さわやかに行った帰り、父さんの母であり、僕の叔母にあたる美苗に連絡を入れた。
久々の再会で、嬉しそうに家に招き入れてくれた美苗。
何やら勘違いしている気がしてならないけれど、一旦無視をする。
「今日は、ありがと。突然だったと思うけど」
一軒家にはダンボールがたくさん置かれていた。
不思議に思っていると、美苗の方から口を開いた。
「そろそろこの家も売り払おうと思ってたんだけど、ちょうどいい頃に来たから」
「引っ越すの?」
「もう私一人だからねぇ。こんな広い家に住み続けるのはちょっと」
「……」
父さんが亡くなって、その後に父さんの姉が自殺したらしい。
その前には父さんの父親が、美苗の夫が亡くなっている。
残された家族は美苗一人。
二階はほとんど使っていないらしい。
「どの辺に引っ越すの?」
「さぁ、どこにしようかね。元々、この辺が地元だったら良かったんだけど。この年で地元帰っても仲良かった子の連絡先は知らないから」
美苗の地元は県外にあるらしく、浜松に来たのは夫の転勤によるものだった。
今となっては何もここには残っていない。
帰ってしまってもいいのではないだろうかと思うけれど、帰った先でも何も残っていないのかもしれない。
美苗の両親は少し前に他界している。
「二人は二階の部屋を使ってちょうだい。二部屋あるからどう使ってくれても構わないよ」
「……」
美苗の言葉を聞いて安堵している自分がいる。
もしも一部屋だったらどうしようかと焦っていたからだ。
高校生の男女が一つの部屋に二人でいた場合。何が起こるのか。
あらぬ妄想をする前に被りを振る。
「一応来る前に掃除はしたから大丈夫だと思うけど、気にするようだったら掃除機でも使って」
「はい、今、置いてきちゃいます」
愛香と一緒に二階に到着すると扉の開いている部屋が二つ見えた。
もう一つ奥に部屋があるけれど扉が閉まっているので美苗の部屋だろうと思い、開けることはしなかった。
「私、手前の部屋を借りようかな」
「じゃあ、僕は奥の部屋にするよ」
愛香が使う部屋と美苗の部屋と思わしき部屋の間の部屋。
そこに入ってキャリーケース等を広げて歯ブラシなんかを置いておく。
ちゃんと用意してあるから風呂に入った後の着替えなんかも目立つところに置いておいた。
準備はある程度終えたので、リビングに戻って美苗と少し会話でもしておこうかと考える。
すると後ろの扉が音を立てて閉まった。
何もしていないというのに扉が閉まったので恐ろしくなって振り返る。
確かに扉が閉まってしまっている。
しかし、その前には今日ずっと一緒にいた愛香の姿があった。
「なんだ、愛香か……」
ホラー演出でも始まったのかとドキドキした。
「わざわざ部屋を用意してもらっちゃったね」
「……あー、うん。おばあちゃん、優しいよね」
「そうじゃなくて」
そうじゃなくて?
「わざわざ二人の部屋を用意しておくってなんかなぁ」
「そりゃ、この家に住んでたはずの姉弟はみんな死んで、おじさんも死んでるから、部屋は余ってる」
「……」
「どうかした?」
「とても反応しづらいことをペラペラと」
「ごめん、でも知ってるでしょ?」
なんでわざわざ確認してきたのか、気になるけれど。
「雰囲気台無し」
「ホラー展開は好きじゃないな」
全くと言いながら、リビングに戻ろうと伝えると彼女は僕の袖を摘んだ。
「どうかした?」
「知らない土地で、初めてきた家で一人、寝れるわけなくない?」
心細そうな声に何故かドキッとした。
「あ、あぁ、でも、何もないと思うけどな」
まさか二人で一緒に寝ようなんてありえない提案をされるとは思わないけれど、紳士的な対応を心がける僕は一歩も引くつもりはない。
それは、ああしてこうしてわーとなるわけで。
「一緒に寝てよ」
夕方の空に彼女の顔が照らされる。
綺麗な顔立ちだと思うと、なぜそんな彼女が僕なんかと一緒がいいのか。
もっといい男なら他にいるだろうに。
「また後で考えようよ。荷物も置いたし、ばあちゃんの手伝いしたいから」
逃げるように部屋を出る。
このままではあらぬ方向へ雰囲気が作られてしまう。
と、そこにやってきたのは美苗だった。
「あれ、どうしたの?夕飯とか」
「もう作った。この部屋、誰が使うの?」
「僕が使うつもり」
「……。んじゃ、そっちは?」
「私です」
愛香が後ろから声を出す。
「そこ、一回ゴキブリが出たからやめた方がいいかも。あなたの部屋で一緒になっちゃうけどいい?」
「……………………は?」
素っ頓狂な声がどこからか聞こえた。きっと僕だ。
美苗が言いたいのは僕の部屋で一緒に寝てやれということ。
今しがた断ったばかりだというのになんてことをしてくれているのか。
「ゴキブリ!?」
演技とは思えない形相で僕の腕にしがみつく愛香。
「無理無理無理!!怖い!」
「ゴキブリ如きでそんな怖がるなよ」
ため息をつく僕に美苗も愛香も手で叩いてきた。
悪いこと言った覚えなんかないが?
「愛香ちゃんが、空と一緒でいいならだけど」
「一緒でいいです!荷物、空のところもってく!」
……ん?僕の意見は?
「空は別にいいでしょう?」
「……」
よくないんですけど。
美苗の歳なら、この年頃の二人を一緒にしてはいけないって思いませんか?
僕、間違ったこと言ってます?
思ったところで口にできないのは、彼女がとっくに部屋に荷物を置いているから。
「いいじゃん別に。昔から一緒に寝てたでしょ?」
「それは昔の話な?……まぁいいや。幼馴染だし」
諦めがついた僕は、なんとなく彼女が言って欲しくなさそうな言葉を口にする。
直感は当たり、彼女は不服そうな顔をしている。
やっぱりと思ったけれど、深くは踏み込まないことにした。
「僕、先にリビングにいますね」
敬語になったのは咄嗟のせいかなんなのか。
今度こそ僕は逃げるようにリビングへ向かった。
リビングには夕飯の用意がされていた。
思い出した美苗がわざわざ二階まできてゴキブリのことを教えてくれたのだろうか。
二階にいた時間はそんな長くなかった。短い時間でどうして伝えようと思うのだろう。
戻ってきた時にでも伝えたって遅くはない気がする。
いや、ゴキブリが苦手らしい愛香にとってすぐにでも伝えてほしいことを理解していたのかもしれない。
彼女と美苗は今日が初対面でそんなこと知る由もないはずなのに。
線香でもあげようかと仏壇を探す。
リビングにはない様子。
畳の部屋が一階にあるので、覗いてみる。
シャッターを下ろしているためか真っ暗なその部屋。
スマホのライトで照らしてみるとそこには二つの顔写真がある。きっと、父さんの姉と父のもの。
美苗と愛香の声が聞こえてきて、その戸を閉めて、リビングに戻った。
線香をあげるのは美苗に聞いてからの方がいいと思ったからだ。
「夕飯、軽くでよかったよね?」
美苗の言葉に首を縦にふる。
さわやかが思いの外、量が多かったのであまりお腹も空いていない。
それは彼女も同じだろう。
食事を摂り、歯を磨く。愛香が先に風呂に入った後の食卓には美苗と二人。
「線香、上げておきたいんだけど」
「帰る時でいいよ」
「……今日は、泊めてくれてありがと」
話すことが無さすぎる。会話も弾むように動いてくれるわけじゃないから一方通行になっている。
「いろいろあなたの母から聞いてるけど、あまり詮索しない方がいいわ」
「……どういう意味?」
「知りたいでしょう?私の息子の死因」
てっきり隠そうとするのかと思っていたから驚いた。
この流れなら聞いてしまってもいいのではないだろうか。
「オーバードーズ。本当にそれだけなのかなって」
「死因でしょ?」
「死因、じゃない。死の真相が知りたい」
美苗の目を見やっても別の場所を見たままで反応が薄い。
「世間で今も流行ってるけど、あれだけの有名人がそんな死に方すると思う?」
「私の息子のこと、ずいぶん、良い子だと思ってるの?」
「僕の父さんだから」
「……そう。なら、探してみるといいわ」
「ばあちゃんは、なんで死んだと思う?」
言葉を変えて二度質問する。
逸らすほどの何かが美苗と父さんの間にはあるということが今の会話で理解できる。
少し探りを入れたい。
きっと小説のモデルにされなかったものを知るチャンス。
「なんで、そんな酷なことを聞くの?」
「あなたの息子さんだから、少しは予想していることがあるのかなって。それとも、信用しているから、今のいままで目を逸らしてきた?僕みたいに」
「勝手なことを言うのね。子供の推理力なんてたいしたものじゃない」
「それは、まぁ」
当然ながら有名な探偵でもなければ、頭のキレがいい優秀な人でもない。
残念ながら通信制の学校でさえ単位を取らず留年の可能性がある身なのだから。
「でも、私の息子で、あなたの親は、あなたの歳で小説大賞を受賞して小説家をしていたわ」
「僕は、その子供ってだけ。父さんには才があったけれど、僕にはない。そんなのわかりきってる」
「いえね、違うわ。あなたの推理に期待してるってだけよ。孫だからね。でも、私としては、あまり踏み込まないべきだと思ってるけど」
「宣戦布告とでもいうのか?」
その挑発に乗らない男はいない。
「どうぞ、ご自由に調べてみてちょうだい。私は、それまで何も言わないけれど」
「望んだ通りに動いてくれると思わないでほしいよ……」
ここで美苗にガツガツ質問しても意味がないと言葉を発した後に気づく。
気づかないふりをして聞いてみてもよかったけれど、それでは後の関係が悪くなるだけ。
「調べてみる。自分の気が済むまで」
だから、美苗にそう言った。
愛香が風呂から出る音が聞こえて、風呂に入るよと二階へ戻った。
風呂に入った僕は、スマホのYouTubeアプリで父さんの名前である佐野宏哉と調べた。
何度か調べて、動画を見なかったのは彼らの不名誉ないいかがりなどが散見されるから。
宗教に殺された、政府に殺されたなど言いたい放題いうから。
スクロールして気になるものがないか調べているとありもしないものが出てくる。
家庭問題、性犯罪について。
出版されてきた小説に性犯罪はなかったし、家庭問題はほとんど出てこなかった。
性犯罪こそがマイノリティとは言えないだろうか。父さんはどうして書かなかったのだろう。
しかし、この問題を取り上げ動画にするということは何かしらあるわけだが……。
まずはタップして概要欄を見るとここ数ヶ月前のものだった。
誰かがこのユーチューバーに情報を売ったような形か。
それならば、週刊誌とやっていることは変わらない。
ただこのユーチューバーに好感を持てたのは、不確かな事実であることを大前提だというテロップを常に表示しているところ。
切り取りが流行っていた当初、無断転載を許す人たちもいたけれど、このユーチューバーはそれを許していない。万が一に備えて、このテロップを貼り続けているのかもしれない。
一通り動画を見終えた。エンタメとしても事実としても十分楽しめる内容だった。
このチャンネルの登録者数とは合わないほどに面白い。
「されど、エンタメ」
思い直す。
そもそも彼らは、ユーチューバー。父さんは、芸能界にもいた小説家。
エンタメとして利用されるのは父さんもわかっていたはずだ。
命が死んでから三年。
売れるための道具に成り変わった父さん。
これが表に立った人の末路なのだろうか。
父さんがなりたかったものはこんなもので、こんな結末のために小説を書いていたのか。
マイノリティをテーマにしてきた人間とは思えない雑な終わり。
小説家の死もまたマイノリティとして描くのなら、僕は適任だろう。
だが、それでは今見た動画のユーチューバーたちと同じ。
こんなものたちと同列にいたくない。
エンタメの中で不愉快なのは人の死を利用したものだ。それを感動だとか自殺は良くないと訴えかけるとか、それこそこの動画のように不謹慎なネタを全世界に晒すようなこと。
どれだけこの不謹慎な奴らに心を抉られてきたのか。
『今、どんなお気持ちですか?』
母さんと一緒に家に帰っていたとき、父さんの死を知ったマスコミが家の前でマイクを構えて待っていた。
特ダネとも言えるほど人が溢れていて、警察を呼んでマスコミの対応をさせた。
その刹那に聞こえたあの忌まわしき言葉。
ぶっ殺してやりたいほどに殺意が湧いた。
命の軽んじているのは、こういうカメラを向ける悪魔たちだ。
母さんは急ぐように僕を家に連れて帰った。
テレビで報道されて、後ろ姿が惨めに映るだけの僕と母さん。
まるで悪者のようで滑稽な様。
とても気持ち悪かった。
あれからもう三年、ここまでエンタメとして楽しむことになるとは思わなかった。
僕は、人の心を失ってしまったのだろうか。
自分の父親が死んでネタにされているというのに。
あの当時の僕なら、このユーチューバーのコメント欄に必死になって誹謗中傷をこれでもかと書いていただろう。
誹謗中傷を書かれてきた身としてやり返すくらいしてやりたい。
ただ、まぁ、暇じゃない。
暇さえあればそれくらいしただろうけど、今の僕は父さんの死の真相を知りたいのだ。
風呂場で考え事をしたせいか、頭がクラクラする。
風呂から出て着替えて髪を乾かし、水を飲む。
それでもクラクラするので、美苗に寝ると伝え部屋に到着するなり愛香の言葉を無視して眠ることにした。
目が覚めると顔を覗く愛香の姿。まるで猫に顔を覗かれたような気分だ。
彼女の手が額にあたる。
「……」
気まずさに目を閉じる。
彼女の手が冷たい。まるで死人のよう。
あの時の父さんの体も冷え切っていた。
「熱、ないみたいだね」
「……熱?」
何を言いたいのか分からず尋ねた。
「昨日、部屋に来るなりばたりと倒れるように眠ったので」
「まるで小説のようなセリフだ」
朝から頭を使わせないでほしいと内心毒を吐く。
「だって、私が寝床として確保していたところに眠ったんだよ?驚きだよ」
「まさかそんなわけない」
キョロキョロと見渡してみてもそのあたりには僕の荷物ばかり。
「嘘つくのやめよ?」
寝転がっているままでは良くないと立ち上がる。
歯を磨きたい。
「嘘じゃないよ!ほんと!私に体を預けるようにしちゃってさ!可愛かったんだよ!」
聞けば聞くほど、もしも仮に自分がそんなことをしてしまっていたらと恥ずかしくなって部屋を飛び出した。
後ろであぁ!と聞こえたけれど、平常心を保つため真顔で歯を磨いた。
「あら、もう昼だけこの後どこかに行くの?」
美苗が洗面所の扉を開けて聞いてくる。
うがいを済ませると。
「浜名湖に行ってみたい」
五作目と六作目の違いについて考えたい。
「浜名湖?」
口周りを拭く。頷くと口をひらく。
「五作目は浜名湖を巡っている描写があって。六作目は海に行く描写がある。モデル地はどっちも浜松。どんな違いがあるのか知りたくて」
「あんま、わかんないけど。浜名湖って思ってるよりも広いし、どの辺がいいの?」
「赤い橋があるところ」
「浜名湖バイパスの方にもあるけど」
「……あの、駅が近いらしくて」
「どっちも駅近いわ」
「神社が近いはず」
「バイパスの方かしら」
「でも、天浜ってやつがあるらしくて」
「じゃあ、バイパスの方じゃないね」
「どの辺?」
二つ以上候補が上がるとは思わなかった。天浜ってやつがあるらしいのでそっちに行きたいけれど、あるのだろうか。
「天竜浜名湖鉄道は、天竜のほうよ。駅で行ったら多分、気賀駅の方」
「車を……」
前に手を合わせてお願いすると美苗は許してくれた。
「それより、昼過ぎに起きてくるなんてどういう生活をしているのかしら」
手元にスマホがなくて、美苗がスマホの画面で時間を見せてくれる。
とっくに十三時を回っていた。
これでは、不登校だということがバレてしまう。
「あ、いや、ちょっと、うん。まぁね」
「すぐに昼ごはん食べてちょうだい」
「はい……」
昼飯を食べていると上から愛香の声が聞こえてくる。
何かセリフを言っているみたいでそれが演技の練習だということは遅れて気がついた。
主演が決まっているから頑張っているようで見習いたい反面、やりたいことがない。なりたいものもない。
「愛香ちゃん、頑張ってるわね」
美苗がそういった。
「ドラマに出るみたいなんで」
「あれだけ可愛ければ出れるわよ」
「すごいなぁ」
お茶を飲み、米を食う。
関心以上のものはなかった。
「あなたは?ドラマにでも出てみればいいのに」
「この顔じゃ無理。芸能界って顔だから。スタバみたいなもん」
「そう聞くと、行けそうじゃない?」
「ほらやっぱ、顔はゴミなのよ」
米をいっぱいに頬張る。
「そういや、愛香は昼、食べたの?」
「とっくに食べた。一時間前に」
「……」
「オーディション、受ければ?」
話を逸らしたというのに、話を戻す美苗。許さない。
「子役には勝てない」
「勝つためにやるの?」
「勝つためにって……、何かやる時ってみんな誰かに勝ちたいって気持ちばかりじゃん」
例えば、運動会のリレーだってこの人には勝ちたいとかシャトルランで友達に勝ちたいとか。
「それは、学校だけよ」
「……社会は?」
学校以外に思いつくものが社会しかない。
だけど、広すぎる括りに自分では答えが出なかった。
「自分に勝ち続けなければならないの」
「……自分に?」
考えたこともない問いに考えもしない答え。
自分に勝つとは一体何を示しているのか。
「考えてみればわかるわ」
「そんなの……」
今すぐに思いつくものじゃない。
「ばあちゃんは、自分の何かに勝ってきたの?」
語尾を言うよりも先に、食べ終えた皿をキッチンに入れて食器を洗い始めた。
食卓に残っているのは、お茶の入ったコップだけ。
聞こえていたのか、聞こえていないのか。
逃げ出すわけでもなくサッと動かれてしまっては、どちらなのか分からない。
人にすぐ答えを求めるのは良くないのだろうか。
自分に勝つとは、精神的なものだろうことはわかる。でも、それが何を示しているのかまるで理解できない。
例えば、トラウマを持っているのなら、克服するべきだと言う人がいる。それは戦って勝つことになるのだろうか。では、負けては行けないことなのか。
トラウマなんて克服できなくてもいい。生きづらいだけ。だけど、逃げてしまえばいいことなんてたくさんある。
この例えが極端なら、いじめはどうだろう。
いじめで勝つにはどうするべきだろう。戦うと言ったら先生に伝えるのか?伝えたって助けてくれる人はいない。先生は面倒だからと協力しない。助けようなんて思わない。一人で戦おうと殴ったらどうだろう。暴力を振るったと悪くなるのは自分だ。
逃げてしまえばいい。そうしたら、助かる。命は救われる。
だから、今、この命はここにある。
それも全部学校だからなんとかなっているのだろうか。
だとしたら、愛香のいる芸能界、社会はどれだけ精神的に苦しいものを抱えて勝ち続けているのだろう。
僕は、社会から見れば何も背負わぬ敗北者なのだろうか。
こんなに苦しいのに?
父さんが死んでからマスコミやユーチューバーやらが僕の顔をとってネットやテレビで晒したのに?やめてと訴えてもやめない奴らに吊し上げられたのに?
変わらず、苦しい日々なのに学生だから何も知らないと、戦っていないと思うのか?
民意は悪でそれに戦う社会人は、一体何を手にして戦う?
ナイフか?鉄バッドか?
社会で使っていいものを使うのか?
弁護士?……全部、母さんがやってくれてる。
開示請求もマスコミへの慰謝料もユーチューバーのアカウント消すことも全部やってくれている。
なら、子供にできることは何?
逃げることしかできない子供に何ができた?
戦うのは大人たちで、従うのは子供。
主従関係は良好。
愛香は親という主人の言葉聞いて芸能界に行った。従っただけ。
彼女を守ってくれるものは誰?やはり親?
まだ未成年の彼女の心を誹謗中傷から守ってくれるのは事務所だ。
子供は守られるべきもの?
では、そんな守られてきたものたちは大人になった時、何を手に持って戦うのだろう。
就職するか進学するかを決めなければいけない時期。
就職するなら、手に才をつけなければならない。
大学行くにしても学ぶべきことが多すぎる。
……子供は守られている間に学んで活かして、生きるバネにしないといけないのか?
怠惰に過ごしていてはいけない。
そうわかっているのに、僕には何かしたいものもなければ、やりたいこともなくて。
父さんの死で一杯一杯の僕は、また逃げることしかできなくて。
それがまたいじられていた頃のように自己嫌悪に陥ってしまう。
一つ理解できたからといって、それを行動に移してすぐに成功できるほど僕は優れていない。
だから思う。もっと真面目に生きていたら、もっと真剣に人と向き合っていたら。
いじめもなかったかもしれない。父さんの死を直前に止められたかもしれない。
今更無理なものは、願っても叶わない。こんな弱い自分には敵わない。
どうしたらいいのだろう……。
お茶を飲むと美苗は車を出すよと言ってくれた。
愛香も気分を変えたいとついてきた。
気賀駅におろしてもらうと美苗は車で待ってるとついてくることはなかった。
「愛香も無理についてこなくてもよかったのに」
「付き合ってって言ったのはあなたなので」
「そうだね。いい飯屋とかこの辺ありそうだし行けばよかったのに」
「あんまり食べすぎても良くないので」
「大変だな。体型維持」
「ちょっと!」
肩を叩いてくる彼女は少し怒っていた。
仕事のこともあって気にしている部分だったのかと素直に謝る。
「最近デリカシーがないよ」
「最近久々に会ったばかりだから、ずっとデリカシーがないわけか」
「よくわかってんじゃん」
最低だったのか、僕は……。最低……。最低……?
「最低だとか言ったってあなたはそれが」
歌詞のフレーズを言い終える前に腹パンを喰らった。
スマホの地図アプリで位置を確認するとそれは案外すぐそこにあった。
「ここか」
昼間に見るその景色。
車は通れず自転車や徒歩だけが使える橋のようで、このエリアはツーリングなんかによく使われるらしい。
浜名湖が見えるこの景色の中、五作目ではヒロインと主人公が二人で冬に飛び込んで死んだ。二人は愛を誓い死の先の世界で永遠を手にする、物語。二人には二人にしか理解できないものを選んだことが少数派だというのか。
あまりにも重いので内容に触れたくはないけれど。
しかし、ここから落ちたとしてもだいぶ浅そうに見えるのは気のせいだろうか。
「もしさ、この作品のように自殺するってなったら、愛香はどうする?」
「……死にたくないんだけど」
「そうだよな。この夏じゃ飛び降りたって死ねない」
水かさが増しているわけでもないのだから、溺れることもないだろう。
「五作目だっけ?」
「そう。浜名湖で自殺する二人を知ったら何かわかるかなって」
学生の二人ならわかること。でも。
「愛香は、大人、だろ?手っ取り早く父さんの死についてもわかるかなぁって。ほら、父さん、自殺だし」
「…………」
隣にいた彼女は、僕に目をやる。気づかないふりして言葉を待つ。
なんだか酷い質問をしているみたいで向き合うことができなかった。
「私は……、まだ、学生だよ……?なんで……そんなこと聞くの?」
「……」
彼女の手が僕の腕に触れる。
「私のこと、大人だって思ってみてたの?」
「……」
「私は空がいるから、学生だって、女の子だって思えたのに」
物語が都合よくいかないのは、わかっていたけれど。
現実もまたそう簡単には前に進まない。
美苗も愛香も隠していたいことがあって、隠していたから言えないことがある。
気づかないふりして、触れてしまえば、お互いの思いの違いに苦しくなるのだろう。
社会を知っている彼女は、いつか『金のためだけに何かになりたいって思わない』僕に高校生らしいと言った。
とっくに大人になり始めている彼女だから、学生とはまた違う括りだと考えていた。
働いて得た金を持っている彼女がどうして学生だと、女の子だと思うのか。
「……それは」
「ごめん、忘れて」
ピシャリと彼女は切り込む。
僕の言葉は待っていないみたい。
前に進まなかった僕とひたすら前に進んでいた彼女とではお互いを思う気持ちが違った。二度も言うのは、僕が思っているより衝撃を受けているからなのかもしれない。
「少し……ひとりにさせてよ……」
彼女の気持ちを汲んで、首を縦に振った。
今まで面倒だと向き合ってこなかったつけが回ってきたような、そんな気がした。
久々の再会で、嬉しそうに家に招き入れてくれた美苗。
何やら勘違いしている気がしてならないけれど、一旦無視をする。
「今日は、ありがと。突然だったと思うけど」
一軒家にはダンボールがたくさん置かれていた。
不思議に思っていると、美苗の方から口を開いた。
「そろそろこの家も売り払おうと思ってたんだけど、ちょうどいい頃に来たから」
「引っ越すの?」
「もう私一人だからねぇ。こんな広い家に住み続けるのはちょっと」
「……」
父さんが亡くなって、その後に父さんの姉が自殺したらしい。
その前には父さんの父親が、美苗の夫が亡くなっている。
残された家族は美苗一人。
二階はほとんど使っていないらしい。
「どの辺に引っ越すの?」
「さぁ、どこにしようかね。元々、この辺が地元だったら良かったんだけど。この年で地元帰っても仲良かった子の連絡先は知らないから」
美苗の地元は県外にあるらしく、浜松に来たのは夫の転勤によるものだった。
今となっては何もここには残っていない。
帰ってしまってもいいのではないだろうかと思うけれど、帰った先でも何も残っていないのかもしれない。
美苗の両親は少し前に他界している。
「二人は二階の部屋を使ってちょうだい。二部屋あるからどう使ってくれても構わないよ」
「……」
美苗の言葉を聞いて安堵している自分がいる。
もしも一部屋だったらどうしようかと焦っていたからだ。
高校生の男女が一つの部屋に二人でいた場合。何が起こるのか。
あらぬ妄想をする前に被りを振る。
「一応来る前に掃除はしたから大丈夫だと思うけど、気にするようだったら掃除機でも使って」
「はい、今、置いてきちゃいます」
愛香と一緒に二階に到着すると扉の開いている部屋が二つ見えた。
もう一つ奥に部屋があるけれど扉が閉まっているので美苗の部屋だろうと思い、開けることはしなかった。
「私、手前の部屋を借りようかな」
「じゃあ、僕は奥の部屋にするよ」
愛香が使う部屋と美苗の部屋と思わしき部屋の間の部屋。
そこに入ってキャリーケース等を広げて歯ブラシなんかを置いておく。
ちゃんと用意してあるから風呂に入った後の着替えなんかも目立つところに置いておいた。
準備はある程度終えたので、リビングに戻って美苗と少し会話でもしておこうかと考える。
すると後ろの扉が音を立てて閉まった。
何もしていないというのに扉が閉まったので恐ろしくなって振り返る。
確かに扉が閉まってしまっている。
しかし、その前には今日ずっと一緒にいた愛香の姿があった。
「なんだ、愛香か……」
ホラー演出でも始まったのかとドキドキした。
「わざわざ部屋を用意してもらっちゃったね」
「……あー、うん。おばあちゃん、優しいよね」
「そうじゃなくて」
そうじゃなくて?
「わざわざ二人の部屋を用意しておくってなんかなぁ」
「そりゃ、この家に住んでたはずの姉弟はみんな死んで、おじさんも死んでるから、部屋は余ってる」
「……」
「どうかした?」
「とても反応しづらいことをペラペラと」
「ごめん、でも知ってるでしょ?」
なんでわざわざ確認してきたのか、気になるけれど。
「雰囲気台無し」
「ホラー展開は好きじゃないな」
全くと言いながら、リビングに戻ろうと伝えると彼女は僕の袖を摘んだ。
「どうかした?」
「知らない土地で、初めてきた家で一人、寝れるわけなくない?」
心細そうな声に何故かドキッとした。
「あ、あぁ、でも、何もないと思うけどな」
まさか二人で一緒に寝ようなんてありえない提案をされるとは思わないけれど、紳士的な対応を心がける僕は一歩も引くつもりはない。
それは、ああしてこうしてわーとなるわけで。
「一緒に寝てよ」
夕方の空に彼女の顔が照らされる。
綺麗な顔立ちだと思うと、なぜそんな彼女が僕なんかと一緒がいいのか。
もっといい男なら他にいるだろうに。
「また後で考えようよ。荷物も置いたし、ばあちゃんの手伝いしたいから」
逃げるように部屋を出る。
このままではあらぬ方向へ雰囲気が作られてしまう。
と、そこにやってきたのは美苗だった。
「あれ、どうしたの?夕飯とか」
「もう作った。この部屋、誰が使うの?」
「僕が使うつもり」
「……。んじゃ、そっちは?」
「私です」
愛香が後ろから声を出す。
「そこ、一回ゴキブリが出たからやめた方がいいかも。あなたの部屋で一緒になっちゃうけどいい?」
「……………………は?」
素っ頓狂な声がどこからか聞こえた。きっと僕だ。
美苗が言いたいのは僕の部屋で一緒に寝てやれということ。
今しがた断ったばかりだというのになんてことをしてくれているのか。
「ゴキブリ!?」
演技とは思えない形相で僕の腕にしがみつく愛香。
「無理無理無理!!怖い!」
「ゴキブリ如きでそんな怖がるなよ」
ため息をつく僕に美苗も愛香も手で叩いてきた。
悪いこと言った覚えなんかないが?
「愛香ちゃんが、空と一緒でいいならだけど」
「一緒でいいです!荷物、空のところもってく!」
……ん?僕の意見は?
「空は別にいいでしょう?」
「……」
よくないんですけど。
美苗の歳なら、この年頃の二人を一緒にしてはいけないって思いませんか?
僕、間違ったこと言ってます?
思ったところで口にできないのは、彼女がとっくに部屋に荷物を置いているから。
「いいじゃん別に。昔から一緒に寝てたでしょ?」
「それは昔の話な?……まぁいいや。幼馴染だし」
諦めがついた僕は、なんとなく彼女が言って欲しくなさそうな言葉を口にする。
直感は当たり、彼女は不服そうな顔をしている。
やっぱりと思ったけれど、深くは踏み込まないことにした。
「僕、先にリビングにいますね」
敬語になったのは咄嗟のせいかなんなのか。
今度こそ僕は逃げるようにリビングへ向かった。
リビングには夕飯の用意がされていた。
思い出した美苗がわざわざ二階まできてゴキブリのことを教えてくれたのだろうか。
二階にいた時間はそんな長くなかった。短い時間でどうして伝えようと思うのだろう。
戻ってきた時にでも伝えたって遅くはない気がする。
いや、ゴキブリが苦手らしい愛香にとってすぐにでも伝えてほしいことを理解していたのかもしれない。
彼女と美苗は今日が初対面でそんなこと知る由もないはずなのに。
線香でもあげようかと仏壇を探す。
リビングにはない様子。
畳の部屋が一階にあるので、覗いてみる。
シャッターを下ろしているためか真っ暗なその部屋。
スマホのライトで照らしてみるとそこには二つの顔写真がある。きっと、父さんの姉と父のもの。
美苗と愛香の声が聞こえてきて、その戸を閉めて、リビングに戻った。
線香をあげるのは美苗に聞いてからの方がいいと思ったからだ。
「夕飯、軽くでよかったよね?」
美苗の言葉に首を縦にふる。
さわやかが思いの外、量が多かったのであまりお腹も空いていない。
それは彼女も同じだろう。
食事を摂り、歯を磨く。愛香が先に風呂に入った後の食卓には美苗と二人。
「線香、上げておきたいんだけど」
「帰る時でいいよ」
「……今日は、泊めてくれてありがと」
話すことが無さすぎる。会話も弾むように動いてくれるわけじゃないから一方通行になっている。
「いろいろあなたの母から聞いてるけど、あまり詮索しない方がいいわ」
「……どういう意味?」
「知りたいでしょう?私の息子の死因」
てっきり隠そうとするのかと思っていたから驚いた。
この流れなら聞いてしまってもいいのではないだろうか。
「オーバードーズ。本当にそれだけなのかなって」
「死因でしょ?」
「死因、じゃない。死の真相が知りたい」
美苗の目を見やっても別の場所を見たままで反応が薄い。
「世間で今も流行ってるけど、あれだけの有名人がそんな死に方すると思う?」
「私の息子のこと、ずいぶん、良い子だと思ってるの?」
「僕の父さんだから」
「……そう。なら、探してみるといいわ」
「ばあちゃんは、なんで死んだと思う?」
言葉を変えて二度質問する。
逸らすほどの何かが美苗と父さんの間にはあるということが今の会話で理解できる。
少し探りを入れたい。
きっと小説のモデルにされなかったものを知るチャンス。
「なんで、そんな酷なことを聞くの?」
「あなたの息子さんだから、少しは予想していることがあるのかなって。それとも、信用しているから、今のいままで目を逸らしてきた?僕みたいに」
「勝手なことを言うのね。子供の推理力なんてたいしたものじゃない」
「それは、まぁ」
当然ながら有名な探偵でもなければ、頭のキレがいい優秀な人でもない。
残念ながら通信制の学校でさえ単位を取らず留年の可能性がある身なのだから。
「でも、私の息子で、あなたの親は、あなたの歳で小説大賞を受賞して小説家をしていたわ」
「僕は、その子供ってだけ。父さんには才があったけれど、僕にはない。そんなのわかりきってる」
「いえね、違うわ。あなたの推理に期待してるってだけよ。孫だからね。でも、私としては、あまり踏み込まないべきだと思ってるけど」
「宣戦布告とでもいうのか?」
その挑発に乗らない男はいない。
「どうぞ、ご自由に調べてみてちょうだい。私は、それまで何も言わないけれど」
「望んだ通りに動いてくれると思わないでほしいよ……」
ここで美苗にガツガツ質問しても意味がないと言葉を発した後に気づく。
気づかないふりをして聞いてみてもよかったけれど、それでは後の関係が悪くなるだけ。
「調べてみる。自分の気が済むまで」
だから、美苗にそう言った。
愛香が風呂から出る音が聞こえて、風呂に入るよと二階へ戻った。
風呂に入った僕は、スマホのYouTubeアプリで父さんの名前である佐野宏哉と調べた。
何度か調べて、動画を見なかったのは彼らの不名誉ないいかがりなどが散見されるから。
宗教に殺された、政府に殺されたなど言いたい放題いうから。
スクロールして気になるものがないか調べているとありもしないものが出てくる。
家庭問題、性犯罪について。
出版されてきた小説に性犯罪はなかったし、家庭問題はほとんど出てこなかった。
性犯罪こそがマイノリティとは言えないだろうか。父さんはどうして書かなかったのだろう。
しかし、この問題を取り上げ動画にするということは何かしらあるわけだが……。
まずはタップして概要欄を見るとここ数ヶ月前のものだった。
誰かがこのユーチューバーに情報を売ったような形か。
それならば、週刊誌とやっていることは変わらない。
ただこのユーチューバーに好感を持てたのは、不確かな事実であることを大前提だというテロップを常に表示しているところ。
切り取りが流行っていた当初、無断転載を許す人たちもいたけれど、このユーチューバーはそれを許していない。万が一に備えて、このテロップを貼り続けているのかもしれない。
一通り動画を見終えた。エンタメとしても事実としても十分楽しめる内容だった。
このチャンネルの登録者数とは合わないほどに面白い。
「されど、エンタメ」
思い直す。
そもそも彼らは、ユーチューバー。父さんは、芸能界にもいた小説家。
エンタメとして利用されるのは父さんもわかっていたはずだ。
命が死んでから三年。
売れるための道具に成り変わった父さん。
これが表に立った人の末路なのだろうか。
父さんがなりたかったものはこんなもので、こんな結末のために小説を書いていたのか。
マイノリティをテーマにしてきた人間とは思えない雑な終わり。
小説家の死もまたマイノリティとして描くのなら、僕は適任だろう。
だが、それでは今見た動画のユーチューバーたちと同じ。
こんなものたちと同列にいたくない。
エンタメの中で不愉快なのは人の死を利用したものだ。それを感動だとか自殺は良くないと訴えかけるとか、それこそこの動画のように不謹慎なネタを全世界に晒すようなこと。
どれだけこの不謹慎な奴らに心を抉られてきたのか。
『今、どんなお気持ちですか?』
母さんと一緒に家に帰っていたとき、父さんの死を知ったマスコミが家の前でマイクを構えて待っていた。
特ダネとも言えるほど人が溢れていて、警察を呼んでマスコミの対応をさせた。
その刹那に聞こえたあの忌まわしき言葉。
ぶっ殺してやりたいほどに殺意が湧いた。
命の軽んじているのは、こういうカメラを向ける悪魔たちだ。
母さんは急ぐように僕を家に連れて帰った。
テレビで報道されて、後ろ姿が惨めに映るだけの僕と母さん。
まるで悪者のようで滑稽な様。
とても気持ち悪かった。
あれからもう三年、ここまでエンタメとして楽しむことになるとは思わなかった。
僕は、人の心を失ってしまったのだろうか。
自分の父親が死んでネタにされているというのに。
あの当時の僕なら、このユーチューバーのコメント欄に必死になって誹謗中傷をこれでもかと書いていただろう。
誹謗中傷を書かれてきた身としてやり返すくらいしてやりたい。
ただ、まぁ、暇じゃない。
暇さえあればそれくらいしただろうけど、今の僕は父さんの死の真相を知りたいのだ。
風呂場で考え事をしたせいか、頭がクラクラする。
風呂から出て着替えて髪を乾かし、水を飲む。
それでもクラクラするので、美苗に寝ると伝え部屋に到着するなり愛香の言葉を無視して眠ることにした。
目が覚めると顔を覗く愛香の姿。まるで猫に顔を覗かれたような気分だ。
彼女の手が額にあたる。
「……」
気まずさに目を閉じる。
彼女の手が冷たい。まるで死人のよう。
あの時の父さんの体も冷え切っていた。
「熱、ないみたいだね」
「……熱?」
何を言いたいのか分からず尋ねた。
「昨日、部屋に来るなりばたりと倒れるように眠ったので」
「まるで小説のようなセリフだ」
朝から頭を使わせないでほしいと内心毒を吐く。
「だって、私が寝床として確保していたところに眠ったんだよ?驚きだよ」
「まさかそんなわけない」
キョロキョロと見渡してみてもそのあたりには僕の荷物ばかり。
「嘘つくのやめよ?」
寝転がっているままでは良くないと立ち上がる。
歯を磨きたい。
「嘘じゃないよ!ほんと!私に体を預けるようにしちゃってさ!可愛かったんだよ!」
聞けば聞くほど、もしも仮に自分がそんなことをしてしまっていたらと恥ずかしくなって部屋を飛び出した。
後ろであぁ!と聞こえたけれど、平常心を保つため真顔で歯を磨いた。
「あら、もう昼だけこの後どこかに行くの?」
美苗が洗面所の扉を開けて聞いてくる。
うがいを済ませると。
「浜名湖に行ってみたい」
五作目と六作目の違いについて考えたい。
「浜名湖?」
口周りを拭く。頷くと口をひらく。
「五作目は浜名湖を巡っている描写があって。六作目は海に行く描写がある。モデル地はどっちも浜松。どんな違いがあるのか知りたくて」
「あんま、わかんないけど。浜名湖って思ってるよりも広いし、どの辺がいいの?」
「赤い橋があるところ」
「浜名湖バイパスの方にもあるけど」
「……あの、駅が近いらしくて」
「どっちも駅近いわ」
「神社が近いはず」
「バイパスの方かしら」
「でも、天浜ってやつがあるらしくて」
「じゃあ、バイパスの方じゃないね」
「どの辺?」
二つ以上候補が上がるとは思わなかった。天浜ってやつがあるらしいのでそっちに行きたいけれど、あるのだろうか。
「天竜浜名湖鉄道は、天竜のほうよ。駅で行ったら多分、気賀駅の方」
「車を……」
前に手を合わせてお願いすると美苗は許してくれた。
「それより、昼過ぎに起きてくるなんてどういう生活をしているのかしら」
手元にスマホがなくて、美苗がスマホの画面で時間を見せてくれる。
とっくに十三時を回っていた。
これでは、不登校だということがバレてしまう。
「あ、いや、ちょっと、うん。まぁね」
「すぐに昼ごはん食べてちょうだい」
「はい……」
昼飯を食べていると上から愛香の声が聞こえてくる。
何かセリフを言っているみたいでそれが演技の練習だということは遅れて気がついた。
主演が決まっているから頑張っているようで見習いたい反面、やりたいことがない。なりたいものもない。
「愛香ちゃん、頑張ってるわね」
美苗がそういった。
「ドラマに出るみたいなんで」
「あれだけ可愛ければ出れるわよ」
「すごいなぁ」
お茶を飲み、米を食う。
関心以上のものはなかった。
「あなたは?ドラマにでも出てみればいいのに」
「この顔じゃ無理。芸能界って顔だから。スタバみたいなもん」
「そう聞くと、行けそうじゃない?」
「ほらやっぱ、顔はゴミなのよ」
米をいっぱいに頬張る。
「そういや、愛香は昼、食べたの?」
「とっくに食べた。一時間前に」
「……」
「オーディション、受ければ?」
話を逸らしたというのに、話を戻す美苗。許さない。
「子役には勝てない」
「勝つためにやるの?」
「勝つためにって……、何かやる時ってみんな誰かに勝ちたいって気持ちばかりじゃん」
例えば、運動会のリレーだってこの人には勝ちたいとかシャトルランで友達に勝ちたいとか。
「それは、学校だけよ」
「……社会は?」
学校以外に思いつくものが社会しかない。
だけど、広すぎる括りに自分では答えが出なかった。
「自分に勝ち続けなければならないの」
「……自分に?」
考えたこともない問いに考えもしない答え。
自分に勝つとは一体何を示しているのか。
「考えてみればわかるわ」
「そんなの……」
今すぐに思いつくものじゃない。
「ばあちゃんは、自分の何かに勝ってきたの?」
語尾を言うよりも先に、食べ終えた皿をキッチンに入れて食器を洗い始めた。
食卓に残っているのは、お茶の入ったコップだけ。
聞こえていたのか、聞こえていないのか。
逃げ出すわけでもなくサッと動かれてしまっては、どちらなのか分からない。
人にすぐ答えを求めるのは良くないのだろうか。
自分に勝つとは、精神的なものだろうことはわかる。でも、それが何を示しているのかまるで理解できない。
例えば、トラウマを持っているのなら、克服するべきだと言う人がいる。それは戦って勝つことになるのだろうか。では、負けては行けないことなのか。
トラウマなんて克服できなくてもいい。生きづらいだけ。だけど、逃げてしまえばいいことなんてたくさんある。
この例えが極端なら、いじめはどうだろう。
いじめで勝つにはどうするべきだろう。戦うと言ったら先生に伝えるのか?伝えたって助けてくれる人はいない。先生は面倒だからと協力しない。助けようなんて思わない。一人で戦おうと殴ったらどうだろう。暴力を振るったと悪くなるのは自分だ。
逃げてしまえばいい。そうしたら、助かる。命は救われる。
だから、今、この命はここにある。
それも全部学校だからなんとかなっているのだろうか。
だとしたら、愛香のいる芸能界、社会はどれだけ精神的に苦しいものを抱えて勝ち続けているのだろう。
僕は、社会から見れば何も背負わぬ敗北者なのだろうか。
こんなに苦しいのに?
父さんが死んでからマスコミやユーチューバーやらが僕の顔をとってネットやテレビで晒したのに?やめてと訴えてもやめない奴らに吊し上げられたのに?
変わらず、苦しい日々なのに学生だから何も知らないと、戦っていないと思うのか?
民意は悪でそれに戦う社会人は、一体何を手にして戦う?
ナイフか?鉄バッドか?
社会で使っていいものを使うのか?
弁護士?……全部、母さんがやってくれてる。
開示請求もマスコミへの慰謝料もユーチューバーのアカウント消すことも全部やってくれている。
なら、子供にできることは何?
逃げることしかできない子供に何ができた?
戦うのは大人たちで、従うのは子供。
主従関係は良好。
愛香は親という主人の言葉聞いて芸能界に行った。従っただけ。
彼女を守ってくれるものは誰?やはり親?
まだ未成年の彼女の心を誹謗中傷から守ってくれるのは事務所だ。
子供は守られるべきもの?
では、そんな守られてきたものたちは大人になった時、何を手に持って戦うのだろう。
就職するか進学するかを決めなければいけない時期。
就職するなら、手に才をつけなければならない。
大学行くにしても学ぶべきことが多すぎる。
……子供は守られている間に学んで活かして、生きるバネにしないといけないのか?
怠惰に過ごしていてはいけない。
そうわかっているのに、僕には何かしたいものもなければ、やりたいこともなくて。
父さんの死で一杯一杯の僕は、また逃げることしかできなくて。
それがまたいじられていた頃のように自己嫌悪に陥ってしまう。
一つ理解できたからといって、それを行動に移してすぐに成功できるほど僕は優れていない。
だから思う。もっと真面目に生きていたら、もっと真剣に人と向き合っていたら。
いじめもなかったかもしれない。父さんの死を直前に止められたかもしれない。
今更無理なものは、願っても叶わない。こんな弱い自分には敵わない。
どうしたらいいのだろう……。
お茶を飲むと美苗は車を出すよと言ってくれた。
愛香も気分を変えたいとついてきた。
気賀駅におろしてもらうと美苗は車で待ってるとついてくることはなかった。
「愛香も無理についてこなくてもよかったのに」
「付き合ってって言ったのはあなたなので」
「そうだね。いい飯屋とかこの辺ありそうだし行けばよかったのに」
「あんまり食べすぎても良くないので」
「大変だな。体型維持」
「ちょっと!」
肩を叩いてくる彼女は少し怒っていた。
仕事のこともあって気にしている部分だったのかと素直に謝る。
「最近デリカシーがないよ」
「最近久々に会ったばかりだから、ずっとデリカシーがないわけか」
「よくわかってんじゃん」
最低だったのか、僕は……。最低……。最低……?
「最低だとか言ったってあなたはそれが」
歌詞のフレーズを言い終える前に腹パンを喰らった。
スマホの地図アプリで位置を確認するとそれは案外すぐそこにあった。
「ここか」
昼間に見るその景色。
車は通れず自転車や徒歩だけが使える橋のようで、このエリアはツーリングなんかによく使われるらしい。
浜名湖が見えるこの景色の中、五作目ではヒロインと主人公が二人で冬に飛び込んで死んだ。二人は愛を誓い死の先の世界で永遠を手にする、物語。二人には二人にしか理解できないものを選んだことが少数派だというのか。
あまりにも重いので内容に触れたくはないけれど。
しかし、ここから落ちたとしてもだいぶ浅そうに見えるのは気のせいだろうか。
「もしさ、この作品のように自殺するってなったら、愛香はどうする?」
「……死にたくないんだけど」
「そうだよな。この夏じゃ飛び降りたって死ねない」
水かさが増しているわけでもないのだから、溺れることもないだろう。
「五作目だっけ?」
「そう。浜名湖で自殺する二人を知ったら何かわかるかなって」
学生の二人ならわかること。でも。
「愛香は、大人、だろ?手っ取り早く父さんの死についてもわかるかなぁって。ほら、父さん、自殺だし」
「…………」
隣にいた彼女は、僕に目をやる。気づかないふりして言葉を待つ。
なんだか酷い質問をしているみたいで向き合うことができなかった。
「私は……、まだ、学生だよ……?なんで……そんなこと聞くの?」
「……」
彼女の手が僕の腕に触れる。
「私のこと、大人だって思ってみてたの?」
「……」
「私は空がいるから、学生だって、女の子だって思えたのに」
物語が都合よくいかないのは、わかっていたけれど。
現実もまたそう簡単には前に進まない。
美苗も愛香も隠していたいことがあって、隠していたから言えないことがある。
気づかないふりして、触れてしまえば、お互いの思いの違いに苦しくなるのだろう。
社会を知っている彼女は、いつか『金のためだけに何かになりたいって思わない』僕に高校生らしいと言った。
とっくに大人になり始めている彼女だから、学生とはまた違う括りだと考えていた。
働いて得た金を持っている彼女がどうして学生だと、女の子だと思うのか。
「……それは」
「ごめん、忘れて」
ピシャリと彼女は切り込む。
僕の言葉は待っていないみたい。
前に進まなかった僕とひたすら前に進んでいた彼女とではお互いを思う気持ちが違った。二度も言うのは、僕が思っているより衝撃を受けているからなのかもしれない。
「少し……ひとりにさせてよ……」
彼女の気持ちを汲んで、首を縦に振った。
今まで面倒だと向き合ってこなかったつけが回ってきたような、そんな気がした。