大人になっても絵を描く――それが私の夢。

そのために、高校生になってからずっと絵と勉学に(はげ)んできた。

だけど、現実は残酷(ざんこく)にも私の進路を(はば)む――。






ああ……。
やっぱり、また絵が描けなかった。

世界絵画コンクールの応募まで、もう時間がないというのに。
自分の思い通りの絵がなかなか描けない。
気がつけば、数えきれないほどの絵をボツにしてしまっている。

こんなときに、足踏みしている場合じゃないのに……。


今年は受験の年だけど、私はすでに“とある美術大学”の受験を終えている。

合格発表は、夏ごろ。

とはいえ、結果が出るまでは他の大学の受験勉強をする必要があるから、まだ気は抜けない。

それなのに、私はある日からスランプに(おちい)った。

どの進路も美術大学を選んでいるのに。
受験に合格していたとしても、肝心の絵が描けないなんて話にならない。


「はぁ……」


たまらず、胸の奥から深いため息がもれる。


一刻も早く、スランプから脱出したいのに。
そこからなかなか抜け出せなくて、焦る気持ちだけが募っていく。

春になって桜が咲けば、また自分らしく絵を描けるかもしれない。
そう期待したけれど、残念ながらそれは叶わなかった。


――ずっと絵を描き続ける。


“あの男の子”と約束したから、本当は自分の夢を諦めたくはないけれど。
このままの状態が続くなら、現実を見て進路変更も視野に入れなければならない。

でも、私から絵を取ってしまったら、いったいなにが残るのだろう。
この先、絵を描くより夢中になれるものに出会えるのだろうか……。

そんな葛藤(かっとう)を抱きながら、美術室のある旧校舎に足を踏み入れようとした――そのときだった。


「あのっ! ちょっと待ってくださいっ!」


背後から男の子の声が聞こえた。

私は足を止めて振り返る。


「キミは……」


誰かと思ったら、さっき桜並木の道にいたサッカー少年のひとりだった。


日差しを受けて、かすかに輝く黒い髪。
健康的な肌に、鼻筋が通っていて顔が整っている。 
彼の身長は、私よりも頭ひとつ分ほど高そうだ。
人懐っこくて親しみやすそうな雰囲気がある。

女の子に好かれそうだな……。


「すみません、急に声をかけて……俺、1年の永瀬(ながせ)陽翔(はると)と言います」


息を整えながら、自己紹介をする永瀬くん。

その(ひたい)には、じんわりと汗がにじんでいる。


……永瀬陽翔。

どこかで聞いたことがあるような名前だけど、気のせいだろうか。


「私は3年の桜庭(さくらば)なぎです」


とりあえず、私も礼儀にならって自分の名前を名乗る。

彼がなぜ追いかけてきたのか、まだ理解できていない。
彼はわざわざ私に名前を言うために、走って追いかけてくれたのだろうか。
なんて律儀なんだろう。


「俺、どうしても桜庭さんに聞きたいことがあって」


私に聞きたいこと?


「なに?」


すると、永瀬くんは私が両手で抱えているキャンバスを指さした。


「その絵、本当にボツにするんですか?」

「……うん」


永瀬くんの質問に、私は静かに(うなず)く。


「それって……やっぱり、俺がその絵を汚したからですか?」


キャンバスを見ると、永瀬くんは申し訳なさそうな表情を浮かべる。

彼が私を追いかけてきた理由が、このことだとようやくわかった。


「違うわ。永瀬くんのせいじゃない」

「じゃあ、どうして?」


そういえば、永瀬くんは知らない――私がこの絵に何をしようとしていたのか。


「実は私、今スランプ中なんだ。だから、なかなか自分が思う通りの絵が描けなくて……」

「そうは言っても、桜庭さんが描いていたのは、さっき俺たちがいた桜並木の絵ですよね?」

「うん。でも、桜の花びらを描いていると、キャンバスにただの薄紅色の油絵の具が乗っているだけに見えてきて……だんだん自分が何を描いているのかわからなくなってしまうの」


永瀬くんがこの絵を当てたのは、私たちがいた桜並木の風景画がキャンバスに映っていたからだろう。

そうでなければ、何を描いているのかさっぱりわからなかったかもしれない。


「だから、この絵をボツにしようと思って、美術室まで黒色の絵の具を取りに行ったんだ」


その証拠に、私はスカートのポケットからセピアと書かれている絵の具を永瀬くんに見せた。


「でも、永瀬くんたちのおかげで、それをする手間が省けたから助かったよ」


永瀬くんは納得いかない様子で眉をひそめていた。
その視線が絵と私を行き来している。


「どうしてそこまでする必要があるんですか? そんなことをしなくても、桜庭さんはちゃんと桜並木を描けてるのに」


スランプ中なのに、私の絵をそんなふうに評価してくれるなんて。


「ありがとう。でも、私には有名な画家やプロのような才能なんてないから……」


私にとって、絵はまさに言葉そのもの。

基本的な絵の表現技法なんてまったくわからないまま、今までずっと独学でやってきた。

だから、特別スゴいことなんて何もない。


「そんなことないです!」


永瀬くんの大きな目が、私をじっと見つめる。


「桜庭さんには、絵を描く才能があります!」


絵を描く才能がある……ね。


永瀬くんはただ私を励ますために言ってくれたのかもしれない。

でも、今の私には、その言葉が重荷に感じる。


「そうかな? 私はただ絵を描くのが好きなだけで、永瀬くんが思ってるような才能なんて持ってないよ」


私が本音を言うと、永瀬くんの表情が急に悲しそうに変わった。


しまった……っ。
そんな顔をさせるつもりはなかったのに……。
どうして私は永瀬くんに「ありがとう」って、素直に言えなかったんだろう。

余裕がないな、私……。


「ごめんなさい……」


永瀬くんの気持ちに応えられなくて、謝罪する。


これ以上、永瀬くんを困らせてはいけない。


「じゃあね。サッカー、がんばって」


永瀬くんにエールを送って、私は美術室がある旧校舎へと向かった。