桜並木と屋台は堤防の上に聳え立っている。そのすぐ後ろに流れる川沿いへと降り立つと、黙ったままシュン美少年は歩き出す。ちらほらと人はいるけれど、やはり屋台がにぎわう通りとは雲泥の差だ。
 時刻は19時過ぎ。春の夕刻はまだ漆黒の夜を連れては来ない。

「……今日本当は、カメラを持ってきてって言おうと思ってたの」
「俺が写真撮るの好きなこと知らなかったのに、ですか」
「スミくんに言われて」
「へえ、いつの間に」
「……いつから撮るのやめたの?」
「今でもスマホでは撮りますよ。カメラを持たなくなったのは大学に入ってからですかね」

 提灯の明かりが川に映ってぼんやりとひかる。散った桜が水面に浮かんで流れてゆく。まるで星空を眺めているようだ。

 お気に入りのパンプスを履いたのに、砂利の上を歩くのは少しだけ抵抗がある。けれどシュン美少年はそんなのおかまいないしに進んでいく。歴代の元彼たちであれば多少なりともそういう部分に気が利いた。それが相手の為を思う優しさなのか、単純な恋愛テクニックだったのかどうかは、もう判断することができない。
 シュンくんはこういうわかりやすいやさしさにはひどく疎い。けれど見えない部分でひとを受け入れ受け止めるということに関しては誰よりも秀でている。 

 きらきらとひかる水面が、桜を浮かべながら流れてゆく。
 シュンくんがここへわたしを連れてきた理由はなんだろう。水面に映る桜の花びらを見せる為だろうか、或いは。

「綺麗、だね」
「そう思いますか」
「うん、咲いてる桜もいいけど、散ってここに浮かんでる花びらも負けないくらい綺麗」

 ふ、とシュンくんがわらう。彼の表情が穏やかなことに安堵する自分がいる。
 ほんとうは少しだけ緊張している。家族よりも幼馴染との思い出が強いと言うこの街に連れてきてしまったこと、わたしのエゴなんじゃないかって。

 シュンくんは私の言葉に軽く微笑んで、川へと背を向けた。そしてさぞ当たり前かのように、一番近い桜の木を目指して歩き出す。まだ花が散っていない桜の木。
 わたしはその背中を黙って見ていた。何故か声をかけることができなかった。彼の背中が少しだけ頼りなく見えたからだ。

 そしてシュンくんが躊躇いなく近くの桜の木に手を伸ばして枝を折る。ぽき、という情けない音が響いて簡単にそれは彼の手に収まった。慣れた手つきに驚くどころかおだやかな気持ちでその光景を見てしまった。その姿があまりに美しかったからだ。

「……桜って枝折っていいんだっけ」
「桜に限らず法律違反かもしれないです」
「それを見過ごすわたしは大人失格かもしれない」
「花盗人に罪はなしっていうじゃないですか」

 わたしの元へ戻ってきた美少年は片手に桜の枝を持ってそうあっけらかんと言ってのける。律儀で真面目なくせに、こういうときは抜け目ない。

「……美少年が桜の枝持ってると絵になるね」
「それで許されるならこの容姿に生まれた甲斐があったな」
「罪悪感とかそういうものはないのね」
「毎年のことだからもうないですね、それに桜は特別な花だから」

 彼が持つ桜の木を間近で見つめる。思ったよりもずっと細くて、ちらほらと桜の花が咲いている枝。ぼこぼことしたその表面は近くで見ると歪だ。
 シュンくんは変わらずおだやかな表情で再び歩き出す。わたしはそれに黙ってついていく。空の色が段々と深く暗くなっていく。

 夜がやってくる。

 にぎわう屋台通りの裏で、提灯の明かりだけを頼りに川のすぐ傍へとふたりで歩く。会話はない。けれどきっと会話がないのが正解なのだろう。横を歩くシュンくんの空気感が変わったのは手に取るようにわかった。桜を特別な花だと呼んだときからだ。
 浅瀬まで歩いて、一度立ち止まる。花びらが浮かぶ水面が近くなる。手を伸ばせば触れることができるだろう。

 彼は何も言わない。わたしたちに言葉はない。けれど何故か、黙って見ていてくれと言われているような気がした。

 場所を定めるように一度ぐるりと辺りを見渡して、それから彼はその場にゆっくりとしゃがみ込む。わたしは同じようにその横へ並んだ。
 水の音が近くなった。揺れる水面をしっかりと眼に映すと、桜が浮かぶ星空のようなそこにわたしたちのかおがうつっていた。

「……写真を撮ることが好きになったきっかけは、大事な人たちがわらっているところを、ずっと残しておきたかったからな気がします」

 横に並ぶ少年はそう突然吐露する。
 誰も聞いていないのに、いや、誰かに話しているつもりではないのかもしれない。
 水面越しに彼の表情を見るけれど、揺れるそれでは上手く汲み取ることができない。

「父親が家からいなくなって、その1年後にハルカがいなくなってから、特に写真への執着が強くなった。人はあまりに簡単に消えてしまうから、形に残しておきたかったのかもしれない」
「……じゃあ、写真を撮らなくなったのは、シュンくんにとって執着が消えたと同義だったんだ」
「高3の夏にナツノがスミのことを好きになって、もう残しておきたいと思うものもなくなったので」
「……好きだったの?」

 どういう返答を求めていたのかわからない。
 問いかけに主語をつけなかったのはそれを含めて彼に判断を委ねたからかもしれない。若しくは自分の脆弱さから無意識にそれを選択したのだろう。

「好きだったんですかね。人としてはもちろん、今も変わらず大切ですけど。異性として見ていたかどうかは、あの頃はずっと必死で生きていて、あまり覚えてない」

 それが”ナツノ”と呼ばれる幼馴染であることは、聞き返さなくてもわかる。ぼやかした主語の正体。
 数年前まで中高生時代をほんの少し前のことだと思っていた。大人と子供の違いを真剣に考えたことなんて殆どない。
 けれど私たちはいつしか大人になる。明確な定義がないまま世界を知る。そうしていつの間にか気づいてしまう。学生時代の純粋無垢であどけない少女であった自分はもうどこにもいない。
 謂わば無知だった。謂わば幼かった。まだ自分というものさえしっかりと確立できていないその年代に、父親と大切な幼馴染を失った彼の気持ちは到底図ることができない。
 そしてそんな貴重な数年間、彼の横にいた”ナツノ”の存在を誰が否定できるだろう。するわけがない。できるわけがない。彼女がいなければ早川駿という少年はこんなに優しく穏やかには確立されなかっただろう。
 わたしが愛おしいとおもうこの少年は、そうやって生きてきたのだ。

「ただ、ナツノには幸せでいて欲しいと思ってるし、その横にスミがいてくれたらいいと思うんです。それは高校の時からずっと変わってない。俺とナツノが大人になる決断ができたのは、紛れもなくスミのおかげだから」
「……うん、教えてくれて、ありがとう」

 それ以上わたしに言えることなんてなにひとつなかった。ただ、きっと過去に寄り添うよりも、わたしはわたしなりに、シュンくんと向き合っていく。そういうことが、彼にとってのベストなんじゃないかと、いまは思う。

「せっかく綺麗なんですけど、すみません、流させてください」
「桜を川に?」

 シュンくんが頷く。

「高3の春まで毎年こうやって、春まつりの日にナツノと桜を流してたんです。ハルカが亡くなったのを弔うために」
「……高3以降はひとりで来てたの?」
「ナツノは毎年誘ってくるんですけどね。自分なりの線引きというか。きっとナツノはナツノで、毎年スミと桜を流してると思いますよ」

 高校を卒業してからずっと、ひとりでここに来ていたのか。あまりに律儀で真面目で、それでいて情深い。
 シュンくんの真摯さと誠実さに、きっとこの先救われるひとが何人もいるのだろう。わたしもそのひとりだ。
 彼と接していると、すこしだけ世界が柔らかく見える。それはまるで天使の羽のように。
 
 シュンくんは小さく息を吐いたあと、水面に映ったわたしたちの顔をかき消すように桜の木の枝をそっと、川へと投げた。わたしはそれを黙って見ていた。
 かすかな水温とともにちいさく桜の花びらが散って、枝がゆっくりと川の流れに沿って流れてゆく。
 ゆっくり、確実に、わたしたちから離れていく。

「────ハルカ」

 ふと、横からしたその声が震えていた。
 彼の方を向くことはできなかった。
 そしてその声を聞いたわたしは、どうして彼が平気だと信じてやまなかったのだろうと、そんなわけがないのにと、自身を悔やむことになった。
 この少年は、中学生という未熟な年齢からこれまで、どれほど大きなものを抱えて生きてきたのだろう。
 
 彼の震える声と、震える肩を、わたしは思わずそっと手繰り寄せる。気持ちより先に指先が動いた。そうしなきゃならないと思った。
 彼をもう一生ひとりにはさせないとさえおもう。強いようでひどくよわいこの肩を抱き寄せることができるのはきっとわたしだけだろう。そうであればいい。

「冬乃さん、」
「うん、?」

 引き寄せたシュンくんの後頭部がわたしの肩に落ちてそのまま頰に擦り寄った。声が少しだけ震えていて、わたしはそれをやさしく撫でる。 
 桜は流れていく。川の水温と共にきらめきのなかに溶けていく。

「……本当は、ハルカをおいて自分たちだけ大人になることを、心のどこかでずっと、引け目を感じていたんです」
「……うん、」
「ナツノがスミを好きになった時、本当に嬉しかった。やっとナツノは幸せになれると思った。同時に、自分はハルカをおいていけないとも思ったんです」

 たくさんの葛藤があったに違いない。やさしくて、誠実で、それを言葉にしない彼だからこそ。

「でも、人を好きになることが、ハルカをおいていくことではないのかもしれないって、やっと気づいた」
「……うん」
「冬乃さん、貴女のことを好きになって、俺の中でやっと、ハルカのことがちゃんと、過去になった気がします」

 あれ、いま、初めてシュンくんからきちんと”好き”だと言われた気がする。
 春の香りがする。人が恋に落ちる瞬間はいつだって春のにおいに似ている。
 彼に触れる手のひらの温度が熱くなった。いとおしい。どうしようもない。これ以上の感情をわたしは知らない。

「ひとつ、聞いてもいいですか」
「うん、なんでもこたえる」
「……好きでいていいですか、これからも」

 どうしてそんなことを聞くのだろう。そしてシュンくんは、今まで一度もわたしに気持ちを尋ねたことがない。
 同じような気持ちを返してほしいと強請られたこともない。

「……シュンくんは、わたしの気持ちは気にならないの?」
「気にならないわけないじゃないですか。でも、無理に言わせたいわけでもないんです。俺の気持ちが迷惑じゃないなら、それでいいんですよ」

 なんだそれ、どこまで広義な愛情で包もうとするのだろう。もう十分足りている。
 わたしがきみを好きになるには十分な時間と優しさをもらった。これ以上はきっともうない。他の人ではもう満たすことなんてできない。

「わたしはシュンくんのことが大事だよ。……大事すぎて、触れるのがこわい」

 本心がほろりと、口からこぼれ落ちた。
 ずっと、何故シュンくんと関係を進めることができないのか考えていた。勿論彼が人より随分律儀で慎重だという理由もあるけれどもうひとつ、わたしが進める足を無理やり止めていたからだ。

 彼のことが大事だ。どうしようなく大切で、どうかこの先なにがあっても幸せでいてほしいとおもう。もうとっくの昔に恋に落ちていて、それはゆるぎなくあたたかくわたしの中に存在している。
 同時に、本音を言えば彼を恋人にするのがひどくこわかった。恋人にするには大切すぎるのだ。いつか関係が切れるかもしれない名称を与えるのが酷だった。だってシュンくんはわたしより随分と若くて幼い。彼を手放す未来を想像できない。
 こんなの、どうしようもない。
 言い訳ばかり並べてきたけれど、結局のところ、わたしに踏み出す勇気がなかった、それだけだ。

 少し間が空いて、それからわたしの肩に後頭部を預けたシュンくんの腕がゆっくりとわたしの背中に回った。
 しばらくしてゆっくり距離が離れる。

 シュンくんの瞳がわたしを捉えた。至近距離だった。
 覚悟を決めたようなその視線に「もう逃げられない」とおもう。あまりにやさしく、それでいて今までのどの瞬間よりも熱を帯びている。
 敵わない。完敗だ。────わたしはこの人のことがどうしようなく好きだ。

「冬乃さん、あなたのことがすきです」
「……うん、」
「冬乃さんがどうしても不安なら、何度だって言うし、伝わるように努力します。先のことはわからないし、確証のない未来を簡単に口にしたくない。でもね、俺は今、あなたのことをずっと好きでいたいと思ってるんです。誰よりも大切にしたいと思ってるんですよ。貴女が出来るだけ傷付かず幸せでいて欲しいと思うし、その隣にいるのは自分がいいと思ってるんです。この先あなたのことを絶対に傷つけないなんて保証はできないけど、俺は、自分ができるすべてで、あなたにやさしくしたいです」

 そのまっすぐな視線と言葉に視界が滲んだ。桜が降る、夜が落ちてくる、いまこの瞬間がきらめいてひかる。
 こんな告白を、わたしは聞いたことがない。
 二度とない。こんな恋をすること。もう二度とこんなふうに誰かのことを愛おしいと思うことなんてない。

 気がついたら泣いていた。
 静かにそれは頰を伝って骨格に沿って流れていく。このひとのまえで何度涙を見せるのだろう。思えば出会った時から既にすべてを曝け出していた。
 1枚の写真を手にした時から、きっと恋をするだろうという予感を、わたしは確かに感じていたのだ。

「……すきだよ」
「え、」
「もうずっと前から、きみのことがすきだったよ。いい歳して、きみを恋人にするのがこわいくらい、関係に名前をつけてきみがいなくなったときの喪失感を想像して意気地無しになるくらい、こんな年齢でかっこ悪いけど、きみのことがすきだよ。シュンくん、わたし、だれかをこんなに愛おしいと思ったこと、ないよ」

 シュンくんは一瞬目を見開いて、それからじっとわたしを見つめた。想像していなかったのかもしれない。だってわたしは彼のことを好きだという素振りを殆ど見せたことがない。
 素直になれなかった。こんなにも大切なのに。

「……冬乃さんからこんなにストレートに告白が返ってくると思いませんでした」
「わたしだって、たまには言うよ、ううん、これからはもっと伝える。シュンくんのことだけは、失いたくない」
「冬乃さんが俺をフラない限りそんなことにはならないですけど、そこまで言ってもらえるなんて正直面食らってます」
「なんか悪い男がよく言う台詞だ」
「悪い男かどうか、冬乃さんがいちばんよくわかってるくせに」

 シュンくんの右手が伸びてくる。ぐいっとわたしの頬をぬぐう。何度彼に涙を拭いてもらっただろう。このひとのまえではすぐに弱くなる。

「……触れてもいいですか」
「相変わらず律儀だね」
「強引にはしたくないんですよ、大事だから」
「もういいんだよ、多少強引だって、わたしはきみのことがすきなんだから」
「……こわいな、どんどん自分が強欲になる」

 涙を拭った右手が再び頬に落ちてきて、そのままシュンくんに引き寄せられた。角度を変えた彼の唇がそれに重なる。
 触れただけのキスだ。一瞬で離れていくそれに信じられないほど胸がいっぱいになる。
 一瞬唇が重なっただけなのに、全部がつながったようにおもえる。わたしはこのために生きてきたのかもしれない。そしてこのひとの横にいるために今後生きていくのかもしれない。

「自分に生まれてよかったって、はじめて思いました」

 そんな大袈裟ともとれる言葉を、まったく同じタイミングでわたしも思っていたのだから、わらってしまう。

「……毎年来ようよ。来年はわたしも一緒に桜を流すよ」
「桜の枝をおるのは法律違反かもしれないですよ」
「花盗人に罪はないって言うでしょ」
「どっかで聞いた台詞ですね。でも、冬乃さんが許すなら、来年もあなたの横にいれたらいいです」

 一生なんていう保証のない言葉を使うようなタイプではない。シュンくんらしい返答がいつしか腑に落ちるようになった。
 彼はあまりに真っ直ぐだ。それでいてひどくやさしい温度をしている。

「いちご飴、食べたいな」

 そう呟くと、ふとシュンくんが口角をあげた。わたしは頬を拭って立ち上がる。

「……うん、食べましょう」

 浅瀬から見上げる桜並木とならぶ屋台に人の群れに、ひらひらとやさしい風に吹かれて桜が散っていく。
 横に並んだ彼の手がそっとわたしに触れた。指先が絡んで、それからゆっくりとわたしよりも骨ぼねしいそれに包まれる。
 春の香りがした。