僕の家族は、美形が揃っていた。
 姉は可愛い、僕はかっこいい、そんなふうにもてはやされた。
 だからだろう。
 この家族が地獄そのものなのは、父親だけのせいではないだろうと思わされる。
 顔がいいから、それだけの理由で好かれる僕ら、父親もまた同じような理由なのだと思う。
 姉が、父親に怯えているように見えたのは年長の頃だっただろうか。
 何をされているのかわからない、だけど怖い。
 そんな言葉にピンとくるものはない。しかし、無視してもいけないことくらいよくわかる。
 誰に相談しようか。どこに伝えればいいのか。
 悩んでもしょうがないから、母親のスマホで調べた。
 姉は、母親に伝えることを拒みちゃんと解決したいと訴える。
 その気になれば、父親と一対一でちゃんと話したいと思っている姉は強気だった。
 だけど、本人を目の前にしてみれば恐怖そのもの。
 森の中でクマと遭遇してしまった時のような恐怖だろうか。
 今にも殺されるそんな目で怯える姉を僕はどう動けばよかったのか。
 寝る時間をずらして、姉の部屋に入っていく父親を監視する。
 音でも立てれば、動きを止めるんじゃないかと思ったからだ。が、部屋から出てくる様子はなかった。
 姉の部屋をノックして扉を開ける。
 忌々しいその光景に口を戦慄かせるだけしかできない。
「何、してるの……」
「……宏哉か。動画を撮っていたんだ。寝てる姿をおさめることで成長を感じられるだろう?」
「……僕のことも撮るの?」
「…………いや、必要ないんじゃないか?まだ、幼稚園生だろう?もうこの子は小学生だからなぁ」
 と頭を撫でる。
「そんなに人を撮るべきなの?」
「大人になればわかる。人ってすぐ成長してしまうからさ」
「……」
「宏哉、そろそろ寝なさい。明日も幼稚園あるだろう?」
 姉は、行かないでと必死に目で訴える。
 怖がるその姿に、悪魔が隣にいる中どう動いたらいいのだろう。
 まだ答えが出なかった。
 母親のようにスマホを持っているわけではないのだから。
「寝れない」
 咄嗟に出た嘘。
 眠くてしょうがないくせにそんな嘘をついた。
「あのさ、一緒に寝たい。母さんもいる部屋で一緒に」
「……宏哉」
「眠れないから、姉さんの部屋に来たのに父さんがいるから」
「そうか、じゃあ、後で行くから」
「無理。一人で廊下歩くの怖い」
「しょうがないなぁ」
 根負けしたようで父親も姉も部屋を出た。
 三人で母親のいる部屋で眠った。
 その日は、それ以上のことは起きなかった。
 しかし、それから数年、小学生中学年になった頃。
 父親は、夜中に僕の部屋に来るようになった。
 眠ると朝まで起きないような性格をしていた僕は、朝起きて服装に違和感を覚えた頃から眠りが浅くなっていた。
 ボタンの掛け違え、ズボンが脱がれたまま。
 そんなことが続いていたので、ふと思い出す。
 姉が父親を怖がっていたこと。
 僕も姉と同様に夜な夜な犯されているのではないだろうかと。
 憶測に過ぎないというのに、不安に駆られ、脳が覚醒して目が覚めきった。
 ノックもなく扉が開く。
 薄く目を開けるとそこにいたのは、間違いなく父親であった。
 何もないことを願いながら祈るように目を瞑る。
「綺麗な子だ」
 頭を撫でられ、頬に手が触れている。
 唇を指で当てて遊ぶように。
 体に触れる手が恐怖を煽る。
 それからは、ずっと変わらない恐怖が続いた。地獄にいるような気分だった。
 高校生になった頃、また姉が狙われるようになったのか僕の部屋に来ることは減った。
 地獄から解放されても恐怖は体も心も蝕んだ。
 学校に行っても自分が汚い存在に見えて、告白してくる女子たちと付き合うこともしなかった。
 好きな子もまた好きになってはいけなかったと恋人に発展することはなかった。
 全てが夢であって欲しいと願う。
 そんな思いは届くわけがない。
 日に日に姉の目も死んでいった。
 取り繕うことさえなくなった。
 僕もまた同じだった。
 そして、お互いに距離を置いた。
 恐怖を話したくないからだ。
 打ち明けることが何よりも怖かった。
 そんなある日、学校で読書感想文の優秀賞を受賞した。
 担任教師からは文才があると何か始めることを勧められた。
 これが、小説家になるきっかけだった。
 真剣に物語を考えて、起承転結もわかりやすくした。
 半年はかかっただろうか。
 恐怖から逃げるように、没頭するようで、その時間だけは全てを忘れられた。
 高校三年生の夏、大賞を受賞して作家になった。
 このことは誰にも言わなかった。
 自分の作品を売ることについて考えた。
 当時、アイドル売りという表現で人を推すことが流行りのように広まっていた。
 これだと、思った。
 SNSを初めてすぐに火がついた。
 小説と同じ要領だ。どの時間帯に投稿するべきか、どんなジャンルが確立されていないのか。
 作家が顔出しでSNSをやる、そして、他作家の作品を勧める。
 たまに自分の作品を紹介する。
 顔は加工できる。十分自分にも価値筋が見えていた。
 どこまでできるかより、どれだけやり切れるかに重きを置いた。
 だけど、問題は、それから先のこと。
 経験が乏しいことで恋愛作品はほとんど書けないまま終わり、普通がわからないせいで、家庭環境を書くこともできなかった。
 ほのぼのした作品は書けなかった。
 ましてや、高校生向けの作品は不向きだった。
 他の大賞を応募して大人向けで売ろうかと考えた。
 今の自分の実力ではできないことを理解していたために首を横にふる。
 誰も知らない、経験者は少ない。
 少人数のために書くのはどうなのだろう。
 否、それを売りにしてしまえばいい。
 発想の転換。
 高校を卒業した頃に顔出しをして、当時何かと話題だったマイノリティをテーマにしていると発信した。
 すると、予想以上に共感者が続出して、現代の学生を一番理解していると話題を呼んだ。
 地元のテレビに呼ばれ、やり切るために参加した。
 目的は一つだった。
 父親を殺すため。
 あの恐怖を父親に与えるのは難しい。だけれど、その恐怖に似たものを与え続ける。
 生涯、永遠に消えることのない苦しみを味わわせる。
 姉の心を殺した。
 僕の心はまだ息をしている。
 やれるうちにやる。だから、やり切るんだ。
 テレビに出たことで話題が話題を呼び、出演オファーが増えていった。
 SNSの更新は欠かさなかった。
 同業者から金銭をもらい紹介するように言われていたからだ。
 大学や専門学校に進学しなかったし、就職もしなかったけれど、生活するための資金は得られた。
 バイトはやめた。
 家族の誰にも言わずこんなことを始めたせいで、家族会議が開かれた。テレビに出たことを母親が知ったらしい。
 久々にあった姉は今までとは違い派手な格好をしていた。この後、夜に仕事があるらしい。
「小説家になったって本当なの?」
 嬉しそうな母親に反して、姉も僕も気持ちは死んでいた。
 憎しみだけが今の取り柄だ。
「本当だよ。頑張るね」
 父親は不満そうな顔をしている。
 公務員だからだろうか。安定した収入を得ることが大事だとおもっている。
「それはいつまで続く?どれだけ続けるつもりなんだ?」
「やりたいだけやるよ。ずっと、この先ずっと続けるつもり。もう怖いものないから」
 全ては父親を殺すためだった。
 親が子を犯す。そんな過ちが許されていいわけがない。
 一生怯えながら生きてもらう。
「感情を吐き出すようなものだね」
 宣戦布告にも似た挑戦的な言葉。
 されるがままだったこれまでの人生とは違う。
 もう全部が違う。
 変わったんだ。
 街に行けば気づいた人が声をかけてくれる。
 SNSでは評価される。真価を与えてくれるのは家族じゃない。世間だ。
 話が済んだ後、姉に呼ばれて姉の車で少し走ることになった。
「車、買ったんだね」
 何かと忙しくて見ていなかったけれど、いつの間にか免許も取って高そうな車を乗っている。
「うん。ハリアーって車なんだけどね、可愛いよね」
「可愛いね。すごく広く感じる車だ」
 車が可愛いという部類に入るのかは疑問だ。
「広いんだよ。あいつが乗ってる車よりも高い」
 あいつとは、父親のことだ。
 公務員で金はあるけれど、車に興味がないのか軽自動車だ。
「保険は?」
「保険より車税の方が高い。怖いね」
「大人になると怖いのは金だな」
「いつまで保つんだろうね、私たち」
 接点は、犯された子というだけ。
 他に何かあっただろうか。
「……逸らさない方がいいのか?」
 運転する姉の横顔。表情は読めない。
「なんで夜職始めたんだよ……姉さん……」
「……」
 答える気はないみたいだけど、その沈黙が答えだった。
 代わりに質問に答えることにした。
「保たないよ。二十代後半には失速する」
 まだ十代だった僕は、そんな曖昧な予想の中活動していた。
「私にもそんな才能があったらよかったな」
「あるんじゃないの?コミュ力あるから、稼げてるんでしょ?」
「目的があるからだよ」
「目的?」
 また姉の横顔を見るけれど、表情は読めなかった。
「お金を貯めて引っ越す。どこでもいい。そこで職を探す」
「僕ら大学も行かなかったのにどうやって」
「いいの。バイトからでも正社員になれたりするんだから」
「……」
「私ね、静かに暮らしたいの。もう誰からも色目で見られたくない」
「……色目って。無理じゃんそんなの。僕らを見る人はみんなそんなもので見てる」
「そうかな」
「そうだよ。だからみんな会話もろくにしてこなかったのに告白してくる。好奇の目で見てる。今更僕らを」
「見てくれる人はいるよ」
 ピシャリという。
「私はそう思う。環境が悪かっただけ。過去はもう見ない。だいぶ汚れちゃったけど。新しい土地で新しい生き方をするの」
 あなたもそうするといいわ、と彼女は返した。
 きっと家族会議で話した時に気付いたのだろう。
 過去を見て、憎しみを抱いて、未来を見ていない。
 未来より今その瞬間、父親へ地獄を見せるためのものにしようと勘づいた。
 姉はとっくに未来を見ていた。未来に希望を抱いていた。
「僕だって……信じてる……。もっと綺麗な世界が他にはあるんだって」
「……ならよかった」

 それから二十歳になった頃、とあるアイドル三人とのトーク会に呼ばれた。
 有名なアイドルで小さい時から話題があった。今でもなお名は知れている。
 真里と出会ったのはこの場所だ。
 まだ五作出版したばかりで、他の文庫から出版オファーが来たところだった。
 結局のところ、僕は考えを変えることはできなかった。ずっと父親を殺すことが頭にある。
 それを隠しながらするトーク会。意外にも面白いもので、カバーしてくれるトーク力の中、拙いながらも完走した。
 トーク会を終えて、内一人である外堀という女性と連絡先を交換した。
 何度か会うようになって、またある時久々にトーク会メンバーで集まることになった。
「最近、作品出してないじゃーん」
 外堀がそんな言葉をいう。
「小説家がそんな高頻度で作品は出せないよ」
「去年は、多かったじゃん?」
「あれは、SNS活動もちゃんとやってなかったから」
「今は両立してるから忙しい?」
「そうだね。締め切りは間に合いたいし、それがベースだからSNSは余裕ができてから」
「でも、他社で決まったんでしょ?」
「もう時間がないですね」
「遊んで大丈夫?」
「大丈夫。今日は、空けてたから」
 外堀と車を停めた駐車場に案内する。
「免許を取る時間はあるんだ」
「皮肉かなんか?」
 アイドルは毎日毎日ライブで忙しいと言われそうで先手を打つ。
「いや。私も暇だし取ろうかな」
「取れる年齢なの?」
「女の子に年齢を聞くのね」
「未成年は取れないよ。やめとけ」
「二十二です」
「…………え、年上?」
「敬語使ってね」
「……はい」
「冗談だよ」
 助手席を開けて座らせる。
 アイドルを姫のように扱うことは必要なことだと思っている。
 今後もまた呼んでもらうために良い関係を築きたい。
「若く見えたので、失礼でしたね」
「敬語じゃなくていいよ」
 車を走らせる。この後にもう二人別の場所で乗せていく。集合場所に向かう。
「大人っぽくしてもいいんじゃないですか?」
「子供って言いたいんだ」
「……未成年に間違われてもいいことないでしょ」
「幼い感じがみんな好きなんだよ。それが売りだったし。童顔や清楚な子は人気あるでしょ」
 アイドルも歌って踊るだけでなく商売としてファンのことを考えているだけなのに、どうしてぞくっとしたのだろう。
「事務所もファンもみんなそう。相談とかして上手くいくか考えるよりも体を使った方が良かったりね」
「……」
 嫌な響きがした。
 体を動かしてパフォーマンスをするという意味じゃない。
 使うというからには他の意味があるはず。
 被りを振ってモヤをかける。
 考えない方がいい。
 集合場所に到着して、二人を乗せる。
 さっきの含みある発言はどこかへ消えて、外堀はゲラゲラと笑いながら話していた。
 今のアイドルグループ内で人気のある外堀が何をしているのか。
 想像すること、感が冴えてしまっていること、それだけである程度の答えが導かれる。
 遊ぶときたらスポッチャだと駐車場に停め外に出て、彼女と目が合う。目の奥は笑ってない。
 綺麗なものを見た時の自分の汚さを実感するあの瞬間に近いのかもしれない。
 僕もまた外堀以外の二人を見ていると思う。
 彼女と一緒だ。
 地獄を、知っている。環境は違うだろうけれど、思っていることは同じだ。
 どうして、汚れてしまったのだろう。

 真里と連絡先を交換したのは、その日の夜だった。
 また遊びたいから。そんな理由だけで交換できると知ったところで意味はない。
 学生の頃からなんの理由もなしにLINEを追加する人もいるのだから。
 檻の中にいるのだから関係はよくしておきたい。そのせいで連絡先はたくさん繋がっている。連絡もたまにくる。
 煩わしい。
 だけれど、アイドルという職業の人と連絡先を交換すると優越感がある。
 他の誰もができないようなことをやった感じ。
「外堀さんには気をつけてね」
 真里の言葉が引っかかるけれど、外堀を家に返す必要があるので気をつけたくても難しいところがある。
 車で始まることだってあるらしいし。
「ここ。停めて」
「あぁ、ここね。了解」
 道路の左端に停める。
 場所がわからないので仕方がないと思っていると。
「ん?駐車場に停めていいよ」
「……駐車場?」
 住宅街のこの辺りでは駐車場がたくさんあってどこに停めるべきなのかわからない。
「そこ左。疲れたし、家で休憩して行きなよ」
「車飛ばして浜松帰るし問題ないよ」
「名古屋だし、遠いよ。事故に遭っても困る」
「まぁ、事故は確かに」
「おいで。今、家に誰もいないから」
 外堀は名古屋に実家があるのだとその時に知った。
 そして、その言葉がお誘いであることも。
 迷っていると、彼女は唇にスッとキスをした。
 慣れているなと思った。
 女子との初めてのキスは外堀でした。
 なぜだかドキドキしない。不快感もない。
 だけど、高揚もしなかった。
「ね」
 駐車場に車を停める。
 ただ断り方を知らなかっただけ。
 ただ関係性が壊れるのが嫌だっただけ。
 ただ同じだと思える人が姉以外にいただけ。
 それだけだった。
「でも、持ってないよ」
「いいよ、いらないよ」
 腕に絡みつく外堀の体。
 家に入り、一緒に風呂に入って、暗い部屋で体を重ねた。
 何もないこの空間に満たしたい何かが埋まっていく。
 僕は、哀だ。
 彼女は、なんだろう。
 涙が出そうなほどに、苦しかった。
 なぜだろう。答えはとっくに出ていたのに、外堀には言えない。
「久々に歳の近い人とできた。売れるために必要なことだと思ってたから。今日は十分満たせたよ」
 僕の肩に頭を乗せる。
 言葉は要らなかった。
 芸能界は汚かった。
 綺麗な世界はどこにあるのか。
 欲しいものは手に入らない。
 欲しいものがないから。
 要らないものばかりが増えていく。
 欲に塗れた愚かな行いだけがこの先続いていくのなら、全てが綺麗に消えて仕舞えばいいのに。
 それが叶わないからみんな欲に忠実になって、人の心を奪っていくのだろうか。
 父親もまた何もないから、欲に屈して人の心を奪ったんだろう。
 殺して終わらせる。
 汚いものは全部死ねばいい。
 見過ごしてきた母親さえ今は憎かった。未来に希望を抱く姉さえ憎らしかった。
 悲しみなんてものも憎しみへと変化するのなら、哀れで愚か。宏哉という人間は、淋しかった。
 終わった後の会話も淡々としていた。味のある話を僕はしなかった。僕だけが口を割らなかった。
「淋しい人間が、嫌いだ」
 外堀が寝た後にボソッと出た言葉。
 僕は、僕が嫌いだ。

 六作目が出た頃、姉から連絡があった。
 引っ越せなくなった、と。
 話を聞くと父親と父親の会社の人たちで懇親会の名目で姉の働くキャバクラに来たらしい。
 姉は父親に見つかり、その金額全てを没収されることになったらしい。
 家族会議が行われたらしく、母親はショックのあまり涙を流したという。
 子供がされていた屈辱を知らない母親は無情にも「嫌い」と憎しみ混じりに言葉を溢したそうだ。
「もう全部終わった。私の希望が消えた」
 泣き喚いて、少し落ち着いた頃。
「またあの地獄を私は味わわないといけないの?」
 家に帰って地元で就活しろという父親の言葉に屈してしまうのは、今までの暴力が関係しているのだと思う。
 逃げ出したところで探偵でも雇って連れ戻されるんじゃないかという過剰な考えは父親に通じない。
 やりかねない。
 僕らは共通認識だった。
 だから、僕は地元から出られない。
 名古屋に仕事で行くことがあっても絶対に家に帰る。
 怒られるから、殴られるから、性的な屈辱を味わうから。
「姉さん、もう逃げよう」
「でも」
「この際、今まで稼いだ金全部奪って新しい土地で生活しよう」
 探偵がと考えていたくせに今言えることはこれくらいだった。
「姉さんはそれが望みだったんだろ?未来に希望があると思ってるんだろ?僕とは違う。だから、上手くやっていけると思う。絶対に」
 返事はなかった。
 電話は切れた。
 こんな屈辱の果てに未来はない。
 憎しみは増していく。
 積りに積もった憎悪を返してやる。
 思いが小説に溢れる前に皮肉たっぷりな作品たちばかり。
 それを父親が読んでいるのだから面白い。
 まともな学生生活を送れなかった、まともな思考さえない僕が書いたまともな作品。
 殺すべき相手が読んでいるからこそこうして、父親と向かい合うように席に座っている。
「どうしてこんな作品を書いた?」
 出版するたびに聞かれた言葉。
 淋しい思いをしている父親には最高の復讐。
 埋められない学生時代の思い出。
 恋をして、友達と遊んで、行事に参加して。
「姉さんの言葉を聞いて思ったんだ。父さんは、会社でお金を使わないと親しくしてもらえない人なんだなって」
 それはつまり。
「誰もが当たり前にあるありふれた生活が送れなかった」
 机をぶっ叩く父親の行動そのものが答えだった。
「欲しかったんだろ?当たり前じゃない生活が、人が」
 姉さんが言っていた。希望を見るもう一つの理由。車に乗ってドライブをした夜。
『私が未来を見ているのは、あいつと同じ側の人間じゃないってことを証明するため。あなたが復讐を考えているのなら、これがいちばんの復讐だと思わない?』
 素晴らしい案だと思った。
 しかし、最高の未来を手にいれることさえ杭を打たれるのならば難しい方法だ。
 妙に納得できなかったのは、父親がそう簡単に見逃すとは思えないから。
 ある程度は監視しているはずだし、行動も父親の思い通りの矯正を幼少期からしたはず。
 不可能なのだ。
「変わらない思考や判断。全部が、おかしくなった。狂うくらいなら、普通でいよう。偽装しよう。当たり前に矯正していく生活が、もっとできたはずのことが、今はもうできない」
 姉も僕もありふれた当たり前を奪われた。
「二十歳を過ぎて自立するためには金銭が必要なのに、どうしてその金銭さえ奪うのか疑問だった。でも、ようやく理解した。何もできないで欲しいんだ。あんたの歪んだ普通が今ここに来て欲しくなった。何も得られなかった学生時代を今埋めようとしてる。心を満たすために、欲しかったもの全部を僕らから奪う。これで、姉が死を選んでも、僕が死を選んでも死なせないあんたが一体、何を求めているのか。ずっと考えてた」
 一生涯を縛り上げた父親の考えることなど一生かけても理解できない。
 だけど。
「ヒステリックに喚き、その声を縛りとして叫び、子の心を殺し、生かす。時と場合、その一瞬の感情で僕らを殺した。あんたの顔色窺って生きていくのはとてもきついな」
 だから。
「この作品でお前を否定した。僕はとっくに死ぬ準備ができてる」
 いつからか奪われた生の意味。
 性被害させ闇に葬る悪魔。
「それさえも超越する僕の文才。みんな担ぎ上げる。大した額もあんたの懐なのにね」
 ずっと、誓ったんだ。
 復讐すると。
「あんたを殺すと」
 この先、生きていくすべての時間をあんたの復讐に使う。
 死ぬまで永遠に苦しませてやる。
 歪んだ価値観の中で、生きなければいけないのだから。
 姉の選んだ生き方は、叶わない。
 この父親は簡単に死なない。
 ならば、この先の思考を奪うしかない。
 未来の見えない、行き場のない思いを一生根底に植え付ける。
 しかし、父親はその翌日海で入水自殺して死んだ。
 海は、うるさかった。
 姉とは会わなかった。
 あの日の会話をなかったことにした。
 勝手に死んで、勝手に消えた。
 縛り上げるものはもう何もない。
 父親の貯金はほぼなかった。
 キャバクラで散財していた。
 僕の収入はほぼ消えていた。
 下手に全額を与えなくて良かったと安堵した。
 大人になると少しはリスク管理ができてしまうものだなと思う。
 ただ、生ぬるく死んだことだけが許せなかった。
 殺さなきゃと思った。
 骨になった父親を見て、それでもなおぶっ殺してやりたいと恨んだ。
 葬儀屋の外の喫煙所でタバコを吸う僕の隣にくる姉。
 何本吸っても足りないことが苛立ちの原因じゃないことくらいわかってた。
「本気で、殺したいって顔してる」
「もういないのにね」
 まだ吸えるタバコを捨てる。
「いつから吸ってたの?」
「高校卒業する直前かな。同業者がみんな二十歳超えてる」
「そうやって最後の最後まで隠すところ、父親と一緒だ」
「まさか」
「何か話したんでしょ?父親に復讐するための言葉を」
「……」
「わかるよ。いつか言ったよね。未来を見なよって」
 姉の車に乗って話したこと。
「あの時、あなたは一切否定も肯定もしなかった。それって、感情を抑えてるんでしょ?私を思って、否定しなかった。だけど、あなたと考えが違うから肯定できなかった」
 言い返す言葉がない。
「父親が死んでどんな気持ち?」
 夏なのに冷たい風が肌を刺す。
「あんなに綺麗な作品ばかりで、生々しい描写はあれど気に留めない程度で。それは、理解できる人だけに理解させて、皮肉った。今作も、今の表情も」
 涙が溢れる。
 もうそんな感情なんてないと思っていたのに。
 そのくせ言葉が出ない。
 父親の命はもうない。
 これから僕はどうやって生きていけばいい?
 必死に作る笑顔は醜いもので、姉は目を合わせることもせず母親がいる葬儀場へ戻っていった。

 父親の死を知った真里が連絡を入れてきた。
 無理していないか、と。
 純粋な人に思われているのだろう。
 ずっと純粋な作品を書いてきたから。
 彼女が純粋だからこそ、綺麗な読み取り方をする。
 外堀が、家に誘ったのは汚れてしまったからこそ、僕を理解してくれた。
 真里は僕のことなんか理解してくれるだろうか。
 しつこい彼女の誘いに乗ってまた名古屋に向かった。
「痩せてる……」
 開口一番、僕の体型に物申したいそうだ。
 いい店があるからおいでと電車で向かう。車は駐車場に停めた。
「ここ、ガッツリ食べれるから」
 おすすめと書かれたメニューを頼む。
 稼ぎ過ぎているせいか金銭感覚は狂ってる。
 これは自分の成果の末だ。
「食べないの?」
 気を使う彼女だが、もう少し早く気を遣って欲しいと思った。
「食欲なくて」
「睡眠は?」
 間髪入れずにとう彼女。
 首を横にふる。
「そうだよね。亡くなっちゃったわけだから」
「……」
 一生かけて苦しめてやると決めた父親身勝手に死んだ。
 怒りや恨みの矛先はどこへ向かえばいいのだろう。
「どっか、行きたいところない?」
「……海」
 父親が死んだ海は何が見えるだろう。
 正確な表現ではないのかもしれない。
 だけど、知りたかった。
 真里は、行こうと言ってくれた。
 名古屋の海は浜松とあまり変わらない。
 大した差はない。
 弁天島ほど芸術的ではないけれど。
 この海の方が自然体で好きだった。
 取り繕う僕なんかは、自然体でいたかったのだと今更気づいた。
「お父さん、なんで死んじゃったんだろうね」
 砂浜で座り海でぼーっと虚を見つめていると隣にいる真里はいう。荒れた海の音をかき消していた。
「欲しかったんだと思う。一緒に死んでくれる人が。僕は、一緒に死ねなかった。苦しんでもらわないと……、あいつは、僕や姉が受けた地獄を知ってもらわないと……。死ねない」
「だめだよ……。そんな悲しいこと言ったら……」
「真里に何がわかんだよ……!」
 肩を押し倒し仰向けになる彼女。
 彼女にまたがる。怖がることもしない彼女はなんだか全てを受け入れようとしているように見えた。
「ずっと死にたくて、ずっと生きることが怖くて、そんなこと思ってたら中学生のまま精神的な成長は止まってた。ずっと憎んで、ずんと恨んで、ぶっ殺してやる道具が小説だった。綺麗なものを描けば描くほど、自分が醜いものだと思えた。命なんてなければいい。命なんて無価値だ。都合のいいように使われて、悪くなれば捨てられる」
 今もまだ残ってる。
「僕は……復讐だけがしたかったわけじゃない……。ありふれた家庭を知りたかった。その空間にいたかった。この世界は綺麗だと夢をみたかった。どこも醜いものばかり。汚いものばかり。人の埋められないものを埋めようとするものばかり。夜職も芸能界も変わんない。欲に溺れたものばかりだ」
「……」
「そんな欲にこの先翻弄されたくない。命はここで断ち切って仕舞えばいい。生まれてくることは地獄を選んだものの愚かな産物。不必要になれば平気で捨てるくせに必要とあらば平気で人格を歪める。僕に家族は作れない。子はいらない。汚してしまう」
 彼女の手が頬に触れる。
 親指が目元を拭う。
 涙が溢れていたことに気づく。
「そんなことないって、言えないけどさ……。そのままじゃやっぱり悲しいよ」
「……っ」
「みんながみんなそうじゃないって、少しは、本当は、知ってるでしょ?」
「……ごめん」
 彼女から離れて立ち上がる。
 海を見る。
 優しい音に変わっていた。
 彼女といると気持ちが和らぐのは何故だろう。
 恋や愛があるのならこの気持ちを言うのだろうか。
 年げつが経つにつれて落ち着いていく心情に気づくこともなく。
 真里と結婚し、子に恵まれた。
 だけど、異変に気づいたのは空が中学生の頃。
 演技の経験もなかった彼が、愛香の前で演技をしていることを知った時。
 取り繕ってきた僕は、彼が何かを隠そうとしていることを理解できていた。
 すぐに聞きにいけなかったのは、確証がないから。
 リスクをとってまでそんなことできない。
 彼の挑戦を否定しかねないからだ。
 もしもこの先演技をするのなら、一度僕がとめた役者の道も進めるきっかけになる。
 彼の意思でなるのなら十分だ。
 無理やりやらせていた幼少期の愛香のような思いをさせる必要はないのだから。
 しかし、見過ごしてしまったのだ。
 彼が中学校教師を貶めたこと、否定も肯定もない性行為を行ったこと、女子中学生を何人も引っ掛けたこと。
 その理由が自分だったこと。
 芸能界にいることはリスクが伴う。
 プライベートはほとんどないし、誰かしらがカメラを向けている。
 怪しいと気付けるのは普段そこにないものがあるからだ。
 空もまた、プライベートがなかった。
 中学校教師は苗字を見てもしかしてと思わなければ、こんなことにはならなかっただろう。
 だが、起こってしまったことは変えられない。
 何故なら、こんなにも練られた脚本で教員を飛ばしたのだから。
 時すでに遅しとはこのことで、中学校教師から話を聞くことさえできないまま淡々と空の口から事実が告げられた。
 いつか口にした子を産まない選択をとっていたなら、こんなことにはならなかった。
 己のエゴで産んでしまった残酷さに自分が苦しむことになるとは思っていなかった。
 真里が一緒ならそんな恐ろしい未来は起こり得ないなんて思っていたのだから。
 家庭環境だけが子を歪めるわけじゃなかった。
 学校もまた歪める環境になる。
 空を歪ませたのは僕だ。
 同じ轍を踏むことはないと思っていた自分が哀れだった。
 同時期に姉から連絡があった。
 久々に会わないかと。
 姉との距離の中間である神奈川のカフェに来た。
「子供のいる生活はどう?」
「会いたいか?」
「会いたいね」
「そっちはどうなの?」
 夜職をやめて地域を離れて仕事をしている姉。
 結婚はしていないらしい。
「友達の結婚式に行ってきたよ。もう私だけだよ、結婚してないの」
「……結婚する気はないの?」
「ないね」
 やはりそうだろうなと思った。
 一人の時間を大切にしていると以前聞いたから。
「子育てって大変なの?」
「性被害に遭っていても気付けないものだなって思ったよ」
 コーヒーを啜ると苦味を感じた。
 こんな時でも味覚はあるらしい。
「……え、どう言うこと?」
「僕の作品が原因だった。姉さんの言う通り父親を殺すつもりで書いていたのに、空の心さえも歪ませてしまった」
「……」
「国語の教師と性行為に及んだらしい。もちろん教師の方から。それ以降、心の拠り所にしてたのは僕の作品だった」
「……ちょっと待って」
「僕は家族を殺したいって思った。でも、子供を殺したいだなんて思ったことはなかった」
 歪みから生まれるものは歪みを正当化するものだけらしい。
「僕が空を殺した」
「……」
「母親と一緒だ。一切気づかなくて、そのまま生き続けるあいつと一緒だ。やっぱり、この家族は呪われてる。全部壊さないといけない。殺さないといけない。死んでもらわないとこの血があるかぎり繰り返される」
「……でも」
「姉さん、僕はもう無理だと思う。二世代の呪いはここで終止符を打たないと、空をもっと歪ませることになる」
「でも」
「もう終わりにしなくちゃいけないんだよ!この命に価値なんか与えちゃいけないんだ!無価値なままがちょうどよかった。才能さえなければ、文学なんて知らなければ……。今ある地位さえなければ……」
「……」
「姉さんと同じような職についておけば、僕ら家族がみんな普通だったら……」
 呪いは断たなければならないと言ったばかりなのに。
「姉さんは、父親のレイプを見過ごしてきた母親を許しているの?」
 この時初めて姉の歪んだ表情を見た気がした。
 暗がりで父親に犯された姉の表情はこんな感じだったのだろうか。
 一度蘇った思考の根底に変化はなかった。
 復讐心による自業自得。
 一生消えない子への歪み。
 普通に育って欲しかった。
 それをさせなかったのは僕自身だ。
 外の電光掲示板にODのニュースが流れる。
 今もなお深刻な問題として残るOD。
 思いつく。
 せめて誰も悪くない死に方で父親を全うできないか、と。
 空をこれ以上歪ませないための行動。
 物語を何年も描いてきた僕だ。
 すぐに自分の死の物語を描ける。
 ODで死んだ心のSOS。
 仕事に疲れ、限界だったと思われれば世間も家族も理解するんじゃないだろうか。
 真里、一緒に生きてくれてありがとう。
 空、気づいておきながら動けなくてごめん。
 パソコンのデータを全て消す。
 これで完璧だ。
 あとは、空が生涯を全うしてくれることを祈るだけだ。
 大切な人に気づいて。
 そして、幸せに。