(本当に? 私は怒っていないの?)
そもそも怒りとはどういうものか。
何度も苛立つことはあり、これを怒りと呼ぶのも知ってる。
だが持つべき怒りがないと、月冴は少女の鈍さを指摘した。
椿の挑発にのって吐き出した怒りは、月冴が指す怒りと何が違うのか。
先ほどよりかは詰まりが取れた気はする。
決して心地よいものではないと、もう一度怒りをぶつけるとなれば嫌だと少女は首を横に振った、
「私は……」
「ストップ。それ以上はわたしに言うことではないわ」
興味はないと手で制止し、椿はお湯を腕にかけて肌に滑らせた。
「自分の気持ちもわからない子に負けたりしない。ちゃんと伝えてくれた相手に本気で向き合っていないんだもの」
「ちがっ……!」
「わたしはあなたにやさしくしない。自己憐憫に酔っていないで、戦うなら怒りだってコントロールしてみなさいよ」
険しい表情をして、「わたしはコントロールをする気もないけれど」と言葉を付け足した。
「許せない人がいる。生贄なんてくだらない」
あいつらを許せないからと、瞳に炎を灯す。
まるで地獄の業火のようで、憎悪に揺れるさまは苛烈だった。
「それじゃあわたしは上がるわね。あなたはゆっくり湯に浸かってちょうだい」
湯けむりは顔を隠すにはちょうどいい、と皮肉をこめて。
椿はタオルで隠すこともなく、堂々とした歩みで去っていく。
少女は酸素を思いきり吸い込み、湯の中にもぐりこんでどうしようもない葛藤を叫んだ。
(いいのかな? 月冴さまは受け入れてくれる? こんな醜い感情……)
――ずっと一人だった。
遠い目をして口にした月冴を思い出す。
今まで月冴が口に出来なかったものならば、どれだけ勇気がいっただろう。
あの勇気と同じものを少女に出せるか。
受け入れてもらえなければ、打ちひしがれて涙がとまらなくなるだろう。
(ううん。傷つくことを恐れて何も言わなかっただけ。見返りばかり求めて、本気で相手と向き合っていなかったんだ)
勝手に期待して伝える努力もしなかった。
「ありがとう」と頭を撫でてくれると夢見ていた。
何も伝えないでわかってくれると、期待を押しつけていただけだった。
(もう逃げていられない)
少女は湯から飛び出ると、髪を振り乱して温泉から屋敷に戻る。
雨の降りそうな暗雲に走り、部屋の障子扉を開いて月冴の姿をとらえた。
少女の突進に月冴は立ち上がり、少女の前に歩み出た。
「どうし……」
月冴に手を伸ばし、自分の身長にあわせるように引き寄せる。
「月冴さまを譲りたくない! 私だって! 私だってっ!!」
諦めたくないと、この場で言いきってしまいたかった。
見返りを求めるのはやめられない。
その恥も受け入れて月冴に見てほしいと叫び、胸の締めつけを感じながら目だけは反らすものかと意固地になった。
「ずいぶんと長湯だったようだが」
強引に話題を変えようとされ、無視されたことにショックを受けるも、気を取り直して挑戦的に月冴の目を追った。
「一時的な衝動かもしれません。ですがどうか無視をしないでください」
「……」
物言わぬ月冴に少女はするりと月冴の頬を撫で、指先を首筋に滑らせた。
薄い唇に釘づけとなり、月冴から感じる濡れた吐息に身が震えた。
「あの女にでも会ったか」
図星をつかれ、少女はゆっくりとうなずく。
すると月冴は長く息を吐きだして目元を手で覆う。
ためらいがちに手をおろすと、少女の唇に指を落とした。
「あの棺は呪いだ」
(呪い?)
この発言はまっすぐだ。
ちゃんと向き合いたいと、少女は口をきゅっと結んだ。
「土地神とはあながち間違っていない。あの棺は狐を封印したものだった」
「狐?」
月冴が目を伏せ、身を丸くして少女の背に手を回す。
耳元に触れた息はそよ風のようだった。
「私の生まれは神事を行う家だった。村で悪さをする狐がいて、身に宿して封印をしようとした」
それはかつて月冴が人間であり、どんな生き方をしていたかを指していた。
「狐を封印出来たものの、妖力だけは私の中に残った。その狐は……」
そこまで口にして月冴は咳払いをし、少女の着物をくしゃりと握りしめた。
手の強張りに少女は頬をすり寄せ、月冴を抱きしめた。
月冴は気まずそうに少女の肩に顔を埋めると、恥ずかしさにかすれた声を出した。
「メスの狐だったんだ」
「メス……」
口にし逃げられないところまで月冴は自分を追い込んだ。
落ちつきなく指先で少女の髪をかきよせる。
「あの棺は狐の身体が収められたもの。魂は執念深く、新たな肉体を欲するようになった」
「じゃあ村近くにあった棺は……」
「そう、狐は私を孤立させようとした。そして女を贄に求めて身体を手に入れようとした。自分にあう身体が見つかれば魂が戻り、妖力を取り戻せるとでも考えたんだろう」
そうしていくつもの屍が棺を通じて月冴の前に現れた。
誰一人、あやかしの世界に生きてたどり着くことは出来なかった。
葛藤するのも忘れるほど長い年月が経ち、決まり事を崩したのは少女だった。
名前のない空っぽな娘。
狐が依り代に求めそうな手ごろな娘だと思ったと月冴は告白した。
「狐に乗っ取られた娘ではないかと疑った。だがいつまで経っても狐は顔を出さない。それどころか気配も消えていた」
どういう意味だろうと首を傾げれば、月冴が困り果てて顔をあげた。
「お前はお前でしかなかった。……椿が来たことで確信した」
狐の身体は朽ちて、魂も生け贄を求めて殺すことはないと。
「私の中に妖力は残っている。あやかしであることは覆せない。だが狐がどこに消えたか、それだけがわからなかった」
「どうして……消えたのですか?」
少女の問いに月冴は唇を開いて眉根を寄せた。
「お前が打ち払った。お前は今までの贄と違って、巫女の血を引いていたんだ」
「巫女……?」
「それを村人は知っていた。普通の娘ではダメだと思ったのか、自覚のない巫女を差しだしたんだ」
少女の亡き両親は巫女の家系だと、月冴はわざわざ調べたそうだ。
巫女の血をひく娘が生贄となる際、狐の魂を取り込んで滅した。
月冴はようやく灰のように積み重なった息苦しさを手放した。
「狐はもういない。お前の血が狐に勝ったんだ」
少女が狐を滅し、道を開いたあとに椿が棺を通じてやってきた。
巫女の血筋のものを送れば凶作から解放されると思っていたが、効果は見られず……。
不良品だったと判断して、再び生贄として椿が送られた。
今頃村人は凶作が解決しないと、苦難に頭を抱えているだろう。
「明日まで待て」
「明日?」
月冴が答えを出そうとしている。
それに少女は向き合おうと涙をこらえ、精一杯の微笑みを向けた。
「待ってます。私もちゃんと、逃げずにこの感情を伝えていいですか?」
「あぁ」
「怖がってたら不安は一生消えないんですね……。だから勝手に月冴さまを信じることにします」
「不安は明日には消える。私は答えをみせる。だからお前ももう負けるな」
それ以上の言葉は必要なかった。
空っぽな少女から、月冴と向き合える立派な自分になりたい。
キモチワルイなんて思わなくて済むようにと、隠せない想いを乗せて背伸びをする。
月冴の薄い唇に同じものを重ね、頬が熱いなのか、月冴の手が熱いのかわからないと温度を探る。
湿った感覚は唇だけではまだ物足りないが、伝えるのは後回しにしよう。
胸の高鳴りとわずかな緊張に挟まれ、奇妙な感覚を味わった。
「お前は私の傍にいればよい」
「……っはい」
その日、はじめて月冴の腕の中で眠った。
膝枕をしたこともあったが、その晩は月冴が甘やかす番となり、心地良さに月冴の膝を独占した。
暗闇は好いた人とならば安息になると、背中ではなく月冴の顔を見ておだやかな夢を見た。
翌朝、月冴に手を引かれて棺の場所に出た。
そこには椿の姿もあり、腕組みをして二人の繋がれた手をじろりと眺める。
「あっ……えっと、椿さん……」
見られることに恥ずかしさを感じたが、正々堂々向き合いたい。
臆しそうな気持ちをぐっと引っ込め、椿の目を真っ直ぐに見つめた。
「……そういうこと」
椿は額に手をあて、深くため息を吐くと肩に流した髪を前に寄せる。
「それで、わざわざこんな朝から呼び出して何を企んでいるのかしら?」
「私が曖昧にしていたのが悪かった。結論を出そうと思ってな」
椿の問いに月冴がいつもより物腰柔らかに答える。
奇妙な態度に椿は眉をひそめ、怪訝そうに「意味がわからない」とすんなり受け取ろうとはしなかった。
それに月冴は鼻で笑うと「すぐにわかる」と言って、棺に手をかざした。
ボッと狐火が現れ、棺を囲んでメラメラと大きく炎の壁を作る。
炎の中に既視感のある白い穴が現れ、懐かしい自然の香りが鼻をくすぐった。
「月冴さま……。まさか」
「人間の世界へ行く」
その言葉に唾をのみこみ、喉を鳴らす。
いざ直視するとなれば恐怖が湧きあがる。
だが向き合う日は必ず来るもので、月冴とも約束した。
「……怖いですが、大丈夫です」
月冴との未来が欲しいから。
自分の感情と向き合い、心を理解して自信をもって隣に立ちたいから。
泣くのは後からいくらでも出来る。
その時に月冴はやさしく受け止めてくれると、ちゃんと知っているから大丈夫。
少女は月冴の手を引き、椿に微笑みかけて白い穴に飛び込んだ。
ポカンとした椿だったが、クスリと目を細めて笑い返す。
光の波を抜け、視界が開けると見覚えのある景色が映り込んでいた。
道を行き交う人々が足を止め、突如現れた少女たちを凝視する。
村から生贄として出された少女と椿の姿にざわついて、間に立つ月冴を見て言葉を失った。
華やかな椿に、麗しさの象徴のような月冴では少女は霞んでしまう。
少女だけなら見る者はいないだろうが、二人への注目のおこぼれでチクチクと視線がささっていた。
「椿!?」
騒ぎを聞きつけて前方から侍の恰好をした男性が駆けてくる。
「あんた……」
人をかきわけて飛び出してきた男に椿は息を呑んで表情をこわばらせた。
対照的に男は安堵の笑みを浮かべ、感極まった様子で椿を抱きしめた。
「すまないっ……本当にすまない!」
懺悔を口にしながらも歓喜の色を隠し切れず、一見すると感動的な光景だが……。
「触らないでくれる?」
と、椿の返答は氷点下に迫る冷たさで、男の肩を突き飛ばすと呪わしい目をして見下していた。
「椿?」
呆然とする男に椿は舌打ちをし、胸ぐらをつかんで憎悪の眼差しを向ける。
「お、俺は後悔してたんだ!!」
想定外の反応に男は動揺し、椿の肩を掴んで悲痛な叫びをぶつけた。
一方的に語るのは、愛した女性を見捨てた男の情けない話だった。
椿は村一番に器量の良い娘で、男は村を統治する地主の息子だった。
椿とは恋愛関係だったそうだが、男には婚約者がおり最終的に椿たちは別れた。
(子ども……)
子どもを設けており、椿は男の無責任さと薄情さに嫌悪して去った。
村の凶作について問題が出たことを機に、自分の命がどうでもよくなり投げやりとなって生贄に志願した。
こんな道を選んだのは、残酷な男と村人たちのせいだと当てつけのように。
皮肉たっぷりに白無垢を着て、死への道となる棺で眠り、あやかしの世界にたどり着いた。
本当に嘆きたいのは椿だろう。
憐れんでほしいと言わんばかりの男に、少女は椿の憤りがよくわかった。
(私とおじさん、椿さんとこの人。立場は違うけど、似てたんだ)
少女が養父に向けるべき感情は、椿の持つ怒りと悲しみと似ているのではないかと気づき、胸が詰まる想いだった。
「わたしを想っていたというなら最低ね。何もかも中途半端で、最低最悪だわ」
生け贄と決まっても男は椿を助けようとしなかった。
今さら後悔していると訴えられても、椿が生きてここに現れなければ届かなかった言葉だ。
都合よく顔や言葉を変えることが椿にとって最も侮辱であり、許し難いことであった。
「所詮、あなたは坊ちゃんね。わたしは貧しい娘。都合がよかっただけでしょう?」
「ちがっ……!」
「違わない。あなたの行動が一番正直者ね」
椿を手放したところで、貧しい娘のため痛手がない。
一緒になったところで苦しいのは目に見えており、遊ぶにはちょうど良かっただけのこと。
愛した女性が生け贄となり、引き裂かれたとなれば男にとって最高の美談となる。
最後に白無垢を着て、去っていった美しい女。
どんな執念を燃やして旅立っていったかも知らず、男は椿との再会をして憎悪をぶつけられたのだった。
「つっ……椿に何をした!?」
椿から想いが返ってこないことに焦った男は、やけくそになって月冴に目くじらをたてる。
あまりに無様な姿に椿はカッとなり、月冴に手出しをさせまいと手を伸ばす――が動きを止めた。
「月冴さまに触れないでください」
椿より先に少女が前に出て、男の手を振り払った。
「なんだキサマ! 小汚い女め!」
少女の抵抗に、男は隠しきれなくなった傲慢さと支配欲で殴りかかろうとした。
――別に殴られることは平気だ。
痛いよりも、月冴に危害を加えられる方がもっと嫌だった。
痛みに対して諦めの強い少女だが、歯がゆさを感じて少女のために動いてくれることはうれしかった。
自分よりも他の痛みに憤りを抱いて得なことはないのに、月冴も椿も躊躇がなかった。
「あんた本っっっ当に軽蔑するわ!」
椿が男の頬を平手打ちし、月冴は少女の手を引いて盾になる。
男は頬を手でおさえ、わなわな震えて裏返った声で吠えた。
「嘘だ! 椿がこんな態度を取るわけがない! 椿は……!」
「もっと従順で可愛げのある存在だった、とでも言いたいの?」
愛想が尽きたと言わんばかりに椿は男にほくそ笑むと、滑るような動きで男の手首を掴みあらぬ方向へ捻る。
男は激痛に叫び、椿に殴りかかろうとしてからすぐに後ずさった。
「お前ぇ、何を!!」
「わたしね、もう自分に嘘はつかないことにしたの。あなたが知ってる椿は死んだ」
男を睨む姿は椿の葉のように鋭く固い。
決別に男は敗北を悟り、地面に両手をついてうなだれる。
椿は見向きもせず、村人たちに見せつけるように月冴を「土地神様」と呼んで頭を垂れた。
「お見苦しいところを。申し訳ございません」
「いや、いい。お前は答えを出せたようだ」
月冴の言葉に椿はようやく儚い笑みを浮かべることが出来た。
それもほんの一瞬のことで、すぐに寒さのなかでも鮮やかに咲く花のように凛と微笑んだ。
「旅に出たいと思います。この村は私にはつまらない」
「そうか」
「はい」
やっと……と息をつき、椿は月冴に庇われた少女と目線を合わせる。
いつか見た可憐な娘と同じ優しい色に心臓をわしづかみにされ、目尻に涙を浮かばせた。
「あなたも、幸せを選んでね」
それだけ言うと椿は村人たちを一瞥し、切なく目を閉じ未練を捨てきって村から去っていった。
少女はたくましく生きる道を選んだ椿の背を見送り、言葉に出来なかった感謝を送り続けた。
「言いたいことはあるか?」
動揺の残る村人たちを顎でさし、月冴は少女の意志を問う。
それに対し、少女は淡く微笑んで首を横に振り、月冴の袖を掴んだ。
「この人たちに伝えたいことはありません。私の感情は向けたい人、向けるべき人に知ってもらうためにあります」
「そうか」
ならばよい、と月冴は少女の頭を撫でると退屈そうに村人の目を向ける。
あまりの迫力に村人たちは身をすくめ、一斉に膝をついて畏怖に震えた。
圧倒的な美しさとオーラ、月冴を直視出来ないと村人たちは冷や汗を流していた。
「私は土地神ではない。ただのあやかしだ」
「待ってくだせぇ! なら今年の冬はどう乗り越えりゃあいいんです!?」
「あなた様は豊作の神! 荒ぶる面を鎮めるために棺に贄を……」
突き放す口調に村人は青ざめ、慌てて顔をあげて月冴に救いを求める。
だが月冴の瞳孔が鋭くなったと気づくと、うろたえて腰を抜かしてしまう。
村人たちのまわりを火の玉が囲み、月冴は冷笑を浮かべて下駄をカラコロ鳴らした。
あやかしらしいイタズラな笑みをして、凍りつくほど底知れぬ声で警告を口にした。
「生贄とは言いわけを作るために生まれた慣習だ」
手のひらの上に狐火が浮かび、村人の前にしゃがみこむと顔面スレスレにまで火を近づける。
ガタガタと震えおののく村人に月冴は強者の顔をした。
「私はあやかしを封じるため、最初の贄となった。女狐が村を荒らしたのがはじまり。凶作と何の関係もない」
「で、ですが土地神様に生贄を捧げれば救われると……」
「ならばハッキリと言おう。私はお前たちを救う気はない」
泥のように身体にまとわりつく声で月冴は呪いを吐き出していく。
女狐は身体を欲して生贄を喰らい、月冴のもとに死んだ者たちを送り続けたこと。
日に日に増す妖力と、女狐に縛られて送った日々。
絶望して死にゆく者の嘆きに答えたくもなると、月冴はこれまでの鬱憤をまき散らしていた。
(月冴さまはなんでもないように語ってくれたけど)
その苦しみは想像を絶するものだっただろう。
妖力が強くなり、あやかしとしても孤立する。
怨念と化した女狐が身体を欲して生け贄を喰らい、絶望のなかで亡くなった骸だけが棺にあふれだす。
終わりの見えない孤独のなか、あやかしの世界に一人。
(巫女の血。月冴さまを助けられたのなら、私はこの血を誇りに思う)
重たい影を背負う月冴に手を伸ばす。
この手は愛しい人の手を取るためにあると知り、少女は怒りも悲しみも月冴のために抱きたいと胸を焦がした。
「女狐に渡しません。私が月冴さまを一人にしませんから」
そっと月冴の背に頬を寄せ、目を閉じてあたたかさを分け合う。
見つけることの出来なかった本音は近くにあった。
「自分たちでなんとかしてください」
少女は顔をあげ、月冴の手を掴むと立ち上がり不敵に笑う。
「月冴さまにお願い事をしてもいいのは私だけです。 月冴さまの願いは、私が叶えますから」
これ以上、月冴を傷つけさせない。
見苦しい欲をぶつけられるなら、何度だって弾き飛ばしてみせる。
少女は月冴の手を引いて後ろから抱きしめた。
体勢を崩した月冴がキョトンとした後、クスクスとくぐもった笑い声をあげる。
「本当に、お前はよく変わる女だ」
月冴は立ち上がると少女と向き合い、白く長い指先で少女の輪郭をなぞった。
蒼の瞳がいつもよりあたたかく見えて、くすぐったい甘さに少女は花のように笑った。
毒気を抜かれた月冴は少女の身体を抱き上げると、村人たちを囲んでいた狐火を消す。
「しっかりと掴まれ」
「はい」
この腕に抱かれると不安は消し飛んでしまうと知り、少女はもっと月冴に近づきたいと願った。
ようやく養父や村人たちに感じていたものを理解して、受け止め方がわかった。
ずっと悲しくて、悔しくて、腹を立てて恨み言を言いたかった。
(私にはもう必要のないもの)
大切にしてくれない人の背中をいつまでも見つめてはいられない。
隣に並んでくれる人の手をとり、どの道へ進もうかといっしょに悩んでいける関係が欲しかった。
月冴の首に腕をまわし、肩に顔をうずめると気づかれないように静かに涙を流した。
それ以降、村で土地神に生け贄を捧げることはなかった。
不作が続いても村人は諦めずに生き抜く道を選んだらしい。
土地神への信仰は続いたが、自然と共存していく道に進む。
もうこの村に来ることはないが、平穏に暮らしていけますようにと、最後のやさしい祈りを残して少女はサヨナラを告げた。
場所が移り、山のふもとに位置する茅葺き屋根の家の前に降り立った。
荒れはじめた芋畑に、錆だした農具。
見慣れた地だが、重々しい空気に少女はめまいを感じた。
月冴は少女をおろすと、強ばっている少女の頬を親指で押しながら撫でる。
「選べ」
「えっ」
「このまま私といる道か、家に帰る道か。選べ」
そんなことは聞く必要もないのに、と思いつつも明確に示すべきなのだろう。
「私は……」
「なんだぁ? 騒がしい……ぞ……」
選択肢をもったまま、少女は養父と再会することになる。
お互いに二度と会うことはないと思っていた分、目があうと心臓が握りつぶされたかのように圧迫された。
「なんでお前がここに……」
養父は慌てて口元を覆い、少女に背を向けて震えだす。
養父にしては珍しく悲痛な顔をしていたので、涙を流しているのかと期待した。
そんなこともありえないと気持ちは冷めて、背中ではなくどんな顔をしているのかを見るようになっていた。
泣いているように見せかけた演技だ。
今まで本気で見ようとしなかった養父もまた、少女に本当を見せていなかった。
「俺は勝手にお前を不幸と決めつけていた。こんな俺のもとにいては一生幸せになれない。だったら土地神様のもとに行った方がいいと思ったんだ」
出まかせを聞かされると、心は冷えていくばかり。
少しだけ椿の気持ちがわかったような気がした。
一度冷めれば愛情が反転して嫌悪しかない。
口からベラベラと出る嘘のかたまりに悲しいなんて……そんな気持ちは通り越した。
「私を拾ったのはなぜですか?」
その問いに養父はハッと顔を上げる。
「それはお前の両親が死んで……」
「巫女の家系だったと教えてくれなかったのはなぜです?」
養父に対しての違和感が溢れ出し、疑問がどんどん口から飛び出していく。
対して養父は言葉を詰まらせて、またわざとらしく悲壮感に満ちた顔をした。
「巫女の血を引いてるなんてバレたらおっかねぇ。巫女になれば自由なんてもんはないんだ」
「それで生け贄にしたんですか? その先は死だったかもしれないのに」
途端に、養父の顔色が変わる。
嘆き悲しむ身内の顔から、下劣さのにじみ出た浅ましい顔となった。
「巫女ってぇのは齢が満ちるまでその辺のヤツらと変わらねぇ。ようやくデカくなったてぇのに村のヤツら……」
ブツブツと呟き、親指で爪をかじる。
これが養父の本音だとすれば、私に感情をもたないためにあえて名前を与えなかった。
すべてはお金のため、最低限の施しだけして少女を放置した。
女とは家のための道具となり、家長が決めたとおりに動く。
名前がないのは、道具だから必要ないという意志の現れだった。
(言葉は養父と会話するために必要だった。生活していくために村人の行動を目で盗んだ)
少女には学がなかった。
家に置いてくれる養父に従うのが当たり前であり、女が人間として見られないことに疑問を抱かなかった。
名無しの娘とはつまり、人間ではない。
今まで養父なりに育ててくれたと思っていたが、所詮は道具を売るためでしかなかった。
「村に渡さなければ私は……」
「それだっての! ヤツらふざけやがって……どれだけ苦労したと思ってんだ! 巫女の貴重さをわかってねぇヤツらばっかりだ!!」
巫女とは減少傾向にあり、非常に貴重な存在らしい。
齢が満ちなければ巫女として立つことも出来ないので、そもそもの才能を見過ごされる場合も多い。
希少価値の高さから巫女を専門とした売人がいるほどだった。
「巫女として売れば遊び尽くせねぇほどの大金が入るはずだったてぇのに! たかが凶作で生け贄が必要だからと弱みを付け狙いやがった!!」
「……たかが?」
その言葉に内側がぶるっと震えた。
これはなんだろう。
静かに、ゆっくりと、確実に。
フツフツとした感情が近づいてくる。
たしかに生け贄として少女を犠牲にした村人の罪は大きいのかもしれない。
これまで多くの女性が悲痛に叫び、苦しみに焼かれてきた。
その怨念だらけの身体が月冴のもとにたどり着き、月冴の身を縛り続けた。
(あんまりだわ……)
ただ生きたいと。
誰もが生きたいと願い、神にもすがる思いだった。
冬を越せるだけの豊かさがないと、細々と生きられればと。
切実な思いを惑わすのは形だけの金銭。
硬貨と引き換えになるのが生命だった。
その現実に少女はもう、養父に同情の気持ちすら残っていなかった。
「ありがとう、おじさん。私はもう大丈夫。私のことはその名のとおり、どうか忘れてください」
「お前……」
「さよなら」
少女は一度も振り返ることなく、養父に背を向けると黙って見守ってくれていた月冴に手を伸ばす。
やさしい温度が指先に触れると目頭が熱くなった。
確認なんていらない。
風が巻き起こり、私は月冴と一緒に帰りたい場所を思い描いた。
あの広いばかりの御屋敷をやさしい想いで満たしたいと。
目を閉じて一心に月冴の幸せを願った。
「帰ろう」
月冴の言葉に少女は微笑みを返して、やさしい温もりに手を重ねた。
それからまどろむ心地に飲まれ、意識を取り戻したときに見たのは木目の天井だった。
(帰ってきたんだ)
また寝ていた、と妙な懐かしさにクスッと笑ってしまう。
だがあの時と違って乱暴な足音はしない。
障子扉が開いており、そこから風が吹き抜ける。
月冴の白銀の髪がキラキラと光っており、指ざわりの良い輝きに触れたくて身体を起こす。
縁側に座り込む月冴に歩み寄り、そっと背中に頬を寄せた。
「起きたか」
その一言に少女はうなずく。
やさしい鼓動を前から聞きたくて、背中から月冴の前に身体を滑り込ませた。
目を閉じて少しだけ小刻みな心音を追いかける。
長い時を孤独に過ごしてきた月冴も生きていると実感し、より一層抱きしめたいという想いに駆られて月冴の頬を包み込んだ。
「あれが私の答えです」
「そうか」
「私は貴方様をお慕いしております。どうか、貴方様の答えを教えてくださいま……」
言葉は途切れた。
月冴が少女の腰に手を回すと、夜空を隠すようにして唇にひんやりとした感触をのせてきた。
粉雪のような冷たさのあとに、溶けだしてほんのり温かくなる。
頭に直接聞こえるような粘着の音と、少し乱れた息遣い。
唇が離れると二人を繋いでいた銀の糸が名残惜しく切れた。
頬の熱さに安堵を得ると、少女はまつ毛の水滴を弾いて顔をあげた。
(月冴さまは本当にキレイな方)
今の少女はキレイなものに手を伸ばす。
自分を卑下して、欲しがる気持ちを見過ごすのはもうやめた。
蒼玉の瞳に、白銀のきらめきに、少女にだけ見せてくれるやさしい微笑みをいとおしく思う。
“この人は私の好きな人。私だけの人”
自分がどう想うか、どう想われたいかをむき出しにして月冴の頬を包み込んだ。
「もう寂しくないか?」
「はい。とても満たされています」
「なら良い。私もお前が離れない限りは……」
きっと今、赤々とした果実のような顔をしているだろう。
少女の人生で褒められた経験はほとんどない。
月冴の言葉は明確に”少女がここにいていい理由”と示しており、安心と喜びに涙をする。
こんなにも甘くて、優しい感情は知らない。
誰かをこんなにも想う幸せは、自分の気持ちを伝えるともっと幸せだと知った。
月冴の傍にいたい。
月冴が与えてくれた感情の分だけ、いや、それ以上に月冴にも与えてたい。
良いところも悪い所も、全てをひっくるめて月冴を受け入れたかった。
「月冴様を、愛しています」
「私もだ。……ただの、か弱い存在だと思っていたのに」
気恥ずかしそうに月冴は目を反らす。
意外と照れ屋な一面に愛らしさを感じてクスクスと笑った。
「あの、お願いがあります」
「なんだ?」
いざ口にしようとすると、むずがゆくなってしまい、モジモジしながら月冴を上目に見る。
「名前、いただけませんか?」
その言葉に月冴の目が見開かれる。
少女に名前はない。
だからこそ、自分が生きている事実が欲しい。
少女は常に“自分”を自覚することがなかった。
こうすれば正しい。
自分のためではなく、他力本願な考えとなっており、本音と建前が混ざってわからなくなっていた。
(私は寂しかった。でも本当は、怒りたかった。どうして大切にしてくれないのって、怒りたかったんだ)
怒った後の虚しさなんて知らなかった。
何も言えず、何に心が消えていくのか。
誰にも呼ばれることのない名前のない少女。
そんな自分を誰よりも蔑ろにしていたと自覚したからこそ、自分を愛する第一歩として月冴から響きをもらいたかった。
(月冴さまに私を呼ばれたい)
泥水の中でも必死に咲いた自分に、素直に生きてみたかった。
「……彩夜」
「さよ?」
「彩夜。……いやか?」
「いいえ。いいえ! その名が、その名前がいいです!」
彩夜、それが“私の名前”だ。
くすぐったいと私は目に見えない名前を心で抱きしめる。
「嬉しいです。大切にします」
「……そうか。……そうか」
月冴は口元に手をあて、表情を隠してしまう。
それが嫌だと思った私はぐっと前のめりになって、月冴の手を掴んだ。
「なんだ」
「いいえ、なんでもないです。私だけが知っていればいいんです」
月冴の本音は私だけのもの。
こんな独占欲が私の中にあると知らなかった。
きっと私はこれからたくさんのことを知って、心に素直になっていく。
(彩夜。私の名前。私の居場所)
クスクスと笑っていると、月冴が私の手を引っ張りそっと額に唇を押しつけた。
「挑戦的なのは良い。だが主導権は私だ」
「はい。それくらいがちょうどいいです」
「ずいぶんと……余裕があるのか。さすがにこちらも困ってしまうな」
「きゃっ!?」
それからの二人がどのように過ごしたかは、二人だけの秘密。
この関係に名前はあるのか。
月明かりは色んな彩りがあって、夜をやさしく照らす。
空白だった私に、冴えわたる冬の月。
寒くても、今は私がいて、彼がいる。
これは名前のない少女が一人のあやかしに恋をして、生き方を見つけるお話。
私ははじめて私になる、夜を彩るためのやさしい物語。
[完]