「それが、無理じゃないのよ」

 おもわず顔をしかめた陽葉に、志津が不敵に微笑む。

「朔の日まで待たなくても、夕凪の刻になれば龍神島の周りの海が凪ぐ」
「夕凪の刻に?」
「そうよ。地平線に太陽が沈んだあとのほんの一瞬。急いで舟を漕いで島を出ることさえできたら、あとはなんとかなるわ」

 ほんとうにそんなことができるのだろうか。

「でも、舟は……?」
「入り江の洞窟に、花嫁を人里に帰すための舟が隠してあるわ。洞窟には二つの道があって、陽葉は右を通ってここに連れてこられたはず。船が置いてあるのは、左の道の奥。このまま、洞窟に潜んで夕凪の刻を待ちなさい。そうすればあなたは……」

 不安を隠せない陽葉に、志津が説明を続ける。だが……。

「志津様、裏切った」
「蒼樹様に知らせなくては」
「新入り花嫁が逃げてしまう」

 途中で、下がらせたはずのあやかし三人組の声がした。ハッとして見ると、閉めたはずの台所の戸が少し開いている。その隙間から、ギラリと光る目が覗いていた。

「あなたたち……」

 陽葉と志津と目が合うと、あやかし三人組がダダッとどこかへ駆けていく。

 彼女たちの背中を数秒見つめた後、志津は台所の外へと陽葉の肩を押しやった。

「陽葉、早く東の邸宅を出なさい。彼女たちは私が止めるから」
「だったら、志津姉も一緒に行こう!」

 あやかし三人組が蒼樹に告げ口したら、志津は何か罰を受けてしまうかもしれない。けれど、手を差し伸べた陽葉に、志津は淋しそうに微笑んで首を横に振った。

「ごめんね、私は行けないの」
「どうして?」

 夕凪の刻や舟のことを調べていたということは、志津は今も人里に帰ることを望んでいるのではないか。

「だめなのよ。私の心はもう、蒼の龍神様に心を囚われている」

 そう告げた志津は、どこか虚ろな瞳をしていた。

「私の中にある醜さを軽蔑してくれて構わない。陽葉、私はね、可愛かったあなたにでさえ、蒼樹様のそばを奪われたくないと思っているの」

 優しかった志津が、突然、自我を失ったようにニィッと笑う。

「早く、私の前から消えなさい」

 冷たい声で、思いきり背中を突き飛ばされて、陽葉は台所を飛び出した。

『蒼の龍神様に心を囚われている』

 そう言った志津は、もう陽葉の知る志津ではない気がした。

 あれが、龍神島の一部になるということ――?

 背筋がゾクリとし、手足が震える。 

 大好きだった志津の優しい笑顔を思い出しながら、陽葉は泣くのを堪えて懸命に走った。