「なぎ、九条くん、また明日!」

「うん。沙夜、気をつけて帰ってね!」

「三池、またな!」


放課後になって、沙夜に手を振って別れたあと、私は九条くんと美術室へ向かう。


美術室はいつもの静けさだ。

美術部は自由だから、毎日誰かがいるわけじゃない。

だから、ここにいるのは決まって私と九条くんのふたりだけ。

今日も、他の部員の気配はない。


私は、今朝描いていた絵をイーゼルに立てかけて再度眺める。

『世界絵画コンクール』の応募締切までもうそんなに時間がない。

今朝描いた桜並木の絵を完成させるべきか、それとも別の絵を描き直すべきか。

どちらがいい選択なのか考え込む。


「おお! 桜の絵だ。スゴいな、もう完成してる」


背後から私の絵を見て、感心したように言う九条くん。


「もしかして、これって校内の桜並木か?」

「うん、そうだよ。よくわかったね」

「なぎが描く絵は写真みたいにリアルだからな」

「……ありがとう」


九条くんの賞賛はうれしいはずなのに。
心の中では、どうしても不安が拭いきれなかった。

私はこの絵の完成度に満足していない。
本当に評価される絵なのだろうかと、疑問が頭をよぎる。


「なぎ、最近ずっと難しい顔してるよ。前は、もっと楽しそうに絵を描いてたのに」


突然の九条くんの言葉に、驚きを隠せなかった。


「どうしてそれを……?」

「わかるよ。入部したときからずっと、なぎが描いてる姿を見てきたんだから」


思わず言葉に詰まる。

九条くんがわかるくらい表情に出てたんだ……。

ひょっとしたら、沙夜も九条くんと同じように気づいているのだろうか。


「何かあったのか?」


自分の気持ちを吐き出してしまったら、失望されるんじゃないかと思っていたけれど……。

入部してからずっといっしょに絵を描いてきた九条くんになら、打ち明けてもいいかもしれない。


「実は私、自信がないんだ……自分の絵に」


重い口を開いて、九条くんに心の内を明かす。


「えっ? なんで?」

「この絵を見た人たちはみんな、桜並木だって言うけど……私にはそう見えないの。だから、この絵をボツにしようと思ってて……」

「いや、待てよ! そんな必要ないだろ?」

「ううん……たぶん、今度は入賞すらできないと思う」

「なに言ってんだよ。ずっと受賞してきたんだから、今回も入賞するに決まってるって!」


九条くんの言葉が逆にプレッシャーになる。

私の絵は本当に応募にふさわしいのか……。

もし入賞しなかったら、周りの人たちはどう思うのだろう。

そんな考えが頭の中をぐるぐると巡る。


「もしかして、なぎがこの絵をボツにしたいのは汚れてるからか?」


九条くんがキャンバスの斑点模様を指差して言う。


「これって、絵の具じゃないよな? まさか、誰かにイタズラされたのか!?」


これは……今朝、永瀬くんたちがつけたって言っていたものだ。


「違うよ、完全に私の不注意でついたものだから。それに、汚れてなくても、この絵はボツにするつもりだったの」


すると、九条くんの眉間にしわが寄った。


「それ、本気で言ってんのか?」

「……うん」

「そんなことする必要ないだろ! 誰がどう見たって完璧な桜並木の絵なんだから」


九条くんの言葉に、思わず息を呑む。


「そんなことないよ。私の絵よりも、九条くんの絵のほうが完璧に描けてる」


九条くんが描いているのはチューリップの風景画だ。

光と影のコントラストが絶妙で、花のグラデーションが鮮やかに際立っている。

こんなにも緻密(ちみつ)に計算して描けるなんて。

私のように、ただ思いのままに感覚で描くのとは違う。


「私も、九条くんみたいに描けたら……もっと上手くなれるかもしれないのに」


そう呟いた瞬間――。


「ふざけるなっ!」


突然、九条くんが声を荒げた。

その激しさに、思わず身をすくめてしまう。


「そんなこと言われても全然うれしくないんだよっ! 俺はまだ一度もコンクールで入賞したことなんかないんだからっ!」


怒りで声を震わせる九条くんに、私は動揺してしまった。

九条くんがこんなにも怒りを(あら)わにするところを見たのは初めてだ。

自分の無神経な発言で、九条くんを傷つけてしまったことを自覚する。


「……ごめんなさい」


私は、それ以上何も言えなかった。


「俺はなぎが羨ましいよ。いつも入賞して評価されてるんだから。それなのに、なんで自信がないなんて言うんだよ」


彼の言葉が胸に鋭く突き刺さる。

九条くんは私を信じてくれているのに、その期待に応えられない自分が本当に情けない。


「……九条くんの言う通りだよね。本当にごめんなさい。私……ちょっと頭冷やしてくるね」


リュックに道具一式を詰め込んで、キャンバスを抱える。


「なぎっ!」


九条くんに呼び止められたけど、背後で聞こえる彼の声を振り切るように、私は美術室をあとにした。