「ありえない、ありえない、ありえない! お姉さまにあんな霊力があったなんて、絶対認めない……!」
噛みしめた親指の爪先が割れ、真っ赤な血が滴り落ちる。
それでも、椿ひまりは呪文のように「ありえない」と唱え続けた。
カタカタと身体の震えが止まらない。自分がひどく焦っているのだと気付かされたひまりは、襖の前に立つ当主付き女中の胸ぐらをつかみ上げた。
「ちょっと、いつになったらお父さまに会えるのよ! あんた、本当は呼びに行ってないんじゃないの!?」
「ひっ……! と、とんでもないことにございます、ご当主さまは、任務が終わり次第こちらに参ると確かにおっしゃいました……っ!」
顔を青くさせて怯える当主付き女中を見て、大きく舌打ちをする。
異例の事態を引き起こした査定の儀が終わり、ひまりはすぐ百花当主である父の元へ向かった。
信じてもらえる望みは薄いが、今日起こったことは全て沙雪が仕組んだ真っ赤な嘘であると進言するためである。
沙雪がひまり以上の霊力を隠し持っていたことは、霊水の輝きようを見れば一目瞭然だった。
しかしそれを認めてしまっては、身の破滅なのだ。
――絶対に駄目、それだけは駄目、お姉さまが今まで通り無能でいてくれないと……私は、私たちは立場がなくなってしまう。
強く噛んだ奥歯から、ギリギリと音が鳴った。
義理の姉である沙雪は知らない。
ひまりがずっと、嘘だらけの立場で虚勢を張り続けていたということを。
正妻だった沙雪の母親が死に、妾の子から正妻の子に格上げした幼少期。
最初はなんて幸運なんだと思った。無能で誰からも見向きされない沙雪とは違い、ひまりには霊力があった。
それだけで、父はひまりを愛してくれたのだ。欲しいものは何だって与えてくれたし、当主代理の立場も貰えた。綺麗な着物や装飾品を身に着けて威張ることだってできた。
しかし、父が愛していたのはひまりの霊力だけだった。
搾取されていると気付いたのは、いつ頃だっただろう。
霊力の宿る血液を父から要求され始めてから? ひまりを監視するように、父の妖である相模を側仕えに置かれたあの時から? いや、もっと前だったように思う。
その時ふと、先ほど査定の儀で言われた言葉がよみがえった。
『その天狗はあなたの妖でしょう? ご自分の血をお分けすればいいのでは?』
あの、突如として現れた奇妙な異形が放った言葉だ。
柊と名乗ったあの鬼は、一体何者だったのだろうか。
――あの鬼、相模が私の妖じゃないと気付いていた。血を与えてもさして意味はないと分かったうえで、あんな言い方をしたんだわ。
ギリ、と歯ぎしりをする。
相模が太刀打ちできなかったところを見るに、とても力のある妖なのだろう。
そんな妖が沙雪の味方をしているだなんて、もっと状況が悪い。
物心ついた時からずっと、沙雪が大嫌いだった。
自分より不幸なはずなのに、いつ見てもそんな素振りを見せない美しく気高い義姉が。
出来る嫌がらせは全て試したつもりだ。しかし、それでも沙雪は決してくじけなかった。
そんなところすら、ひどく憎らしかった。
いつまで経っても開かない襖を見ながら、ひまりは額に血管を浮き立たせた。
一度出直して、体制を整えた方がいいだろうか。いや、それだと今日の出来事が父に伝わってしまうかもしれない。
ぐるぐると思考を巡らせていたその瞬間、開かないと思っていた襖がすっと動いた。
「お、お父さま……」
パッと顔を上げたひまりの視界に入ってきたのは、険しい表情を浮かべた百花当主の姿。
歳のわりに若々しく見えるのは、その容姿のせいだろう。
髪は黒々とし、顔にシワも見当たらない。美丈夫といっていいほど整っている容貌だ。
しかし、その赤く淀んだ瞳には何も映っていなかった。目の前にいるひまりですらも。
謁見できたらまず何を言おうか考えていたはずなのに、いざ姿を前にすると喉がつまったように狭くなった。
「何の用だ」
「……っ」
数か月ぶりに会う娘に対してかける一言目がそれなのか。
思わず顔を歪めたくなるのを押さえ、ひまりは深々と頭を下げた。
「お忙しいところ申し訳ありません。実は、先ほど終わった査定の儀についてお父さまに申し上げたい事実がありまして――」
「沙雪に霊力が発現したことか? それならすでに報告が入っている」
目の前が真っ暗になった。
ああ、一足遅かったのだ。本家の血を強く継いだ沙雪が無能ではなかったと知ったこの男は、すぐにひまりたち親子を排斥するだろう。霊力を持ったひまりはまだ生きていけるかもしれない。しかし妾の出である母はきっと、この家から追い出されてしまうはずだ。
百花から追い出された者が、大和で生きていけるとは到底思えない。
がくんと膝が落ちそうになる。しかし、その一歩手前で何とか踏みとどまった。
「……まだ、お姉さまに霊力があると決まったわけではありません」
「なに?」
ピクリと、百花当主の眉が動く。
ここが正念場だ。声に張りを出して、説得力を持たせるのだ。
「突然現れた闖入者のせいで、査定の儀は半端に終わってしまいました。その闖入者は鬼を名乗っていましたが……身元もわからず、霊水に細工をされた可能性も否定できないのです」
嘘である。ひまりも間近で見ていたが、あの霊水は間違いなく本物だった。
しかし幸か不幸か実際その場に居なかったこの男には、どちらが真実を言っているのか判別できない。
――お願い、どうか信じて。
じわりと滲んだ汗に気付かれないよう、顔を伏せる。
「数日間、時間をいただけないでしょうか」
「お前に何ができる」
「……お姉さまの近くにいる鬼を退け、お姉さまが本当に霊力を持っているかどうか確かめます」
永遠とも思える沈黙がその場に流れたのち、父が踵を返した衣擦れの音が耳に届いた。
「封じられた鬼が現世に蘇ったのなら、百花の脅威になるかもしれん。中級の妖をいくつか寄こす。天狗と共にうまく使え」
「はい、はい……! ありがとうございます!」
顔を輝かせたひまりが上を向いた時、そこにはもう父の姿はなかった。
上出来だ。どうなることかと思ったが、何とか上手くやり過ごした。あとは、どうにかして沙雪を引きずり下ろすだけである。
ひまりにはもう後がない。手を打った先で沙雪がどうなろうと、知ったことではないのだ。
淀んだ大和の曇り空は、晴れる様子がない。
ゆっくりと動く雨雲の流れを見ながら、ひまりは血が滲んだ親指の爪を噛みしめた。