「エリーザベト!おまえとの婚約を破棄する!」

 私はぱちぱちと瞬きをして、目の前で私を睨みつけている青年を見上げた。
 赤い髪と、赤い瞳。
 ということは、どうやら彼はこのベルトラム王国の王太子であり、私の婚約者でもある、ヨハンネス・ベルトラム殿下なのだろう。
 私が十歳の時から八年間婚約しているのに『なのだろう』くらいの確信しか持てないのは、私たちが顔を合わせたのは婚約を結んだ時の一度だけだからだ。
 殿下はそれなりに整た顔を顰め、私を汚いものでも見るかのように私を睨みつけた。

「なんというみすぼらしい姿だ。このような女が聖女なわけがない」

 今の私は、あちこちほつれて継ぎはぎだらけの灰色の修道服を着ている。
 艶のないくすんだ金髪は背中で一つに纏めただけで、当然ながら化粧もなにもしていない。
 みすぼらしいと罵られても仕方がない姿ではあると思うが、それはどう考えても私のせいではない。
 私がこんな姿なのは、神殿でひたすら掃除と洗濯をさせられているからだ。
 そんな仕事を私に押し付けたのは、王家と神殿ではないか。

「おまえは自らを聖女と騙り、身の程知らずにも俺の妃の座を得ようとした。だが、そんなおまえの企みもここまでだ!」

 濡れ衣もいいところだ。
 私は好きで聖女になったのではないし、殿下の婚約者になったのも私の意志ではない。

 ベルトラム王国に生まれた子供は、身分に関わらず十歳になるとこの国の守護神である竜神様を祀る神殿で洗礼を受けることになっている。
 私も十歳になった時、叔父夫婦に連れられて神殿を訪ねたところ、突如として祭壇の上の竜神様の象の瞳が赤い光を放った。
 その光は真っすぐに私に降り注ぎ、私が『豊穣を齎す聖女』だという神託が降りたのだった。
 私も叔父夫婦も驚いたが、神殿の神官たちは割と冷静だった。
 どうやら、もうすぐ聖女が現れるという神託が少し前に降りていたのだそうだ。
 すぐに王族や主だった高位貴族たちが神殿を訪れ、私は大勢からの期待に満ちた視線を浴びながら、言われた通りに祭壇に向かって祈った。
 そしてしばらくすると、ふいに窓の外が暗くなった。
 それまで晴れわたっていた青空が、みるみるうちに雲で覆わたかと思うと、雷の音が響き雨の雫がパラパラと降り出した。
 集まっていた人々と同じように、私も祈るのを忘れてそれを眺めた。
 十五分ほどで雷と雨は止み、雲は跡形もなく消え失せ青空が戻ってきた。

「これで終わりなのか?」

 そう声を上げたのは、私より少し年上に見える少年だった。
 ベルトラム王家特有の赤い髪と赤い瞳をしていることから、王子様なのだということが私にもわかった。

「少し雨が降るだけではないか。これのどこが豊穣を齎す聖女だというのだ」

 王子様、つまりヨハンネス殿下は私を猜疑に満ちた瞳で睨みつけた。

「お待ちください。聖女様は未だ見いだされたばかりでございます。これから能力が開花するのではないかと存じます」

 初老の神官がそう取りなすと、殿下はふんと不満気に鼻を鳴らした。
 これは後からわかったことだが、聖女が現れたら王族と結婚するのが慣例とされており、ベルトラム王家の唯一の王子であるヨハンネス殿下は、聖女と婚約しなければならない立場だった。
 その聖女がたいした能力もなく、ありふれた麦わら色の髪と青い瞳をした、やせっぽちの小娘だったのが気に食わなかったのだろう。
 殿下と私は互いに言葉を交わすこともなく、王族も貴族もぞろぞろと神殿から去って行った。
 私はそれを呆然と見送り、神官たちは落胆した顔でため息をついた。

 その日から私は聖女として神殿で暮らすことになった。
 最初の数か月ほどは世話をしてくれる修道女がいて、毎日祭壇に向かって祈りを捧げた。
 だが、どれだけ祈っても結果は同じで、雷が鳴って雨が降る以外のことは起きなかった。

「もう祈らなくてもいい。おまえは掃除でもしていなさい」

 偉そうな神官にそう言い渡され、私の部屋は広い客室から位の低い修道女の部屋になり、
掃除と洗濯をするのが私の仕事となった。

 それ以来八年間、掃除と洗濯をするだけの日々が続いた。
 私に話しかける人は誰もおらず、一日に一度も口を開かないようなことも珍しくない生活をおくっているうちに、婚約者がいることすらすっかり忘れていた。
 今日も洗濯物を干し終えて、掃除にとりかかろうと箒を手にしたところで、突然現れた立派な身形の騎士たちに神殿から引きずり出され、王宮だと思われる豪華絢爛な建物に連行されたのだ。

 そして、私は今、婚約破棄を突きつけられている。
 なにからなにまで理不尽極まりないと思うが、私がそう訴えたところで誰も聞いてくれないということも、これまでの経験で身に染みてわかっていた。

「本来なら斬首刑にして首を晒すところだが、偽りであったとはいえ、一度はこの私の婚約者だった女だ。ただ処刑するのは忍びない。おまえの身は、竜神様に捧げてやろうではないか。竜神様に選ばれた聖女を騙ったのだから、それも本望であろう」

 殿下は整った顔を歪ませて嗜虐的に笑った。 
 私の聖女としての能力が期待されたものでないとわかった日から、いつかこうなるのではないかと思っていた。 
 私が聖女に選ばれたのは、なにかの間違いだったに違いない。
 それか、竜神様の気まぐれだったのかもしれないが、どちらにしろ同じことだ。
 最後まで私は誰からも認められず、必要とされることもなく、無意味な人生をもうすぐ終えるのだ。
 全てを諦めた私は黙って縄をかけられ、また別の場所に連行された。
 都のすぐ外にある、ベルトラム王国を守護する竜神が棲むという活火山だ。
 卵が腐ったような臭いに顔を顰めながら、死刑執行人は私を荷台から引きずり下ろすと、一切抵抗しない私の体を無造作に火口に放り込んだ。

 もういい。これでやっと終わりにできる。
 落下しながら目を閉じ、私の意識は闇に沈んだ。