小高い丘の上にある、一軒家。その屋根の上に登り、海を眺めていると、どうしても、あの夏の事を思い出してしまう。


 あれは、俺が高校二年生の夏休みの事だった。

 当時、急増している自殺が問題になっていた時、祖父母の住む寒村が一つの企画を立ち上げた。
 どうせ死んでしまうのならば、寒村には不必要な程にとれる海や山の幸の消費に協力してもらおう。あわよくば、自殺を思い止まってくれないか。
 そんな思惑から生まれた企画が、まさかあんな出会いをもたらすなんて。当時の俺に予想できるはずがなかったのだ。

 さて、件《くだん》のよくわからない思惑からも推測できるように、その村は限界集落だ。緑が目立つばかりで、本当に何もない。
 何を思ったのか、そんな祖父母の家に一人泊まりに来ていた俺は、当然の如くその企画を手伝わされた。



「祐介《ゆうすけ》、今日新しい子が来るから、お昼が済んだらバス停まで迎えに行ってやってくれ」

 そんな頼み事をされたのは、祖父母の家に来て二日目だった。祖父が言う新しい子というのは、企画の参加者の事だ。

「えー、めんどい」
「どうせ暇だろう。家の場所は伝えてあるが、衝動的に自殺なんぞされても敵わん」

 まぁ、対象者がそもそも自殺志願者だ。そんな事があってもおかしくない。渋々承諾する事にした。

「はぁ、わかったよ」

 祖母が作った素麺を食べ、頼まれた通りにこの村唯一のバス停へ向かう。
 小さな、しかも限界集落と呼ばれるような村だ。住人の顔は全員わかる。参加者の顔は知らなくてもすぐにわかるだろう。そう考えた俺は、相手の名前以外確認する事なく玄関を出た。

 海岸線にあるバス停で待つ事三十分。予定より二十分も遅れて、そのバスは到着した。

 乗客は、一人だけだ。

 清楚な印象を受ける、白いワンピース。真っ白な肌。くっきりとした目元。そして、肌と対照的な、流れる様な黒髪。

 歳は、自分と同じくらいか。手には水色をした小さなキャリーケースを持っている。

 ハッキリ言って俺は、彼女に見惚れていた。幼さは残るが、これまで見た事無いくらいには美人だったのだ。

「あの、佐々木さん、ですか?」

 その鈴の音の様な声に、俺は慌てて返事をする。

「あ、は、はい。幸見《さきみ》さん、ですよね?」

 変わった苗字だと思いながら聞き返すと、自然な紅色の点《さ》された唇が柔らかく動くのが見えた。

「ええ。変わっているでしょう?」

 どうやら考えている事が顔に出ていたらしい。取り繕おうかとも思ったが、今更だ。俺は正直に答える。

「えと、はい」
「ふふ、よく言われます」

 上品な笑い方をする子だと思った。

 会話をする事もなく、うちまで移動する。
 そのおかげか、初見の衝撃から立ち直れたようだ。冷静になって考えてみると、彼女は自殺志願者。そんな相手を好きになる事はあるまい。

 やがて思考は、なぜ自殺しようと思ったのかという事に移って行ったが、さすがにこれは聞けなかった。

「ただいまー」
「お邪魔します」

 古くなった門を潜り、庭を抜けて玄関へ入る。

「おぉおかえり。あんたが、幸見《さきみ》さんだな? まぁ上がりなさい。居間でゆっくり話そう」
「はい」

 居間があるのは、少し長い廊下の一番奥だ。それまでに客間や二階へ上がる階段、トイレなどの位置を説明していく。

 居間へ着くと、祖母が大きめのちゃぶ台に冷たい麦茶を準備しているところだった。

「あらあらいらっしゃい! 好きな所に座んなさいな」
「それでは、失礼します」

 どこかのお嬢様なのだろうかと、一番入り口側に座った彼女を見て思う。

「ほら、祐介もボーッとしてないで座んなさい」
「ん、ああ」

 俺がいつもの定位置、入口から見て右手に座ると、其々が自己紹介を始めた。

 祖父の佐々木繁夫(しげお)、祖母の敦子(あつこ)、そして俺、佐々木祐介が今この家にいる佐々木家だ。

 そして幸見(ほたる)というのが、一週間この家に泊まる事になった彼女の名前である。

 それから契約に関する話をいくらかした後、もうここで話す事も無くなった頃の事だ。

「祐介、蛍ちゃんはお前と同い年らしいし、お前が案内してこいや」

 端《はな》からそのつもりであっただろうに、然《さ》も今思いつきましたとばかりに祖父が言った。

「えぇ、爺ちゃんも動いた方が健康にいいんじゃねぇの?」

 口ではそんな事を言いつつ、俺は出かける準備を進める。なんだかんだと言っても高校二年生だ。自殺志願者とはいえ、美人を案内できるのを厭《いと》う理由は無かった。

 少々祖父と、ジャレ合いの様な問答をした後、蛍を伴って家を出た。
 彼女を下の名前で呼ぶのは、本人の希望だ。

「んー、そんじゃあまずは、山のほうに行ってみるか」
「わかりました」
「あー、同い年なんだし、そんな畏まらなくていいよ」
「は……うん、わかった、祐介くん」
「くんも要らないって」
「わかった、雄介」

 君付けは恥ずかったので呼び捨てるように言ったが、これはこれでこそばゆさを感じた。この事を少し後悔したのを覚えている。

「祐介は普段からあの家に住んでるの?」

 すぐそこに見える山へ向かっていると、蛍が聞いてきた。

「いや、普段は街の方で親と住んでる」
「へぇ。お爺さんお婆さんとは仲良いんだね……」
「まーな」

 この時の蛍の表情は、今でも俺の記憶の片隅にしっかり刻まれている。

 山側から順に案内し、海岸線にある小さなバス停まで戻って来た。途中で会った人たちとお喋りすることもあったが、まだ日は沈みきっていない。

「六時半か……。大体全部回ったし、そろそろ戻るか」
「うん、わかった」

 まだ会ってない人たちに紹介するのは、次の機会でいいだろう。そう考えた。

 夕食を食べ、蛍を彼女の部屋に案内する。廊下を挟んで、俺の部屋の反対側だ。

「それじゃ、おやすみ」
「うん、また明日ね」

 この日は色んな疲れもあって、すぐに眠りにつけた。

 翌日、俺が起きてきた頃には既に、朝の支度を終えて家事の手伝いをする蛍の姿があった。

「おはよう。早いな」
「そう? いつもこんなものだよ」

 彼女はそう言っていたが、この時まだ七時を回っていなかったはずだ。その勤勉な様子を見ても、昨日一日の様子を見ても、彼女が自殺を考えている様には感じられなかった。

 その日は一日、二人で川釣りをして過ごした。

 三日目、蛍が海で泳ぎたいというので、祖父母も連れて海水浴に行った。

 祖父母がのんびり談笑する浜辺に背を向け、俺と蛍は海へ駆けていく。
 蛍は用意してきていたと言う水色のシンプルなビキニの上に、同じようにシンプルな白いシャツを着ていた。

 いつもの俺なら、大きくは無いが、確かにある美人の双丘に鼻の下を伸ばしていただろう。しかしその時の俺の思考は、彼女が何故自殺するのか、そして、彼女は本当に自殺する気なのかという事でいっぱいだった。

 そんな思考の海に沈みかけていた時、顔面に冷たさを感じて我に帰る。

「ぺっぺっ……なんだ!?」
「ボーッとしてるからだよ!」

 海水を俺にかけてきた犯人は、そう言って悪戯っぽく笑った。

「ほらほらっ、祐介もおいーーきゃっ!」

 ここで黙っていては男が廃る。そう思って俺は、海の中に飛び込んだ。

「お返しだっ!」
「やったなー!」

 そうやって暫く水をかけあった。

 たぶんこの時、俺はもう、蛍に惚れてしまっていたんだと思う。

「明後日の朝に急用が入りました。明日の夕方から一度家に帰って来ます。帰るのは明後日の夕方以降になるかと」

 四日目の朝、朝食の席で蛍は俺たちにそう告げた。

 所詮俺たちは、企画の主催者と参加者の関係だ。家の事情に首を突っ込むような真似はできない。
 この時はそう思って、ただ了承の返事をしただけだった。

 この日一日、蛍はどこにも出かけなかった。家事の手伝いはしてくれていたのだが、どこかぼんやりとした様子だったのが酷く気になった。

 だからだろう。珍しく俺から彼女を誘ったのは。

「ホタル、見にいかないか」
「え? ……あ、虫のホタル?」
「そう」
「…………うん、行く」

 夕食の席でのその会話を、祖父母は微笑みながら見ていた。

 夕食を終えた後、暗くなるのを待って家を出た。

 時刻は夜の七時半。

「じゃ、爺ちゃん婆ちゃん行ってくる」
「行ってきます」
「あぁ気をつけてな」
「婆ちゃんたち、帰ってくる頃には寝てるかもしれないから、帰ったら戸締りしといてちょうだい」

 はいよ、と返事をして、歩き出す。

「足元、気をつけてな」
「うん」

 それから目的地まで、互いに一言も喋らないままだった。

 目的地は、近くを流れる小さな川の、山に少し入った辺り。二日目に釣りをした川の上流だ。歩いて十分もかからない。

「ここら辺がいいかな」
「……まだいないね?」

 時間を確認する。

「まだもう少し待たないとだな。少し早かったか」

 態とだ。

「…………なぁ、なんで死ぬのか、聞いていいか?」

 自殺という言葉は避けた。

「………………私の家ね、大きな神社なんだ」
「神社?」
「そう、神社。私はそこの巫女をしてて、時々、神降しの儀式をするの」

 神降し? 突然、彼女は何を言っているのだろうか。揶揄われているのかとも思った。

「神様に私の体に降りていただいて、国の未来を予言する。これが、その儀式」

 しかし彼女は真剣だ。

「ふふ、信じられないよね」
「あ、いや…………うん」
「まあ仕方ないね。でも、総理大臣なんかが予言を聞きにくるんだよ?」

 嘘をついている風ではなかった。

「その儀式が、明後日にあるのか?」
「うん、そう。明後日に、最後の儀式があるの」

 何やら凄そうな事をしている割に、誇らしさは感じられない。それに、その事が彼女が死ぬ事とどう関係するのかもわからなかった。

「最後って、どういう意味だ?」

 だから、聞いてしまった。その言葉の意味を。

「…………その儀式を最後に、私、死んじゃうの」

 時間が止まった気がした。

「……はぁ⁉︎ 死ぬってどういう事だよ!」
「神様の器になるってね、体にとても負担がかかるの。だから、次で最後だろうって」

 死ぬのは、蛍の意思じゃない? そんなの、納得できる訳がない。

「なら、まだわからないだろ! もしかしたら生きられるかもしれない!」

 蛍は首を振って続ける。

「ダメよ。先代だった叔母様、お母様のお姉さんも、先々代だったお祖母様のお姉さんも、その前も、ずっと、そうだった。私だけ助かるなんて、ないよ……」

 彼女の声は、どこまでも静かだ。

「っ……! くっ、そ、そもそもなんで、蛍がやらなきゃならないんだよ! 国の未来なんて、お偉いさん達に任せておけばいいだろ!」
「……」

 蛍は何も言わない。

「そうだ、このままここに住んじまえよ! そんな役目なんて捨てて、一緒に住もう!」
「……ふふ、まるでプロポーズね」

 本心から出た言葉だった。

「でも駄目。お婆様とお爺様が許さないわ」

 それきり彼女は喋る事は無かった。これ以上話す事は無いとでも言うように。

 少しして、沢山のホタルが夜空へと舞い上がって行く。

 これまで何度もみたその幻想的な光景が、その時の俺には、いつにも増して儚く見えた。


 翌日の夕方、彼女は予定通り帰路についた。

 そして夜になったが、一向に眠気が来ない。仕方がないので窓から屋根に登り、星を眺める事にした。

 降雪量の少ないこの地域は、屋根がやや平たい。その屋根に寝転がって、思考に耽《ふ》ける。

 夏休みの課題の事。新学期の事。暫く会っていない友人の事。両親の事。そして、自身が恋をしてしまった少女の事。

 一度考えてしまっては、頭から離れない自分と同い年の少女。間も無く死んでしまおうとしている少女。

 予言なんていう、不確かなモノを頼る大人達の勝手な都合で、彼女は死ぬと言う。

「んな馬鹿な」

 そう呟いてみたが、その話をする時の彼女の真剣な表情が頭から離れない。

 そうしているうちに眠気を感じ、俺は自室に戻った。

 翌朝、人生最速で目覚めた俺は始発のバスに乗っていた。蛍の家に向かうためだ。住所は、契約書に書かれていた。

 その家に着いたのは、七時頃。

「で、でけぇ……」

 彼女から大きな神社だとは聞いていた。しかし想像を優に超えるその大きさに、俺は呆気に取られてしまった。

 だがのんびりしている場合ではない。俺はすぐに我に返り、その奥へと足を進めた。

 鳥居を抜け、二つの社《やしろ》を超えて、一番奥を目指す。

 目指すべき場所はすぐにわかった。明らかに要人を警護していますと主張するような集団がいて、その建物への道が封鎖されていたからだ。

 さて、問題はどうやってあの中に入るかだ。通してくださいと言ってはいどうぞというわけにはいかない。

 どうしようかと悩んでいる時だった。

「……祐介?」
「っ! 蛍!」

 彼女は酷く困惑しているようだったが、無理もない。

「どうして、ここに?」
「その……」

 彼女が予言する所を見ておきたかった、と言うのは気恥ずかしかった。

「と、とにかく邪魔する気は無いから! それより、こんな所にいていいのかよ」
「え、うん。ちょっとお手洗いに行ってただけだから」

 目の前の建物に、トイレは無いらしい。
 そのまま蛍に連れられ、俺は封鎖された建物の中に入っていった。

「蛍、誰だその子は」

 案内された部屋に居たのは、テレビでよく見る現総理大臣と、老人が二人、それから俺の両親と同じくらいの歳に見える男女。蛍の祖父母と両親だろう。女性二人は給仕をしている。

「お爺様……私の、友人です」

 少し胸がキュッとした。

「何故連れてきた?」
「俺が勝手に来ただけです。彼女に非はありません」

 目の前の老人をまっすぐ見つめて言う。厳格そうで怖かったが、目を逸らしてはいけないと思った。

「……お父様」

 蛍の父親らしき男性が、縋るような声を老人に向ける。

「………………良いだろう」

 暫く此方を睨み付けていた蛍のお祖父さんが、総理に一瞬目配せをして、そう言った。

「ただしその格好で参列する事は許さん。火乃香《ほのか》、彼に着物を持ってきなさい」
「お爺様……! ありがとうございます」
「ありがとうございます」

 蛍に続けて例を言うと、老婆の案内に従って別の部屋へ移動した。

 広い殿内の、長い廊下の先、小さな畳張りの部屋に一人入る。その中には既に一着の着物と袴が用意してあった。
 案内してくれた老婆と着物を用意してくれた女性は、それぞれ襖の隔てた向こうにいる。

 着物を着る機会が少ない為に少々四苦八苦していると、襖の向こうから嗄れた声が聞こえた。

「貴方、名はなんと言いましたか」
「……祐介です」
「そう……祐介さん、ありがとうね」
「えっ……?」

 初め、なんと言われたか分からなかった。孫の命より儀式を優先するような人たちだ。もっと酷い人たちだと思っていた。

「あの子にこんな素敵な友達が出来るなんて、思わなかったもの」

 しかしその声はとても優しくて、愛に溢れていた。

「あの子がどう思っているのか分からないけれど、私たち家族だって、辛いのよ」

 それきり老婆は黙ってしまったが、その時俺は知った。これは、価値観の違いでしか無いのだと。

 着替えを終わり、火乃香と呼ばれた女性にチェックしてもらう。

「……娘の最後の晴れ姿、しっかり見ててあげてね」

 手を止めずに呟かれた言葉に、俺はハッキリと了承の返事をした。

 細かい部分を直してもらい、いくつかの説明を受けて元の部屋へ移動する。
 松の描かれた襖を開けると、蛍のお爺さんと総理大臣だけが残っていた。

「来たか」
「すみません。お待たせしました」

 何故か総理と一緒に案内されて、儀式を執り行う部屋へ移動する。今思えば凄い事だったのだろうけれど、この時の俺にそんな事を考える余裕は無かった。

 蝋燭で照らされた、厳かな雰囲気のそこは一番奥にあった社の中だ。大社造と言うらしいこの社が本殿であり、右手の方にある祭壇の奥の小さな扉の内には御神体があるそうだ。

 指定された位置で正座をし、暫く待つ。

 やがて甲高い横笛と太鼓の音《ね》が鳴り響くと、それに合わせて烏帽子《えぼし》を被り狩衣《かりぎぬ》を纏った人たちが入ってきた。

 そしてそれに続くのは、蛍。

「ほぅ……」

 思わず溜息が漏れる。

 金色の、シャラシャラした飾りの付いた冠を被り、白粉《おしろい》と紅で化粧を施した蛍は、想像以上に綺麗だった。その身に纏う色とりどりで豪華な着物に着られるような事は無く、高貴さすら感じられる。半端な人間がアレを着ていたとしたら、ただ派手々々しく下品に映っていたかもしれない。

 蛍が所定位置につくと、祝詞が捧げられ、儀式が始まった。

 粛々と儀式が進められていく。俺はその間、教えられた通りの動作をしながらただ、蛍を見つめていた。

 そして、その時が来た。

 彼女の身体に神様が降りた瞬間は、全くの部外者である俺にもすぐに分かった。目の前に見えるのは蛍なのに、そこにいるのは全く知らない、別の誰かに思えた。
 雰囲気が一変した蛍が口を開く。その声も、俺の知っている蛍の声ではなかった。蛍とは別の意味で美しく、そして力強い声だった。

 それからはあっという間に時間が過ぎた。予言の内容はイマイチ覚えていない。だけど、この時の蛍の姿だけは、何年も経った今でもハッキリ思い出せる。

 この日の夕食は蛍の家でご馳走になって、そのまま最終便で村まで帰った。蛍も一緒だ。

 バスに乗っている間に何か話せればとは思ったが、蛍は疲れて眠ってしまっていた。

 翌日、蛍は珍しく昼前まで起きてこなかった。

 最終日で少し豪華だった昼食を終えると、蛍は村のみんなに挨拶しに行った。俺もついていこうかと思ったが、断られてしまった。

 結局、蛍は夕食の時間まで帰ってこなかった。

 夕食を終え、寝る準備をしてから屋根の上に登った。既に空は星に覆われている。

 視線の先には、真っ黒な海。見えるものは何もなかった。

 そのままぼんやりしていると、すぐ下の窓が開く音がした。蛍だ。

 蛍の顔を出した窓のすぐ下には一階部分の屋根がある。そこから俺のいる二階部分の屋根に登って来ようとしていたので、手を貸してやった。

「ふぅ。お婆さんが、祐介が考え事をする時はここだろうって言ってたから」

 なんでここに来たのか聞こうとしたら、先に言われた。

「ちょっと、話したいなって思って」

 そう言う蛍の体からは少し湯気が立ち昇り、髪も艶っぽい。

「そんな格好じゃ湯冷めするぞ。これでも羽織っとけ」

 俺は自分の着ていた上着を蛍に渡してやった。夏とはいえ、海風は冷える。

「ありがとう。……それにしても、ビックリしたよ。急に来るから」
「……悪りぃ」
「全然怒ってないよ! 寧ろ、嬉しかった」

 上着は貸してしまった筈なのに、何故か、体はさっきよりも暑い。

「その、なんだ……綺麗だった」

 ボソボソとした声で、それだけ言った。

「そ、そりゃあ、神様の衣装だからね!」
「あ、あぁ、そうか。そうだな!」
「……」
「……」

 暫くの間沈黙が降りる。

「……私ね、普通に結婚して、普通に子どもを産んで、普通にお婆ちゃんなるのが夢だったんだ」

 俺は、蛍の言葉をただ聞いていることしか出来なかった。

「それなのにさ……ねぇ、なんで私だったんだろうね?」
「……」

「……神様って、酷いね」
「……あぁ」

「……祐介、私、死にたくない」

 この時初めて俺は、蛍の顔を見た。

 泣いていた。

「死にたくないよぉ……!」

 ただの高校二年生に過ぎなかったこの時の俺に出来たのは、泣きじゃくる彼女に無言で胸を貸すことだけだった。

 暫くすると、すぐ下から寝息が聞こえてきた。泣き疲れてしまったらしい。俺は彼女を部屋まで運んで布団に寝かせると、そのまま部屋へ帰った。

 翌朝、俺の家の客間には時間がとれた何人かの村人が集まっていた。蛍を見送るためだ。

 少し早めの昼食ということで簡単な宴会を開き、今回の企画の全行程が終わりとなる。その間、俺は蛍と一言も話していない。

 そしていよいよ、帰りのバスの時間となった。

「以上を持ちまして、私のどもの提供する全てのプランを終了とさせていただきます。幸見《さきみ》様、ご利用ありがとうございました」

 案内役だった俺が代表して告げる。

「……こちらこそ、楽しかったです。ありがとうございました」

 彼女が、玄関を出て歩いて行く。これでもう、彼女とは会えない……。



「……良かったのか?」

 少ししてから客間に戻ると、祖父がそう聞いてきた。

「……爺ちゃん、片付け任せていいか?」
「おぅ、行ってこい」

 俺は慌てて靴を履き、駆け出す。丘の下の方、海岸近くに、白いワンピースと水色のキャリーケースが見えた。

 少しショートカットをして、転けそうになりながらも一気に坂を駆け下りる。

 バス停に着いた時、ちょうどバスが来たところだった。

 良かった。なんとか間に合った。

「待って!」

 彼女が乗り込もうとした足を止めて、振り返る。

「はぁはぁ…………俺、ほたるが好きだ。また、見に行こう!」

 彼女が微笑んだ。

「うん、私もよ」

 そう言って彼女は、バスに乗り込んでいった。

 この日以来、俺は彼女と話していない。