「わああああ……!」
部屋の中の光景を目にして、リリアーヌは瞳を輝かせた。
猫、猫、猫。どこを見ても猫だらけ。様々な猫達が、はたきや雑巾を使って器用に部屋を掃除している。中に小さな人間でも入っているかのようだった。
「この猫達、皆ユリウス様の使い魔なの!?」
「そんなわけないでしょ。使い魔になるためには、御主人様の血を分けてもらう神聖な儀式が必要なの。あたしは猫達と意思疎通ができるから、近くの猫達を集めて仕事をしてもらってるのよ。報酬は食料を分け与えているわ」
「ふわあああ。賢いのねぇ」
部屋中に散らばる猫達を眺めて、リリアーヌはうずうずしていた。
こんなにたくさんの猫達といられるなんて、夢みたいだ。
「わたしも、何かお手伝いさせて!」
「要らないわ、邪魔よ」
「そんな!?」
一蹴されて、リリアーヌは半べそをかいた。
それに絆されることなく、エイダは淡々と告げる。
「言ったでしょう、あたし達は静かに動けるけれど、あんたがばたばた音を立てたらうるさくてかなわないわ。それに、普通の猫とは会話できないでしょう。いちいち仲介するのは嫌よ」
「そんなぁ……」
「貴族のお嬢様らしく、お淑やかに刺繍でもしてたら」
ツンと顔を背けられ、リリアーヌは肩を落とした。
確かに、自分が猫達に混じって掃除をするのはあまり良い案とは言えない。
リリアーヌが動き回れば猫達よりずっと大きな音が立つし、人間よりも遥かに小さな体躯の猫達を蹴り飛ばしてしまうかもしれない。
残念ながら、エイダの言う通りに大人しくしていた方が良いだろう。
とぼとぼと落ち込んだ様子で部屋を出て行ったリリアーヌの背中に、高い声がかかった。
「ねえ、ちょっと!」
リリアーヌが振り返ると、ばつが悪そうな顔をしたエイダが、ゆらゆらと尻尾を揺らしていた。
「も……もし、暇で、暇で暇でしょーがないって言うのなら、料理でもしたらどうかしら」
「え? でも」
「サルマーレは煮込み料理だから、時間がかかるわよ」
サルマーレ。具体的な料理名にリリアーヌがエイダを見つめるも、エイダは目を逸らしたまま合わせようとしなかった。
その様に、リリアーヌは小さく笑みを零す。
「ありがとう。夕食はそれにするわ」
ふんと鼻を鳴らして、エイダは掃除中の部屋に戻っていった。
(サルマーレ……食べたことがないわ)
マイヤー家は外国から移住してきたという。であれば、ユリウスの故郷の料理なのかもしれない。
エイダにレシピを聞いておくべきだったか、と思いながらも、忙しそうにしていたから、そこまで面倒は見てくれないだろう。
書庫に行けばレシピ本があるだろうか、とリリアーヌは書庫に足を向けた。
「やっぱり凄いわね……」
一度覗いただけだった書庫を改めて見回して、リリアーヌはその豊富な蔵書に感嘆の息を吐いた。
ユリウスは一人でこの屋敷にいる。時間を潰すための娯楽は、彼にとって重要なのかもしれない。小難しそうな専門書から娯楽性の高い大衆小説まで、種類は様々だった。
それらに目を奪われつつも、目的の物を探して、本を手にとっては中身を確認し、棚に戻す。
何度か繰り返していると、レシピ本に辿り着いた。
「あった。これだわ」
サルマーレ。肉と野菜を混ぜたタネを一口大に丸め、それを酢漬けにしたキャベツで包み、トマトのスープで煮込んだもの。
材料と手順を確認し、自分でも作れそうなことにリリアーヌは安堵の息を吐いた。
エイダの言った通り時間も手間もかかりそうだが、できないことはない。
酢キャベツが必要だが、それは常備されているのを確認しているため仕込みは必要ない。
煮込むのに時間がかかると言っても、今から作り始めるには早すぎるだろう。
そう考え、リリアーヌはそのまま書庫で時間を潰すことにした。
「ユリウス様は、どんな本がお好きなのかしら……」
これだけの数があれば、好みの本だけとは限らないが、共用ではなく個人所有の蔵書なのだから、少なくとも嫌いな本を置いたままにはしておかないだろう。
娯楽本が並んでいる辺りから、目を引いた臙脂色の本を取り出す。
部屋の隅に置いてある椅子に腰掛けると、小さな丸テーブルの上に本を置き、表紙をめくった。
それは狼と羊の物語だった。
怪我をした狼を羊が手当てしたことから、二匹は次第に仲良くなっていく。
けれど狼は、度々羊のことを「美味そうだ」と考えてしまう。
そんな風に思う自分が嫌で、羊のことを食べ物だと思いたくなくて、狼は肉を食べることをやめてしまう。
段々と痩せ細っていく狼を羊は心配するが、狼は狩りが下手でうまくいかないだけだと嘘を吐く。
嘘を吐き続けて、やがて狼は飢えて死んでしまう。
それでも、最期の瞬間まで狼は羊と友達であり続けたことに、心から感謝していた。
狼を看取った羊は、泣きながらこう零した。
「きみが生きていてくれるのなら、ぼくは食べられたって良かったのに」と。
物語を読み終えたリリアーヌは、複雑な思いで閉じた本の表紙を撫でた。
「悲しいお話ね……」
狼は羊を想うあまり死んでしまった。
羊は狼の苦悩を知らされることなく大事な友達を失ってしまった。
どちらも悲しい。けれど。
「いけない、そろそろ準備を始めなきゃ」
慌てて臙脂色の本を棚に戻すと、レシピ本だけを抱えて、リリアーヌは厨房へと急いだ。
***
「何をしている」
「あっユリウス様! もう少しで出来上がるので、食堂でお待ちください」
厨房で調理をしているリリアーヌの姿を認めると、ユリウスは奇妙なものでも見たかのように顔を顰めたものの、特に何も言わなかった。
もう完全に日が落ちたのか、と慌ててリリアーヌは手を進めるのだった。
「お待たせいたしました」
席に着いていたユリウスの前にリリアーヌが皿を置くと、ユリウスは少しだけ驚いたように目を瞠った。
「サルマーレか」
「お好きだと伺いましたので」
「なに? 誰にだ」
「エイダに」
昼間に会った使い魔の名前を出すと、ユリウスは苦い顔で頭を抱えた。
「会ったのか」
「可愛らしい子でしたよ。私がうろうろしていたせいですから、怒らないであげてくださいね」
「……気味が悪いとは、思わなかったのか」
「え? 何がですか?」
きょとんとした顔のリリアーヌに、ユリウスは一つ息を吐くと「なんでもない」と言った。
カトラリーを手にすると、サルマーレをカットして、口に運ぶ。
リリアーヌは緊張しながらその様子を凝視した。
ユリウスが静かに咀嚼して、飲み込む。何を言うかと口を開くのを待つが、開いた口はまたサルマーレを含んだ。
肩透かしをくらった気分で、もくもくと食べるユリウスを見つめる。
これはこちらから聞かない限り何も言わないだろう、と諦めて、リリアーヌから尋ねる。
「いかがですか? 初めて作ったので、お口に合えば良いのですが」
「悪くはない。俺が作った方が美味いが」
「う……それは、ユリウス様の故郷のお味ですから、ユリウス様の方が慣れていらっしゃるでしょうけど」
「こちらにも似た料理はあるだろう」
「シュー・ファルシですか? 確かに似ていますけど」
キャベツに肉を詰め込んでいる、という点では同じだが、形状はかなり異なる。シュー・ファルシはキャベツで包むというより、覆うと言った方が近い。肉とキャベツを交互に重ねて、最終的に一塊のドーム状にする。それを人数分に切り分けて食べるのだ。味の面でも、酢やトマトで酸味を利かせるサルマーレと違い、少ない水で素材の味を引き出しハーブで香りづけをするシュー・ファルシは、素朴な味と言えた。
ユリウスには慣れ親しんだ味があるであろうから、リリアーヌがそれを再現することは難しい。ユリウス本人から教わるか、もしくはユリウスにそれを教えた人物に教わるか。
今回は好物だと聞いたので作ったが、相手の得意な料理よりも、自分の得意な料理を作った方が粗が目立たないかもしれない。
リリアーヌは貧乏貴族なので、調理をすることには慣れているが、美味しく拘った料理を手間暇かけて作ることには慣れていない。どちらかといえば、食材を無駄にせず、手早く作れる料理を好む。
けれどこれからは舌の肥えた旦那様に食べさせるのだから、とリリアーヌは気合を入れ直した。
「次はもっとうまく作りますね」
「料理は無理にしなくてもいい。今までは自分で作っていた。二人の食事が重なるのは夕食くらいだしな、俺が用意しても構わない」
「それでは本当にわたしがすることがなくなってしまいます。せめて食事の用意くらいはさせてください。それだって全ては作れないんですから」
作り置きをしておくこともできなくはないが、メニューが限られてしまう。それにできるだけ温かい料理を食べられた方がいいだろう。当人が料理ができると言っているのに、わざわざ冷や飯を食べさせることもない。
「なら、交代にするか」
「え?」
「二人で共に食事をとれるのは、夕食くらいだろう。なら、交互に担当した方が公平だ。それにお互いに自分の慣れた料理を作れば、相手の味の好みも把握できる。俺は起きてから用意をするから、時間は少々遅くなるかもしれないが」
とても貴族の男性から出る言葉とは思えなかった。けれどそれ以上に、ユリウスがリリアーヌの好みに合わせて料理をする気があると知って、リリアーヌは顔を綻ばせた。
やはりあのフリカッセは、自分のために用意してくれたものだったんだろう。
優しい人だと思ったのは間違いではなかった。予想外のこともあったが、この結婚は存外悪いものではなかった。
「何をニヤけている」
「いえ、ユリウス様がお優しい方で良かったと」
「……優しく接した覚えはないが」
「いいえ。十分です」
微笑むリリアーヌに、ユリウスは居心地悪そうに視線を逸らした。
その仕草を可愛らしく感じて、リリアーヌはますます笑みを深くした。
食事が終わって、食後の紅茶を飲みながら、二人は食堂で会話を続けていた。
「日中は何をしていたんだ? 暇だっただろう」
「屋敷内を見て回ったり、エイダとお話をしたり、あとは書庫で読書をしていました」
「そうか。本は自室に持って行っても構わないからな。欲しい本があれば取り寄せる」
「ありがとうございます。でも、あんなにたくさんあったら、新しい本がなくても十分です。今日読んだ本も面白かったですよ。ええと、確か『狼に食べられなかった羊』という本です。中身を読んだ後だと、随分面白いタイトルだなぁと思いました」
くすくすと笑うリリアーヌに、しかしユリウスは僅かに息を呑んだ。
「……何故その本を?」
「特に理由はありませんが……臙脂色の装丁が目を引いて」
「そうか。面白いタイトルというのは?」
「そうですね。狼が『食べなかった』羊、ではなく、『食べられなかった』という表現は、羊の側から見た言葉に思えます。物語の終わりも、羊の台詞で終わります。ですから、作者が強調したかったのは、羊を食べずに死んでしまった狼の方ではなく、残された羊の方なのではないかと。食欲よりも友情をとった狼は誇りを持って満足して死ねましたが、羊の方からすれば、自分が友達になったせいで、狼を飢えさせて死なせたわけですから。羊である自分が狼の本能を刺激することも、当然わかっていたはず。それでも羊は大切な友達のために何もしてあげられなかった。その罪悪感を抱かせ続けることは、果たして友情を守ったことになるのでしょうか」
じっと自分を見つめるユリウスの視線に気づいて、リリアーヌは我に返ったように息を呑んだ。
「も、申し訳ありませんっ! わたしときたら、また喋り過ぎてしまいました」
「いや、面白い意見だ。それならお前は、友情を守るためにはどうすれば良かったと思う?」
「……わかりません。羊の視点で言うならば、羊は友情のために、自分を差し出しても構わないと思っていたでしょう。羊は本当に、自分を食べてでも狼に生きて欲しかったのだと思います。けれど友達である羊を食べたら、今度は狼の方が罪悪感で潰れてしまう。どうにかしようと思うなら、まず狼は自分の衝動を正直に羊に話すべきだったと思います。それで解決策が見つかったかどうかはわかりませんが、結果離れることになっても、それで友情が消えうせるわけではありませんから」
「……そうか」
そう呟いたユリウスの瞳から感情が読めずに、リリアーヌは困惑した。
何か気分を害するようなことを言ってしまっただろうか。けれどユリウスは、怒っているようには見えなかった。
「俺は、狼の行動も理解できる。言えないだろう、大切な相手には。自分が脅威だと思われたくない。怯えられたくない。慕っていた相手がいきなり牙を剥いたら、誰でも裏切られたと感じるはずだ。良き友の顔で接してしまったのなら、その顔のまま死ぬしかない。それは無害なふりをした狼の責任だ。だから、狼の方が死ぬのは妥当だろう」
「……では、ユリウス様は、どうすれば良かったと思いますか?」
「最初から、友になどならなければ良かったんだ。自分は捕食者なのだと認識させていれば、羊は狼に過剰に近づくことはなかっただろう。羊を守ろうと思うなら、狼はそうすべきだった。自分を愛してくれる存在が欲しいという欲求に負けたんだ、狼は」
苛立ったようにも、悲しそうにも聞こえる声だった。
それを聞いたリリアーヌは、ほとんど無意識に口を開いていた。
「だから、わたしのことを『餌』だと言ったんですか?」
完全に虚を衝かれた顔のユリウスに、リリアーヌはしまったと口を覆った。
これはきっと、彼の核心に踏み込む質問だ。まだその時ではなかったかもしれない。
けれど彼を理解しようと思うなら、避けられなかったであろうこともわかる。
口に出してしまったものは仕方ない、とリリアーヌは答えを待った。
ユリウスは考え込むように眉間に皺を寄せていたが、やがてゆっくりと唇を開いた。
「そうだな。俺の体質を知って、まともな女が結婚したがるとは思えない。相手が見つかる時は、よほどの訳ありなのだろうと覚悟していた。そして実際、オラール家は金に困っていた。家のための結婚であれば、嫌になっても逃げ出せないだろう。ならば最初から立場を明確にして、お互いに干渉しない方が幸せだと思った。俺は家督を継がないから、子が生まれなくても問題ないしな」
リリアーヌを見ずに、どこか遠くを見るような目をしているユリウスを、リリアーヌは申し訳ない気持ちで見つめていた。
リリアーヌも、この結婚に乗り気ではなかった。けれど当然、ユリウスの方もそうであろうことは想像に難くなかった。彼の強気な態度に、どこか自分ばかりが被害者のような気分でいなかっただろうか。
ユリウスはリリアーヌのことを十分すぎるほどに気遣ってくれていた。ならばリリアーヌの方も、ユリウスに対してもっとできることがあったのではないか。
俯きかけたリリアーヌだったが、次のユリウスの言葉に思わず顔を上げた。
「だから驚いたんだ。今夜、お前が厨房にいて。俺の分まで、食事を作っていて」
「……え?」
「お前は吸血鬼のことを知らずにここに来ただろう。騙し討ちになるから事前に伝えるようにと強く言ってあったんだが、それでも家の者ですら、俺が吸血鬼であることを知ったら誰も来なくなると思って黙っていたんだ。お前は昨日受け入れるようなことを言っていたが、一日経ったら考え直して、逃げられても仕方ないと思っていた。なのに平然と俺と接するし、エイダのことも笑って話していた。お前は本当に変わっている」
「それは……褒め言葉として受け取ってもよろしいのでしょうか」
「そうだな」
息を漏らすように緩く笑ったユリウスに、リリアーヌは胸の内で何かが動くのを感じた。
それは決して嫌な感覚ではなく、むしろ温かく心地良く、なのに泣き出したくなるようなものだった。
「昨日もお伝えしましたが、ユリウス様はお優しい方です。血を……吸われるというのは、少々緊張しますが、きっとその内慣れます。あなたがわたしを傷つけようとしてする行為ではないと、理解しましたから。それは逃げ出す理由にはなりません。共に暮らす内に、合わない部分があったり、喧嘩をすることもあるでしょうが、それはユリウス様が吸血鬼であることとは関係がありません。どんな夫婦でも起こることです。だからわたしたちも、これからゆっくり、わたしたちのペースで、夫婦になっていきましょう。せっかく結婚したのですから、関わらなければ良いというのは寂しいです」
真っ直ぐに告げたリリアーヌに、ユリウスは初めて無防備に表情を崩した。
「そうです! 今日はまだ血を吸われてませんよね。お飲みになりますか?」
「いや、別に毎日必要なわけではない。女は貧血になりやすいしな」
「けれど、昨日はほんの少ししか口にしていなかったように思います。わたしも慣れておきたいですし、今日は……本当にユリウス様と夫婦になった、という気がしますから。記念にいかがですか?」
「何の記念だ。だが……そうだな。今日が本当の結婚初夜、という意見には賛成だ」
そういうつもりではなかったリリアーヌは顔を赤らめ、それを誤魔化すように首筋を晒した。
「でっ、では、ご遠慮なさらずどうぞ!」
「ここでは吸わん。寝室に行くぞ」
「え? でも、吸血は人の食事と同じなのでしょう? なら食堂でも」
「ムードのない奴だな。初夜だと言っただろう」
「えっでも、それは、ええっ?」
混乱するリリアーヌの手を引いて、ユリウスは寝室へ向かった。
リリアーヌの部屋に着くと、ユリウスはリリアーヌの体を抱え上げて、広いベッドの上に降ろした。
真っ赤な顔のリリアーヌに、楽し気な表情のユリウスが覆い被さる。
ユリウスの長い指がそっとリリアーヌの頬を撫でると、緊張からリリアーヌがぎゅっと唇を引き結んだ。
「そんなに力を入れるな。口を開け」
「む、無理ですぅ……」
「お前な……」
呆れたように言われて、リリアーヌはふと気になっていたことを尋ねた。
「そういえば、どうして名前を呼んでくださらないのですか? ムードがと言うのであれば、こんな時くらい名前を呼んでください」
そんな指摘をされるとは思っていなかったようで、ユリウスは気まずそうに視線を逸らした。
しかしリリアーヌが聞くまで引く気を見せないので、渋々といった風情で答える。
「リリアーヌと呼んだ時に、お前はリリアと呼べと言っただろう。愛称で呼ぶのは、愛着が湧きそうでできなかった。けれど、頼まれているのに無視してリリアーヌと呼び続けるのは、意地が悪いだろう。迷っていたら、お前という呼び方に落ち着いてしまった。二人きりだから、誰を指しているのか困ることもなかったしな」
「まぁ……」
なんて不器用な。
呼び方一つで、そんなに迷っていたとは。困らせるつもりは一切なかったリリアーヌは、予想外の回答に驚いていた。
そしてユリウスの誠実さに、顔を綻ばせた。これほど優しい人だから、血を吸われることにも恐怖はないのだ。
緊張が解れたリリアーヌは、そっとユリウスの首に腕を回した。
「なら、もう何も迷うことはありませんね」
「……リリア」
「はい」
花が咲くように微笑んだリリアに、ユリウスはそっと唇を重ねた。
触れて、啄んで、どんどんそれが深くなっていく。ユリウスが牙が当たらないように気をつけているのがわかって、リリアーヌは小さく笑った。
「余裕だな」
「いえ、そんなことは……っ」
唇が移動して、首筋を辿る。熱い息がかかって、噛まれるのだとわかった。
ほんの少しだけ強張った体に、宥めるように舌が這う。そしてゆっくりと牙が肌に沈んでいく。
「――――ッ」
痛みはある。けれどそれ以上に、幸福感があった。
キスも、吸血も、今は互いの意思が伴って行われている。そこに信頼関係がある。
これからは自分の血がこの人の体を作っていくのだと思うと、リリアーヌは不思議な多幸感に包まれた。
「リリア、大丈夫か」
いくらか血を吸って口を離したユリウスが、心配そうにリリアーヌを見下ろす。
ユリウスの不安を拭うように、リリアーヌは優しく微笑むとユリウスの頬を撫でた。
「平気です。ユリウス様にされて怖いことはありません。だからどうか、怯えないでください」
リリアーヌの言葉に、ユリウスは僅かに息を呑むと、額にキスを落とした。
「もう唇にはしないのですか?」
「暫くは血の味がするからな。人間には美味いものじゃない」
「わたしは気にしませんが」
「キスよりもっと気持ち良くしてやるから、安心しろ」
「そ、そういうことではありませんっ!」
真っ赤な顔で抗議をしたリリアーヌにユリウスは声を出して笑うと、彼女の服に手をかけた。
***
朝を迎えると、リリアーヌは体のだるさを感じながらものそりと身を起こした。
隣を見れば、もうユリウスの姿はない。そのことに少しだけ寂しさを感じながら、シーツを撫でる。
リリアーヌの部屋は、普通の人間が暮らすための作りになっている。朝日が差せば、カーテンを閉め切っていても多少は光が漏れる。
ユリウスの部屋は、日中も完全に暗室になるようになっている。だから日が差す時間帯は、そこに籠っているらしかった。
朝まで居られないことを詫びていたが、ユリウスは行為が終わった後も、リリアーヌが眠るまでずっと優しくしてくれていた。だからリリアーヌに不満はない。
だらだらとベッドで過ごしていても怒る者はいない。今日ぐらいは良いだろうか、とリリアーヌは再びベッドに転がった。そのまま横に視線をやると、ベッドサイドに何か置かれていることに気が付いた。
「……あら?」
手を伸ばしてみると、それは百合の花だった。
メッセージカードも何も付いていないが、差出人は一人しかいない。
花に顔を近づけて、思いきり息を吸う。
「いい香り」
太陽が高く昇るまで。
リリアーヌは百合を眺めたまま、ずっとベッドで幸せの余韻を楽しんだ。