◇epilogue
「シュンくんってもしかしてお酒強い?」
「さあ、限界まで飲んだことがないので強いかどうか判断できないです」
「それはつまり強いってことだと思うよ……」
「そうなんですかね。まあ、冬乃さんよりは飲めるかもしれないですけど」
そろそろ水飲んでください、という声がふにゃりと曲がって聞こえる気がする。目の前に座る浴衣姿の美少年が些か呆れ顔だ。しまった、少し飲みすぎたかもしれない。
シュンくんとの関係に恋人という名前がついて早2週間。わたしたちは5月初旬のゴールデンウィークをつかってはじめての温泉旅行にやってきていた。
旅行といってもお互いインドアを極めたような性格なので、観光というよりは日頃の疲れを癒すため、ゆったり過ごすことを目的として少しいい旅館を予約した。
今はいちばん楽しみにしていた夕食後の晩酌タイムだ。
「でもこんな贅沢久しぶりだし、たまにはいいじゃん」
「別に冬乃さんが楽しんでるならそれでいいですけど、キャパ超えて飲まないでくださいね、体調悪くなったら困るので」
「まだダイジョーブ。ほらシュンくんも飲みなよ、これなんてすっごく美味しいよ?」
これが会社だったら飲みハラで訴えられていたかもしれない。シュンくんはやれやれといった様子でミネラルウォーターのペットボトルを差し出してくる。
せっかく奮発した部屋食の懐石料理。わたしはこういう時惜しみなく全てを楽しみたいタイプなので、気になるドリンクをすべて追加注文した。この地域の地酒に日本酒、特産物を使った果実酒に珍しいワイン。全てミニボトルで揃えてくれる贅沢ぶりに、羽目を外したくなるのも無理はない話。
「……どれですか」
「んー、これ、このワイン飲みやすいよ」
どぼどぼと彼のグラスにそれを注ぐ。折角のいいワインが勿体無いかもしれない。
「絶対悪酔いするじゃないですか」
「いいじゃん酔ったって、別にもう寝るだけだし」
「それ、俺の前以外で言わないでくださいよ」
「いつもはこんなに飲まないよ、知ってるでしょ」
「危なっかしいな本当」
ふゆのさん、と。
やわらかい声が降ってきて、さっきまで目の前にいた美少年がいつの間にやら横にいる。
先に大浴場に行ったからか、湿っている黒髪がやけに色っぽい。
横に寄ってきたその美しい顔を、わたしはじっくりと見つめる。なんて綺麗な瞳をしているんだろう。
「……ほんときれいな顔」
「酔ってますね」
「酔ってないよ?」
「じゃあ素面で褒めてくれてんだ、珍しいですね」
「珍しくないでしょ、いつも褒めてる」
「いつですか」
「かっこいいなって思ってるよいつも、だって世界でいちばん好きな顔だもの」
思考より先に口からぽろぽろと言葉が落ちてしまう。シュンくんはじとっとわたしを見つめ返す。ちょっと嫌そうな顔だ。折角褒めてるのに。
「……ほんとたち悪い」
「なにがなの」
不貞腐れたようなシュンくんにむっとしてわたしも同じような顔をした瞬間、狙ったように彼の顔が落ちてきた。一瞬触れた唇。スキンシップにも満たないようなキス。
足りない、と思った。
実のところ、わたしたちは未だ一線を超えていない。タイミングを逃し続けている、というのが正しいかもしれないけれど。
「……もうちょっとする?」
「酔っ払いにはしませんよ、水飲んでください」
「したいくせに」
「ほんとたち悪い年上だな」
否めない。大人になることがアルコール任せに本音を言えることだとしたら、完全に最悪な年の取り方をしてしまった。
というかどうしよう、至近距離にいるシュンくんの顔がぐわんと一瞬ゆらぐ。
「……やばい、気持ち悪い」
そして突然視界がぐるぐるとまわる。珍しくハイスピードで呑んだからかもしれない。酔いがこんなに一気にくることも珍しい。
これはまずい。やってしまった。
「ちょっと、大丈夫ですか?」
「うーん、大丈夫じゃないかも……うっ」
「だから言ったじゃないですか、冬乃さん、聞こえてますか、とりあえず横になって」
こんな時でも冷静な美少年め。
ぐわんぐわんまわる思考と視界に揺られて彼に寄りかかれば、無理矢理部屋の布団へ連れて行かれた。いい旅館をとってよかったな、かなり寝心地がいい。
「うう……頭痛い……」
「酔い回るの早いタイプなんですね。まああんなスピードで飲んでたらそうなるか」
わたしが横になったのと並ぶようにシュンくんも横になる。恋人同士になって初めての旅行なのにやってしまった。こんなはずじゃなかったのに。
向き合って横になる。シーツの冷たさが気持ちいい。
わたしの髪をゆっくりと撫でながら「寝てもいいですよ、あとは片付けておきますから」なんて言う。わたしが寝落ちるまでこうやって横にいてくれるつもりなんだろうか。
「ごめん……こんなはずじゃなかったのに……」
「あんまり喋らないほうがいいですよ、余計気持ち悪くなる」
「4つも年下に介抱されるなんて情けなさすぎる……これじゃ介護……」
「いつまで年下扱いする気ですか、俺はもうあなたの恋人なんですよ」
「うっ、そうやってやさしくされるともっと居た堪れない……」
ズキズキと痛む頭を抑えながら項垂れると、横でシュンくんがふっとわらった。シャンプーのいい香りがする。そういえば、こんなに一緒に時間を過ごしているのに、隣で寝るのも初めてかもしれない。
「前に言いませんでした? 別にかっこ悪いところ見せてもいいんですよ。俺は冬乃さんのそういうところを見れるのが特権みたいでむしろ嬉しくおもってるような男ですよ。謝ることなんてひとつもないです」
薄目で彼を見れば、目を閉じて穏やかな顔をしている。わたしの髪を撫でる手つきはあまりにやさしい。
まるで本当にいとおしいものを扱うようなその仕草に心臓がぎゅっと狭くなる。この少年はいつもずるい。
「……シュンくんってさ、いつからわたしのことがすきだったの?」
「まだ会話するんですか、酔ってるくせに」
「酔ってるから聞いてるのに」
さらさらとわたしの髪を撫でる。
2人しかいない旅館の客室はやたらと静かだ。畳のいい香りがする。部屋の明かりはシュンくんが気を利かせたのか暗くなっていて、ベット脇のランプが煌々と灯っているだけ。
「……気になりますかそんなこと」
「そんなことじゃないよ、わたしにとったら」
そういうものですかね、と。彼はうーんと少し考える素振りを見せる。
「いつからなんて、考えたことなかったですけど。そうだな、でも冬乃さんのことは、本当はあの雨の日の前から知ってました」
「え、そうなの?」
「たまにバスで見かけてたんです、雨の日とか、風が強い日とか、暑くて耐えられない日とか、そういう時に乗ってましたよね」
その通りだ。歩いて18分。急げば12分。最寄駅から今の家までは、決して歩けない距離ではない。というかむしろ朝も帰りも歩くことのほうが断然多い。
「綺麗な人がいるなとはずっと思ってて……まあ特段なにか特別な感情を持っていたわけじゃないんですけど。でもあの雨の日、よく見かけるあなたが、明らかに号泣しているのに必死で声を押し殺している姿を見て、……なんだろうな、勝手に身体が動いたというか」
これだけ一緒にいるのに。初めて聞いた。あの日なぜ突然声をかけてくれたのか。
思えば唐突だった。泣いているわたしを慰めるのなら、ハンカチやティッシュが最適解だっただろう。けれど彼は1枚の写真を差し出してきた。本に指を挟んでいるから、と。
「栞にしてください」なんて、下手なナンパでも使わない。
今ならわかる。あの時シュンくんが、本当に衝動的にわたしに声をかけてくれたということ。
「思えばあの時から、俺は冬乃さんに惹かれていたんでしょうね。自覚的な恋心よりも、衝動的なもののほうがロマンがあるし」
「……シュンくんらしくないこと言うね」
ロマンだなんて。そんなこというタイプじゃないでしょう。完全に揶揄っている。
わたしの言葉に横でわらう声がする。けれどそろそろ頭痛と瞼が限界だ。
「はは、でも結構、本気で思ってるんですよ。それに俺は、冬乃さんと出会ってから、毎日がたのしいです。あなたを好きになれたことが、自分が生きてきた理由だって、そう思えるくらいには、冬乃さんのことが大事ですよ」
微睡みのなかで彼の声が溶けていく。わたしはそれに返事をすることができない。
遠くの方で「ゆっくり寝てくださいね、あしたも好きですよ、おやすみ」と、あまりに優しい声を半分ふにゃりと曲げながら、わたしは意識を手放した。
「シュンくんってもしかしてお酒強い?」
「さあ、限界まで飲んだことがないので強いかどうか判断できないです」
「それはつまり強いってことだと思うよ……」
「そうなんですかね。まあ、冬乃さんよりは飲めるかもしれないですけど」
そろそろ水飲んでください、という声がふにゃりと曲がって聞こえる気がする。目の前に座る浴衣姿の美少年が些か呆れ顔だ。しまった、少し飲みすぎたかもしれない。
シュンくんとの関係に恋人という名前がついて早2週間。わたしたちは5月初旬のゴールデンウィークをつかってはじめての温泉旅行にやってきていた。
旅行といってもお互いインドアを極めたような性格なので、観光というよりは日頃の疲れを癒すため、ゆったり過ごすことを目的として少しいい旅館を予約した。
今はいちばん楽しみにしていた夕食後の晩酌タイムだ。
「でもこんな贅沢久しぶりだし、たまにはいいじゃん」
「別に冬乃さんが楽しんでるならそれでいいですけど、キャパ超えて飲まないでくださいね、体調悪くなったら困るので」
「まだダイジョーブ。ほらシュンくんも飲みなよ、これなんてすっごく美味しいよ?」
これが会社だったら飲みハラで訴えられていたかもしれない。シュンくんはやれやれといった様子でミネラルウォーターのペットボトルを差し出してくる。
せっかく奮発した部屋食の懐石料理。わたしはこういう時惜しみなく全てを楽しみたいタイプなので、気になるドリンクをすべて追加注文した。この地域の地酒に日本酒、特産物を使った果実酒に珍しいワイン。全てミニボトルで揃えてくれる贅沢ぶりに、羽目を外したくなるのも無理はない話。
「……どれですか」
「んー、これ、このワイン飲みやすいよ」
どぼどぼと彼のグラスにそれを注ぐ。折角のいいワインが勿体無いかもしれない。
「絶対悪酔いするじゃないですか」
「いいじゃん酔ったって、別にもう寝るだけだし」
「それ、俺の前以外で言わないでくださいよ」
「いつもはこんなに飲まないよ、知ってるでしょ」
「危なっかしいな本当」
ふゆのさん、と。
やわらかい声が降ってきて、さっきまで目の前にいた美少年がいつの間にやら横にいる。
先に大浴場に行ったからか、湿っている黒髪がやけに色っぽい。
横に寄ってきたその美しい顔を、わたしはじっくりと見つめる。なんて綺麗な瞳をしているんだろう。
「……ほんときれいな顔」
「酔ってますね」
「酔ってないよ?」
「じゃあ素面で褒めてくれてんだ、珍しいですね」
「珍しくないでしょ、いつも褒めてる」
「いつですか」
「かっこいいなって思ってるよいつも、だって世界でいちばん好きな顔だもの」
思考より先に口からぽろぽろと言葉が落ちてしまう。シュンくんはじとっとわたしを見つめ返す。ちょっと嫌そうな顔だ。折角褒めてるのに。
「……ほんとたち悪い」
「なにがなの」
不貞腐れたようなシュンくんにむっとしてわたしも同じような顔をした瞬間、狙ったように彼の顔が落ちてきた。一瞬触れた唇。スキンシップにも満たないようなキス。
足りない、と思った。
実のところ、わたしたちは未だ一線を超えていない。タイミングを逃し続けている、というのが正しいかもしれないけれど。
「……もうちょっとする?」
「酔っ払いにはしませんよ、水飲んでください」
「したいくせに」
「ほんとたち悪い年上だな」
否めない。大人になることがアルコール任せに本音を言えることだとしたら、完全に最悪な年の取り方をしてしまった。
というかどうしよう、至近距離にいるシュンくんの顔がぐわんと一瞬ゆらぐ。
「……やばい、気持ち悪い」
そして突然視界がぐるぐるとまわる。珍しくハイスピードで呑んだからかもしれない。酔いがこんなに一気にくることも珍しい。
これはまずい。やってしまった。
「ちょっと、大丈夫ですか?」
「うーん、大丈夫じゃないかも……うっ」
「だから言ったじゃないですか、冬乃さん、聞こえてますか、とりあえず横になって」
こんな時でも冷静な美少年め。
ぐわんぐわんまわる思考と視界に揺られて彼に寄りかかれば、無理矢理部屋の布団へ連れて行かれた。いい旅館をとってよかったな、かなり寝心地がいい。
「うう……頭痛い……」
「酔い回るの早いタイプなんですね。まああんなスピードで飲んでたらそうなるか」
わたしが横になったのと並ぶようにシュンくんも横になる。恋人同士になって初めての旅行なのにやってしまった。こんなはずじゃなかったのに。
向き合って横になる。シーツの冷たさが気持ちいい。
わたしの髪をゆっくりと撫でながら「寝てもいいですよ、あとは片付けておきますから」なんて言う。わたしが寝落ちるまでこうやって横にいてくれるつもりなんだろうか。
「ごめん……こんなはずじゃなかったのに……」
「あんまり喋らないほうがいいですよ、余計気持ち悪くなる」
「4つも年下に介抱されるなんて情けなさすぎる……これじゃ介護……」
「いつまで年下扱いする気ですか、俺はもうあなたの恋人なんですよ」
「うっ、そうやってやさしくされるともっと居た堪れない……」
ズキズキと痛む頭を抑えながら項垂れると、横でシュンくんがふっとわらった。シャンプーのいい香りがする。そういえば、こんなに一緒に時間を過ごしているのに、隣で寝るのも初めてかもしれない。
「前に言いませんでした? 別にかっこ悪いところ見せてもいいんですよ。俺は冬乃さんのそういうところを見れるのが特権みたいでむしろ嬉しくおもってるような男ですよ。謝ることなんてひとつもないです」
薄目で彼を見れば、目を閉じて穏やかな顔をしている。わたしの髪を撫でる手つきはあまりにやさしい。
まるで本当にいとおしいものを扱うようなその仕草に心臓がぎゅっと狭くなる。この少年はいつもずるい。
「……シュンくんってさ、いつからわたしのことがすきだったの?」
「まだ会話するんですか、酔ってるくせに」
「酔ってるから聞いてるのに」
さらさらとわたしの髪を撫でる。
2人しかいない旅館の客室はやたらと静かだ。畳のいい香りがする。部屋の明かりはシュンくんが気を利かせたのか暗くなっていて、ベット脇のランプが煌々と灯っているだけ。
「……気になりますかそんなこと」
「そんなことじゃないよ、わたしにとったら」
そういうものですかね、と。彼はうーんと少し考える素振りを見せる。
「いつからなんて、考えたことなかったですけど。そうだな、でも冬乃さんのことは、本当はあの雨の日の前から知ってました」
「え、そうなの?」
「たまにバスで見かけてたんです、雨の日とか、風が強い日とか、暑くて耐えられない日とか、そういう時に乗ってましたよね」
その通りだ。歩いて18分。急げば12分。最寄駅から今の家までは、決して歩けない距離ではない。というかむしろ朝も帰りも歩くことのほうが断然多い。
「綺麗な人がいるなとはずっと思ってて……まあ特段なにか特別な感情を持っていたわけじゃないんですけど。でもあの雨の日、よく見かけるあなたが、明らかに号泣しているのに必死で声を押し殺している姿を見て、……なんだろうな、勝手に身体が動いたというか」
これだけ一緒にいるのに。初めて聞いた。あの日なぜ突然声をかけてくれたのか。
思えば唐突だった。泣いているわたしを慰めるのなら、ハンカチやティッシュが最適解だっただろう。けれど彼は1枚の写真を差し出してきた。本に指を挟んでいるから、と。
「栞にしてください」なんて、下手なナンパでも使わない。
今ならわかる。あの時シュンくんが、本当に衝動的にわたしに声をかけてくれたということ。
「思えばあの時から、俺は冬乃さんに惹かれていたんでしょうね。自覚的な恋心よりも、衝動的なもののほうがロマンがあるし」
「……シュンくんらしくないこと言うね」
ロマンだなんて。そんなこというタイプじゃないでしょう。完全に揶揄っている。
わたしの言葉に横でわらう声がする。けれどそろそろ頭痛と瞼が限界だ。
「はは、でも結構、本気で思ってるんですよ。それに俺は、冬乃さんと出会ってから、毎日がたのしいです。あなたを好きになれたことが、自分が生きてきた理由だって、そう思えるくらいには、冬乃さんのことが大事ですよ」
微睡みのなかで彼の声が溶けていく。わたしはそれに返事をすることができない。
遠くの方で「ゆっくり寝てくださいね、あしたも好きですよ、おやすみ」と、あまりに優しい声を半分ふにゃりと曲げながら、わたしは意識を手放した。



