父さんは死んだ。
その事実から、三年が経つ。
二年生の冬。
進学か就職か考えなければならない歳になった。
当たり前にあったその日々が消えること。
それがどんな意味を持つのかなんて僕にはわからない。
だけど、失ったという事実だけは理解していた。
あれから食卓についても目の前の席は空いている。
おはようと声をかけてくれる低い声はもうそこにはない。
それらを失ったのだ。
誇れる父親。憧れる父親。いつかなりたい父親の姿がもうそこにはない。
命を捨てた父親の姿に誇りも憧れもない。
今まで見てきた全てが偽物に見えるくらいに嘘で塗り固めたい。
捨てるはずないと思っていた命を捨てた。
あの日、どんな思いで薬剤多量摂取をしたのか。
流行語的に言えば、OD(オーバードーズ)。
お酒が弱い父さんは、普段からお酒を控えていたが、度数の強いロング缶のお酒を四缶ほど飲んでいた。
流れを考えてみれば、お酒を飲んで、酔った勢いでODしたようにも見える。
そんな自傷、父さんがするだろうか。
テレビで見る姿も居間で見る姿も変わらぬ彼が、愛する妻を捨てて身を捨てた。
「空。進路、どうするの?」
低層マンションの一室、リビングを少しいった先にある僕の部屋に母さんが来た。
母さんは、僕が部屋で何をしているかも考えずズカズカと入ってくるので足音に耳を澄ませないと最悪なことが起きる可能性がある。デリカシーがないのだ。
「決めてない」
綺麗な顔立ちをしている母さんは、父さんと出会う頃、アイドルをやっていたらしい。
当たり前に綺麗な容姿が並ぶアイドル業界にいたせいなのか、母さんは、僕の買ったアイドル雑誌を不満そうに見ることがある。
「決めてないって、もう三年生でしょ」
ありきたりの職に着いている両親ではないけれど、きっとどこの家庭とも同じような家庭を築いている。
だけど、一つ違うのは父親の自殺。
「じゃあさ」
何度も言ってきた言葉をまた告げてみる。
「芸能界に入るって言ったらどうするの?」
芸能界は基本的に事務所に所属することで、タレント業や俳優業の仕事ができる。
しかし。
「もっと真面目に考えなさい」
母さんはいつも通り、ため息をつきながら部屋の扉を閉めた。
僕は知っている。
父さんが亡くなってからまだ一度も涙を流したことがない。
きっと母さんも父さんの死に納得できていない。
葬儀を行い、墓も建てたけれど。
行動に移したところで、現実を受け入れられないことはたくさんある。
今までもそうだったように。
小学生の頃、いじめに遭うなんて思いもしなかっただろう。
ちょっと家庭の事情が違うくらいで周りの当たりが変わるなんて思いもしなかっただろう。
だから、母さんは真面目に考えろと言うのだ。
いじめの事実を知っているから。
真面目に考えれば、芸能界は恨むべき悪で、一般人からしてみれば一般の職に就くことが正義である。
一般人と同じ生活をすれば、いじめに遭わなくていい。
心をすり減らすことはない。
他にも今まで記者が突撃してきたこと、メディアが顔を撮りにきたことも多くあった。
そんな社会で生きなくていい。それもまた母さんは伝えたいのだ。
ただこの家は窮屈だ。
セキュリティが完璧で広い部屋のあるマンションだからこそ、大きな害もなく生活してこれた。
だけど、空気が悪い。
それが、父さんの死のせいか、この家の換気のせいか。僕にはわからない。
玄関で靴を履いていると母さんが声をかけてきた。
「どこにいくの?」
「ちょっとそこまで」
「まだマスコミとかいると思うから」
「母さん」
通信の学校にも行けていないじゃない、と言われる前に言葉を被せ、苛立ちを隠すために下を向く。いつだって僕が見てきたのは地面だ。いじめられていたあの頃も情けなく下を向いて嵐が去るのを待つ。
「三年、経ったんだよ」
もう大丈夫、そんなふうに伝わっていたらいい。父親の死という衝撃の嵐が去ったことにしてしまえばいい。
「……」
だけど、そう思われるわけもなくて、不安そうに見つめてくる母さんの姿。この嵐が去ることはないのだろうか。
「コンビニ行くだけだから」
と嘘をつく。
「でも」
言葉を聞かず鍵を持ち、家を出る。
鍵を持っていないとすぐに家に帰れない。
マスコミが玄関先までやってきて部屋番号を知ろうとするのはよくある話。
だから、鍵を使って部屋番号を知らせない。マスコミの行動すらもスルーする。
遠くにいるマスコミが知ろうと思っても無理なのだ。
フロントから出れば、怪しげな車も木陰に隠れる人の姿もない。
そうだ、あれから三年が経った。マスコミや記者にとって父さんの死はゴシップの一つに過ぎない。
もう誰も父さんの死を追求しようとするものはいない。
命は、いつか誰からの目も向けられず消えていく。心にも残らない。あの頃はあんなに心ここに在らずだったのに。
心にも残らなくなった時が、本当の死のように思う。
僕だけが忘れない。忘れてはいけない。父さんを死なせない。
愛してくれていた父さんを忘れることはない。
コンビニに寄って、炭酸水を買う。
刺激を求めるようになったのは、父さんの死後だったように思う。
喉への刺激が欲しいのは、父さんのことを思い出して、涙を流すことがないように、嗚咽が漏れないように。強炭酸の痛みで忘れてしまえるように。
これからもずっと同じことを繰り返すのだろうか。
コンビニを出ると見覚えのある人影。
「空?」
先に気づかれてしまって、逃げる猶予もなかった。
「愛香……、久しぶり」
渡瀬愛香は、幼馴染で生まれた時から同じマンションに住み、中にある広場のようなところで遊んでいた思い出がある。
彼女の母親もまた芸能界にいる人間。父親は、大手の企業に勤めるエリート。
「久しぶり!最近全く会ってなかったよね!どっか行こ!」
テンションの高さに吐きそうになる。
母さんと言い合った後に愛香と会うのはジェットコースターに乗った時のような気持ち悪さがある。
あんな乗り物誰が乗るんだ。久々の再会は最悪だ。
「コンビニ行ってきた帰りだから。じゃあね」
彼女の横を通ると手首をガシッと掴んでコンビニに連れ込む。
レジの応対をしてくれた大学生の女の子が不思議そうに見ている。恥ずかしいことこの上ない。
「ちょっと奢ってよ」
「嫌だ」
「お願い」
上目遣いに強請ってくるこの悪党。
甘ったるそうなドリンクを指差す彼女の頭を小突いてやろうかと思うが思いとどまる。
「なんで?」
「いいじゃん。久々の再会」
「……」
「だめ?」
「わかった……」
女子の押しに弱い僕は根負けした。
ドリンクを手に取りレジに向かう。
先ほどの女の子が交互に僕と愛香を見やるが決してそう言う関係ではない。
電子決済で済ませて外に出る。
暑さを感じぬ夏の夕暮れ。
薄着の僕とダボっとしたパーカーの彼女。
「芸能界、どう?楽しい?」
話題もないので適当に聞いてみた。
彼女の母親が芸能界の人間ということで彼女もまた芸能界に連れて行かれたらしい。
子の人権はないのだろうかと思う。
「楽しいよ。でも」
「……でも?」
言い止まる彼女。
子供の頃から役者をしている彼女は芸歴が長いゆえ、苦悩もあるのかもしれない。
その気持ちを理解するには決して安易に言葉を発せない。彼女を理解できる人はいるのだろうか。
「テレビドラマ決まったんだけどさ」
「……」
祝いたかったが、接続詞が否定だったため黙って二の句を待つ。
「………ねぇ、祝ってよ」
怒ったようにいうので混乱する。今しがた悩みがありそうだったから待っていたのに。
「お、おめでとう」
「ありがとう」
満面の笑みでいう彼女に恐れを感じる。
芸能界の女というよりこの女が怖いのだと思う。落ち着くために炭酸水を口に含む。
「でさ、キスシーンがあるみたいなの」
口に含んでいた炭酸水を盛大に噴き出す。
汚いことをさせた彼女を決して許したくない。
「そ、そっか。恋愛ドラマ?」
「そう。でも、嫌なんだよね」
「なんで?今までの努力が報われたんじゃない?」
子役として売れた彼女は、芸能の仕事と並行して高校受験を合格。僕とは違い、偏差値の高い学校に進学した。
それでもなお勉強と並行してドラマのオーディションを受けているとなると優秀なはず。
「嫌だよ。キスだよ?もっと私の気持ちを考えて欲しいのに」
「……ご両親は?」
「喜んでた。これで売れっ子俳優になれるって」
「……ひどいな」
いろいろ面倒なので共感した。
「でしょ!?私、まだキスしたことないよ」
「……」
ふれぬ神に祟りなし。落ち着かせるために炭酸水を口に含む。さっきより多めに。
「そうだ、キスする?」
またも口に含んでいた炭酸水を吹き出してしまう。この女……。
「何、興奮してんの?」
「違う!それは違う!断じてない!」
「ひどい……」
そこまで言わなくてもいいじゃんと言いたげだ。
最近女子と会話をしていなかったせいで面倒臭さを今更思い出す。
「じゃあ、逃げ出す?僕と一緒に」
キザなことを言ってみた。気持ちはない。
「嬉しいけど」
嬉しいのか……。気持ちを込めればよかった。
「撮影は?いつから?」
「再来月末から」
今が六月の末だから八月の末ということか。
「芸能界って貞操観念とかないのかな」
口を尖らせる彼女。
「ないでしょ、あんなのない方が良かったんじゃない?」
「役者でもないくせに」
「……」
確かにそうだ。
彼女と違って僕は芸能界の人間でもなければ、父さんのような小説家でもない。ましてや、インフルエンサーでもない。
ただ父さんの子に生まれただけ。僕自身、何かを持っているわけじゃない。
そして、何者かになりたいとも思っていない。
愛香のように俳優、父さんのように小説家。なってしまえば、あとは終わりを待つだけ。
母さんは、役者でもやらせるべきだと言っていたけれど、断った。性に合わない気がした。芸能の人間はすぐに芸能界に連れて行きたがる。自分の子をどうしたいのか考えてみても大した答えは出ない。
「愛香は、やらされてんの?」
「それは……」
「なのに、ここまで続くんだ。すごいね」
皮肉を言っているように感じて、自分自身が嫌になる。
普通に褒めればいいのに。
「褒めてないでしょ」
褒めてないし……。
「やりたいことやればいいじゃん」
「他にないよ。……空は、やりたいことあるの?」
「……ないね。何者にもなりたくない」
「お父さんのこと?」
「…………」
愛香も当然、父さんの死は知っている。葬儀にも参列してくれたくらいの仲だから。
「ごめん」
「…………例えば、何かを得て、時間を経て、失う。それが嫌だ。人は死ぬ。その瞬間に今まであったもの全てが消える。あの星のように」
夕空に指をさす。
「見えないけど……」
重い空気を作りたくなくて夕暮れに指をさしたけれど、伝わったみたいで安堵した。
生前、父さんの父親、僕の叔父は亡くなった。金だけが残った。
死後、父さんの姉は、亡くなった。そしてまた、金だけが残った。
今残っているのは、父さんの母親、叔母だけ。
「残るものが金だけなら、いらない。金のためだけに何かになりたいって思わない」
「高校生らしい考え方だね」
俳優という仕事をしているから高校生とは少し違う立ち位置にいると思っているのかもしれない。
「愛香も高校生じゃん。貞操観念とか言い出して」
所詮は同学年。感性までは変わらない。
「……それは」
「同じようなものでしょ」
何かになるためにお金がかかる芸能界、そんな世界に入りたくない。嫌な噂はたくさん聞くのだから。
「違う。じゃあ、空は、今ここで仕事の人とキスなんかできるの?」
彼女は本気で拒絶しているのかもしれない。恋だの愛だの考えるお年頃では、嫌に思うのは当然なのかもしれない。
「仕事なら」
だけど、僕にはわからない。仕事なら仕方ないのではないだろうかと思う自分もいる。それは仕事をしたことがない無責任な人の言葉だったりするのだろう。
「……嘘だよ。そんなの」
彼女は仕事を知っているから、理解してくれない僕の肩を軽く叩くのだろう。
「…………」
「経験もないくせに」
「…………」
キスの経験があったらそれはそれで怒りそうな彼女だけど経験あると言っていいのだろうか。
「逃げ出しちゃおうかな。どうせ、親のコネとか枕営業とか言われるんだし」
SNSなどでないことを大々的に伝える人たちがいれば、精神的にも辛いだろう。
「……嫌な世界だな」
だから、死にたくなるのだろうか。父さんは死にたくなったのだろうか。
不名誉な陰謀論の的に父さんがなっている今。
芸能界は、本当に陰謀なんてものがあるのか。
汚い世界だと嫌うくせに、その世界はどう見ても輝いていた。自分もいつかあの主人公のようになりたいと父さんは思ったのだろうか。
そうして汚れていって死んだのか。知りたいけど知ることができない現在。
「あぁー、どっか行きたい」
ボソッとつぶやく彼女。軽く笑う気にもなれない。
どっか、遠くに行けば、何か知ることはできるのか。
例えば……。一つだけ遠くで知ることができる可能性が見えてきた。
「なぁ……、出かけないか?」
「そんな、止めてよ。正気でいさせて」
彼女の言葉に耳を貸す余裕なんてなかった。知りたい、その気持ちが今、僕の心を動かしていた。
「父さんの死んだ理由、知りたいんだ」
彼女を見やると呆気に取られていた。
「空は、知ってるんだと思ってた……」
「全く知らない。だから、ずっと考えてた。どうして死んだのか。あの全盛期とも言える環境下で、結婚して祝福されて、死んだら悲しまれるような父さんが……。答えを知りたい。母さんも僕も時間が止まったまま」
なぁ。
「一緒に逃げないか?出かけないか?遠くに行ってしまわないか?」
これが正しい答えにならなくとも。
「僕と、居場所を作りませんか?」
静かに微笑む彼女は、同意を示してくれているように思えた。
「しょうがないなぁ……スケジュール空けなきゃね!」
なぜだか嬉しそうに見えた。
「ありがと」
素直に感謝を伝えた。
どうして、彼女が僕の提案に乗ったのかわからない。
だけど、逃げ場があるという環境が彼女を同意に導いたのかもしれない。
家に帰ると母さんが座るソファに向き合って正座する。
様子のおかしな子供に訝しむ母さん。ごもっともだと思う。
「浜松に行きたい」
開口すぐに田舎に行きたいだなんていう子供の言葉を誰が聞き入れるだろうか。しかも静岡県の田舎だ。
「……は?」
かろうじて反応できたのは、仕事で培ってきたトーク力だろう。顔にはなんで?と書いてある。
「父さんの地元に行きたい」
「……」
仕事で培ったはずのトーク力が機能していない様子。
「ずっと考えてた。父さんが死んでから、なんで死んだのか。自分で探したい。知りたい」
「でも、わざわざお父さんの地元に行く必要はないんじゃないの?」
「あると思う。父さんの気持ちを知るには、小説だけじゃわからない」
今まで何十回も父さんの小説を読んできた。だけど、
「知らないことばかり。アニメみたいに現地に行けば、空気感や感情をそのまま理解できる気がするんだ」
「……何を」
「小説の中にも浜松は出てくる。モデルにするくらいの何かがあると思うんだ」
「……」
「浜松に何もなかったらそれはそれでいいと思う」
実際の父さんの感情を僕は知らない。
「知ろうとする前向きな気持ち、受け取ってほしい」
「……一人で行くの?」
「愛香が一緒に行くって言ってくれてて」
「あの子、ドラマ決まったんでしょ?忙しくなるのに何してるの」
「あれ、知ってるの?」
「あなたがLINEに既読もつけずに無視ばっかするから私にきたの」
急いでスマホを開きLINEアプリを見る。通知が数十件と溜まっていた。
「……」
「まぁ、愛香ちゃんがいるなら心配ないわ。お父さんの母親に連絡してみるわ」
ため息をついた母さんはそれとと付け足した。
「知りたいこと知れたら帰っておいで」
上手くことが進んでよかったと安心した。
一週間後、彼女はスケジュールを確保できたと報告を受けた。
母さんに伝えるともう知っていると告げられた。
父さんの母親にも許可は取れたみたいで浜松に向かうための準備を進めた。
出発当日、七月の一週目の終わり。いつもより早く起きて顔を洗い、歯を磨き、コンタクトをつけ、リビングに向かう。
リビングでは母さんと愛香が楽しそうに談笑していた。
「……いや待てよ。なんでいるんだ」
「くるの遅いから、待ってた」
「いや、え」
集合場所への到着時刻はまだ先のはず。
「空が愛香ちゃんを誘ったんでしょう?ちゃんとしてちょうだい」と、母さん。
「ちょっと待って」
まさか全部教えているのか。
「くると思ってなかった?」
「思うわけない」
愛香の行動に驚きを隠せない。
「ひどい」
悲しそうな顔をするな、やめろ。
「ま、わかるよ。こんな出来損ないの女、嫌いだもんね」
えー……。めんどくさ……。
「あれ、嫌いなのにどうして誘ってくれたのかな?」
答えてと言わんばかりに指をさす彼女。本当にめんどくさい。
「でも、ありがと。おばあちゃんにも連絡してくれて」
無視して母さんに礼を言う。不服そうに頬を膨らます彼女から目をそらす。
まさか、学校も行かずに引きこもってばかりの僕の願いを聞くとは思っていなかった。
「空のためになるなら、と思っただけよ」
ちょっとおいで、と廊下に突き出された僕。
母さんは封筒を手渡してくる。
「何これ」
勝手に開けるとそこにはあり得ない大金が入ってあった。
言葉が詰まっていると耳元でボソッと呟く。
「愛香ちゃんのこと幸せにしてあげるんだよ」
「……っ!?」
何やら勘違いさせてしまっている様子。
「ちが、違う」
「怪我させないでね、ドラマも決まっているみたいだから」
「……」
勘違いさせたままでいいのだろうか。いいのだろう。もう、いいだろう。
「行き方はわかってるのよね?」
「ちゃんと覚えたよ。そろそろ行くから」
「うん」
愛香と外に出る。送り出してくれた母さんの表情は柔らかくて、久しぶりに見た気がした。
ずっと不安にさせていたのは、僕だった。
父さんが亡くなって、気を落としていたと思っていたけれど、理由は一つじゃなかった。
もしもちゃんと学校に行っていたなら、母さんは少し安心できていたのだろうか。
出る前に聞いておくべきだったのかもしれない。
東京駅に到着し、予約していた二人分のチケットで改札を通る。
「それにしても行ったことない場所にこれから行くってなんだか不安だなぁ」
「そう?」
僕の場合は、生前の父さんと一緒に母さんも連れて正月やお盆に会いに行っていたから不安はない。今回は一人で会いに行くというだけ。不安要素はないだろう。
「空は、なんだか楽しそうだね」
「そんなことないよ」
父さんの死の真相を知りたいだけ。楽しいわけがない。
「え、私と行くの楽しくないの?」
「……あのさ」
その返しにどう反応しろと言うのか。
「うわー」
べしべしと肩を叩く彼女。仕方なく感情を込めていう。
「わかった。楽しいよ」
「ひどい」
彼女はべシンっと肩をぷっ叩いた。暴力的な女性だ。
なんて言えばよかったのか……。
「とりあえず、弁当でも買って行こうか」
「いいね!行こいこ」
彼女に楽しんでいるじゃないかと言いたい気持ちを抑えた。彼女にとっては旅行みたいなもの。
なんだかちゃんと見ていなかったその笑顔が可愛らしく思えた。
二人分の弁当を買い、新幹線を待つ。
「ここであってるの?」
「うん、ここ」
駅の番線はあっている。
「でも、さっきの新幹線行っちゃったよ?」
「あれは違う。予約した新幹線の方が早くつく」
「なるほど……」
全く理解していなさそうな反応だった。
「外ロケで新幹線使わないの?」
「外ロケは、全部親に任せてたのでなんも知らない」
お嬢様か何かかと思うほど無知なんだと知った。
「それよりあなたのお父さんの本、結構重たい作品が多いよね。人死んじゃってばかり」
突然、話題を変える彼女。スマホ画面を見せてくる。その画面には父さんの作品が出ていた。
「え、買ったの?」
電子版書籍は、大抵買わないと読めないし、サンプルはほとんど読めない。サブスクがあるわけでもない。
「わざわざ買わなくても家にたくさん置いてあるよ」
「いいの、読みたくて買ったんだから」
「そうか」
「嫌な性格の親だったり姉だったり兄だったりって。人間性を描いたドラマみたい」
「売りがそれだよ、しょうがない」
「その割に復讐ものは書かなかったんだね」
あれだけ嫌なキャラクターをかけるのなら復讐ものを描くことは可能だったはず。
「あー、確かに」
複数の出版社で書いてきた父さんの作品は、大人向けのものが大半で、高校生にはまだ早そうなものまである。
年齢制限があるわけじゃないから、誰でも簡単に読めるわけだけど。
「マイノリティをフォーカスして書いてるって言ってた」
「少数派のための作品?」
「どうなんだろう。父さんが少数派の人間には見えないんだよなぁ」
「……日の目を浴びるようになった作品ってこれだよね」
またスマホ画面を見せてくる。『その先にあるもの』この作品は、SNSの利用でファンが増え軌道に乗ったあたりに出版されたもの。今までも数万部と売っていたものが数十万部と売れて、今現在は、数百万部を突破した唯一の傑作である。
しかし、マイノリティを意識したようには見えない。
「この作品は、一番胸糞悪い姉が出てくるよね」
「全部読んだの?」
「読んだよ。あなたの助けにもなりたいから」
突然そんなことを言うものだから呆気に取られる。
「……ありがと」
「素直だね」
かろうじて言えた言葉を彼女は嬉しそうに返した。
「はいはい」
恥ずかしくなって適当に相槌を打つ僕はもっと恥ずかしいことをしている。
新幹線が来て、指定席に乗る。
窓の席を譲ると彼女はそこに座り弁当を広げた。
「『その先にあるもの』ってさ、売れるのもわかるくらい後に残るよね」
「僕も最初読んだ時は、驚いた。本当に憎まれているのは自分だったって主人公が敵だったとは」
「後に出る作品の姉は疑っちゃうもんね」
「よくない現象が起きて、また話題になった」
次回作への期待値は予想を超えるほど上がっていったらしい。
「現在進行形でこの場にいたらその話題を楽しめたと思うんだけどなぁ」
「そうだよな。まだまだ続く気がした。僕が生まれてからもずっと書いていたわけだから」
「その頃にはもう、テレビ出演とか多かったよね」
「何度か共演してたっけ」
彼女が子役の頃、父さんと共演したことで僕らは出会った。
「役者の面もあるって大変」
小説家で俳優で、タレント、他にもありそうな面はその先増えることなく死んでいく。
最初こそはキャパオーバーで耐えられなくなったのかもと考えた。
だけど。
「どれもやりたいことをやってるんだもんね。すごいよ」
愛香はいう。
父さんは、生前インタビューでもバラエティ番組でもやりたいことをやっているからと笑っていた。
それは僕らの前でも同じ。
「愛香だったら、それだけできると思う?」
「できない、無理。死んじゃう」
「そうだよな」
「助けて」
「……」
またでた。
「ねぇ」
「はいはい」
肩をポンポンと叩き助けた感じを出す。
睨みを効かす彼女に怯えると肘打ちを喰らった。
幼馴染だと男女という壁を感じない。
だからこそなんでもできるのかもしれないと思った。
もはやコントだ。
弁当も食べ終えるとあと一駅となった。
「空はさ、小説家とかやらないの?」
「やらないかな」
「なんで。できるかもしれないじゃん」
「頭悪いんで、伏線とか回収できない」
「……」
納得されている。
「否定してくれる?」
「だって」
授業を全く受けていないじゃんと言いたげだ。
「はいはい、わかりましたよ」
どうやら僕らはまだコントをしているようだ。
しかし、目的地には到着したようで。
「ついたぞ」
駅を降り改札を出る。涼しい空気が外を包む。
何も言わずに死んでいった父さんの故郷。知りたいことのきっかけになり得るはずの場所。
「浜松に」
その事実から、三年が経つ。
二年生の冬。
進学か就職か考えなければならない歳になった。
当たり前にあったその日々が消えること。
それがどんな意味を持つのかなんて僕にはわからない。
だけど、失ったという事実だけは理解していた。
あれから食卓についても目の前の席は空いている。
おはようと声をかけてくれる低い声はもうそこにはない。
それらを失ったのだ。
誇れる父親。憧れる父親。いつかなりたい父親の姿がもうそこにはない。
命を捨てた父親の姿に誇りも憧れもない。
今まで見てきた全てが偽物に見えるくらいに嘘で塗り固めたい。
捨てるはずないと思っていた命を捨てた。
あの日、どんな思いで薬剤多量摂取をしたのか。
流行語的に言えば、OD(オーバードーズ)。
お酒が弱い父さんは、普段からお酒を控えていたが、度数の強いロング缶のお酒を四缶ほど飲んでいた。
流れを考えてみれば、お酒を飲んで、酔った勢いでODしたようにも見える。
そんな自傷、父さんがするだろうか。
テレビで見る姿も居間で見る姿も変わらぬ彼が、愛する妻を捨てて身を捨てた。
「空。進路、どうするの?」
低層マンションの一室、リビングを少しいった先にある僕の部屋に母さんが来た。
母さんは、僕が部屋で何をしているかも考えずズカズカと入ってくるので足音に耳を澄ませないと最悪なことが起きる可能性がある。デリカシーがないのだ。
「決めてない」
綺麗な顔立ちをしている母さんは、父さんと出会う頃、アイドルをやっていたらしい。
当たり前に綺麗な容姿が並ぶアイドル業界にいたせいなのか、母さんは、僕の買ったアイドル雑誌を不満そうに見ることがある。
「決めてないって、もう三年生でしょ」
ありきたりの職に着いている両親ではないけれど、きっとどこの家庭とも同じような家庭を築いている。
だけど、一つ違うのは父親の自殺。
「じゃあさ」
何度も言ってきた言葉をまた告げてみる。
「芸能界に入るって言ったらどうするの?」
芸能界は基本的に事務所に所属することで、タレント業や俳優業の仕事ができる。
しかし。
「もっと真面目に考えなさい」
母さんはいつも通り、ため息をつきながら部屋の扉を閉めた。
僕は知っている。
父さんが亡くなってからまだ一度も涙を流したことがない。
きっと母さんも父さんの死に納得できていない。
葬儀を行い、墓も建てたけれど。
行動に移したところで、現実を受け入れられないことはたくさんある。
今までもそうだったように。
小学生の頃、いじめに遭うなんて思いもしなかっただろう。
ちょっと家庭の事情が違うくらいで周りの当たりが変わるなんて思いもしなかっただろう。
だから、母さんは真面目に考えろと言うのだ。
いじめの事実を知っているから。
真面目に考えれば、芸能界は恨むべき悪で、一般人からしてみれば一般の職に就くことが正義である。
一般人と同じ生活をすれば、いじめに遭わなくていい。
心をすり減らすことはない。
他にも今まで記者が突撃してきたこと、メディアが顔を撮りにきたことも多くあった。
そんな社会で生きなくていい。それもまた母さんは伝えたいのだ。
ただこの家は窮屈だ。
セキュリティが完璧で広い部屋のあるマンションだからこそ、大きな害もなく生活してこれた。
だけど、空気が悪い。
それが、父さんの死のせいか、この家の換気のせいか。僕にはわからない。
玄関で靴を履いていると母さんが声をかけてきた。
「どこにいくの?」
「ちょっとそこまで」
「まだマスコミとかいると思うから」
「母さん」
通信の学校にも行けていないじゃない、と言われる前に言葉を被せ、苛立ちを隠すために下を向く。いつだって僕が見てきたのは地面だ。いじめられていたあの頃も情けなく下を向いて嵐が去るのを待つ。
「三年、経ったんだよ」
もう大丈夫、そんなふうに伝わっていたらいい。父親の死という衝撃の嵐が去ったことにしてしまえばいい。
「……」
だけど、そう思われるわけもなくて、不安そうに見つめてくる母さんの姿。この嵐が去ることはないのだろうか。
「コンビニ行くだけだから」
と嘘をつく。
「でも」
言葉を聞かず鍵を持ち、家を出る。
鍵を持っていないとすぐに家に帰れない。
マスコミが玄関先までやってきて部屋番号を知ろうとするのはよくある話。
だから、鍵を使って部屋番号を知らせない。マスコミの行動すらもスルーする。
遠くにいるマスコミが知ろうと思っても無理なのだ。
フロントから出れば、怪しげな車も木陰に隠れる人の姿もない。
そうだ、あれから三年が経った。マスコミや記者にとって父さんの死はゴシップの一つに過ぎない。
もう誰も父さんの死を追求しようとするものはいない。
命は、いつか誰からの目も向けられず消えていく。心にも残らない。あの頃はあんなに心ここに在らずだったのに。
心にも残らなくなった時が、本当の死のように思う。
僕だけが忘れない。忘れてはいけない。父さんを死なせない。
愛してくれていた父さんを忘れることはない。
コンビニに寄って、炭酸水を買う。
刺激を求めるようになったのは、父さんの死後だったように思う。
喉への刺激が欲しいのは、父さんのことを思い出して、涙を流すことがないように、嗚咽が漏れないように。強炭酸の痛みで忘れてしまえるように。
これからもずっと同じことを繰り返すのだろうか。
コンビニを出ると見覚えのある人影。
「空?」
先に気づかれてしまって、逃げる猶予もなかった。
「愛香……、久しぶり」
渡瀬愛香は、幼馴染で生まれた時から同じマンションに住み、中にある広場のようなところで遊んでいた思い出がある。
彼女の母親もまた芸能界にいる人間。父親は、大手の企業に勤めるエリート。
「久しぶり!最近全く会ってなかったよね!どっか行こ!」
テンションの高さに吐きそうになる。
母さんと言い合った後に愛香と会うのはジェットコースターに乗った時のような気持ち悪さがある。
あんな乗り物誰が乗るんだ。久々の再会は最悪だ。
「コンビニ行ってきた帰りだから。じゃあね」
彼女の横を通ると手首をガシッと掴んでコンビニに連れ込む。
レジの応対をしてくれた大学生の女の子が不思議そうに見ている。恥ずかしいことこの上ない。
「ちょっと奢ってよ」
「嫌だ」
「お願い」
上目遣いに強請ってくるこの悪党。
甘ったるそうなドリンクを指差す彼女の頭を小突いてやろうかと思うが思いとどまる。
「なんで?」
「いいじゃん。久々の再会」
「……」
「だめ?」
「わかった……」
女子の押しに弱い僕は根負けした。
ドリンクを手に取りレジに向かう。
先ほどの女の子が交互に僕と愛香を見やるが決してそう言う関係ではない。
電子決済で済ませて外に出る。
暑さを感じぬ夏の夕暮れ。
薄着の僕とダボっとしたパーカーの彼女。
「芸能界、どう?楽しい?」
話題もないので適当に聞いてみた。
彼女の母親が芸能界の人間ということで彼女もまた芸能界に連れて行かれたらしい。
子の人権はないのだろうかと思う。
「楽しいよ。でも」
「……でも?」
言い止まる彼女。
子供の頃から役者をしている彼女は芸歴が長いゆえ、苦悩もあるのかもしれない。
その気持ちを理解するには決して安易に言葉を発せない。彼女を理解できる人はいるのだろうか。
「テレビドラマ決まったんだけどさ」
「……」
祝いたかったが、接続詞が否定だったため黙って二の句を待つ。
「………ねぇ、祝ってよ」
怒ったようにいうので混乱する。今しがた悩みがありそうだったから待っていたのに。
「お、おめでとう」
「ありがとう」
満面の笑みでいう彼女に恐れを感じる。
芸能界の女というよりこの女が怖いのだと思う。落ち着くために炭酸水を口に含む。
「でさ、キスシーンがあるみたいなの」
口に含んでいた炭酸水を盛大に噴き出す。
汚いことをさせた彼女を決して許したくない。
「そ、そっか。恋愛ドラマ?」
「そう。でも、嫌なんだよね」
「なんで?今までの努力が報われたんじゃない?」
子役として売れた彼女は、芸能の仕事と並行して高校受験を合格。僕とは違い、偏差値の高い学校に進学した。
それでもなお勉強と並行してドラマのオーディションを受けているとなると優秀なはず。
「嫌だよ。キスだよ?もっと私の気持ちを考えて欲しいのに」
「……ご両親は?」
「喜んでた。これで売れっ子俳優になれるって」
「……ひどいな」
いろいろ面倒なので共感した。
「でしょ!?私、まだキスしたことないよ」
「……」
ふれぬ神に祟りなし。落ち着かせるために炭酸水を口に含む。さっきより多めに。
「そうだ、キスする?」
またも口に含んでいた炭酸水を吹き出してしまう。この女……。
「何、興奮してんの?」
「違う!それは違う!断じてない!」
「ひどい……」
そこまで言わなくてもいいじゃんと言いたげだ。
最近女子と会話をしていなかったせいで面倒臭さを今更思い出す。
「じゃあ、逃げ出す?僕と一緒に」
キザなことを言ってみた。気持ちはない。
「嬉しいけど」
嬉しいのか……。気持ちを込めればよかった。
「撮影は?いつから?」
「再来月末から」
今が六月の末だから八月の末ということか。
「芸能界って貞操観念とかないのかな」
口を尖らせる彼女。
「ないでしょ、あんなのない方が良かったんじゃない?」
「役者でもないくせに」
「……」
確かにそうだ。
彼女と違って僕は芸能界の人間でもなければ、父さんのような小説家でもない。ましてや、インフルエンサーでもない。
ただ父さんの子に生まれただけ。僕自身、何かを持っているわけじゃない。
そして、何者かになりたいとも思っていない。
愛香のように俳優、父さんのように小説家。なってしまえば、あとは終わりを待つだけ。
母さんは、役者でもやらせるべきだと言っていたけれど、断った。性に合わない気がした。芸能の人間はすぐに芸能界に連れて行きたがる。自分の子をどうしたいのか考えてみても大した答えは出ない。
「愛香は、やらされてんの?」
「それは……」
「なのに、ここまで続くんだ。すごいね」
皮肉を言っているように感じて、自分自身が嫌になる。
普通に褒めればいいのに。
「褒めてないでしょ」
褒めてないし……。
「やりたいことやればいいじゃん」
「他にないよ。……空は、やりたいことあるの?」
「……ないね。何者にもなりたくない」
「お父さんのこと?」
「…………」
愛香も当然、父さんの死は知っている。葬儀にも参列してくれたくらいの仲だから。
「ごめん」
「…………例えば、何かを得て、時間を経て、失う。それが嫌だ。人は死ぬ。その瞬間に今まであったもの全てが消える。あの星のように」
夕空に指をさす。
「見えないけど……」
重い空気を作りたくなくて夕暮れに指をさしたけれど、伝わったみたいで安堵した。
生前、父さんの父親、僕の叔父は亡くなった。金だけが残った。
死後、父さんの姉は、亡くなった。そしてまた、金だけが残った。
今残っているのは、父さんの母親、叔母だけ。
「残るものが金だけなら、いらない。金のためだけに何かになりたいって思わない」
「高校生らしい考え方だね」
俳優という仕事をしているから高校生とは少し違う立ち位置にいると思っているのかもしれない。
「愛香も高校生じゃん。貞操観念とか言い出して」
所詮は同学年。感性までは変わらない。
「……それは」
「同じようなものでしょ」
何かになるためにお金がかかる芸能界、そんな世界に入りたくない。嫌な噂はたくさん聞くのだから。
「違う。じゃあ、空は、今ここで仕事の人とキスなんかできるの?」
彼女は本気で拒絶しているのかもしれない。恋だの愛だの考えるお年頃では、嫌に思うのは当然なのかもしれない。
「仕事なら」
だけど、僕にはわからない。仕事なら仕方ないのではないだろうかと思う自分もいる。それは仕事をしたことがない無責任な人の言葉だったりするのだろう。
「……嘘だよ。そんなの」
彼女は仕事を知っているから、理解してくれない僕の肩を軽く叩くのだろう。
「…………」
「経験もないくせに」
「…………」
キスの経験があったらそれはそれで怒りそうな彼女だけど経験あると言っていいのだろうか。
「逃げ出しちゃおうかな。どうせ、親のコネとか枕営業とか言われるんだし」
SNSなどでないことを大々的に伝える人たちがいれば、精神的にも辛いだろう。
「……嫌な世界だな」
だから、死にたくなるのだろうか。父さんは死にたくなったのだろうか。
不名誉な陰謀論の的に父さんがなっている今。
芸能界は、本当に陰謀なんてものがあるのか。
汚い世界だと嫌うくせに、その世界はどう見ても輝いていた。自分もいつかあの主人公のようになりたいと父さんは思ったのだろうか。
そうして汚れていって死んだのか。知りたいけど知ることができない現在。
「あぁー、どっか行きたい」
ボソッとつぶやく彼女。軽く笑う気にもなれない。
どっか、遠くに行けば、何か知ることはできるのか。
例えば……。一つだけ遠くで知ることができる可能性が見えてきた。
「なぁ……、出かけないか?」
「そんな、止めてよ。正気でいさせて」
彼女の言葉に耳を貸す余裕なんてなかった。知りたい、その気持ちが今、僕の心を動かしていた。
「父さんの死んだ理由、知りたいんだ」
彼女を見やると呆気に取られていた。
「空は、知ってるんだと思ってた……」
「全く知らない。だから、ずっと考えてた。どうして死んだのか。あの全盛期とも言える環境下で、結婚して祝福されて、死んだら悲しまれるような父さんが……。答えを知りたい。母さんも僕も時間が止まったまま」
なぁ。
「一緒に逃げないか?出かけないか?遠くに行ってしまわないか?」
これが正しい答えにならなくとも。
「僕と、居場所を作りませんか?」
静かに微笑む彼女は、同意を示してくれているように思えた。
「しょうがないなぁ……スケジュール空けなきゃね!」
なぜだか嬉しそうに見えた。
「ありがと」
素直に感謝を伝えた。
どうして、彼女が僕の提案に乗ったのかわからない。
だけど、逃げ場があるという環境が彼女を同意に導いたのかもしれない。
家に帰ると母さんが座るソファに向き合って正座する。
様子のおかしな子供に訝しむ母さん。ごもっともだと思う。
「浜松に行きたい」
開口すぐに田舎に行きたいだなんていう子供の言葉を誰が聞き入れるだろうか。しかも静岡県の田舎だ。
「……は?」
かろうじて反応できたのは、仕事で培ってきたトーク力だろう。顔にはなんで?と書いてある。
「父さんの地元に行きたい」
「……」
仕事で培ったはずのトーク力が機能していない様子。
「ずっと考えてた。父さんが死んでから、なんで死んだのか。自分で探したい。知りたい」
「でも、わざわざお父さんの地元に行く必要はないんじゃないの?」
「あると思う。父さんの気持ちを知るには、小説だけじゃわからない」
今まで何十回も父さんの小説を読んできた。だけど、
「知らないことばかり。アニメみたいに現地に行けば、空気感や感情をそのまま理解できる気がするんだ」
「……何を」
「小説の中にも浜松は出てくる。モデルにするくらいの何かがあると思うんだ」
「……」
「浜松に何もなかったらそれはそれでいいと思う」
実際の父さんの感情を僕は知らない。
「知ろうとする前向きな気持ち、受け取ってほしい」
「……一人で行くの?」
「愛香が一緒に行くって言ってくれてて」
「あの子、ドラマ決まったんでしょ?忙しくなるのに何してるの」
「あれ、知ってるの?」
「あなたがLINEに既読もつけずに無視ばっかするから私にきたの」
急いでスマホを開きLINEアプリを見る。通知が数十件と溜まっていた。
「……」
「まぁ、愛香ちゃんがいるなら心配ないわ。お父さんの母親に連絡してみるわ」
ため息をついた母さんはそれとと付け足した。
「知りたいこと知れたら帰っておいで」
上手くことが進んでよかったと安心した。
一週間後、彼女はスケジュールを確保できたと報告を受けた。
母さんに伝えるともう知っていると告げられた。
父さんの母親にも許可は取れたみたいで浜松に向かうための準備を進めた。
出発当日、七月の一週目の終わり。いつもより早く起きて顔を洗い、歯を磨き、コンタクトをつけ、リビングに向かう。
リビングでは母さんと愛香が楽しそうに談笑していた。
「……いや待てよ。なんでいるんだ」
「くるの遅いから、待ってた」
「いや、え」
集合場所への到着時刻はまだ先のはず。
「空が愛香ちゃんを誘ったんでしょう?ちゃんとしてちょうだい」と、母さん。
「ちょっと待って」
まさか全部教えているのか。
「くると思ってなかった?」
「思うわけない」
愛香の行動に驚きを隠せない。
「ひどい」
悲しそうな顔をするな、やめろ。
「ま、わかるよ。こんな出来損ないの女、嫌いだもんね」
えー……。めんどくさ……。
「あれ、嫌いなのにどうして誘ってくれたのかな?」
答えてと言わんばかりに指をさす彼女。本当にめんどくさい。
「でも、ありがと。おばあちゃんにも連絡してくれて」
無視して母さんに礼を言う。不服そうに頬を膨らます彼女から目をそらす。
まさか、学校も行かずに引きこもってばかりの僕の願いを聞くとは思っていなかった。
「空のためになるなら、と思っただけよ」
ちょっとおいで、と廊下に突き出された僕。
母さんは封筒を手渡してくる。
「何これ」
勝手に開けるとそこにはあり得ない大金が入ってあった。
言葉が詰まっていると耳元でボソッと呟く。
「愛香ちゃんのこと幸せにしてあげるんだよ」
「……っ!?」
何やら勘違いさせてしまっている様子。
「ちが、違う」
「怪我させないでね、ドラマも決まっているみたいだから」
「……」
勘違いさせたままでいいのだろうか。いいのだろう。もう、いいだろう。
「行き方はわかってるのよね?」
「ちゃんと覚えたよ。そろそろ行くから」
「うん」
愛香と外に出る。送り出してくれた母さんの表情は柔らかくて、久しぶりに見た気がした。
ずっと不安にさせていたのは、僕だった。
父さんが亡くなって、気を落としていたと思っていたけれど、理由は一つじゃなかった。
もしもちゃんと学校に行っていたなら、母さんは少し安心できていたのだろうか。
出る前に聞いておくべきだったのかもしれない。
東京駅に到着し、予約していた二人分のチケットで改札を通る。
「それにしても行ったことない場所にこれから行くってなんだか不安だなぁ」
「そう?」
僕の場合は、生前の父さんと一緒に母さんも連れて正月やお盆に会いに行っていたから不安はない。今回は一人で会いに行くというだけ。不安要素はないだろう。
「空は、なんだか楽しそうだね」
「そんなことないよ」
父さんの死の真相を知りたいだけ。楽しいわけがない。
「え、私と行くの楽しくないの?」
「……あのさ」
その返しにどう反応しろと言うのか。
「うわー」
べしべしと肩を叩く彼女。仕方なく感情を込めていう。
「わかった。楽しいよ」
「ひどい」
彼女はべシンっと肩をぷっ叩いた。暴力的な女性だ。
なんて言えばよかったのか……。
「とりあえず、弁当でも買って行こうか」
「いいね!行こいこ」
彼女に楽しんでいるじゃないかと言いたい気持ちを抑えた。彼女にとっては旅行みたいなもの。
なんだかちゃんと見ていなかったその笑顔が可愛らしく思えた。
二人分の弁当を買い、新幹線を待つ。
「ここであってるの?」
「うん、ここ」
駅の番線はあっている。
「でも、さっきの新幹線行っちゃったよ?」
「あれは違う。予約した新幹線の方が早くつく」
「なるほど……」
全く理解していなさそうな反応だった。
「外ロケで新幹線使わないの?」
「外ロケは、全部親に任せてたのでなんも知らない」
お嬢様か何かかと思うほど無知なんだと知った。
「それよりあなたのお父さんの本、結構重たい作品が多いよね。人死んじゃってばかり」
突然、話題を変える彼女。スマホ画面を見せてくる。その画面には父さんの作品が出ていた。
「え、買ったの?」
電子版書籍は、大抵買わないと読めないし、サンプルはほとんど読めない。サブスクがあるわけでもない。
「わざわざ買わなくても家にたくさん置いてあるよ」
「いいの、読みたくて買ったんだから」
「そうか」
「嫌な性格の親だったり姉だったり兄だったりって。人間性を描いたドラマみたい」
「売りがそれだよ、しょうがない」
「その割に復讐ものは書かなかったんだね」
あれだけ嫌なキャラクターをかけるのなら復讐ものを描くことは可能だったはず。
「あー、確かに」
複数の出版社で書いてきた父さんの作品は、大人向けのものが大半で、高校生にはまだ早そうなものまである。
年齢制限があるわけじゃないから、誰でも簡単に読めるわけだけど。
「マイノリティをフォーカスして書いてるって言ってた」
「少数派のための作品?」
「どうなんだろう。父さんが少数派の人間には見えないんだよなぁ」
「……日の目を浴びるようになった作品ってこれだよね」
またスマホ画面を見せてくる。『その先にあるもの』この作品は、SNSの利用でファンが増え軌道に乗ったあたりに出版されたもの。今までも数万部と売っていたものが数十万部と売れて、今現在は、数百万部を突破した唯一の傑作である。
しかし、マイノリティを意識したようには見えない。
「この作品は、一番胸糞悪い姉が出てくるよね」
「全部読んだの?」
「読んだよ。あなたの助けにもなりたいから」
突然そんなことを言うものだから呆気に取られる。
「……ありがと」
「素直だね」
かろうじて言えた言葉を彼女は嬉しそうに返した。
「はいはい」
恥ずかしくなって適当に相槌を打つ僕はもっと恥ずかしいことをしている。
新幹線が来て、指定席に乗る。
窓の席を譲ると彼女はそこに座り弁当を広げた。
「『その先にあるもの』ってさ、売れるのもわかるくらい後に残るよね」
「僕も最初読んだ時は、驚いた。本当に憎まれているのは自分だったって主人公が敵だったとは」
「後に出る作品の姉は疑っちゃうもんね」
「よくない現象が起きて、また話題になった」
次回作への期待値は予想を超えるほど上がっていったらしい。
「現在進行形でこの場にいたらその話題を楽しめたと思うんだけどなぁ」
「そうだよな。まだまだ続く気がした。僕が生まれてからもずっと書いていたわけだから」
「その頃にはもう、テレビ出演とか多かったよね」
「何度か共演してたっけ」
彼女が子役の頃、父さんと共演したことで僕らは出会った。
「役者の面もあるって大変」
小説家で俳優で、タレント、他にもありそうな面はその先増えることなく死んでいく。
最初こそはキャパオーバーで耐えられなくなったのかもと考えた。
だけど。
「どれもやりたいことをやってるんだもんね。すごいよ」
愛香はいう。
父さんは、生前インタビューでもバラエティ番組でもやりたいことをやっているからと笑っていた。
それは僕らの前でも同じ。
「愛香だったら、それだけできると思う?」
「できない、無理。死んじゃう」
「そうだよな」
「助けて」
「……」
またでた。
「ねぇ」
「はいはい」
肩をポンポンと叩き助けた感じを出す。
睨みを効かす彼女に怯えると肘打ちを喰らった。
幼馴染だと男女という壁を感じない。
だからこそなんでもできるのかもしれないと思った。
もはやコントだ。
弁当も食べ終えるとあと一駅となった。
「空はさ、小説家とかやらないの?」
「やらないかな」
「なんで。できるかもしれないじゃん」
「頭悪いんで、伏線とか回収できない」
「……」
納得されている。
「否定してくれる?」
「だって」
授業を全く受けていないじゃんと言いたげだ。
「はいはい、わかりましたよ」
どうやら僕らはまだコントをしているようだ。
しかし、目的地には到着したようで。
「ついたぞ」
駅を降り改札を出る。涼しい空気が外を包む。
何も言わずに死んでいった父さんの故郷。知りたいことのきっかけになり得るはずの場所。
「浜松に」



