「何なのよ鬼って……この妖、お姉さまが呼び寄せたわけ?」

 わなわなと震えながら、キッと沙雪を睨みつけたひまり。
 沙雪が呼び寄せただなんて、そんなわけがない。当の沙雪もまだこの状況を飲み込めていないのだ。
 柊はどこからどうやって現れたのだろう。数秒考えを巡らせた沙雪は、胸元にいつも感じていた重みが無くなっていることに気付く。そういえばさっき相模に襲われる瞬間、首飾りが割れてしまったのだった。

 寂しくなった胸元に手を当てる沙雪を見て、柊は畳に散らばった首飾りの欠片を拾い上げた。
 そして欠片を手渡しながら、はだけた沙雪の着物を直してくれる。

「あ、ありがとう」
「いいえ。ついでにこれも預かっておきますね、割れてしまったら危ないので」
「あっ……」

 すっと抜き取られたのは、左手に握りしめたままだった小瓶だった。
 小瓶の中身は麻酔薬だ。霊力のない沙雪がたったひとつの切り札として用意していたものである。
 この鬼は、どこまで沙雪のことが見えているのだろう。どこか恐ろしい気持ちになりながらも柊を見つめれば、薄っすらとした微笑みが返ってきた。

「沙雪さまが身につけていた首飾りはただの勾玉ではありません。殺生石(せっしょうせき)と呼ばれる代物です」
「殺生石……って、あの殺生石?」

 沙雪がそう問うと、柊はにこやかにうなずいた。
 殺生石は妖を封じるための魔石で、百花が保有している国財である。
 封術の効力は石の大きさによって違うが、沙雪がつけていた勾玉だと百年くらいになるだろう。
 
 ――そういえば、ちょうど百年前に滅んだ鬼の頭領は当時の陰陽頭によって封じられていたんだっけ……。

 現世を滅ぼしてしまうほどの妖力を持ったその頭領の名は、悪鬼羅刹(あっきらせつ)
 まさかこの男が、その羅刹だとでもいうのだろうか。

「血……血を、くれ……」

 相模の低い声が聞こえ、弾かれたように横を見やる。 
 出血は止まったように見えるが、そうとう傷が深かったのだろう。相模はまだ動くことがかなわない様子だ。

 そんな相模に寄り添いながら、ひまりは血相を変えてこちらを睨めつけた。

「誰か! 誰でもいいから血を寄こしなさい! 鈴蘭でも朝顔でも芍薬でもいいわ!」
「おや、その天狗はあなたの妖でしょう? ご自分の血をお分けすればいいのでは?」

 この事態を楽しんでいるのか、面白そうに首をかしげた柊。
 ひまりは額に血管を浮き立たせながら、キッと眼光を強めた。

「誰のせいでこうなったと思って……それに私の血は貴重なのよ! こいつらとはモノが違うの!」

 大声でがなるひまりは、先ほどまでとはまるで別人のようだ。
 そんな彼女に血を分け与える者など出てくるはずもなく、媚を売っていた下男たちですら気まずそうに目を伏せていた。

「ひ……まり、血を……」
「大丈夫よ相模、今すぐ用意してあげる。あいつらが拒めるはずないもの」
「ちがう、俺が今欲しいのは……そいつの血だ」

 相模が指さした方向に、みなの視線が集まる。その瞬間、場の空気が一変した。

「わ、私?」

 思わず、上擦った声がでてしまう。
 相模が指さしたのは誰でもない、沙雪だった。
 
「はあ? なんでお姉さまなの? 無能の血が何の役に立つのよ!」
「無能はどちらですか」

 冷たく響いた柊の声に、ひまりの動きが止まる。
 
「ああ……そうか、そもそも人間には霊力を嗅ぎ分ける能力がないんでしたっけ。妖ならばすぐに気が付きますよ、この場で最も強い霊力を持っているのは沙雪さまだと」
「ちょ、ちょっと待って、私には本当に霊力がないの。今まで数えきれないくらい調べたけれど、それだけはずっと――」

 言葉の途中で、はたと気付く。
 殺生石は、妖力を含むありとあらゆる‶力”を封じる魔石だということに。
 
 ――殺生石の封術がもし、霊力にも作用していたとするなら?

 石が割れてしまった今、沙雪の霊力が開花したとしても、ありえない話ではない。
 沙雪はずっと、母の形見である首飾りを肌身離さずつけていたのだから。

 口元を手で押さえたまま立ちすくむ沙雪を見やり、柊は目を細めた。

「そういえば、これは査定のために用意された場なんでしたっけ。それなら霊力を可視化できるよう、正式な査定を行いましょう」
 
 パチンと柊が指を鳴らせば、その場に小さなお椀が現れた。
 奇怪な妖術を目の当たりにして唖然とする沙雪たちに構う様子もなく、柊は再びスッと指先を動かす。
 すると空っぽだった椀のなかに、透明な液体が満ちていく。
 
「これが何かは分かりますよね」
「査定に使う、霊水(れいすい)……」

 下男のひとりがぽつりと返した。
 今でこそ形式が変わってしまったが、元々行われていた査定の儀では跡継ぎたちの血を霊水に落としてその力を測っていた。
 霊力が強ければ強いほど、血を落とした時に眩いほどの光を放つのだ。

「沙雪さま、血を一滴いただいてもよろしいですか?」
「え、ええ」

 一瞬ためらったが、素直に手を差し出す沙雪。
 沙雪が差し出した手にそっと触れた柊は、その指先を細い針で軽く突いた。
 指の腹を爪先でくすぐられるような感覚と共に、赤い血が一滴、水にしたたり落ちる。

 その瞬間、思わず目を細めてしまうほどの閃光が座敷中に広がった。

「う、そ……」

 仮説はすでに立てていた。しかしそれでも目の前で起こった事態が信じられず、ふるりと唇が震える。
 まさか、自分に霊力が開花するなんて。
 そして驚いているのは沙雪だけではなかった。怯えていた百花の少女たちも、沙雪を馬鹿にした下男たちも、全員「ありえない」と言いたげな表情で開口していた。
 ひまりに至っては目を見開いたまま呆然としている。
 
 未だ弱まらない霊力の光はまるで、美しい月光のようだった。

「だから言ったでしょう? 沙雪さまはこの世で最も甘美な血を持つお方だって」

 嬉しそうに微笑んだ柊が、沙雪だけに言い聞かすようにささやく。
 この場にいる沙雪以外の人間は見えていない様子の柊に、何故か視線が奪われた。

「じゃあそういうことで、もうこの場に用はないですよね」
「え?」
「だってこの中で一番力を持っているのは沙雪さまだと明白になったでしょう? なので帰りますよ」
「帰るって、どこに――きゃっ!?」

 言い終わらないうちに視界が反転し、声が裏返ってしまう。
 沙雪を軽々と抱え上げた柊は、凍り付いた場の空気を無視したまま襖の引手に指先をかけた。

「ちょっと、待ちなさいよ!」
「……はぁ、まだ何か?」

 座敷を出る寸前のところでひまりに呼び止められ、苛立ったように眉をひそめる柊。
 しかしひまりも、怒りに震えた様子で瞳孔が開いている。

「お姉さまに霊力があるなんて信じないわ。このままじゃ済まないから、覚えておきなさい」

 ひまりの静かな怒号に答えないまま、柊はふっと笑って敷居をまたいだ。

 雷鳴が鳴り響き、冷たい雨が降り始めた。
 きっとこの雨はしばらく止まないのだろう。遠ざかっていくひまりの歪んだ表情を見ながら、他人事のようにそう思った。