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 離れを出てから数十分後、柊は一軒の屋敷前で立ち止まった。
 そして大切に抱きかかえていた沙雪を、ゆっくりと降ろす。
 足元にはいつの間にか、沙雪がいつも履いている草履が置いてあった。

「もう、草履があったなら自分で歩けたのに……」
「沙雪さまの足になれて幸せでした。どうか、帰りも同じようにさせてください」

 長い睫毛をはためかせながら、薄っすらと頬を染める柊。
 いちいち取り合っていては、沙雪の身が持たない気すらしてきた。そんな柊から視線を逸らすように、沙雪は目の前の屋敷を見据える。

 ちらりと見た時は立派な屋敷なのかと思ったが、なかは無人のようだ。
 ツタが伸びた外壁は亀裂が入り、正門には苔がむしている。少し開かれた門の奥にみえる瓦屋根はさび付き、今にも崩れ落ちそうだった。

「ここは……廃屋?」

 どうしてこんな場所へ連れてきたのか、そう問おうとした矢先、柊が口を開く。

「ここは桔梗家の屋敷跡です。桔梗弥生の生家ですよ」

 思わず言葉を失った。
 この朽ち果てた屋敷は、かつて母が暮らしていた場所なのか。
 古い歴史書で読んだことがある。桔梗家といえば、椿家に負けず劣らずの名家だったはずだ。

 ――きっとかなりの栄華を誇っていたはずなのに、今は見る影もない。

 立ちすくむ沙雪を一瞥し、門を押し開けてくれる柊。
 門をくぐった先にあったのは、殺風景な外庭にぽつんと立った枯れ木だった。
 きっと、かつては立派な楓の木だったのだろう。
 枯れてもなお、漂う威厳がそう感じさせた。

「……ずいぶん長い間、手入れされていなかったのね。外庭に水たまりができているわ」
「転ばないようにお気をつけください」

 心配そうにこちらを伺う柊に「大丈夫」と返しながら、楓の木に近付いた。
 その時、幹の下に溜まった水たまりが揺らいだ気がして、ふと足を止める。

 ――風も吹いていないのに、水が揺れた?

 吸い寄せられるようにして水たまりに近付けば、透明な水面にぶくぶくと泡が立った。
 泡による水紋が落ちついたころ、水面に美しく色づいた楓の葉が映し出される。

「紅葉……? どうして? 楓の木はとっくに枯れてしまっているのに」
「水鏡ですね、鏡に付く下級の妖です。桔梗家に使役されていた妖の未練が、ここに残っているのでしょう」

 柊の表情から笑みが消える。
 
 水鏡が見せる光景の先には、綺麗な紅葉を楽しむ人々が見えた。
 人々が着ている羽織には桔梗の紋印が入っている。これはきっと、この屋敷が栄えていた頃の景色なのだろう。

 沙雪が見入っているうちに、ぱちんと切り替わったかのように水鏡の光景は一変した。
 空は陰り、横に映る桔梗の屋敷からは黒々とした硝煙が上がっている。

 襲撃があったのだ。
 そう分かったのは、水面から刀の斬撃音が聞こえてきたからだった。
 
 桔梗の羽織をまとった人々が、何者かに襲われている。
 妖を従えたその賊を視界に捉えた瞬間、沙雪の背筋を冷たいものが伝った。

 桔梗家の人々を、次から次へと斬っていく賊が身に着けていたのは――椿家の紋印が入った着物(・・・・・・・・・・・)だったのだ。そこには、若き日の父の姿もあった。

「うそ……」

 がくりと身体の力が抜けた沙雪を、柊の腕が支える。

「沙雪さま」
「桔梗家は……母さまの家は、父に滅ぼされたの? どうしてこんなひどいことを?」

 呆けたように呟く。
 柊はただ苦々しい顔をして目を伏せただけで、何も答えなかった。

「どうして……」

 問わずとも、答えは明白だった。
 桔梗家が誇る霊力をものにするため、椿家は妖を率いて攻め入ったのだろう。

 そして妙齢の弥生だけを連れ出し、沙雪を産ませたのだ。

「……母さまは私に『どんな時でも誇りを忘れないで』って言ったの」
「誇り、ですか」
「自分が生まれ育った家を滅ぼされ、一族もみな殺されてしまったのに……どうしてそんなことを言ったのかしら」

 鼻の奥がじんわりと熱くなる。
 沙雪が知っている弥生は、父から愛されてはいなかった。
 この朽ち果てた廃屋がいい例だ。父の愛が微塵も存在していなかったことを残酷なほどに示している。

 きっと霊力の宿った子を産むだけの道具として、最低限の施ししか受けていなかったのだろう。
 その上、生まれてきた子供が無能だと分かった父はひどく弥生を冷遇した。
 
 虐げられ、日の当たらない離れに閉じ込められ、最期は病にかかって死んでしまった弥生。
 そうまでして受け継ぎたかった誇りとは一体何なのだろうか。

「母さまは、どういう思いで私を産んだの?」

 こんなこと柊に言うのはおかしいと分かっているのに、こぼれ落ちる言葉が止まらなかった。
 すると、ふわりと身体が温かくなり、白檀の香りが鼻先をくすぐった。
 柊が、自身の羽織りを沙雪の肩にかけてくれたのだ。

「死者は蘇りませんし、話してくれません。ですがその怒りなら想像できます」
「……怒り?」
「一族を根絶やしにされ、忘れ去られた屋敷は朽ち果てるのを待つのみ。ここには、やりきれない怒りが満ちているでしょう」

 黄金色の瞳が揺れる。柊はまるで、目の前の廃屋を通して自らの過去を視ているかのようだった。

「でも、怒りは永遠ではありません」

 強く響いた柊の言葉と共に、水鏡に映った光景が消える。

「強い光があれば、身を滅ぼさんばかりの怒りは癒えます。桔梗弥生の怒りを癒した‟誇り”は、沙雪さま、あなたへの愛情だったのではないでしょうか」

 ほろりと、沙雪の頬に涙が伝う。
 思い返せば今まで、沙雪はこんな風に人前で涙を流したことがなかった。

「……っ、母さま……」

 気付けば沙雪は、柊にしがみつきながら子供のように泣いていた。
 枯れてしまった楓の木から、色のない葉が落ちる。

 朽ちた屋敷も、かつての大木も、もう蘇ることはないだろう。
 しかしそこには、秋の晴れやかな陽光が差し込んでいた。

 ゆっくりと優しく沙雪の背を撫でてくれる柊。
 沙雪のなかでずっと、呪いのようにはびこっていた矜持(怒り)が柔く溶けていくような気がした。