「天女様、どうかお情けを……」

 私の前で、中年の男性が地面にめり込みそうなほどひれ伏して懇願している。
 トラ様たちが捕虜として城に連れ帰ってきた、佐岐の国主様だ。

「どうか、佐岐にも恵みの雨を降らせてくださいますよう、お願い申し上げます。このままでは、我が国は躯の山を築くことになってしまいます。お望みとあらば、私の首でもなんでも差し上げます。どうか、お情けを……」

 首なんかほしくない。
 隣に立つトラ様を見上げると、優しく微笑んで頷いてくれた。
 私に処遇を任せてくれたのだ。
 それなら、どうするかもう決まっている。

「この方を御神木のところにお連れします」

 トラ様たちが出立した後、私は御神木に向かい祈りを捧げた。
 寝食を忘れて祈り続け、気がついたら私は意識だけ空の高いところを漂って、地上を見下ろしていた。
 
 ––––––トラ様。

 愛しい名を呼ぶと、すうっと風に流されるように雲の間を移動して、丘の上で陣を構えている肥賀の軍が眼下に見えるようになった。
 弓矢を手にしたトラ様がいる。
 凛々しい瞳が睨みつける先には、トラ様たちに向かって刃を振り上げ走ってくる男たちがいた。
 あれが佐岐の兵なのだろう。
 とても痩せているが、その瞳はギラギラとした殺気に満ちている。
 あの刃が、もしトラ様に届いたら……

 ––––––やめて!

 私が叫ぶと、すぐ近くで大きく温かな気配が動くのを感じた。
 目には見えなくとも、それが竜神様なのだと直観でわかった。
 轟音と共に雷が地上に落ち、さっきまで走っていた男たちが倒れた。
 それから続けざまの雷で半数以上の佐岐の兵が倒れたところで、降伏を呼びかけたトラ様に佐岐の兵たちが全員その場で膝をついた。

 ––––––よかった。

 トラ様も皆も、無事だ。
 倒れている佐岐の兵たちも、死んではいないはず。
 竜神様、ありがとうございます。ありがとうございます……
 
 気がつくと、私は祈りの姿勢のままの体に戻っていた。
 立ち上がって振り返ると、心配そうな顔をした大巫女様がいた。
 どうやら、私は身じろぎすらせず丸一日祈っていたらしい。

「大巫女様。戦は終わりました。トラ様たちは、全員無事です!」

 私は晴れやかな顔で告げ、涙を流す大巫女様と抱き合って喜んだ。


「これを見てください」

 私がトラ様と佐岐の国主様たちに指さして見せたのは、真っ二つに裂けて倒れた御神木の根本だった。
 そこには、二本の小さな木の芽がぴょこんと地面から顔を出してる。
 枯れてしまったかに見えた御神木は、まだ生きていたのだ。

「一本はこのままこの地で成長し、御神木となります。もう一本は、佐岐の人々が望むなら、守護の証として佐岐の地に授けると竜神様は仰っています」

 あれから私は、竜神様の存在をはっきりと感じることができるようになった。
 竜神様がなにを望んでいるのかも、私の心に伝わってくる。

「その代わり、佐岐の人々にも竜神様を崇めてもらいます。そうすれば、慈悲深い竜神様は肥賀の地に攻め入ったことを水に流し、佐岐にも恵みを与えて下さるのだそうです。どうなさいますか?」
「是非とも!お願いいたします!」

 佐岐の国主様は、再び地面に平伏した。

「我らは子々孫々に渡り、竜神様を崇め奉ると誓います!ですから、どうか恵みをお与えくださいますよう!」

 血を吐くような声に、胸が痛くなった。
 国主様ですらこれだけ痩せているのだから、佐岐の国は本当に苦しいのだろう。

「わかりました。では、私と共に祈りを捧げましょう。竜神様に、国主様の声を届けるのです」

 私が御神木に向かって跪くと、佐岐の国主様だけでなくトラ様たちも跪いた。 

 佐岐の国主様も、竜神様を崇めると約束してくださいました。
 どうか、佐岐にも恵みの雨を降らせてくださいますよう、お願い申し上げます。
 佐岐に住む人々を、お助け下さい……

 私たちの上に、ぱらぱらと小雨が降り注いだ。 
 同時に、遥かな天上で竜神様が東の空へと飛んでいくのを感じた。
 佐岐に慈雨を降らせにいってくれたのだ。

「竜神様が、祈りを聞き届けてくださいました。間もなく佐岐には雨が降り注ぎ、稲妻が輝くことになるでしょう」

 私がそう伝えると、佐岐の国主様は再び地面にひれ伏して声を上げて泣いた。
 よかった。これで、佐岐の人たちも助かることだろう。

「エリ、ありがとう。きみのおかげ、誰も死なずに済んだ」

 トラ様の大きな手が私の頬に触れた。
 もしかしたらこの温もりが永遠に失われてしまっていたのかもしれないと思うと、涙が溢れた。 
 トラ様が無事で、本当によかった……
 
「嫁においで」

 私の応えは、もう決まっている。
 嬉しくて言葉がでてこない私を、トラ様はそっと抱きしめてくれた。
 柔らかな雨に打たれながら、私たちは幸せに包まれた。

 東の空からは、私たちを祝福するように雷鳴が響いていた。