ソクラテスと林檎の木




「……人の卒業式になんて顔してるんですか。てか、もしかして結構呑んでます? 酒臭いんですけど。インターホン押しても全然出てこないし」

 時刻は22時半ジャスト。
 昼間なんとか辿り着いたシュン美少年の卒業式は、大学生であった彼の姿を見た途端怖気付いてすぐに踵を返してしまった。
 痛めた足を引き摺ってなんとか自分の家へ帰ってきたものの、あまりに情けなくて普段飲まないアルコールを大量に摂取した。
 だって、こんなの、いい歳した大人が、なんてみっともないんだろう。
 
 本当は全くこれっぽっちも会いたくなかったけれど、何度もインターホンが鳴ったので仕方なくオートロックを開けてやった。近所迷惑になっても困るし。
 というか、こんな大事な日に、のこのこやってこないでよ。

「冬乃さん、聞いてます? ちょっと水飲んで」

 ソファに項垂れるわたしをよいしょ、と起こすシュンくんのスーツは昼間よりよれていて、彼からも少しだけアルコールの香りがした。
 知らなかった。シュンくんってお酒飲めたんだ。
 そういえばわたしたち、いい歳して一緒にアルコール摂取したことがない。酔うという行為が彼の前では全く必要なかったことに今更気がついた。

「……なんで来たの」
「なんでって、来ちゃダメですか」
「卒業式でしょう、打ち上げとか、飲み会とか……そういうの、あったんじゃないの」

 シュンくんがわたしをソファに座らせてキッチンへと水を汲みにいく。普段飲まないアルコールの缶が散乱している。何本飲んだっけ。忘れてしまった。

「ありましたよ、だからこんな時間になっちゃったし」

 でもほんとうは、もっと遅くまであったんじゃない? 彼の大学からここまでの距離を考えれば、21時過ぎには飲み会の場を離れたことになる。それは少々健全すぎるんじゃないの、大学生よ。

「べつに、来なくてもよかったのに。今日くらい、羽目外したって、いいのに」
「したくないことをわざわざする必要あります?」
「してみないとわかんないよ」
「本当は飲み会だって行きたくなかったのに」
「……無理矢理連れてかれたんだ?」
「まあ、そうですね。スミもいたし」
「女の子たちに連れてかれたんでしょ」
「……」

 じと、と。キッチンに立つスミくんから鋭い視線が降ってきて、わたしは居た堪れなくなってクッションに顔を埋めた。
 何言ってるんだ、4歳も年下の、今日大学を卒業した美少年に。

「冬乃さん、もしかして今日来てくれてました?」
「……」
「花束、これ、俺にくれようとしたんじゃないんですか」

 しまった。
 色合いも気に入らないし、加えて転んだせいでよれよれになってしまった花束を、キッチンのゴミ箱に突っ込んだままだった。もったいないけれど、情緒がぐちゃぐちゃでそうするしかなかったのだ。

「なんで捨てるんですか」
「……」
「それに今日、飲み会で話題になってたんですよ、めちゃくちゃ綺麗な女の人が花束抱えて俺とスミのこと見てたって。あれ、冬乃さんのことじゃないんですか」

 恥ずかしい。穴があったら入りたい。
 いつもこの小さな空間で会っている年下のシュンくんが、急にひとりの男の人に思えて怖気付いたなんて。彼には彼の世界があることに疎外感を感じてしまっただなんて。
 そんな自分が情けなくて、姿を見せないまま家へ帰って、花束をゴミ箱に捨てて、アルコールに任せて感情をセーブして。
 どれだけカッコ悪いの。
 そんな事実、言えるわけないでしょ。だってわたし、きみより4歳も年上なんだよ。

「……ちがう、人違い」
「じゃあこの花束はなんですか、なんで捨てたんですか」
「い、家に飾ろうと思ったけど、色合いが気に入らなかったから捨てた、だけ」
「この半年、冬乃さんが花買ってるとこなんて見た事ないけど」
「た、たまにはそういう気分の時もあるよ、わたしだって」

 ぐい、っと。
 クッションに埋めていた顔を、無理矢理冷たい指先に持ち上げられた。片手で、いとも簡単に。
 瞬間、しゃがんで私と視線を合わせるシュンくんのかおがうつる。どうしよう、泣きそうだ。

「……ごめんね、冬乃さん、不安にさせた?」

 どうしてこの美少年は、いつもこんなに真っ直ぐわたしを射抜くのだろう。

「不安とか、そんなんじゃ……」
「俺の勘違いならいいんですけど、冬乃さんが変なこと気にしてこんなふうになってるなら、弁明の余地が欲しいんですけど」

 弁明の余地ってなんなの、それ。女の子に囲まれていた自覚があるんだ。飲み会だってきっとそうだったんでしょう。
 頰に添えられたシュンくんの指先は思いの外男の人の手で緊張する。と同時に、普段香らない女性物の甘ったるい香水が微かに香った。最悪だ。
 そういえば、彼の手に初めて触れたのに。

「……シュンくんってお酒飲むんだ」
「まあ、多少は。普段は飲まないですけど」
「何飲むの」
「それ気になります?」
「うん」
「なんですかね、隣の人が飲んでるものとかじゃないですか」
「飲み会とか行かなさそうなのに」
「基本行かないですよ、今日みたいな何かの節目で全員参加が暗黙の了解になってる時は仕方なく参加してるくらいで」

 人付き合いが苦手で人に興味がないということは知っていたけれど、それは人との関係がゼロということとはまた別の話であって。
 シュンくんからこういう話を聞いたことがなかったことを反省する。わたし、彼のことを何も知らないな。

「……香水」
「香水?」
「これ、女の子の香水でしょ、甘いにおいする」
「え?」

 シュンくんが私の頬に触れていた手を引っ込めて自身の鼻へと近づける。瞬間、顔を顰めて「ほんとだ、最悪」と呟いた。

「……変に疑ったりしてないですよね?」
「してない、」
「ごめんなさい、これで冬乃さんが嫌な思いしてるなら、おれのせいですよね」
「ちがう、嫌とか、そういうことじゃない」
「……じゃあなんでそんなに泣きそうな顔してるんですか」

 そんな子供じみた感情じゃない。だって彼のことは、恥ずかしいけれど誰よりも信頼しているのだ。これはシュンくんが原因というよりは、自分の情けなさが招いたもの。

 急にひどく泣きたい時がある。それはたぶん、自分が誰からも必要とされていないんじゃないかと感じる時だ。
 
 大人になってから、学生時代のキラキラした時間をもっと大事にすればよかったと何度も後悔したことがある。わたしは基本馬鹿真面目で、それでいて不真面目で、遊びも学びも中途半端に生きてきてしまった。上手くなったのは強いフリと人に頼らず生きていくことだけ。
 ほんとうは、外面を取り繕うことばかりじゃなくて、もっと自分のことを好きになる努力をするべきだった。いつも誤魔化すための努力ばかりしてきて、本来の自分のことを何ひとつ好きになれていない気がする。
 遊びと学びは対極にありながら、けれどどちらも必要で、それでいてどちらかに秀でているものは、何にも勝る経験になる。

 シュンくんやスミくんや周りの女の子たちを見て、心臓がぎゅっと苦しくなったのは、自分の過去にはない記憶だからかもしれない。彼らを取り巻く彼女たちに嫌悪感を抱いたのは、自分自身が体験できなかったことだからかもしれない。
 なんて、自身の嫌な気持ちを正当化するように、かっこ悪い嫉妬心を自分自身にまで誤魔化そうとしてしまう。

 やめなよ、上目遣い。媚びんなよ、高い声で。
 なんて、人には決して見せられないような感情。だけど本来誰も悪くない。あの場でイレギュラーに存在していたのはむしろわたしのほうなのだ。
 誰も悪くないのに悪くしたがり、醜くないのに醜くしたがり、4歳も年下の彼らに怖気付く。
 情けない。わたし、自分のことを自分で認めることがひどく苦手だ。外見や外面ばかり取り繕って、いつも平気なフリをして、それで私に何が残ったのだろう。

「冬乃さん」
「……シュンくんが女の子に囲まれてるの、見た」
「やっぱり来てくれてたんじゃないですか」
「満更でもなかったでしょ」
「本当にそう見えましたか?」
「……香水のにおいうつるくらいなくせに」
「今すぐシャワー浴びて落としてきましょうか」
「そんなこといってない、このコミュ障」
「うわ、口悪いな」
「……かわいくない年下」
「冬乃さん、こんなこと聞くのはあれですけど、もしかして結構、妬いてくれてたりするんですか」
「……妬いてない」
「はは、まあそう言うと思ってました」

 ああもう、最悪だ。
 あとでこれは全部、アルコールのせいにしよう。
 一粒頰をあたたかいものが伝って、そのあとはぼろぼろと同じ温度の雫が溢れてくる。人前で泣くなんてしたことがなかったのに、私はこの人の前で何度泣けば気が済むのだろう。

 滲む視界に、ひどく優しい目でわたしをみる瞬間の顔がある。呆れるわけでも嫌な顔をするわけでもない。ただほんとうに優しい目でわたしを見る。
 そしてわたしはこの瞳に、いつも「ゆるされている」とおもう。まるで目に見えなかった居場所を与えてもらうように。

「意外と泣き虫ですよね、冬乃さんって」

 少し笑いながら片手でわたしの頰を拭う。その顔があまりにやさしくてどこまでもずるい少年だなとおもう。

「最悪……」
「何が最悪なんですか」
「カッコ悪いし、情けないし、自分が本当に不甲斐ない」
「冬乃さんって完璧主義そうですもんね、強がりだし」
「こんなとこ見られたくないのに、」

 もっと、メイクも服装も髪の艶も完璧にして、自身の弱さもダメなところもバレないように、きちんと背筋を伸ばしてきみに向き合いたいのに。
 どうしていつも泣いてしまうんだろう。帰ってきてから着替えもしていないしわくちゃの服装で、メイクもボロボロ、終いにはアルコールを大量に摂取して泣きわめくなんて人として終わっている。このひとにダメなところばかり見せてしまっている気がする。情けなくてやるせない。

「おれは嬉しいですけどね、冬乃さんがそういう、取り繕ってない姿見せてくれるの」
「……本当のわたしなんて幼稚で弱くて情けなくてダメなところばっかりだよ、」
「人間なんてみんなそんなものですよ」
「じゃあわたしがきみにもっと我儘になったらどうするの」
「じゃあ我儘言ってみてくださいよ」

 馬鹿にしたように言う。ほんとうにわたしが全てを曝け出したらきみはいったいどうするのだろう。
 年上の威厳もない。ここにあるのは美しい少年に惑わされる情けない自分だけだ。

「……きみは美少年だから女の子に囲まれるのは仕方ない気がするけど、」
「けど?」
「女の子の香水のにおいがするのは想定外」
「つまり、妬いてるってことですか」

 そんなの、言わなくたってわかるでしょう。
 どうせ言えないくせに、とでも言うように。少し口角をあげているこの美少年を、少し困らせたいという悪戯心が芽生えてしまった。
 もういい。わたしは今日酔っているし、これはぜんぶ、アルコールがわるい。そういうことにしよう。

「妬いてるよ、言わせないで」

 拗ねたようにそう呟くと。
 一瞬目を丸くして、いつも冷静なシュンくんにしては珍しく会話に間が空いた。
 
「……冬乃さん、呑みすぎです」

 はあ、と一回ため息を吐いて視線を逸らしたくせに、それは熱を帯びてまたわたしへと真っ直ぐ戻ってくる。

「そっちが言わせたんでしょ」
「すみません、抱きしめていいですか」

 え、と。返事をする前に、いきなり後頭部を彼の胸板まで引き寄せられた。あまりに強い力にびっくりしてそのまま傾れ込む。
 甘い香水のにおいがきえる。こんどはアルコールの混ざったシュンくんのかおりがする。
 なに、こんなの、聞いてない。少し困らせようと思っただけなのに、想定外にも程がある。

「ま、まだ返事してない……」
「すみません、返事聞く前に手出ました」
「なんなの、これは……」
「なんですかね、貴女が妬いてくれるとか思ってもみなかったので、自分でも正直こんな気持ちになるなんて驚いてます」
「意味わかんない……」

 ぎゅ、と。強く引き寄せられて、シュンくんがわたしの髪にゆるりと頰をすり寄せた。まるで猫みたいだ。
 どくどくと心臓がなるのがわかる。いつもいい年した大人の顔をしているくせに、わたしはまだこんなことで簡単にときめくし、緊張するし、この美少年の熱に落ちかけている。

「冬乃さん、」
「な、に……」
「おれは、貴女が思ってるよりずっと、貴女のことを大事に思ってるんですよ」

 そんなの、言われなくたってわかっている。
 シュンくんがわたしを見る視線や仕草から、痛いほど伝わっている。だからこそこんなちっぽけな嫉妬をしてしまう自分が情けないのだ。
 
「冬乃さん、人間なんて、ダメでもいいんですよ。冬乃さんがもし何も出来なくても、上手く出来なくても、それでいいんです。それが冬乃さんなんだったら、俺はね、だらしなくても、うまくできなくても、意地っ張りでも、まるごとあなたのことが愛おしいって思うんですよ。冬乃さんが弱いことなんて、もうわかってます。べつに情けないところ、見せたっていいじゃないですか。おれは貴女がどうであろうと、冬乃さんが冬乃さんである限り、いつだって側にいたいと思ってるんだから」

 それはゆるぎなく真っ直ぐで、わたしの欠けている部分にほっとやさしくなめらかな物を流し込むような熱。
 手放せない。この人のこと、わたしはきっとこの先何があっても忘れることなんてないんだろう。

 シュンくんへのこの気持ちは一体なんだろう。拓実の前で「好きな人がいる」とは言ったけれど、正直なところそれがわたしのなかで腑に落ちているかといわれれば疑問が残る。

 大切だ。だけど恋人にするには大切すぎるかもしれない。

 恋か? 憧れか? なんだろう。顔が好きなだけだったりして。そうだったらほんとうに最悪だ。
 あんなに好きだった拓実のことを思い出すことももう殆どない。わたしって薄情な人間だよね。
 だけど手繰り寄せたこの温度をどうしたって手放せそうにない。いつの間にか気づかないうちに、この美少年のことを欲しいと思うようになった。傲慢で身勝手だけれど、わたしはきみにそばにいて欲しい。
 この気持ちを素直に伝えたらきみはどんな顔をするんだろう。そして私達の関係はどう変化するのだろう。
 すり寄るシュンくんの背中に腕を回して抱きしめる。きみがこの先ずっと幸せでいてくれたらいい。無償にいとおしだなんて、きっとはじめておもった。