早川駿と名乗ったK大4年の美少年のことは、シュンくん、若しくはシュンと呼ぶことにした。ついこの間まで自分も大学生だったような気がするのだけれど、こうして見るとやはり若いな、と思う。何がそう思わせるのかわからないけれど、まっすぐな視線や態度がひとつの要因であることは間違いない。
 先に美少年を風呂に入らせて、わたしはその間に残っていた仕事を少しだけ片付けた。サービス残業もいいところだ。本来ならやらないのだけれど最近は何かと忙しい。というか、わざと忙しくしてるのかも。
 美少年は20分もしないうちにリビングへと戻って来たので、お風呂交代。ほぼ初対面の男女といえど、4歳も年下の大学生とどうこうなるつもりは全くないので、このシチュエーションにはあまり抵抗がない。多分それはシュンくんのほうも同じだと思う。
 先に寝てていいからね、というわたしの言葉に返されたお礼を背中に、そういえば別れる数ヶ月前から元彼ともこんな風だったな、と思い出す。寝る時間を合わせることもなく、同棲しているのに違う時間軸で生きていて、一緒にいることが無意味に感じるようになってしまったんだろう。
 嫌なことを思い出してしまった。



 お風呂から上がると、リビングに美少年の姿はなかった。スマホさえカバンの中に忘れてきたというのだから、やることもないし早々に寝たんだろう。それに、わたしは結構長風呂タイプ。たぶん1時間くらいは経っているはず。時計は既に23時半を指している。
 まあでも一応、何か変なことでもあったら困るし、寝ているかどうかだけ確認しておくか。彼に使っていいと言った洗面前の空き部屋は、元々別れた彼が使っていた部屋だし、まだ少し私物が残っている。シングルベッドもそのままだ。(わたしは同棲するとはいえ自分の部屋は欲しいしベッドは分けたいタイプで、お互いの1人部屋が確保できる物件を選んだ。今思えばそういう自分の淡白なところも彼とは合っていなかった気がする)
 キイ、と。久しぶりにその部屋を覗くと、ベットの上で本を読んでいる美少年と目が合った。

「あ、ごめん、もう寝てるかと思って」
「いや、こちらこそすみません、勝手に本棚から抜き出しました」

 よくよく見れば、彼が手にしているのは確かにうちの本棚の本だ。エーリッヒ・フロムの『愛するということ』。これまた大学生にしては渋いチョイス。

「全然いいけど、そのチョイスはちょっと意外だね」
「自分じゃ選ばない本が並んでいるのが、他人の本棚の魅力ですよ」
「確かに、それは一理ある」

わざと普段読まないような本を手に取ったのか。それなら納得できる。だってシュンくんは、さっき人と付き合ったことがないと言っていたし。恋愛に対して疎そうな印象だ。まあ本当かどうかわからないけど。

「ていうか、すごいですね。本棚」
「あーうん、こう見えて読書家なのよ。雑多だけど」

元彼が使っていた部屋とわたしの1人部屋は、ウォークインクローゼットを挟んで隣。お互いの部屋から真ん中にあるウォークインクローゼットに行き来できるようになっている。そして、衣服より読書のわたしの趣味で、そこには大きな本棚が設置されているのだ。
 クローゼットの中の書斎、秘密基地みたいで素敵だねと、一緒に本を集めたことを思い出す。彼は、わたしと違って漫画ばかり読んでいたけれど。

「本も漫画も読み放題」
「はは、いいでしょ? いつでも読みにきていいよ」
「また無防備なこと言いますね」
「だってきみ、本が好きですって顔してる」
「それは否定しないですけど。あと、きみじゃなくて早川シュンです」
「はは、ごめんごめん、そうだったね」

 頑なに名前で呼ばせたがるところ、表情が乏しい割にはかわいいところがあるなと思う。
 4畳しかない簡素なこの部屋には久しぶりに足を踏み入れた。元彼が使っていた時からシングルベッドとデスクのみのシンプルな部屋だった。この部屋で何度も身体を重ねたけれど、その記憶ももう随分と前のことだ。一体いつからここへ足を運ばなくなっていたんだろう。
 何ヶ月も前から同棲解消の話は出ていたからか、別れ話が決まった時、やけにすんなりと引越しの手続きも終えていた。思えば同棲を始めた時から彼はこの家にあまり私物を置いていなかったような気がする。
 いつだってこの家から離れられるように、わたしから距離を置けるように、そうやっていたのかもしれない。
 ずっと、や、永遠、なんて言葉を信じていたのは、きっとわたしの方だけだったのだ。

「……すみません、この部屋、あんまり来たくなかったんじゃないですか?」
「え? なんで?」
「この前バスで見た時と同じ表情してるから」

 バスで会った時。3日前、大雨の日。元々別れることは決まっていたけれど、彼がこの家から完全にいなくなる日は決めていなかったのに。
 突然いなくなった。昼間の仕事中、『今日引っ越し終わったから、もう会えない』そんな簡素なメッセージひとつで、長い5年間が終わってしまった。
 わたしが返したメッセージは既読すらつかない。大きな喧嘩をしたわけでも、どちらかに裏切りがあったわけでもないのに、賞味期限の切れた恋愛はやけに虚しくて呆気なかった。
 そんな態度を取られても尚、大雨に紛れて涙が溢れてきてしまう自分のことを、ひどく惨め(みじめ)だと思った。思いたくないのに、思ってしまった。自分を惨めだと思う恋愛なんて、もう一生したくない。

「ううん、でも、こんなことがないと、きっとずっとこの部屋を開けられなくて、埃だらけになってただろうから」
「……引っ越さないんですか?」
「え?」
「この家。ひとりで住むのには広すぎると思いますし、家賃だってひとりになったら馬鹿にならないんじゃいですか」
「ああうん、そうだね、そのうち」
「そのうち、ですか」

 そのうち引っ越すから、放っておいてよ。
 そんな言葉が出かかって喉元でぐっと堪える。4歳も年下の大学生に何をムキになっているんだろう。

「……とりあえず、わたしはもう寝るから、朝は無理して起きてこなくていいからね。鍵だけはちゃんとかけて出てってね。じゃ、おやすみ」
「この本借りてもいいですか?」
「え? ああうん、好きにして」
「ありがとうございます、おやすみなさい」

 踵を返して部屋を出る。廊下の温度がやけに冷たく感じた。さっさと記憶から消えればいいのに。全部。