それはあまりに少女の孤独を浮き彫りにする出来事だった。
少女は村から少し離れた山の麓に暮らしていた。
両親は少女が生まれてすぐに亡くなったらしく、顔馴染みという男に育てられた。
酒飲みでろくに働きもしない男であったが、育ててもらった恩を返そうと少女はせっせと働いていた。
「おじさん、ただいま戻りました。今日はいっぱい山菜がとれ……」
採れたての山菜を使っておひたしでも作ろうと考えていたが、戻ってすぐに籠が手から落ちた。
いつもぐうたらしている養父が珍しく身だしなみを整え、来客の男二人と話している。
「おじさん、この人たちは……」
突如、少女は男たちに拘束され、困惑のまなざしを養父に向ける。
返ってきたのは養父の冷笑と、侮蔑の言葉だった。
「お前とは今日でお別れだ」
「何を言っているんですか? この人たちは誰ですか?」
「今後はおめぇの面倒を見てくれるってよ。ったく、大した金にもならねえから大損だ」
「だっ……だから何を言っているんですか? 意味がわからないです……!」
見つめ続けた養父の背が遠ざかる。
ずっと振り返ってくれない背中を追って、名前を呼んでもらえると期待していた。
(なんで? 私にはここしかないのに。なんで……)
何もかもが壊れていくなかで、最後に養父が見せたのは下劣な笑い。
懐から金銭の入った麻袋を取り出して、少女に見せつけるかのように床に置いた。
「……嘘。おじさんは私を売ったりなんかしない。違う、違いますよね! ねぇ……!」
欲し続けた答えを得ることもなく、腹を強く殴られて頭の中がチカッと光った。
強い衝撃に視界が横線を引いて、膝が折れて前に倒れていく。
(そっか。私ははじめからこのために……)
養父に捨てられたと痛感し、少女は心が冷めていくのを感じながら目を閉じた。
***
目を覚ますと知らない部屋で、清潔な布団に横になっていた。
身体を起こしてまだ痛む腹を擦りながらあたりを見渡し、行燈の灯りに時間の経過を知る。
あいまいな現実に、行燈の灯りのように生きる力が弱まっていると感じていた。
「起きたか」
落ちついた低音の声に顔をあげると、閉ざされていた襖が開く。
灰色の着流し姿に、艶やかな顔立ちの男性。
蒼玉色の瞳に少女の姿を映せば眉根を寄せ、疑念の色をにじませた。
「……はっ」
少女の顎を掴むと顔を近づけ、鼻で嗤って少女の肩を突き飛ばす。
乱暴な扱いに抵抗する力も出ず、少女は男に押し倒されて虚ろな目を向けた。
「めずらしいものだ」
「えっ?」
「どうしてやろうか。生きた贄ははじめてでな。わかりやすく煮て殺すか、引き裂いてしまおうか」
男の発言に異常さを感じ、少女は不安と諦めの板挟みに消え入りそうな声を出す。
「わかりません。何を言っているのですか?」
養父に捨てられたことは夢ではなかったようだ。
男の言葉を拾えば、生贄としてどこか不思議な世界に投げ出されたと把握できた。
(この人は誰? 私は……)
疑問が浮かんでは消え、糸が切れたかのように深い息を吐く。
最も不鮮明と感じていたのは自分の所在だった。
(捨てられた。それ以外何でもないんだ)
一度たりとも自分に実感を持てたことがないので、生贄にされた恐怖よりもあきらめの方が大きかった。
「お前は育ての親に贄として売られた」
「そう……なんですね」
大した興味もなさそうに返事をすれば、男は目を丸くし少女の肩を押すと指で顔の輪郭をなぞった。
(冷たい)
この手は少女に触れて何も思っていない。
お互いに空虚のため、少女は生贄の顔しか表に出せない。
二度と振り向いてほしい人の背を見ることも、振り返った顔が笑いかけてくれることもないと心が凍てついた。
「ここまで辿り着くまでに世界が変わる圧力に負けて死ぬ。お前は例外のようだが」
愛想のない声に少女は物寂しくなり、男に手を伸ばしてみた。
どうせ食われてしまうのならば、誰に見られたかを知って消えたい。
「あなたは誰ですか?」
これはあきらめと、わずかな興味だ。
男の目が驚きに満ち、一瞬のためらいの後、温度が下がる。
美しい顔がさみしく見えるのは、他の人にとっても同じだろうかと少し興味がわく。
「人間は私を土地神と勘違いしているようだ」
「土地神様……?」
少女と生贄の意味が繋がった。
山のふもとから歩いて四半刻(15分)ほどの場所に大きな村があり、凶作に悩むと生贄を差し出す風習があった。
洞穴に石棺があり、生贄を寝かせれば人知れずに消えていく運命をたどる。
棺に生贄を置いた瞬間に外に弾かれるので、誰一人生贄の行く末を知らなかった。
それが土地神様に生贄を送れた証明として、祈りが届くと歓喜に舞いあがっていた。
(少しはお金になったのかな。おじさん、ちゃんと生きていけるかな)
捨てられたとわかっていながら思うのは養父の後ろ姿。
傷ついたはずなのに、嫌いだと断言できない虚しさに目を閉じた。
「お前、泣かないんだな」
男に手を掴まれ、少女は目を開くと視線を滑らせて白い肌を見る。
(キレイな手。私と大違い)
野草をとってかぶれて腫れたこともあった。
ぐうたらな養父を支えるために畑仕事にも勤しんできた。
冷たい水で手を洗えばあかぎれに染み、そっと手を擦り合わせた。
そうして男の美しさに飲まれていると、男はクックと喉を鳴らしておかしそうに目を細める。
「月冴(つきさ)だ。そう呼ばれることが多い」
「月冴……さま?」
それだけの響きに胸が高鳴った。
少女が持たない固有名詞。
耳にスッと入ってくる響きに月冴は鼻で嗤ってから立ち上がる。
裸足で大股に部屋を出ると、振り向いて一言「生かしてみようか」と呟いた。
***
それから十日が過ぎても月冴は顔を見せなかった。
(変なの。お腹が空くこともないなんて)
生贄として出されたが、本当はすでに死んでいるのではないか。
虚無感への向き合い方を見つけられないまま、寝ころんで畳の目を数えるくらいに暇を持て余していた。
部屋に籠もりきりだと本当に生きている心地がしないので、時折襖を開けて縁側に腰かける。
部屋から眺めることの出来る庭では、手水鉢に流れる水の音や風が木々を撫でる音がした。
静かすぎる日々を打ち破ったのはドスドスとした大きな足音。
縁側に触れた指先から感じる振動と、音の間隔。
(強い音。機嫌が悪い?)
その場に正座をして待機すれば、月冴が険しい表情をして少女の前に現れた。
(何か悪いことでもしたかな?)
機嫌の悪そうな顔に少女はボーッと首を傾げる。
ずいぶんと荒々しい足音だった月冴の足元を眺めると、上からひんやりとした手が少女の頬に触れた。
力加減を知らない手に少女は眉一つ動かさなかった。
「お前、逃げなかったのだな」
月冴の言葉に少女はキョトンとする。
「あやかしの贄にされたとわかったら怯えて逃げ出すものだろう」
何も理解しない少女に月冴の口調が荒くなった。
少女は”そういうもの”と認識し、怯えた素振りをみせる。
その人まねが月冴には不愉快だったようで、眉をひそめて睨まれてしまった。
「ここは人の生きる場所ではないんですよね? だったら逃げません」
「それは冷静に言ってか?」
「私に帰るところはありませんから。……十日も経てばさすがに知らない場所とわかります」
しょせん、養父に捨てられた生贄だ。
少女が逃げ出せば、月冴が村を滅ぼす可能性も否めない。
簡単に滅ぼすことが出来ると感じさせるほど、月冴からは圧倒的な強者のオーラが漂っていた。
少女は生贄となることに悲しさはあれど、諦めるのも早かった。
その歪さは月冴には不可解なようで、しかめっ面に少女の腕を引くと庭に出て、高下駄をカラコロと鳴らした。
「ずっと部屋にこもっているだろう。庭は眺めるのも良いが、歩いてみるのも良い」
あれほど冷たかったのが噓のように言葉がやさしかった。
あたたかな音色に少女が顔をあげると、光の粒をまとう美しい髪と、涼やかな横顔に魅入ってしまった。
月冴が視線に気づいて振り返ると、恥じらって慌てて目を反らす。
その先に見えた庭の全貌に少女は息を呑み、感嘆の息をついた。
「キレイ……」
松の木、石畳の道、流れる水、木の橋。
隅々まで洗礼された光景には見たこともない花がある、
(季節がないのかな? いろんなものが混ざってる)
季節を問わない虫や鳥、池には紅白や金などの鯉がゆったりと泳いでいる。
橋の上から池を覗き込むと、鯉が口をパクパクさせながら近づいてきた。
(かわいい……)
山菜採りに野菜づくりと決まった日々を送っていた少女にはすべてが新鮮に映る。
草木の生い茂る自然もよいが、こうして趣のある計算された空間もよい。
自分にちゃんと好ましさが存在することに胸を撫でおろした。
「美しいだろう」
ワクワクする少女の心を読んだかのように月冴が代弁する。
「はい。それはとても」
生命力を感じて草木からも呼吸が聞こえた気がした。
月冴は「ふっ」と微笑むと、赤い橋の手すりを指でなぞった。
「私には持て余す庭だ。好きにすればいい」
その横顔はうら寂しそうで、少女はかけるべき言葉がわからなかった。
見つめるだけでいると、月冴は困り果てた顔をして少女に問いを投げる。
「お前の名は?」
一瞬にして現実に引き戻される。
餌をもらえないとわかって離れていく鯉を目で追いながら、気まずさに首の皮を引っ掻いた。
「名はございません」
率直すぎる回答に月冴の眉があがる。
「ないだと?」
「はい。名をつけてもらう前に両親は亡くなったそうです」
まるで他人事のように淡々と語れてしまう。
「養父からも名前をいただいていないのです。ずっと"名無し"と呼ばれておりました」
名前があれば自分の所在がわかるかもしれない。
叶わなかった夢に駄々をこねても致し方ないと、嗤うしかなかった。
「怒らないのだな」
月冴が手をのばし、乱れた少女の髪をすくって耳にかける。
「怒る?」
指から体温に少女は頬に熱が集中するのを感じた。
「いや、いい」
追及はしまいと言葉をひっこめ、月冴は少女から大股に歩いていく。
少女は月冴の背に手を伸ばそうとして、すぐに手を下ろす。
この手が伸ばしたかったのは違う背中だと虚しさに落ちこんだ。
「好きに生きろ。私も少しばかり見てみたくなった」
「月冴さま……?」
風の向かった先に、いじわるな笑みを浮かべる月冴がいた。
袖をあわせて微笑む姿は何度でも魅入ってしまい、胸が焦げそうだ。
(わからないけど、今は追いかけてみたい。いいのかな?)
これも期待の一種だろうか。
いつ月冴に見捨てられても平気でいられるように予線をはり、高鳴る旨を抑えて月冴のもとへ駆けた。
その翌日、少女はどこにも行こうとせず部屋にいた。
障子扉を開いて庭を眺め、踏み出そうとしては引っ込めるを繰り返す。
(勝手に歩いていいのかわからない)
どうせ歩くのならばもう一度と、想像しては首を横に振った。
月冴と歩くことは出来ても一人だと前に踏み出せない。
(……あれ?)
縁側に触れた指先でわずかな振動に気づく。
だんだんと音が大きくなり、顔をあげると銀色のきらめきが空を流れていた。
あまりの美しさに釘づけになっていると、月冴の手が伸びて少女の手首をつかむ。
「外へ出るぞ」
「外ですか? って……きゃっ!?」
月冴に手を引かれ、もたもたと立ち上がる。
月冴の歩き方は大股で、少女がどれだけ急いでも追いつけない。
トロトロした歩きに月冴は思案すると、ひょいと少女の身体を抱き上げ肩にのせた。
少女の頬がカッと赤らむ。
「あのっ! お、おろしてくださ……」
「そんなフラフラでどうやって外に出れるというんだ」
抗議しても月冴に聞く気はなく、また高下駄をカラコロ鳴らした。
屋敷から出ると空の色が一変し、大気が澄み渡るような夜に変化した。
ここは本当にあやかしの世界のようで、高下駄の音は聞こえても足元は暗くて見えなかった。
暗闇の中で月冴の銀色はきめ細やかに輝いているので、どこにいてもまぶしい人なのだと思った。
「……あの」
少女の声に月冴は足を止める。
それは最初の一歩というのか、触発された結果なのか。
「自分の足で歩きたいです」
月冴の肩を押し、上から蒼い瞳をじっと凝視した。
予想外の願いに月冴は目を見開いて、少女から目を反らし言葉を選びだす。
「……見てのとおり足元は隠れてしまう」
「それでも。……お荷物は嫌ですから」
自分がどこにいるのかわからなかった。
自己認識のないままに生きていたから、生贄にされたことは悲しくても同じくらいにあきらめがあった。
それがダメだったのかもしれない。
自分を否定することに変わりはないが、そんな自分が嫌だと思ってようやく声をあげた。
月冴が手を引いてくれて、顔をのぞいても怒りが降ってこない。
背中を見るだけでなく、隣に並んでも、前から見ても、月冴から冷たい罵倒は飛んでこなかった。
足の遅い少女に歩調は合わせられなくても、同じ速度で歩こうとしてくれたことをうれしいと思った。
「……よくわからない娘だ」
月冴は少女の身体をおろし、何もない空間に手を横に振った。
鬼火のようなものが行列を成して一直線に伸びた。
あやかしの世界らしい光景に圧倒されている内に、月冴が少女を下ろして膝をついていた。
(えっ……?)
裸足の少女の足に触れ、滑る手つきで下駄を履かせた。
そして少女の手を取り、ふいっと顔を背けて歩き出す。
「その足ではすぐに捕まってしまう。手を離すな」
何に、と問うより先に彼が大股に歩きだす。
追いかけている背は不思議とあたたかい。
きっと横顔が燦々(さんさん)として見えるからだろう。
見惚れているうちに最後の鬼火にたどり着いたようで、何もなかった空間に巨大な赤い鼓門が現れた。