「ここまで辿り着くまでに世界が変わる圧力に負けて死ぬ。お前は例外のようだが」
愛想のない声に少女は物寂しくなり、男に手を伸ばしてみた。
どうせ食われてしまうのならば、誰に見られたかを知って消えたい。
「あなたは誰ですか?」
これはあきらめと、わずかな興味だ。
男の目が驚きに満ち、一瞬のためらいの後、温度が下がる。
美しい顔がさみしく見えるのは、他の人にとっても同じだろうかと少し興味がわく。
「人間は私を土地神と勘違いしているようだ」
「土地神様……?」
少女と生贄の意味が繋がった。
山のふもとから歩いて四半刻(15分)ほどの場所に大きな村があり、凶作に悩むと生贄を差し出す風習があった。
洞穴に石棺があり、生贄を寝かせれば人知れずに消えていく運命をたどる。
棺に生贄を置いた瞬間に外に弾かれるので、誰一人生贄の行く末を知らなかった。
それが土地神様に生贄を送れた証明として、祈りが届くと歓喜に舞いあがっていた。
(少しはお金になったのかな。おじさん、ちゃんと生きていけるかな)
捨てられたとわかっていながら思うのは養父の後ろ姿。
傷ついたはずなのに、嫌いだと断言できない虚しさに目を閉じた。
「お前、泣かないんだな」
男に手を掴まれ、少女は目を開くと視線を滑らせて白い肌を見る。
(キレイな手。私と大違い)
野草をとってかぶれて腫れたこともあった。
ぐうたらな養父を支えるために畑仕事にも勤しんできた。
冷たい水で手を洗えばあかぎれに染み、そっと手を擦り合わせた。
そうして男の美しさに飲まれていると、男はクックと喉を鳴らしておかしそうに目を細める。
「月冴(つきさ)だ。そう呼ばれることが多い」
「月冴……さま?」
それだけの響きに胸が高鳴った。
少女が持たない固有名詞。
耳にスッと入ってくる響きに月冴は鼻で嗤ってから立ち上がる。
裸足で大股に部屋を出ると、振り向いて一言「生かしてみようか」と呟いた。
***
それから十日が過ぎても月冴は顔を見せなかった。
(変なの。お腹が空くこともないなんて)
生贄として出されたが、本当はすでに死んでいるのではないか。
虚無感への向き合い方を見つけられないまま、寝ころんで畳の目を数えるくらいに暇を持て余していた。
部屋に籠もりきりだと本当に生きている心地がしないので、時折襖を開けて縁側に腰かける。
部屋から眺めることの出来る庭では、手水鉢に流れる水の音や風が木々を撫でる音がした。
静かすぎる日々を打ち破ったのはドスドスとした大きな足音。
縁側に触れた指先から感じる振動と、音の間隔。
(強い音。機嫌が悪い?)
その場に正座をして待機すれば、月冴が険しい表情をして少女の前に現れた。
(何か悪いことでもしたかな?)
機嫌の悪そうな顔に少女はボーッと首を傾げる。
ずいぶんと荒々しい足音だった月冴の足元を眺めると、上からひんやりとした手が少女の頬に触れた。
力加減を知らない手に少女は眉一つ動かさなかった。
「お前、逃げなかったのだな」
月冴の言葉に少女はキョトンとする。
「あやかしの贄にされたとわかったら怯えて逃げ出すものだろう」
何も理解しない少女に月冴の口調が荒くなった。
少女は”そういうもの”と認識し、怯えた素振りをみせる。
その人まねが月冴には不愉快だったようで、眉をひそめて睨まれてしまった。
「ここは人の生きる場所ではないんですよね? だったら逃げません」
「それは冷静に言ってか?」
「私に帰るところはありませんから。……十日も経てばさすがに知らない場所とわかります」
しょせん、養父に捨てられた生贄だ。
少女が逃げ出せば、月冴が村を滅ぼす可能性も否めない。
簡単に滅ぼすことが出来ると感じさせるほど、月冴からは圧倒的な強者のオーラが漂っていた。
少女は生贄となることに悲しさはあれど、諦めるのも早かった。
その歪さは月冴には不可解なようで、しかめっ面に少女の腕を引くと庭に出て、高下駄をカラコロと鳴らした。
「ずっと部屋にこもっているだろう。庭は眺めるのも良いが、歩いてみるのも良い」
あれほど冷たかったのが噓のように言葉がやさしかった。
あたたかな音色に少女が顔をあげると、光の粒をまとう美しい髪と、涼やかな横顔に魅入ってしまった。
月冴が視線に気づいて振り返ると、恥じらって慌てて目を反らす。
その先に見えた庭の全貌に少女は息を呑み、感嘆の息をついた。
「キレイ……」
松の木、石畳の道、流れる水、木の橋。
隅々まで洗礼された光景には見たこともない花がある、
(季節がないのかな? いろんなものが混ざってる)
季節を問わない虫や鳥、池には紅白や金などの鯉がゆったりと泳いでいる。
橋の上から池を覗き込むと、鯉が口をパクパクさせながら近づいてきた。
(かわいい……)
山菜採りに野菜づくりと決まった日々を送っていた少女にはすべてが新鮮に映る。
草木の生い茂る自然もよいが、こうして趣のある計算された空間もよい。
自分にちゃんと好ましさが存在することに胸を撫でおろした。
「美しいだろう」
ワクワクする少女の心を読んだかのように月冴が代弁する。
「はい。それはとても」
生命力を感じて草木からも呼吸が聞こえた気がした。
月冴は「ふっ」と微笑むと、赤い橋の手すりを指でなぞった。
「私には持て余す庭だ。好きにすればいい」
その横顔はうら寂しそうで、少女はかけるべき言葉がわからなかった。
見つめるだけでいると、月冴は困り果てた顔をして少女に問いを投げる。
「お前の名は?」
一瞬にして現実に引き戻される。
餌をもらえないとわかって離れていく鯉を目で追いながら、気まずさに首の皮を引っ掻いた。
「名はございません」
率直すぎる回答に月冴の眉があがる。
「ないだと?」
「はい。名をつけてもらう前に両親は亡くなったそうです」
まるで他人事のように淡々と語れてしまう。
「養父からも名前をいただいていないのです。ずっと"名無し"と呼ばれておりました」
名前があれば自分の所在がわかるかもしれない。
叶わなかった夢に駄々をこねても致し方ないと、嗤うしかなかった。
「怒らないのだな」
月冴が手をのばし、乱れた少女の髪をすくって耳にかける。
「怒る?」
指から体温に少女は頬に熱が集中するのを感じた。
「いや、いい」
追及はしまいと言葉をひっこめ、月冴は少女から大股に歩いていく。
少女は月冴の背に手を伸ばそうとして、すぐに手を下ろす。
この手が伸ばしたかったのは違う背中だと虚しさに落ちこんだ。
「好きに生きろ。私も少しばかり見てみたくなった」
「月冴さま……?」
風の向かった先に、いじわるな笑みを浮かべる月冴がいた。
袖をあわせて微笑む姿は何度でも魅入ってしまい、胸が焦げそうだ。
(わからないけど、今は追いかけてみたい。いいのかな?)
これも期待の一種だろうか。
いつ月冴に見捨てられても平気でいられるように予線をはり、高鳴る旨を抑えて月冴のもとへ駆けた。
その翌日、少女はどこにも行こうとせず部屋にいた。
障子扉を開いて庭を眺め、踏み出そうとしては引っ込めるを繰り返す。
(勝手に歩いていいのかわからない)
どうせ歩くのならばもう一度と、想像しては首を横に振った。
月冴と歩くことは出来ても一人だと前に踏み出せない。
(……あれ?)
縁側に触れた指先でわずかな振動に気づく。
だんだんと音が大きくなり、顔をあげると銀色のきらめきが空を流れていた。
あまりの美しさに釘づけになっていると、月冴の手が伸びて少女の手首をつかむ。
「外へ出るぞ」
「外ですか? って……きゃっ!?」
月冴に手を引かれ、もたもたと立ち上がる。
月冴の歩き方は大股で、少女がどれだけ急いでも追いつけない。
トロトロした歩きに月冴は思案すると、ひょいと少女の身体を抱き上げ肩にのせた。
少女の頬がカッと赤らむ。
「あのっ! お、おろしてくださ……」
「そんなフラフラでどうやって外に出れるというんだ」
抗議しても月冴に聞く気はなく、また高下駄をカラコロ鳴らした。
屋敷から出ると空の色が一変し、大気が澄み渡るような夜に変化した。
ここは本当にあやかしの世界のようで、高下駄の音は聞こえても足元は暗くて見えなかった。
暗闇の中で月冴の銀色はきめ細やかに輝いているので、どこにいてもまぶしい人なのだと思った。
「……あの」
少女の声に月冴は足を止める。
それは最初の一歩というのか、触発された結果なのか。
「自分の足で歩きたいです」
月冴の肩を押し、上から蒼い瞳をじっと凝視した。
予想外の願いに月冴は目を見開いて、少女から目を反らし言葉を選びだす。
「……見てのとおり足元は隠れてしまう」
「それでも。……お荷物は嫌ですから」
自分がどこにいるのかわからなかった。
自己認識のないままに生きていたから、生贄にされたことは悲しくても同じくらいにあきらめがあった。
それがダメだったのかもしれない。
自分を否定することに変わりはないが、そんな自分が嫌だと思ってようやく声をあげた。
月冴が手を引いてくれて、顔をのぞいても怒りが降ってこない。
背中を見るだけでなく、隣に並んでも、前から見ても、月冴から冷たい罵倒は飛んでこなかった。
足の遅い少女に歩調は合わせられなくても、同じ速度で歩こうとしてくれたことをうれしいと思った。
「……よくわからない娘だ」
月冴は少女の身体をおろし、何もない空間に手を横に振った。
鬼火のようなものが行列を成して一直線に伸びた。
あやかしの世界らしい光景に圧倒されている内に、月冴が少女を下ろして膝をついていた。
(えっ……?)
裸足の少女の足に触れ、滑る手つきで下駄を履かせた。
そして少女の手を取り、ふいっと顔を背けて歩き出す。
「その足ではすぐに捕まってしまう。手を離すな」
何に、と問うより先に彼が大股に歩きだす。
追いかけている背は不思議とあたたかい。
きっと横顔が燦々(さんさん)として見えるからだろう。
見惚れているうちに最後の鬼火にたどり着いたようで、何もなかった空間に巨大な赤い鼓門が現れた。
出会ったときはずいぶんとしかめっ面だったが、今はいたずらを思いついた子どものような顔をしている。
大股で荒々しいと思ったが、少女をおろしてからはゆっくりと歩いてくれた。
他人に合わせることに慣れていないのだろう。
時折確かめるような目つきで少女を横目に見ていた。
(ふしぎな人。おじさんは振り返ってくれなかったのに)
比べる対象としてはいささか間違っているような気がしたが、他に比較できる人がいない。
少女をとらえた村人は、山のふもとに暮らす二人をよく思っていなかった。
最初から少女と対等に目を合わせてくれた人はいない。
ぎこちなくも強い足取りを、玉遊びのような音に変えてくれる月冴は隣にいて気持ちが高揚した。
「あやかしの町だ。その前に」
月冴は衣の袖から狐の面を取り出し、少女の顔に貼り付ける。
視界が一気に狭まり、少女は面を浮かせて月冴の顔を見上げた。
「これはなんですか?」
「この世界で人間はすぐに喰われる。その面は匂い消しだ」
あくまでここはあやかしの世界。
嫌悪を向けられるのは同じでも、食う食わないの差は大きい。
少女は面をつけると、ソワソワ身を揺らした。
月冴がおだやかに微笑むと、滑らかな手で少女の手を引いて歩き出す。
(お面をつけていてよかった。だって熱いくらいだもの)
寒さには慣れていても、人肌を知れば表情が強張ってしまう。
背を向けられるのは胸が苦しくなるので好きではない。
だからといって目の前に現実離れした美しさが現れると、触れられたくない箇所に触れられた気分になるので、ハッキリしない重さが胸を圧迫した。
(少し怖い。だけど足を止めてしまうのも怖いから)
柄のない灰桜色の着物をかきよせ、月冴と同じように下駄を鳴らして前に進んだ。
***
鼓門を抜けると、鬼火が灯る一本道。
牛の頭をしたもの、腕に百の目がくっついた女と様々だ。
「手を離すな。はぐれるからな」
浮きたつ気持ちと不安定さ。
月冴の手を握り返すのが精いっぱいだ。
「こういう場ははじめてか?」
「はい。外はこんなにも賑やかなんですね」
見たこともない大きな塊の肉や、真っ赤なリンゴの飴細工。
ふわふわした綿をパクッと飲み込んでしまう河童と、取り巻く環境につい背伸びをしてしまった。
(月冴さまは私を連れてきて、どんな目的があるの?)
繰り返す退屈な日々しか知らない小娘を連れまわすとは、月冴は相当な変わり者だろう。
余計に胸がざわついた。
「はにゃ? 月冴様がにゃぜこんなところにいるにゃ?」
知らぬ声にパッと顔をあげると、瞳孔のするどい猫又がいた。
ぺろっと唇を舐め、尻尾をゆっくりと腕に巻き付ける。
「私がいてはおかしいか?」
「名のあるあやかしが下賤の町にいるのを不思議に思っただけにゃん」
そう言って猫又は侮蔑を込めた視線を少女に投げる。
「新顔ですにゃ。同族にお優しいことにゃ~」
「そういうのを無駄口と言う。知らなかったか、猫又?」
「にゃ~、こわいにゃこわいにゃ……」
猫又は腕を擦りながらサッと俊敏に去っていった。
月冴の連れに興味を抱くあやかしは他にもおり、強い視線が少女に突き刺さる。
怯えて後ずさると、顔を隠していたお面が外れて石畳に落ちた。
「人間だ」
「月冴様が人を連れている。食いものか?」
急いでお面を拾い、顔を隠すもすでに遅い。
ギラギラした目で詰められると、少女の背にじわじわと汗がにじんだ。
「この人間に手を出してみろ。その時は私が貴様らを食らってやる」
月冴の一言で空気が冷えきり、威圧感に肌がビリビリした。
あやかしが人の世界にまぎれるのは容易だが、その反対はほぼ不可能とされている。
入り込めばすぐにあやかしたちの餌食になるところを、月冴は押しつけられた側なのに守ってくれた。
それだけで胸が熱くなるのに、どこか冷静な気持ちもあった。
(生きてここに来た私が珍しいだけ。……嫌な考えになっちゃう)
「はじめてのことに興味がそそられるだけなのか」
月冴の呟きに顔をあげると、「いや」とすぐに否定して月冴は息を吐く。
「決めるのはお前だ。だがいつまでも自分を認識するのを避けるのはやめろ」
まっすぐな言葉に私はまだ怯えてしまう。
弱虫な私は見捨てられて当然なのに、月冴はそれ以上何も言わずに私の手を引いた。
あやかしたちが隙あらばと息を潜める中で、少女は深くお面に顔を埋め、カラコロ鳴る下駄の音だけに耳を傾けた。
(顔が見えなくてよかったなんて)
養父の後ろ姿に振り返ってほしいと願い、せっせと足を走らせてきた。
それなのに今は月冴に振り返ってほしくないと願っている。
いっそ手が離れてしまえばすべてにあきらめがつくのに……。
鼓門から出ると街が一瞬にして暗闇に消えた。
再び灯火の道を進もうとしたとき、ふと暗い感情に押しつぶされそうになった。
足を止めると月冴が眉をひそめて振り返り、少女を見下ろした。
「私を死なせてください」
「何? 」
少女の願いに月冴は低い声で咎める。
背中ではない、向き合った状態に少女は苦しくなってか弱い声で陰る思いを訴えた。
「私は贄として死ぬためにここに来ました。どうかキレイな思い出のままで死なせてください」
「ならぬ」
「え?」
一呼吸も間を置かないまま、月冴は少女の腕を引き寄せる。
乱暴なようでやさしい触れ方に少女の琴線が震え、伝わってくる体温に唇を丸めた。
たわむれに灰桜ごしに背中を撫でられると恥ずかしさに息が止まる。
月冴の行動すべてに泣きそうになれば、お世辞にもキレイとは言えない少女の黒髪を月冴は戯れに指で梳いた。
(やだ……。月冴様みたいなキレイな方に触れられると悲しくなる)
ごわごわして指ざわりが良くないし、手は荒れてざらついている。
洗練された美しさを持つ月冴と並ぶ資格すらない。
誰かに見られたくないと思ったのはこれがはじめてで、とても苦しいことと知った。
「少しは思い出したか?」
「思い……?」
肩を押されて月冴の胸から離れると、しっとりした親指で頬を横に撫でられた。
「自分の感情ににぶい。いいや、気づきたくなかったんだろう」
「いいえ。ちゃんと自分の気持ちはわかっています」
「私はお前ではないからはっきりとわからぬ。だから気にな……」
そこまで口にして、月冴はパッと目を反らし言葉を飲み込んだ。
やけくそになって少女に背を向け、手を引いたまま大股に進む。
(口の中がしょっぱい。どうして?)
「お前は生きたくないのか?」
顔の見えない月冴の背を見つめ、その問いに答える顔が見られないことに安堵する。
「生きていてはダメでしょう」
「それも想うのも仕方ないこと……か」
"自分は人間らしい生死の葛藤が希薄だ"、と少女はぼんやりと理解しつつあった。
「私は……月冴さまにとって不思議ですか?」
ドロドロした感情にまとわりつかれ、月冴が少女に見たものは……。
「助けを求められないのは皆同じか」
問いを投げても明確な答えは返ってこず、会話が会話にならずに終わった。
「死ぬことは許さない。これは絶対にだ」
「どうして……」
息と同化するほど弱い声しか出ない。
お面が更に壁となって、少女の声を月冴には届けてくれない。
手を引かれたまま月冴を追い、闇のなかに浮かぶ平屋の屋敷にたどりついた。
瓦屋根の門をくぐれば、空は一変して蒼穹が広がった。
振り返った月冴に少女は目を見開き、イタズラな微笑みに魅入った。
「めずらしい者に心躍るのも、長く生きてみれば貴重なものだからな」
(そっか。月冴さまはこんな風に言うしか出来ないんだ)
軽蔑に慣れてしまった少女には、皮肉めいた言葉の色がわかる。
月冴の皮肉は月冴自身に向けられたものだ。
(やさしいんだ。だから余計にさみしい)
少女が月冴のために何か出来るわけでもない。
長年ともに暮らした養父にさえ、たった数枚の貨幣に代えられてしまうような存在だ。
尽くそうが、やさしく接そうが、笑っていようが……捨てられた事実は変わらない。
これまでの生きた道を疑問に思えば、殻にこもりたくなった。
「生きてて……変わることがありますか? 死んだも同然なのに?」
「変わる。自分でどちらかを選ぶ日がくる」
月冴が詰め寄り、青空を背負って少女の頭を乱雑に撫でる。
はじめて息を吸い込んで、胸がいっぱいになる感覚を知った。
浮つく感覚に胸に手をあて、ぐっと首を伸ばして月冴の顔を見つめた。
「考えてみます。ちゃんと、どうすべきか考えます」
「あぁ」
目を奪われる。
単純に、キレイだと思った。
やさしい眼差しと、奥に秘めた憂い。
白銀の髪はたくさんのものを背負った月冴にはきっと白すぎる。
……それを少女は見ていたくなった。
(前を向くって、こういうことなのかな?)
月冴にやさしくされるたびに、頬がゆるむようなこそばゆさ。
お面を外して見せた表情は、きっと庭の片隅に咲く小さな花によく似ていた。
それから少女は月冴と暮らしながら生き方を変えようとした。
「お庭から食べれる植物、採ってもいいですか?」
唐突な発言に月冴は目を丸くし、少女の考えを読めないままにうなずいた。
少女は下駄を履いて庭に飛び出すと隅々まで歩き、草を摘んでいく。
山のように生い茂っているわけではないが、景勝の中でこれだけ見つめるのはワクワクする。
たんぽぽやヨモギ、シソと季節を問わない楽しい庭だった。
浮き立つ気持ちでたんぽぽの綿毛を突いていると、月冴が歩いてきて隣にしゃがみこんだ。
「そんなものも咲いていたのだな」
「これは食べれるんですよ。お餅にしたり、おひたしにしたり」
「餅……。そうか」
ここにいると腹が空くという感覚がない。
月冴にとっては食事をする発想がなかったようで、そのまま少女の指先を観察した。
「……食べてみますか?」
月冴は目を見開いたあと、少女の頭を撫でてうなずいた。
――ぐぅぅぅ……。
何日ぶりかもわからない腹の音が鳴った。
***
屋敷で見る光景にも変化はあるようで、空に月が顔を出すと縁側で涼んでみた。
広い敷地で少女が行動する範囲は、ささやかに自然を感じられる場所だった。
「月見か」
青白い月の光がさしこむなか、月冴が白銀の髪を揺らして隣に腰かける。
「はい。月冴さまも……」
少女の返答を聞くよりも先に、月冴はごくごく自然な動きで少女の膝に頭を乗せた。
流れるような動作に驚きはしたものの、月冴が落ちついた様子で目を閉じているので、気持ちが向くままに月冴の前髪を指で梳いた。
「それは戯れか?」
まぶたが持ちあがると、蒼い瞳にぎこちない笑い方をした少女が映る。
蒼い瞳に魅入られていれば、月冴が鼻で笑うので少女は慌てて顔をあげて月に目を向けた。
「月明かりがこんなにキレイだと知りませんでした。月冴さまの髪とよく似ています」
「そうか。私にはお前の髪の方が好ましいのだが」
「色褪せた黒ですよ。艶もないですし、指通りがいい髪は憧れます。村で一番に美しいと言われていた女性は漆を塗ったかのように艶めいてました」
「見かけのことではない。私にはない色だ。お前の髪は黒檀に似ている」
”黒壇”と言われてもピンとこなかった。
キョトンと目を丸くしていると、月冴は「それもそうか」と笑って少女の髪を指に巻きつけた。
「黒檀とは長く美しいもの。何も飾らなくても飽きぬものだ」
そう語る月冴からは少女にとって嗅ぎなれない気品ある香りだ。
「その香りの名は?」と聞けば月冴はしばらく考えるそぶりを見せ、「白檀の香り」だと答えた。
「私、その香りが好きだと思いま……」
サラッと白銀の髪が風になびき、月冴は縁側に手をついて身体を起こしている。
(やさしい香り……)
きらめく髪と、夜に溶ける黒が長い影を作った。