「全て説明してちょうだい」
「全てとは、どこまででしょう?」
「最初から最後まで全てよ」
柊に抱えられ、離れへと戻ってきた沙雪。
目の前には割れてしまった首飾りと、やや決まり悪そうに正座をした柊の姿がある。
「あなたほどの妖が善意で私を助けたとは思えないわ。どうして私を助けるような真似をしたの?」
柊が、沙雪の首飾りに封じられていた鬼であることは理解した。
しかし考えてみればおかしな話である。まず彼を封じていた首飾りが沙雪の危機を察知したかのようなタイミングで割れた。そして当の柊は何故か沙雪に味方するような行動をとり、これまで皆無だった沙雪の霊力が突然開花したのだ。偶然にしては、あまりに出来すぎている。
懐疑心に満ちた沙雪の視線を受け、柊はゆっくりと目を伏せた。
「……たしかに私はとある目的のためにこうして姿を現わし、沙雪さまの利になるよう動きました。それでも、こうなるよう計算したのは私ではありません」
「どういうこと?」
「私に沙雪さまを助けさせ、今日あの場で沙雪さまの霊力を開花させるよう仕向けたのは誰でもない――桔梗弥生ですよ」
思わずハッと息をのんだ。
桔梗弥生とは、母の旧姓を含む名前だったからだ。
「母さまが、こうなるよう仕向けた?」
「桔梗弥生は私を封じた殺生石の効力が切れる頃合いを見計らい、沙雪さまに渡したんです。それが査定の儀に重なることも、彼女は計算していたのでしょうね」
「どうしてそんなことを……」
「沙雪さまを椿家から護るためです」
柊の声が真剣なものになり、場の空気が張り詰める。
床に置かれた首飾りの欠片が、鈍く光ったような気がした。
「もし沙雪さまの霊力がはじめから開花していたなら、間違いなく百花当主に搾取されていたでしょう。後ろ盾となる妖もあの頃には居なかった。だからこそ桔梗弥生は死の間際に殺生石を託し、沙雪さまの霊力を封じたのです」
いずれ封印から解き放たれる鬼の頭領が、娘の力になってくれることを祈って。
そう続けた柊を前に、沙雪は大きく息を吐き出した。
「……そう、なるほどね」
「おや、驚かないんですね」
話を聞いてもなお落ち着いている沙雪が意外だったのか、わずかに目を見開く柊。
そんな柊を見て、自嘲的な笑みをこぼした。
「椿家が霊力第一主義なことは身に染みて分かっているし、全てが理にかなっているもの。母さまらしいわ」
割れてしまった首飾りを見ながら、ぎゅっと手のひらを握りしめる。
どうして今まで気が付かなかったのだろうか。この世から居なくなってもなお、母は沙雪を護ってくれていたのだ。
うつむきかけたその時、沙雪の面前にコトンと何かを置く柊。
それは、先ほど手のひらから抜き取られた麻酔薬の小瓶だった。
「理解が早すぎるのも、聡明すぎるのも、それはそれで心配になりますね。この麻酔薬はどういうつもりで用意したんですか?」
柊が、何とも言えない表情で小瓶を一瞥する。
「……いざという時に備えただけよ」
何故か切なげに揺れている柊のまなざしから目を背けながら、横の畳を手で撫ぜた。
そして、畳の縁から飛び出た紐を引き上げる。
すると木材が軋むような音と共に、六畳一間ぶんの床下収納が姿を現わした。そこには隙間が見つからないほどの書物が敷き詰められている。生前、沙雪の母である弥生が読んでいたものだ。
――これは、ひとりぼっちだった私が唯一持っていた武器のようなもの。
沙雪が閉じ込められたこの離れには、何もなかった。
あるのは小さな炊事場と中庭、そして母屋に繋がる鍵のかかった扉だけ。
食事だけはかろうじて届くものの、娯楽や新しい着物が用意されることはない。
だからといって離れを出ていくことも許されない。狭くて暗い座敷は、沙雪がひとりで死にゆくのを期待されて作られた独房のようだった。
しかし沙雪には母が遺してくれた知恵があった。
食物の作り方、薬の調合方法、裁縫のやり方、国内外の物語まで。
数年に一度くらい顔を合わせる父やひまりは、床下に隠された書物の存在を知らない。
彼らからすれば、くじけずに生き続けている沙雪が不思議でしょうがなかったことだろう。
「そう、ですか……でも命を賭けるような‟いざという時”はもう訪れませんよ」
沙雪の手のひらをとり、指先を絡める柊。
ひんやりとした肌の感触に、びくりと肩が震える。
拒むことはしなかった。不思議と嫌ではなかったからだ。
「……あなたは、私と契約がしたいの?」
「ええ、したいです。できることなら今すぐにでも、沙雪さまだけの妖になりたい」
黄金色に輝いた柊の瞳が、沙雪だけを捉えている。
こんな風に触れられるのも、誰かから見つめられるのも、生まれてはじめてだ。
どうしてそんなまなざしで、自分を見るのだろうか。
こうまでして柊が自分との契約を望んでいる理由を、知っておかなければいけないと思った。
「契約したいのは、霊力が欲しいから?」
「いいえ、もっと単純な理由です。馬鹿らしいと笑われるかもしれませんが」
柊がくしゃりとはにかみ、美しく整った顔がほんのりと赤く染まる。
単純な理由とは何だろう。殺生石に封じられるほど恐れられた鬼が沙雪を求める理由など、霊力以外にあるのだろうか。
沙雪が首をかしげていると、絡められた指先に力がこもり、くいっと引っ張られた。
唇が触れあってしまいそうなほど近付いた距離に、小さく息をのむ。
「沙雪さまが好きなんです」
「す、き?」
「それはもう狂おしいくらいに。無理矢理ものにしていない自分の理性を褒めたい気分です」
妖の独占欲は、人の数倍にも及ぶという。
目の前の柊からも、茹だるような感情があふれ出ているかのようで、沙雪はひそかにうろたえた。
「……私たちは今日はじめて顔を合わせたでしょう」
戸惑いを声に乗せて眉をひそめる。
飄々とした笑みを浮かべた柊は、その疑問に答えないまま手の力を強めた。
「これからは私があなたを護りましょう。食事も私が作りますし、なんだったら外へ出てもいい。沙雪さまが望むすべてを、私なら叶えて差し上げられます」
固まったまま困惑する沙雪に、柊は花のように微笑みかけて頬を染める。
そのあまりの優美さに、ぱちんと意識が戻る音がした。
この妖が沙雪に心を傾けてくれる理由はわからない。
しかし沙雪を見つめるまなざしの温度だけは嘘をついてないように思えた。
「……わかった、あなたと契約するわ」
「本当ですか?」
柊の表情がぱっと華やぐ。
こくりと頷きながら、沙雪は柊に目線を合わせた。
「ええ、でもたくさんの望みを叶えてもらうつもりはない。私がお願いしたいのはひとつだけよ」
「お願い?」
きょとんと聞き返した柊をよそに、横を向く。
そして床下に収納してある書棚から、冊子を一冊取り出して開いた。
これは弥生――沙雪の母がつけていた日記である。
沙雪が生まれてからの日々を、備忘録のように書き留めたものだ。そのなかの一文を指さし、柊を見る。
「これは母の日記よ。書いてあることはほとんど、とりとめもないただの文章だけど……この一文だけ様子が違うの」
「‟私にはやりたいことがある”……ですか。途中で文が切れているようですね」
「この頃にはもう病に侵されていたはずだから。でも何度読み返しても、母の‟やりたいこと”が何なのか分からなかったわ。だからどうしても知りたいの」
病床に伏しながらも、最後まで沙雪の未来を案じてくれていた弥生。
そんな弥生が、日記に書き記すほどやりたかったこととは何なのだろうか。
ずっと疑問に思いながらも、離れに幽閉されている沙雪には知る術がなかった。
――それでも、彼ほど力のある妖が味方になってくれるのなら……知れるかもしれない。母さまの最期の願望を。
「協力、してくれる?」
おずおずと柊を見上げた。
すると一瞬だけ目を見開いた柊が、ふっと微笑む。
「もちろん、沙雪さまがお望みならどんなことでも」
その返答を聞き、ホッと息をついた。
同時に、嬉しさが湧き上がってくる。今まで諦めていたことが叶うかもしれないのだ。沙雪の胸はいつになく高鳴っていた。
笑みを隠し切れない沙雪を、柊は何とも言えない複雑な表情で見つめる。
「ずいぶん嬉しそうですね。私が気持ちを伝えた時より感情が動いていませんか?」
「そ、れは……仕方ないじゃない。好きという言葉は知っていても、それがどういうものなのかよくわからないの」
たどたどしく答える。
柊が『好き』という感情だけで沙雪を助けたという事実は、まだ頭の中でかみ砕けていない。真意ではないかもしれないとすら思っている。
それでも、柊が沙雪の命を救ってくれたことだけは確かだ。
彼がどういう心持ちであろうとも、沙雪はそれを受け入れるつもりでいた。
「なるほど、そういうことならゆっくり知っていきましょうか」
「え?」
なんだか嫌な予感がした。
柊の雰囲気が、少し意地悪なものになったような気がしたからだ。
身構える前に、先ほどのようにくいっと手を引かれる。そのまま、なす術もなく柊に半身を抱きかかえられた。
「ちょっと……!」
「おや、やっと動揺してくれましたね。ですがそんなに初心では妖と契約なんて出来っこありませんよ」
「あ、妖と百花の契約は、互いの血を分け合うだけでしょう……!? こんな抱擁は必要ないわ!」
抗議の意を込めてキッと睨みつけてみたものの、かえって嬉しそうな顔をされてしまった。
「単に血を分け合うだけでは、薄っぺらい仮初めの契約しかできません。妖が百花との契約で真に力を得るには、もっと深い関係にならないと」
「そんなの、聞いたことな……」
「沙雪さまが知らないだけでは?」
楽しそうに笑みをこぼす柊を見て、むっと頬をふくらませる沙雪。
すると、ふくらんだ頬をちょんと指でつつかれた。
「駄目ですよ。私は沙雪さまをお慕いしてると言ったでしょう? そんな可愛い顔をされては、むしろ逆効果です」
「な、あ……っ」
話にならない。
ぱくぱくと口を開閉させた沙雪を面白そうに見やりながら、自身の顎先に手をやる柊。
「心配せずとも契約を急いたりしませんよ。ただ封印から解放されたばかりでちょっとばかし妖力が足りないので、沙雪さまにやってほしいことがあるんです」
「やってほしいこと?」
「はい。沙雪さまの方から私に口づけをしてください」
にっこりと笑みを湛えながらそう言った柊に、沙雪はポカンと言葉を失うことしかできなかった。
口づけ。それは自身の唇で相手の身体に触れることを指す。それを、自分から柊にする。考えただけでも、頬が紅潮していくのが分かった。
「……ああ、なんて可愛らしい。考えただけで恥ずかしくなってしまったんですか?」
眉を下げて沙雪の頬にそっと指を這わせる柊に、もっと顔が赤くなる。
「わっ、私には、少し荷が重すぎるわ……その、経験もないし、やり方が分からないもの」
「やり方? 沙雪さまの唇で私の唇に触れるだけだけですが」
——しかも、唇にだった。
せいぜいで頬に口づけをする程度だと思っていた沙雪は、ありえないという表情で思いっきり頭を振った。
そんなもの、できるはずが無い。恥ずかしいというのが前提にあるのはもちろんだが、本当にやり方が分からないのだ。
「困りましたね。沙雪さまの口づけがないと、私は姿を保っていることができないのですよ」
「うそ……」
「本当です。そうすれば桔梗弥生の願いを知ることもできなくなりますね。ああ、それと私が刀で刺した天狗が報復しに来るかもしれませんが、その相手も出来なくなってしまいますし。沙雪さまの口づけひとつで、全て解決するのですが、なんて口惜しい……」
「ええ……?」
最後の方は少し早口になっていた気もするが、とても悲しそうに遠くを見つめた柊。
どうしよう。相模が報復しに来たとしても何とか対処できるかもしれないが、弥生の願いを知れなくなるのは困る。
ひょっとしてこれは、やり方が分からないなどと言って断ってはいけないことなのではないだろうか。
うなりながら長考した末に、沙雪はすっくと柊に向き直った。
「分かったわ。引き受けましょう」
「いいんですか?」
「ええ、でもその、やり方が分からないというのは本当なの。だから、指南してくれる?」
「……指南だって?」
至極真面目な顔で「指南」と言った沙雪に、目を丸くして聞き返す柊。
「口づけのやり方を教えてちょうだい。そうしたら、言われた通りに頑張るから」
力強くうなずいた沙雪に、先程よりも大きく目を見開き固まる柊。
頭の固い沙雪の中ではもはや目先の恥ずかしさよりも、使命感の方が勝っていた。
そのせいか、自分が今言ったことの重大さが沙雪には理解できていない。軽く口づけをするということよりも数倍恥ずかしいことを沙雪は今、自らお願いしたのである。
しばらく固まったのち、柊は大きなため息をついて頭をかかえた。
何も分かっていない沙雪がパチパチと目を瞬けば、きゅっと眉をひそめた柊が顔を上げた。
「すみません、少しからかいすぎましたね」
葛藤するように再び息を吐き出した柊が、沙雪の頬に触れる。
「今はこれだけで我慢します」
「……っ」
優しくささやかれたのち、まぶたに落とされた小さな口づけに身体が震える。
やがて後追いするようにやってきた羞恥心が、沙雪を支配した。
――契約するだなんて、言わない方がよかったかも。
生まれて初めて浴びせられる他者からの甘い感情。
これまで一度も受け取ったことのない気持ちをまるで花束を渡すように差し出され、沙雪はうろたえることしかできなかった。