この日からは世界が色褪せてしまったように、暗くなってしまった。仕事にも身が入らない。見えてきた道が閉ざされ、可能性なんかどこにもなかったと思わせられるような、そんな気持ちだった。義務的に仕事をし、帰宅してからは、通知も着信もないスマホをぼんやりと見据える毎日だ。涙さえ出てこない。そんな日が、一日、また一日と過ぎていく。
「でもな。でも、そうだな。俺は兎も角、トマトは……ちゃんと有効活用されるもんな。きちんと取り柄がある。大丈夫だ、トマトは。それに――眞郷さんは、俺を裏切るような人じゃねぇよな。連絡がこないのだって、きっと……理由がある。絶対ある」
願うような気持ちでそう呟いてから、朝希は自室のベッドに入った。やはりこの部屋で体を重ねなくてよかったと思う。毎日、優しかったあの日の温もりを思い出して眠る事には、たえられそうにも無かったからだ。信じたい気持ちと同じくらい、どこかで諦観もあった。
翌朝、初収穫の日を迎える事になった。いつもより少し早くビニールハウスへと向かい、作業に従事する他の人々と言葉を交わしてから、一つ一つ確認し、朝希は収穫を始めた。大半は規格内のトマトとなったが、やはり一部は規格外品となった。
しかし今後は廃棄するだけでないのだと念じながら、それぞれ別のカゴに収穫していく。
それが一段落したのは、日がだいぶ高くなってからの事だった。そろそろ一度休憩して、昼食をとる時間だ。ビニールハウスを出た朝希は、ベンチの脇の水道へ向かおうとして、足を止めた。人の影が伸びてきたから、ゆっくりと顔を上げる。そして目を見開いた。そこには眞郷が立っていた。
「朝希」
名前を呼ばれ、驚いて唇を震わせた朝希だが、なにも言葉が出てこない。会いたかったと、そう伝えたかったし、何故連絡をくれなかったのかと問いかけたかったが、それすらも言葉にならない。
だから立ち尽くして、土手の上にいる眞郷を見あげていた。
「さっきメッセージを見て、すぐに返事をしたんだけどな、今度は君の方が仕事中だったみたいだな。どうしても早く会いたくて、つい来てしまった」
「お、おう……」
その言葉に、平静を装ってから水道へと向かい、手を洗ってから、朝希はポケットにしまってあったスマートフォンを取り出した。仕事中は通知音を消しているから、ロックを解除しチラリとアプリを確認すれば、既読のマークがついていて、新たに『会いたい』『お土産を買ってきた』『今から行く』と、連続でメッセージがきていた。眞郷がベンチに座りなおしたので、朝希もそちらに歩み寄る。そして動揺しながらも、隣に腰を下ろした。
「出張、長かったんだな」
「ああ。まさか二週間以上も帰れないとは思わなかった。最初は三泊四日の予定が、色々と祖父に頼みごとをされてしまってな」
「そうか。忙しかったんだな」
「忙しいと言えば忙しかったが、観光する余裕もあった」
悪びれた様子もなく、笑顔で眞郷が言う。ズキリと朝希の胸が痛んだ。
「……そうか」
観光する余裕はあるのに、メッセージを返信する時間も、そもそもアプリを見る機会も無かったのかと、糾弾してしまいそうになる。しかしそれらを口にして、怒らせるのも怖い。嫌われたくない。そんな葛藤が原因で、思わず涙が込み上げてきたものだから、慌てて朝希は俯いた。顔が見えないように気をつける。
「何度行ってもいい場所だ。酒も美味いし、海も綺麗で」
「へぇ」
「難点を挙げるなら、こちらの私用の携帯端末の電波が届かない事だな」
「――え?」
「海外もだいぶ繋がるところは増えた、が、あそこはまだまだ全然だ。何度か衛星電話を使って連絡しようかと思ったけど、時差があるから朝希に悪いと思ってかけなかった。連絡出来なくてごめんな。手紙よりはさすがに早く、俺の方が帰る事が分かっていたしな」
微苦笑するような眞郷の声を聞いて、俯いたまま朝希は目を見開いた。
「出張って……海外だったのか?」
「ああ。祖父があちらでも事業を展開しているんだけどな、少しトラブルが起きて、臨時の代理として対処をしてきたんだ」
「……っ、そ、そうだったのか」
朝希の肩から、力が抜けかける。
「朝希?」
「あ、いや」
声に涙が混じってしまったと気づき、慌てて右手の甲で、朝希は頬をぬぐった。
「どうかしたのか?」
「な、なんでもない」
「いいや、なんでもなくはないだろ? どうした?」
「別に!」
「――もしかして、不安にさせたか?」
その通りだったから、朝希は息を呑んだ。すると隣からそっと手を伸ばして、眞郷が朝希の頬に触れた。朝希は恐る恐る、眞郷の方を見る。
「……電話をしたら……電波が、入らないって……俺、拒否されてるのかと思って……でも、本当に入らなかったんだな……」
「悪かった。出張先を、きちんと伝えていくべきだったな」
「まったくだ。俺、俺……何かあったんじゃないかと思ったり、嫌われたのかと思ったり、もう頭の中がごちゃごちゃで……っ、よかった。また会えてよかった」
再び涙が浮かんできそうになったので、朝希は今度は空を見上げた。涙が零れ落ちないように注意する。
「朝希。もっと俺を信じてほしい」
「うん……」
「信用してくれ。俺は理由なく恋人と連絡を断ったりはしない」
「……だったら、信用させてくれ」
「どうしたら信用してくれる?」
「もっと話したい。ちゃ、ちゃんと、だ、だから、出張の話とか、聞きたい」
「これからは必ず話す」
「これからだけじゃなくて、今日ももっと、もっと話したい。眞郷さんと一緒にいたい。仕事が終わったら、話せないか?」
思わず朝希が不安を滲ませる声音で告げる。すると少しだけ眞郷が困ったような顔になり、大きく吐息した。
「実は空港から真っ直ぐこちらへ来たんだけどな、緋茅の里には団体客が来ているらしくて空きが無かったんだ。仙鳥市のホテルをこれから探そうと思ってたところだ。出張が終わったばかりだから、これから一週間は休暇をもらってる、が、今日は難しい」
「俺の家に泊まればいい」
「いいのか? 朝希は今日から収穫作業で忙しいんじゃないのか?」
「平気だから、だから、頼むから……ちゃんとあんたがいるって、あんたと話して、そう実感してぇんだよ」
縋るように朝希が言うと、ポンポンとその頭を、撫でるように眞郷が叩いた。
「分かった。じゃあ泊めてもらう」
「うん、うん」
「俺はここにいるから、安心してくれ。それより昼だろ? きちんと食べないと、午後がもたないんじゃないか?」
「ああ」
頷き、ベンチのそばに置いてあった保冷パックの中から、この日もおにぎりと簡単なおかずを取りだして、朝希は昼食とする事にした。その隣に座している眞郷は、柔和な眼差しで、それから土産話を語り始めた。食後朝希は、家の鍵を眞郷に預けた。
「入っていてくれ」
「いいのか? 悪いな、急に押しかけてここへ来たのに」
「いいんだ。来てくれて、本当によかった。お茶も自由に飲んでいてくれ」
そう短くやり取りをしてから、朝希はビニールハウスの中へと戻った。そしてこの日の予定分まで収穫を終えてから、規格内のトマトと規格外のトマトをそれぞれざっと確認した。詳細な選別や出荷作業は別の場所で行うが、ある程度の数は分かる。今夜それも一緒に報告しようと考えながら、朝希は帰宅した。その間も、本当に夢ではないのだろうかと、ずっと心臓がドクンドクンと煩かった。