※残酷な表現があります。苦手な方は、ご注意ください。


   ◆


「ただ……ただ普通に、生きたいだけなのに……」

 民家というには大きな邸宅の、離れと思われる小さな建屋の庭先。手入れが行き届いていないのか、そこかしこに背の高い雑草が生えていた。そんな荒れた庭を覆い隠していくように、白い雪がしんしんと降っている。
 
 凍えそうな寒空の下で、黒髪の乙女が立ったまま泣きじゃくっていた。

 地味な灰色の銘仙(めいせん)に赤茶色の袴と、履き古したブーツを身につけたその女性には、軍服姿の男性が寄り添っている。男性は、やがて遠慮がちに肩先に積もった雪を指で優しく払い落とした。そんな仕草には彼の思いやりが垣間見えるが、女性は時折しゃくり上げるくらい泣いているため、気づかない。

「そうか。ならば、我が家に来い」
「あなた様も、犬神とやらをご所望ですか!」

 わんわんと泣く女の、濡羽色(ぬればいろ)双眸(そうぼう)を上から覗き込むようにして、軍人は微笑む。
 軍帽の下には雪のような白い髪が背中まであり、後頭部で一つに結ばれているが、見た目は二十代後半くらいにしか見えない。青レンズの眼鏡を掛けており、瞳の色はよく分からないが、目尻が下がり優しい表情に見える。
 右頬には大きな切り傷がまるで口を裂くように走っていて迫力があるが、ゆるやかに上がった口角と落ち着いた口調で、怖さは感じさせなかった。
 
「そうではない。そなたが心配なのだ」

 女性はいやいやと言うように、首を何度も横に振る。
 
「信じません!」
「信じなくともよい。このままでは、生活も立ち行かぬ。しばらくの間でもいい」

 濡れそぼった目で、女性は男性を見上げた。

「しばらく、でも?」
「ああ。冬を越す間だけでいい。凍え死んでしまうぞ」

 女性は、考える。確かにまともな暖房どころか、布団すらも与えられない環境では、()()()()凍死してしまうかもしれない。
 
()()()()わけには……」
「うん?」

 ハッと我に返った女性は、小さく掠れた声で答えた。
 
「……では、春まで」
「ああ。春まで」

 男性がするりと差し出した手を、女性は警戒心からか取ることはできず、少し眉根を寄せた。その様子を見た男性は、すぐさま軍用手袋を脱ぎ、素手をもう一度差し出す。

「雪で足元が危ない。さあ」
「……はい」

 恐る恐る握った手は、温かい。

 ――女性にとって、人肌に触れるのは、初めてのことだった。

   ◆
 
 日本帝國にある東都という街は、長きに渡る国内紛争の結果、勝利を納めた帝國軍側の本拠地である。王権制廃止に伴い首都として新たな機能を持ち始めたことから、帝都と呼び名を変えた。
 そのためこの街では、古くからの慣習と新しい技術が入り乱れた文化形成が始まっている。王が傀儡となった今、爵位を持つ華族どもは躍起になって、帝國軍の上官に取り入るための商談や縁談を進めているところだ。

 華族の中でも、連綿と続く血統を誇る本堂家は、伯爵位というだけではない。異能と呼ばれる人智を超えた能力を授かる家系としても知られ、特に少し先の未来を占う『先読み』は随一の能力を誇っていた。
 そのため帝國軍支配にあってもその能力を買われ、重要な家柄であるとの地位を保っている。

 現在本堂家には、ふたりの娘がいる。
 一人目は、姉の桜子(さくらこ)。十八歳。
 二人目は、妹の千代子(ちよこ)。十六歳。
 先読みの能力は、妹の千代子に宿っていた。判明したのは、千代子の十六の誕生日当日である。能力開花を確かめるべく行われた試験で、千代子は当主が「五分後に発表する姿が見えた」と、紙の隠し場所と内容を予言し見事に的中させた。
 
 本堂家は力の顕現に湧いたと同時に、桜子へ今まで以上に厳しく接するようになった。桜子の方は何度その試験を行なっても、当てることができなかったからである。

 無能。役立たず。不要。

 もはや、家人だけでなく使用人にまで言われる始末。

 十六歳の試験に失敗した時から、桜子は離れの隅へと追いやられ、冬を越すにも難儀するぐらい、ろくな物も与えられず過ごしている。
 それでも、家同士で決められた婚約者である帝國軍少尉・風早(かぜはや)政親(まさちか)の元へ嫁げば、状況は上向きになると思い、必死に耐えていたが――

「少尉との縁談は千代子へ譲れ」
「そんなっ」

 久しぶりに呼ばれた母屋の広間で、当主から一方的に告げられた桜子は、絶望の余り腰を浮かせた。
 取り乱す桜子の様子を横から冷ややかに眺めるのは、綺麗に正座した妹の千代子である。

「こおんな地味で、なあんの取り柄もない姉様を(めと)るなんて、嫌なんですって。当然よねえ」

 十六になれば、縁談を受けられる。

 本堂家には男児がいないから、入婿として迎えねばならない。後継となる政親の要望は、通す必要があるのは桜子も理解できる。
 黙って涙を飲むしかなかった。地味で細面の自分よりも、目が大きく唇もぽってりとした千代子の方が、普段から美人だともてはやされていたからだ。

 孤独に追いやられた桜子の、唯一の心の()り所は、
琥珀(こはく)……お前は、側に居てね……」
 琥珀という茶褐色の短毛に虎模様の、精悍な中型犬である。名前は、目の色から取った。
 
 桜子が離れで生活し始めた頃、庭に紛れ込んできたことから、飼い始めた。琥珀が言うことを聞くのは桜子だけで、他の家人には全く馴れず捨てられかけたこともある。そういう時は、鋭い牙と獰猛(どうもう)さでもって自分の身を守った、賢い犬である。
 琥珀は三角の耳と太い巻尾をぴんと立てて、ふんふんと鼻息を鳴らしている。桜子の心の葛藤を読み取るような仕草に、桜子の目には我慢したはずの涙が浮かんだ。

「わたくしが、役立たずだから……」

 異能どころか、秀でた見た目も愛嬌もない。特技もない。
 脳裏には、何度か会った婚約者である政親の、凛とした立ち姿が浮かんだ。軍服に軍帽を目深に被り、腰には帯剣しているという近寄りがたい雰囲気で、会話も二言、三言が精一杯であった。顔は朧げにしか思い出せない。凛々しい口元だったというのは覚えている。それでも桜子なりに『この方と添い遂げるのだ』と思っていたのだから、喪失感は大きい。

「悲しい。悲しくてたまらない。能力がないからって、なんでここまで」
 
 桜子には『無能』だけでなく、婚約破棄された伯爵令嬢という肩書きが加わった。それはすなわち、()()()()縁談はなくなったということでもある。
 何度も(つくろ)い当て布をした着物と袴、少しの食べ物と書籍が、全財産。使用人が嫌がりつつ持ってくる食事は日に日に目減りして、ついに庭に生えた草を選んで食べ飢えを凌ぐようになった。

 離れを掃除しに来る者などいないから、隅々まで自身で拭く。擦り切れた手指には、常に血が滲んでいる。
 掃除をしていれば、長い一日も気が紛れたのが幸いであった。夜は薄い布団に丸まるようにして、眠る。
 
(生きている意味など、ない)

 そうして過ごしていた、秋の終わりの、肌寒いある日。
 千代子と政親の祝言(しゅうげん)が、母屋で盛大に執り行われていた。桜子は出席を許されず、離れに居たままである。そこへ、政親の上官である中尉が酔った勢いでやってきたかと思うと、桜子へ襲いかかった。

「おやめください!」
「良いではないか。どうせ嫁に行くあてなどないだろう」

 必死に抵抗する桜子だが、男の力、ましてや酔って理性のない状態ならば尚更、細腕での抵抗は無駄に終わる。ボロのような着物はあっという間にビリビリと引き裂かれた。
 酒臭い息を吹きかけられ、嫌悪感で吐きそうになりながら桜子は必死で逃げるが、狭い離れでは少しの時間稼ぎにもならない。

「琥珀!」

 縁側の障子戸をなんとか開けた桜子は、庭にいる飼い犬に助けを求めた。
 
 名を呼ばれるや部屋の中へ飛び込んできた鋭い牙が、中尉の左手首を襲う。ところが、酔ってはいてもさすが軍人である。噛まれた手首と自分の血を見てますます興奮したのか、帯剣していた軍刀を抜き、手首に噛み付かせたままの状態で琥珀を串刺しにした。
 体の中心を刺されたまま足蹴にされ、乱暴に剣の身を引き抜かれた琥珀は、大量に出血しながら桜子の方へ首を向ける。濡れた瞳がまるでさよならを言っているかのようで、あまりの悲劇に桜子は卒倒しそうになったが、必死で気を保つ。
 
 桜子は、絶命していく愛犬へ向かって
「一緒に、黄泉(よみ)へ行こうね」
 と微笑んだかと思うと、中尉が抜き身で持っていた軍刀へ飛び込むようにして、自ら首の頸動脈を切った。

「ああ⁉︎」

 たちまちぶしゃあと弾ける温かい血飛沫(ちしぶき)を浴びてようやく、中尉は酔いから醒める。琥珀の牙を無理やり抜き、怪我の手当をしろと母屋へ向かって怒声を上げる。

 何事かと駆けつけた家人たちは、目の前の惨状に声を失った。
 祝言を血で汚すなど、あってはならない。冷遇されていたとはいえ、伯爵令嬢を手にかけたことは問題になるかと思われた。だが、やってきた当主へ向かって
「ふん! 無礼だから斬ったのだ!」
 と中尉はふんぞり返り、本堂家も帝國軍を敵に回すことを恐れ、その場で無罪放免に同意した。

 仰向けで倒れた桜子の、色を失った両眼が、天井を見ている。
 
(琥珀……ごめんね……せめて、一緒に逝こう)

 桜子の血液は、建物として二度と使えないだろうぐらいに、部屋の壁や床どころか天井に至るまで飛び散っていた。
 引き裂かれた血みどろの襟の間からは華奢な鎖骨が露わになっており、畳にできた血溜まりには、寄り添うように琥珀が事切れている――

    ◆

「ここは、どこだろう」

 桜子は琥珀とともに、太陽のない暗い夜空の下、見知らぬ河原を歩いていた。
 ざくざく。ざくざく。
 大きな砂利の中には、よく見ると髑髏(されこうべ)の形をしているものがある。ぶつかりあって砕けて、小さくなった(むくろ)を踏みしめながら、眼前に流れている大きな黒い川を目指して黙々と歩く。灯りはなくとも、真っ赤な雲が頭上にあるおかげで、数メートル先まではなんとか見通しがきいた。

『桜子は、戻れ』
「え?」

 付き添うように歩いていた琥珀が、突然()()()

「琥珀⁉︎」

 飛び跳ねるぐらいに驚いた桜子は、かろうじて歩みを止めずに、琥珀の言葉に耳を傾ける。
 
(わし)の本当の名は、黒雷(くろいかずち)という。元は黄泉比良坂(よもつひらさか)の住人であるが、事情があって弱っていた。力を取り戻すため現世へ行ったのだが、そなたの手厚い介護で力を取り戻したのだよ』
「あの、あの……犬では、なかった?」

 自分でも馬鹿みたいな質問だと思ったが、桜子は尋ねずにいられなかった。

『桜子が見て犬ならば、犬だ』
「……犬に、見えます」
『ならば、それでよい。さて、儂が亡者(もうじゃ)どもを引きつけるから、あちらへ走れ』

 琥珀の首は、川沿いを上る方角へ向けられている。

『遠回りだが、現世へ戻る道だ。川へ引きずり込もうとする奴らが厄介だが、なあに、儂がいれば』
「琥珀は、どうするの?」
『……』
「一緒じゃなきゃ、いやです」
『桜子。まだ戻れるのだ』
「いいえ。わたくしは、死んだのです。ここが黄泉ならばここにいます」
『儂を恩知らずにするな』

 琥珀が足を止め、目をきらりと光らせながら桜子を見上げた。桜子は、唇を引き結んだまま立ち止まっている。動きそうにないことを察した琥珀は、大きく息を吐いた。

『わかった。なんとか儂も現世へ戻ると約束しよう。だからどうか生きてくれ、優しい子よ』
「……絶対、約束よ? 破ったら」
『ああ。絶対だ。これは、恩返しだからな』
「恩だなんて。わたくしの孤独を支えてくれたのは、琥珀の方」

 困ったように笑う桜子の足首を、川から這い出してきた骨だらけの手が掴んだ。

「ひ!」
『さあ嗅ぎつけられたぞ。いますぐあの光の中へ走れ。振り向くな』
「わかったわ」

 普通の伯爵令嬢なら、不安定な地面を走ることなどできないだろうが、桜子は毎日の拭き掃除で足腰が鍛えられていた。
 しっかりとした足取りで駆け出す背中は、細いながらも頼もしい。

「琥珀。あちらで会おうね」
『うむ』

 わらわらと湧いて出てくる大量の骸骨たちが、桜子の背中を追いかける。だが、手の届く前に獰猛な犬が全てを噛み砕いた。
 桜子の視線の先には、真っ白い光の渦がある。

 桜子は、迷わず渦の中へと――飛び込んだ。
  
    ◆
 
 本堂家に長年仕えている家人ですら、桜子の遺体を始末することを躊躇った。
 翌朝を迎えてもなお、表情にも肌にも、生きているかのように張りがあるからだ。

「だ、だだ旦那様、おかしいですよ、あの(むくろ)

 日が昇り葬儀屋が来ても、誰も動こうとしない。
 痺れを切らした当主が、無理やりにでも遺体を運び出せと怒鳴ったところで、廊下から悲鳴が聞こえてきた。

「ぎゃああああああ!」
「いき、いき、いきて⁉︎」
 
 乾いて黒くなった血に染まった桜子が、母屋まで()()()()()からである。
 しかも、
「湯浴みをさせてください」
 と喋ったのだから、当然誰もが恐れ慄いた。
 
「ひい!」

 本堂家当主である桜子の父は、恐れのあまり右往左往する使用人どもを押しのけるようにして、
「くくく……ははは、はははははは! さすが本堂の娘! さあ言え、それは何の異能だ!」
 と桜子へ迫る。

「何の異能、とは」
「それだけの血を流しても死ななかったではないか! 不死身とあらば、利用価値があるぞ、桜子!」

 ぼんやりと父親の顔を見返した桜子は、まるで興味がなさそうに、ぼそりと言い放った。

「娘が不死身なら、父親は?」
「あ?」

 そうして桜子の黒い涼やかな目が細められると――本堂家当主の首元からバッと血が舞った。

「が……」

 何が起こったのか分からないとばかりに、当主の両手が虚空を彷徨う。その手は何も掴めずやがて力を失い、だらりと垂れ下がったかと思うと、畳に顔から倒れた。

「ぎゃああああああ!」
「旦那様! 旦那様!」

 使用人どもが慌てて駆け寄り、肩を掴んで起こし仰向けにするが、すでに白目を剥いて事切れている。

「あら、どうしたのかしら」

 それを見下ろす桜子の呟きは、この場にいた全員の臓腑(ぞうふ)を凍てつかせた。

「何事だっ! ……義父上⁉︎ おい、いったい何が……」

 新婚初夜を迎えた翌日のめでたい日だというのに、桜子の元婚約者である政親は、当主死亡の後始末に追われることになった。桜子のために呼んだ葬儀屋はすぐさま当主を葬ることになり、複雑な心境を押し隠すように淡々と作業をする。
 
 分家の人間や軍人などがバタバタと弔問に訪れる中、顧問弁護士が「相続に関する遺言はない」と明言したことから、入婿となった政親がそのまま本堂家当主に収まることとなった。

 ――桜子は、再び離れへと戻っている。血まみれの部屋は開かずの間となり、隣の部屋があてがわれた。中庭を望む縁側に、桜子は腰掛けている。冬の冷たい風で背筋に寒気が走るので、持っている着物を何枚も羽織り背を丸めた。

「琥珀」

 庭を無邪気に走る黒犬の姿が、桜子には見えていた。他の人間には見えないらしく「あそこにいるでしょう」と琥珀の姿を指差しても、誰もが首を横に振る。気が触れたに違いないと気味悪がり、ますます誰も近寄らなくなった。

「父を葬ったのは、あなたなの?」

 桜子が口を開くと、息が白く染まる。
 とと、と足元に寄ってきた琥珀の息は、透明なままだ。
 
『さてな。寒いか』
「ええ……琥珀は、普通の人には見えないの?」

 琥珀が桜子の隣に身を丸めるようにして座ると、温もりが伝わってくる。桜子は、遠慮なく琥珀の背を撫でた。手のひらが暖かくなり、ホッとする。
 
『儂は肉体を黄泉に捧げ、桜子の犬神となった』
「犬神様?」
『うむ。だが今まで通り、琥珀でいい、桜子』
 
 黄泉から戻ってから、どこかまだ思考がぼんやりとしている桜子は、素直にこくりと頷く。

「いぬ、がみ……!」

 その一言を使用人が聞いていたことから、事態は急速に変化していった。

    ◆

「犬神様が憑いているそうだな」

 母屋に呼び出された桜子は、断る理由が見つからずとりあえず顔を出すことにした。
 当主となった元婚約者の政親が、我が物顔でかつて父が座っていた場所にあぐらを組んでいるのに、違和感がある。軍服姿であり、屋内だからか軍帽は取っていて、初めて目を合わせたと気づいた。太い眉と、目尻の上がった気の強そうな目に、大きな鼻。いかにも軍人という見た目だ。なるほどこんな顔だったのか、とどこか現実離れした気持ちで、桜子は政親の顔を眺めていた。

「桜子。答えろ」

 勝手に呼び捨てられることに、苛立ちも何も感じない。ただただ、虚しさだけが桜子の心を支配している。
 
「犬神様……琥珀なら、そこにおりますが」

 政親の太い眉の下で、ぎらぎらと黒い瞳から光が放たれたように桜子には見えた。
 
「なるほど。もうよい、下がれ」
「……はい」

 この会話をきっかけに、桜子の元へ『命令』が届くようになる。
 戸惑い拒絶しようとした桜子に、恐れを知らない本堂の下働きどもが危害を加えようとし、それを憂いた琥珀が『仕方ない。言うことを聞いてやろう』と動いた。

 ――犬神様に、祟ってもらう。

 大体はそのような内容で、深夜に姿を消した琥珀は、血なまぐさい香りをさせつつ明け方に戻る。
 華族と帝國軍の縁結び役となった政親が請け負うのは、後暗い事情や権力争いに関するものであり、多い時は週に二度。
 二ヶ月が経ち冬が深まると、いよいよ桜子は恐ろしくなった。

「今後は、断固拒否します。わたくしに危害を加えたら、祟ります」

 思い切って政親に訴えると、
「そう来ると思った。十分に実績は作ったから、もういい」
 あっさりと桜子を切り捨てた。
 
「え……」
「犬神憑きは、すぐに正気を失い寿命も短い。()()()()()()()と触れ回っておいたから、なんの支障もないぞ」

 桜子は、絶句する。まさに、使い捨てだ。

「離れにいたければ、いるがいい。食事の世話ぐらい、してやる」

 元婚約者で現本堂家当主へは、手を出すことを躊躇う桜子の良心を利用し、かつ拷問をチラつかせ恐怖で正常な判断力を失わせる。
 若くして少尉となった政親の冷酷な手腕に、桜子の背筋が凍った。
 
「……いりません」

 せいぜい、意地を張って拒絶するのが精一杯である。

 それから数日、魂の抜けたように放心した桜子は、死ぬことばかりを考えていた。
 せっかく琥珀が黄泉から戻るよう手を尽くしてくれたのに、情けない――そんな気持ちばかりが、桜子を苛む。

 琥珀もまた、良かれと思ったことが桜子を病ませたと、気に病んでいた。
 このままでは、本当に黄泉へ戻ることになってしまうだろう。

「ただ……ただ普通に、生きたいだけなのに……」

 桜子は、あてもなく本堂家を出ることだけを決め、外出着である地味な灰色の銘仙(めいせん)に赤茶色の袴と、履き古したブーツを身につけた。この一式しか持っておらず、雪がぱらぱらと舞う寒空には、似つかわしくない。自分にはこれしかないと思えば、悲しくて涙が止まらなくなり、庭の真ん中で子供のように泣いていた。

 すると桜子の目の前に、軍服姿の青年が現れた――