鳥籠の金糸雀 望まれし花嫁は歌で烏を癒す

 私は志成様の花嫁として迎え入れられた。
 顔を上げて周囲をよく見てみれば、志成様だけでなくて、その周りにいる暁烏の人々も『和音』である私を歓迎してくれている。
 詳しい事情は分からない。それでも志成様は……動揺から手を滑らせて酒を交わす杯を落としそうになった私に、怒ることすらせず。ただ笑って「今からそのように動揺していれば、夜にはどれだけ慌てるのだろうな?」と揶揄う。早ければ今日にも志成様を失望させて離縁への第一歩を踏み出すつもりでいた私は言葉に詰まり……魚のように口をぱくぱくさせてしまった。

(どうして志成様は私が嫁いで来ると知っているの……?)

 そんな気持ちで迎えた午後九時。場所は夫婦の寝所として用意された部屋の布団の上。いかにもな二つ並んで敷かれたそれの上で、白の寝巻き姿で座っていた私は……息を呑んだ。

「さて、邪魔者はいない。ゆっくりと、事情を教えて貰おうか」

 私の目の前でスラリと抜かれるのは、刀。脅すつもりなのか、志成様は右手で抜刀した刀を持った状態で、私を押し倒した。目の前で月の光を反射するそれは、紛う事なき真剣だ。

 湯を使ったので、すっかり私の髪は元通りの金色。まだ少し湿り気を帯びたこの髪は、私が茜ではないことの証。
 情緒や甘さの欠けた雰囲気は、少しばかり期待してしまっていた私の心を突き落とした。

(皆の前では鷹宮の面子を立ててくれたのね? そして二人きりになったところで、私を脅して事情を聞こうと。……恥ずかしいわ。私自身を受け入れてくださったのかと勘違いしてしまうなんて)

 期待するから落胆する。初めから期待しなければ、何ともないはずだったのに。
 私はそんな気持ちで、黙ったまま志成様を見上げた。

「……やはり、だんまりか。これだと実力行使に出るしかない」

 そうやって睨まれても、何からどう話せばいいのか分からないのだ。言葉を選んで喋らなければ、すぐに声すら出なくなってしまう。
 黙って震えている私を見て、彼はため息を溢した。

「仕方がないな……予想に基づいて、やるしかないか。──滅せよ」

 刀に黒い靄が掛かる。何だろうと思ったその瞬間──ザンッと鈍い音を立てて、私の首元ギリギリを狙い、刀を突き立てられた。背中に感じた衝撃から、布団を貫通して畳にまで刀が突き刺さったのだと分かり……お腹の奥がひゅっと冷たくなる。それと同時に、今まで常に感じていた体調不良という重しがフッと軽くなるのを感じた。これが火事場のなんたらだろうか。

(こ……殺される前に、逃げなきゃ!)

 殺されるわけにはいかない。私は鷹宮のために、贄として、生きて帰らなければならないのだから!

「お許しください! 嫁いできたのが茜でなくて残念に思われたのも、弟の正行がご迷惑をお掛けしてしまったのも重々承知しているのですが! どうか寛大なお心でお許しを──」
「喉に纏わりついた呪詛を断ち切った瞬間にこれか。先程までの物静かな金糸雀はどこに消えたのやら、な程によく喋るな」
「──お願い、殺さないで……え、呪詛? あれ……声が出る」
「楽になったか? やはり喉にかけられていた呪詛のせいで、あまり声が出なかったのだな。予想が当たっていてよかった」
「え……? えっと、嫁いできたのが茜ではなくて、怒りで私を殺そうとしたのでは……?」
「まさか!」

 志成様は私の首元すれすれに刺さった刀を引き抜いて、鞘に仕舞う。そしてそれを畳の上に置いて、私に両掌を向けた。

「何やら勘違いしているようだが、俺には和音を傷つける意思は無い。あと俺が花嫁に望んだのは、和音。君自身だ」
 戸惑う私に、志成様は一から説明してくれた。布団の上で向かい合って座り、彼は真っ直ぐに私を見つめ、事情を話す。

 私達が初めて出会ったあの夜。志成様は帝を狙う怨霊を祓うために、任務についていたらしい。軍の中でも特殊な、帝をお守りする部署『近衛府』の少将としての位を持つ志成様は、同じく近衛府に所属する正行を伴って、空から警戒を行っていたようだ。

「警戒は基本的に二人一組。俺や正行のように、印が強く鳥の姿を取れる者が務めることが多い」

 志成様はそう述べると、サッとその姿を大きな黒い鳥に変えた。正行が鷹になる姿を見たことのある私には、その変身自体には大した衝撃はない。……しかしその脚が三本あるのを見て、目を見張る。

「暁烏というだけあって、烏なのでしょうが……志成様は『八咫烏』なのですか?」

 八咫烏は遥か昔、神話の時代から、各所で帝を導いた伝承の残る伝説の鳥である。

「よく知っているな。俺は烏は烏でも、八咫烏の印を持つ。暁烏の血筋には時折生まれるのだが、俺のように姿を八咫烏に変えられる程の者が生まれるのは非常に珍しい」

 私があの夜「見たことの無い鳥」だと思ったのは正しかったのだ。足を見ずして八咫烏だと気がつくのは難しいし、ただの烏にしては大きすぎるので暁烏家の人だとは予想もつかない。

(きっと優秀な上、八咫烏の印を持つから、若くして少将という位についていらっしゃるのね)

 志成様は私への説明のためだけに八咫烏の姿を取ってくれたようで、その説明が終わればさっさと姿を人間に戻した。

「そしてあの夜。君の弟である正行は、あろう事か襲来する怨霊の数と方角を間違えて俺に伝えた。それを一瞬信じた俺も馬鹿だったが、その一瞬が時に命取りとなる。敵が放った瘴気が脇腹を掠めて……怨霊は倒したものの、脇腹を瘴気が侵食して厳しい状況だった」
「申し訳ございません。正行の不注意で……」
「体内に入り込んだ瘴気は、陰陽師か『光の皇族』でなければ祓えない。暁烏には陰陽師が居るから屋敷を目指して飛んだのだが……そんな時、君の歌が聞こえた」

 聞こえる訳がない。だって私の声は小さくて、部屋の外にも漏れない程度だったはずなのに。

「聞こえたのは一瞬だったが、腹に蔓延った瘴気がじわりと飛ぶ感覚がした。だから俺は藁にも縋る思いで、歌声が聞こえた場所に降り立った。……その先の流れは、和音も知っているだろう?」

 私は頷く。彼に求められるがまま歌い、介抱しようとしたのに……その腹部に傷は無かった。 
 傷が癒え目が覚めた志成様は、側で倒れていた私を布団に寝かせてくれて……暫くの間、私の状態を観察していたらしい。そして喉に掛けられた呪詛に気がついたのだという。呪詛は、誰かが術具を使ってその人を非常に強く恨み掛けるもの。そんなものを纏っていれば、体に悪い影響が出るのは避けられない。

「鷹宮の、体の弱い贄姫。存在は知っていたが、それが歌で瘴気を祓い傷を癒す力を持った金糸雀だなんて初耳。繊細な金の色彩と美しい歌声にすっかり魅了されてしまった。と同時に、鷹の印を持つ弟妹より希少価値の高いであろう和音を、どうして呪詛も解かぬまま禍津日神の贄としようとしているのか理解できなかった」
「私の喉にかかっていた呪詛は、それほど目立つものだったのですか……?」
「ああ。力が落ちている鷹宮であろうとも、あれほど念入りに掛けられた呪詛に気がつかない訳がない。特に正行なら和音の首に纏わりつく呪詛が見えたはずだ」

 鷹宮を後にした志成様はすぐさま近衛府に戻り、正行を問い詰めたらしい。しかし正行は取り乱し「和音姉様は僕が助けるんだ!」と叫ぶばかりだったと言う。
 志成様は、優しく私の首筋に手を添えた。

「ひとまず闇の力を纏わせた刀で無理やり呪詛を断ち切ってみたが、体調はどうだ? 声は随分と出るようになったみたいだが」
「あ……実は驚くほど体が軽くて。これだけお話しても、声が枯れることもないなんて……初めてです」
「やはりか。信じたくないかもしれないが、和音はずっと『体の弱い子』に仕立て上げられていたのだろう。あえて呪詛をかけて、自ら望んで贄になるように、仕向けられていたんだ」

(私は体が弱いから贄として生かされたのではなくて、贄にするために弱らされていたの?)

 すっかり声は出るようになったにも関わらず、ショックを受けた私の口からは声が出なかった。
「金糸雀は周囲の環境で簡単に健康を害して死んでしまう鳥だ。体の頑丈さが売りの鷹宮からすれば、呪詛程度でそこまで弱ってしまうとは思わなかったのかもしれないが。今まで……辛かっただろう?」

 体が弱い自分が当たり前だったが、苦しくなかったと言えば嘘になる。一人高熱にうなされながら、自室の竿縁天井をぼんやり見つめ続けた時間は……孤独で、寂しくて、苦しかった。

 ただ鷹宮に相応しくない印を魂に刻んで生まれただけで、十九年間も意図的に私の健康が奪われてきたのであれば──

「──贄になるのは受け入れますが、普通に歌える程度には元気でいたかったです」

 こんな時まで歌っていたかったと考えてしまうのは、私が金糸雀だからだろうか?
 苦笑いで誤魔化した私を、志成様はギュッと抱きしめる。呪詛をかけられていたのは私のはずなのに、彼の表情は私より苦しげだった。

「俺は和音の歌に命救われた。だから今度は俺が助けてやらねばと婚姻を望んだのだ。これで妹の方を寄越される流れになれば何かと文句をつけて和音に変更させるつもりだったが、鷹宮は狙い通り和音を寄越してくれた。……よかった、呪詛を解いてやることができて」

 誰かに抱きしめられたことなど、ほとんどない。初めて出会ったあの夜は後ろから抱きつかれてあんなに怖かったのに、正面から抱きしめられている今は……怖くない。それはきっと、志成様は私を害するような人ではないと分かったからだ。

「助けていただいて、ありがとうございます。志成様のおかげで、贄となる日までは楽しく歌って過ごせそうです。このご恩は、鷹宮に戻っても……いいえ、来世になっても忘れません」

 私を抱きしめていた志成様が、ピシッと固まったような気がした。

「……ちょっと待て。和音? この流れでどうしてそうなる。どうして鷹宮に戻るつもりでいるんだ……!?」
「だって志成様は、私が歌で治療したお返しに呪詛を解いてくれたのですよね? それが済めば、そもそも私は志成様には不必要。どうぞ離縁状を突きつけてください」

 本当に志成様には心から感謝している。だって私と会い呪詛を解くために、結婚という手段を取ってくれたのだから。

「……分かった。通じ合えないのであれば、はっきり言うことにしよう。俺は和音を鷹宮には帰さないし、贄にもさせない。離縁なんてもっての外。そう簡単にこの屋敷から出られると思うな」
「そんな、困ります!」
「それは和音が困るのではなく、鷹宮が困るのだろう? 烏は仲間意識の高い鳥。一族の誰しもが、俺の妻である和音を仲間だと思っている。それを贄に出すなんて知れば怒りに狂うだろうし……当主が愛する妻を贄にしようとする鷹宮なんて、一族総出で潰しにかかる」
「あ、愛する……妻!?」

 あまりの衝撃で、幻聴かと思ったが。ただ抱きしめられていただけのはずなのに、徐々に彼の纏う雰囲気は甘くなり。いつの間にか髪に何度も唇が寄せられる。まるで鳥が求愛行動で羽繕いするかのように。
 いくら男性に免疫の無い私といえども、ここまでされて気が付かぬ訳がない。

「あの清らかな歌声の虜になった。一生俺の側で歌って生きて欲しい」
「ちょ、ちょっと待ってください。私は体が弱くて……」
「だから呪詛を力業で解いてやったじゃないか。生活環境を整えてやれば、恐らく和音は健康に暮らせる」
「でも、鷹宮には私以外贄になる人間が……」
「分かった。それほど心配なら、贄の件も俺が解決してやる。恐らく……なんとかなるはずだ。安心して俺の元で暮らすといい」

 そこまで言われてしまえば、申し訳無さはあれども……志成様を拒否する理由が無い。黙った私を見た志成様は微笑みを携えて私の唇を奪う。

「だからこれからは、俺だけの為に鳴く金糸雀になってくれ」
 志成様は共に生きると約束した私を大切にしてくれた。今まで鷹宮の屋敷に閉じ込められてきた私を、今度は暁烏に閉じ込めるようにして。結局鳥籠の金糸雀に変わりはないのかも知れないが、環境は随分と違う。
 血の気の無い顔で歩く私を後ろ指差してきた鷹宮の人たちとは違い、暁烏の人たちは私に人間としての敬意を持って接してくれる。皆親切で、志成様が仕事で留守にしている間でも困ることはない。

 志成様は仕事から戻ると必ず私に歌をせがむ。怪我をしているわけではないようだが、断る理由もない。だから毎日志成様のために歌うのが習慣となった。
 時に青藍の夜空を見上げながら。時に満開の桜の下で。またある時は私の膝の上に陣取った、彼の艶のある黒髪を手で梳きながら。歌って欲しいとせがむくせに、時折口付けて妨害してくる志成様と一緒に暮らす時間は……私にとって初めて健康的で心穏やかに過ごす時間だった。

「目を釣り上げて怨霊を追いかけ、殺伐とした生活をしていた志成様が、ここまで変わるなんて」

 使用人達がそう噂しているのを聞いた私は、私と同様に志成様もこの生活を楽しんでくれているのだと分かり、嬉しかった。
 

 祝言から三ヶ月程は蜜月として職務が軽減されていた志成様だが、それが終わると軍人としても当主としても通常運転。元々帝に気に入られ重用されていた志成様は一気に忙しくなった。
 そのせいか、とある日の朝。玄関先でお見送りする私を抱きしめたまま動かなくなった。

「……行きたくない」
「え! もしかして志成様、体調不良ですか?」
「違う。帝があまりにも和音の事を根掘り葉掘り聞いてくるから、面白くない。どうして愛しの妻のことを教えてやらないといけないんだ。あと正行も和音を返せと、煩く付き纏ってくるし」
「正行の無礼に関しては申し訳ございません。後で手紙を送って、よく注意しておきますから」

 急に忙しくなったから、お疲れなのかもしれない。そこに正行が更に迷惑をかけているのなら、辞めさせなければ。

「いや、手紙は送らないでくれ。あいつは下手に刺激しないほうがいい。品のない野鳥は無視だ。なんなら帝もその枠に突っ込んでもいい」
「鷹はまだしも、鳳凰の帝まで野鳥……」

 そんな事を話していれば、志成様が「決めた」と呟いて、私を抱き上げた。そして近くにいた使用人に「今日は休む。帝に伝えてくれ」と頼み、私を連れ真っ直ぐに部屋へと帰る。

「え、お休みするのですか?」
「ああ。俺の前で和音が姉の顔をしたのが気に障った。鷹宮のことは忘れて、俺に夢中になって欲しいのに。だから今日は──逢引だ」
「……は?」
 急に仕事をサボって逢引だなんていけません! と注意した私であったが、受け入れてもらえず。主に私のお世話をしてくれている年配の家政婦が「外でも和音様を独り占めして、自慢して歩いてみたいのでしょう。お子が出来たらそうも言っていられませんからねぇ」なんて笑いつつ、街歩き用に普段着より良い着物を用意してくれる。それが偶然なのか縁起の良い七宝つなぎ柄の薄梅色をした小紋で……なんとなく恥ずかしくて、上手く返事が出来なかった。

 ◇

 春の陽気の中、私は志成様の腕に掴まって都の中を歩く。帝が暮らしている皇居に繋がる大通り。そこから脇に入った通りには、都の中心部らしく沢山の商店が立ち並ぶ。

 呉服屋に洋菓子屋に、劇場まで。ずっと鷹宮の屋敷で引きこもって生きてきた私にとっては初めて見るものばかりで、私の視線はキョロキョロとせわしなく動く。「仕事をサボるなんて!」と注意していたはずの私のほうが目を輝かせてしまい、つい歩きながら歌ってしまう。そんな私を見た志成様が幸せそうに破顔して笑うので、気まずくてプクッと頬を膨らませた。

「ごめんごめん、あまりに和音が可愛くて。金糸雀は鳥籠で愛でるものとばかり思っていたが、外の世界を知って目を輝せる姿も、あまりに尊い。この顔を俺がさせたのだと思うとぞくぞくする」

 私は志成様の特殊な性癖の扉でも開けてしまったのだろうか。

「俺の息抜きのつもりだったが、和音がこんなに楽しんでくれるとは思っていなかった。もしやずっと屋敷の中で、息が詰まっていたのか?」
「詰まりません。だって鷹宮では六畳一間が私の世界のほぼ全てでしたが、志成様に嫁いでからは生活範囲が暁烏のお屋敷全体になりました。とっても自由です」
「鳥籠が快適なのであれば良かったが、俺は和音にもっと色んな物を見せてやりたくなった。またこうやって出掛けたいな」

 志成様はそう言いながら、洋菓子店で買ったばかりの包みを開けて、四角い茶色の物体を私の口に放り込む。とろりとした甘さと絶妙なほろ苦さ。口の中でそれらが溶け合って、絶妙なハーモニーを奏でる。腰から砕けてしまいそうになるほどの美味しさに驚いて、私はぎゅっと志成様の腕にしがみつく力を強めた。

「美味いか? 最近子女の間で流行っているキャラメルという菓子らしい」

「びっくりするほど美味しいです! まるで志成様と唇を合わせた時のようにふわっとした気持ちになって……ッあ!」

 キャラメルの美味しさに驚いて、非常に恥ずかしいことを往来のど真ん中で口走ってしまった。ハッとして志成様から離れて、両手で口を塞ぐが、もう遅い。不敵な笑みを浮かべつつ、口元を塞ぐ私の手を引き剥がしてくる志成様に……勝てる訳がない。

「そこまで美味いのなら、俺にも味見させてもらえないか?」
 公衆の面前で完全に腰を抜かした私は、道の脇にあるベンチに座って休んでいた。

(志成様の馬鹿……往来のど真ん中であんなことをしたら、噂になってしまうわ……!! 噂くらいならまだ良いけど、志成様が仕事をサボって逢引していただなんて責められたら……)

 私は両手で頬を包み、一人で百面相に忙しい。志成様は、すっかり顔が火照ってしまった私のために、水を買いに行ってくれていた。
 一人で休息しているにも関わらず、私の頭の中は志成様一色。これではいつまで経っても落ち着けない!

(早く落ち着かなきゃ……志成様は暁烏の当主。その妻なのだから、誰から見られても恥ずかしくないようにしなくては)

 その時、熱持った私の体が急に冷えるような……聞き馴染みのある甲高い声が、頭上から響いた。

「あら、和音姉様じゃない。こんな場所で会うなんて思わなかったわ」

 もう二度と会いたくなかった。そんな気持ちで私は視線を上げる。

 ベンチに座った私の前に立つ……妹、茜の目線は、以前と同じように私を蔑み見下している。綺麗に着飾って自信満々。意思の強い瞳の彼女は、数ヶ月経ってもそのままで相変わらずだった。

「なかなか鷹宮に戻ってこないと思ったら、こんな場所に捨てられていたの? 暁烏に捨てられた上、鷹宮にも帰ってこられなかっただなんて可哀想な和音姉様──、あら……? おかしいわね。血色が良くなったのではなくて?」

 茜は私の髪を思いっきり引っ掴んで、私の顔を上に向かせる。

「──おかしい。前より顔色も良いし、あんなに痩せこけていたのに少しふっくらして、着物も綺麗……」

 気がつかれたくなかった。私はその思いで視線を逸らす。
 話してはならない。私に掛けられた呪詛が解けたのだと知られたら、どうなるか……

「ハハッ! こんな欠陥品に餌付けだなんて、暁烏の人たちは変わっているわね」

(あれ……? もしかして茜は呪詛のことを知らないの?)

 呪詛のことを知っているのであれば、少しでも私が健康そうに見えれば、呪詛が解けたのではないかと疑うだろう。
 志成様も「正行なら見えていたはずだ」と言っていたので、茜は気がついておらず、本気で私は体が弱いのだと信じていたのかもしれない。

「病弱なお人形を当主の花嫁に据えて、粋な趣味ですこと! でも和音姉様、まさか忘れてないわよね?」

 茜はキッと私を睨みつける。呪詛は解けて元気になったはずなのに、私の心はすっかり鷹宮の中で小さく縮こまっていたあの頃へ戻ってしまっていた。

「次の冬贄になるのは、欠陥品の和音姉様なのよ。暁烏の当主、人情の無い冷たい人でしょう? 傷つく前に離縁を申し出て、鷹宮に戻ってきなさいよね。私は和音姉様のことを考えて言ってあげているのよ!」
「志成様は……そんな人ではないわ」
「あはは! すっかり洗脳されちゃって。体の弱い姉様は、鷹宮に戻ってきて贄になるくらいしか、使い道がないの。姉様なんかを愛する人がいる訳ないでしょう!」
「──茜!」

 一瞬心が闇に呑まれかけた私を現実へと引っ張ったのは、これまた聞きたくなかった……弟の声であった。
「和音姉様じゃないか! 茜、どうして僕にすぐ伝えに来てくれないんだ!」
「あんたに言うと姉様姉様って馬鹿みたいに煩いからよ、正行」

 私と茜の間に割って入るようにして乱入してきたのは……私が志成様の元へ嫁ぐきっかけともなった、弟の正行。今日は仕事が非番だったのだろうか? 軍服ではなく、渋い緑色の着物と濃い灰色の羽織を纏っている。……その羽織は、正行が軍に入った時にお祝いとしてどうしても欲しいと言うので、私が時間をかけて縫ってあげたものだった。
 どうやら二人は一緒に買い物に来ていたようで、正行の手には沢山の紙袋が握られている。

「姉様、暁烏で辛い目に遭っているという噂は本当ですか!? 帝から聞きました。姉様は毎晩空が白む頃まで寝かせてもらえない拷問のような日々を送っているとか!」

 思わず吹き出しそうになるが、私は何とか表情を乱さず耐え切った。

(誰!? そんな噂流したのは!! ……帝か)

 ならば仕方がない……と私は諦めて、だんまりを貫く。恐らく帝の意図した内容と正行が想像しているものは別物だが、正行に対してはむしろそう意味を取ってくれて助かったとさえ思う。

「姉様を助けたくて憎き暁烏志成を問い詰めても、烏らしく上手く誤魔化すばかりで、周りもあいつに騙されて全然僕に協力してくれない! 僕があの夜あんな失敗をしたせいで、姉様は痛ぶられて……」
「本当に煩いわね、鬱陶しい」
「茜こそ、こんなに儚い和音姉様を掴まえていつも文句ばかりだ。姉様、よくここまで逃げて来てくれたね。もう大丈夫、僕が守ってあげるから、鷹宮に帰ろう。暁烏志成も、禍津日神も、もう誰も和音姉様には触れさせない。僕、良い方法を見つけたんだ」

 正行はそう言うと紙袋を全て茜に押し付けて、私の両手を引いて立ち上がらせる。

「正行! 私に荷物を押し付けるなんて、どういうつもり!?」
「だって和音姉様は手を引いてあげないと、すぐ転んでしまう。一人で堂々と何でも出来る鷹の茜とは違うんだよ。金糸雀は周囲の環境で簡単に……あれ? 和音姉様……呪詛が……?」

 私はハッとして正行に掴まれていた手を引っ込める。

「どうして……簡単には解けないようにしたと、父上が……」

 志成様の予想通り、正行には私の首にかかっていた呪詛が見えており、呪詛をかけたのはお父様だった。
 解術がバレてしまった私は、思わず踵を返して走り出そうとするが、正行に腕を掴まれ引き留められる。

「待って! まさか暁烏志成が解術したの? まさかあいつは本気で姉様のことを好いて、花嫁として迎えて……?」
「ちょっと……まさか和音姉様は鷹宮に戻ってこないつもりだったわけ!?」

 真相に辿りついてしまい、鷹らしい強い瞳に明らかに嫉妬心を写し始めた正行と……彼のせいで今から鷹宮が陥るであろう危機に気がついてしまった茜。二人は顔を見合わせて「このまま和音姉様を連れて帰ろう」と合意する。普段は反発しあっているくせに、そんなところだけ双子らしい。

 正行がパッと姿を鷹にして、私の帯をお太鼓の部分ごと後ろから鷲掴みにしようとする。このまま誘拐するように飛んで連れ戻す気だと気がついた私は、咄嗟に帯留も帯揚げも解いて、帯を外してしまう。流石に正行も私が街中で帯を解くとは思っていなかったようで、一瞬の隙をついて私は走り出した。

「姉様!?」

 しかし元々外出もせず走り慣れない私が、一人で逃げ切れるわけがない。すぐに息が切れてしまった私は、ちょうど建物の影になった部分で足を止めた。

「──っ、志成様……!」

 志成様は遥か上空から、私の小さな歌声が聞こえたのだと言ってくれた。それを信じて、今出来る全力の声量で──愛する夫の名前を叫んだ。

 その瞬間。私の体は後ろから何かに包まれるようにして捉われた。
「──ッ、和音! 大丈夫か!?」

 私を覆い隠す様に包むのは、黒い大きな翼。八咫烏の姿をした志成様だった。

「志成様……!」

 突然街中に鷹と八咫烏が現れては、周囲が混乱するのは当然だった。どちらも四大名家に繋がる鳥……往来を行き交う人々が、ザワザワと騒ぎ始める。

「和音姉様を返せ!」
「返す? 和音は正式に祝言を挙げて暁烏に迎え入れた、愛する妻。公衆の面前で姉の帯を解いてしまうような乱暴な弟に、大切な妻を渡せと? 論外だな。鷹宮は一体どのような教育を施しているんだ」

 周囲から正行に注がれる視線が一気に冷たくなる。その足には私の帯が掴まれているがゆえ……状況的に言い訳はし辛いだろう。

「正行の馬鹿……こちらが不利よ、出直しましょう」
「和音姉様! 子供の頃、毎日声が掠れるまで僕に童謡を歌ってくれたよね? そんな姉様が大好きで、今でも愛してる。だからこの羽織をくれた時に、姉様はずっと僕が守るからって、約束したよね!?」

 茜に嗜められても正行は諦めない。その姿を鷹から人間に戻し私の帯を抱きしめて叫び訴える。
 志成様は大きくため息をついてその姿を八咫烏から人間に戻した。

「和音が関与すると正行が面倒になるのは身を持って知っていたが、目の前にするとこれ程か。一体どんな教育をしているんだ、鷹宮は……」
「……申し訳ございません」
「いや、和音が謝ることでは──」
「やだ、格好良い。こんなに格好良い人だったの!?」

 ……弾んだ茜の声が聞こえてきて、もう私は頭を抱えうずくまりたいような気持ちになってきた。

「和音姉様ずるいわ、そんな整った容姿の人と夫婦になっただなんて!」

 そして茜はそのままこちらに駆け寄って来て、私を抱きしめたままの志成様の腕に縋りついた。

「志成様、和音姉様がどうしてもと言うので譲りましたが、本来は私を花嫁に迎えたかったのですよね? だって和音姉様相手では、お子も期待できないし、話し相手にすらならないでしょう。今からでも離縁して、私を迎えてくださいませ。だって帝には他にも側室候補が沢山いますから!」

 志成様が私を捨てて茜を選んだらどうしようか。一瞬そんな不安に襲われたが、志成様は完全に冷えた軽蔑するような視線を茜に送る。

「仮にも側室候補がこの程度か。恐らく一生『候補』のままだろう。少しは和音の謙虚さを見習うと良い」
「な……!」
「離してくれ。俺は和音を望んで番にした。他の女に興味はない。虫唾が走る」

 志成様は茜の手を振り払って、自らの羽織を脱いだ。そしてその羽織を私の肩からかけて、着付けの乱れを隠してくれる。

「許せない……帝なんて四十手前のおじさんなのに、姉様ばっかり良い思いして! 手酷く捨てられてしまえばいいのに!」
「茜、街中で帝の批判は不味いよ」
「正行煩い! さっきまであんたが騒いでいたのだから、今度は私に騒がせなさいよ!!」

 ギャアギャアと言い合いを始めてしまう双子。お願いだからこれ以上鷹宮の醜聞を広めないで欲しい。私のそんな切実な思いは二人には伝わらないが、志成様には通じたらしい。

「……和音はコレに囲まれて、大変だっただろう。むしろ病で一人寝込んでいた方が楽だったのではないか?」
「そうですね……そうかもしれません」

 私は初めて、自分に呪詛が掛けられていた事に感謝した。
 志成様との逢引は、弟妹のせいで強制的に終了となった。

「本当に申し訳ございませんでした。せっかく志成様が誘ってくれたのに……何かお詫びをさせてください」

 暁烏の屋敷に戻った私は、自室で深々と志成様に頭を下げる。そんな私を見て志成様は気まずそうに眉尻を下げた。

「気にしないでくれ。和音の側から離れた俺も悪かったのだから」
「悪くありません。それに志成様は、私が助けを求めればすぐに来てくださったもの」
「和音が俺を呼ぶから何事かと思ったら、鷹に襲われ帯を解かれていたんだ。よくあの場で正行に手を上げなかったものだ。自分の理性を褒めてやりたい」

 帯を解いたのは私自身なのだが、それで志成様に衝撃を与えてしまったのには変わりない。

「……でも、よく私の声が聞こえましたね?」
「烏は番を大切にする種だ。一緒に巣を作り、子を育て、死が二羽を分つまで共に生きる。俺は八咫烏だが、烏には違いないから。大切な番の声が聞こえないなど、有り得ない」

 そこまで言われると、何だか恥ずかしいような気持ちになってくる。思わず視線を逸らした私の手をそっと握った志成様は、真剣な表情で「では、お詫びではないが和音に頼みたいことがある」と話し出した。

「重大な案件ですか?」
「暫く仕事が大変忙しくなる。贄の件で対策を話し合っていて、それに加えて軍の仕事に当主としての仕事。屋敷に戻れない夜もあるかもしれない。それでも俺は和音だけを愛していて、いつも想っているのだと信じて欲しい。あと俺が居なくても、毎夜歌って欲しい」
「……? はい。わかりました」

 仕事ならば仕方のないことだ。しかも贄の件は私が原因であるし、申し訳なさを感じることはあれども、特に何も思うことはない。

「フッ……分かっていないような顔だな」
「分かってます。志成様がお忙しくても、私はいつも通りこのお屋敷でお戻りをお待ちしてますから。でも、志成様が居ない時でも歌う理由をお伺いしても?」
「……愛する妻の歌声が聞こえると、辛い仕事でも頑張れるから、かな」