自分の人生にどこか壁みたいなものを感じるようになってしまった。

爛々と輝く太陽の日差しを受けて身体が熱を帯び、ジトりと汗ばんでゆく。不快だ。

自分の背丈よりも少し大きい柵の遥か向こう側で白い雲がゆうゆうと浮かぶ様子を呆然と眺めていると、背後から声がした。

「飛び降りたりしたらだめだよ!」

「え?」

屋上に僕以外の人間が来るなんて思ってもいなかった。それもそのはずで、屋上はまったくといっていいほど掃除されておらず、そこかしこに苔のようなものが生えているほどだ。

「僕に自殺願望はないんだけど」

「あれ、ごめんね早とちりしちゃった」

そう言うと彼女はてへっと声に出して笑った。まさか現実に、漫画やアニメでしか聞いたことのない笑い方を恥ずかしげもなくする人間がいるなんて。

「えっと、君は?」

沈黙した空気に耐えられず苦し紛れに質問した。視界に映る白い雲は先刻より数センチほどずれている。

「...君さ、クラスメイトの名前くらい覚えなよ!私の名前は秋野 桜。季節の『秋』に野原の『野』、お花の『桜』で秋野 桜だよ。桜って呼んでね」

日光を反射した、もしくは吸収しているかもしれないほど艶やかな茶髪をゆらしながら空に指をなぞる。

天真爛漫という言葉が驚くほどよく似合う。僕はかつてこんな人を見たことがあるだろうか。

「覚えてくれたかな?冬至ゆきひと君」

なぜか僕の名前を呼ぶ声が強い気がしたのは偶然だろう。

たしかに、この声は聞き覚えがあった。彼女はいわゆるマドンナというものだ。なんといっても美人であるうえに誰に対しても分け隔てなく接する優しい人だとみんなが口にしている。

その人気度は、高校に入学して間もない頃に彼女を一目見ようと教室前に軽い人だかりができていたほどらしい。ただ、噂として聞いたことがあるだけで真偽は定かではない。

たとえそれが偽であろうが、特出したなにかがあるわけでもない僕とは住んでる世界の違う人間だというのは間違いない。

「そう、邪魔したね」

「ちょちょ、待って待って!私は君に用があるの!」

横を通り抜けようとした僕の腕を掴み、こっちを向けといわんばかりに腕をひっぱられる。

「ゆきひと君にお願いがあるの。聞いてくれる?」

こんな僕にお願いがあるなんて、何を言われるのだろうか。

「まあまあ、そんな身構えないで。では、ゆきひと君。改めて君にお願いです」

軽く咳払いをして続ける。

「私を描いて」

「ん?」

「私を絵に描いてほしいの」

「ああいや、言ってることはわかるんだけどその、なんて言ったらいいか」

「前に美術選択の授業でゆきひと君の絵を見たんだけど、すっごい上手で感動しちゃって!私のことを描いてくれないかなーって思ったの」

「あーあのコスモス畑の?」

まだ説明に納得のつかないところはあったけれど、褒められるのは素直に嬉しかった。

「それはありがとう。でも僕にはできない」

「...どうしても?」

「どうしても」

昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴って、教室に戻ろうと錆びついたドアを開ける。彼女から待ってと呼びかけられたが、良心を痛めて無視をした。

僕は午後の授業が始まるギリギリで教室に戻ってこれたけど、彼女は何故か十分ほど遅れてやってきて、先生から軽いお叱りを受けていた。「屋上で日向ぼっこしてたらなんだか気持ち良くなっちゃって」なんて手を頭にあてながら言うと、クラスメイトはなんだそれと笑っていた。

先の件が関係しているのか、それともあの後本当に日向ぼっこをしていたのか僕には分からない。

若干の塩素の匂いを含んだ風がまだ少し熱の抜け切っていない身体を冷まして、カーテンを踊らせた。

クラスの喧騒に混じって、正門から道路を一つ挟んだ向こう側にあるプールから水の音が聞こえる。

ふと外に目を向けると、そこには真っ青な空が広がっているだけだった。




「ゆきー、帰るぞぉー」

終礼後、あくびをしながら僕の支度を待っているこの男はいつもより少しだけ上機嫌に見えた。

「タクト、アキノさんに僕がいる場所伝えたでしょ」

「いやー俺も驚いたよ?急に桜ちゃんからゆきの居場所を聞かれてさ、ついにお前にも春が来たんだなって思って」

そう言ってタクトはわざとらしく上を向いて顔を手で覆った。支度ができて二人並んで下駄箱へと向かう。

「そんなことあるわけないでしょ。周りからそういう風に思われるだけで相手に迷惑だ」

「じゃあなんて言われた?」

屋上でのことを他の人に伝えてもいいのか分からなくて迷ったけど、タクトならむやみやたらに広めるようなことはしないと思った。

「私を絵に描いてくれないかって」

「へー、いいじゃん。描いてあげたら?」

「出来ないこと、タクト知ってるでしょ」

そう、できないのだ。いや、正確にはできるにはできる。だが彼女の要求すべてを満たすのはおそらくできない。

「やっぱりまだ治らないのか、人の顔が見えないってやつ」

自分はもう気にしていないが、踏み込みすぎたと感じているのかタクトは少しばつが悪そうにしていた。

彼の言う通り僕には人の顔が見えない。常に白いもやみたいなものが、クラスメイト、先生、通行人でさえ、僕が人の顔を認識するのを阻害する。それは幼なじみで唯一友達と呼べるタクトも例外じゃなかった。

「でもー、あれだ、顔を描かなくても人の絵を描くのはできるでしょ?」

「もちろん。でも今の僕がアキノさんを描いても中途半端な絵にしかならないだろうし、それはアキノさんに失礼だ」

「だけど...」
きっとタクトは僕にもっと友達を作って欲しいのだと思う。だから僕のことを思って引こうとしないんだろう。まったく、我ながら良き友人を持ったものだ。

「いいんだよ、僕はこれで」

「...そか。にしてもゆきは残念だな、こんなにイケメンな男が隣にいるのにな」

そう言ってタクトは周囲に漂い始めた重たい空気を豪快に笑い飛ばした。僕もそれに合わせて笑った。

それからは他愛のない話をして岐路で別れた。今日あったことを頭の中で整理しながら歩いているといつの間にか家についていた。いつもみたいに深呼吸をして、軽く笑顔の練習をして玄関の戸に手をかける。

「お邪魔しますシオリさん」

「あらーおかえりなさい」

キッチンで料理でもしてるのかな。玄関の戸を開けるとスパイシーな匂いが肺を満たして腹の虫を刺激した。

「今晩はカレーライスだから。もう少し時間かかるから先にお風呂に入っておいで」

「わかりました。じゃあお先にいただきます」

背を向けて洗面台の前までいってからようやく笑顔をほどく。シオリさんには感謝している。行く宛がなくなって今頃施設で生活していてもおかしくなかった僕が、普通の生活を送れているのはシオリさんのおかげだ。親戚は皆僕を哀れみの目で見ていた。あの年で、可哀想に、耳を傾けなくてもそんな言葉が常に僕を囲った。

『ゆきひとくん、うちにおいで』

その人は、花でも愛でるような口調でただ一言だけ声をかけてくれた。

その花はどこにも売れず、地中深くに根を張って栄養を吸い尽くしていく。シオリさんはそんな単体では生きていけない大荷物を背負い込んだ。伴侶がいたわけでもなく子供連れのいかにも何かありそうな女性という目で世間からは見られ、早々簡単に相手は見つからず一人で僕をここまで育ててくれた。

当時まだ20代でやりたいこともいっぱいあったであろうに、いつも僕の存在が邪魔をしていた。