こうして狗堂灯家での生活が始まった。当初は朝四時に起きていた緋雨は、もっと寝ているように言われ、服を着付けるといわれて一人で出来る、お茶を淹れるといわれて一人で出来る、といった結果苦笑された。

「これでは私の仕事、無いじゃ無いですかー!」

 緋雨の専属の侍女になった葉山は、緋雨と同じ十八歳だった。その内に、「だったら一緒にお茶をして雑談相手になって?」と緋雨が申し出ると、喜んで一緒にお茶を飲んでくれるようになった。今も、そうして午後三時。二人で羊羹を食べている。

「いいのよ。というより、本当に私はなにもしなくていいのかな?」
「んー、一応使用人に色々申しつけたり、カーテンの色を変更したりするのが、大奥様の仕事でしたね。家の管理ですねぇ」
「大奥様……」
「奥様は――あ、まだご結婚前ですから、緋雨様って呼ばないとでした……でも、もう、緋雨様は奥様のようなものですしね。婚約者と暮らす華族はあんまりいないみたいですけど、祝言の日取りはどうなさるんですか?」
「その……今もまだ、本当に焔様が私でいいのか不安だから、少し待ってもらっているの。一緒に暮らしてみたら、印象が違うっていうのもあるかもしれないし」
「ふぅん。逆もまた然りですしね。旦那様は、緋雨様には優しいけど、軍では氷のように恐ろしいと評判ですし」

 羊羹を食べ終えてから、おせんべいに手を伸ばした葉山が言う。

「そうなの?」
「ええ。邪悪なあやかしを討伐する時は、鬼神のごとしって噂ですよ。そういう日は、帰ってきてからもこの屋敷でも怖い顔なさってましたけど――緋雨様が来てからは、なくなりましたね。どんな討伐のあとでも、残業のあとでも、緋雨様を見てるとニコニコされてて、逆にこっちがびっくりですからぁ!」

 なんだか緋雨はくすぐったい気持ちになった。

 この日焔は、十九時過ぎに帰宅した。
 玄関まで出迎えに出ると、ぎゅっと焔が緋雨を抱きしめた。毎日のことなので、この体温にも少し慣れた緋雨は、おずおずと抱きしめ返す。すると顎を持ち上げられて、触れるだけの口づけをされる。最近の焔は、口づけをしていいかと聞かなくなった。

「おかえりなさ、焔様」
「ああ、ただいま。今日は一日どうだった?」

 腰に手で触れられて、歩くように促されながら、二人で居室へと向かう。
 本日の夕食はすき焼きだった。牛肉は近年食べられるようになった食材だ。異国からの文化の流入だ。

「日中は、葉山さんとお話ししていました」
「毎日話しているな。嫉妬するぞ?」

 クスクスと笑った焔の隣に座り、二人ですき焼きを食べた。その後入浴し、自室に戻ると毛玉が現れた。

《焔からお手紙だよ》
「え?」

 一緒に暮らしているのになんだろうかと思って受け取ると、こう書かれていた。


 緋雨 へ

 直接言うのが恥ずかしいから手紙にしたためる。
 愛している。



 それを見て、緋雨は真っ赤になった。


 焔様 へ

 私も同じ気持ちです。



 と、すぐに綴って、緋雨は毛玉に文を託した。するとすぐに毛玉が戻ってきた。


 緋雨 へ

 緋雨から言われたのは初めてだ。今度は直接言ってほしい。

』 

 そんなやりとりに照れくさくなりながら、幸せな気持ちでこの日緋雨は眠った。
 そして翌朝、食事を終えて焔が出かける時、いつもの通り抱きしめられた。
 そこで背伸びをして、緋雨は焔の耳元に口を寄せる。

「愛してます」
「!」

 すると目を見開いてから、焔が真っ赤になった。露骨に照れた焔は、片手で顔を覆う。それから緋雨の額に口づけをした。

「俺もだ。愛している。では、行ってくる」

 二人の日常は、そんな風に愛に溢れている。


 ――この日も午前中は、緋雨は叶斗のところに顔を出した。これも日課である。

「おはよう、叶斗くん」
「おはよう、緋雨お義姉さん! 見て見て!」

 するとお手玉を三つ持っていた叶斗が、くるくると回し始めた。

「まぁ、すごい!」
「でしょう? 昨日初めて三つで出来てから、ずっと出来るようになったんだよ」
「そうなのね」
「次は、四つ、五つ――頑張るんだ!」
「お手玉、私が作ってもいい?」
「え? いいの? 作れるの?」
「ええ」
「わーい、楽しみにしてる!」

 そんなやりとりをしていた時だった。不意に叶斗が表情を無くしたと思ったら、ぐらりとその体が傾いた。布団の上に倒れ込んだ叶斗に、緋雨が目を見開く。

「叶斗くん!」

 すると後ろに控えていた葉山が、ぐいっと緋雨の腕を引いた。

「黒兎病の症状です。私がお体を横にさせますので、下がって下さい」
「え、ええ……」

 頷いた緋雨の前で、手際よく葉山が、枕に叶斗の頭をのせ、掛け布団をかける。

「目が覚めるとよいのですが……」
「っ」
「いつも発作が起こる度に、私たち使用人も、勿論焔様もそう思っているんです。緋雨様も同じなんじゃ?」
「ええ」

 緋雨は、叶斗の左手を持ち上げる。その手の甲には、黒い兎の模様がある。
 ――やはりこれは、継母の多恵が大切にしていたハンカチの模様に酷似していると思った。なんでも実家の紅飛沫家の叔父・雷我(らいが)に貰った大切な品で、忌々しいものを封じたり、排除したりしてくれる品だと聞いたことがある。

 紅飛沫家は、爵位は持たない。ただ、あやかし関連の家柄としては存在感がある。
 理由は、呪術を主体に行う家柄で、正道を行く者には疎まれているが、その力は無視出来ないからだと、緋雨は聞いたことがあった。父は、きっと紅飛沫(べにしぶき)家に生まれたせいで、継母の多恵は差別されてきたのだろうと語っていた。当初は、多恵も悠奈も、緋雨にも優しかった。

 ……呪術?
 と、ふと緋雨は、嫌な予感がした。改めて叶斗の手の甲を見る。
 これが、呪術の証左……それこそ、叶斗を排除しようとするような何らかの悪しき力であったのならば、と、そう考えた。

 ――叶斗くんは、こんなに良い子なのに。
そう胸中で強く思う。狗堂灯家のようなあやかし討伐の力を、公的に認められた秀でた家柄は、過去にも紅飛沫家が依頼されたり独自判断であったりで、呪ってきた歴史があると、継母との婚姻前に父から聞かされたことが、緋雨にはある。だがその時父は、「だからといって差別してはならないんだ」と語っていた。

 けれど……父は、例えばであるが、緋雨が将来的にどのように過ごすことになったのかを知らない。父は、優しすぎた。父を信じるべきなのか、自分の直感を信じるべきで、呪いを疑ってかかるべきなのか。ギュッと叶斗の手を握りながら、緋雨は思案した。


 その日、夕方になっても叶斗は目を覚まさなかった。
 帰宅して事情を聞いた焔は、苦しそうに唇を噛んだ。その表情を見て、もしかしたら自分の勘違いかもしれないが、だとしても伝えるべきだと判断し、緋雨は切り出した。

「焔様、実は、神屋敷の家で、養母が黒兎病の模様と同じハンカチを持っているところを見たことがあるんです」
「! 詳しく話してくれ」

 こうして緋雨が語ると、真剣な表情で焔がそれを聞いていた。

「そうか……紅飛沫家か……っ、実はあやかし対策部隊でも、黒兎病は呪術のたぐいではないかと考えているんだ。だが、呪術師を名乗る家柄は多い。力のある呪術師も多数いて、特定が出来なかったんだ。けれど、確かに見たのならば、かなり可能性が高い。いいや、緋雨が見たことを俺は疑わない。ありがとう、話してくれて」

 そう言うと、食事の途中だったが、焔が立ち上がった。

「すぐに軍本部に戻って報告をしてくる」
「分かりました、もし間違っていたらすみません。私は、叶斗くんについています」
「間違っていても構わない、貴重な手がかりだ。ああ、宜しく頼む」

 こうして焔は急ぎ足で外へと出て行った。
 それを見送ってから、緋雨が叶斗の部屋に行くと、片眼鏡をつけた家令の度会が、慌てた顔をした。

「脈が弱くなっております」
「え……」
「私は元々は軍医をしており、この邸宅の主治医も兼ねておるのですが……先ほどからどんどん叶斗様の脈が……心臓が弱っておられる」
「そんな……」

 思わず緋雨は、叶斗の、左手を両手でギュッと握った。

「お願い、死なないで! きっと焔様が、原因を突き止めてくれるから」

 願うようにそう告げた時、思わず緋雨の眦から涙が一筋流れた。
 このように、頼り願うばかりで、何も出来ない自分が苦しい。
 もし己に、神屋敷家の血筋に発現する、浄癒の力があったのならば、治せたかもしれない、と、思わず唇を噛む。その時、不意に脳裏に、金色の五芒星に似た紋章が浮かんだ。驚いて瞬きをしていると、叶斗の手を握る自分の両手から、淡い金色の光が漏れ始めた。

「こ、これは! 浄癒の力ではありませぬか!」
「!」

 度会の言葉に息を呑んだ時、すうっと叶斗の手から、黒い兎の模様が消え始めた。
 そしてそれがすっかり消えた時だった。

「ん、あれ、僕……また気絶したの?」

 目を開けた叶斗がそう言った。ボロボロと緋雨が泣く隣で、度会が脈を取る。

「回復しています、おりますよ!」

 度会まで泣き始めた。そんな二人の様子に、上半身を起こしながら叶斗が目を瞠る。

「ぼ、僕……そんなに悪かったの?」
「いいえ、お坊ちゃま。治りましたぞ、模様が消えましたのでな」
「!」

 渡会の声に、緋雨が握る手を見て、叶斗がまん丸に目を見開いた。

「本当に消えてる……よかった、よかった!」

 それからは、三人で泣いた。嬉し泣きだ。そこに駆けつけた葉山から、すぐに邸宅中の使用人にそれは伝わり、狗堂灯邸は歓喜に沸いた。