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雲ひとつない青空の下、満開の桜が春の訪れを告げている。
木々の隙間から降り注ぐ暖かな陽の光が、これから始まる高校生活を歓迎してくれているようだ。
胸を弾ませながら、俺は正門に足を踏み入れる。
今日から、この学校でサッカーができるんだ!
ボールネットに入ったボールを蹴りながら、校舎まで続く桜の並木道を歩いていく。
この春、俺たちが入学した桜坂高校には、日本一強いサッカー部がある。
前年度はインターハイと全国大会で2連覇したチームだ。
そんな偉業を成し遂げた強豪校で、これからサッカーの練習ができると思ったら――。
想像しただけでわくわくが止まらなくて、朝からボールを蹴らずにはいられなかった。
「ハル、やる気満々だな」
そう言ったのは、幼なじみのアオこと久代蒼生。
俺にとって、どんなときでも頼れる唯一無二の相棒だ。
小学生のころからいっしょにプレーしてきた俺たちは、“アオハルコンビ”と呼ばれている。
「当たり前だろ! アオは違うのかよ」
「そんなわけないだろ! 俺だって、今日という日をずっと楽しみにしてたんだから」
アオの笑顔は俺と同じくらい弾けていた。
今日は絶好のサッカー日和だ。
「アオ、今から1on1しようぜ」
まだ他の生徒が登校する前の時間帯。
人通りはまったくないし、ここでアオと1on1をするにはうってつけだ。
「ったく、しゃーねぇなぁ!」
そう言いながら、アオは口角を上げて、制服の袖をまくりあげる。
アオのやつ、やる気満々だな。
でも、そうでなくちゃ、面白くない!
「ハル、ルールは?」
「この桜トンネルの終点までにボールを持っていたほうが勝ちでどうだ?」
「のった!」
ゲーム内容が決まったところで、俺はネットからサッカーボールを解放した。
先攻は、俺からだ。
「いつでもいいぞ、ハル!」
「それじゃ、遠慮なくっ!」
開始の合図と同時に、俺はアオに速攻を仕掛けた。
「そう簡単には抜かせねぇよ!」
足元の花びらに気を取られた一瞬を狙って、アオが俺の進路を塞ぐ。
アオのディフェンスが堅くて、なかなか抜けだせない。
少しでも気を抜くと、そのまま一気にアオにボールを奪われそうになる。
アオとは、幼いころからの付き合いだ。
だからこそ、こうしてプレーをしていると、アオがどれだけ練習していたのかがわかる。
自分から決して言わないけれど、俺の知らないところでコツコツと自主練習するほどの努力家だ。
アオは受験が終わってからもずっとサッカーの練習していたことを、俺は知っている。
「ハル、今日は俺が勝たせてもらうからなっ!」
そう言って、アオは俺からボールを奪い取ろうと足を延ばす。
マズいっ!
このままだと、アオにボールを持っていかれてしまう。
「そうはさせねぇよっ!」
俺はアオの意表をついて、ボールをポンッと宙高く蹴り上げた。
きれいな弧を描いたボールは、アオの頭上を通り越していく。
「くそっ!」
アオの悔しそうな声に、俺の口元がほころぶ。
アオはただのチームメイトじゃなくて、お互いの実力を高めあってきたライバルでもある。
だからこそ、いつも思うんだ――アオには、絶対に負けたくないって。
「アオ! 悪いけど、今日の勝負は俺がもらった!」
勝利を確信して、ドリブルしながらゴールにめがけて一直線に駆けていた――その瞬間。
「うわぁっ!」
攻防中、俺は桜の花びらに足をとられて滑ってしまった。
「ハル、危ないっ!」
――ガタガタッ!
アオの叫び声と同時に、俺はボールともに勢いよく“何か”にぶつかってしまった。
「いってぇ……」
ゆっくりと体を起こす。
幸い、ケガはなかったけれど――俺の目の前には、倒れたキャンバスとイーゼルがあった。
それらは桜の花びらと土にまみれてしまっている。
「やばっ!」
俺は急いでイーゼルを起こして、そこにキャンバスを立てかけると――そこには、思わず息を吞むほどの絵が描かれていた。
並木道に沿って優雅に咲き誇る桜の花々。
それは朝日に照らされていて、美しい薄紅色のトンネルを作っている。
その隙間から陽光が差しこみ、桜の花びらがキラキラと輝いていた。
そして、春風に乗って舞い落ちた無数の花びらは、地面いっぱいに広がっている。
春風がサアッ吹くと、絵全体が風に揺れているように見えた。
これは、ここから見た桜並木の絵だ。
それを見た瞬間、血の気が引いて、自己嫌悪が俺を襲う。
「うわぁ……」
最悪だ……。
俺の不注意で、こんなに美しい絵を台無しにしてしまうなんて。
俺はどうしようもなく頭を抱えたまま立ち尽くした。
茶色い斑点の汚れが着いてしまっている。
おそらく、まだ絵の具が乾いていなかったのだろう。
真っ白な地から、ほんのりとガソリンのような油っぽいにおいがした。
「ハル、大丈夫か!?」
アオが俺を心配して、こちらへ駆け寄る。
「あぁ、俺は平気だ。でも……」
俺はなんてことをしてしまったんだろう。
胸がざわめいて、手に汗がにじむ。
この絵を描くのに、きっと何時間も何日も時間を費やしたにちがいない。
そんな誰かの努力を一瞬で水の泡に帰してしまうなんて。
「あっちゃ……これはシャレにならないやつだな……」
アオの表情から、絶望がにじみ出ていた。
心の底から湧き上がる後悔の波が、俺たちを襲う。
どうしよう……。
こんなことになるんだったら、ここでサッカーなんてやるんじゃなかった。
どうすることもできずに、心の中で自分を責めながら絵の前にアオとふたりで突っ立っていると――。
「あ、あの……」
ふと、背後から女性の声が聞こえた。
彼女の存在に気づいて、俺とアオは振り返る。
するとそこには、黒のロングTシャツを着たひとりの女子生徒がいた。
絹のような艷やかでサラサラとした、色素の薄い髪に、クリッとした二重の瞳。
華奢な体格をしていて、俺の腕にぴったり収まりそうだ。
そんな彼女からは、キャンバスに付着した絵の具と同じ匂いが漂っていた。
「私の絵が、どうかしたの?」
絵の具を片手に、彼女は不思議そうにこちらを見つめる。
首をかしげると、その動きに合わせて、後ろでひとつにまとめられた髪が大きく揺れた。
――“私の絵”ってことは、この絵は彼女が描いたものなんだ。
俺たちにタメ口で話すということは、きっと先輩なのだろう。
「あの……もしかして、私の顔に絵の具か何かついてる!?」
彼女は、顔に絵の具がついているか心配そうに触りながら焦っている。
「いいえ、何もついてません!」
俺は彼女の誤解を解くために、すぐさま声を上げる。
「……そう、それならよかった」
彼女は胸に手を当てて、ホッと息を吐いた。
安心したような笑みを浮かべる彼女に胸が痛む。
――彼女に、本当のことを言わなくちゃ。
「あの……すみませんでしたっ!」
「すみませんでしたっ!」
俺のあとに続いて、アオも頭を下げて謝罪する。
「えっ? ふたりとも、急にどうしたの?」
突然謝る俺たちに困惑する彼女。
「実は……――」
俺は彼女に事の経緯を包み隠さずにすべて話した。
「そっか……」
彼女は残念そうに呟いた。
「本当にすみませんでしたっ!」
「すみませんでしたっ!」
もう一度、彼女に頭を下げて謝罪する俺とアオ。
決して謝って済まされる問題ではない。
けれど、今の俺たちにできることは、それしかなかった。
彼女の怒りをすべて受けとめる。
そう覚悟はしていたのだけれど、彼女は思いがけない言葉を口にした。
「ふたりともそんなに謝らないで、ね?」
彼女は怒るどころか許してくれたので、俺は思わず驚いた。
「怒って、ないんですか?」
おずおずと彼女を見上げながら、俺は尋ねた。
「うん、怒ってないよ。だって、この絵はもともとボツにするつもりだったから」
「えっ?」
切なげに絵を見つめる彼女の言葉に、心の中で混沌とした感情が渦巻いた。
もともとボツにするつもりだったなんて……。
そんなことをしなくても、どこかのコンクールに応募すれば、なにかしらの賞は取れてもおかしくはないような絵なのに。
こんなにも美しい絵を捨てようとする理由が、どうしてもわからない。
そんな戸惑いが頭を駆けめぐる。
「それよりも、ふたりともケガはなかった? 新品の制服とか大事なボールとかに絵の具はついてない?」
「俺はなんともないです。ハルは?」
「……俺も平気です」
「それならよかった。この絵に使ってるのは油絵の具だから、においはキツいし、色なんか一度ついたらもうとれなくなっちゃうんだよね」
そっか。
彼女が黒のロングTシャツを着ているのは、油絵の具で制服を汚さないためだったんだ。
……って、なんで俺は彼女に気をつかってもらってんだよ。
それをするべきなのは、俺のほうなのに。
考えこんでいる間に、彼女は美術道具を大きなリュックにすべてしまい終えていた。
「じゃあ、私はもう行くね」
彼女は大きな荷物を背負い、キャンバスを抱えてこの場を去っていった。
遠ざかる彼女の背中を、俺はただ黙って見つめる。
「スゴく優しい人でよかったな、ハル」
「……あぁ、そうだな」
でも、後味はあまりよくない。
だって、もしも俺が彼女の立場だったら、俺がしてしまったことを簡単に許すことなんてできないから。
それなのに、彼女は俺たちのことを許してくれて、自分の大事な絵よりも俺たちのことを心配してくれた。
なんて寛大な人なのだろう。
でも、どうしてもひっかかっていることがひとつだけある。
『――この絵はもともとボツにしようと思ってたから』
彼女の言葉が、ずっと俺の頭の中で反芻している。
どうしてあんなにも美しい絵をボツにするのだろうか。
これ以上、俺たちに気をつかわせないために言っただけなら、まだ理解できる。
でも、もし本当にあの絵をボツにするつもりだったのなら、俺は全然納得できない。
あの言葉の真意を聞き出さないと、このモヤモヤが晴れないままだ。
あの絵をボツにする本当の理由が知りたい。
「アオ、悪い! これを持って、先に教室に行っててくれ!」
「おい、ハルっ!」
ボールネットに入れたサッカーボールをアオに預けて、俺は彼女を追いかけた。