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旧校舎に着いた俺は、2階へ歩き始めた。
廊下には春の暖かい日差しが差し込み、窓から見える満開の桜がきらきらと輝いている。
教室の扉が並ぶ廊下には、どこか懐かしい木の香りが漂っていた。
この空間は、不思議と時間がゆっくり流れているように感じる。
階段を上がると、さらに静寂が深まった。
周囲には誰もおらず、自分の足音だけが耳に響いている。
2階に着くと、廊下の奥にひっそりと佇む美術室の扉が見えた。
桜庭さんに伝わったらいいんだけど……。
そう思いながら、深呼吸したあとにノックした。
「はい」
中から低い声が返ってきた。
「失礼します」
軽くあいさつをしてからドアを開けると、ひとりの男子生徒がいた。
爽やかで調和のとれた顔立ちをしている彼は、青いネクタイをしている。
そういえば、表彰式のとき、大地さんのネクタイも桜庭さんのリボンも青色だったな……。
桜坂高校では、学年ごとにネクタイとリボンの色が異なるタータンチェックのデザインが採用されていて、今年度は1年生が赤、2年生が緑、そして3年生が青色になっている。
ということは、この人も大地さんと桜庭さんと同じ3年生だ。
よく見てみると、彼の前にはキャンバスが置かれていた。
きっと、ここで絵を描いていたのだろう。
「すみません、創作の邪魔をしてしまって」
「いや、そんなことはないから気にしないで」
そう言って、美術部の先輩は優しくほほ笑む。
「ところで、キミは入部希望かな?」
「いいえ、すみません。入部希望ではないのですが、桜庭さんに用事がありまして」
「桜庭って……なぎのことか。なぎなら、絵を描きに行ったよ。どこに行ったのかは知らないけど」
少し戸惑った表情で地面に目を落として、小さくため息をつく先輩。
まるで桜庭さんと同じ顔をしている。
絵を描くのって、本当に大変なんだな……。
部外者の俺がここにいたら、創作の邪魔になってしまう。
「わかりました、ありがとうございます」
最後に「失礼します」と言って、速やかに美術室を出た。
当てが外れたな……。
先輩の話では、桜庭さんは絵を描きにどこかへ行ったみたいだけど……。
桜庭さん、どこにいるんだろう。
今朝の絵をボツにして、また別の場所で新しい絵を描いているのかな。
それなら今日は諦めて、明日以降にまた桜庭さんに会いに行くか……。
そう思いながら、本館を通って正門に向かおうとした――そのとき。
今朝見た桜庭さんの絵が目に入った。
もう一度、その絵をじっくりと見直してみる。
すると、遠くから見ると写真のように見えた絵が、近づくと、色が複雑に混ざり合って、何が描かれているのかわからなくなった。
その瞬間、今朝桜庭さんが言っていたことを思い出す。
『――でも、桜の花びらを描いていたら、だんだんとただの薄紅色の油絵の具がキャンバスに乗っているだけに見えてきて……だんだん自分が何を描いているのかわからなくなってくるの』
――そっか、絵を見る距離感の原因だったんだ。
思えば、サッカースクール時代に俺を励ましてくれた女の子が、絵を描くのが好きで。
よくスケッチブックから距離を取りながら、丁寧に絵を描いていた。
桜庭さんが自分の絵に自信が持てなかったのは、その感覚を見失っていたからかもしれない。
明日じゃダメだ……。
その間に、桜庭さんが今朝の絵をボツにしてしまう可能性がある。
でも、桜庭さんがどこにいるのかわからないままだ。
……そういえば、今朝の絵も、本館に飾られている絵も、どちらも桜並木の風景画だった。
もし絵の感覚を取り戻すために、桜庭さんが桜並木の絵を描いていたとしたら――。
俺は思いついた場所へ急いで向かった。