♢ ♢ ♢ ♢

 弾かれたように目を覚ます。
 気が付けば、沙雪の頬には涙が伝っていた。

 こんな感情知らない。胸が張り裂けそうだ。
 鏡の未練が視せた柊の過去はあまりに哀しく、あまりに優しいものだった。

「ひ、いらぎ……」

 無意識のうちにその名を呼び、ハッと我に返る。
 あるはずのない土の感触が、手のひらに伝わってきたからだ。

 ――さっきまでいた離れじゃない。ここはどこ?

 反射的に視線を動かし、辺りを見渡す。すると母屋の中庭によく似た景色が見えた。
 どうやら沙雪は両手を縛られ、外に寝かせられていたようだ。身をよじらせ何とか起き上がることは叶ったものの、立つことはできなかった。

「おはようお姉さま。ずいぶん長い間起きなかったから死んじゃったかと思ったわ」
「ひまり……?」

 どうしてひまりがここにいるのだろうか。
 悪辣に歪んだひまりの笑みを見て、沙雪は眉をひそめた。

「どういう状況なのか説明してもらえるかしら。これはあなたの仕業なの?」
「ええ、その通りよ。水鏡の妖を使ってお姉さまを私の屋敷に呼び寄せたの。まさかこんなに上手くいくとは思わなかったけれど」

 迂闊だった。やはり座敷に置かれたあの鏡は、妖だったのだ。
 柊の姿が見えたからといって安易に近づいてしまった自分を今さらながらに恥じた。

「……何が目的?」

 じり、と身を固くした沙雪に、ひまりの笑みが深まった。
 そのまま右手を上にあげたひまりが何かを合図する。すると黒々とした妖気と共に、大勢の中級妖を引き連れた相模が姿を現わした。
 人の姿をした中級妖の首元には、赤い椿の家紋が入っている。父の契約妖だ。

「お姉さまには今から妖に襲われてもらうわ。でも殺しはしない」
「な、にを言って……」
「すぐ殺しちゃったらあの鬼が報復しに来るかもしれないでしょう? だから鬼が完全に弱り切るまで、いたぶってあげる。心配しないで、そのあとにちゃんと殺してあげるから」

 本気で言っているのだ。
 何も映していないひまりの瞳を見て、彼女の本気を感じ取った沙雪はぞくりと肌が粟立つのが分かった。

「無能のままで居てくれたら生かしておいてあげたのに、お姉さまが悪いのよ」
「ひまり、待って」
「当主代理として命じるわ、この女を死なない程度にいたぶりなさい」

 沙雪の制止を無視し、ひまりが後ろに指示を出した。
 すると、控えていた妖たちが沙雪の元に集まる。そして相模が沙雪の襟元を強引に掴みあげた。何の契約印も浮かんでいない白肌に視線をやり、にやりと口角を上げる。

「へぇ、まだ鬼と契約してなかったのか」
「……っあ」
「これなら勝機があるかもしれん。査定の時は不意をつかれてしまったが、百花の血を飲んでいない死にぞこないなど俺の敵ではないからな」

 そう言って、勢いよく沙雪の首元に噛みついた相模。
 相模だけではない。縛られた腕に、動かせない脚に、無数に群がった妖の鋭い牙が襲いかかる。耐えがたい痛みが全身に走り、悲鳴が漏れた。

「や……め……っ、ああ……!」

 生理的な涙が目元ににじむ。
 沙雪が唇を強く噛みしめたその時、辺りを震撼させるような爆発音が響きわたった。
 凍てつくほどの怒気をはらんだ妖気が広がっていく。斬撃が鳴り、沙雪の周りに群がっていた妖たちが叫び声をあげて倒れた。

 白檀の香りが鼻腔をくすぐり、薄っすらと目を開ける。
 そこには、全身に殺気をにじませた柊が立っていた。

「……どうして来てしまったの」

 声を震わせれば、柊の視線が一瞬だけ沙雪に落とされた。
 黄金色の瞳が悲痛に揺らぎ、端整な顔がぐっとしかめられる。

「……私はまた、大切なものを護れなかった」
「ちがうの、待って……」

 弱々しく響いた沙雪の声は、柊に届くことなく消え入った。
 瞬間、妖たちの雄叫びと激しい斬撃音が響いた。先ほどまで沙雪の肌を傷つけていた妖が、柊に襲いかかっていく。
 ひとつ、ふたつと柊の身体に痛々しい傷が増えるたび「やめて」と声が漏れた。

 ――このままでは、柊が死んでしまう。

 柊はずっと、己にふさわしい死に場所を探していたのだ。
 人間を信じたことで人間に裏切られ、同胞を失い、絶望に暮れるなかで‟終わり”を求めていたのだろう。
 あんなに優しかった柊が再び怒りに飲み込まれているのを見て、涙があふれた。

 どうしよう、どうすれば彼を助けられる。
 何かいい方法は――。

 その時、夜空に浮かんだ大きな満月が視界に入った。
 真ん丸と肥えた満月は、その端からだんだんと欠け始めている。
 そうだ、これなら(・・・・)妖の隙をつけるかもしれない。
 
 バッと顔を上げた沙雪は、土ぼこりのなかで刀を振るう柊に向かって口を開いた。

「柊」

 はじめてしっかりと呼んだその名前を口にした瞬間、我を失っているはずの柊が動きを止めた。そしてお互いの視線が交じり合う。
 十八年もの間、首飾りのなかで沙雪を視ていた彼ならきっとわかってくれるはずだ。
 そう確信をもって、縛られた腕を上にあげる。そのまま指先を小さく動かした。

『もうすぐ月が欠ける』『私の合図で』『こちらへ来なさい』

 いつかきっと役に立つ日が来る。
 そう言った弥生から教わった指文字で、音もなく柊に命じた。
 そのまま呼吸を整え、来るはずの月食に向かってカウントダウンをする。

 五、四、三、二、いち――

「今よ! 走って!」

 沙雪が発した声と共に、辺りが暗闇に包まれる。
 その瞬間、勢いよく自分の舌を噛んだ。鉄の味が口内に広がっていく。

 引き寄せられるようにしてこちらへ走ってきた柊が沙雪を抱きしめ、何も見えない夜闇のなかで二人の距離が近付いた。

 そのまま沙雪は、自ら柊の唇に噛みつくような口づけをした。

 ――妖と百花の契約は、互いの血を分け合うことで成立する。

 互いの血が混ざりあい、沙雪の霊力が柊に移っていく。
 ずくんと疼くような感覚が全身に伝わり、赤い契約印が沙雪の肌にあらわれた。

 やがて、陽光のようにまばゆい月明りが再び差し込んだ。

「……沙雪さま」

 白い光に照らされた柊は、沙雪だけを見つめたまま一筋の涙を流していた。

「柊」
「……は、い」
「絶対に死なないで、生きて帰るの」

 沙雪がそう命じると、柊はぐっと身体に力をいれて瞬きをした。
 そして切なげな微笑みを浮かべ、縛られていた沙雪の手をほどいてくれる。

「……仰せのままに」

 沙雪の手にそっと口づけを落とし、周りの残党に向かって再び刀を向けた柊。
 そのまま彼が刀を振れば、あふれんばかりの妖力が斬撃となり、断末魔も残さないまま敵が倒れていく。
 百花の力は、これほどまで妖を強くさせるのか。
 そう思わず見入ってしまうほど、圧倒的な力量差だった。

「どう、して……? こんなはずじゃなかったのに」

 相模を含めたすべての妖が倒れ、呆然としたひまりが膝を落とす。
 カタカタと震えながら爪を噛む義妹を見て、沙雪は口を開いた。

「ひまり、こんなことはもうやめましょう」
「は、あ……? 誰に向かって口をきいてるの? 私はあんたとは違う、あんたと違って恵まれてるの」
「私は椿の家を出るわ」

 そう言うと、ひまりは息をのんだ。

「このまま父の言いなりになっているだけでは駄目。哀しみを……怒りを断ち切らないと、百花はいずれ滅びるわ。人と人、妖と人が憎み合わずに済むような世を築きたいの」

 きっとそれこそ、母が生きたかった未来なのだろう。
 弥生の日記に書きとめられた‟やりたいこと”という言葉を思い返しながら、言葉に思いを乗せる。
 
「……はっ、ずいぶん大層な夢ね。身の程しらずにも程がある」
「ひまり、私はあなたのことも救いたいと思っているわ」
「なんですって?」
「あなたは、私のたったひとりの妹なんですもの」

 ひまりの瞳が大きく見開かれる。

「……ほんと、大嫌い」
 
 揺れているようにも聞こえたひまりの声は、夜闇のなか、静かに消えていった。