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 覚えているのは、身を焼き尽くすほどの哀しみと怒りだけ。
 
 百年前――現世と幽世の境目が曖昧な大和で、最も強い力を持っていた妖の一族。それが鬼だった。
 無類の力を誇っていた鬼の一族は、長寿の者も多い。
 そのため現世の生活に馴染めず、当時の陰陽寮と交流することを拒み続けていた。

 しかし新しく頭領の座についた羅刹は、鬼の一族ではじめて陰陽寮との交渉に応じた。
 歴史は変わり、時代は移りゆくものだ。妖も、人と交わって生きていかなければいけない。そう考えたからである。

 しかし交渉の日、武装した陰陽寮が鬼の里に攻め入った。
 妖の長を滅ぼせと国からのお達しがあったのか、ただ単に鬼の力を恐れたせいかは分からない。
 
 そもそも人力が妖力にかなうはずもなかったが、騙し討ちのような襲撃のせいで大勢が殺された。

 羅刹は一族を護れなかった自分自身を恨み、憤った。
 どうして人間など信じてしまったのか。所詮種族が違う者同士、手を取り合えるはずもなかったのに。

 しかしそんな時、人の身でありながら鬼をかばう者が現れた。

 まだ名前のついていなかったその一族は、花の蜜のように甘美な血液を持ち、身体を霊力で満たしていた。
 一族のなかで最も強い力を持っていた桔梗家の当主は、陰陽寮から鬼の一族を匿い、怒りで我を失っていた羅刹を殺生石に封じたのである。

 それからどれだけの年月が経っただろうか。
 石の外から、女の声が聞こえてきた。羅刹をこの殺生石に封じた桔梗家の末裔だ。

 弥生というその女は、毎日懺悔をするように話しかけてきた。

『人の子は、鬼の一族に謝っても謝り切れないほどのことをした』
『それなのにあろうことか歴史を改ざんし、あなたを封じられた悪鬼だと触れ回っている』

 他に比べて少し学があるらしい弥生は、何故か怒気の混じった声でそう話した。
 弥生にとっては、生まれてもない時代に起こった出来事だ。人間とは元来そういうものなのだから、弥生が憤る必要はないだろう。

 しかし弥生は、殺生石に話しかけることを止めなかった。
 弥生の一族は百花と名が付き、妖と人が手を取り合える未来への礎を作っているという。
 馬鹿らしいと思った。怒りすら覚えた。そもそも桔梗家とて、あの争いでたくさんの血を流したのだ。
 妖と人が共に歩む未来など、訪れるはずがない。

 そうして目を閉ざした羅刹の心が再び動いたのは、それからしばらく経ったころ。

 同じ一族から裏切られ、全てを失った弥生が子を産んだのだ。

 さぞかし世を恨んでいることだろう、全てを奪われた怒りで身をやつしているに違いない。
 そう思い、目を開いた。しかし石のなかから見えた弥生は光を失っていなかった。

『私はもうすぐ死んでしまうけれど、この子がきっと後の世を変えてくれるはずだから』

 久しぶりに聞いた弥生の声は、ひどく掠れていた。
 弥生の隣には、幼い少女が座っている。

『この子は私の唯一の誇りなの。ねえ、鬼の頭領さん。この子……沙雪が持つ光はきっとあなたの怒りを癒してくれるわ』

 そんなはずはない。この怒りは、哀しみは、永遠に消えないだろう。

『母さま、誰とお話しているの?』
『鬼の頭領さまよ。いつか沙雪を守ってくれる強くて優しい妖』
『とうりょうさま? わあ……きれいな緑色の石ね。ひいらぎみたい』

 ――ひいらぎ。

 何も知らない無垢な少女が放ったその言葉が、何故か羅刹の胸を刺した。
 
 やがて弥生は幼い娘を遺して死に、沙雪と名付けられたその少女はひとりになった。
 狭い座敷に閉じ込められ、話し相手もおらず、まるで死を願われているかのような境遇で生きることを強いられた少女。
 
 最初は興味本位で眺め始めただけだった。
 肌身離さず殺生石をつけていた沙雪の人生を視るのは、弥生の時と違って容易かったというのもある。

 想像もできないほどの孤独と戦っていたはずなのに、沙雪は弥生が死んでから一度も涙を流さなかった。
 そんな彼女がはじめて涙を流したのは、十歳を迎えた春の日のこと。

 中庭の柵に、一匹の蛇の骸が刺さっていた。
 白蛇の下級妖である。沙雪を虐げていた義理の妹が仕込んだものだろう。くだらない悪戯だ。

 するとどんな時も涙を見せなかった沙雪が、その骸を抱きしめて泣き崩れた。
 一枚しか持っていない着物が血で汚れることもいとわず、ちっぽけな妖のために彼女は涙を流したのだ。

『ごめんなさい、ごめんなさい……どうか許して』

 大粒の涙を流しながら、沙雪は丁重にその妖を葬った。

 ――どうして、あなたが謝るんですか。

 思わず、ずっと発していなかった声がこぼれ出た。
 全くもって理解不能だ。弥生も沙雪も、何故関係のない妖に向かって心を尽くせるのだろうか。

 どれだけ考えても答えは出なかった。それでも沙雪の気高く優しい魂は、身を焼き尽くすような怒りをゆっくりと癒してくれた。
 じわりと染み込んだ光は羅刹の心を溶かし、代わりに熱く疼くような感情を植え付けていった。
 妖は、魂の色に愛情を持つ。沙雪の心は、今まで見たどれよりも美しかった。
 
 やがて羅刹は、一番そばで彼女を護りたいと思うようになった。
 百年もの間、この身を焦がし続けた呪いを終わらせる場所を心のどこかで探していたのかもしれない。

 怒りを癒し、心を取り戻させてくれた彼女のためならば、この生を終わらせられる。
 願わくば、潔い死を。そして彼女に永久の幸せを。たったひとりで生きてきた愛おしい人の子が、もう寂しい思いをしないように――。