狗堂灯侯爵家は、和風邸宅だった。だが、邸宅内には洋間もある。
 着いたその足で、焔に案内された部屋が、南向きにある洋間だった。

「ここが緋雨の部屋だ」
「こんなに広いお部屋……」
「気に入らないか?」
「いえ、そういうことではなくて……あの、本当にいいの? 私、その……」

 戸惑いながら緋雨は問いかける。
 馬車の中では幼少時の思い出の話をして、本当に焔が焔なのだと認識し、幾ばくか緊張が解れていたが、こうして迎え入れられると再び緊張してきた。

 するとそっと焔が、緋雨の右手を持ち上げた。そして真剣な顔をして、目を合わせる。

「俺ではダメか?」
「ぎゃ、逆です!」
「改めて言う。緋雨、俺と結婚してほしい」
「っ……はい」

 胸が熱くなる。ずっと手紙を通して、初恋をしてから今日に至るまで、恋をしてきた相手にプロポーズをされて、嬉しくないはずがない。控えめな小声を放ち、小さく緋雨が頷くと、再び焔が柔らかく笑った。その優しい笑顔は記憶の中の焔と変わらないが、青年になり男らしさを増した焔の精悍な面持ちと、記憶の中の少年はまだまだ交わらない。

 これまでは優しい感情が主だったのだが、今の焔と一緒にいると、胸がドキドキしてしまう。真っ赤になった緋雨の手の甲に、そっと焔が口づけた。ビクリとした緋雨が震えると、焔が苦笑する。

「ずっと、早く迎えに行きたくてたまらなかった。しかし使用人のようにお茶を出していたが、手紙でも時々そう読み取れたが、これまでどのような生活をしてきたんだ? 聞かせてくれないか?」
「……ええと、と、特に話す事は無いの」

 虐げられてきた事を知られたら、同情されてしまいそうで怖くて、緋雨は小さく首を振る。すると焔がぎゅっと緋雨の手を握った。

「そうか。では話してくれるのを待つことにする。ところで、たまに毛玉から、緋雨の様子を聞いていたんだ。緋雨は服を持っていないと話していた。持参物にも衣類がほとんど無い様子だが」
「っ、毛玉ったら、そんなことを? その……お恥ずかしいのですが、布を買う蓄えが無くて……着たきり雀だったんです」
「別に恥ずかしがる必要は無い。恥ずべきは、自分達だけ豪遊していた今の身内だろう」
「え?」
「社交界で噂だった。緋雨は病弱で表に出てこないと吹聴していた多恵夫人と悠奈嬢が、つも華美に着飾っていることは。だが俺は手紙で、緋雨は元気だと知っていたから、不思議に思っていたんだ」

 焔の目が僅かに冷酷に変わった。緋雨はゾクリとした。だがすぐに、焔は緋雨を見て微苦笑する。

「毛玉がサイズを教えてくれたから、いくつか商人に仕立てさせておいたんだ。気に入るといいんだが」

 そう言うと焔が、クローゼットを開けた。中には、和服や洋服が入っていた。

「これは……」
「緋雨に似合うのではないかと思って購入を決めた服だ。といっても、幼い頃の記憶しかなかったから、俺の想像でだけれどな。ただ、今日緋雨をこうして見て、俺は惚れ直したし、きっと似合うと思ったぞ」

 煌びやかなものからシックなものまで揃っている大量の衣類に、緋雨は思わず唾液を飲み込む。

「これを、私に?」
「ああ、全てお前のために作らせた。他には装飾具もある。ここにある家具類も俺が揃えたが、これらは後にまた商人を呼んで、好みのものがあれば置き換えてくれて構わない」
「いえそんな……どれも素敵で、私には恐れ多いの!」
「恐れ多い? そんなことはない。狗堂灯の家に、少しずつ慣れてほしい。祝言の日取りに希望はあるか?」
「そ、そんな……私は本当になにも分からないの。女学院も出ていないし、礼儀作法だって……だから私に本当に、侯爵家の夫人が務まるかも分からないし」
「緋雨は爵位と結婚するわけじゃない。俺の奥様になってほしいんだ。だから、礼儀作法が必要ならば今後家庭教師を雇えばいい、それだけだ。女学院は逆に行かないでもらえたのは僥倖だ。あそこは授業参観と称して、嫁探しをする貴族のご婦人が多いからな」

 そう言って苦笑してから、焔は緋雨をそっと抱きしめた。
 優しく腕を回されて、緋雨は再び真っ赤になってしまう。焔は、優しい。
 すると顎に手を添えられて、上を向かせられる。長身の焔は少し屈むと、顔を近づけた。

「口づけをしてもいいか?」
「……はい」

 緊張しながら緋雨は瞼を伏せる。長い睫が揺れている。
 するとチュッと優しく唇にキスをされた。真っ赤なままで緋雨が目を開くと、実に嬉しそうに目を細めて笑っている緋雨の頬もまた、僅かに朱かった。

 それから焔が、腕に力を込めたので、ぎゅっと緋雨は抱きしめられる。緋雨は照れながらも、おずおずと腕を回し返してみた。すると温かな温度が厚い胸板から伝わってきて、心臓の音が早くなる。暫くそうしていてから、お互いまた見つめ合った。

「そうだ、緋雨。家族を紹介したいんだが」
「ええ、ご挨拶しないと」

 本当に自分が受け入れられるのか不安に思いながら、緋雨は頷く。

「実は父は西欧に遊学中なんだ。遊学したくて、俺に当主と爵位を譲ったというのが本当のところだ。引退して自由気ままに過ごしたいとして、な。ただ、目的は黒兎病について海外に類似の知見がないか調べることでもある。母はそれに着いていったから、どちらもこの国には不在なんだ。ただ、十八になったら緋雨を迎えに行くと話したら、本当に二人とも喜んでくれた。祝言には間に合うように戻ると話していた」

 それを耳にして緋雨は目を丸くした。異国のことは、まだまだ民は知らないので、緋雨もまださっぱり分からない。

「叶斗くんは? 病気は大丈夫なの?」
「ああ、叶斗はこの邸宅にいるよ。紹介したい。ただ、先に話しておく」
「なに?」
「黒兎病なんだ」
「え?」

 新聞で見た不治の病のことを思い出し、緋雨は目を見開いた。

「ただ感染する類いの病ではないんだ。恐らくは――……」

 そう言うと、焔が口ごもり、暗い目をした。

「……いいや、なんでもない。とにかく移ることはない。怖くなければ、会ってほしい。紹介したいんだ」
「怖くないわ。焔がそういうんだもの。それに、たとえ移るとしても、私はご挨拶したい。だって手紙でもいつも話していた、焔様の大切な家族でしょう?」

 焔を落ち着かせたいと思って、抱き合ったままで緋雨は焔の背を撫でた。するとハッとしたように息を呑んでから、柔らかく焔が笑った。

「ああ、そうだな。そうか。では、行こう。連れていく」

 こうして二人は、新しい緋雨の部屋を出た。
 階段を降りて向かった先は、奥の離れで、渡り廊下で繋がっていた。

「叶斗。俺の婚約者――もうすぐお義姉様になる緋雨を連れてきたぞ」

 戸を開けて焔が声をかけると、布団の上で上半身を起こしていた叶斗が緋雨を見た。薄茶色の髪と目をしている。掛け布団の上に置いた手の甲には、黒い兎の模様が出ていた。それを見て、緋雨は目を瞠る。よく似た模様のハンカチを、継母が持っていたことを思い出したからだ。偶然なのだろうかと考えつつ、我に返ってから、緋雨は笑顔を浮かべた。

「はじめまして、緋雨です」
「はじめまして。やっとお兄ちゃんは迎えに行ったんだね! 酷い虐待をされてるって毛玉が行ってたから、毎日行こうとしてた癖に、(けん)がまだ刻ではないとか言うから待ってたっていう緋雨お義姉様を!」

 そう言うと、叶斗の足元にいた、ゴールデンレトリバーの見た目をした犬が鳴いた。

「あ、賢だわ!」

 幼い頃、焔がいつも連れてきていた犬のあやかしの姿に、緋雨が目を丸くする。

『久しいな、緋雨。いかにも、まだ行かぬようにと申していたのは我だ。というのも“敵”を泳がせるためには、神屋敷家に余計な刺激をせぬ方がよいと思ってのことだ。辛かったであろう、緋雨。堪忍してくれ』

 賢の声に、緋雨が狼狽える。すると焔が咳払いをした。

「俺は直接緋雨が話してくれるまで聞かないことにしたんだ。それ以上は言わなくていい」
『ボクがいっぱい話したのに』

 毛玉がそこへ現れて、緋雨の肩に乗った。
 焔はばつが悪そうな顔をしている。

「……悪いな。俺は緋雨のことが気になりすぎて、様子を聞いていたんだ。なにより悪いのは、もっと早くに迎えに行けなかったことだ」
「ううん。私も焔のことがずっと気になっていたから、聞けると知っていたら聞いていたと思うの。それに、約束の今日、迎えに来てくれただけで十分嬉しいの」

 緋雨が本心から嬉しくてそう告げると、隣で焔がはにかむように笑った。

「あのね、緋雨お義姉さん。僕は病気だけど、元気なんだよ? ただ、時々気絶して倒れてしまったりして、この病気はその内、完全に意識を失って、衰弱死しちゃうんだって。でもね? それこそ毎日眠るとき、もう目が覚めなかったらどうしようかって怖いけどさ、お兄ちゃんをはじめ、みんなが心配してくれてるのがよく分かるから、後ろ向きになるのは止めてるんだよ!」

 八歳ながら、叶斗は大人びたことを言う。ただそれが、少しだけ緋雨にも分かる気がした。手紙の中で、自分も焔に同情されたくなくて、あまり暗い話題を出さなかったからだ。それに、前向きに生きている方が、人生なんとかなるというのは、実母の口癖でもあったからだ。

「そうなのね。それなら、私も前向きに、叶斗くんが治るのを信じます」

 緋雨が頷くと、叶斗が満面の笑みで頷いた。

 その後挨拶を終えてから部屋を出て、緋雨は焔に使用人を紹介された。
 皆広間に並んでいた。

「家令の度会(わたらい)、執事の鍋丘(なべおか)、侍女長の高遠(たかとお)、それから緋雨専属の侍女の葉山(はやま)だ。料理人が御手洗(みたらい)。庭師が真野(まや)。他に侍女・侍従がいるが、一人一人の紹介はまた後日としよう。何かあれば、気軽に声をかけてくれ」

 焔がそう言うと、一同が深々と腰を折った。緊張しながら緋雨はお辞儀を返す。

「さて、昼は食べ逃してしまったし、もう夕食時だ。そろそろ食事にしよう」

 こうして緋雨は、焔に促されて、居室へと向かった。
 すぐに運ばれてきた料理は、まるで輝くようなお刺身や天ぷらといった和食だった。
 満足に食事をしたのなど、何年ぶりか分からない。

 つい、涙腺が緩みそうになりながら、緋雨は食べる。しかし胃が小さくなってしまっているのか、半分も食べられず、頭を下げた。

「遺しても構わない、ただ、少し緋雨は細すぎるから、少しずつ食べる量を増やすといいな」

 優しく笑った焔にホッとしながら、その後は入浴した。
 こんなにも温かいお湯も久しぶりすぎて、また緋雨は涙腺が緩み、こちらでは一人だったものだから素直に泣いた。夜眠る自室のベッドは、初めて眠る洋品だったわけだが、とても柔らかく、気づけばこちらも温かな毛布の感覚に涙しながら、眠りに落ちていた。