思う。
 今の富田雪乃ではなく『姉の妹』である私を好きになってくれたという安心感。それを持ってるのは彼だけだ。
 そんな彼が卒業式で「好き」と言ってくれた。すごく嬉しかった。今でも好きでいてくれたことが。同じ気持ちを持っていることが。
 でも私は断った。怖かったから。
 恋人になれば、彼の求めるものを探して私はそれになりきってしまう。友達だからこそ今の関係でいられるが、付き合えば同じではいられない。好きで居続けてほしいし、嫌われたくないという気持ちはもっと強くなる。そして嫉妬も出てくる。
 いずれそれが負担になり、彼を嫌いになってしまうかもしれない。
 初恋をくれた人。初めて私を好きになってくれた人。世界でたった一人だけの特別な人。そんな人を嫌いになりたくない。
 私は「ごめんさい」という言葉を残して、空知らぬ雪に包まれながら初恋を枯らせた。

 高校生になってからも変わらなかった。
 彼の気持ちも、期待される富田雪乃になろうとしてしまう自分も。
 一年でバスケ部のレギュラーをとり、勉強は学年で一番だった。
「雪乃ちゃんってすごいね」
「勉強も運動もできるし、おまけに可愛いし優しい」
「雪乃は何でもできるから」
「完璧じゃないと雪乃じゃないもんね」
 期待が降り積もるたび、悪意のない言葉に私は埋もれていった。
 この頃は両親に褒められても何も感じなくなっていた。
 テストで百点を取り「さすが雪乃だね」と母に言われる。
 バスケ部でレギュラーをとって「雪乃はすごいね」と父に言われる。
「うん」
 それ以外の言葉が返せなかった。
 小学生の頃に、あれだけ喜んでいた言葉が心からすり抜けていく。
 何のために期待に応えているのか、誰のために生きてるのか、自分でも分からなくなっていた。
 機械のように求められたものだけをこなす生き方は、喜びという感情を失わせる。
「歯磨きできてすごいね」
 こんなことを言われて喜ぶ大人はいない。なぜなら、できて当然だから。
「富田雪乃は何でもこなす」
 こんなことを言われても私は喜ばない。なぜなら、やるのが当然だから。
 一年生のとき、文化祭の出し物で演劇をすることになった。
 学級委員である私が中心となり、役割分担をすることになったのだが、脚本を書くことをみんなが嫌がって時間だけが進んでいった。
 そんなとき一人の生徒が、
「富田が書いてよ。この中で一番センスあるじゃん」
「そうだね。雪乃なら良いもの書いてくれそう」
 周りからも賛同する声が上がる。
 正直嫌だった。部活の練習や中間テスト、私は全部こなさないといけない。親や教師が求める生徒で居続けるために。
「分かった。じゃあ私が決めるね」
 気持ちとは裏腹に言葉を飾言していた。みんなが求める私でいるために。
 部活終わりに家で勉強し、そのあとに脚本を考えると、深夜二時を回っていた。
 朝練が七時からあるため、ほどんど眠れずに学校へ向かう。
 授業中に眠ることは許されない。教師が求める富田雪乃は居眠りなんかしないのだから。
 だが朝練もあり、疲れはとれない。
 一週間ほどこんな生活が続くと、クラスの笑い声に苛立ちを覚えるようになった。
 そして、助けを求められない自分にも腹が立った。
 無理に作る笑顔や、人付き合いが煩わしくなってくる。それでもみんが求める富田雪乃は弱音を吐かずに一人でこなす。
 そうでないとけない。
 何で?
 それが富田雪乃だから。
 勝手に決めないでよ。
 そうでないと『姉の妹』に戻るよ。
 お姉ちゃんはここにはいない。
 でもやるんでしょ?
 うん、やるよ
 自問自答しても、義務感で縛り付けられた孤独からは逃げることができなかった。

 昼休み、教室の喧騒を耳に入れたくなくて図書室で脚本を考えていた。
 新しく買ったノートは白紙のまま進んでおらず、視界に映る白が頭の中まで染めていくようだった。
「文化祭の脚本どう?」
 誰だろう? そう思い振り返ると蒼空くんだった。
「順調だよ」
 反射的に答えてしまう。富田雪乃なら簡単こなさないといけないから。
 蒼空くんはノートに視線を送っていた。まだ足跡すらない真っ白な紙を見れらた。
 私は反射的にノートを閉じる。何もできてないと思われたくないから。
「嫌じゃなかったら、俺にも協力させて。稚拙なものかもしれないけど、一応考えてきた」
 蒼空くんは私の前に座って、自分の案を話し始めた。
 私は彼の話す内容をノートにとり、二人で考えながら脚本を書いていった。
 二週間後、脚本は完成した。
 最後は私が部活に専念できるように、蒼空くんが脚本を仕上げてくれた。
「いいね」
 放課後の教室で私がそう言うと、蒼空くんは安心したようにホッと息を吐いた。
 内容は現代風ロミオとジュリエットと王道だが、それなりの出来にはなったと思う。
 もちろんプロと比べれば拙いかもしれないが、経験のない高校生二人で書いたものだと考えれば上出来だと感じた。
「富田」
 私が安堵していると、蒼空くんは真剣な顔つきでこちらを見てきた。
「人に優しいことは良いことだと思う。でも、自分のことを大事にできないと、いつかその優しさが自分を傷つける」
 グサリと心臓を刺すようだった。私はバレないように振る舞っていたが、彼は気づいていたのかもしれない。
 ここ最近は精神状態が顔に出ていた気もする。たぶん見られていたんだ。
 でもその言葉で少し荷が降りた。どこかで気づいてほしかったのかもしれない。
 蒼空とよく話すようになったのはこの頃からだった。

 二年生の六月、思わぬ再会があった。
 その日は部活が休みだったので、家の近くのバスケットコートで自主練しようと思い、早めに帰路に着いた。
 自宅の最寄り駅で降りたとき「富田」という声が背中にかけられる。
 振り返って声の主を見ると、胸が高鳴った。
 彼は駆け寄ってきて「久しぶり」と笑顔で言う。
 私も笑顔で「久しぶり、春野くん」と返す。
 春野くんは中学の頃より、少し大人びた顔つきになっていた。背も数センチくらい伸びた気がする。
 最初は気まずかった。私は彼の告白を断っていたから。
 だが帰路につく道中で、学校のことや部活の話をしていくと、徐々に会話は花を咲かせていった。気づいたらあの頃と同じように話している。
「この間の中間テストどうだった?」
 彼がそう聞くので「良かったよ」と答える。
「頑張ってるんだね」
 褒められても何も感じなくなっていたのに、見失っていた嬉しさが帰ってきた。
 特別な人の言葉は感情を与えてくれる。今まで降り積もっていたものが溶けていくようだった。
 あの頃と変わらず彼を好きだと思った。
 それから連絡を取り合うようになり、何度か遊びにも行った。
 そして十一月、一緒に映画を見に行った帰り道に「付き合ってほしい」と二度目の告白を受けた。
 その言葉を聞いて、心の底から歓喜した。
 だが、彼を嫌いになりたくなかった。今と同じ歩幅で歩き続けるには、求められる私を捨てないといけない。でもそんなことできるはずがない。何年間も苦しんだ『富田雪乃』という呪縛は、簡単には剥がれ落ちないのだから。
 恋人という特別な存在だからこそ、特別で居続ける必要がある。
 世界でたった一人の存在だから、それに相応しい自分にならないといけない。
 だけどそれを負担と感じるようになればきっと……
「返事はもう少し待ってほしい」
 すぐにでも好きと伝えたかったが、先のことを考えたら一歩踏み出せなかった。

「春野祐介って人がいるの。その人に告白されたんだけど……」
 蒼空にこのことを相談したが、なぜ想いを伝えられないかまでは言わなかった。いや、言えなかった。
 今まで自分の抱えているものを話したことがなかったから、どう言えばいいのかも分からない。
 それに理解してもらえないだろう。人によっては自慢のように聞こえてしまう。そう思ったら、本音を言うことができなかった。
 降り積もった想いは奥底で溶けないまま、今も残り続けている。
 雪乃が抱えていたものが分かった。
 褒められることが自分を苦しめるなんて、他人では理解できないかもしれない。人によっては雪乃の言う通り、自慢に聞こえてしまうだろう。
 彼女より完璧な存在がいないから、誰にも理解されないと奥底に閉じ込めてしまう。
 唯一、近い存在だった蒼空には、少しだけ自分を見せれたのかもしれない。
「富田雪乃という存在が自分を苦しめている。褒められたくてやっきたことが今は義務になってる。でもその重荷が下ろすことができない。染みついた思考は言葉も行動も支配する。好きな人にそれを向けたくないの」
――もし、好きな人を嫌いになったら
 あの質問の意味はそういうことだったのか。
 求められる自分を作り上げてきた雪乃にとって、『そうならなければならない』という脅迫概念に近いものが自然と出てきてしまう。
 それが積み重なれば『好き』という大切な気持ちが『嫌悪』に変わる。一歩踏み出せない理由はそれだった。
 雪乃はベンチの下に残る、溶けかけた雪を見ていた。
「雪ってさ、降り続けないと太陽に溶かされてしまう。その存在がなかったように日常が過ぎていくの。幼い頃はそれが怖かった。だから必死に努力した。消えないように。雪はきっと太陽のことが嫌いだと思う」 
 自分という存在が周りによって決まられてしまう。抗ったとしても何もなかったかのように世界は進んでいく。雪乃はその恐怖とずっと戦ってきたんだ。
「千星が部活を見に来てくれた日、私から声をかけたでしょ?」
 ほとんど接点がないのに不思議だった。
「自分と関わりがない人と話したかったの。蒼空がいなくなってから、学校では誰にも相談できなくなった。富田雪乃は誰かに弱音を吐かないから。だから精神的に不安定になってた。私のことを決めつけないでフラットに話せる人がほしかったの。たぶん千星のこと安定剤代わりにしようと思ってた。私、最低でしょ? 一緒に電車乗ったとき、子供が騒いでたでことがあったの覚えてる? あの時も『元気がいいね』って言ったけど、本当はうるさいと思ってたし、かなりムカついた。でも富田雪乃ならこう言うだろうなって言葉を繕ってしまう。そんな自分が本当に嫌になる」
 色んな選択肢があっても『周りが思ってる富田雪乃』が優先されてしまう。それが外の世界とのフィルターになっているんだと思った。
「私も一緒だよ。蒼空に依存してたし、安定剤代わりにしてたのかもしれない。電車で騒いでた子供の母親にも『味噌まみれになればいいのに』って思った」
「ごめん、私はそこまで思ってなかった」
 味噌まみれエピソードを出すタイミングではなかった。寄り添おうとするつもりが引かれてしまった。
「でも千星と話せて良かった。勇気をもらえたし、一歩踏み出そうとも思えた。それに自分のことを誰かに話すなんて一生ないと思ってたから、気持ちが楽になった」
 ありがとう、雪乃は笑顔で言った。もう吹っ切れた、みたいな笑顔で。
「想いは伝えないの?」
 そう聞いたら口を噤んだ。気持ちはまだ彷徨っているように見える。
「誰かのために頑張るってすごいことだと思う。それが義務になってたとしても、もっと自分を褒めていいんじゃないかな。春野くんの存在は大きかったかもしれない。だけど成績もバスケも周りからの信頼も、全部自分の力で得たものでしょ。自分を変えるために、誰よりも頑張ったから富田雪乃がいるんだよ。私はそれを悪いことだと思わない。だから、今までの自分を否定しなくていいよ」
 根本にあるものを変えようとするんじゃなく、認めてあげることが大事だと思った。
 苦しい中で頑張って生きてきたなら、それを肯定してあげたい。それが今の雪乃にとって必要なものだと思う。
「私はずっと受け身だった。蒼空がいたから自分で何かを変えようなんて思わなかったの。でも今は後悔してる。与えられているときは、幸せの価値を知ることはできない。失ったときに初めてその価値に気づけるから。取り戻せないと分かれば想いだけが心に残り、いずれ世界を歪めてしまう」
 もし蒼空が私を選んでなかったら、今も部屋に閉じこもり、世界から取り残されていたと思う。
 卑屈な後悔を垂れ流しながら、命を絶っていた可能性もある。
 知らなかった世界を見れたことで考え方が変わった。そのおかげで新たな道を見つけられた。
 私も蒼空のように誰かの居場所を作れる人になりたい。
「雪乃は私とは逆で、全部一人で抱えこんで道に迷ってしまった。二人ともバランスを崩していたのかもしれない。今までと同じような考えになったら私に相談して。良い言葉はかけられないけど、負担は減らせると思うから。もう一人で無理しなくていい。頼りないかもしれないけど、辛くなったら私がいる」
 ずっとブレーキを踏み続けていた私。ずっとアクセルを踏み続けた雪乃。お互い偏った生き方をしていたのかもしれない。
「雪乃、私と友達になって。片方だけがしがみついているような関係ではなく支え合えるような友達に。背伸びしなくてもいい自由な場所を作ろう。それと、他人に言われて好きな気持ちを捨てる必要なんてないよ。自分が求めるものも大事にして。富田雪乃だろうが、姉の妹だろうが、雪乃は雪乃だよ」
 雪は美しい。だけどその先で咲く花もまた美しい。
 季節を超えらなかったあなたに、春を知ってもらいたい。
「うん……言ってくる。大好きだって、付き合おうって。私の恋だから、私が決める」
 雪乃の目から涙が落ちた。
 雪解けに流れる一滴の雫のように。
 そのあと、私の過去も話した。
 なぜ人を嫌いになってしまったのか、なぜ他人と話せなくなったのか。雪乃はただ静かに、寄り添うように聴いてくれいた。
「私の前では自分らしくいて。私も千星の前では自分らしくいるから」
 話し終えると、雪乃はそう言ってくれた。
「蒼空の前と私の前では違うでしょ? 子供のお母さんを味噌まみれにしようとする千星が見たい」
 それは忘れてくれ。
「分かった」
 降り積もった雪が溶け、花笑むような笑顔がそこにはあった。
 
 お互いの好きなものを話し合っていたら、六限目もサボってしまった。
 私たちが学校に戻ると、下校する生徒たちが昇降口に溢れていた。
「雪乃、どこ行ってたの?」
 下駄箱で靴を履き替えようとしたとき、クラスの女子三人と鉢合わせした。
「面倒くさいからサボった」
 雪乃がそう言うと、三人は隣にいる私に視線を送る。藤沢と? と疑問視した目で。
「雪乃なんかあったの?」
「たまにはそういう時もあるんだよ、私にも」
「なら誘ってよ、私もサボりたかった」
「じゃあ今度サボってうち来ない? 雪乃にお菓子作り教わりたいし」
 その言葉で雪乃は俯いた。表情がだんだんと曇っていく。
「どうしたの雪乃?」
 一人の子が察して言葉をかけた。
 具合が悪いと思ったのか、心配そうに顔を覗いている。
 私は雪乃の背中に手を添えた。『大丈夫、私がいるから』そういう想いを込めて。
「ごめん、私お菓子作れないんだ」
 視線を落としたまま雪乃は言った。肩の震えが私の手に伝わってくる。
 普通の人にとっては何でもない言葉だが、雪乃にとっては長年縛り付いたものを祓う言葉だ。
 そこには痛みが伴うし、きっと不安だと思う。作り上げてきた富田雪乃という存在を否定されるかもしれないから。
「なんだ、言ってよ。じゃあ動画見ながら一緒に作ろう」
 雪乃は呆然としていた。
 本人の覚悟とは反比例し、“できない”ことがすんなりと受け入れられたからだと思う。
「うん。今度作ろう」
 声を震わせながら雪乃は言った。
 長年降り積もった想いが溶けていくように。
「え? 大丈夫?」
 ひとりの子がそう言った。雪乃の顔を見ると目が潤んでいる。
「大丈夫、部活だから行くね」
 靴を履き替え、二人で教室に向かう。
 背中から「藤沢さんと仲良かったんだ」と声が聞こえた。
「友達だからね」
 雪乃がつぶやくように言った言葉を、私は聞き逃さなかった。
 
 部活に行く雪乃と別れ、鼻歌を歌いながら校門を曲がろうとしたとき、男子生徒とぶつかった。
 忘れ物を取りに戻ったきたのか、反対方向から歩いてきた。
 鼻歌を聞かれた恥ずかしさから、私は顔を隠すようにして「すいません」と頭を下げる。
 こんなときに限ってアルマゲドンの主題歌をチョイスしてしまった。
 令和の女子高生にしては渋すぎた。明日から渋沢渋子と呼ばれるかもしれない。
 ぶつかった拍子に肩に掛けていた鞄を落としてしまった。拾おうとしたら相手が先に手をかける。
 相手の顔を見ると、同じクラスの花山翔吾だった。
 短髪で目つきが鋭く、身長も百八十くらいあるからか威圧感がすごい。不良漫画に出てきそうな風貌だ。中学生のときに同じクラスの人を殴ったという噂を耳にしたことがある。
 花山は鞄の持ち手を掴んだまま動かない。早く返してと思っていると、掴んでいた持ち手を離し、私を睨んでから校舎の方へ去っていった。
 何がしたいんだ花山。一度手にかけたなら拾え。そして女の子にぶつかったら謝れ。そのあとは舞踏会に招待して豪勢な料理を振る舞い、お土産にヘッドスパの回数券をプレゼントしろ。私の地元ではみんなそうするぞ。
 ふてぶてしい花山の背中にがんを飛ばし、鞄を拾って校門を出た。

 夜になり岬公園の展望広場に来ていた。これから一週間ぶりに蒼空と会う。
 学校から家に着いて、ずっとソワソワしていた。ソワソワというよりドキドキかワクワクかもしれない。いや、その三つが混ざったものとも言える。とにかく、嬉しいっていうことだ。
 雪乃の背中を押せたことは、ものすごく大きな一歩だった。
 蒼空との約束を果たしただけでなく、自分の変化、誰かの人生に影響を与える、今までの自分では考えられないことをこの一週間でやった。
 何かを待っているだけの人生では得られなかっただろう。これも全部蒼空のおかげだ。だから、会ったときにお礼を言おうと思う。
 直接ありがとうと言うのはなんだか恥ずかしかったので、スワヒリ語で言おうと思った。
 スマホで言語を検索しようとしたとき、夜空に流れ星が降る。
 その光は強い光を携えて展望広場に落ちた。纏う光を徐々に弱めていき、黄色い列車の姿をあらわにする。
 完全に光が消えると、列車の中から結衣さんが出てきた。
「やっほ」
 なんか古臭い挨拶だなと思った。
 結衣さんはニコニコしながらこちらに歩いてくる。 
 駆け寄って挨拶しようとしたら、握り潰すように私の頬を掴んできた。
「今、古臭い挨拶したなとか思っただろ」
「おぼってましぇん」
 頬を思いっきり潰されているためうまく喋れない。
「そうだよね、古臭いなんて千星ちゃんは思わないよね」
 目が笑っていない笑顔を浮かべながら、頬を握る手は力強さを増していく。
「ふぁい。もちろんです」
「よろしい」
 そう言ったあと、結衣さんは私の頬から手を話した。
「じゃあ行こうか」
 列車に向かう結衣さんの背中に「ババアめ」と、聞こえないような声で吐き捨て、後を付いていく。
 すると結衣さんはバッっと私の方を振り向き、
「今ババアって言った?」
「言っておりません。こんな綺麗で奥ゆかしく淑やかで艶やかなお姉様にババアだなんて言うわけがございません」
 蒼空のもとには綺麗な顔のまま行きたかったので、私が知るかぎりの褒め言葉を並べてみた。
「もうそんなに褒めないでよ。おばさんぐらいでいいからね」
 おばさんって言ったらきっとぶっ飛ばされる。
「結衣さん」
「何?」
「あんな派手に落ちてきたら誰かに見られませんか?」
 疑問に思っていたことを聞いた。他の人にはこのことを言うなと釘を刺された。なら見られるのもダメなはずだ。
「この列車は私と千星ちゃん以外見えてないから大丈夫」
「そうなんですか?」
「選ばれしものだけが見えるの」
 選ばれしもの……厨二心をくすぐる。
「じゃあ行こう」
 私たちは列車に乗り、蒼空のもとに向かった。

 空飛ぶ列車から見る星空は、いつ見ても美しいと思える。
 この景色をずっと眺めていたいが、ババ……結衣さんが私の前で絶えず喋っている。
 どういう経緯でその話になったのかは分からないが、今は肉まんの椎茸について語ってる。
 私は「そうなんですね」と「確かに」の二パターンの相槌をうちながら、夜空に浮かぶ星たちを見ていた。
「どうだった、この一週間?」
 急に聞かれたので「確かに」と言いそうになったが、喉元で言葉を引き留め、別の言葉を脳内から引っ張り出した。
「願いって自分で叶えるものなんだなって思いました」
 この一週間で知ったことだ。踏み出すことをしなければ世界は変わらない。
「願いっていうのは待っているだけでは叶えてくれない。行動したうえで、それが咲くように祈りを込める。種を植えるのも、育てるのも、蕾をつけるのも、自分ですること。願うだけでは花は咲かない。それは種のない花壇に水をやるのと一緒」
 結衣さんの言葉が胸に染みた。
 今までは願うだけで花を咲かそうとしていた。
 だけどこれからは、種を植えて育てないといけない。
「蒼空は私に気づいてほしかったのかもしれない。花を咲かせるのは他人ではなく自分だと。今までは小さい角度から世界を見てきた。でも見えていなかった部分に新しい選択肢があった。生き辛くなるのは、知らないことが多いからなんですね」
「良い一週間を過ごしたんだね」
「はい」
 大人の笑みというのだろうか、結衣さん子供の成長を見守るような顔で一笑した。

 流星の駅に着き、結衣さんに見送られながら階段を上った。
 もう少しで会えると思うと心音が弾む。その音に合わせながら駆け上がる。
 ガラス張りの部屋に着くと、星に照らされた蒼空の背中が見えた。窓の前に置かれたベンチに座っている。
「蒼空」
 近くまで行き声をかけると、蒼空が微笑みながら振り向いた。
「久しぶり」
 私の顔はニヤついているだろう。そう思いながら蒼空の隣に座る。
「あのね……」
 私は興奮気味に、この一週間の出来事を話した。
 雪乃が一歩踏み出せかった理由や背中を押せたこと。そして友達になれたことも。
 息継ぎをせずに喋っていたと思う。蒼空はそんな私を優しい表情で見守りながら、ときおり嬉しそうな顔を浮かべていた。
「頑張ったね」
 私が話し終えると、そう言ってくれた。
 好きな人に褒められると、これまでの苦労が嬉しさに変わる。
 特別な言葉ではないかもしれないけど、その一言で私の心音は一音上がる。
「ありがとう」
 スワヒリ語ではなく、ちゃんと日本語で伝えた。
「お礼を言うのは俺だよ」
「ううん、蒼空が私を変えるきっかけをくれたの。もし私を選んでくれなかったら、ずっと過去に縛られたままだった。自分の力で一歩踏み出すことができたのは、蒼空のために頑張ろうと思えたから。だから、お礼を言うのは私のほう」
 勢いで「好きだよ」と言ってしまいそうだったけど、今は胸に仕舞っておこう。
「千星は人を変える力があるんだよ。でもそれを過去に置いてきてしまった。だからもっと自分を信じてほしい。俺も藤沢千星という人間に変えてもらったんだから」
 私が蒼空を変えた記憶はない。むしろずっと依存していた。蒼空がいなかったら本当に一人になっていたし、雪乃とも友達になれていなかった。
「でも良かった、友達ができて」
「うん、私が一番驚いてる」
「あと、もう一つの未練なんだけど……」
「何?」
 蒼空は真っ直ぐな目で私を見てきた。
「花山翔吾と友達になってほしい」
 真実を知りたければ咲いた花ではなく、植えられた種に目を向けること。
 この言葉はかの有名な探偵、藤沢千星が残した言葉だ。そう、今作ったのだ。
 私は現在、校庭の片隅で花山翔吾を観察している。
 なんでこうなったかといえば、
――花山翔吾と友達になってほしい
 蒼空の言葉に、開いた口が開いたまま開いていて、開いたまま開いていたので開いたままになった。
 ようは塞がらなかった。
「花山翔吾って、あの怖い人でしょ?」
「うん」
 私が鼻歌を歌っていたときに、校門でぶつかった男だ。
「私に学校のてっぺんを取れと?」
「いや、喧嘩するんじゃなくて、友達になってほしい」
 無理だ。雪乃のときも同じことを思ったが、今回は流石に無理中の無理の介だ。
「今日、ものすごく睨まれた。あれは完全に私を敵視してた。明智光秀が本能寺に向かうときの目だった。このままだと本能寺の変・シーズン2〜令和炎上編〜が始まってしまう」
 蒼空は間を置かずに「それはよく分からない」と言って話を続ける。
「あまり話したことはないから断言はできないけど、俺は花山が悪いやつではないと思ってる。中学の時にクラスの子を殴ったことも、それなりの理由があると思う。もし話してみて嫌なやつだと感じたら、そのときは未練を叶えなくていい」
「あまり話したことないのに、なんで友達になってほしいの?」
「孤独の中でもがいていそうだったから」
 その理由だけで理解できた。蒼空はそういう人だった。
「花山も何かを抱えていて、だから人を遠ざけるんだと思う。その理由を知りたい」
 雪乃も自分の中だけで苦しんでいた。誰にも相談できずに孤独の中を彷徨っていた。
 もし花山も同じなのだとしたら、その辛さは私にも分かる。
「雪乃の時よりも難しいお願いだと思う。でも話すだけでもいいから試みてほしい。無理そうだったら何もしなくていいから」
 本音を言えば断りたい。
 雪乃は私を受け入れようとしてくれたが、花山は受け入れるどころか弾いてきそうだ。
 話しかけても、きっと一言、二言で会話も終わる。私自身がそうだったから、よく分かる。
 花山も人を避けて高校生活を送っているように思う。よっぽどのきっかけがない限り、友達になるなんて無理だ。
「花山はいつも一人でいるけど、本当は友達が欲しいんじゃないかと思ってる。でも作れない理由がある。話してみてそう感じた。表面には出さないけど、奥底ではきっと何かを抱えている。俺は花山と仲が良いわけじゃないけど、もし道に迷っているなら手を差し伸べたい」
 蒼空がここまで言うのは珍しかった。話してみて、花山に何か感じるところがあったのかもしれない。
 人は表と裏で違う顔を持っている。表で嘘を隠せても、裏に張り付いた苦悩はそう簡単に偽れない。複雑に絡み合い、いずれ自分だけでは解けなくなる。私も雪乃もそうだったように。
「花山が一人で居たいなら私はそっとしておく。でも蒼空の言うように何かを抱えていて、友達が欲しいと思っているなら力になりたい。孤独でもがく辛さは私も分かるから」
 蒼空が私にしてくれたように。
「ありがとう」
 いつものように優しさを滲ませた笑顔を向けてくれた。その顔を見るだけで頑張ろうと思える。
 
 そして今、校庭で花山翔吾を観察している。
 私の知っているかぎり、花山はいつも一人でいる。 
 入学してから、誰かと仲良くしているところも見たことがない。
 怖い人。一年のときからそう言われていたと思う。
 中学のときにクラスの子を殴ったという噂が拍車をかけ、余計に人が寄りつかなくなったのだろう。
 確かに見た目はヤンキーみたいで怖い。でも蒼空が怖くはないと言っていたから、話したら意外と可愛いのかもしれない。
 もしかしたら語尾にピョンを付けてくるのかもしれない。いや、たぶんそれはない。
 ノリツッコミを終え、朝から昼休みまでの観察過程を頭の中でまとめた。
 朝は登校時間ぎりぎりに来て、ホームルームまで自分の席で音楽を聴きながらうつ伏せで寝ている。
 授業中はちゃんとノートを取っている。
 廊下を歩けば周りの人たちは道を開ける。
 目つきが怖いので誰も近寄らない。
 そして昼休みの今、花山はテニスコートの外側で、フェンスに寄りかかりながら購買で買ったチキンカツサンドを一人で食べている。
 ここまで誰とも会話していないし、ずっと一人で行動している。
 一昔前の私みたいだ。そう思うと親近感が湧いてくる。
 ちなみに私は、少し離れたベンチで食事をとりながら花山を観察している。
 ぼっちという属性は一人でいる人間を好意的に見る。もし花山の視界に私が入れば、「あれ、あいつも一人なんだ。めっちゃ良いやつじゃん」となり、私に好印象を持つかもしれない。そうなれば話かけやすくなる。
 だが雪乃と違って、花山は人を寄せ付けない。
 昨日も私を睨んでどこかへ行った。話かけても回避される可能性を考慮しないといけない。かなり難関だ。
 ツンデレのツンだけで好きになってもらうくらい難しい。デレがあってこそのツンだ。デレのないツンはエビのないエビフライみたいなものだ。
 花山は結局、昼休みの間ずっとそこにいた。ただ時間が過ぎるのを待っているように。
 そして何も掴めないまま、放課後を迎えた。
 これでは一生話せないと思い、覚悟を決めて下校時に話しかけることにした。
 昇降口で声をかけようとしたが、今じゃないと思いやめた。
 校門を出るときに声をかけようとしたが、今じゃないと思いやめた。
 駅前で声をかけようとしたが、今じゃないと思いやめた。
 電車の中で声をかけようとしたが、今じゃないと思いやめた。
 花山が電車を降り、改札を出たときに声をかけようとしたが、今じゃないと思いやめ――
 何をやっているんだ私は。これじゃあストーカーじゃないか。今話しかけても「学校からここまで付いてきたの、キモ」と思われるだけだ。
 明日からストーキングレディ藤沢という深夜ドラマみたいな異名がつけられてしまう。そして今もどうしていいか分からず、花山の後ろを歩いている。完全にストーカーだ。私は薄汚れた女になってしまった。蒼空に合わせる顔がない。
 辺りも薄暗くなり、河川敷でサッカーをしていた子供たちも帰る支度を始めていた。
 自宅まで行ったら犯罪者予備軍になってしまうので、駅まで引き返そうと思っとき、
「兄ちゃん」
 一人の子供が堤防を上がってきて、花山に駆け寄ってきた。
 さっきまでサッカーをしていたからか、冬というのに半袖半ズボンだ。兄ちゃんと言っていたから弟かもしれない。
「一緒に帰ろう」
 弟(仮)にそう言われると、花山は「うん」と笑顔を向けていた。
 驚いた、あんな顔もするのか。しかも学校とは違い、雰囲気が優しくなったように見える。
 日曜劇場に出てくる優しいお兄ちゃんみたいだ。ナレーションとBGMをつけたい。
 そう思っていたら弟がこちらを見てきた。
 やばいと思い、咄嗟に鞄で顔を隠す。
 怪しい人に映ってるかもしれない。踵を返し、背を向けたほうがまだ自然だった。しかも見られたのは弟(仮)の方だから、顔を隠す必要はなかったのに。
 鞄を下に少しずらして花山の様子を伺うと、弟(仮)がこちらに向かってきている。
 なんで私の方に来るんだ。いや大丈夫だ落ち着け、たぶん珍しい虫でも見つけたのだろう。たまたま私の方に虫がいただけだ。
 私は鞄を上げて完全に顔を隠した。話しかけてこないよう祈りながら。
「兄ちゃんと同じ学校の人?」
 祈りは通じず、声をかけてきた。 
「私は通りすがりの女子高生。あなたのお兄ちゃんなんて知らないよ」
 テンパって少しだけ声を高くして言ってしまった。アニメのキャラみたいだ。 
「そっか……兄ちゃんの友達かと思ったけど違うんだ……」
 悲しみを帯びた声だった。
 どんな表情なのか気になり、鞄を少し下にずらすと、
「なんで藤沢がいんの?」
 弟(仮)の後ろに花山がいた。怪訝な顔でこちらを見ている。
「道に迷って……」
 無理がある理由だった。学校からここまで電車で一時間。迷ってくるような場所ではない。
 劇場版ちいかわを観に来たつもりが、箱根の森美術館に来てしまったようなものだ。いや、この例えはなんかしっくりこない。ちいかわは現代美術の最高峰だから、あながち間違ってない。
 マサラタウンに行こうとしたのに、渋谷に来てしまったようなものだ。いや、これも違う。あそこはモンスターがたくさん集まるから、あながち間違ってない。
「兄ちゃんの友達?」
 弟(仮)は嬉しそうな顔で花山に問いかけた。
「同じクラスだけど、友達ってわけじゃ……」
「お姉ちゃん、うちに来てよ。すぐそこだから」
 弟(仮)は花山の語尾を摘み取り、その嬉しそうな顔をこちらに向けてきた。
「家?」
「うん。来てよ!」
「いや……」
 私が当惑していると、すかさず花山が入ってきた。
「蓮夜《れんや》、友達じゃなくて同じクラスってだけだから」
「これから友達になればいいじゃん」
 弟(仮)改め、蓮夜くんは私の腕を掴み、
「じゃあお姉ちゃん行こう」
「へ?」
 私は引っ張られる形で後を付いていく。河川敷にいた友達に「また明日ね」と手を振る蓮夜くんの顔は喜びに満ちていた。
 後ろを振り返ると、思い悩んでいるような表情で立ち尽くす、花山の姿が目に入った。  
 
「兄ちゃんの友達が家に来るの久しぶりなんだ」
 蓮夜くんは楽しそうに笑いながら、キャラクターが描かれたグラスをコーヒーテーブルに置き、そこに紙パックのオレンジジュースを注いだ。 
 私は花山の部屋に来ていた。
 モノトーンで構築されたシンプルなレイアウトで、窓際の背の低い本棚の上には、枝だけが伸びた植木鉢が置かれている。
 母親が同窓会に行っているため、家には私を含め三人だけらしい。
 この五年間、蒼空の家を除けば、よそ様の家に来たのは初めてだった。
 他人の家というのは、こうも落ち着かないのか。ソワソワしたものが胸の辺りを這いずり回っているようだ。
「じゃあゆっくりしていってね」
 蓮夜くんはそう言い、部屋を後にした。
 気を遣ったのか分からないが、かなり気まずい。あまりよく知らない親戚の叔父さんと、二人きりでいるときのようだ。
 ベッドに腰を掛けている花山を横目で見ると、床に視線を落とし一点を見つめていた。何かを考えているようにも見える。
 お互い何も発さないまま会話が枯れた。枯れたというか咲いてもいない。
 私は話の種を探すため部屋を見渡した。
「何育ててるの?」
 とりあえず、本棚の上の植木鉢を種にする。そこから会話を育てていこう。
「夜香木《やこうぼく》」
「木?」
「夜にだけ咲く花」
 なんかオシャレだ。
「いつ咲くの?」
「夏頃」
「じゃあまだ先だね」
「……」
 会話が終わった。これが映画なら開始数秒でエンドロールが流れている。
「この間、雪降ったよね」
「うん」
「……」
「最近寒いよね」
「うん」
「……」
「お鍋が食べたくなるね」
「うん」
「……」
 会話がうまくない同士だと各駅停車になる。しかも駅と駅の間隔が徒歩一分くらいの距離にあるから止まるのも早い。
「たまに蒼空とお昼ご飯食べてたみたいだね」
 最終兵器を使った。まだ部屋に来て五分も経ってないが。
「……仲良かったわけじゃないけど」
「そうなんだ。私は蒼空と小学校から一緒だったの。幼馴染ってやつかな」
「知ってる」
「蒼空から聞いた?」
「うん」
「そっか……」
 話を繋げ、藤沢千星。お前ならできる。
「蒼空とどんな話してたの?」
「別になんも話してない。一緒に飯食ってただけ」
 男子高校生なんだからスケベな話しくらいしろ。
「そうなんだ……」
 雪乃との会話を思い出せ。
 確かあの時は、好きな映画の話をしてくれて、駅まで場を繋いでくれた。
「枯木青葉って作家がいるんだけど知ってる?」
「知らない」
「私、その人の小説が好きなの。都市伝説をモチーフにしてるんだけど、主人公が孤独を抱えて……」
「藤沢」
 これからと言うところで、花山は話の腰を折ってきた。
「俺が中学の時の話、知ってる?」
 たぶんクラスの子を殴った話だろう。
「うん」
「それ弟には言わないでくれ」
 といことは、あれは噂ではなく本当だったということか。それと蓮夜くんは知らないようだ。
「分かった」
「奥村と住んでるとこ同じだろ? ここからだと一時間以上かかるから、もう帰ったら」
 花山からしたら確かに迷惑だ。蓮夜くんに連れてこられたとはいえ、急によく知らないクラスメイトが部屋に来たら、私だって帰ってほしいと思う。
「……じゃあ帰るね。また明日」

 花山の家から駅に向かっていた。
 結局、何の成果もあげられずに一日を終えてしまった。友達になるどころか会話すらままならない。
 花山はこちらの投げたボールをその場に捨てるような返答だった。
 雪乃ならそれでも拾って会話を広げるのかもしれないが、私の会話の守備範囲では拾うことすらできない。
 途方に暮れていると、「お姉ちゃん」と後ろから呼び止められた。
 振り返ると、蓮夜くんが走って向かってくる。急いで来たのか、足元を見るとサンダルを履いていた。
「どうしたの?」私がそう聞くと、蓮夜くんは息を切らしながら「もう帰るの?」と寂しそうな顔で言った。
「うん」
「じゃあ駅まで送ってくよ」
「ありがと、でも遅いから大丈夫だよ」
 蓮也くんは息を整えている。表情を見ると、何か言いたいことがあるが、言い出せずにいるように感じた。
「お姉ちゃんは、兄ちゃんの友達じゃないの?」
 落ち着きを取り戻したあと、不安が滲むような声で聞いてきた。
「クラスメイトかな」
「そっか……」
 冬の木々から葉が落ちていくように、蓮夜くんは表情を枯らした。
 その顔に心苦しくなり「友達だよ」と思わず嘘をついてしまった。
「本当に?」
 蓮夜くんの顔に笑顔が咲いた。
 嘘を信じた純粋な少年に、罪悪感が胸を這うようだった。
「……うん」
「じゃあまた来てよ。今度三人でゲームしよう」
「分かった」
 造花のような笑顔で答えた。蓮夜くんのためと言い訳をしながら。
 駅まで見送くられ「またね」と手を振られた。私も振り返すが、いつもより腕が重く感じた。

 教室に入ると花山に呼び止められた。いつもギリギリで来るはずなのに、なぜか今日は私よりも登校が早い。
「何?」
「ちょっと来て」
 後を付いて行くと、屋上前にある踊り場まで来た。下の階から生徒たちの笑い声が微かに耳に入る。
 花山は視線を突き刺すように私を見てきた。空気が急に重くなり、緊張が腹の奥から脳天に向かって走る。
「昨日、弟に友達って言った?」
 重低音を響かせた声が心臓にのしかかる。
「うん……」
「勝手なこと言うのやめろ。迷惑だから」
「ごめん、蓮夜くんの顔みたらつい……」
 蓮夜くんの名前を出したとき、花山の顔色が変わった。怒りが枯れ落ちて、そこから悲しみが芽生えてくるように。
「昨日は弟が悪かった。でも……」
 花山は言いかけた言葉を飲み込んだように見えた。そこから数秒の沈黙を置き、再び口を開く。
「もう関わらないでくれ」
 そう言って階段を降りていった。悔やむような表情を残して。
 人は心に何かを抱えている。見えない境界線がその人の中にあって、知らないうちにその線を踏んでしまうことがある。
 もしかしたら私も踏んでしまったのかもしれない。
 そう考えると一歩踏み出すことが怖くなった。花山と友達になってという蒼空の願いは、流れ星のように消えてしまいそうだった。

 移動教室の際、雪乃に花山のことを聞いてみた。
「話かけても、すぐに切り上げられちゃうからよく分からない」
 雪乃にもそうなのか。私なら尚更だ。
「花山くんて自分から人を遠ざけてるよね。目つきとか怖いけど、なんか作ってるというか、来るなって言ってるような感じ」
 蓮夜くんといたときが本来の花山ならそうなのかもしれない。でも何でわざわざ嫌われるようなことをするのだろう。
「何で花山くんのこと知りたいの?」
 ギクッ、漫画でしか見たことない擬音が頭の中で鳴った。
 そう聞かれると予想できたのに、今朝のことで頭が回らなかった。
「蒼空がたまに話すみたいなこと言ってたから、どんな人なのかなーと思って」
 瞬時に脳内をフル回転させて絞り出した。
「私や千星と同じかもね」
「同じ?」
「何かに縛られてるように感じる。何となくだけど」
 蒼空も言っていた。何かを抱えているかもしれないと。
 雪乃の時と同様、それを聞き出せたらいいんだが、関わるなと言われてしまった。
「花山の噂知ってる?」
「中学のとき、同じクラスの子を殴ったってやつ?」
「うん」
「私はあんまり興味なかったけど、一年のとき結構話題になったよね」
「何でクラスの子を殴ったのかな?」
 もし何かを抱えているとしたら、この事件が影響しているかもしれない。
「聞いてみる?」
「誰に?」
「3組に相澤さんっているでしょ? その子が花山くんと同じ中学だよ」
 その子がみんなに花山のことを話したということか。
「話し聞きたいなら昼休みに誘おうか? 私も人伝てで聞いただけだから、本当のところは分からないし」
 過去を知ることも大事だ。クラスメイトを殴った理由も知りたい。もしかしたらそこに何かあるのかもしれない。

 昼休み、空き教室で相澤さんを交え、三人で昼食をとった。
 雪乃と相澤さんはそこまで親しくないみたいで、誘ったときに驚いた顔をしていた。
「花山くん、中学の時はあんな感じじゃなかったの」
「そうなの?」
 雪乃が合いの手を入れる。
「うん、もっと優しい感じだった。奥村くんみたいな」
 蒼空と同じ……想像つかない。それは雪乃も同じようだった。「え?」ていう顔をしている。
「高校からだよ、あんなに目つきが悪くなったの。あんなヤンキーみたいじゃなかった。中学のときはみんなから慕われてたし、友達も多かったと思う。でも三年のときに、花山くんが仲の良かった男の子を殴ったの。相手の子は頭に包帯を巻いて、顔にはガーゼを何枚か貼ってた。酷いよね、いくらなんでもやりすぎだよ」
「花山くんは何で殴ったの?」
 私が聞こうとする前に雪乃が聞いた。
「花山くんがその子にお金を貸してたみたいなんだけど、なんかすれ違いでトラブったみたい」
 金銭トラブルか……ややこしそうだ。
「私ガッカリしちゃった。花山くんのこと好きだったのに」
 当時を思い出したのか、彼女は箸で掴んだハンバーグにため息を吐いていた。
「花山は本当にその人を殴ったの?」
「殴ったのは本当みたい。本人もそう言ってたから。でも一発しか殴ってないし、包帯とガーゼを見て大袈裟すぎるって言ってた。それ聞いてさらに引いちゃった。殴った人が言うことじゃないじゃん。本当に幻滅しちゃった」
 再びハンバーグにため息を吐く。何だかハンバーグが可哀想に思えてきた。
「それから、花山くんは一人でいるようになった。話しかける人も、ほとんどいなかったんじゃないかな」
 そのあと、弁当を食べ終わった相澤さんは自分のクラスに戻って行った。
 空き教室には、大きな穴が空いたような余韻が残る。
「雪乃はどう思う? さっきの話」
「なんか腑に落ちない。もともとは蒼空みたいな人だったんでしょ? そんな人がそこまでやる? 花山くんがお金を貸してたなら尚更。本当のところは分からないけどさ、なんかありそう」
 同感だ。蓮夜くんといた時の顔を見ているから余計にそう思う。
「て言っても本人には聞けないよね。あのとき何があったのなんて。花山くんも嫌がるだろうし」
「花山の弟に、家に来てって誘われてる」
「何で? しかも弟って」
 雪乃に昨日のことと、今朝のことを説明した。
 もちろん私がストーカー紛いのことをしてたのは言ってない。買い物してたら河川敷でたまたま会ったと伝えた。
「なんか少しだけ私と似てる」
 雪乃は花山の話を聞き、そう答えた。
「花山くんは蓮夜くんの前では良いお兄ちゃんでいたいのかも。私も両親に見てほしくて頑張ってたから、なんか分かる」
 雪乃は求められる自分を作り続けてきた。それが自分を苦しめることになって生きかたを見失った。花山も自分の中に何かを抱え、その何かに縛られているのかもしれない。
「本当の花山くんってどんな人なんだろうね?」
 雪乃がそう言ったように、私も知りたいと思っていた。蒼空も殴ったという話は聞いていたはずだ。そのうえで花山と接していた。しかも私に友達になってほしいとお願いしてきた。きっとそれには意味があるんだと思う。
 中学で孤立した彼は高校でも孤立している。それも自らそうなるように。そこにも意味があるはずだ。
「花山にもう一回話しかけてみる」
「関わるなって言われたんでしょ?」
「花山は本音を吐き出す場所を求めてるかもしれないし、誰かに救ってほしいとも思ってるかもしれない。本心は分からないけど、もしそうなんだとすれば、きっと今すごく苦しいと思う。孤独の中で生きる辛さは私も知ってるから。本当に迷惑だったらもう関わらないし、花山の言う通りにする。でも何も分からないまま終わりにはしたくないかなって」
「じゃあ私も協力する。形は違えど孤独の中で生きる辛さは私も知ってるから」
 雪乃の言葉で一人ではないんだと思った。なんだか私が救われる。
 次は私が誰かの光になれるようになりたい。蒼空のように。
学校が終わり、花山にどう話しかけるかを考えながら自宅近くの並木道を歩いていた。
 関わるなと言う相手に話しかけるのは、初期装備でラスボスに挑むくらい難しい。
 いや、なんかしっくりこない。
 関ヶ原の戦いに手刀だけで挑むくらい難しい。
 いや、手刀を極めたら案外いけそうだ。
 エリンギ一本で宇宙人の侵略を阻止するくらい難しい。
 いや、エリンギのポテンシャルを考えたら難しいことじゃない。
 膝の裏でポメラニアンを育てるくらい難しい。
 よしこれにしよう。
 関わるなと言う相手に話しかけるのは、膝の裏でポメラニアンを育てるくらい難しい。
「千星ちゃん」
 本年度ナンバーワンの比喩が飛び出したとき、後ろから声をかけられた。
 振り向くと、手を振りながら歩いてくる結衣さんの姿が視界に入った。
「何でいるんですか? 蒼空と会うのはまだ先ですよね?」
「会うのはまだ先なんだけど、言伝を蒼空くんから預かってきた」
「言伝?」
 何だろう? 言い忘れたことがあったのかな。
「蒼空くんにはもう一つ未練があるの」
「何ですか?」
「妹を救ってほしい」
 美月ちゃんのことだ。でも救ってほしいというのはどういうこと何だろう?
「蒼空くんが亡くなる前から、学校も行かずに家に引きこもってるんだって。理由も分からないから、せめてそれだけでも聞いてほしいって言ってた」
 美月ちゃんが学校に行ってないことは知らなかった。蒼空と一緒に絵具を買いに言ったときは、そんな話をしていなかった。
「何で今なんですか?」
「千星ちゃんの負担を増やしたくなかったんだって。学校生活だけでも大変でしょ? だから無理しなくていいって言ってたよ」
 蒼空が亡くなってから蒼空の家には行っていない。正確に言えば行けなかった。私があのとき逃げなければ……そう思うと、どんな顔で行けばいいのか分からなかった。
「じゃあ私は行くね。今ある未練も頑張って」
 そう言って結衣さんは去っていった。
 頬にあたる風が先ほどよりも冷たく感じる。そのせいか、指先が震えて上手く動かせなかった。
「無理しなくていいか……」
 その言葉を反芻しながら、澄んだ空に向けて息を吐いた。
 白煙のように濁る息は、冬と同化するように刹那に消えていった。
 
 朝から昼休みにかけて、花山に話かけようと何度か試みた。だが私が近くに行くと離れていってしまう。
 完全に距離をとられている。
 でもどうにか話したかったので、花山の家まで行くことにした。
 それを雪乃に言ったら、「私も行く」と言ったので、二人で花山の家に向かっていた。バスケ部は週末のどちらかと水曜日が休みらしい。
 私たちは先に学校を出て、花山の自宅付近で待機した。今は電信柱で身を隠しながら家を見ている。
「なんかストーカーみたいじゃない?」
「大丈夫」
 駅の売店で買った牛乳とあんパンを鞄から取り出し、雪乃に渡した。
「今の私たちは女子高生じゃなく、張り込みをする刑事だから。ストーカーじゃない」
 無理矢理な理論で罪悪感を消す。
「ねえ警部、花山くんが帰ってきたらどうするの?」
「家に入ったらインターホンを押す。中に蓮夜くんがいたら開けてくれると思うから、そしたら突入する。流石に家まで来たら逃げられないでしょ」
「蓮夜くんがいなかったら?」
 雪乃はあんパンを食べながら言った。
「出るまで押す」
「ものすごい迷惑だね」
 実際出なかったら帰ろうと思う。また別の方法を考えて話すきっかけを作る。現時点では話しかけても避けられるだけだから、家に行くという方法以外に思いつかなかった。
「お姉ちゃん?」
 二人で振り向くと、ランドセルを背負った蓮夜くんが声をかけてきた。
「蓮夜くん」
「また来てくれたの?」
 蓮夜くんは嬉しそうな顔で私を見たあと、雪乃に視線を送る。
「こんにちは。お兄ちゃんと同じクラスの富田雪乃です」
 雪乃はにこやかに自己紹介をした。
「兄ちゃんの友達?」
 雪乃は困った表情で私を見てきた。
 『友達』と言うと花山に怒られるし、かと言って『クラスメイト』と答えると、蓮夜くんは昨日みたいに悲しんだ顔をする。
 どうしようかと、私が目を泳がせながら逡巡していると、
「兄ちゃん」
 蓮夜くんが私たちの後ろ向けて手を振った。家の方を見ると、歩いてくる花山がいた。
 花山は私を見るなり、呆れたように小さく息を吐いた。

 四人でファミレスに来た。
 窓際の四名席に案内されたあと、蓮夜くんがメニューを開く。
「何か食べたいのある?」
 雪乃が優しく問いかけた。
 私が「エスカルゴのオーブン焼き」と答えると、『お前じゃねーよ』という視線で雪乃と花山に睨まれた。
 蓮夜くんは私に気を遣ったのか、「じゃあそれにしよう」と言ってくれたが、雪乃が秒で却下し、ドリンクバーとフライドポテトを注文した。
「飲み物は何がいい? 僕が持ってくるよ」
 蓮夜くんが嬉々に言う。
 私と雪乃がメロンソーダをお願いすると「一人じゃ持てないだろ」と花山は言い、一緒に付いて行った。たぶん気まずかったのだろう。
 ここに来たのも花山の提案だった。
 たぶん部屋に上げたくなかったんだと思う。閉鎖された空間に私といれば、自分の部屋なのに監獄みたいになる。かといって、嬉しそうにする弟の前で追い払うこともできない。
 強引に選択させたことと、蓮夜くんをだしに使ったことを、今になって申し訳なく思った。
 二人が飲み物を持ってテーブルに戻ってきたあと、フライドポテトもテーブルに運ばれてきた。
「蓮夜くんは何年生?」
 雪乃が聞くと、蓮夜くんはポテトを頬張りながら六年と答える。
 それから学校で流行ってること、好きな漫画やアニメなどを話してくれた。
 雪乃が上手く相槌を打ちながら、澱みなく会話を繋げていて、さすがだと思った。
 私は正面に座る花山をバレないようにチラッと見る。やり場のない気持ちからか、ずっと窓の外を見ていた。グラスに入った二杯目のコーラは三分の二ほど飲まれている。
「トイレ行ってくる」
 花山はそう言い、店の奥に向かっていった。
「兄ちゃんて、優しいから学校でも人気者でしょ?」
 唐突に聞かれた質問に、ポテトを口に運ぼうとした手が止まった。隣を見ると雪乃も同じだった。
 沈黙すら許されない質問だっため「そうだね」と雪乃が答え、動揺を隠すようにポテトを口に入れた。
「兄ちゃんてすごいんだよ。倒れてるおばあちゃんを助けて、警察に表彰されたんだ。友達もたくさんいて、よく家にも来てた」
 兄のことを語る弟は、自分のことのように誇らしげに話している。
「でもね、中学三年の秋ぐらいかな。その頃から友達が来なくなった。兄ちゃんは受験だからって言ってたけど、学校のことも話さなくなったんだ」
 クラスの子を殴ったときだろう。蓮夜くんはそのことを知らないから不思議に思ったのかもしれない。
「高校に入ってからも学校の話をしない。友達はいるよって言ってたけど、全然家に来ないから心配してたんだ。でもお姉ちゃんが昨日来てくれて安心した。兄ちゃんが嘘ついてるのかなって思ってたけど、やっぱり人気者なんだね」
 その喜ぶ顔に胸が苦しくなる。私が昨日ついた嘘は、蓮夜くんを安心させるという意味では正しかったのかもしれない。でもついてはいけない嘘のような気もした。
 心が天秤のように揺れるたび、心臓に痛みが走る。
「これからも兄ちゃんの友達でいてね」
「うん……」
 私も雪乃も笑顔を無理やり作る。たぶん目の奥は笑えてない。
 二度目の嘘をついてしまった。でも『友達じゃない』なんて言えない。嘘で人を救えるのならつくべきだと思う。だが、何も変わらない張りぼての未来に、希望というものは微笑まない。瞬間的に傷は癒せても、その傷が消えたわけではないのだから。
 蓮夜くんはこのあとも、兄の良いところをいくつも話した。
 トイレから戻ってきた花山は、蓮夜くんの話を制止しようとした。だが払いのけるようにして、蓮夜くんは兄のことを語り続けた。
 ドリンクバーとトイレを往復する花山は、積んでは降ろすを繰り返す、配送ドライバーみたいだった。

 私たちは堤防の舗装された道を歩いていた。外はすっかり暗くなり、日中に萎れていた星が夜空に咲いている。
 蓮夜くんはしゃべり疲れたのか、花山の背中でぐっすりと眠っていた。
「蓮夜くんにとって自慢のお兄ちゃんなんだね。花山くんは」
 雪乃が花山に向かって言葉を投げるが返ってこない。
 私たちは花山の後ろを歩いているため表情は見えない。今どんな顔をしているんだろうと想像するが、迷惑そうにしてる顔しか頭に浮かばなかった。
「なあ」
 ずっと黙っていた花山が声を発する。
「昨日も言ったけど、俺にもう関わるな」
 やっぱり怒っていた。言った次の日に家に来られたら誰だって怒る。
「蓮夜くん心配してたよ。学校のこと話さなくなったから」
 私と花山の間に流れる澱んだ空気を切るように、雪乃が割って入る。
 中学のことを聞きたいが、眠っているとはいえ蓮夜くんの前では憚られる。それは雪乃も一緒なのかもしれない。だから間接的に引き出そうとしているようにも思えた。
 花山は再び口を閉ざした。沈黙のせいか足音がやけに響くように感じる。
 このままだと何も変わらずに、また明日を迎えてしまう。今すぐ変わらなくてもいいから、きっかけとなる種を作らないといけないと思った。
「私はこの間まで蒼空しか友達がいなかった。でも蒼空は友達が多いから、孤独を感じることがたくさんあったの。ずっと他人のことが嫌いで、蒼空以外の人と関わるのを避けてきた。でも最近になって分かった。人は何かを抱えていて、それに縛られながら生きている。その人の中にあるものが、物事や自分を歪ませてしまう。もし花山の中にも傷や痛みがあるなら、一人で背負わなくてもいいと思う」
 私の言葉がブレーキになったのか、花山が急に立ち止まった。
 それに倣い、私と雪乃も立ち止まる。
 言葉を待ったが、耳に届くのは静けさを強調する風の音だけだった。
 時間だけが過ぎていき、諦めかけたときだった。花山が重い沈黙に言葉を挿した。
「迷惑なんだよそういうの。お前うざいよ」
――うざい。あの日のことがフラッシュバックしそうになる。
「勝手に来たのは謝るし迷惑かけたのも謝る。でも、千星の前で『うざい』って言葉は二度と使わないで」
 蓮夜くんがいたからだろうか、雪乃は冷静に言った。
 雪乃には私の過去を話した。だからそう言ってくれたのだろう。それが心強かった。
「もう来ないでくれ、迷惑だから。それと……学校でも話しかけないでほしい」
 そう言って花山は歩き出した。
 厳しい言葉ではあったが、言い方は優しかった。

 駅のホームには会社帰りのサラリーマンや、スマホをいじりながらヘッドホンをする高校生など、これから帰宅するであろう人たちが散見する。
 私と雪乃はホームに設置されたプラスチック製の青いベンチに腰を下ろした。
「人を避ける根本的な理由があるんだと思う」
「中学でクラスの子を殴った時かな」
 雪乃の問いに、そう返す。
「私も千星も過去に縛られながら生きてきた。もしかしたら花山くんもそうなのかもしれない。人って過去が影響して内面が形成されていくんだと思う。環境や周りの人間、何を求めて生きてきたか。もし変わりたいなら、その過去と向き合う必要がある。でも簡単にできるものではない。長年染みついた思考の癖は言動を支配するから。私は千星に変えてもらえたけど、一人だったら今も苦しんでたと思う。もし何かに縛られて生きているなら、花山くんにも誰かが必要なのかもしれない」
 今の自分を支配しているもので、世界の見えかたは変わる。
 花山の中にあるものが他人の見えかたを変えているなら、その起因となるものを知らなければならない。でも固く閉ざした奥底の言葉は、簡単には聞けそうになかった。
「花山くんがどんな人なのかって話しだったのに、方向性が変わってきちゃったね」
 そうだった。蒼空がたまに話すからどんな人なのかな、って雪乃には言ったんだ。
 本当は蒼空に友達になってと頼まれたのだが、それを言ったら記憶を消すと結衣さんに言われている。そして蒼空にも会えなくなる。雪乃には話したいがやめておこう。
「雪乃はたくさん友達がいるでしょ? もし花山みたいに、周りの人間が離れていったらどう思う?」
 私よりも雪乃の方が理解できそうだと思った。
「人を殴ったっていう理由があるから難しいところだけど……でも話は聞いてもらいたよね。それだけの理由があると思うから。実際どうだったんだろうね花山くんは。聞いてもらえたのかな?」
「それも聞いてみたい」
「でもあそこまではっきりと『話しかけないで』って言われると、聞くのは難しいよね」
 雪乃の言う通りだった。まるで国境のような線を引かれ、足を踏み入れることすら困難になった。
 話しかけることが、銃口を向けることと同等の行為にも感じた。

 登校する生徒たちで賑わう昇降口に花山がいた。
 昨日家に帰ってから考え、今日は話しかけるのをやめた。無理に近づけば傷をつけるかもしれないので、自重することを決めた。
 花山の後ろ姿を横目に、大人しくしていようと自分に言い聞かせる。
 が、昼休みになって事情が変わった。
 私が屋上前の踊り場で昼食をとっていると、階段を上がってくる足音が耳に入った。
 この場所は人が来ることはあまりないが、たまに隠れんぼや鬼ごっこをしている生徒がやってくる。
 そういう場合は心の中で『クソ野郎』とつぶやき、私がここを離れる。
 弁当を素早く片し、心の中で『クソや……』と言おうとした時だった。
「用って何?」
 一つ下の踊り場で足音が止まり、聞いたことのある声が聞こえた。
 この場所は、階段を上がった横のスペースは壁に覆われており、下からは見えないようになっている。
 私は壁に身を隠しながら、そーっと下を覗くと、女の子が立っていた。
 対面する形でもう一人いるみたいだが、もう少し身を乗り出さないと見えない位置にいた。
 でも声を聞いて、その相手が誰かは想像できた。
「急に呼び出してすいません。あの……」
 敬語だから一年生なのかもしれない。女の子は緊張しているみたいで、後ろで組んだ指先が忙しなく動いている。
 あの……と言ってから彼女は何度も小さく息を吐く。自分を落ち着かせているのだろう。
 そして大きく息を吐いたあと、勢いよく頭を下げた。
「連絡先を交換してくれませんか」
 勇気を出した彼女に心の中で拍手を送る。その一言はきっと、何度も喉元で引っかかっては胸の奥に戻っていっただろう。
 よく言った、そう思いつつ不安はあった。なにせ相手が相手だから。
「……あのさ」
 彼女からの言葉を受け取ったあと、少ししてから言葉を返した。
「何で俺なの?」
「前からかっこいいなと思って」
 女の子は顔を上げ、照れながら答える。
「俺の噂とか聞いてないの?」
「噂って何ですか?」
 やっぱり一年生だった。上級生に知り合いがいないのかもしれない。いたら聞いているだろう。 
「そういうの……やめてほしい。面倒だから」
 女の子は今にも泣きそうな顔をしている。勇気を出して言った言葉は、咲くことを知らないまま枯れていった。いや摘み取られた。
「そうですよね……ごめんなさい」
 涙を堪え、声を震わせながら彼女は階段を降りていく。
 それを見た私は、一瞬で感情が沸点を超えた。
「花山!」
 私は花山に詰め寄った。
『何でいるんだよ』そんな顔をしている。でも知ったこっちゃない。
「お前……」
 花山が何か言おうとしたが、その言葉食って感情を吐き出した。
「あの子は勇気を出して花山に連絡先を聞こうとしたんだよ。それを受けるか断るかは好きにしたらいい。でもね、その勇気を踏み躙ることは私は許さない。好きな人に傷つけられることがどんなに辛いか分かる?」
 もし蒼空に同じことを言われたら……そう思うと胸が張り裂けてしまいそうだった。
 あの子は今日まで気持ちを抱えながら、花山に言葉を届けたのだと思う。それを無下にしたことが許せなかった。
「ていうか何でお前がいるんだよ」
「私が先にいた」
「そうだとしても、お前に言われる筋合いはない」
「そうだよ。私はまったく関係ない。でも言う」
 呆れたように息を吐いた花山は、その場から立ち去ろうとする。
「待て、まだ終わってない」
 花山は立ち止まって振り向く。
「だから何度も言ってるだろう。もう俺に関わるなよ。関係ないことまで口を挟むな。迷惑なんだよ」
「迷惑だろうが関わるよ。だって蒼空に頼まれたから」
 花山は怪訝な顔をした。
 その表情の意味が分からなかったが、少ししてから自分の言ってしまったことに気づいた。
「あの……前にそう言われた」
 勢いを失くした言葉が、私と花山の間を漂う。
「そうだとしても、もう関わるな」
「嫌だ」
「だから関わるな」
「絶対嫌だ」
「だからそういうのがうざい……」
 吐いた言葉を花山は飲み込んだ。
 昨日、雪乃に言われたことを思い出したのかもしれない。
「お願いだから関わらないでくれ。苦しくなるだけだから」
 花山は目を伏せながら言った。これ以上は踏み込んではいけない。そう思ったが、その苦しそうな声と表情は助けを求めてるように聞こえた。
「何でそんなに人を避けるの? 中学のときに何があったの? 私は花山の口から聞きたい。他人の言葉ではなく花山の言葉で」
 一瞬だが、花山の目に涙が見えた気がした。でもすぐに背を向けられたため、それが何かは分からなかった。
「もういいから、ほっといてくれ」
 その言葉を残して、花山は階段を降りていった。

 花山はホームルームが終わるとすぐに教室を出た。私に話しかけられるのを嫌がったのかもしれない。
 それを見て私の中に迷いが出た。冷静になって考えたら自分勝手すぎたと思う。私の考えを押し付けて花山を困らせている。
 でもこのままでいいのかという想いもある。私はこの短い間で考え方が変わった。この変化は私にとってものすごく良いことだった。
 だからこそ花山にも押し付けてしまいそうになる。これが自分よがりで迷惑なだけなら、今すぐにやめるべきだと思った。
 私も今まで人を避けてきた。他人と接するという経験値のなさが、自分の行動に迷いを生む。
 何が正解か分からない。そう思いながら校門を出ると、「お姉ちゃん」という声が聞こえた。
 誰だと思い振り向くと、駆け寄ってくる蓮夜くんが視界に入った。
「どうしたの?」
 そう問いかける私の顔に困惑が滲んでいたのか、払拭するように説明を始めた。
 蓮夜くんが言うには、今日は創立記念日のため半日で学校が終わったらしい。ここまでの道はホームページで調べたみたいだ。手には印刷した地図が握られている。
「すごいね、一人で来たんだ」
「うん」
「でも、お兄ちゃん帰っちゃたかも」
「知ってる。さっき見たから」
 よく分からなかった。兄を迎えにきたのではないのか?
「お姉ちゃんに会いに来た」
「私?」
「うん」

 十分ほど歩き、住宅街の中にあるパン屋に着いた。ここは学校の生徒もよく来ているが、放課後は駅前のファーストフードやカフェに行く。
 今は私と蓮夜くんだけだった。
 店内にはパンを販売しているスペースと、飲食スペースが五席ある。パンと紙パックのオレンジジュースを買い、席に着いた。
 私は塩クロワッサン、蓮夜くんはメロンパンを選んだ。
「何で会いに来たの?」
 蓮夜くんはメロンパンを口に運ぼうとしていたが、手を止めてお皿の上に戻した。
「兄ちゃんが、もうお姉ちゃんたちは来ないって言うから、本当かどうか確かめにきた」
 蓮夜くんは私たちが来たのを嬉しそうにしていた。それは花山も分かっていただろう。そのうえで酷なことを弟に告げた。
 それだけ私が嫌いなのか、それとも人と関われな絶対的な理由があるか。
 蓮夜くんはメロンパンに視線を預けている。私を見ないのは、もし本当だったらという気持ちの現れかもしれない。
「分からない」
 そう答えたのは、今後の花山と私の関係性次第だからだ。本当にどうなるのか分からない。今のところ花山の言った通りになりそうだが。
「お姉ちゃんは兄ちゃんの友達なんだよね?」
 メロンパンに視線を置いたまま、蓮夜くんが聞いてきた。
 店内のBGMは最近流行りのアイドルの歌だった。先ほどまでは気づかなかったが、今は鮮明に鼓膜に響く。
「ごめん蓮夜くん、嘘ついてた。本当は友達じゃない。ただのクラスメイト」
 本当のことを言うことが必ずしも正しいのかは分からない。目の前にいる男の子は悲しそうな顔をしている。
 だけど、このまま嘘をつくのは余計に蓮夜くんを傷つけてしまうような気がした。
 私の視線は、いつの間にか塩クロワッサンに落ちていた。
「本当は分かってたんだ」
 その言葉で再び蓮夜くんに視線を戻した。
「お姉ちゃんたちが僕に気を遣ってるって。兄ちゃんの良いところをいっぱい言えば、もしかしたら友達になりたいと思うかもしれない。そしたらまた、兄ちゃんも昔みたいにたくさん笑ってくれる……そうなってほしかった。最近の兄ちゃんは、一人でいると寂しそうな顔をよくしてるんだ。僕が話しかけると笑った顔を作ってくれるけど、それを見てるのが辛かった」
 河川敷で声をかけられたとき、おかしいと思った。どこの誰かも分からない人間に普通は話しかけない。蓮夜くんなりに頑張っていたんだ。大好きお兄ちゃんのために。
 あのときの私は怪しい人間だったと思う。でも蓮夜くんからしたら、希望に見えたのかもしれない。もしかしたら友達かもと。
 一人でいる花山を救いたいと願っていた。家に連れてったり、わざわざここまで会いに来たのは、全部お兄ちゃんのためだったんだ。
「ねえ蓮夜くん、今はただのクラスメイトだけど、私は友達になりたいと思ってる」
 蓮夜くんは顔を上げた。悲しみの底に光が射し込み、それを見上げるように。
 私の中に迷いはあった。無理に花山と関わるべきかどうかと。でも蓮夜くんを見て覚悟が決まった。この選択が正しいのか間違っているのかは、私次第だと思う。
「任せてとは言えないけど、私なりに頑張ってみる」
 そう言うと、蓮夜くんはメロンパンを食べ始めた。泣きそうになる自分を抑えるようにして。
 食べ終わると、ごちそうさまの代わりに「ありがとう」と言った。鼻水をすすりながら。
 明日、花山と話してみよう。迷惑に思うかもしれないが真っ直ぐ向き合いたい。蓮夜くんを見てそう決めた。

 登校する生徒たちの中に花山の後ろ姿を見つけた。私は駆け寄って声をかける。
 イヤホンを付けていたため最初は無視されたが、二度目は肩を叩いた。
 振り向いた花山は、私の顔を見るなり早足で昇降口に向かう。『俺はお前と話さない』という意思表示だろう。
 なので、追いかけて隣を歩いた。すると花山はさらに速度を早める。だが私もそれに合わせた。
 だんだん早くなり、歩く生徒たちをごぼう抜きする。ほぼ競歩だ。
 恥ずかしくなったのか、呆らめたのかは分からないが、昇降口の入り口で花山はイヤホンを外し、苛立ちを声と表情に出しながら「何だよ」と言った。
「花山の家の近くに河川敷があるでしょ? 今日の十七時半に来て。話があるから」
「行かねえよ」
「じゃあ家まで行って大声でドナドナを歌う。そのあと花山の家の両隣の人とバンドを組んでメジャーデビューする。そしたら毎日私のドナドナを聞くことになる。されたくなかったら来て」
「勝手にしろ」
 それが河川敷に行くことなのか、隣家の人とバンドを組むことなのかは分からなかったが、花山はそう言って下駄箱に向かっていった。
「待ってるから」
 背中に言葉を投げたが、反応はなかった。
 周りの生徒が私を見ていることに気づき、恥ずかしさが込み上げてくる。でもそれ以上に、花山が来てくれるかが心配だった。
 昼休み、男の友情を知るためにはヤンキー漫画が一番だと思い、公園で昼食をとりながらスマホで読むことにした。
 男は喧嘩すると仲良くなる生き物らしい。拳を交えたあと二人で青空を見る。そうすると友情が芽生える。
 その理論は理解できないが、そうなるらしい。単純なのか複雑なのかよく分からないと思いながら読み進めた。
 昼休みを終えた頃には、私は学校の番長になった。もちろん気持ちだけだが。
 放課後、すぐに学校を出て家に帰った。花山と会う前に用意しないといけないものがある。
 家にいた弟にお願いしてキャッチャーマスクと胸に装着するプロテクターを借りた。
「何に使うの?」と聞かれたが、友情に必要だからと言うと怪訝な顔をされた。
 膝に付けるやつもあったが、動きが鈍りそうだっため置いていった。
 用具ケースに防具を入れ、河川敷に向かう。
 花山が来ているのか不安だった。
 向こうからしたら迷惑だろうし、何より関わりたくないと宣言されている。花山が来る理由を頑張って探したが、まったく見当たらなかった。
 希望もないまま河川敷に着くと、堤防で座る制服姿の花山がいた。遠くを見るように、沈んでゆく夕陽を眺めている。
 私は堤防の反対側にある階段を降りて、用具ケースからキャッチャーマスクとプロテクターを取り出した。
 これから世紀の一戦を交える。この喧嘩に勝ち、花山と夕日を見ながら交友を深めるつもりだ。
 目的がずれているかもしれないが、友情を築かなければ心を開いてくれない。
 雪乃がいたら止められていただろうが、今の私は『紅の狂犬、藤沢千星』だ。女の言葉では止められない。
 防具を装着し用具ケースを肩にかける。羞恥心はギリ残っていたので、周りに人がいないことを確認したあと花山の前に出た。
「花山、私とタイマン張れ」
 漫画で見た言葉をそのまま言うと、唖然とした様子で私を見てきた。
「何やってんの?」
「いいから私とタイマン張れ」
 花山が立ち上がったため、腕を前に出し構えをとった。が、花山は背中を向けて反対側に歩き出す。
「ちょっと待て。どこに行く」
「帰る」こちらを見ず、背中越しにそう答えた。
「ここで逃げるなら、明日からこの格好で花山の後をずっと付いていく。私と親友だとこの格好で言い回る。昼休みにこの格好で花山と一緒にご飯を食べる。そしたら私のあだ名は特級過呪怨霊って言われるし、花山は闇落ちした呪詛師に狙われることになる。それが嫌なら私とタイマンを張れ」
 花山は立ち止まり、再び堤防に腰を下ろした。
「それじゃあ、私とタイマンをは……」
「いいから座れ」
 花山は冷静に言った。温度差の違いでなんだか恥ずかしくなる。
 少年誌のような熱い展開になり『お前やるじゃん』みたいな言葉を期待していたのだが、言われた言葉は『座れ』だったので、とりあえず隣に座った。
「それ脱いでくれない。恥ずかしいから」
 そう言われたのでキャッチャーマスクを取ると、
「防具をそういう扱いすんのはよくない」
「はい」
 確かにそうだった。しかも弟の。帰ったら謝ろう。
 プロテクターも取り用具ケースにしまう。特級過呪怨霊から普通の女子高生に戻ったところで、花山が問いかけてきた。
「話って?」
「中学のときのことを聞きたい。クラスの子を殴ったときのこと。ある程度の話は聞いたけど、何故殴ったのかを知りたい」
「それを知ってどうするの?」
「花山が何を抱えてるかを知りたい。自分を隠しながら生きてるように見えるから。人の生きかたは周りだけで決まるものではない。自分の中にあるものが変われば、世界の見えかたも変わると思う。私はそうだった。『花山も変わろう』なんて簡単には言えないけど、話すことで何か変わるかもしれない。価値観の押し付けかもしれないけど、進むきっかけになれたらって」
 周りに影響されて人は変わっていく。それ自体は悪いことではない。でもいきすぎてしまうと人は方向を見失う。私も雪乃もそうだったように。
 自分自身と向き合うことを、いつかはしなければならない。背を向けた先にあるものは、瞬間的な安らぎと継続する痛みだ。
 その痛みを和らげるために言い訳をして自分を正当化する。そして周りに劣等感を吐き散らす。そうなってはいけない。それは世界から自分を乖離させるだけだ。
 花山は周りをどう思ってるかは分からないが、もし憎しみに満ちた世界に足を踏み込んでいるなら、手を差し伸べなければいけない。蓮夜くんのためにも。
「奥村に頼まれたからってなんでここまですんだよ。藤沢には関係ないことだろ。それに……俺は人を殴るような人間だぞ。そんな奴に関ろうなんて、普通思わないだろ」
「私は蒼空に救ってもらった。その人から頼むって言われたら、どんなことがあってもその願いを叶えたい。花山が善い人間か悪い人間かは今は分からないけど、蒼空が悪い人じゃないって言ってたから、私はそれを信じる」
「人を信じたって報われない。そんなものに縋っても傷つくだけだ。その先に何があるんだよ」
 花山は頭を抱え、思い悩むようにそう言った。
 葛藤の境界線を行き来しながら、自分と向き合っているのかもしれない。
「何かに縋るために人を信じてはいけない。それでは周りに生きかたを決められてしまうから。信じた先にあるものは自分で作るんだと思う」
 誰かが育てた花を摘むだけでは、花の本当の美しさは分からない。自分で育て、初めてその美しさを知れる。
「私を信用してなんて言わない。でも今まで見てきたものと、これから見るものを全部重ねなくていい。真っ直ぐなものさえ歪んで見えてしまうから。一生なんて言わないし、この瞬間だけでもいい。だけど今だけは隣を歩かせて」
 もし抱えているものを吐き出すことができたら、花山は一歩進めるような気がした。私がすべきことは、そのきっかけを作ること。
 面倒くさい奴とも思われていい、嫌われてもいい、でもこの瞬間だけでも頼ってほしい。自分の中にある枷を言葉にしてほしい。
 祈りに近い想いが届いたのか、花山は固く結んだ口を開いた。夜にだけ咲くと決めた花が、再び太陽の下で蕾を開くように。
「人に優しくすることが好きだった。その優しさが自分の生きる意味になっていた」
 花山は枯れた花を眺めるように、自らの過去を話し始めた。
「君は一人の命を救ったんだよ」
 小学四年生のとき、警察署長から感謝状を授与された。
 学校の帰りに熱中症で倒れていたおばあちゃんを発見し、持っていたスマホで救急車を呼んだからだ。
 後日、母と弟と共に警察署に行き、署長室で表彰を受けた。制服を着た警察官がたくさんいたのを覚えている。
「翔吾くんえらいね」
「よく通報したね」
 大人に頭を撫でられながら褒められた。
 そこにおばあちゃんの家族もおり、「君がいなかったら母は亡くなってかもしれない。本当にありがとう」そう言われて自分が誇らしく思えた。
 何より嬉しかったのは「兄ちゃんすごい」と蓮夜が嬉しそうにしていたことと、「息子さん立派ですね」と褒められ、照れくさそうにしている母を見れたことだ。
 人の役に立つと自分だけではなく家族も喜ぶ。それを知り、優しい人間になろうと思った。
 それからは困っている人を見たら積極的に手助けするようになり、友達がたくさん増えた。
 家に友達が来るたび、蓮夜は俺の部屋に来る。
 人懐っこい性格からか、みんなから可愛がられていた。
「俺も兄ちゃんみたいに優しい人になる」
 蓮夜は口癖のように言っており、それが人に優しくするためのモチベーションにもなっていた。
 ある日、教師が生徒に暴力を振るうという事件がテレビで報道されていた。
 それを見て怒りが湧いた。この教師は何も分かってない。力で解決することなんて何もないんだ。優しさがあれば相手は理解してくれるし、こんな問題にもならない。俺は暴力を使う人間を軽蔑した。
 中学三年のとき、塩谷という子と同じクラスになった。
 伏目がちで、どことなく暗い雰囲気纏っていたため、周りの生徒たちは距離をとっていたように思う。
 昼休みに勉強ばかりしていたので『ガリ勉』と呼ぶ生徒もいた。俺はその言い方が好きではなかった。人が一生懸命やっているのをバカにするような言葉を使うべきではない。むしろ褒めるべきことだ。
 塩谷は帰宅部で、清掃が終わるとすぐに下校する。部活での交流もないため、クラスにも馴染みづらかったのかもしれない。
 きっと辛いだろうと思い、昼休みに話しかけてみた。
「塩谷はすごいよな。俺はそんなに勉強はできない。だから尊敬するよ」
「別に好きでやってるわけじゃない」
 急に声をかけたからか、塩谷は驚いた顔で俺を見たあと、目を伏せてそう答えた。
「だったら尚更すごい。好きじゃないことを昼休みにまでやってるんだから」
「別に普通だと思う」
 塩谷はノートをとりながら消え入りそうな声で言う。
「勉強もいいけど、たまには外でサッカーやらない? みんなと過ごすのも大事なことだよ」
 クラスの人と打ち解けるきっかけを作りたかった。塩谷もきっと仲良くしたいと思ってるはずだ。
「今から外行って、一緒にやろう」
 塩谷は迷っているように見えた。
 それもそうだ、クラスに馴染めていないのだから。だから間に入る人間が必要になる。
 他の人は塩谷を得体の知れない人間という目で見てたと思う。だからこそ知ってもらわなければならない。一人でいることは辛いはずだから。
「大丈夫、俺と一緒のチームでやろう」
 自分で言うのもなんだが、学年の中心にいたし、周りからの信頼も厚いと思う。俺と一緒にいれば、塩谷も話しかけられやすくなるはずだ。そうすればクラスから浮くことはない。
「……分かった」
 塩谷の腕をとり、グラウンドへ向かった。
 
 それから塩谷とよく話すようになった。野球部が休みの日は一緒に帰ったり、昼休みにもサッカーやバスケをするようになった。
 最初は馴染めていなかった塩谷も、夏頃には周りと話すようになり雰囲気も明るくなった。
「花山は本当に優しいよね」
 移動教室の際、クラスの女子に言われた。
「最近は変わったけど、最初は塩谷のこと暗くて苦手だったんだよね。あっ、今はそんなことないよ。でもなんで花山は塩谷と話してるんだろうって不思議だった。花山だけじゃない? あの時の塩谷に話しかけようとしたの」
「一人でいたから辛そうだなって思って。だから話しかけた。でもみんなと打ち解けられて良かったよ」
「花山といるから塩谷にも声かけやすくなった。他の子もそう言ってる。あっ、そういえばさ、二組の子が花山くんって優しいから良いよねって言ってた。たぶん好きっぽいよ」
「いいよ、そういうのは」
 今の塩谷はクラスにだいぶ馴染んでいる。友達も増え、一人でいるところはほとんど見なくなった。
 それは嬉しかったし、自分でも誇らしかった。優しさで人を変えることができたから。
 塩谷はクラスの人と家に来ることもあり、蓮夜も混ざってみんなでテレビゲームをした。
 蓮夜は友達を連れてくるといつも嬉しそうにする。
「兄ちゃんって友達多いから、みんなから慕われてるんだね。俺も兄ちゃんみたいな人になる」
 いずれそういう言葉も言わなくなるだろう。そう考えると寂しくなるが、できるだけ長く、弟が誇れる兄になっていようと思う。
 塩谷にも弟がいるらしいが、病気がちで学校にはあまり行けてないらしい。
「弟は俺くらいしか話す相手がいないからさ、いつか友達を作ってほしいんだよね」
「今度弟も連れて来いよ」
「いいの?」
「蓮夜も喜ぶよ」
「じゃあ今度、弟と一緒に花山の家行くよ」
 塩谷の弟にも居場所を作ってやりたかった。誰かの手助けをすることが自分の生きる意味だと思っていたから。
 人に優しくするとこで自信を持てたし、自分を好きになれた。それが周りからの信頼にも繋がって人が集まってくる。このときはそう思っていた。

「お願い、少しだけでいいからお金を貸してほしい」
 塩谷が家の前まで来て、頭を下げてきた。
 理由を聞くと、「弟が入院して、お金がいるから少しでも足しにしたい、頼めるのは花山しかいない」と、懇願するように言う。
 弟が入院しているのは知っていた。担任が言っていたし、うちの親もそう言ってた。
 塩谷は古びたアパートに住んでおり、私服も同じTシャツをよく着ている。
 そのことが頭をよぎり、俺は迷いなくお金を貸した。
 貸したと言っても中学生では微々たるものだったが、塩谷が嬉しそうにするのを見て、心地よい気分が胸を走る。
 それから定期的にせがまれるようになった。
 お年玉で貯めていた貯金を切り崩し、塩谷の弟のためと言い聞かせながら貸していた。
 このときに疑うべきだった。普通に考えればおかしなことなのに。
 弟がいるから感情移入していたのかもしれない。それと「頼めるのは花山しかいない」という言葉に酔っていたのだと思う。
 これが後に、自分という存在を世界から切り離すきっかけになった。
 蓮夜の誕生日にゲームソフトを買う約束をしていたが、塩谷に二万ほど貸していたため貯金はあまりなかった。
 言いづらかったが、少しだけお金を返してもらおうと思い、校舎裏に塩谷を呼び出して誕生日のことを話した。
「ごめん、入院費で全部使ったから残ってない。母親に相談してみるけど、うちもあまり余裕がないから」 
 申し訳なさそうにする塩谷を見て、これ以上なにも言えなかった。
「ううん、弟が良くなるといいな」
「本当にごめん、絶対に返すから」
 何度も頭を下げるため、こっちが申し訳なくなってきた。
 帰ってから蓮夜に謝った。詳しい事情は話さなかったが、友達のためと言うと「兄ちゃんは優しいね」と笑顔で返してくる。
 来年はちゃんと買うからと言うと、「別にそんなに欲しくなかったらいいよ」と興味なさげな顔でテレビに視線を戻した。
 その気遣いに心苦しくなり、「ちゃんと買うから」と言葉をかけると、再放送のドラマを見ながら「うん」とだけ言った。

 下校時に教科書を忘れたことに気づいて学校に戻った。
 もうすぐ受験が始まるため、誰もいないだろうと思っていたが、教室の中から声がした。
「かっこよくない?」
「俺もこれ欲しかったんだよね」
「てか、このスニーカー結構高くなかった?」
「買うために貯金したから」
 最後の声で扉を開ける手が止まった。
 少しだけ開いた扉から教室を覗くと、机の上に座った塩谷が、クラスの男子二人にスマホを見せている。
「これいくらだった?」
「二万で買った」
 塩谷が自慢気な顔で言った。
 何を言っているかすぐに理解できなかった。二万は弟の入院費に使ったはずだ。じゃあ何でスニーカーを買えたんだ?
 頭の中で絡みあう糸が、点と点を結ぶまで時間がかかった。そのあとの会話は、ほとんど耳に入っていなかったと思う。
 何度も糸を解き、何度も結び直して、ようやく理解に繋げる。
 散らかった思考を整理しながら、煮えたぎるような感情を優しさで抑えていた。
 すると目の前の扉が開いて、三人が出てきた。
「びっくりした。花山いたのかよ」
「教科書忘れて」
「これから駅前のファミレス行くけど花山も行く?」
「いや、いい」
「じゃあ明日な」
 塩谷は目を伏せながら二人に付いて行こうとしていた。
「塩谷、話がある」
 肩をビクッとさせて立ち止まった。その反応を見るかぎり、もう何を言われるか分かったはずだ。
「じゃあ俺ら先行ってるから」
 そう言って二人は廊下を歩いていく。
 彼らの足音が遠のくたび、塩谷の視線は下に向かう。今は自分の黒ずんだ上履きを見てる。
 二人が階段を降りるのを確認したあと、塩谷に教室に戻るよう言った。
 日中は喧騒に包まれている教室も、放課後になると哀愁が漂う。その哀愁が、より緊張感を高めているように感じた。
 塩谷は教卓付近で足を止める。顔を見せたくないのか、こちらに背を向けていた。
「スニーカー買ったんだって」
 塩谷は沈黙で返す。
 正直バカだと思った。なぜクラスの奴にわざわざ自慢したのか。しかも値段まで丁寧に説明して。いずれ俺の耳に入る可能性もあるなら黙っておくべきだ。自己顕示欲の方が勝ったということか。
 そう考えると、こんな奴に貸した自分が哀れに感じた。
「返せばいいんだろ」
 開き直ったのか、投げ捨てるように言った。
「そう言う問題じゃないだろ。俺はお前の弟のためにお金を貸したんだぞ。スニーカーを買わせるためじゃない。嘘までついて自分が情けないと思わないのか?」
「そう言うところがムカつくんだよ……」
 塩谷は肩を震わせながら小さく零した。
 その言葉の意味が分からなかったため聞き返すと、塩谷は形相を変えてこちらを振り返った。 
「お前だって利用してたじゃないか。俺みたいにクラスで浮いていた奴と仲良くすれば、周りから優しいって思われるもんな。聞いたぞ、お前が女子と話してたの。それで自分の好感度を上げて、女に好意を持たれる。そのために俺を使ったんだろ」
 前に廊下で話してた時だ。あのときそばににいたのか。
 でもそんなつもりは全くない。塩谷は言葉の受け取り方を間違っている。
「なんか勘違いしてるぞ。お前と仲良くしたのは利用するためじゃない。一人でいたから辛いと思って……」
「あの時だってそうだ。俺は周りからガリ勉ってバカにされてたのを知っている。お前も『俺はそんなに勉強できない。尊敬する』とか言って、皮肉を言ってきただろ」
「違う、本当にすごいと思ったから言ったんだよ」
「嘘つけ、今もどうせバカにしてるんだろ。お前の偽善みたいな優しさが全部ムカつくんだよ」
 優しさを否定されたことで、怒りの火種が自分の中に生まれたのが分かった。ずっと大切にしていたものを傷つけられたように思えたから。
「弟の誕生日とか言ってたよな? どうせ良いお兄ちゃんを演じて好感度をあげようってことだろ。最悪な兄貴だな、弟まで利用するなんて。それに気づかず、兄ちゃん、兄ちゃん言って、本当に可哀想だよ。だからあんな馬鹿面になったんだな」
 その言葉で糸が切れた。思考よりも早く右手が塩谷を殴る。その衝撃で塩谷は教卓に頭をぶつけ、呻きながら横たわっていた。
 人生で初めて人を殴った。右手の拳に感触が残る。俺は呆然としながら塩谷を見下ろしていた。
「お前だけずるいんだよ……」
 塩谷は泣きそうな声で嘆いた。俺に見られたくないのか、腕で顔を覆いながら喋る。
「俺だって努力したんだよ。クラスの奴と仲良くできるように無理して明るく振る舞った。それなのに全部お前が持っていく。俺がクラスに溶け込めたのは花山のおかげだって。なんでお前だけが褒められるんだよ」
 塩谷に友達ができたのは自分のおかげだと思っていた。俺といるからみんなが声をかける。そう思っていた。
 確かにちゃんと見てなかったかもしれない。塩谷は努力してたのに、それを全部自分の手柄にしていた。そして周りも。
「お前の優しさは人のためじゃない。自分のために周りに優しくしてるだけだ。ただの押し付けだよ。人のことなんて見てないじゃないか」
 その言葉に何も返せなかった。今まで積み上げてきたものが張りぼてのように感じ、それを受け入れることができないまま、ただ立ち尽くすだけだった。
 塩谷は制服の袖で涙を拭いながら立ち上がると、何も言わずに俺の横を通り過ぎていった。
 暴力を嫌悪していたはずなのに人を殴ってしまった。優しさで築き上げてきた今までの自分が、ひどく醜い存在に思える。
 何かが崩れていくのを感じ、俺は何度も頭の中で塩谷を責めた。
 あいつが悪い。あいつがおかしいだけだ。優しさがあれば人は争いなどしない。あいつがまともな人間なら俺が殴ることもなかった。クラスのみんなはきっと理解してくれる。俺はずっと優しくしてきたんだ。その積み重ねがあるから、みんなは俺の味方してくれるはずだし、優しさは自分を守ってくれる。あいつは俺が与えた優しさを無碍に扱ったし、蓮夜も侮辱した。殴られてもしかたのない人間だ。
 汚れていく自分に目を瞑りながら、暴力という行いを正当化した。そうしなければ自分を保つことができなかったから。
 
 翌日、教室に入ると中央付近に人だかりができていた。他のクラスの人間も混ざっている。
 不思議に思っていると「花山」とその中の誰かが言った。
 それを合図にするかのように、一斉に視線がこちらに向く。
 胸がざわついた。その視線に軽蔑のようなものが混じっていたから。その瞬間に恐怖が湧き上がり、足がすくんで動けなくなった。
「花山がこんなことする人だとは思わなかった」
 女子の一人が言った。
 すると人だかりが開き、席に着く塩谷が視界に入る。
 同時に言葉を失った。意味が分からなかった。理解の範疇を超えていた。
 確かに昨日、俺は塩谷を殴った。一発だけ、そう一発だけだ。だが目の前にいる塩谷は頭に包帯を巻き、顔にはガーゼが三枚貼ってある。
 もしかしたら、あのあと転んだりして怪我をしたのかもしれない。そう思い塩谷に問いかけた。
「どうしたんだよ、それ?」
「昨日、花山が俺を殴っただろ。忘れたの?」
「大袈裟すぎるだろ。なんでそうなるんだよ。確かに殴ったけど、俺は一発だけしか殴って……」
「やっぱり殴ったんだ。サイテー」
 侮蔑するような目で、クラスの女子に言葉を遮られた。
「違う、塩谷にお金を貸して……」
 俺が理由を述べようとすると塩谷は立ち上がった。そして「俺が悪いんだ」と話し始めた。
「花山からお金を借りてたんだ。それを自分の貯金と合わせて弟の入院費に充てようとした。だけど都合がついて必要がなくなったんだ。自分が貯めたお金のほうでスニーカーを買ったんだけど、それを花山が勘違いして、『嘘ついてそれを買ったんだろ』って責められた。俺も説明したけど上手くできなくて、そのまま殴られた」
 教室中の視線が俺に集まってきた。完全なる軽蔑に変化した目に戦慄を覚えた。
 再度説明しようとしたが、恐怖で言葉が喉に詰まった。
 その瞬間、塩谷が小さくほくそ笑んだのが見えた。そして制服のポケットから二万を取り出して、俺に渡してきた。
「花山、本当にごめん。俺の説明不足でこんなことになって。みんなも花山を責めないでほしい。悪いのは全部俺だから」
 悲劇の主人公だった。嘘と真実を織り交ぜて脚色したストーリーは、視線というスポットライトを浴びて、俺を悪役に仕立て上げた。
「理由があったとしても、これは流石にやりすぎだろ」
 歓声変わりの同情が、周りの声を感化する。
「良い奴だと思ってたのに」
「花山くんがこんなことするなんて」
 違う、こいつは自分を正当化してるだけだ。なんで騙される、なんで誰も俺に理由を聞いてこない。
 このとき、積み上げた先に何もないと知った。そして自分を肯定してきた優しさは、絶望に変わり散ってゆく。
「俺は……」
 声を出したときに集まった視線が、もう他人に向ける目になっていた。
 三年間ともに過ごしてきた友達ではなく、罪を犯した疎ましい人間を見る目だった。
 その光景に言葉を出すのが怖くなった。今の自分が何を説明しても、すべてが言い訳になってしまう空気が出来上がっているように感じた。
 何より、三年間で積み上げてきた信頼が、こんなにも脆いものだと知りショックを受けた。
「もうすぐ受験だし、俺はこれ以上事を大きくしたくないから、先生には転んだって言う。だからみんなも黙っててほしいんだ。俺は花山のことを恨んでもないから」
 舞台は薄汚れたハッピーエンドで幕を閉じた。
 綺麗事を並べた主人公に観客たちは哀れみを送り、悪役には失望の眼差しが向けられた。

 そのあと、自分に送られる軽蔑の視線や蔑む声を聞きながら一日を過ごした。
 後悔した。ちゃんと説明すればこんなことにはなっていなかったのかもしれない。
 自分の中で期待してしまった。誰かが『ちゃんと花山の話も聞こうよ』と言ってくれることを。それがくるものだと当然のように思っていた。
 だが実際は俺への非難だけで終わった。
 自分は周りから慕われており、信頼を得ている。そう思っていたのは自分だけだった。それが一番辛かった。
 今から説明しようとも思ったが、一度タイミングを外してしまうと、すべてが嘘のように聞こえてしまう。
 一人でいるというのは、こんなにも辛いことなのか。たった一日だが、もう限界だった。
 放課後、俺は塩谷の家に向かった。
 学校で話そうとしたが、塩谷は怯えた表情を浮かべ、クラスの人間を縦にした。
「もう解決したんだろ。これ以上塩谷をいじめるなよ」
「また殴ろうとしてるんじゃない」
 蔑んだ目で非難を浴びると、学校で話かけるのは無理だと思った。
 塩谷の家は、アパート一階の一番奥だった。俺より少し高いブロック塀が周りを覆っており、敷地内は外からは見えづらくなっていた。
 十分ほど家の前で待つと、塩谷が帰ってきた。俺を見るなり「何?」と面倒くさそうな顔をする。
「なんで嘘ついたんだよ。正直にみんなに説明しろよ」
「もう遅いだろ。ていうかさ、お前って誰にも信用されてないんだな。庇う奴もいるかと思ったけど誰もいなかったな。みんな偽善者だって分かってたんだよ」
 痛いとこをついてくる。一番言われたくないことだ。
「お前を殴ったことは謝るし、別に咎めたりしない。頼むからみんなに本当のことを話してくれ」
 屈辱だったが頭を下げた。もうこれしかないと思ったから。
「無理。もうお金も返したし、俺に構わないでくれよ」
「あの金どうしたんだよ。お前スニーカー買ったんだろ?」
 これは気になっていた。親から借りるにも二万という額は大きすぎる。
「スニーカーと弟のゲーム機売ったんだよ。せっかく買ったのにお前のせいで買い損したよ」
「最低だな、お前」
 軽蔑を込めた視線を送るが、塩谷は振り払うように嘲笑う。
「どの口が言ってるんだよ。人のこと殴った奴が最低? ぜんぶお前が蒔いた種だろ。殴らなければこんなことにならなかったのになあ。あのとき我慢できなかったお前が悪い。全部自分のせいだろ。それを棚に上げて、なに被害者ぶってるんだよ。こんな兄貴持った弟が可哀想だよ。いや、あんな馬鹿面の弟を持った兄貴の方が可哀想か」
 俺は塩谷の胸ぐらを掴みブロック塀に押しつけた。その勢いのまま右手を振りかぶる。
 拳が顔の寸前まで伸びたところで自我を戻し、かろうじで止めた。
「なんだよ殴れよ。そしたら慰謝料ふんだぐれたのに。こっちはゲーム機買い戻さないといけねえのに……そうだ、弟が退院するまでにお前が買ってくれよ。そしたら考えてやる」
 腐ってる。こんな人間の言うことを信じたクラスの奴らが腹立たしく思えた。
「お前に話しかけたことがすべての間違いだった。あの日からぜんぶ狂った」
 胸ぐらを掴んでいた手を離し、敷地の外に向かった。
「いいのかよ、最後のチャンスだぞ」
 煩わしい声が背中から聞こえたが、ぜんぶ無視した。
 優しさなんて意味がない。積み重ねたところで紙クズと変わらない。
 俺はこの日、優しさを捨てた。蓮夜の前だけで見せればいい。そう誓って。

 中学を卒業するまでずっと一人で過ごした。
 周りからの軽蔑も「こいつらはすぐに騙される奴ら」と心の中で見下した。このやり方は間違っているが、そうしなければ苦しさに耐えることができなかった。
 高校では誰とも親しくしないと決めた。
 人に優しくすることが自分の存在意義になっていたが、それが今では崩壊した。嫌われてもいいから、一人でいるほうが楽だった。
 だが、声をかけられる度に相手を突き放すのが苦しかった。自分が人を傷つけていると分かりながら、それでも傷つける。
 だから自ら距離をとり、わざと目つきを鋭くさせて近づかせないようにした。最初は耐え難かったが、幸か不幸か、同じ中学だった相澤もここに入学していた。
 すぐに中学の噂は広まり、話しかけてくる者はいなくなった。安堵したが、どこか寂しさも横たわっているように感じた。
 一年の秋頃、校庭の隅に設置されたベンチで昼食をとっていた。
 校舎から聞こえてくる生徒たちの声が、煩わしさと羨望のグラデーションを感情に描いた。
「いい天気だな」
 急な声にカレーパンを喉に詰まらせそうになった。紙パックのレモンティーでなんとか流し込む。
 声の主は隣のベンチに座った。誰かと思い横目で見ると奥村蒼空だった。
 缶コーヒーを手に、青に蹂躙された空を見上げていた。
 奥村を見ていると、塩谷を殴る前の自分を思い出す。学年の中心にいて常に周りには人がいる。そして優しさを兼ね備えていた。
 俺は優しさが仇となって返ってきた。こいつもいずれそうなるんじゃないかと思ってる。いや、どこかで期待しているのかもしれない。
 同じ道を辿れば、俺自身が安心できる。自分だけじゃないと、一人じゃないと。
 俺がベンチを離れようとしたときだった。
「たまにさ、全部が鬱陶しくなることがあるんだよ。もうどうでもいいなって思う日が。でも、そんなときに会いたいって思う人もいる。そいつと会うとさ、澱んでいたものが澄んでいくんだよ。俺もこういう人間になりたいって思う」
 何を言ってるか分からなかった。奥村はそのあと、何も言わずに空を眺めていた。
 それから、俺が一人で飯を食ってると、たまに奥村が来ることがあった。
 特に何かを話すわけではなかったが嫌ではなかった。孤独の中にいた自分にとって、世界と繋がれている感じがしたから。
 無理に何かを求めるのではなく、寄り添ってくれているような気がして居心地が良かった。
 あるとき、気になっていたことを聞いてみた。
「中学のときの噂は知ってるだろ。なんで俺のとこにくるんだよ」
 奥村も知ってるはずだ。そのうえで来てる。その理由が分からなかった。
「噂は聞いたけど、直接見たわけじゃないから。信じるにしても自分の目で見てから決めるよ」
 その言葉に心が揺れた。全員が自分を軽蔑していると思っていたから。
 だがお人好しにも感じた。こいつはいつか俺みたいになるかもしれない。
「奥村は誰にでも優しくしてしんどくならないの?」
 自分と重ねていたのかもしれない。あのときの俺は優しさが存在意義になっていた。でも今は、優しさは自分を傷つけるものだと思っている。
 持っていても意味などない、ただの紙くずだと。
「自分を優しいだなんて思ってない。ただ、相手が自分らしくいられるような場所になりたいとは思う。だからしんどいって感じるときは、自分の優しさに気づいてもらえないときじゃなく、自分が相手の居場所になれなかったときかな。それと全員には優しくしない。自分が苦しくなる相手なら俺は背を向ける。非情さも持ち合わせていないと、誰かに優しくなんてできない。傷が治れば優しさの意味を知るけど、傷が付いたときは自分のことで精一杯だから」
 優しさは持っているだけではダメ。それをどう使うかが大事。そう言われたような気がした。
「なあ、俺も人に優しくしてもいいのかな?」
 思わず零れた。
 捨てたつもりでいたのに、まだ心の奥底に仕舞っていたのか。こんなものを持っていても、自分が傷つくだけなのに……
「それは俺が決めることじゃない。花山が自分で決めればいい」
「……優しさってなんだと思う?」
 分からなくなっていた。あのとき自分が信じていたものは、今となってはガラクラのように思える。それを手放せないでいる自分が惨めだった。答えが欲しい。自分を信じていいと思える答えが。
「優しさで傷を癒すこともできれば、傷を付けることもある。普段からその人を見ていないと、相手の求める優しさを理解できないと思う。優しい人って、優しさとは何かを知っている人なんじゃないかな」
 優しさを知る……自分は分かっていたのだろうか。
 今までの俺は自分本位の優しさだったのかもしれない。それは塩谷に対しても。
「俺みたいな人間でも、友達って作っていいのかな?」
 無意識に言葉が出てきた。心のどこかで救いを求めてたのかもしれない。
「来週の月曜に映画見ようと思ってるんだけど、ホラーだから一人で見るの怖いんだよね。だから付いてきてくれない?」
「子供かよ」
「花山はホラー映画、一人で見れるの?」
「もう十七だぞ」
「じゃあ付いてきてよ」
「……分かった」
 少し迷ったが、自分を見てくれている人間がいると知って嬉しかった。
 それと、奥村なら信じられるような気がした。
「藤沢千星っているだろ?」
「うん」
「あいつもホラー映画苦手でさ、怖いシーンがあると手で目を隠すんだけど、なぜか俺の目まで隠してくるんだよ。しかもさ……」
 話を聞いているだけだったが、高校に入って一番楽しいと思えた瞬間だった。閉ざされた扉が開き、光が差し込むような気がしたから。
 だが、奥村と映画に行くことはなかった。ホームルームで告げられた死は世界から色彩を奪った。
 もう光さえ見たくない。希望が散ったとき心に絶望を咲かせる。
 これ以上苦しみたくなかった。だから人と関わるのはこれで最後にしようと思った。
 いつか離れゆくものに、自分を委ねてはいけない。
 花山が話し終えると辺りはすっかり暗くなっていた。
 私たちを見守るように夜空には星屑が咲いている。
 花山は自分の軸になっていた優しさを枯らされ、世界から隔絶された。
 それは信じていたものが踏み潰されたことを意味する。
 だが、まだその花を抱えて、咲くことを祈っているように私は思えた。
「どうしたいのか自分でも分からないんだ。心の奥では誰かと繋がっていたいと思う反面、怖さから逃げるために一人でいたいと思う自分もいる。正解が欲しい。どう生きればいいのか」
 優しさという花を太陽の下で散らせ、夜にだけ咲くと決めた。
 でも本心はきっと違う。私や雪乃のように踏み出せないまま揺れている。一枚一枚花びらを落としながら。
「花山が望む生き方をすればいい。でもそのためには自分と向き合わなければいけない。多くの答えは自分の中にあると思うから」
 花山はゆっくりとこちらを見た。夜に紛れてはいるが、切望に染められた表情に見える。 
「花山には悪いけど、その塩谷って子の気持ちが少し分かる。もちろんやったことは許されることじゃないし、話を聞いててムカついた。でもずっと一人でいる人間は周りの人が怖いの。自分がどう思われているか、もし上手く話せなかったらどうしようか、色んな葛藤を抱えて日常を送っている。強引に自分の世界に引き込んだでしょ? たぶん無理してたんだと思う。明るく話しているように見えても、本人のなかではそれが負担になっていた。さらに言えば、花山みたいに常に人に囲まれている人間を疎んでいたのかもしれない。蒼空が一人で来たのは、花山にあった優しさを見つけるためだと思う。優しさって人によって受け取り方が変わるから」
 他人を嫌悪していた私も、もしかしたら塩谷みたいになっていたかもしれない。だけど蒼空という存在がいたから一線を超えなかった。
「最初は奥村のことが嫌いで、自分と同じようになれって思ってた。なのに手を差し伸べられたら嬉しくなって、友達になりたいなんて都合よく考えを変えた。本当に自分が醜い。俺も塩谷と一緒だ。ああなったのは、自分のせいなのかもしれない」
 花山は右手の拳を、もう片方の手で強く握り締めていた。
「自分に余裕がないと人に優しくなんてできないよ。生活が苦しいのに、地球のこと考えろって言われても無理じゃん。だから今は自分を楽にしてあげていいと思う。愚痴ってもいいし、人を嫌いになってもいい。でも進む方向は間違えてはいけない。その人のことを知らないのに、歪んだ想いをぶつけてはいけない。自分が苦しむだけだし、周りはもっと離れていく」
 人と人の間にはフィルターがあり、それが隔たりにもなるし結び目にもなる。思考が歪むと何もないところに壁を造り、相手を蔑んでしまう。そうなれば、外の世界との間に大きな溝ができる。
 今の花山は優しさの向け方が分からなくなっていて、彷徨うことに苦しんでいると思った。それと人の信じ方も。
「優しさって種類があるんだと思う。今進んでる道を肯定して寄り添うこと。別の道を示して背中を押してあげること。蒼空は私に変わらないといけないと言った。突き放されたように感じたけど、それも一つの優しさだった」
 気づいたのは最近だけど。
「優しさを持つことは間違いじゃないよ。だから自分を否定しなくていい。今大事なのは優しさの幅を増やすことじゃないかな」
「自分で優しさの尺度を決めてた。それを押し付けていただけかもしれない。優しさを知るっていうのは相手を見るってことか」
「そうだと思う」
「奥村の優しさは誰かを生かすもので、俺の優しさは自分を生かすものだった。思い上がりだったんだな。自分だけ満足してたから裏切られたのかもしれない」
「仮にその優しさが鼻についたとしても、裏切っていい理由にはならない。それはその塩谷って奴が悪い」
 花山は星を見上げた。遠い空の向こうを眺めるように。
「もう一度優しさを持ってもいいんじゃない。私は嫌なときは嫌って言う。違うと思ったら違うって言う。だから花山も私の前ではそうして。そういう友達が必要だと思う」
 私がそう言うと、花山は何かを堪えるように俯いた。
「俺のこと信用できるの? 今のが嘘かもしれないだろ」
 俯いたまま花山は言う。
「信じるよ。でも嘘だったら花山をぶっ飛ばす」
「ありがとう」
 ずっと閉じていた蕾が開くように、花山は顔を綻ばせた。

 土曜日、私は蒼空の家に向かっていた。
 覚悟を決めれず行くことができなかったが、昨日花山と話して、自分も一歩進まなければと思った。
 あのあと花山の家に行き、蓮夜くんに会った。
 玄関先に出てきた蓮夜くんに親指を立てると、それを察したのか同じく親指を立てた。
 花山は不思議そうに見ていたが、私と蓮夜くんだけ分かればいいのだ。
 蒼空の家が視界に入るとやけに足が重く感じた。家に近づいていくほど、水の中を進んでいるように感じる。
 正直怖い。なんて言われるか分からなかったから。蒼空は私を庇って亡くなった。家族からしたら、私に殺されたと思っているかもしれない。もし鋭利な言葉を投げられたら私は生きていく自信がない。
 蒼空の家族の顔を思い出すと胸が締め付けられた。だから無理やり閉じ込めていた。でも向き合わなければ、本当に進んだことにはならない。蒼空の家族に会って謝らないと、私は一生逃げたままだ。そして美月ちゃんのことも。
 十五分ほどで着くはずが三十分かかった。
 途中で足を止め、何度も深呼吸して緊張を押し殺そうとした。
 門扉の前に着き「奥村」と書かれた表札を見る。隣にはカメラ付きのインターホンがある。
 ボタンに人差し指を置くと小刻みに揺れた。その度に人差し指を強く握りしめ、強引に震えを抑える。
 逃げたかった。自分を楽にしたいから。
 でも逃げた先でずっと縛られたまま生きることになる。それでは前と変わらない。
 最後に大きく息を吐き、覚悟を決めた。
 震えた指でインターホンを押す。チャイムの音が脈を早める。
 数秒経ち「今行くね」とインターホンから聞こえた。蒼空のお母さん――美里さんの声だった。カメラで私と分かったのだろう。
 会うのは、病院で蒼空が亡くなった日以来だ。約一ヶ月ぶり。
 どんな顔で出てくるのだろう? 声はいつも通りだった。でも、それは今だけで……考えれば考えるほど、マイナスなことばかりが脳内を駆け回る。
 ガチャ、と玄関のドアの鍵が開く音がした。ゆっくりと開いたドアから美里さんが出てくる。
 顔を見ることが怖くて、思わず目を伏せてしまった。
 謝らなきゃと思い、目線を上げようとするが、緊張と恐怖で体の動かし方が分からなくなっていた。
ーーなんのために来たんだよ
 心の中で何度も言い聞かせていると、足音が目の前で止まった。
 心臓が一つギアを上げ、胸を強く叩く。
「あの……」
 指先の震えが唇に伝染して小刻みに揺れる。それが緊張と恐怖に拍車をかけた。
 声を発するどころか、言葉が頭の中で霧散し、思考が上手く働かない。
 出口のない森の中に迷い込み、彷徨っているようだった。
「千星」
 一筋の光が差し込むように、私の名前が鼓膜に注ぐ。
 顔を上げると、美里さんは優しく微笑んでいた。
「待ってたよ」
 その笑顔は蒼空とそっくりだった。