「シュン」

 人で溢れかえる桜並木に並ぶ屋台でいちご飴を買った直後のことだ。突然聞き馴染みのある声に呼び止められてシュンくんが足を止めたので、わたしもそうした。
 声の方へと振り返れば、人混みの中、間を縫って声の主が歩いてくる。

「スミ」

 まさかのことで、私は驚いて声が出なかったのに。シュンくんは至って平然とその名前を口にした。

「なんだよ、来るなら教えてくれればいいのに」

 人を掻き分けて目の前に現れたのはシュンくんが名前を読んだ通りスミくんだった。わたしたちの背中を見つけて慌てて追いかけてきたのだろう。その首筋は汗ばんでいる。
 シュンくんとスミくんは高校の同級生で地元が同じなのだからここに彼がいるのも何ら変な話ではない。それに、さっきシュンくんは『ナツノもスミと桜を流していると思う』と言っていたし。
 つまるところ、きっとスミくんにとってもこの春まつりは大切な日であるのだろう。

「別に会う気なかったから言わなかった」
「もー、本当薄情なやつ。あ、冬乃さん、すみません呼び止めちゃって」
「いやいや、謝ることないよ。そりゃ知り合い見つけたら呼び止めるよね」

 スミくんが普通の感覚だ。わたしも友人を見かけたら声をかけるだろうし(シュンくんとスミくんの間柄なら尚更のこと)同じ日に同じ場所に行くのなら連絡ぐらいはするかもしれない。
 でもそれが、ほんとうはシュンくんの淡白さではなくやさしさからだということは、黙っておいてあげよう。

「というか、……」

 じと、と。スミくんの視線が私達をなぞって下りた。そひてぴたりととまる。
 手を繋いでいるからだ。わたしと、シュンくんが。

「付き合ったんですか? ついに」

 この爽やかなイケメンは、あっけらかんとわらってそう述べる。わたしはそれに、なんだか居た堪れなくなってきた。だって、いい歳して、もしかしてすごく浮かれているかもしれない。
 この人混みの中、わたしとシュンくんを見つけ出すなんて、スミくんってすごい。できれば見つけないで欲しかったかもしれない。わたしが手を離そうとするのを察したのか、シュンくんの力がグッとつよくなった。離せない。

「……付き合った、のかな」
「まさかの疑問系?」

 シュンくんとは反対に正統派で物事を判断しそうなスミくんのことだ、わたしの返答に純粋な疑問符を浮かべている。
 だって、お互い好きだとは言ったけれど、シュンくんが彼氏だと自分の口から発するのは、何故だかむず痒い。付き合おうと言われたわけではないし、付き合おうと言ったわけでもない。
 そんな口約束よりもっと大切でいとおしい。けれどそんな関係の現し方をわたしは知らない。

「えーっと、それはわたしだけの判断で答えていいのか困る質問というか」
「冬乃さんって律儀ですね。シュンはどうなの?」

 スミくんの顔に悪気はない。純粋に親友の動向を心配しているのだろう。親友が突然現れた4つも年上に弄ばれていたら、わたしだって口を挟む。無理もない。

「……俺は恋人だと思ってますけど、そこのところ、冬乃さん的にはどうですかね」

 そして、隣から降ってきたそんなまさかの言葉に固まってしまった。
 “恋人”。
 シュンくんの口からそんな言葉が出るとは思わなかった。わたしたちって恋人同士になったのか。
 全く同じ意味合いであるはずなのに、彼氏彼女と呼ばれるよりも、恋人と呼ばれる方がしっくりくるのは何故だろう。

 ゆっくり視線を横に戻すと、満足気に口角をあげる見目麗しい恋人がいる。
 どうしようか。こんな歳で恥ずかしいけれど、胸がいっぱいで、どうしようもない。まるで花束みたいな抱えきれないほどの恍惚感を、わたしはこれからも胸に宿していくのだろうか。
 きっとかけがえのないようなものを見る目をしているのだろう。わたしが彼を見る視線はこの世の中の何を見るよりもやさしくあるのだろう。

「……うん、そう、そういうことです、スミくん、きみの親友のこと、大切にする、……なんて」

 そして思わず口が滑った。そんなこと言わなくたってよかったのに。
 目の前のスミくんが一瞬目を丸くして、それからぷはっと吹き出した。「なんだ、相思相愛だったんですね、心配して損した」とわらう。相思相愛とかやめてほしい。心臓が痒すぎる。

「ていうかスミ、1人で来たわけじゃないだろ。ナツノは?」
「あーうんそうそう、シュンを見つける前に綿菓子が欲しいってひとりで買いに行っちゃってさ。そろそろ戻ってくると思うんだけど」
「相変わらず自由人」
「そう、ほんと困る。そこがいいとこでもあるんだけど」

 それもそうだ。スミくんがここにいるのならナツノと呼ばれるシュンくんの幼馴染も間違いなくいるのだろう。対面するのは何故だか緊張する。今まで想像の中でしか姿を見たことがなかったから。

 騒がしい人混みを避けて桜の木下へ移動する。ふとスミくんがわたしたちから視線を外すと、その遠く先で何かを捉えた。そしてわらって右手を挙げる。
 そのあまりにやさしい眼差しに、彼がどれだけ視線の先にある彼女をいとおしく思っているのかわかってしまった。

「ナツノ」

 スミくんの声に気づいてこちらへ駆けてくる少女がいる。
 ────その姿はあまりに眩しかった。
 夜が満ちたとはいえ提灯とライトアップ、それから屋台の光が放つなかで、ひときわ目立つ光を見た。
 幼く華奢で、それでいて鋭い視線をした女の子だった。

 彼女はあまりに美しかった。

 それは造形美というよりは人間の魅力が放つものなのだろう。若しくはスミくんから受けた愛のようななにかがそうさせるのかもしれない。
 ひと目見て、何故だか、彼女のなかにシュンくんが声を震わせて呼んだ”ハルカ”の息を感じた。わたしは思わず泣きそうになって、それでもそれをぐっと堪える。

 スミくんの姿に気がついて笑顔で駆け寄ってきた彼女は、距離が近づくに連れわたしたちに気がついたのか驚いたような表情で歩みを緩めた。
 そうしてわたしとシュンくんを交互に見て、まるで今にも泣きそうな顔で目の前に現れる。

「もしかして……冬乃さん、ですか」
「え、っと、何で名前……」

 初めて声を聞いた。想像よりもずっと明るい声だった。

「スミくんから最近シュンが懐いてる人がいるって聞いてて! まさかこんなところで会えるなんて……」

 本当に嬉しそうに笑う。差し出された手を反射的に握り返すと、嬉しそうにそれをぶんぶんと振った。人当たりがいい、というのだろうか。シュンくんとは正反対に人懐っこい。

「あ、ごめんなさい、自己紹介忘れてました……! はじめまして、わたし東出夏乃って言います。シュンとは小学生の頃からずっと一緒にいた幼馴染で」
「はは、うん、ナツノちゃんのことはよく聞いてるよ、シュンくんからもスミくんからも」

 うわあ、恥ずかしい、と。ナツノちゃんがスミくんへと視線を向けたので、わたしも思わず横を見る。
 わたしがシュンくんの方へと視線を向けるとばちりと目が合った。その瞬間、うるさく心臓の音が鳴り出す。綺麗な顔をしている、そしてあまりにもやさしい顔で笑う。どうしてこんな風に、すんなりとわたしの中に入ってこようとするのだろう。
 重なった視線に、シュンくんがそっと繋ぐ手の力をつよくした。温度が上がる。彼の熱が直に伝わる。

「シュン、よかったね」
「ナツノも相変わらずスミと仲良さそうで安心した」
「ていうか私は頻繁に連絡してるのにシュンが全然返信くれないんでしょ!」
「スマホ見てない」
「嘘つけ、絶対わざとなくせに! 幼馴染なめるな!」

 幼馴染らしい会話に思わず綻ぶ。見ればスミくんもナツノちゃんの横で穏やかにわらっている。このふたりのやりとりをきっと誰よりもいちばん近くで見てきたんだろう。

「というか! 冬乃さん! ナツノって呼んでください! よければ連絡先も……」
「じゃあお言葉に甘えてナツノちゃんって呼ぶね」
「ナツノ、もういいから。スミもだけど。今日はそろそろふたりにさせてくれない?」
「えっ、シュンがそんなこと言うなんて……」
「冬乃さんのことは、べつにいつでも紹介する。……冬乃さんが嫌じゃなければ、ですけど」

 シュンくんが心配そうにわたしの顔を覗き込んだ。嫌なわけがない。彼が大切にしているもの、それはわたしも同じように大切にしたい。
 数分にも満たない時間でわかった。彼らには彼らの時間軸があって、熱があって、それは解けない紐のように絡み合っている。彼らのことを運命と呼ぶのならきっとそうなのだろう。

「嫌なわけないよ、シュンくんがふたりを大切にしてる理由が今わかったし、わたしも大切にしたい」

 春の風とあたたかな温度が私たちの熱をさらっていく。季節のせいか、温度のせいか、込み上げてくるものはいったいなんなのだろう。今まで触れたどの異性の温度とも違う、シュンくんの熱にまた泣きそうになると、彼はわたしの震える手をさりげなくやさしく引き寄せてくれた。


「シュン」


 彼の幼馴染が呼ぶ。視線を向けると、その麗しさに拍車をかけるように桜が舞って、ひどくやさしい顔で笑っていた。


「────幸せになってね」


 シュンくんはそれに、わたしの横でゆっくりと時間をかけて頷く。「どこかで聞いた台詞」とスミくんが笑った声を聞きながら、潤んだナツノちゃんの瞳を見ていた。

 そのゆれる瞳に、ぼんやりとしたシルエットが見えた気がした。それがもしかするとシュンくんが桜の木を流した理由のような気がして、わたしは喉元をぐっと堪える。
 この2人の間にいるもうひとりの存在が、彼らをこんなに煌めかせているのかもしれない。

 春の風がわたしたちを攫っていく。雨の音はもうしない。ゆるぎなく鮮明に愛を紡いでくれる早川駿という美しい人を、わたしはこの先だれよりも大切に生きていくんだろう。