翌朝、カナメは私が着ていた修道服と、淡いピンク色のカナメが着ているのと同じような服を持ってきてくれた。
 修道服は、私がこちらに来たときに濡れてしまったので、洗っておいてくれたのだそうだ。

「これは小袖というのよ。エリに似合いそうな色を選んできたのだけど、どうかしら?」

 灰色の修道服しか持っていなかった私にとって、こんなに明るい色を纏えるなんて夢のようだ。
 一も二もなく頷いた私に、カナメはてきぱきと小袖を着せてくれた。
 慣れない衣装ではあるが、可愛い色がとても嬉しい。
 草鞋という乾燥した草でできた履物を履かせてもらい、カナメに連れられて外に出た。 
 ウキウキとした気分で歩いていると、なんだか人がたくさん集まっているのが見えた。

「あ、姫様だ!」
「エリ様もいるぞ!」

 人々の視線が私に集まり、私はついカナメの後ろの隠れてしまった。

「こらこら、騒ぐんじゃない。エリが怯えてしまうじゃないか」

 人垣を割るようにして、茶色の馬を牽いたトラが現れた。

「おはよう、エリ。よく眠れたかな?」
「はい、おかげさまで……」
「その小袖、よく似合っているね。とても可愛いよ」

 爽やかな笑顔でさらりと言われ、私はなんと返事をしていいのかわからず、赤くなって俯いてしまった。

「エリ、馬に乗ったことは?」

 私は首を横に振った。
 馬車になら乗ったことがあるが、乗馬はしたことがない。

「そうか。じゃあ、今日が初めてだね」

 そう言いながら、トラは私を軽々と抱え上げた。

「きゃああ!」

 思わず悲鳴を上げた私は、馬の背にとりつけられた鞍の上に降ろされた。

「少し坂道を歩くから、きみは念のため馬に乗せていく。ゆっくり歩くから大丈夫だと思うけど、しっかりつかまっているんだよ」
「は、はい……」

 トラに牽かれて、馬がパカパカと歩き出した。
 私は言われた通り鞍につかまったが、これくらいの揺れなら落ちることもない。
 視線が高くなったので、遠くまでよく見える。
 私は見るものすべてが物珍しくて、きょろきょろと見まわした。
 建物はどれも木製で、ベルトラム王国のように石造りの建物は見当たらない。
 どれも一階建てで、高い建物がないのも木製だからなのだろうか。
 私たちの後ろを、さっきの集まっていた人たちがぞろぞろとついてくる。

「皆、きみのことが気になってしかたがないんだよ。少し離れて見ているだけだから、許してやってくれ」

 トラが言っていたように、ここの人たちは皆黒っぽい髪と瞳をしている。
 一人だけ白い頭が見えると思ったら、老婆だった。
 元々は黒髪だったのが、白髪になったのだろう。
 どこを見ても、見知らぬものばかりだ。
 理由はわからないが、私はベルトラム王国を遠く離れ、全く知らない場所に来てしまったのだ。
 人々は、たくさんの好奇心の中に少しの警戒心が混ざった視線を私に向けている。
 明らかに異端な姿をしている私は、ここで生きていけるのだろうか。

「きみが雨を降らせることができるかもしれないというのは、俺と果菜芽しか知らない。
雨が降らなかったとしても、誰もがっかりしたりしないから大丈夫だ」

 だが、それでも、トラとカナメはがっかりすることになるだろう。

「俺としては、可愛いエリがこの国に来てくれただけで、嬉しいと思っているよ」 
「えっ……」

 可愛い?私が?
 この国では、可愛いの基準がベルトラム王国とは違うのかもしれない。
 建物の間を通り抜け、鬱蒼と木々が茂った山へと続く道を進む。
 道ではあるが、石畳になっているわけではなく地面が剥き出しで、たまに木の根が飛び出しているところもある。
 これは、慣れないと歩き難いかもしれない。
 そういうことも懸念して、馬に乗せてくれたのだろう。
 そのまましばらく馬の上で揺られていると、不規則に立ち並んでいた木立が途切れ、開けた場所に出た。
 そこにあったのは、青く透き通った水を湛えた泉だった。
 それから、真っ二つに裂けて倒れたままになっている、とても大きな木。

「さあ、着いたよ。竜神様の泉と御神木だ」

 トラは私を馬に乗せた時と同じように、ひょいと抱えて地面の降ろしてくれた。
 辺りには漂う空気には、水の匂いと共にピンと張りつめた気配のようなものが含まれている。
 カナメが言っていたように、ここが祭壇に類するような場所だということがよくわかった。
 泉の畔に立って覗き込んでみた。
 清らかに澄んだ水ではあるのだが、底は見えない。
 なんとなくだが、とても深いのではないかという感じがした。
 それから、御神木に近寄ってみた。
 見れば見るほど、大きな木だ。
 それが倒れてしまほどなのだから、よほど大きな雷だったのだろう。
 トラの話によると、私は幹の裂け目のところにいたらしい。
 なぜそんなことになったのかはさっぱりわからないが、私が竜神様に与えられた能力は雨を降らせ雷を鳴らす、というものだ。
 これが偶然なはずがない。
 私はがこの国に来たのは、きっと竜神様の導きによるものなのだ。
 振り返ると、トラと目があった。
 トラは優しく微笑んで、私を勇気づけるように頷いた。
 その後ろにはカナメがいて、心配そうな顔で私を見ている。
 トラもカナメも、私にとても親切にしてくれた。
 お腹いっぱいご飯を食べさせてくれて、温かく清潔な寝床で休ませてくれて、可愛い衣装まで着せてくれたのだ。
 この国は雨が降らなくて困っていると、トラは言っていた。
 私は農業に関わったことはないが、水がないと植物が育たないことくらいは知っている。
 農作物を育てるためには、水が、つまり雨が必要なのだ。 
 優しい二人に、恩返しがしたい。
 そのために、雨を降らせたい。
 私は御神木の前で地面に膝をつき、深呼吸をして両手を握り合わせ、目を閉じた。

 肥賀の国の竜神様。
 どうか、この地に恵みの雨を降らせてください。
 どうか、この国の人たちをお助け下さい。
 どうか、私の祈りが届きますよう–––––––

 私は真剣に祈った。
 ベルトラム王国でしたように、命じられて祈ったのではない。 
 竜神様に届くようにと願いながら、生まれて初めて私の意志で心から祈ったのだ。

 竜神様、お願いです。
 どうか、どうか、お慈悲を–––––––
  
 ゴロゴロと遠くから音が響いたのは、私が祈り始めてすぐのことだった。
 はっと見上げると、さっきまで青空しかなかった空に、灰色の雲が湧きだすように広がっているところだった。
 鏡のようだった竜神様の泉の水面に、小さな波紋がいくつも現れた。
 ぽつぽつと空から落ちてきた水滴が地面を叩く音がする。

「雨だ……!」

 誰かが叫んだ直後、ざあっと音をたてて本格的な雨が降りだした。

「雨だ!雨が降ったぞ!」
「すごい!こんなに降るなんて!」
「これでやっと種まきができる!」

 人々がわぁっと歓声を上げた。
 
「ありがとうございます、竜神様……!」

 私はほっと胸を撫でおろし、声に出して竜神様にお礼を言った。
 よかった。これで、トラたちは助かるだろう。

「エリ!」

 トラが駆け寄ってきて、私の両脇の下に手を差し込んだかと思うと、そのままぐいっと持ち上げられた。

「すごい!すごいよ、エリ!」

 驚く私に構わず、トラは高く私を捧げたままくるくると回った。

「きみは竜神様がこの国に遣わされた、恵みの天女様だ!」

 満面の笑みでトラは私を振り回す。
 天女様というのはよくわからないが、喜んでくれたようで私も嬉しい。
 しばらく振り回され、やっと地上に降ろされた頃には、私はすっかり目が回っていた。
 よろめいてしまった私は、トラの広い胸で抱きとめられ、そのままぎゅっと抱きしめられた。

「ああ、エリ……きみが来てくれて、本当によかった……」

 囁く声がかすかに震えている。
 トラが……泣いているの?
 男の人が泣くを初めて見た私はどうしていいのかわからず、赤くなりながらただされるがままに抱きしめられていた。

「天女様……」

 そんな私の手を、横から誰かが握った。

 見ると、白髪頭の老婆が地面に跪き、私の手を押し頂くように蹲っていた。

「この国で一番の神力をもつ大巫女殿だ。昨日の雨乞いの祈祷も、大巫女殿が中心になって行われていたんだよ」

 トラが説明してくれた。
 巫女というのは、おそらく神殿にいた神官のようなものだろう。

「天女様……なんとありがたい……」

 深い皺が刻まれた老婆の頬を、雨ではない雫がつたって落ちていく。

「私の力がもっと強ければと、どれだけ悔やんだことか……これで姫様も救われます……」

 姫様という言葉に、カナメに目を向けてみると、カナメに取り縋るようにして幾人もの女性たちが泣いていた。

「雨乞いの祈祷をしても雨が降らなかったら……果菜芽は今頃、泉の底で竜神様の花嫁になっていた」
「えぇ!?」

 それって、生贄ってこと!?
 カナメが私を命の恩人だと言ったのは、そういう理由だったのか。

「竜神様の花嫁になれるのは、国主の血をひく娘だけだ。そして、花嫁を捧げるのは国主の務めでもある。つまり、俺はこの手で果菜芽を泉に沈めなければならなかったんだ」
「そ、そんな……」

 トラとカナメは、どう見ても仲のいい兄妹だ。 
 もしそんなことになっていたら、残されたトラも心に大きな傷を負うことになっただろう。

「姫様を一人では逝かせられぬと、私もお供をするつもりでした。ですが、天女様のおかげで、姫様はこれからも現世で年を重ねることができます。なんとありがたいことか……」

 カナメは、誰にも愛されず火口に放り込まれた私と違う。
 ここにいる全員が、カナメのことを愛しているのだ。
 もしカナメが生贄にしたことで雨が降っても、この国には悲しみが満ちたことだろう。

「よ、よかった……雨が降って、よかった……」

 そんな悲劇が起きなくて、本当によかった。
 竜神様。私をこの国に導いてくださって、ありがとうございます。

「きみを一目見た時から、俺はきみがこの国にもたらされた瑞兆だと思っていた」

 トラは黒い瞳を優しく細め、私の髪を一房手にとった。

「君の髪は、豊かに実った稲穂と同じ色をしている」
「いなほ?」
「きみが食べた粥は、米でつくられたものだ。米は、稲という作物から採れる。稲を育てるには、水がたくさん必要なんだよ」

 ゴロゴロと音がして、空がピカっと輝いた。
 それを見上げて、トラは嬉しそうに微笑んだ。
 
「それから、ここでは雷は稲妻と呼ばれている」
「いなずま?なぜ?」
「ああやって稲妻が鳴ると、稲がよく育つんだ。雨を降らせるだけでなく、稲妻まで呼び寄せるなんて、きみは素晴らしい天女様だ。今年は間違いなく豊作になるだろう。まだ種を蒔いてもいない今から、収穫が楽しみでしかたがないよ」

 雨はともかく、雷にもそんな効果があるなんて知らなかった。
 ベルトラム王国では、雷たまに火災を引き起こす、うるさいだけの現象だと言われていた。
 それなのに、ここでは雷すら歓迎されている。

「私、ここに来てよかったです……」

 ここでなら、私も皆の役に立てる。
 私が竜神様に選ばれたのには、ちゃんと意味があったのだ。

「ああ、本当に来てくれてよかったよ。きみは肥賀の国を救ってくれた恩人だ。国を挙げて大切にすると約束するよ」

 雨に濡れたトラは、なんだかとても眩しい。

「秋になったら、きみの髪と同じ黄金色の稲穂を見せてあげるからね」

 蕩けるような優しい笑顔に、私はなぜか胸が苦しくなった。